「おい、足立。頼むよ。お前しかいないんだ」
両手を合わせて拝むように頼んできたのは、上司の佐々木部長だった。中途採用の新人教育を引き受けてほしいという。俺は今、立ち上げたばかりのシステム開発プロジェクトの中心メンバーとして忙しい毎日を送っている。正直、これ以上仕事を増やしたくはなかった。
「お前は教え上手だしな。次のボーナスはしっかり上に言っておくから」
そこまで言われて断れなかった。金に釣られたわけではない。部長にここまで頭を下げられたら、断るのは忍びなかった。
しかし、やってきた新人はとんでもない男だった。
「どうも、高橋です。よろしくっす」
軽い調子で開発部にやってきた高橋君。俺は「分からないことがあったら何でも聞いてくれ」と声をかけた。任せた仕事は単純な書類作業だったが、提出されたものはミスだらけだった。しかも本人は自信満々である。
「これでいいっすか?」
「えっと、まずこの部分なんだけど……」
一つずつ分かりやすいようにミスを指摘すると、高橋君はあからさまに不機嫌になった。「もう一度お願いね」と言っても、返事もせず乱暴に書類を奪っていく。初日からこんな調子で、指導はかなり大変だった。
高橋君は有名な私立大学の出身であることをやたらと自慢してくる。俺が中卒だと知ってから、それはさらにひどくなった。
「俺、大学ではこんな経験をして……あ、すみません。足立係長は中卒だから、大学の話しても分かりませんよね」
申し訳なさそうな顔をしているが、その目は俺を見下す感情で歪んでいた。腹が立たないわけではない。だが、俺は教育係だ。いつかは変わるかもしれない。そう信じて、ぐっとこらえることにした。
入社して一ヶ月が経ち、指導期間が終わっても高橋君は仕事を覚えなかった。見かねた佐々木部長が注意しても、本人はどこ吹く風である。
「部長、あれじゃ仕事は任せられませんよ」
会議室に部長を呼び出して指導結果を伝えると、佐々木部長も困り顔だった。
「でもなあ、試用期間は過ぎてしまった。正社員になった以上、よほどの問題がない限り簡単には解雇できない」
これが日本の労働市場の難しいところだ。そこで俺はある考えを伝えた。
「じゃあ、俺が中心になってるシステム開発の仕事を任せます」
「え、大丈夫なのかい?」
「任せるのは雑用です。正式なメンバーには入れず、あくまでサポートとして。誰でもできる簡単な仕事で、ミスしてもすぐカバーできるような業務にします」
これなら大丈夫だろうと思った。しかし、高橋君は俺の想像をはるかに超える男だった。
入社して半年後、開発部に叫び声が響いた。
「大変だ! 顧客データが全部消えてるぞ!」
佐々木部長の声で部署は一瞬にして阿鼻叫喚の渦に包まれた。顧客データを管理しているのは、開発部が作ったシステムだ。社員全員が原因を探すと、高橋君のパソコンから設定をいじった履歴が見つかった。
「高橋君、もしかして顧客管理のシステムに触ったかな?」
昨日、顧客データを一部コピーしてもらう業務を依頼した。まさかそれだけでデータが消えるはずがないと思いつつ尋ねると、高橋君はけろっとした顔で答えた。
「ああ、なんかいじってたら設定画面ってやつが出てきまして。よくわかんなかったし、画面占領して邪魔だったから、削除って書いてあるボタンを押しました」
思わず頭を抱えた。なぜ簡単な仕事を任せただけなのに、こんな重大な失態になるのか。
「部長、俺の監督責任です。高橋君に仕事を依頼した俺も無関係とは言えません」
「そうっすよ! 足立係長がちゃんと指示しないからこんなことになったんです。ていうか、このシステム作ったの誰ですか? 使い方が分かりづらくて最悪ですね」
高橋君の自分勝手な発言は無視し、データの復旧作業に入った。午後になってようやくデータは元に戻ったが、その分通常業務が溜まってしまった。この日は全員残業して仕事を片付けた。高橋君は一切悪びれることなく、「なんで俺が残業なんか。復旧できたのに」とブツブツ文句を言っていた。
