母はよく言っていた。「親しき中にも礼儀あり。お金のことは特にきっちりしなさいよ」と。その教えが、まさかこんな形で私を救うことになるなんて、あの時は想像もしていなかった。
私はさや子。パート勤務の30歳。4歳の娘と会社員の夫・鉄王の3人暮らしだ。実家はうちの賃貸マンションから駅2つの距離で、夫の会社にも近い。だから夫はしょっちゅう義実家で夕食をとっていた。
聞こえはいいが、夫はルーズで自分勝手なところがある。会社帰りに義実家に寄って夕飯を食べるなんて、私への連絡すら思い浮かばないらしい。何度注意しても「母さんが今夜は肉じゃがだって言うから」と言い訳するだけで、謝りもしない。
代わりに、気遣い屋の義父が「鉄王はこちらに来ることを連絡したかい?」と電話をくれ、どうにか夕飯が無駄にならずに済んでいた。
義父とは正反対に、義母は嫌みったらしい。「哲(鉄王)はやっぱり嫁より私のご飯が好きなのよね」と勝ち誇る。夫が義実家に帰るたび、「やっぱり実家が落ち着くのよね。さや子さん、早く嫁として夫が落ち着く家庭を作りなさいね」と電話をかけてくる。
いちいち私を見下し、女として母として自分が上だと示したいらしい。暇を見つけては部屋に押しかけてきた。「こんな掃除の仕方じゃ鉄がゆっくり過ごせないでしょ」「冷蔵庫の中も何よこれ」と、掃除の荒しに冷蔵庫の勝手なチェック。
「こんなものを鉄王に食わせる気なの?」と、せっかくの料理を捨てられたこともある。「食べ物を大事にできない嫁は最低よ。あんたが手を加えると何もかも無駄になっちゃうわね」と笑う義母に、私は言い返した。「私が食べれば済む話なのに、どうして捨てるんですか?無駄にしているのはお母さんです」
義母は顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。驚いて娘が泣き出すと、「うるさいわね」と捨て台詞を残して部屋を出ていく。自分勝手で、都合が悪くなると逃げ出す義母。
夫にそんな嫁いびりの実態を伝えても、「気のせいだろ。悪気はないんだよ」とヘラヘラ笑ってスルーするばかり。明るく社交的な性格に惹かれて結婚したのに、そんなのは遠い過去のこと。ただの気分屋で、娘が話しかけても適当にあしらう。父親としての評価も底辺に落ちた。
そこへ追い打ちをかけたのが、毎月貯めていた娘の教育資金がごっそり消えていたことだ。400万円もの大金が引き出されていた。家族カードを持つ夫の仕業でしかありえない。
確信を持って尋ねると、夫は平然と言った。「今のところ娘に金はいらないだろう。また必要になる時までに貯めればいいじゃん」
私の中で、ブチっと何かが切れた。「ふざけないでよ。よくもまあ2人で貯めたお金を勝手に使えたわね。今必要とか、そんなことじゃないの。いつ必要になるか分からないから前々から貯めておこうって決めたお金じゃない。一体何に使ったのよ」
「お袋に援助したんだよ。2人で貯めたお金だって?ほとんど俺が稼いだ金だろう。文句あるのかよ」
「私の分も入っているわ。節約して浮いたお金も入れたのよ。一緒にやりくりしたのに」
「お前の金なんて、雀の涙だろう」
寝ていた娘が起きなくて良かったものの、夫婦の怒鳴り合いはヒートアップした。こうなったら離婚ね。ルーズだとは思っていたけど、夫婦の決め事を、しかも子供のためのお金を勝手に引き出すなんて信じられない。
「やめろよ。パートなんかの給料でやっていけるわけないだろう」
私はすぐに言い返せなかった。私を言い負かしたことに満足したのか、夫は「いつでも離婚に応じるぜ」と笑いながら義実家に帰っていく。
悔しさに拳を握った私だが、泣き寝入りする気はない。その結論に達した私は、離婚に向けた準備に取りかかった。
翌週の金曜日、義父から連絡が入った。「今朝、鉄王が母さんに電話しているのを聞いたんだが、今夜の夕飯はご馳走そうだから食べにいらっしゃいと母さんが連絡していたらしい」
夫からはそんな話を聞いていない。また黙って行くつもりなのだろう。離婚宣言をし、パート勤務を馬鹿にされた日を境に、夫の態度は私を見下すものへと変貌した。「養われている身分のお前を、俺が気遣う必要はないよな」と洗濯物をその場に投げ散らかすようになったし、部屋の掃除も一切しなくなった。「こんなんで掃除したって言えるか」とケチをつける様子は、義母そっくりだ。
