夫が車に引きずられるように倒れる瞬間、世界が止まった。心臓が喉まで飛び出しそうだった。ママ友のはなさんが運転する車が、私たちに気づいて減速したと思った次の瞬間、そのまま夫の誠さんにぶつかったのだ。
「誠さん!大丈夫?どこか痛い?」
私は必死に駆け寄った。夫は尻もちをついたまま、苦笑いを浮かべている。
「大丈夫だよ。スピード出てなかったし」
慌てて車から飛び出してきたはなさんは、自分のことしか考えていないようだった。
「もう、びっくりしたわ。ブレーキ踏んだのに止まりきれなくて」
彼女はヘラヘラと笑っている。夫を轢いたというのに、謝罪の言葉もなければ心配する様子もない。私の心臓は怒りでさらに速く打ち始めた。夫はそんなはなさんに優しく声をかけた。
「はなさんも無事でよかったです。車は一度点検に出した方がいいですよ」
「そうするわ。それにしても、えみさんの旦那さんが無事でよかった。大ごとにならなくて」
私の怒りは限界に達した。轢かれた本人が気遣うなんておかしい。
「ちょっと誠さん、なんで怒らないの?スピードが出てなくても人身事故よ。下手したら命に関わってたんだから」
「まあまあ、そんなに怒らなくても。心配かけてごめん」
「はなさん、なんで謝らないの?まずは誠さんに謝って、怪我がないか確認するのが普通でしょ」
「そんなに怒ることないじゃない。わざとじゃないんだし、それに旦那さんが大丈夫って言ってるんだから」
「わざととかそういう問題じゃないの。謝罪の言葉が一つもないのがおかしいって言ってるのよ」
「私が悪いわけじゃないでしょ。車が来たのに避けなかった旦那さんにも問題あると思うんだけど」
はなさんは反省するどころか、自分が被害者のような顔をし始めた。日頃から彼女のマウント気質にはイライラさせられていた。地域での付き合いが長く、ボスママ的存在で、私のような新参者を見下すような態度を取ることが多かった。今までは波風を立てたくなくて我慢してきたけど、夫をこんな目に遭わせて黙っているわけにはいかない。
「誠さん、病院に行こう。はなさん、病院代は後でしっかり請求させてもらうから」
「何それ?どうして私が払わなきゃいけないの?大げさすぎるわ。そんなに私を苦しめたいの?」
「念のために病院に行くのは普通でしょ。もし何かあったら責任取れるの?」
「払わないわよ。自分たちが勝手に行くんでしょ」
私は呆れて言葉も出なかった。警察を出せばいい。第三者に入ってもらって白黒つけよう。
「警察に被害届を出すわ」
そう言うと、はなさんはようやく慌て始めた。
「ちょっと待って、そんな大げさにしないでよ」
「はなさんがそういう態度を取るからよ。謝罪もなく誠さんを責めるなんて許せない」
「それなら私にも考えがあるわ」
はなさんはニヤニヤしながら誰かに電話をかけ始めた。夫のようだ。
「ああ、もしもし。私。さっきママ友の旦那さんに車でぶつかったの。軽く当たっただけなのに、病院代払えとか警察に通報するとか言われてるの。あなたの力でどうにかしてよ」
電話の向こうから怒声が聞こえた。
「なんだそのクソみたいな話。俺たちを敵に回すとはいい度胸だ。徹底的にやらせてもらうと言っとけ」
電話を切ったはなさんは、満足そうに私たちを見た。
「えみさんには言ってなかったけど、うちの旦那はヤザなの。通報したら家族全員消すって言ってるわ」
私は驚かなかった。近所で噂くらい聞いていたから。はなさんの夫がやくざ者だということは知っていた。でも、その立場は大したものじゃない。
「はなさんの夫がやくざなのは知ってるわ。でも、それって祖父の組の末端でしょ?大丈夫?」
はなさんの顔色が一瞬で変わった。
「どうして旦那のことを知ってるのよ。誰かと勘違いしてるんじゃないの?」
「はなさんの夫の名前は伊藤正也さんでしょ。組は江口組。この前、ちょうど祖父の話になったときに、知り合いの夫が同じ組にいるって分かったの」
「どうしてそんな話になるのよ」
「祖父は孫をとても可愛がっているの。はなさんの息子と私の息子は同じ保育園に通ってるでしょ。祖父が気づいて、知り合いかどうか私に聞いてきたのよ」
はなさんは焦り始めた。
「ちょっと待って。あなたのおじいさんの組長の名前は何ていうの?」
「私の祖父の名前は江口弘雪よ」
はなさんは慌てて再び夫に電話をかけた。
「嘘でしょ。あなた、名前が一致してるわよ。どうするの?」
「マジで組長の孫ってことか。今すぐ謝罪してなかったことにしてもらえ。このままだと俺がやばいんだ。今すぐそっちに行くから、お前は早く謝れ」
「なんで私が謝らなきゃいけないのよ」
