出社した瞬間、同僚たちが全員、俺を哀れむような目で見てきた。何が起きたのか分からないまま席に着くと、同期が「おい、やめるってどういうことだ?」と聞いてきた。パソコンを開くと、昨夜の22時15分、俺のアカウントから退職メールが一斉送信されていた。でも、その時間、俺は同期と居酒屋で飲んでいた。犯人は分かっている。部長だ。あいつは俺の目の前で得意げに笑い、「お前、退職するんだってな。自主的で偉いぞ…

出社した瞬間、同僚たちが全員、俺を哀れむような目で見てきた。何が起きたのか分からないまま席に着くと、同期が「おい、やめるってどういうことだ?」と聞いてきた。パソコンを開くと、昨夜の22時15分、俺のアカウントから退職メールが一斉送信されていた。でも、その時間、俺は同期と居酒屋で飲んでいた。犯人は分かっている。部長だ。あいつは俺の目の前で得意げに笑い、「お前、退職するんだってな。自主的で偉いぞ...

出社した瞬間、車内の空気がおかしい。みんなが困惑した目で俺を見てくる。挨拶しても返ってくるのは沈黙ばかり。何が起きたのかさっぱり分からない。

そこへ同期の水島が戻ってきて、開口一番こう言った。

「おい、やめるってどういうことだ?」

「は?何言ってるんだ?俺がこの段階でやめるわけないだろ」

水島は声を潜めて言う。

「お前、退職しますってメール、一斉送信してたぞ」

そんなはずはない。俺はパソコンを立ち上げ、メールソフトを開いた。そこには確かに、取引先や部署内に向けて送信された退職メールがあった。送信日時は昨夜の22時15分。

俺と水島は顔を見合わせた。その時間、俺たちは居酒屋で飲んでいた。

そこへ部長の織田が入ってきた。俺を見つけると、得意げな顔で近づいてくる。

「お前、退職するんだってな。自主的で偉いぞ」

笑いながら言う。俺は直感した。こいつが何かをした。水島も同じことを思ったようで、小声で「部長の仕業か」とつぶやいた。

その時、社長が入ってきた。織田は慌てて挨拶する。社長はまっすぐ俺たちのところへ来て、こう言った。

「斎藤君、水島君、極秘の28億の特許契約は済んだか?」

周囲がどよめく。織田は慌てて「28億?社長、それは一体何のことで?」と聞く。

俺は感情のない声で答えた。

「部長が辞職しました」

実はこの特許契約、俺が今の会社に在職中にのみ有効な契約になっている。水島も頷く。

織田は「おい、何のことだ」と睨みつけるが、社長が織田を睨み返した。

「織田君、どういうことだ?」

織田はしどろもどろになりながら、「こいつは退職するとメールを送っていて、今日は退職届を出しに来たのかと」と言う。

社長は「退職?」と大声を出し、俺に向き直る。

「斎藤君、君からも説明してくれ。退職するつもりだったのか?」

俺は答えた。

「いえ、違います。確かに私のパソコンからメールが送られていたようですが、私の意思ではありません。織田部長、あなたがやったんですよね」

織田は「俺がそんなことするはずないだろう。これだから中卒は」と馬鹿にする。だが水島が遮った。

「これが送信されたのは昨日の夜。その時間、斎藤は僕と一緒に飲んでいたので、メールは送れません」

織田は開き直る。

「そんなの誰でもできる。メールの送信予約したんだろ。とにかく退職メールを送ったんだ。お前みたいな使えないやつ、さっさとやめろよ」

社長がいる前でこんなことを言うのか。だが織田はすぐに社長に向き直り、

「社長、こんな奴に大規模なプロジェクトなんて任せる必要はありません。それは私が引き継ぎます。必ずや成功させますのでご安心ください」

得意げに言った。

次の瞬間、「ふざけるな」という社長の怒鳴り声が響いた。

社長は元作業員で普段は温厚だが、理不尽なことには決して黙らない人だ。その社長がこれほど怒っているのを俺は初めて見た。

「君は斎藤君のような特許を持っているのか?そもそも斎藤君が特許を持っていることを知っていて、今回のプロジェクトがどんな内容かも把握しているのか。極秘プロジェクトだ。それはないはずだが」

