12月19日の夕方、台所でおせち料理の下準備をしていた私の耳に、息子の声が飛び込んできた。忙しなく包丁を動かしていた手が、思わず止まる。
「え、明後日って…31日よね。お正月だけど」
私はしゃもじを握りしめながら、確認するように尋ねた。
「うん。俺たち旅行行くから、よろしく」
息子の声は、まるで宅配便の手配をするかのように軽やかだった。
「ちょっと待って。私たちにも予定が…」
言葉を続けようとした瞬間、息子はもう話を半分しか聞いていない様子だった。
「じゃ、31日の朝に連れてくから」
一方的な通告に、私の胸に小さな違和感が広がっていく。
看護師として働きながら、今年こそは夫と二人でゆっくり過ごそうと決めていた正月。丁寧に準備してきたおせち料理。二人だけの穏やかな時間を夢見ていた矢先の、この電話だった。
「正一。お母さんにも予定があるのよ。お父さんと二人で…」
私が必死に説明しようとすると、息子の声が冷たく刺さる。
「何言ってんの?親なら孫の面倒を見るの、当たり前でしょ」
当たり前。その言葉が私の心に深く突き刺さった。
しゃもじを握りしめながら、これまでの五年間が走馬灯のように浮かんでくる。
息子夫婦が結婚した時、新居の頭金として三百万円を渡したことを思い出す。
「二人の新しい門出だから」
そう言って笑顔で渡した私に、息子と直美さんは何度も頭を下げてくれた。
「ありがとうございます、お母さん」
あの頃の感謝の言葉が、今も耳に残っている。
三年前、孫が生まれた時のことも鮮明に思い出される。入院費五十万円を全額負担し、直美さんの実家が遠方だったため、一ヶ月間毎日通って育児を手伝った。夜泣きの対応、料理、洗濯、全て無償で引き受けたのだ。
それからも月に二、三回は孫を預かり、急な予定でも断ったことは一度もない。誕生日やクリスマスには毎回三万から五万円のプレゼントを用意してきた。総額にすれば五百万円以上の援助だろうか。時間にすれば二千四百時間を超えるサポートを続けてきた。
でも、いつからだろう。息子夫婦の「ありがとう」が「当然」に変わっていったのは。「助かります」という言葉が「やって当たり前」に変わっていったのは。
電話を切った後も、私の手は震えていた。夫の高志が心配そうに台所へやってくる。
「美代、大丈夫か?」
「ええ、でも…少し驚いたわ」
しかし、その夜のことだ。再び息子から電話がかかってきたのは、午後八時を過ぎた頃だった。
「あ、母さん。子供のこと、ちょっと詳細伝えとくわ」
息子の声は相変わらず軽やかだ。
「あの…正一。お母さん、やっぱり…」
「何?」
不機嫌そうな声に、私の言葉が詰まる。
「お父さんと正月の予定を立てていたから…」
「は?今更何言ってんの?俺、旅行の予約取ってるって言ったよね」
息子の声が、明らかに苛立ちを帯びてきた。
「あ、それでさ、子供の着替え三日分と、おもちゃと好きなDVDも持ってくから」
「三日分って…」
「簡単に見るの。当たり前じゃん。旅行を三日間…かんだって言ったよね」
私が言葉を探していると、息子は続ける。
「母さん、正月なんて暇でしょ。どうせ家にいるんだから、同じじゃん」
暇。その言葉が、私の心に重くのしかかる。看護師として週五日働き、この年末も二十八日まで勤務していたというのに。
「あ、お母さん」
突然、直美さんの声に変わった。
「食事もお願いしますね。うちの子、好き嫌い多いんで、ちゃんと食べさせてくださいね」
「でも、おせち料理は…」
「おせち、子供食べませんよ。ちゃんと子供用の料理、作ってください」
直美さんの声は、まるで当然のことを言うかのように軽やかだった。
「それと、アレルギーもあるんで気をつけてくださいね。何かあったら困りますから」
責任だけは押し付けられる。そんな思いが胸をよぎる。