「バカ野郎。俺がどうなってもいいのか。極道の世界を舐めてたら痛い目を見るぞ。俺だけじゃなくてお前も息子もやばいんだ」
はなさんは青ざめた顔で電話を切り、私に向き直った。
「えみさん、さっきはごめんなさい。私が悪かったわ。病院代も払うから、なかったことにしてくれない?」
「謝る相手が違うわ。はなさんがぶつかったのは誠さんでしょ。それに、本当に悪いと思ってるように見えない。私の祖父が組長だからビビってるだけよね」
「悪いと思ってるわ。ごめんなさい。車の調子が悪かったとはいえ、私が注意していればこんなことにならなかった。私が怪我をすればよかったのよ」
「はなさんが怪我をすればよかったなんて思いませんよ。俺は大した怪我じゃない。エミ、もういいだろう。友達なんだから」
誠さんは優しすぎる。本当に危なかったのに、自分を後回しにして他人を優先する。その優しさに私は惹かれたけど、こういう時は腹立たしい。
「自分は悪くないとか、病院は払わないとか言って、挙げ句の果てに夫にどうにかしてもらおうっておかしいでしょ。おじいちゃんが組長だと知らなかったら、私たちは脅かされてたのよ」
「旦那に私が悪いと怒られて反省したの。素直に謝ってるんだから許して」
「それはどうかしら。人の心の中なんて見えないもの」
私が本気で怒っていることに気づいたはなさんは、突然土下座した。
「本当にごめんなさい。許してください」
「ああ、ほら、こんなに反省してるんだから許そうよ」
優しい夫はまんまと彼女の作戦にはまっている。私は余計に腹が立った。
「はなさんの旦那さん、私の祖父も含めて家族全員消すって言ったわよね。言われた祖父本人が知らないなんて変だから、報告するわ」
「私がエミさんの旦那さんにぶつかったのが悪いのよ。組長さんに報告するのだけは勘弁して。聞いちゃったもの。祖父には知る権利があるわ」
はなさんは再び夫に連絡し、事情を説明した。
「あなた、やっぱり私が何を言ってもダメみたい。組長に話すって一点張りよ」
「なんとしてでも組長の孫を説得するんだ。俺が到着するまで阻止しておけ」
電話を切ったはなさんは、必死に私を説得しようとした。
「エミさん、私の旦那がさっきの失礼な態度を謝りたいらしいの。もうすぐ到着するから、考え直してくれない?」
「さっきまでヘラヘラしてたのに、急にしおらしい態度になって。旦那さんに言われて必死なだけでしょう」
「えみさんが組長の孫だって知ってたら、こんなことしなかったわ。組長さんを敵に回そうなんて思わないもの」
「先に自分の夫がヤザだと脅かしたのははなさんでしょ。私の祖父が立場が上だからって私を責めるのはおかしいわ」
その時、はなさんの夫らしき人物が三人の男を従えて現れた。正也と呼ばれるその男は、私の前に立つと頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。さっき俺が言った言葉を取り消してください。組長の孫に喧嘩を売ろうなんてこれっぽっちも思っていません」
「わざわざ駆けつけてきたんですね。そんなに祖父に報告されるのが嫌なんですか?」
「もちろんですよ。あなたのおじいさんは俺にとって神のような存在です。そんな方の機嫌を損ねるような真似はしたくない。兄貴、これどういうことすか?急にここまで車を回せって言われて来たんですけど、俺たち関係ないっすよね」
後ろの男たちが困惑した様子で言うと、正也は怒鳴った。
「お前ら黙ってろ。今まで組長に目をつけられたことなんて一度もなかったのに。俺の運が掛かってんだ」
「やっぱりあなたたち夫婦は自分のことばかり。誠さんの体は気にしないのね。あなたたちを許そうかなと思った私が馬鹿だったわ」
私は祖父に電話をかけた。スピーカーに切り替えて、状況を説明した。
「さっき組の末端の男が、私に向かって家族全員消してやるって言ったの。つまり、おじいちゃんも含まれてると思うけど」
電話の向こうから、低く響く祖父の声が聞こえた。
「まさか。いい度胸してんな。俺があいつを消してやってもいいんだけどな」
はなさん夫婦は震え上がった。
「組長、妻のお友達と思っていたので。そう言っただけで、組長に向かって言ったわけじゃないんです。俺は組長のためなら何でもします」
「組長である俺を好き好んで敵に回す奴なんていねえよな。俺の孫だって知らなかったら、お前は何かしでかしてたかもしれないから、見過ごすわけにはいかねえな」
「申し訳ありません。ちょっと脅かすだけのつもりだったんです」
「言い訳するんじゃねえ。お前はまだ自分の非を認めてない。そんな奴を俺が置いておくと思うか?お前はやくざとしてもう終わりだ」
「何をおっしゃるんですか?組長のためなら何でもします」