織田は「え、こいつが特許?」と呆然とする。水島が口を挟んだ。

「斎藤はここに入社してから自力で研究した特許を持っています。現場上がりだからこそ考え出せた特許ですよ」

社長は続ける。

「その特許の力を是非貸して欲しいと私が頼んだ。この特許を利用し、大手と28億もの契約を進めていたんだ。それを退職?そんな無責任なこと、斎藤君がするはずがないだろう」

織田は「いや、でも」と口ごもる。俺は言った。

「メールの送信予約なんてしていません。履歴を見れば分かりますよ。それから、もしも昨日の夜誰かがこのパソコンから送信したのなら、防犯カメラを確認してもらえば済みますね。織田部長が映っていると思いますよ。それに、私のパソコンを織田部長が勝手にログインしたのだとしたら、業務上の権限を逸脱した不正アクセスです。場合によっては不正アクセス禁止法にも該当しますし、少なくとも就業規則違反、業務妨害罪に問われます。犯罪ですよ」

織田は一気に青ざめた。社長は「そうか。その手があったか。今すぐ防犯カメラを確認しよう」と言って警備室に連絡する。

そこでようやく観念した織田が「申し訳ありませんでした」と社長に頭を下げた。

社長は睨みつける。

「頭を下げるのは私ではないだろう。それに、この問題は頭を下げたからと言って解決する問題ではない」

周囲の社員たちは社長の迫力に息をのむ。織田は「あ、はい」と言ったものの、俺には頭を下げなかった。

俺は静寂を破って口を開いた。

「織田部長、あなたの学歴が素晴らしいのは分かりますが、それが他人を貶める道具になるのはどうなんですか?学歴でしか人を見られない。それは部長としてふさわしくないと思います」

水島も続いた。

「社長から僕たちの仕事量を減らすように言われた時も、逆に増やしましたよね。そんなに僕たちが気に入らないですか?言っておきますが、斎藤は車内でもトップクラスの実力を持っているし、結果を出しています。それを学歴だけで判断するのは、ちょっとおかしいんじゃないですか?」

織田は不機嫌そうな表情を見せるが、社長の手前、俺たちに嫌みを言うこともできない。「申し訳ない」と消えるような声を発するのが精一杯だった。

その時、社長の元へ電話が入った。電話を切った社長は言った。

「防犯カメラの映像を確認してもらった。入退室の記録からも、やはり君で間違いないな。相応の処分はさせてもらう。ひとまず、メールを送った取引先全てに織田君が訪問し、謝罪をしてきなさい。君の処分はそれからだ」

織田は「あ、はい」と青ざめた顔のまま出ていった。

その後、取引先からも俺のところに連絡があり、退職するというメールは誤送信だったと説明した。織田は何日もかけて全ての取引先を回ったそうだ。だが、取引先での態度はあまり良くなかったようで、火に油を注ぐ結果になった。社長はさらに激怒し、「君は自分のやったことの謝罪すらまともにできんのか」と言われ、再び青ざめる織田の姿があった。

数日後、俺の特許を用いたプロジェクトが車内で発表された。社長は「斎藤君の素晴らしい特許技術はこの業界を変えるだろう」と穏やかに言った。

あのメール事件の後、織田は針のむしろだった。車内に入るたび、他の社員が織田を見てひそひそ話す。「ひどい上司だ」と他の部署にまで噂は広まった。

結局、織田は自主退職。最終日も逃げるように退出していった。

社長から「織田を訴えることもできるが、どうするか」と聞かれたが、俺にはさほど被害もなかったし、会社に迷惑をかけるのも嫌で断った。

俺はプロジェクトの成功により特許使用料も入るようになったし、特別ボーナスももらえた。俺を支えてくれた水島ももちろん特別ボーナスをもらい、2人でいつもより少しランクの高い居酒屋で酒を飲んだ。

社長は今回のことをきっかけに、部下からの評価というのも気にするようになり、人事に大きな影響を及ぼした。その結果、車内は以前のようにいい雰囲気に戻った。社長からは「君たち2人は我が社の救世主だ。これからも頑張ってくれ」と言ってもらい、俺も水島もより一層やる気を出した。

プロジェクトも走り出し、新たなコンクリート技術が世に広まり始めている。これからも人の役に立つ技術を現場に届けていきたいと思っている。

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