電話を切って三十分後、また息子から連絡が入った。
「あ、母さん。もう一つ忘れてた」
私はもう疲れた声で答えるしかなかった。
「子供、夜九時には寝かせてな。規則正しい生活、大事だから」
「九時…」
「お母さん、簡単でしょ。女やの金…」
「は?母さん、何時代の人?今時、女やの金なんて聞く人いないって」
息子の言葉に、私の中で何かが音を立てて崩れていくような感覚があった。
「母さん、看護師でしょ。子供の面倒を見るの、仕事みたいなもんじゃん」
「看護師と子育ては違うわよ」
「同じようなもんでしょ。プロなんだから、楽勝でしょ」
プロ。仕事を軽視された気持ちになる。
そして息子は、決定的な言葉を口にした。
「あ、そうだ。母さん、もし無理なら、直美の母親呼ぶけど」
「え?」
「向こうのおばあちゃんは、孫可愛がってくれるし。料理も上手だし」
その言葉に、私は言葉を失った。
「まあ、母さんでいいけどね。向こう遠いし、交通費もったいないから」
交通費がもったいないから。私はコスト削減の道具なのでしょうか。
通話はそこで終わった。しかし、その直後だ。完全に切れていなかったスピーカーから、息子夫婦の会話が聞こえてきたのだ。
「よし、これで母さんに押し付けられるな」
息子の声がはっきりと聞こえる。
「本当に助かるわ。沖縄三日間、楽しみ」
直美さんの弾んだ声。
「太郎の母さん、正月なんてどうせ家でゴロゴロしてるだけだし」
「しかも、ただだしね。ベビーシッター頼んだら十万円くらいかかるのに」
隣で一緒に聞いていた夫の高志が、拳を握りしめる。
「でも、お母さんの料理、子供あんまり食べないのよね」
「まあ、古臭い味付けだからな。うちの母さん、センスは出尽くしてるし」
「私のお母さんの料理は美味しいのにね」
「だよな。でも、向こうに頼むと交通費で三万くらいかかるし。お母さん、近くて便利よね」
「都合いいわ」
「そうそう。使える時に使わないと」
使える時に使う。その言葉が、私の心臓を締め付ける。
「もしお母さんが断ったらどうする?」
直美さんの質問に、息子が笑いながら答えた。
「断るわけないじゃん。あんな暇人、他にやることないんだから」
「そうよね。私たちに必要とされることが、生きがいみたいなもんでしょう」
「孫に会えるだけで喜ぶタイプだし。ちょろいもんよ」
ちょろい。その言葉が、私の全てを否定するかのように響いた。
「じゃあ、これからもどんどん頼んじゃおうかな」
「いいね。無料ベビーシッター最高」
二人の笑い声が、受話器の向こうで響いていた。
やがて電話が完全に切れる。私と高志は、二人とも言葉を失ったまま、ただ見つめ合っていた。
「美代、今の聞いたか?」
高志の声が、怒りを抑えたように低く震えている。
「ええ…」
「あいつら…」
私の目から涙がこぼれ落ちた。暇人。ちょろい。使える時に使う。無料ベビーシッター。これが息子の本音だったのだ。
十二月三十一日の朝、九時きっかりにチャイムが鳴り響いた。一晩、夫と話し合った末、私たちは決断していた。今回こそはきちんと断ろう。そう心に決めて、玄関のドアへ向かう。
しかし、ドアを開ける前に息子の大きな声が飛び込んできた。
「母さん、急いでるから!早く早く!」
直美さんの焦った声も聞こえてくる。ドアを開けると、旅行モード全開の二人が三歳の孫を抱えていた。
「あの、正一。お母さん、昨日の電話のこと…」
私が話し始めようとした瞬間、息子が言葉を遮った。
「あ、母さん、悪い。超急いでるから、話は後で」
「お母さん、これ、子供の荷物です」
直美さんが玄関に大きなバッグをドンと置く。
「ちょっと待って、お母さん」
「やっぱり母さん。マジで急いでるから、飛行機の時間あるの」
息子は私の言葉など聞く気もないようだった。そして、抱えていた孫を私の腕に押し付ける。