顧客データの削除以降、大きな事件は起こらなかった。小さなトラブルは数えきれないほど起こったが、主に俺が中心となってフォローすることでなんとか乗り切った。これから先もずっとこの調子なのかと気が重くなっていた。
高橋君が開発部に入ってから一年後、突然本人から発表があった。
「あのー、大手企業に転職が決まったんで」
一切仕事ができないのに、なぜか業界大手から内定をもらったのだ。佐々木部長も「どうせ嘘じゃないか。あいつ見えっぱりだし」と言う始末で、社員たちはみんな首をかしげていた。とはいえ、問題がいなくなるならそれに越したことはない。
引き継ぎは半日で終わった。高橋君には俺が中心となっているプロジェクトの簡単な仕事を少しだけ任せていたが、任せていたのは誰でもできる雑用ばかりだったからだ。ところが、本人は「いやあ、疲れた」と肩を回しながら、とんでもないことを口にした。
「いやあ、中卒無能の上司のせいで色々苦労したわ」
「は?」
「なあ、転職先聞いて驚いただろう。高学歴の俺だから大手に転職できたの。あんたと俺じゃ格が違うんだよ。もしこれから先どこかで俺を見かけても、二度と話しかけるなよ」
ヘラヘラと笑いながら、高橋君は俺に罵倒の言葉を浴びせた。もう必要ないと判断したのか、敬語は消えていた。こんなことを言われる筋合いは一切ない。むしろ今まで面倒を見てあげたのだから、感謝してほしいくらいだ。
しかし、高橋君の目は本気だった。この一年で痛いほど理解したが、高橋君はとてもプライドが高い人間だ。自分の学歴にかなりの自信を持っている。そんな人間が中卒の上司に指導されるのは、俺が想像する以上に苦痛だったのだろう。
「なあ、何か言ったらどうだ?」
隣の席の社員が信じられないものを見る目で高橋君を見ている。俺も同じ気持ちだった。
「ああ、そう。分かったよ。喜んで。さて、これで引き継ぎは終わりだね。君の仕事はもうないから、あとはのんびりしてて。転職先でも頑張ってね」
満面の笑顔で言うと、高橋君が口を閉じた。俺の反応に拍子抜けしたようだった。俺は会社に仕事をしに来ているのであって、部下と口喧嘩をするためにいるわけではない。それに高橋君にかまっている暇があるなら、もう少しで完成するシステム開発のプロジェクトを進めておきたい。
高橋君のデスクから離れて自分の持ち場に戻った。不満げに俺を見つめる視線には気づかないふりをして、目の前の仕事に戻った。
二ヶ月後、俺は商談先へ向かう準備を進めていた。高橋君が去ってから開発部は仕事のスピードが断然にアップした。俺だけでなく、みんな高橋君には苦労させられていたらしい。
「よし、行こうか。足立君」
「ええ」
商談へは佐々木部長も同行した。今回の商談で買ってもらいたいのは、俺が中心となって開発を進めていた新システムだ。先日ようやく完成して、日の目を見ることができた。
約束の時間の十分前に相手の会社に到着した。かなり大きな会社で、我が社にはない広いエントランスに圧倒された。大きくて綺麗な会議室に案内されて数分後、商談相手の担当者である営業部の大葉部長が入ってきた。
「どうも、大葉部長。この度は席を設けていただきありがとうございます」
「いえいえ、我々としてもこのシステムは大変注目しておりまして」
「こちらが開発責任者の足立係長です」
佐々木部長に紹介された俺は、笑顔で大葉部長に手を伸ばした。
「初めまして、足立です。本日はよろしくお願いいたします。早速お話を……」
「ああ、ちょっとお待ちください。急な話で申し訳ないのですが、あと一人、うちの社員を参加させてください」
大葉部長が眉を寄せて時計を見る。すでに約束の時間は過ぎていた。遅刻だろうかと佐々木部長と顔を見合わせる。
「すみません。お待たせしました」
「遅いぞ、高橋」
大葉部長の咎めるような声に、俺と佐々木部長は目を丸くした。会議室の扉を開けて入ってきたのは、一ヶ月前にうちを辞めた高橋君だったのだ。俺たちも驚いていたが、高橋君もきょとんとした顔をしている。転職先がこの会社とは聞いていたが、まさか今回の商談に姿を現すとは思っていなかった。
