つい先日、義母が亡くなった。四十九日はまだ先だが、葬式の後片付けもすんだ。新婚早々から始まった義母の介護の日々。義母は本当にいい人だったけれど、大変だったことも確かだ。長年の肩の荷が下りてほっとしたのに、無我夢中で駆け抜けた日々が終わってみると、今さらのように寂しさや空しさが込み上げてきていた。
そんなある日のことだ。夫が突然、言い放った。
「お前、浮気してるだろう」
「へ?浮気なんてしてないよ」
私は義母を十年、在宅で介護してきた。出張や残業と理由をつけて、家に帰らなかった夫とは違う。浮気をする暇なんて、あるはずもなかった。実の母以上に仲良くなれた義母の世話は、私にとって苦ではなかったけれど、夫は私の言葉を一切信じようとしなかった。
「嘘つけ。俺は見たぞ。昨日、駅前で若い男と二人で歩いていただろう。随分とひょろひょろしたやつだったな」
この言葉で、私はピンと来た。「ああ、あの人は」と答えかけたところで、夫は私の返事を待たずに勝ち誇った。
「ほら、言った通りじゃないか。浮気をするような女とは離婚だ。おふくろの世話が終わった途端、堂々と浮気相手とデートか。お前はひどい女だな」
浮気をしているのはあなたの方でしょう。そんな暇はなかったわよ。言いたいことは山ほどあったのに、私の口から出てきたのは、乾いた笑い声だけだった。
「あはは……」
「なんだ、お前、笑うなんて頭おかしいんじゃないか」
夫が険しい目で私を見る。まさか離婚したくないとか言い出さないよな、と続けた。もうお互い愛情なんてないだろう。大体お前は、夫をつなぎ止める努力を全くしてこなかっただろう。化粧もしないし、おしゃれもしない。夫は自分の悪口を流れるように並べ立てる。それを聞いて、私は「了解」とだけ短く返した。夫が自分のことは棚に上げて私に文句を言うのは、お門違いもいいところだ。腹が立つし、これ以上聞く気にもなれなかった。
「は?」
夫が目をぱちくりさせる。
「だから、了解。離婚しましょう」
確かに私は化粧もしてこなかったし、おしゃれもできなかった。でも、それは夫のせいだ。夫は給料を管理していて、生活費をほとんど入れてくれなかった。義母の介護があったから、私は外で働きに出ることもできなかった。何度も夫に、給料をもっと家に入れてほしいと訴えた。もっと家に帰ってきてほしいと頼んだ。せっかく結婚したのだから、私は家庭を維持する努力をしてきた。それでも十年という年月は、私に夫を見限るのに十分すぎる時間だった。
それでも私が離婚しなかったのには、二つの理由がある。一つ目は義母のため。義母は本当にいい人で、かわいそうだった。私がここで義母を見捨てたら、義母は十分な介護もされず、どこかの施設に追いやられ、寂しく一生を終えることになっていただろう。それだけと言えばそれだけ。それともう一つの理由。
「ねえ、私に浮気かどうかを聞く前に、あなたが浮気してるわよね」
「あ、なんだ。知ってたのか?それなら話が早いな」
夫は悪びれもせずに言った。お前も浮気してるなら、お互い様だろう。どうせ十年もレスなんだし。俺には愛人と子供がいるからな。子供にお金がかかるし、慰謝料はなしでいいな。この家に呼び寄せるから、お前は今週中に荷物をまとめて出ていけよ。話が決まったとばかりに、夫は上機嫌だ。
「ちょっと待って。勝手に話を決めないでよ。きちんと弁護士を入れて話したいの」
「ああ、そんなの大げさだし、面倒じゃないか。別にお互い離婚届に判を押すだけでいいだろう」
「へえ。そもそも私は浮気なんてしてないし。あなたが勝手に誤解しているだけよ」
「は?だって俺が見たんだぞ。動かぬ証拠だろうが」
「あの男の人は弁護士さんよ。お母さんが遺言を残していたの」
夫は初めて、ぎょっとしたように固まった。その顔を見て、私は心の中でスッとした。でも、これはほんの手始めだ。夫には地獄を見てもらうつもりだった。
「遺言ってどういうことだ?お袋の遺産は俺のものだろう。俺が一人息子なんだ」
「まあ、本来なら夫が当然相続できるお金よね。でも、お母さんから聞いた話があるの。十数年前に亡くなったお父さんは交通事故だったでしょ。お父さんに落ち度がなかったから、かなりの保険金が出たの。受け取り人はお母さんだったけど、お母さんは遺産を含めて半額をあなたに渡したのよ。その時、あなたは『ええ、人が亡くなると結構お金がもらえるんだな』って笑ったんだってね」
「……そんな話、お袋から聞いたのか」
義母はあの時、我が子ながらぞっとしたと教えてくれた。義母が危なくなってから、夫はそれとなく「おい、お袋はどのくらい金を持ってるんだ」と私に探りを入れてきた。全く世話をしないで、遺産だけはがっちりもらうつもりらしい。
「さあ、普段使う通帳以外は見たことがないし」