「はい。よろしく」
「ママ…」
孫が泣き出した。
「お母さん、よろしくお願いしますね」
直美さんはもう車に向かって走り出している。
「じゃ、三日後に迎えに来るから」
息子も車へ向かった。
「待って!正一!お母さん、断るって!」
私は必死に声を張り上げる。しかし、息子は振り返ることもなく、手を振るだけだった。
私がまだ何か言おうとすると、夫の高志が玄関から駆け寄ってくる。
「おい、正一、待て!」
「父さんも…何急いでるんだよ」
息子が車の窓を開けて、不機嫌そうに答えた。
「お前、母さんの話を聞け」
「父さん、母さんの味方ばっかりしないでよ。孫の面倒を見るくらい、親として当然でしょう」
「当然?」
高志の声が怒りで震えている。
「お父さん、邪魔しないでください。私たち、楽しみにしてたんです」
直美さんの声が、まるで私たちを悪者扱いするかのように響いた。
「そうそう。母さんたち、どうせ家にいるだけなんだから、孫の方が有意義でしょ」
息子がそう言い放つと、車のエンジンをかける。
「正一!」
高志が叫んだが、車はもう動き出していた。
私たち夫婦は呆然と立ち尽くす。泣き続ける孫を抱えた私。去っていく車を、ただ見つめることしかできなかった。
やがて車が見えなくなると、重い沈黙が降りてくる。
「美代、もう限界だろう」
高志が低い声でつぶやいた。私は孫を何とか落ち着かせながら、小さく頷いた。涙声になっているのが、自分でも分かる。
リビングに戻り、ソファに座った。孫はようやく泣きやんで、おもちゃで遊び始めている。高志と私、二人で見つめ合った。
「あいつら…もう息子夫婦じゃない。人として最低だ」
高志の言葉に、私も同じ思いを抱いていた。
「私、何のためにこんなに尽くしてきたんでしょう」
声が震える。
「お前は何も悪くない。悪いのは、お前の献身を当たり前だと思ってるあいつらだ」
高志が私の手を握ってくれた。その温かさに、私の中で何かが決壊する。
「あなた…私から提案してもいいかしら」
その言葉を口にした瞬間、高志が驚いたように私を見つめた。
「美代?」
「私、もう我慢したくない。昨日の電話…『ちょろい』『無料ベビーシッター』…思い出すだけで胸が苦しくなる。もういいの。親としての勤めは、十分果たしたわ」
私の声は、もう震えていなかった。
「そうだな。俺も同じ気持ちだ」
高志が力強く頷く。
そして私は決意を口にした。
「あの子たち、三日間沖縄を楽しむのよね」
「ああ」
「だったら、私たちも三日間…いえ、もっと長く自由を楽しみましょう」
「どういう意味だ?」
高志が身を乗り出す。
「姿を消すの。孫を連れて。私の妹が北海道にいるでしょう。そこに行くわ」
私の言葉に、高志が目を見開いた。
「本当に…大丈夫か?」
「孫はちゃんと預かるわ。でも、私たちの条件で。私たちの好きな場所で」
高志は私の目を見つめ、その表情が次第に変わっていった。そして力強く頷く。
「わかった。徹底的にやろう」
「今日の昼には出発するわ。北海道の妹にはもう連絡済みよ。あなたは家に残って、息子たちが帰ってきた時の対応をお願い」
私の計画を聞いて、高志が小さく笑った。
「あいつらの顔、楽しみだな」
「電話もメールも、一切無視するわ。三日間…いえ、一週間は帰らない。徹底的にやるの」
「ああ」
「もう、都合のいい母親は終わりにするの」
その言葉を口にした瞬間、私の中で長年の我慢が溶けていくのを感じた。高志が立ち上がり、私を優しく抱きしめてくれる。
「美代、よく決断した。ありがとう」
「あなたがいてくれて…」
私たちは固く手を握り合った。もう、後戻りはしない。孫は無邪気に遊んでいる。その姿を見ながら、私は荷造りを始めることにした。新しい一歩を踏み出す時が来たのだ。