「な、なんでここにいるんだ?」
俺たちは商談で来たのだが、と混乱しながら答えると、高橋君から信じられない言葉が飛び出した。
「確かに今日の商談相手はあんたらの会社だけど、相手は課長じゃなかったのか」
「飯田課長か。あの人は長期出張中だけど」
「大葉部長からAIを使ったシステムの商談って聞いて、飯田課長がそんな仕事してるって聞いてたから、てっきり飯田課長が来るかと思ってたんだよ」
商談の資料は事前に渡していたはずだが、ちゃんと読んでいなかったのか。
「仕事が忙しくて時間がなかったので」
どうやら高橋君は転職先でも色々やらかしているようだ。それにしても、AIを使ったシステムの商談と聞いて、なぜ元上司の俺を真っ先に思い浮かべなかったのか。
「俺のプロジェクトの仕事を少しだけ任せてたよね。なんで商談相手が俺だと思わなかったの?」
「え? あんたのプロジェクトがそんなに重要だったの? 中卒がこんな大きな案件のリーダーやってたなんて知らなかったわ」
思わず頭を抱えそうになったが、大葉部長の前だと思い出してこらえた。
「簡単な仕事ばかり任せていたとはいえ、君にはプロジェクトについて一通り説明したはずだけど」
「そうだっけ?」
どうやらこの元部下は、俺の話をろくに聞いていなかったようだ。もしくは聞いていたが、綺麗さっぱり忘れてしまったのか。普通ならありえないが、高橋君なら仕方ないと思ってしまう自分がいた。
「おい高橋。足立さんはお前の元上司だ。なぜため口なんだ?」
大葉部長の指摘に、高橋君がはっとした顔になった。ようやく今の上司の前だと気づいたようだ。
「大葉部長。こちらも色々と言いたいことはありますが、とりあえず商談を進めてもよろしいでしょうか?」
場を納めたのは佐々木部長だった。このまま高橋君の仕事のできなさを追求したところで時間の無駄だと判断したらしい。
「そうですね。おっしゃる通りです。高橋には後で私の方から話を聞いておきます。では、商談を始めましょう」
その後は俺が中心となって話を進めた。すると、自分がやらかしたことを察したのか、高橋君が失態を取り戻そうとしてか積極的に手を挙げて質問してきた。
「すみません。ちょっといいですか? この部分について質問があるんですけど」
「こういうのは早めにはっきりさせておいた方がいいですよね」
しかし、どの質問も的外れで、大葉部長の表情がさっきから硬い。
「それは先ほど説明した通りです」
呆れ果てた俺は丁寧に答えることをせず、しまいには高橋君の質問を無視して商談を進めた。その対応を責める人はこの場に誰もいなかった。
最初は意気揚々としていた高橋君だったが、誰からも相手にされていないことに気づき、口を閉ざした。
「では、ご提示の内容で契約を進めましょう」
「ありがとうございます」
大葉部長と握手を交わす様子を、高橋君は悔しそうな顔で見ていた。
「そうだ、高橋。一つ聞いておきたいことがあるんだが」
「あ、はい。何でしょう?」
ようやく自分にスポットライトが向けられたと思ったのか、高橋君が顔を輝かせて答える。しかし、大葉部長の口から飛び出したのは、高橋君にとって予想外のものだった。
「履歴書に書いてた内容は嘘だったのか?」
「へ?」
「前職でAI開発の中心メンバーだったという内容だよ。だから今回の会議に、転職したばかりのお前を参加させたんだ。あれが本当なら、商談の最中にあんな質問はしないはずだが。ずっと営業で働いてる俺でも知っている基礎的な内容を尋ねるものだったぞ」
確かに、高橋君の質問は初歩的なものばかりだった。自分に注目を集めるための質問かと思っていたが、まさか履歴書にそんな嘘を記載していたとは。そんなことをすれば、いずれ化けの皮が剥がれて困るのは本人だというのに。どうやら高橋君は先を考えられないタイプのようだった。
「君が在籍していた当時、うちの部署で進めていたプロジェクトは足立のものだけでした。高橋君はプロジェクトのメンバーですらありませんでしたよ」