私は義父からの連絡をいいタイミングだと思い、計画の実行を決める。夫の帰宅時刻を見計らって、義実家を訪問した。
義父はまだ帰宅していないようだった。電撃訪問した私を見て、夫と義母は目を丸くした。「まあ、夕飯がお寿司だって知ってたりに来たのね」「お前に食わせる寿司はねえよ」と口汚く罵ってくる。玄関から一歩も中に入れるつもりはないらしい。
義実家は一見豪華だが、玄関の木戸は防音にはそれほど機能しない。大声で怒鳴れば外にも聞こえるだろうに。相変わらず自分勝手で、周りのことが見えていない親子である。
「あいにくだけど、寿司を食べるだなんて連絡、誰からも受けていないの。あなたが実家によることだけは、お父さんが教えてくれたのよ」
「俺が連絡しないからって嫌味か。お前ごときにいちいち俺の予定を言う必要があるかよ。親父から聞いただなんて。お前、人の親父とこそこそ連絡して、嫁の分際でキモすぎるだろ」
夫は暴言を吐く自分に酔いしれているようだ。義母も後ろでニヤニヤ笑っている。
「キモいのはあんたでしょ」
私の一言に、二人の表情が凍りついた。「なんだと?」
「お父さんの親切をそうやって邪推することこそ気持ち悪い。あんたが連絡をしないダメ野郎だからでしょ。気を使ってくれていることがどうして分からないの?」
連絡をしていないことに自覚があったらしい。夫は唇を噛み、黙り込む。
「ならあんたが断りなさいよ。お父さんに迷惑をかけて図々しい」
義母が夫を庇うが、「ああ言えばこう言うだけの女だ。そこで勝手に吠えていてください。私はここへ来たのは、あなたと議論して時間を浪費するためじゃないんです」
私は鞄から離婚届を取り出し、夫に手渡した。「はんだよこれ。本気か?」目を見開いて本気で驚いている様子の夫。
「パートの分際でやっていけると思ってるのか?」
「そうよ。孫は渡せないわ。お前には育てられない。母さんに頭を下げろよ」
喚き立てる親子に対し、私は冷静に状況を説明する。「来月頭から正社員として働くことになりました。現在私は医療事務としてパート勤務していますが、結婚前、正社員として働いていた職場です。離婚を考えていると職場の人に話すと、正社員に戻ることを提案されました。現在娘が通っている幼稚園は職場に近い。中抜けして幼稚園に向かいに行き、修行まで職場の卓事書で預かってもらえばいいと、助言までしてくれたのです」
「そ、そうは言っても1人でなんて育てられないでしょ」
義母は強気だが、「お母さんがそうおっしゃるのを見越して、実家の親に連絡して同居することに決めました。今日も娘を預かってくれていますし、どこかの夫のように娘を適当に扱うことなく、可愛い可愛いと構ってくれていますよ」
義母が夫を振り返るが、夫は気まずそうに下を向く。
「ふざけないで。そんなことを許せるわけがないでしょう」
震える声が義母の動揺を伝えてくる。「教育資金を黙って使う父親なんて、毒でしかありません」
はっきりとそう伝えたその時、驚いて邪魔してしまったが、「その話、詳しく聞いていいかな」と玄関の戸が開かれた。義父はどうやら玄関前で話を聞いていたらしい。
「教育資金を使った?どういうことだ?鉄王」
「違うんだ。お袋に頼まれて、リフォーム資金を援助して…」
「リフォーム資金?」
疑問に思ったのは義父も同様だったらしく、厳しい顔をして義母に詳しい説明を求めた。
「鉄王に同居の話を持ちかけられたのよ。家賃を払い続けるより実家で同居する方が費用が浮くから節約になるって。それで一緒に住むなら必要でしょ。そ、そのお金よ」
次から次へと新しい情報が飛び込んできて、目まいがした。「同居だと?そんな話、私は一言も聞いていない。大体、教育資金とはどういうことだ?さや子さん、説明してもらえるかな?」
私は義父に、夫が引き出したお金について説明し、離婚することも伝えた。
「だ、だったらあんただけ出ていけばいいでしょう。孫は置いていきなさい。私が育ててあげるから」
義母は震えながらそう言う。
「いえ、これは夫との決め事なので、私は夫婦の約束を破るなんて卑劣なことはできませんから」
「はあ?そんなもの決めた覚えなんてないぞ」
