「あら、左遷された低収入の男がなんで戻ってきたの?」…

「あら、左遷された低収入の男がなんで戻ってきたの?」...

「あら、左遷された低収入の男がなんで戻ってきたの?ここはあなたが来るような場所ではないわよ。」

元妻の秋名が、私を見下すように言い放った。隣には、あの高杉が立っている。

「そうだ。会社の金を使い込んでワイルを送っていたやつが、よくもここに戻って来れたな。」

高杉の声は大きく、周りの人々が振り返る。それでも私は動じなかった。

「また会社のデータを改ざんしに来たのか。それとも『ごめんなさい、俺がやりました』って自首しに来たのか?」

あまりの言われように反論しようとしたその時、一人の女性が現れた。

「社長、お時間ですよ。」

彼女は私の手を取って歩き出そうとした。

私は大木孝太、33歳の会社員だ。5歳下の妻・秋名とは職場恋愛で結婚し、同じ職場で働いていた。

私は先日、昇進試験に合格し、来年の春から部長になる予定だった。勤務先はそれなりに大きい広告代理店で、私は業務部で働いていた。いわゆるバックオフィスの仕事で、経理や財務、人事などを担う部署だ。

試験が受けられる年齢になってすぐに受けたので、最年少部長と言われる立場になる。周囲の目が私に集中することには辟易したが、部長職になれば給料も上がるし、海外勤務も視野に入る。若い年齢で昇進すればするほどチャンスが生まれるし、キャリアも積める。エース級の存在と言っても過言ではなかった。

妻の秋名はアートデザイン部で働いていた。彼女の仕事はウェブデザインで、主に企業が仕掛けるキャンペーンサイトの制作を行っていた。当然、夫婦の間でも秘密にしなければいけない事柄が多く、彼女が手掛ける仕事の概要はもちろん、進捗状況の確認もできなかった。私もそうだが、妻も残業が多く、それなりにすれ違いの時間も生まれるが、休みの日は一緒に出かけたり、帰りの時間を待ち合わせて食事に出かけるなど工夫していた。

「いいなあ、大木はさ、順風満帆すぎて。」

これは山田だ。私の同僚で一番の親友だ。

「何が順風満帆だよ。これでも苦労してるんだぞ。」

「なんだよ。うちの会社で一番の美女と結婚しやがって。それに超難関の昇進試験に合格しやがって。『天は二物を与えず』って言葉、絶対嘘だろう。」

秋名との結婚はまさに晴天の霹靂だった。彼女の方から声をかけてくれて、一緒に酒を飲んだり、食事に行くうちにお互い結婚を意識して今に至るといった感じだ。

「お前らうるさいぞ。」

俺と山田は顔を見合わせ肩をすくめた。高杉は俺と山田の直属の上司だ。上司と言っても、春には俺が高杉の上司になってしまう可能性がある。そんなこともあって、俺に対する当たりがとても強い。どこかでやらかしてほしいと思ってるんだろうが、まずは高杉さんのその三万差をどうにかすべきだろう。

高杉さんは聡明でイケメン。社内でもファンが多く、オーラというか華がある男性だ。それなのにどこか詰めが甘くて、自分の仕掛けに引っかかってしまうような男だった。あまり言いたくはないが、高杉さんは昇進試験にここ数年間落ち続けている。それに高杉さんの同期が入社試験で英語でディベートをさせられたと言っていた。その時の高杉さんは語学力よりもボディランゲージで切り抜けて合格したんだとか。このこともあってちょっと際物扱いされている。語学力はそんな感じだが、仕事はできるので主任職を任されている。それだけで今は俺の直属の上司というわけだ。

その高杉さんがものすごい剣幕で俺の元へ歩み寄ってきた。

「おい、大木、お前とんでもないミスをしでかしてくれたな。」

「高杉さん、何のことでしょう?」

「知らばくれるなよ。なんだよ、この経理ミスは。取引先の会社に150万円の支払いをするはずが、1500万円振り込んだことになっている。」

「ま、待ってください。そもそも俺には経理執行の権限はありませんし、俺はそんな権利伝票一切知りません。」

そうなのだ。業務部では経理や財務の他に人事などを扱っているが、俺は勤怠管理の仕事をしていた。だから経理に関する伝票は一切取り扱わない。扱うとしたら給与計算を行った後で労務費の出勤を依頼するための伝票を発行するくらいだ。