私は分からないふりをした。実際は、義父の遺産も義母の貯金も、脳卒中になった時の手術代や長期入院費、その後の生活費でかなり使ってしまっていたけれど、夫は都合よく忘れているようだった。
「とにかく、土曜日に弁護士さんが来ることになっているから。離婚の話も、ちゃんとね」
私は夫から騙されていた。夫とは婚活パーティーで知り合い、私はきちんと恋愛して結婚したつもりだった。でも、夫は母親の介護と自分の世話をしてくれる、無償の家政婦を探していただけだった。私たちが知り合う半年前、義母は脳卒中になり、命は助かったものの左半身に麻痺が残った。長期入院とリハビリを経て、自宅療養は可能になったものの、介護が必要になった。義父はすでに亡くなっていたし、夫は一人っ子で他に頼れる身内もいない。介護施設は順番待ちだ。最初はヘルパーを雇っていたが、ヘルパーは義母の食事を準備しても、夫の食事の準備はしてくれない。そこで夫は、初めて結婚しようと思ったらしい。私のことを愛していたわけではない。自分の世話と母親の介護をしてくれる、一挙両得な便利な人間が欲しかっただけなのだ。
私はそれを見抜けなかった。私は美人ではないし、もてるタイプでもない。だから婚活パーティーで自分が選ばれたことが嬉しくて、舞い上がってしまったのだ。夫から義母の介護を頼まれた時、そんな事情があったのかとがっかりしたけれど、幸い義母は本当にいい人だった。義母とは年こそ親子ほど離れているものの、親友のように打ち解けた。お世話自体は大変ではなかったし、仕事をやめて介護に専念したことも後悔していない。許せないのは、夫のことだけだ。
夫は私が義母の世話を安心して任せられると分かると、家庭を一切顧みなくなった。義母が元気な時と同じように遊び歩き、愛人を作った。「出張の多い仕事だからなかなか家に帰れなくてごめんな」と言っていたが、真っ赤な嘘だ。夫は愛人のところに入り浸るようになり、私と義母は二人だけで暮らすようになった。義母は自分の息子に愛想を尽かし、家族で幸せに暮らすことをずっと望んでいたけれど、残念ながら無理だった。十年という年月を経て、私も義母も諦めた。
そして迎えた土曜日。
「弁護士の福田と申します。以後、お見知りおきを」
夫が私の浮気相手と誤解した、年下の弁護士がうちにやってきた。
「おい、お前はあくまで嫁なんだからな。嫁は相続できないんだぞ」
夫が言い出すが、そんなことは分かっている。私は逆に、夫に尋ねた。
「特別清料って、知ってる?」
「え?特別な何だって?」
「特別清料よ。私がお母さんの世話をしなかったら、ヘルパーさんとかに頼まなきゃいけなかったでしょ。私が介護したからかからなかった分を、払ってもらうわ。相続法の改正で、介護などをただでしてきた親族が、その費用を相続人に請求できるようになったの。私は無料の家政婦じゃないのよ」
「一……体、いくらだよ」
夫は私に介護を任せっきりにしていた分、値段を聞いてきた。
「三千万になるわね」
「はあ?高すぎだろ。ふざけんなよ」
夫が目をむくと、弁護士が静かに口を挟んだ。
「むしろ、少なく見積もってですよ」
私は十年間の介護日誌や、必要な買い物の記録など、細かく記録を残していた。毎日三時間は介護に時間がかかっている。依頼すると大体一日八千円くらいだと言われたから、一年三百六十五日で十年間計算すると、そうなる。私は夫の前で、ぽちぽちと計算機を弾いて突きつけた。実際は七割程度しか認められないそうだから二千万程度になるかもしれないが、こちらが不利になることをわざわざ言う必要はない。
「マジかよ……」
夫は私のことを無料の家政婦だと思っていたから、完全に予想外の出費だろう。それでも、まだ遺産があると希望を持っている様子だ。
「そうだ。遺言って言ってたな。早く見せろ」
「それではこちらが、お母様の遺言書になります」
弁護士が茶封筒を取り出すと、夫はそれを奪い取った。
「あ、何するの?」
止める間もなく、夫はビリッと封筒を破いた。
「ちょっと!」
私が遺言書を取り上げようとしたが、夫は背を向けて一人で内容を読み始めた。
「おい、ふざけんな。どういうことだよ。遺産は全てお前に譲るだと?」
夫は激怒して、私に遺言書を突きつけてきた。
「嘘だろ?こんなの無効だ。ふざけんな。お前、相続放棄しろよ。どうなってんだ。こんなのなかったことにしてやるからな」
「ちょっと、やめてよ」
夫は遺言書をびりびりに細かく破り、窓から外へと放り投げた。
「これで遺言書なんて存在しない。お前に遺産を渡す必要はないな」
夫が勝ち誇ったように笑う。
「あなたって……」
私の言葉が詰まる。まさか、ここまでバカだとは。義母と私の計画通りに進むとは思わなかった。
「あなたって、本当に爪が甘いわね」
