幼稚園の門の前で、俺はため息を噛み殺した。目の前には、いつものように高飛車な笑みを浮かべる北園さんがいる。彼女は数人のママたちを従えるようにして、こちらを値踏みするように見下ろしてきた。
「ちょっとは気を使ったらどうですか?皆さんきちんとした格好で来てるでしょう?」
俺は今日が休みであることを理由に、ラフな私服で来てしまっていた。確かに周りのママたちに比べると浮いているかもしれない。だが、それが何か問題なのだろうか。
「今日はお休みで、ちょっとラフな格好すぎましたかね」
そう言って愛想笑いを浮かべると、北園さんはますますつけ上がる。
「ラフって、もしかして着る服がないの?お子さんにはきちんとしたものを買ってあげてるのかしら?心配になっちゃうわ」
「ご心配ありがとうございます。でも、幼稚園では着心地の良さが一番だと思うんですよ」
素人が何を言ってるの、と彼女は鼻で笑った。
「私はね、今一番人気のあるデザイナーの服を着せているのよ。本当に一流なんだから。その人を雇ってから、売り上げが年八十億に跳ね上がったの。貧乏人のあなたには想像もつかないでしょうけど」
彼女はここぞとばかりに自慢話を続ける。普段から嫌みの多い人物だとは知っていたが、今日は特にひどい。言い返してやりたい気持ちは山々だったが、ここは幼稚園だ。娘たちの前で醜い争いをさらしたくはない。
俺はにっこりと笑って言ってやった。
「そのデザイナー、俺なんですけどね」
一瞬、彼女の顔が固まった。その隙に俺はその場を離れ、帰路についた。まさかこの後、これが警察沙汰にまで発展するとは、この時は想像もしていなかった。
俺の名前は山中達也。数年前に妻と離婚した。学生時代からの彼女と長年付き合った末に別れ、もう結婚は無理かと思っていた時期に今の元妻と出会った。彼女があっさり妊娠したことにより、そのまま結婚することになったのだ。
互いのことを深く知らないまま、結婚生活はスタートした。育った環境が違いすぎた。普通のサラリーマン家庭で育った俺とは違い、裕福な家庭で育った彼女は、選ぶもの全てが高級指向だった。家事や育児に関しても、子供が生まれる前から家政婦やベビーシッターを雇うことを明言していた。
不安を感じながらも、俺は子供の誕生を心待ちにしていた。どうか無事に生まれてきてほしい。そう願いながら、妻の出産に立ち会った。
生まれたのは女の子だった。可愛い子供に対して、二人とも愛情はあった。それでも価値観の違いは喧嘩の種となり、娘が生まれてからは言い争うことがさらに増えた。娘が一歳半になった頃、妻から離婚を切り出された。
妻が家を出ていき、何も知らない娘に俺は申し訳なく思った。二人の仲が悪くなったことが、この子の人生を大きく変えてしまうのだ。反省した俺は、娘のために話し合いをしようと、娘を連れて妻の実家を訪ねた。
しかし、そこで向こうの両親から信じられない言葉を聞かされた。
「今後のこともあるし、その子は君が引き取ってくれないか?」
「まだこんなに小さいんです。母親が一緒にいてあげるべきです。俺も今までの態度を改めます。娘のためにも、帰ってきてほしいんです」
俺の腕の中ですやすやと眠る娘の温もりを感じながら、泣き出しそうになるのを必死にこらえていった。だが、彼女の両親は冷淡だった。
「お互い、育った環境の違いは大きいわ。初めから釣り合わない相手だったのよ。娘がもし将来再婚することになったら、子供がいると言うのは妨げになるでしょう。責任を取って、引き取ってくださいな」
俺は言葉を失った。彼らはこの子のことを、自分たちの孫だと思っていないのだろうか。妻である彼女は両親の後ろからこちらを見ていたが、その表情からは、悲しいのか困っているのか、よくわからなかった。
最後だと思って、俺は彼女に問いかけた。
「君はそれでいいのか?自分の娘だろう」
彼女は両親の後ろで、こくりと頷いてみせた。その瞬間、目の前の人間たちに対する絶望感と、この娘は俺が守らなければならないという使命感が、ふつふつと湧き上がってきた。
「わかりました。俺が引き取ります」
そうして俺は娘を引き取り、シングルファザーとなった。それからは娘を育てることが、俺の人生の中心になった。両親にも協力してもらい、仕事をしながらも娘に寂しい思いをさせないように、大切に育ててきた。