「それではなんでその1500万円の支払い伝票がすり抜けてしまったのでしょうか?伝票チェックを行ったのは高杉主任ですよね。」

俺は目力を入れて高杉さんを見つめた。普段は高杉さんと呼んでいるが、あまりにもお粗末な言いがかりだったので、高杉主任と力を込めて反論した。

「伝票の決済が入った後、振り込み業務を担当する人だって伝票と請求書を照合してから振り込み手続きを行うフローが確立してるでしょう。」

「実はな、お前の決済印とIDカードによる会社の経理システムへのログインが確認されている。そこでお前が1500万円振り込んだことになってるんだよ。」

「待ってください。何ですか?その手たらめな話。」

IDカードはいわゆる社員証だ。社内への出入りはもちろん、情報保護のため常時施錠がされている業務部のフロアに入るためにも必要だった。コピー機を動かすのにもパソコンを起動させるのにも必要なカードだ。もちろん肌身離さず持ち歩く必要があるし、誰がどんな業務をしていたかログを残すために必要なものである。

そんな時に業務部長が俺の元へやってきた。

「その取引先の社員と我が社の社員の間で増収が行われた可能性があるんだ。広告出稿委託費の名目で150万ずつ10枚の伝票が俺の名前で作成され、俺の決済印が押されているという。オンライン伝票なので筆跡鑑定はできないが、社員証を兼ねたIDカードで誰が作ったのか分かる仕組みとなっている。」

俺はその会社の社員とは一切関わりもなければ、増収を行うような理由もない。

「部長、お言葉ですけど、そのパソコンへのログインの時間と俺の状況を照合しましたか?」

「君は管理の担当者だろう。後日修正といった改ざんだってできるんじゃないのか。」

念のためログインの時間を確認させてもらうと、その日は妻の秋名が残業だったため19時に山田と一緒に帰った日だった。

「俺、その日ならこいつと一緒に飲んでましたよ。SNSで孝太と一緒に飲んでるって載せてるんで証拠になるでしょう。」

「怪しいな。リアルタイムで撮影した写真じゃないかもしれないしな。山田、お前も共犯か?」

「そんなことありませんよ。」

なんだか信じてもらえないらしい。業務部長は「君がそういうことをするとは思わなかったよ」と俺を哀れむような目で見る。

「ちょっと待ってくださいよ。もう少し調べてくれませんか?」

高杉はニヤニヤしながらこちらを見ている。

「この件はおってする。しばらく謹慎するように。」

そう言い捨てて業務部長は去っていった。俺は危なく業務部長を殴り飛ばしそうになったが、山田がなだめてくれる。高杉ただ一人がニコニコ顔で喜んでいたのだった。

その30分後、俺は業務部長に別室に呼ばれた。

「しばらく山の奥店で勤務してくれるか?」

「どういうことでしょう?」

「もちろん私も君がそんな不正を働いたとは思っていない。今回は高杉の口調に同調したが、君が言う通りどこか腑に落ちない部分もあるんだ。少しだけ時間を山田と私で少し調べを入れる。」

その瞬間、俺は目から涙が溢れた。いわゆる左遷だが、そんなことはどうでもよかった。俺を信じてくれる人がいたことが嬉しかったのだ。

その日の夜、俺は妻の秋名に突然の転勤について伝えることになった。

「ああ、なんかあなたやらかしちゃったみたいね。」

「なんでそのことを知ってるんだ?」

業務部長からは上層部と相談をして、このことは多言無用で処理を進めると言われていたのだ。新犯人がいるかもしれない以上、社内を公表できないというのが理由だった。

「ああ、業務部に出入りしている子からね、聞いたの。」

業務部に出入りできる人間は限られているし、秋名がいるアートデザイン部の人がわざわざ業務部へ足を運ぶことはない。

「そうか。それで俺さ、山の奥店へ行くことになったんだ。」

「はあ。何それ?マジ受けるんですけど。っていうかあんた首になったかと思った。」

秋名の口から聞いたこともないような嘲る言葉が吐き出される。秋名はバックの中から一枚の封筒を取り出し俺に差し出す。

「まあ山の奥店に行くんだか首になるんだか知らないけどさ。低収入が目に見えてるから離婚ね。」

俺が封筒の中身を取り出すと、すでに記入済みの離婚届が出てきた。

「これ、いつ書いたんだよ。」

「首になるって聞いてすぐ準備したわ。金の切れ目が縁の切れ目って言うじゃん。」

「誰から聞いたんだよ。俺が首になるって。」

「そんなことはどうでもいいじゃん。さあ、早くサインしてよ。」

「高杉さんか。」

秋名は「違うわ」と打ち消そうとしていたが、表情が隠しきれていなかった。

「高杉と付き合ってたのか。それって不倫ってやつだよな。」

「そうよ。あんたと結婚したのは金だけが目当てだったのよ。もっと言っちゃえば、結婚する前から高杉さんと付き合ってたわ。あんたが部長になったら目をつぶって結婚生活を続けたと思うけどね。」