私はくすっと笑ってしまった。
「はあ?」
夫は怪訝そうな顔をしているが、もう遅い。
「いいえ、何でもないわ。福田先生、お願いします」
「ああ、任せてください」
弁護士が小さく頷くと、話し出した。
「遺言書、破いてしまいましたね」
「あ?遺言書なんてないって言っただろう」
夫は弁護士が若くて頼りなさそうに見えたのか、脅すように言った。
「いえ、確かに私が持ってきました。それを破った上に、私と依頼者を脅迫しています。脅迫罪も追加ですね」
さすが弁護士だ。動じない。
「はあ?何を言い出すんだよ」
「遺言書は家庭裁判所での検認が必要ですから、本日はお見せするだけの予定でした。ですが、あなたが遺言書を破棄された。これは相続欠格に該当します。相続する資格がなくなりますよ」
遺言書は勝手に開封してはならないという法律があり、本来は家庭裁判所で開封して中身を確認しなければいけないのだ。弁護士から淡々と相続する資格がなくなると言われ、夫は急に不安になったらしい。
「ふ、ふざけるなよ。嘘つくなよ。確か遺言がどうであれ、子供は遺産をもらえるはずだろう」
夫はにわか知識を出してきた。
「遺留分ですね。ですが、相続欠格になりますと、一切の遺産の受け取りはできませんから」
「そ、そんな……」
夫は今さら青くなった。だったら、遺言書を破らなければいいものを。バカだ。
「それから、離婚されるということですね。依頼人のご要望により、財産分与と慰謝料の請求もさせていただきます。もちろん、愛人の方にもですね」
「はあ?さっき、慰謝料はなしでいいって言っただろう。それとこれとは別でしょ」
「あ、それから録画しているの。遺言書をびりびり破ったのも、私たちを脅している様子も全部映っているから。DVも追加するからね」
私は、夫から奪うお金が増えることは一向に構わない。むしろ、これが復讐だ。夫を一円も残さず、無一文にしてやる。
「くそ……。お前がこんなひどい女だと思わなかった。全部、うちの財産をむしり取りやがって」
夫は悔しがるが、私はため息が出た。
「あのさ、お母さんはね、ずっとあなたのことを心配していたわよ。どんだけクズでも、やっぱりお腹を痛めた子供だからって。でもね、あなたは不誠実すぎるでしょ。お母さんがかわいそうだったわ。介護が必要になった自分を放置して、嫁に任せて浮気した息子。お母さんは私に対して申し訳ないと何度も謝って、あなたのことは情けない、育て方を間違えたと、一人で泣いていたわ。お母さんも、あなたに連絡を取ろうとしたけど、あなたは全然電話に出なかったそうね」
夫は何も言えずに黙っている。
「お母さんと相談してね、あなたにはお仕置きが必要だってことになったの。遺産相続では、どうしても実子であるあなたが有利でしょう。本当は遺言だけでも義母の遺産はほぼ全て私のものになるけど、義母から徹底的に追い詰めていいと許可をもらったから、そうさせてもらうわ」
私は一息ついて、最後に付け加えた。
「そうそう。愛人との子供、本当にあなたの子供かな?」
「な、なんだと?俺の子供に決まってるだろう」
「うん。どうだろうね。だって写真を見たけど、あなたに全然似てないじゃない。子供はね、母親に似るっていうけど、あなたには似てないわね」
実は、私は知っている。愛人に慰謝料を請求するため、探偵に依頼して住所を調べたのだ。その時に撮られた写真に、浮気相手が夫以外の男と映っていた。しかも子供と二人で。夫は愛人から騙されていた。でも、だからと言って親切に教えてやる必要はない。
「なあ、お前、何か知ってるのか?」
「さあ、どうかしら。そういうことにしておこうか」
「おい!」
「まあ、私たち離婚するわけだし、今日はもうこれ以上話し合うこともないわね。あとは弁護士先生を通してね。私に直接連絡してこないで」
私がぴしゃりと言うと、夫は押し黙った。顔色が真っ青だ。手に入ると思っていた遺産ももらえず、三千万もの請求をされ、それとは別に慰謝料まで請求される。ざまあみろ。
こうして、私は私に有利な条件で離婚できた。義母の遺産は、そもそも私がずっと管理していたから、そのままそっくり私が受け取ることになった。その後、元夫は遺産が手に入らず、むしろマイナスだと分かった途端、愛人から捨てられた。慰謝料と養育費を請求されているらしいが、夫はまだあの子供が自分の子供でないことに気づいていない。
私はというと、忙しくも充実した生活を送っている。少し前に就職も決まったし、職場で何かと世話を焼いてくれる、優しい男性の同僚ができた。今度、一緒にデートすることになっている。夫とは全く違う、穏やかそうな人だ。もう恋愛なんてないと思っていたけれど、なんとなく、この人なら大丈夫な気がする。まあ、焦らずゆっくりと、お付き合いしていくつもりだ。