時間が経つのは早いもので、娘も今年の春から幼稚園に通い始めた。毎日の送り迎えはできるだけ俺が行ってあげたいと思っていたため、自然にママたちの話の輪の中に入る機会が増え、世の中にはこういうコミュニティがあるんだなと関心していた。
そんなある日、幼稚園へ娘を送った後、数人のママたちが集まって「これからお茶でもしましょう」という流れになった。俺は複数のママたちの中にパパが一人という状況を想像しただけでぞっとしたが、その日は時間があったため、娘のためにも参加することにした。
そこでは、同じクラスの北園さんというママを中心に、いろいろな話が飛び交っていた。主にご主人の不満や先生への不満などが話題の中心だった。俺はなんとなく相槌を打ちながら、大人しくしていた。
「あら、山中さんはシングルでしたよね。男の人だし、大変なんじゃない?」
初めての会話にも関わらず、ずいぶんと突っ込んだ内容だったので少し嫌な気もしたが、愛想を合わせて頷いておいた。すると北園さんは、自分の話を始めた。
「うちの主人なんか仕事一筋で、子育てなんて全く関心がないのよ。まあ、大手のアパレル会社の社長という立場だから、仕方ないのよね」
「社長さんなんですね。それはお忙しいでしょう」
俺は適当に受け流したが、その後も北園さんの自慢話に散々付き合わされ、その日はようやくお開きとなった。疲れつつも終わったことに少しほっとしながら帰ろうとすると、北園さんが帰ったのを見計らったかのように、他のママたちが寄ってきた。
「山中さん、大変だったわね。あの人、いつもあんななのよ」
「そうそう。旦那の自慢話を聞かせるくせに、人の話には興味がないみたい」
どうやら北園さんは、周囲のママたちからあまりよく思われていないらしかった。有名企業の社長夫人ということで、よくも悪くも一目置かれているのだろう。
ある日、いつものように娘を迎えに行くと、娘が一人でぽつんと遊んでいるのが見えた。少し元気がないように見えて、俺は心配になり声をかけた。
「何か元気ないみたいだけど、どこか痛い?」
「うん。あのね、幼稚園で意地悪する子がいるの」
話を聞くと、ある女の子が娘のことを仲間外れにしようと言い出したという。周りの子もそれに従い、仲の良かった子たちも遊んでくれなくなったらしい。幼稚園の幼い子たちがそんなことをするのかと驚く反面、ここは大人が冷静に対処しなければと気持ちを落ち着けた。
「その子のお名前、分かるかな?」
娘の口から出てきた名前を聞いて、俺ははっとした。娘は確かに「北園」と言ったのだ。
俺はすぐに担任の先生に連絡を取り、同じクラスの北園さんという女の子から娘が仲間外れにされているという内容を伝えた。すると先生は、驚いた様子もなく俺の話を聞いている。その様子に、少し違和感を覚えた。
「先生、もしかしてこういうことは初めてじゃないんじゃないですか?以前にも同じようなことがあったんですか?」
「ええ、実はその子が定期的にターゲットを決めて、一人を仲間外れにしているようなんです。中には泣いてしまう子もいて、幼稚園でも問題になっていまして……」
今回は幼稚園側から親御さんに話をしてくださるということになり、俺はひとまず納得した。
数日後、仕事中に幼稚園から連絡が入った。娘が熱を出したのかと慌てて電話に出ると、件の北園さんの話だった。
「お忙しいところ申し訳ありません。幼稚園側から北園さんへ今回の件について話をしたところ、今日時間があれば当事者同士で話したいとおっしゃっていまして」
「話し合いたいというのは、謝罪するという話ですか?」
「いえ、それがですね……」
先生はとても言いにくそうに続けた。北園さんのママは注意されたことで逆上して、「事実無根だ。うちの子がやった証拠があるのか」と怒っているとのことだった。先生に言いつけた親と話させろと、随分と息巻いているらしい。
「あの、すみません。今は仕事で出張中でして。今日明日は迎えも両親に頼んでいるので、対応できません」
「それは困りましたね……。わかりました。山中さんのご事情もお伝えした上で、改めて北園さんへ行ってもらうようにします」