俺の代わりに佐々木部長が答えた。嘘がバレた高橋君の顔は、見る見るうちに青く変わった。
「そうですか。教えていただきありがとうございます」
「お前とはしっかり話をする必要がありそうだな」
大葉部長のまとう空気が重いものになる。高橋君は顔面から滝のような冷や汗を流していた。
「大葉部長、気をつけてくださいね。高橋君はうちの顧客データを全部消したこともあるので」
「ちょ、おい、何言ってんだお前! 中卒のくせに俺を貶める気か!」
俺が横やりを入れると、高橋君が慌てた様子で口を開いた。
「元上司、今は取引相手の俺にどういう口の聞き方してるの? 社会人として以前の問題だ。いい年をした大人としてありえないよ」
即座に言い返すと、高橋君がぐっと言葉に詰まった。しかし、今更口を閉ざしたところで何もかも遅かった。
「高橋、お前にはほとほと呆れた。この一ヶ月、お前がしでかしたミスはすでに数えきれない。この後すぐ、正直に上に報告するからな」
「え、それってつまりどういうことですか?」
察しの悪すぎる高橋君に、大葉部長は呆れて言葉を失ってしまったようだ。
「簡単に言うと、高橋君は大手企業では使えない人材だってことだよ。まあ、うちでも使えなかったけど。最悪の場合、解雇もあり得るかもね」
代わりに俺が答えると、高橋君はぎょっとした顔になった。
「お、俺が使えないだと!? そんなわけない! 自分が中卒だからって、高学歴の俺を妬んでるのか?」
「いや、もうはっきり言わせてもらうけどな。お前、使えないよ。全くこれっぽっちも使えないだけならまだマシだ。下手に仕事を任せると、とんでもないミスをしでかす。お前はいるだけで迷惑だ」
耐えきれなくなったのか、大葉部長が正直な気持ちを言葉にした。これだけはっきり言えば、さすがの高橋君も理解できたようだ。
「そ、そんなになったら俺どうすりゃいいんだよ」
「知らないよ」
「そ、そうだ! またあんたのところで働かせてくれよ! 短い間とはいえ、一緒に働いた仲間だろ!」
高橋君が俺にすがりつこうとしてきたが、さっと避けた。
「言っただろう。うちでも使えない人材だって。君は仕事ができなさすぎる。性格が良ければまだ救いがあったけど、君は俺のことを学歴で判断して馬鹿にしてきた。仕事もできなくて性格も最悪な部下なんて、絶対にお断りだね」
「そうだな。俺も部長として、お前みたいな人材は採用したくない。二度と俺たちに関わらないでくれ」
佐々木部長の言葉に俺は頷いて同意した。
「大葉部長、今後は高橋君を連れてこないでください」
「もちろんです。高橋にはきちんと処分を下すよう、私の方から上層部にしっかり頼んでおきます」
「ま、待ってください! これからは心を入れ替えて真面目に働きますから!」
高橋君の叫び声に、俺は冷めた声で返した。
「もう遅いよ。誰も君を必要としてない。諦めて処分を待つんだな」
これがとどめになったようだ。高橋君の顔に絶望の感情が広がり、がっくりと肩を落とした。
大葉部長は迅速に動いてくれた。その結果、高橋君は郊外にある工場へ移動となり、現場勤務となった。しかしそこでもミスを連発しているようだ。周りから煙たがられ、まともに仕事もできない状態だとか。
「あの調子では、近いうちに解雇になるでしょうね。だいぶ落ち込んだ様子でしたよ」
外回りで我が社に顔を出した大葉部長が、高橋君のその後について教えてくれた。
「世の中には信じられないくらいのポンコツがいますが、あそこまでの人間は初めて見ました。足立さんも苦労されたでしょう」
「ええ、まあ」
大葉部長の問いかけに、苦笑いで返した。このまま本人が何も努力せず改善しなければ、高橋君の未来はお先真っ暗だろう。しかし、俺にはもう関係のない話だ。
一方で、俺が中心となって開発した新システムは好評で、数多くの企業から契約の話が来ている。来年は会社の売上にも期待が持てるだろう。毎日忙しくて大変だけど、自分の仕事が認められるのは嬉しい。これからも俺はこの会社で一生懸命働いていくつもりだ。