秋名の変貌ぶりに俺は何が起こったのか分からなかったが、いろんなことがどうでも良くなってしまい、勢いで離婚届にサインをした。

「悪いがこの家は俺のものだ。出ていってくれ。俺の左遷を理由に慰謝料を請求するなら裁判を起こしてくれ。」

俺はそう言って離婚届に判を押した。秋名はちょっとだけ腑に落ちない様子だったが、俺の剣幕に圧倒され、バッグ一つで出ていってしまった。その日のうちに俺はマンション玄関の電子キーを丸ごと交換し、秋名が家に入れないようにした。

そうして俺は自宅から山の奥店へ通うことになった。山の奥とは言うが、都心から快速電車で40分も揺られれば到着する場所だ。ただ、社内の中でもどんな機能を持っている部署なのか、社員でも知る人はほぼいない。だから山の奥店は左遷というイメージがついている。

この山の奥店に足を踏み入れた時、バンバンと耳をつんざくような音が鳴り、俺の前にヒラヒラと何かが舞い上がった。パーティークラッカーだ。山の奥店は店長代理の坂神冴子をはじめとする15人だけの部署だった。皆が温かく、それぞれが一つずつクラッカーを鳴らして俺を歓迎してくれた。

「思ったよりも早く赴任してくれたのね。来年の春に向けたルーキー部長のドラフト会議であなたを獲得しようと思ったけど、ラッキーだったわ。」

俺が少々むっとした表情をすると、冴子さんはちょっと申し訳なさそうな顔をしながら謝ってくれた。

「ごめんなさい。皮肉とかそういうつもりで言ったんじゃなくて、本当にあなたという人材が欲しかったのよ。昇進試験に合格したと聞いて、是非ともあなたを欲しいと思ってうずうずしていたのよ。」

この店は社内システムの保守管理や社内監査を行う部署だった。

「私たち、あなたの事情を知っています。本社業務部から依頼も受けています。あなたを守るためにこれから仕事をするから、よろしくね。」

初め俺は冴子さんの言っていることが正直分からなかった。社内監査とシステムの保守管理を行うという二つのキーワードで、ここで俺が何をすべきなのかがやっと分かった。あの時俺のIDカードがなぜ使われていたのか。いつどんな形で使われていたか、過去ログを調べられる唯一の部署が山の奥店だ。また経理や取引上の不正なども監視している。本社内に拠点を置かないことで、さらなる不正を防ぐ効果もあるようだ。

罪を被せられるとともに不倫に離婚。なんとなく頭の中に浮かんだ点が線で繋がりつつあるが、それを裏付けることはここでの仕事でしかできない。俺は少し元気を取り戻した。

それから3年が経過した。本当は何がどうなったのか分かった時点で本社に戻ることもできたが、もっと違うところで問題が発生したため、さらなる裏付けのために店に留まったのだ。この問題もなんとか決着をつけられそうになったため、俺は本社に戻ることにした。

「お世話になりました。」

俺は本当にこの人たちと別れることに後ろ髪を引かれる思いだった。温かくて優しくも頼もしい人たちばかりだったからだ。それに居心地もいいし、昇進競争とか営業成績や会社利益とかも考えなくていい。だけど俺には大急ぎで本社に戻らなければいけない理由ができた。焦りは禁物だったが、できるだけたくさんの証拠を集め裏付けを行いながら作成した報告書を引っ下げて本社に戻ったのだ。

戻った先は本社営業本部だ。あの日から3年間、一度も帰らなかった本社の受付でIDカードをかざし入室許可をもらう。すると受付のところで見覚えのある女性と出会い合わせになった。元嫁の秋名だった。

「あら、まだこの会社にいたの?てっきり退職したもんだと思ってたわ。」

結婚していた頃と比べて少々痩せたように見えるが、化粧が濃く派手さが増していた。

「ああ、ちょっと修行させてもらっててね。」

「なんか雰囲気変わったね。」

俺がそう言うと、秋名はふっと笑っていった。

「私ね、あれから再婚したのよ。今はね、高杉秋名っていうの。」

秋名を見つけて焦った様子の男性が駆け寄ってくる。あの忌々しい高杉の姿だった。

「どうしたの?秋名、また誰かに言い寄られてた?」

秋名は首を振って、めんどくさそうに俺を指差す。高杉はぎょっとして俺を見る。

「なんだお前?まだいたのか?」

「なんだ?まだ部長はともかく、係長にも昇進できていない高杉主任じゃないですか?」

俺はあの時と同じように高杉主任と力を込めて呼んでみた。高杉さんは今となっては昇進試験を受験できる資格年齢は過ぎていて、登用試験を受験してのキャリア昇進は望めない。それなのに秋名がまだ高杉と一緒にいたことに軽く驚いたが、まあそれなりに納得できる。