荷造りを始めた私の手は、不思議なほど落ち着いていた。孫の着替えや必要なものを丁寧にバッグに詰めていく。自分の荷物も、手際よくまとめた。そして台所へ向かう。昨日から丁寧に作ってきたおせち料理を、一つ一つ容器に移していった。
「おせち、持っていくのか?」
高志が台所に入ってきて尋ねる。
「ええ。せっかく作ったもの。妹と一緒に食べるわ」
荷造りが終わると、私は一通のメモを書いた。
『正一へ。孫はちゃんと預かりました。でも、私にも都合があります。連絡は控えてください。母より』
「これ、あなたから渡しておいて」
「わかった」
午後一時、タクシーが家の前に到着した。玄関で高志と向かい合う。
「気をつけてな」
「ええ。あなたも…あいつらが帰ってきたら、思い知らせてやるのよ」
高志の目には、静かな決意が宿っていた。
「楽しみにしてるわ」
私は微笑み、孫を抱いてタクシーに乗り込んだ。窓の外を眺めながら、心の中でつぶやく。
『さようなら、都合のいい母親。これからは、私の人生を生きるわ』
新幹線の中、窓の外を流れる景色を眺めながら、不思議な解放感が胸に広がっていく。隣で眠る孫の寝顔を見つめた。この子に罪はない。ただ、親である息子夫婦に教えなければならないことがあるのだ。
夕方、札幌に到着した。駅で待っていた妹の美智子が、大きく手を振っている。
「美代、久しぶり!」
美智子が駆け寄ってきて、私を抱きしめてくれた。
「美智子、ありがとう。急にお願いしてごめんね」
「いいのよ。電話で聞いたわ。あの息子、ひどいわね」
妹は私より十歳年下だ。結婚して札幌に住み、もう三十年以上になる。
「ええ、でも…もう大丈夫。私、変わることにしたから」
「そうよ。それでいいのよ。さあ、お正月を楽しみましょう」
美智子の家は、温かい雰囲気に包まれていた。広いリビング。暖炉の火が優しく揺れている。
「このおせち、相変わらず美味しいわね」
美智子が私の作ったおせち料理を味わいながら言った。
「正一は『古臭い』って言ってたけど、バカね。こんなに丁寧に作られた料理、最高じゃない」
妹の言葉に、私の目頭が熱くなる。
「ありがとう」
「泣かないで。これからは、自分のために生きるのよ」
美智子が私の手を握ってくれた。
「ええ、そうするわ」
大晦日の夜、除夜の鐘を二人で聞いた。孫も一緒に新年を迎える。
「あけましておめでとう」
「おめでとう、美代」
美智子と乾杯した。
「不思議ね。こんなに穏やかな気持ち、何年ぶりかしら」
窓の外には、雪が静かに降り始めていた。
「ずっと息子たちに振り回されてたものね」
「でも、もう違うわ。これからは、私の人生よ」
私の言葉に、美智子が優しく微笑む。
一方、その頃。息子夫婦は沖縄のビーチリゾートでくつろいでいた。高級ホテルのプールサイド。カクテルを片手に笑顔の二人。
「やっぱ沖縄最高だな」
「本当。三日間、満喫しましょう」
「母さんに子供を預けといて、正解だったわ」
息子の言葉に、直美さんが笑う。
「そうよね。ただで預かってくれるし、便利よね」
「親孝行させてやってるんだから、感謝して欲しいくらいだわ」
「そうそう。孫に会えて光栄でしょう」
二人は、完全に私のことを軽視していた。
元旦の朝。ビーチで朝食を食べながら、乾杯する。
「今年もいい年になりそうだな」
「ね。また旅行たくさん行きたいわ」
「母さんに子供預ければ、いつでも行けるしな」
「便利な義母で、助かるわ」
直美さんの言葉が、青い空に消えていった。
一月三日、夕方五時過ぎ。スーツケースを引きながら、息子夫婦が玄関に到着した。日焼けした顔で、上機嫌な二人だ。
「ただいま」
「お疲れ様でした」
息子がドアを開けると、高志が一人で立っていた。
「あれ?父さん。母さんは?」