先生は納得してくださったが、俺は後ろ髪を引かれる思いで仕事をこなした。大きな問題になるのではないかと心配していたが、先生たちがうまく取り持ってくれたおかげか、それ以降娘に対する嫌がらせは起こっていないようだった。
俺も娘も、また安心して幼稚園へ通えるようになったが、偶然北園さんと出くわした時はとても気まずかった。
「おはようございます」
たった一回の問題でこれから敵対関係になるのは心情的に嫌だと思ったので、できるだけ親しみを込めて挨拶したのだが、それは完全にスルーされてしまった。それだけではなく、すれ違い様に「片親のくせに、偉そうに」とささやかれたのである。
そういった態度は、出会うたびに繰り返された。俺は彼女と同じように振る舞うことはせず、ただ平和に娘が楽しく幼稚園生活を送ってくれることだけを願っていた。しかし、相手にしていないのにも関わらず、しばらくそれは止むことはなかった。俺も、次第に悪意をぶつけられることに嫌気がさしていった。
その日、俺は幼稚園の送り迎え以外に外出する用事がなかったこともあり、いつもよりラフな格好で娘を幼稚園へ送った。帰り道、北園さんが数名のママたちと輪を作って話し込んでいるのに気づき、俺はできるだけ気づかれないように通り過ぎようとした。しかし、そういう時に限って気づかれてしまうものだ。
俺は何を言われるのだろうと、思わず身構えていると、北園さんは珍しく柔らかい口調で話しかけてきた。
「あら、誰かと思えば山中さん。今日はいつもと雰囲気が違いますね」
柔らかいと思ったのは勘違いだった。彼女は単純に、にやにやとこちらをバカにしているような態度だったのだ。俺は愛想笑いでその場を切り抜けようとしたが、そうは問屋が卸さない。
「ちょっとは気を使ったらどうですか?皆さんきちんとした格好で来てるでしょう?」
周囲のママたちは同意するでもなく、苦笑いを浮かべていた。
「今日はお休みで、ちょっとラフな格好すぎましたかね」
「へえ。ラフって、もしかして着る服ないの?かわいそうね。お子さんにはきちんとしたものを買ってあげてるのかしら?心配になっちゃうわ」
俺はため息を噛み殺して、微笑み返した。俺が言い返さないのをいいことに、北園さんはますますヒートアップしていく。
「私は子供にはね、今一番人気のあるデザイナーの服を着せているのよ。女の子なんだし、もう少し考えてあげたらどう?今のうちからセンスのあるものを身につける方がいいに決まっているもの」
周りのママたちが一人、二人といなくなる間に、俺は北園さんの自慢話や嫌みを聞く役をすっかり引き受けてしまったようだった。
「それは素晴らしい考えですね。でも、幼稚園では着心地の良さも大切だと思いますよ」
「素人が何言ってるのよ。その人気デザイナーはね、本当に一流なの。ここだけの話、その人を雇ってから売り上げが年八十億に跳ね上がったの。それくらいすごいってことよ。あなたには想像もつかないでしょうけど」
「そうでしたか」
できるだけ相手の挑発に乗らないように、感情を殺した。心の中では彼女への不快感がちくちくと刺激を続けていたが、ここで争い事を起こすのは娘にも悪いような気がして、我慢したのだった。
周囲にすっかり人もいなくなり、俺はそろそろ潮時だと思った。
「では、これで失礼します」
まだ話したそうな表情の北園さんを置いて、その場を立ち去った。
それから数日後、俺は北園の社長と商談の席についていた。北園の社長というのは、あの北園さんのご主人である。幼稚園で俺のデザインした服を着ている園児には気がついていた。北園さんの娘さんも、その一人だ。
何を隠そう、彼女が言っていた「今人気のデザイナー」とは、俺のことだったのだ。彼女の自慢話では、俺のおかげで年商八十億に跳ね上がったらしい。俺を目の前にして、あれだけ会社自慢やデザイナー自慢をしていたという滑稽な状況に、正直俺は面食らっていた。
今日は昨年から契約関係にあるこの会社と、事業拡大を視野に入れた新たな契約を結ぶ予定だった。だが、俺は社長に切り出した。
「北園の社長、契約の件ですが、今回はお断りしようと思ってきました」
「え、ちょ、ちょっと、それは困ります。今までお互いにうまくやってきたじゃないですか。どうして急に?」
戸惑いを隠しきれない社長に、俺は言いにくいことではあったが、思い切って話すことにした。