だろうなと内心思いつつ、私はファイルを取り出し中を見せた。「これは教育資金を貯金する上で交わした制約書です。夫のルーズさは知っていたから、万が一のため決め事を文章にしておいたのです。お金に関わることはきっちり文章化しろ。母の教えの1つでもあります」
「鉄王の署名もあるなあ」と義父が感心したような声をあげる。
「ど、どういうことだ?なんて書いてある?」
慌てる夫は、きっと読まずに署名したのだろう。
「簡単に説明すると、教育資金以外の用途に使った場合は直ちに離婚。子供がいた場合は相手に親権を譲る。応じられない場合は、使用した金額の倍を支払うことで相手に離婚を申し込むことができる。そんな内容です。今回の場合、夫は親権を奪われ、応じられないのならば、倍額の800万円を私に支払うことで離婚の機会を与えてやろうということです」
「お母さんの頼みを聞くならば、800万円支払っての争いになるわね。まあ、あなたの普段の態度やお母さんの私への仕打ちの証拠はきっちり揃えてあるから、調停したとしても親権がどちらに行くかは大体想像がつくけれど」
ニコリと笑って見せれば、夫は「ヒッ」と小さく悲鳴をあげた。
義父が盛大なため息をつき、義母に告げる。「とりあえず、鉄王に渡された金を返却しなさい。リフォームには手をつけていないんだ。金は残っているだろう」
その言葉に、夫は途端に顔色を明るくした。教育資金が戻れば離婚もうやむやになると思ったのかもしれない。期待に満ちた顔を向けられた義母は、顔を真っ赤にして首を横に振った。「ないわ。もう使ったの」
か細い声が答えて、一斉に驚きの声が上がる。義母は震えて黙り込んでいたが、「欲しいカバンがあって、あと服もちょっと借りるつもりだったので…我慢できなくて」と白状した。
呆気に取られて言葉が出ない私に対し、義父の対応は早かった。「ふざけるな。何を考えているんだ」
「だだだって、孫の教育資金はまた貯めればいいからって鉄王が言ったから、すぐになんとかなると思ったの」
「娘のためのお金だと知ってて使ったんですか?それでよく孫は渡さないなんて言えますね。恥ずかしいのはどっちですか?あなたも夫も毒でしかない。最低の似た親子だわ」
怒りのメーターが振り切れ、自分でも驚くほど冷たい声が出た。義母は呆然と口をパクパクさせる。
「お父さん、申し訳ありませんが、私はもうこんな人たちと家族でいたくありません」
「同感だな。可愛い孫に毒でしかない」
義母はその言葉に泣き崩れた。
その後、私は夫と離婚した。証拠と制約書のおかげで、養育費や財産分与は私の思うように手続き完了。教育資金も金額で言えば1/3が私の給料であったが、娘の教育資金と慰謝料を含め、合計500万円を私が受け取ることになった。
金の工面には、元夫は相当苦労したらしい。リボ払いで買い漁ったブランド品や手持ちの貴金属を全て質屋に売却し、足りない分は義父に頼った。「妻を助けるのは夫の仕事でしょ」と元夫と一緒に義父を攻め立てたが、それに激怒した義父に、2人とも絶縁されたそうだ。
そもそも元夫が義母に同居を持ちかけたのは、会社で案件をダメにして左遷を言い渡されたのがきっかけだった。少ない手取りではマンションの家賃も払えず、小さなアパートを借りるしかなかった2人。彼らに残された金の調達方法は、生命保険の解約だけ。各々の解約で戻ってきたお金を足し、どうにか返済金額に達したそうだ。
同情してもらいたかったのだろう。支払い完了の報告にて苦労を語った元夫に、私が「ふーん」と流すと、「感謝の言葉1つないのか」と電話の向こうで喚き散らす。「恨みはあるから、その分上乗せして請求しようか」と脅したら黙り込んだので、通話を切って連絡先を変えた。
それきり私への連絡は途えたが、義父には義母から復縁の要請があったようだ。当然拒否したそうだが、そこで聞いた2人の現状は最悪だったらしい。借金は治らず、家計は火の車。互いのせいだと責任を押し付け合い、ラブラブだった親子は喧嘩ばかりの惨めな日々を送ることになった。
「お前の可愛い息子だろう」と義父が皮肉を言えば、義母は「鬱陶しい金食い虫よ」と悪口大会だったそうだ。
親子だろうと夫婦だろうと、お金についてはきっちりしないといけない。母の教えを受けて、心の底から良かったと思った。