高志の冷たい一言に、息子の表情が曇る。
「出かけてる」
「え?買い物ですか?」
直美さんが尋ねた。
「違う。家にいない」
「どういうこと?」
息子の声が焦りを帯びてくる。
「そのままの意味だ。お前たちが出かけた日に、姿を消した」
高志の言葉に、二人の顔色が変わった。
「姿を消したって…子供は?」
息子が慌てて声を張り上げる。
「連れて行った」
「え?どこに?」
直美さんが金切り声をあげた。
「北海道だ」
「北海道?なんで!」
息子の声がパニックに染まっていく。
「お前たちが旅行を楽しんでいる間、母さんも旅行を楽しんでいるんだよ」
高志は淡々と告げた。
リビングに通された息子夫婦に、高志が一枚のメモを差し出す。息子が震える手で読み上げた。
「『孫はちゃんと預かりました。でも、私にも都合があります。連絡は控えてください』…って、どういうこと?」
「そのままの意味だ」
「ちょっと、子供返してくださいって電話して!」
直美さんが反発する。
「電話は出ない。メールも既読無視だ」
「なんで!母さん、何考えてんの!」
息子が叫んだ。
「お前たちが母さんを都合のいい道具扱いしたからだ」
高志の言葉が重く響く。
「都合のいい…何のこと?」
息子がうろたえた様子で尋ねる。
「とぼけるな」
高志の目が鋭く光った。そして、スマートフォンを取り出す。
「実はな、お前たちの電話、全部録音してあるんだ」
「え?」
息子の顔が、さらに青ざめていく。
高志が再生ボタンを押した。録音された息子の声が、リビングに響く。
『母さん、正月なんてどうせ家でゴロゴロしてるだけだし』
『親なんだから当たり前。金払う必要ないでしょ』
『断るわけないじゃん。あんな暇人、他にやることないんだから』
『孫に会えるだけで喜ぶタイプだし。ちょろいもんよ』
『無料ベビーシッター最高』
直美さんの声も続く。
『お母さん、近くて便利よね。都合いいわ』
『使える時に使わないと』
録音が止まった。リビングに、重い沈黙が降りてくる。
「これ…いつの…」
息子が震える声で尋ねる。
「年末の夜。お前たちが電話を切ったと思った後の会話だ」
「聞いてたんですか?」
直美さんの声が小さくなる。
「ああ。美代と二人で、全部聞いた」
高志の言葉に、二人は完全に言葉を失った。
「『ちょろい』『無料』『都合がいい』。よく言えたもんだな」
高志が続ける。
「お前たちが結婚した時、母さんは頭金三百万円出した」
息子が俯く。
「子供が生まれた時、入院費五十万円。一ヶ月間毎日通って、育児を手伝った。これまでの五年間、援助した金額は総額五百万円以上だ」
高志の声が、淡々と事実を告げていく。
「サポートした時間を計算したら、二千四百時間以上。お前たちの頼みを断ったことは、一度もない」
「父さん…」
息子がかすかな声を出した。
「母さんは、もうお前たちの都合のいい道具じゃない」
高志の言葉が、容赦なく突き刺さる。
「父さん、俺たち、そんなつもりじゃ…」
「じゃあ、なんだ?『暇人』『ちょろい』『使える時に使う』。これがお前たちの本音だろう」
高志の指摘に、二人は反論できなかった。
「本当にすみません」
直美さんが涙声で謝罪する。しかし、高志は冷たく言い放った。
「いいか。母さんは今、北海道で孫と一緒に本当に楽しい正月を過ごしている。お前たちが沖縄を楽しんでいた間、母さんも自由を楽しんでいたんだ」
その言葉に、息子が顔を上げる。
「父さん…いつ帰ってくるんだ?」
「知らん。母さんの気が済むまでだ」
「そんな…」
直美さんが絶望的な表情を浮かべた。
「嫌なら、直美さんの母親に頼めばいいだろう」
高志の言葉に、直美さんがハッとする。
「向こうのおばあちゃんは孫可愛がってくれるし、料理も上手なんだろ」
自分の言葉がそのまま返ってきて、直美さんは顔を真っ赤にした。