「個人的なことで申し訳ないのですが、うちの娘と社長のお子さんは、同じ幼稚園の同じクラスなんです。そこで、少し問題がありまして……」
俺は、娘が仲間外れにされたことから始まった数々の嫌がらせや、妻である北園さんからの陰口のせいで、社長にまで不信感を抱くようになってしまったことを打ち明けた。
「クリエイティブな仕事なので、大きな仕事を一緒にやっていく相手とは信頼関係が大切だと思っているんです。こんな気持ちでは、いいものは生まれないと思います。お互いのためにも、再契約は見送りましょう」
俺の思い詰めた表情を見て、これは大変なことが起きていると悟った様子の社長は、必死で食い下がった。
「私からも謝罪いたします。もちろん、妻も連れてきて謝罪させます。本当に申し訳ない。どうか、契約の件を考え直してもらえないでしょうか?」
社長の必死の姿に、俺はこれ以上強く言うことができなかった。
「少し考えさせてください」
そうだけ伝え、その日は契約を結ばずに帰ることにした。
それからしばらくの間、北園の社長からも夫人からも、何の音沙汰もなかった。契約も保留のまま、宙ぶらりんの状況が続いた。
ことが動いたのは、一ヶ月ほどが経った時だ。幼稚園から、突然北園さん親子が姿を消した。周囲のママたちから聞いたところによると、ご主人と離婚して引っ越してしまったらしい。約束の謝罪もなく、契約も結局結ばずじまいだったか、と思っていると、北園の社長から連絡が入った。
待ち合わせの時間に訪れたのは、北園の社長一人だった。
「その怪我、どうされたんですか?」
社長は目の周りに青痣を作っていて、俺は驚いて尋ねた。
「謝罪するように妻を説得しようとしたんですが、逆上されましてね」
社長の話によると、夫人は元々カッとなりやすい性格で、言い争いになると決まって手当たり次第に物を投げつけてくるのが当たり前だったらしい。今回は社長も引くことができないと思い、何度も説得を試みたが、言い争いの最中に運悪く硬いものが目に当たってしまったという。出血に驚いた秘書が通報してしまい、警察沙汰になってしまったのだ。
「そんなことがあったんですか?なんだか申し訳ないです。俺のせいで」
「いえ、あなたは何も悪くありません。妻の悪いことを認めない人間性には、私もほとほと呆れてしまいました。それで離婚を決めて、今は子供の親権について争っているところです」
警察沙汰になったのは今回が初めてではなかったらしく、離婚に関しては全面的に妻に原因があると認められたようだ。慰謝料も一切なく、妻は家を追い出されたという。それを聞いて、俺はやり切れない思いがした。
「大変でしたね。私だけの謝罪になってしまうが、本当に申し訳ないことをしました。どうか、許していただきたい。もう一度、契約を結んでいただけないでしょうか?」
社長は深々と頭を下げた。それを見た俺は、社長の誠意を感じ、もう一度契約を結ぶ決意をした。
そして、それから数ヶ月後、社長から報告を受けた。
「私も正式にシングルファザーになったよ」
「親権、取り戻せたんですね」
元夫人の金銭感覚が、親権を取り戻す大きな要因になったらしい。家を出た後、元夫人は生活の立て直しのためにパートの仕事を始めたそうだが、これまでのセレブ生活が身についていたせいで、金銭感覚が麻痺していた。稼ぎが少なくなったにも関わらず、これまでの習慣を変えられなかったのである。そして社長が子供のために渡していた養育費も自分のために使い込んでいて、裁判ではそのことが問題とされ、親権は社長が持つことになったという。
「じゃあ、今彼女はどうしてるんですか?」
「実家に戻ってると思いますよ。あの両親は厳しい方たちだったから、きっと実家では肩身が狭いだろうね。まあ、でも娘が戻ってきたから、私にはもう関係のないことだ。達也君、先輩としてアドバイスを頼むよ」
「俺が先輩?……わかりました。お互い、頑張りましょう」
それから俺と社長はタッグを組み、様々なアイデアとチャンスに恵まれ、仕事は大成功を収めた。それとは別に、子育てに不慣れな父親同士ということもあり、社長とは仕事だけでなく、子育ての悩みなどいろいろな話ができる仲になった。これからもお互いを励まし合いながら、仕事のパートナーとしても、二人で力を合わせて頑張っていこうと思っている。