「俺の孫に暴言を吐いたのに?今まで散々面倒を見てやったのに。お前なんかもういらない」
「そんなこと言わないでください。俺だって少しは役に立ってきたはずです」
「そうだな。お前も若い頃はそれなりに役に立ったが、もう用済みなんだよ。孫に喧嘩を売ったんだから、厳しく言えばお前は破門だ」
「破門なんて?俺はどうやって生活したらいいんですか?今さら普通の仕事に戻れないことは組長が一番ご存知ですよね。俺には家族もいるんです」
「お前の家族は気の毒だなあ。俺にも家族がいるから、俺の許せない気持ちは分かるだろうよ」
電話が切れた後、はなさんは私に泣きついた。
「えみさん、なんとかして。このままじゃ私たち家族は路頭に迷うわ。そんな姿見たくないでしょ。もう十分反省したし、お金も払うから助けてよ」
自業自得だと思った。しかし、その時またしても心を動かされたのは夫だった。
「はなさんたち反省してるみたいだし、もう許してあげようよ。俺たちと同じくらいの年の息子がいるんだ。子供には罪はないからさ。生活ができなくなったらかわいそうだよ」
誠さんの言葉が胸に刺さった。確かに、子供たちには罪はない。はなさんの涙を見て、もう十分だと思った。
「おじいちゃん、破門はやめてくれないかな?その代わり、警察に通報するから」
「お前がそう言うなら破門はしない。それでいいのか?エミが頼ってくるなんて、よほど腹が立ったんだろう」
「そうだけど、警察に任せようと思う」
「はなさん、それでいいわよね」
「ありがとう。あなた、それでいいわ。それでいいのね」
「おい、正也。逆恨みするなよ。エミたちに手を出したら、俺は許さないからな」
「も、もちろんです。申し訳ありませんでした」
「おじいちゃん、ありがとう。わがまま言ってごめんね」
「いいさ。困ったことがあれば、いつでもおじいちゃんに頼ってきなさい」
最後まで頼りになる祖父を誇らしく思った。
後ろで正也が連れてきた男たちがひそひそと話している。
「兄貴、完全に組長に嫌われましたよね。俺たち今まで兄貴についてきましたけど、全部水の泡ですよ。他の兄貴につけばよかった」
「俺たちの人生ミスです。破門は免れても、組長に嫌われたらもう終わりですね」
「兄貴、ご愁傷様です。組で俺たちを見かけても声を掛けないでくださいね。兄貴と話したら俺らも組長に嫌われちまうんで」
「なんて薄情な奴らなんだ。今まで俺がどれだけ面倒を見てやったと思ってるんだ」
「そんなこと言ったって、兄貴が組長を怒らせるから悪いんでしょ。破門にならずに済んだって喜んでる場合じゃないかもしれませんね。組でぼっちなんてやってけないし、プライドもズタボロじゃないですか。そういうことなんで俺ら行きますわ。組で地味ないじめに合わないように頑張ってくださいね」
やくざたちは正也を罵倒しながら去っていった。黙ってその様子を見ていたはなさんの顔は、今後の生活への不安で歪んでいた。
私はそのまま警察に通報した。はなさんはその場で現行犯逮捕された。引き逃げ容疑で、裁判の結果、100万円の罰金と夫の治療費および損害賠償として2000万円の支払いを命じられた。はなさんの夫も脅迫罪で逮捕され、1000万円の損害賠償を命じられた。
賠償金の支払いで、はなさん夫婦は金銭的に追い詰められていった。はなさんは近所でアルバイトを探したが見つからず、夫は釈放後に組へ戻ったが、あのやくざたちが言った通り、毎日ひどい嫌がらせを受けているらしい。その様子は祖父の耳にも届いているようだが、祖父は見て見ぬふりをして助けてもらえないそうだ。正也は荒れ、酒に溺れるようになり、「こうなったのも全部お前のせいだ」と、来る日も来る日もはなさんを責めた。毎日に耐えかねたはなさんは自ら離婚を申し出て、息子たちと共に実家で暮らすことを選んだそうだ。
一方、私たちは病院に急いだ。結果は軽い打撲。夫に大事がなくて、本当に良かった。
家に帰って、夫は申し訳なさそうに言った。
「ごめんね。迷惑かけて」
「迷惑じゃないよ。私は誠さんのことが心配なだけ。誠さんが優しいのは素敵なことよ。でも、自分のことを後回しにしすぎ」
「俺はエミが傷つくようなことがあったら嫌だよ」
「その気持ち、私も一緒よ。だから、これからはもう少し自分のことも大切にしてね」
「そうだな。俺は今までエミの気持ちを考えられてなかったね。気づかせてくれてありがとう」
夫の優しさは変わらない。でも、今回のことで私は気づいた。この人が私にとってどれほど大切な存在か、そして、私がこの人を守っていくんだと。
心優しい夫と一緒にいられる幸せを噛みしめながら、私は強くそう思った。