「でも、交通費もったいないんだよな」
高志がさらに追い討ちをかける。
「都合よく使えて、ただで働いてくれる。そういう存在が欲しかっただけだろう。もういないぞ。そんな都合のいい母親は」
高志の言葉が、リビングに重く響いた。
息子が震える声で懇願する。
「父さん…母さんに謝りたい。電話してもらえないか」
「出ないと言っただろう」
「お願いします。子供を返してください」
直美さんが泣き崩れそうになる。
「子供は元気だ。心配するな」
でも、息子の言葉を高志が遮った。
「どうした。また母さんに押し付けるのか?」
「そうじゃなくて…」
「そうじゃなくて、じゃあなんだ?」
高志の問いかけに、息子は答えられなかった。
「今更か。これから気をつけるから!」
息子が必死に訴える。
「何を気をつけるんだ?また『暇人扱い』しないようにか?もう母さんは、お前たちを信用していない」
高志の毅然とした言葉に、二人は完全に打ちのめされた。
「いいか。母さんは一週間は帰ってこない」
「一週間!」
二人が驚愕の声をあげる。
「妹のところでゆっくり休むそうだ。孫も喜んでいるらしい」
「でも、私たち、仕事が…」
直美さんが訴える。
「仕事?知るか。お前たちの都合なんて、もう関係ない」
高志の言葉が、容赦なく突き刺さる。
「母さんも、ずっとお前たちの都合に合わせてきたんだ。たまには母さんの都合を優先させろ」
高志が立ち上がった。
「あ、そうだ。お前たち、こう言ってたよな」
「何を…」
息子が恐る恐る尋ねる。
「『正月なんてどうせ暇だろ』って。じゃあ、お前たちも暇だろう。子供の面倒くらい見られるよな」
高志の皮肉に、二人は何も言えなかった。
「親なら当たり前。これ、お前たちにも当てはまるよな。子供の面倒を見るのは、親として当たり前だ。頑張れよ」
高志の言葉に、息子夫婦は完全に言葉を失った。
「あ、それと」
高志が追い討ちをかける。
「ベビーシッター代、計算してみたんだ」
「え?」
直美さんが青ざめた顔で聞き返す。
「お前たちが母さんに押し付けた時間、全部で二千四百時間。ベビーシッターの相場、時給二千円として計算してみろ」
息子が震える声で答える。
「…四百八十万円」
「そうだ。お前たちは母さんに、四百八十万円分の無償労働をさせてたんだぞ」
その数字に、二人は完全に言葉を失った。
「それでも、親なら当たり前か?」
高志の問いかけに、誰も答えられなかった。
「今日は帰れ。話はこれで終わりだ」
高志が玄関へ向かう。息子夫婦は、完全に打ちのめされた様子で立ち上がった。
二人は重い足取りで車に向かう。車の中は、完全に沈黙していた。
「どうしよう…子供、いつ帰ってくるの?」
直美さんが涙声でつぶやく。
「わからない」
息子も呆然としていた。
「明日から仕事なのに…」
「俺が悪かった」
息子が深く後悔の言葉を口にする。
「私も…調子に乗りすぎた。母さん、本当に怒ってるんだね」
車が、暗い夜道を走っていった。
一方、玄関で見送った高志は、満足した表情を浮かべている。スマートフォンを取り出し、メールを打った。
『今、あいつらが帰った。完全に打ちのめしたぞ。美代、お前は本当によくやった』
すぐに北海道から返信が来る。
『ありがとう。私、もう少しここにいるわ。本当に自由って、素晴らしいのね』
計画は、完璧に成功したのだ。
二週間後、ついに私は北海道から帰ってきた。孫も、元気そうに笑っている。高志が優しく迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま。とてもいい時間だったわ」
「そうか。よかった」
「妹とたくさん話して、いろんなことを考えたの」
私の表情は、出発前とは明らかに違っていた。