皮肉を込めて高杉さんを主任と呼んだことが嫌だったらしく、秋名は少々怒った口調で言った。

「あら、左遷された低収入の男がなんで戻ってきたの?ここはあなたが来るような場所ではないわよ。」

「そうだ。会社の金を使い込んでワイルを送っていたやつが、よくもここに戻って来れたな。」

大きな声で言うもんだから、いろんな人が振り返る。それでも俺はひるまない。

「また会社のデータを改ざんしに来たのか。それとも『ごめんなさい、俺がやりました』って自首しに来たのか。」

俺があまりの言われように反論してやろうと思った時だった。

「社長、お時間ですよ。」

さっと現れた女性が俺の手を取って歩き出そうとした。

「おいおいおいおい。おばさん。こいつは社長でも何でもねえよ。ただの犯罪者だよ。」

「あら、私はおばさんではなく、本社秘書室長の坂神冴子です。こちらはああ、業務部の高杉主任と奥様の秋名さんですね。お話がございますので、お二人で営業本部へお越しいただけますか?」

ここにいるのは紛れもなく山の奥店の店長だった坂神冴子だった。

「お帰りなさい。お待ちしておりました。」

「冴子さん、ありがとう。」

山の奥店で仕事をしていた時に、俺と冴子は自然に恋愛関係に陥っていた。ところが昨年、一足先に冴子が本社へ転勤となったのだ。俺はその時に新たな問題に直面しており、最後についていくことができなかった。これが大急ぎで本社に戻らなければいけない理由だ。

「お、俺も社長か?」

「それはどうでしょうかね?」

「なんであんたがそんなこと言えるのよ。口を慎しんでください。こちらの方は本日付けで本社に転勤された営業本部長の大木孝太さんですよ。」

「はあ。なんだよそれ。やっぱり社長じゃねえじゃんか。」

「孝太さんは我が社の社長である坂一郎、私の父が指名した次期社長です。」

冴子が俺の左手と自身の左手を高杉の顔の前に差し出した。俺たちの左手の薬指にはハイブランドのマリッジリングが光る。もちろん秋名に送ったのよりもはるかに高級なブランドで高額な指輪だ。

「ちょっと待ってよ。この人は私の夫よ。何人の旦那奪ってんのよ。」

「ちょ、何言ってるんだ。去年婚姻届け出したばかりだろ。」

「離婚よ。金の切れ目が縁の切れ目。使えない男とは付き合わない主義なのね。孝太さん、もう一度よりを戻しましょうよ。私たち相性も良かったじゃない。」

俺はすがりつく秋名を振り放す。

「言いがかりはそれくらいにして、営業本部へ。」

俺たちは俺の新しい勤務先となる営業本部へ向かった。業務部長などの上層部が待ち受けている。業務部長となった山田もその中の一人として俺たちを待っていた。

「もう分かっているよね。取引先の担当者と架空の承談をし、この3年間で1500万円の取引を5回も行っていたね。相手とその金を半分に分けて私服を肥やしていましたね。当時俺のIDカードを秋名が持ち出し、勝手に使っていたことも分かっている。その後の取引は取引先が不正に作った正規の請求書を用いて支払いに見せかけて振り込んでいたようだね。相手の会社が不正を見抜いており、金の流れを一緒に突き止めてきた。2ヶ月前に相手の会社の担当者が逮捕されており、この2人も時間の問題だったのだ。そのことを分かっていて、秋名は少々焦っていたのだろう。」

「俺以外にもあなたの不正経理の問題で濡れ衣を着せられた社員がいます。奥様の秋名さんも私以外の他人のIDを不正利用していましたね。懲戒だけでは済まされないことをご承知くださいね。」

山の奥店での3年間は、たったこれだけの真実を突き止めることに費やしたが、冴子と出会えたし、会社を成長させるためのキーパーソンになれる可能性も与えられた。この2人のお粗末な横領事件が片付いたら、俺は冴子と結婚し坂神家へ婿入りすることが決まっている。この先も楽しいことばかりではないが、2人でなら乗り越えていけそうだ。

Thumbnail