「これからは、自分のために生きようって」
その言葉に、高志が優しく頷く。
「私、看護師の仕事、続けるわ」
「そうか」
「患者さんから『ありがとう』って言われると、本当に嬉しいの。息子たちからは『当たり前』としか言われなかったけど、仕事ではちゃんと感謝してもらえる」
高志の言葉に、私は微笑んだ。
その日の夕方、玄関に息子夫婦が現れた。二人とも、深々と頭を下げている。
「母さん、本当にごめんなさい」
「申し訳ありませんでした」
私は何も言わず、静かに二人を見つめた。
それから、息子夫婦の生活は一変していた。毎朝、保育園への送り迎えに追われる二人。
正一は会社で何度も遅刻を繰り返していた。
「すみません。今日も遅刻させてください」
上司の前で頭を下げる。
「また正一、最近多いぞ」
「申し訳ありません。子供の迎えが…」
「奥さんは?」
「妻も仕事で…。今まで母に頼んでたんですが…」
正一の声には、深い後悔が滲んでいた。直美さんも、同じように苦しんでいる。
職場から慌てて電話をかける姿があった。
「正一、今日は私が迎えに行けない」
「俺も会議が…。どうしよう」
「ベビーシッター…」
「高いのよ。頼むしかないだろ。一回三万円よ」
その言葉に、二人は沈黙した。
月々のベビーシッター代は十二万円。保育園の延長料金が五万円。夕食の外食やデリバリーの増加で十万円。合計、二十七万円の追加出費だ。
「これじゃ…貯金が…」
正一がつぶやいた。今まで母がどれほど自分たちを助けてくれていたか。その価値を、痛いほど実感する日々だった。
ある日、息子夫婦が再び訪れた。
「俺たち、調子に乗ってた。母さんの大変さ、全然分かってなかった」
正一の声が震えている。
「ベビーシッター代、こんなにかかるなんて…」
直美さんも涙声になっていた。
「母さんがどれだけ俺たちを助けてくれてたか、今やっと分かったよ」
私はしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「正一、直美さん」
「はい」
二人が顔を上げる。
「私は、もう都合のいい母親にはならないわ」
その言葉に、二人が身を縮める。
「でも、本当に困った時。事前に相談してくれれば、考えるわ」
「ありがとうございます」
直美さんが心から感謝の言葉を述べる。
「ただし。当たり前と思わないで。感謝の気持ちを忘れないで」
「はい。分かりました」
正一が力強く頷いた。
「それと、これからは週に一回だけ。それ以上は無理よ」
「はい。それで十分です」
「お正月やお盆は、私たちの予定を優先させてもらうわ」
「もちろんです」
「事前に相談すること。これが守れないなら、一切協力しないわよ」
その言葉に、二人は真剣な表情で頷いた。
それから、三ヶ月が経った。私は看護師として、生き生きと働いている。患者さんから「ありがとう」と言われ、笑顔で答える姿があった。
週末。事前に相談があった孫を預かる。
「母さん、今週末お願いできますか?」
「いいわよ」
「ありがとうございます。本当に助かります」
直美さんの感謝の言葉が、心地よく響く。
「母さん、いつも感謝してる」
正一も、素直に感謝を伝えてくれるようになった。
夜。高志と二人でソファに座りながら、私はつぶやいた。
「ねえ、今度の正月、温泉行かない?」
「いいな。今年は二人でゆっくりしよう」
「正一たちには、早めに伝えておくわね」
「ああ。向こうも予定を立てられるだろう」
私たちは穏やかに微笑み合った。
これが、私の新しい人生。自分の人生を自分で選択できる自由。感謝される喜び。尊重される喜び。そして、大切な人と過ごす穏やかな時間。
我慢し続ける必要はない。自分の尊厳を守るためには、時として毅然とした態度が必要なのだ。私は今、心から幸せだ。



