出社してすぐ、社長が私の目の前で言い放った。「昭和生まれは用済みだ。首だ」と。あまりに突然の宣告で、私は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。下町の機械部品メーカーで情報システム部長を務めて20年。私が開発した特許システムは、取引先の工場でも使われ、部署の仲間と共に会社を支えてきた自負があった。なのに、社長はアメリカから帰ってくる息子を後任に据えたいらしく、私の説明には一切耳を貸さなかった…

出社してすぐ、社長が私の目の前で言い放った。「昭和生まれは用済みだ。首だ」と。あまりに突然の宣告で、私は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。下町の機械部品メーカーで情報システム部長を務めて20年。私が開発した特許システムは、取引先の工場でも使われ、部署の仲間と共に会社を支えてきた自負があった。なのに、社長はアメリカから帰ってくる息子を後任に据えたいらしく、私の説明には一切耳を貸さなかった...

引き継ぎという名の首切り宣告を受けたのは、出社してすぐのことだった。昭和生まれは用済みだと、社長は目の前で堂々と言ってのけた。簡単にAI導入を推進しようとする社長に、冷静に対処してきた結果がこれだ。俺を首にして、アメリカから帰ってくる息子を代わりに据えたいらしい。

俺の名前は鈴村。53歳の会社員だ。地元の機械製品製造会社で情報システム部の部長を務めている。システム設計から管理、トラブル対応まで、会社のIT周りは俺たちの担当だ。主力工場で動いているシステムは、俺が中心となって開発したものだ。生産工程を最適化しながら品質異常も検知する複合システムで、特許も取得している。今では取引先の工場でも使われていて、開発者として一目置かれている。

今の会社には20年前に中途で入社した。父が倒れたのをきっかけに地元へ戻り、最終的に就職したのがこの会社だった。都会で培ったスキルを我が社のために役立ててくれないか。今は亡き先代にそう言われた時は、本当に嬉しかった。それからずっと会社のために尽力してきた。その気持ちは今も変わらない。はずだった。

その気持ちに揺らぎが出始めたのは、およそ2年前からだ。海外にいる息子から聞いたんだがな。これからの時代はAIだそうだ。うちもこうしてはいられん。AIに任せて何でも効率化していこう。社長が興味を惹かれるのも無理はない。社長には正という息子がいて、海外企業で働いているらしい。開発グループの主要メンバーとして活躍しているとか。AIについて熱く語る社長を見て、俺たち情報システム部の面々は困り果てていた。

AIによる効率化自体を否定するつもりはない。しかし、何でもというのが厄介だった。特に俺が開発した特許システムのように、人の手による確認や動作を前提に作ったものにAIを取り入れるのは難しい。AIは最初から全てを可能にするのではなく、正しいデータを大量に学習させて初めて機能するのだ。つまり、データの質と量が担保されていないAIは、便利どころかむしろ危険だ。俺は自分の知識や部下たちの協力を総動員して社長にそれらを説明したが、待ってたぞとこの場にいない息子の名前を持ち出しては話にならないのだ。

俺はAI自体に反対しているわけじゃない。実際、社長の提案でいくつかのシステムにはAIを導入できるよう調整した。それだって、可能だと判断したものだけだし、AIに丸投げする仕組みにもなっていない。2年経った現在でも、社長のAI熱は収まることなく、俺のいる情報システム部に直接出向いたり、会議を開いてはAI導入についてしょっちゅう熱弁している。さらに厄介なのは、一層うちでAIを開発したらどうだと言い出したことである。それがつい先週の出来事だ。

あれにはさすがに呆れましたよ。車麺のそばをすすりながら、部下が小声で言う。俺たちは昼食を取っていた。口は悪いが、部下がそうぼやきたくなる気持ちもわかる。AIの開発は専門的な知識が必要で、今のうちの人員では無理であること。そして外部に委託するにもコストがかかりすぎること。それら全てを、今丁寧に説明したのだ。こっちが何か言っても、息子がこう言った、ああ言ったで通すもんな。小声とはいえ、続々と社長に対する不満が出てくる。みんな本当にお疲れ様。俺が苦笑しながら言うと、鈴村部長が一番大変ですよ。さあさあと頷き合う。

そういえば。そばをすすっていた部下が思い出したように呟いた。その息子さん、正さんでしたっけ。近いうち帰ってくるらしいです。人事にいる同期がこっそり教えてくれたんですよ。俺のいるテーブルは一層どんよりとした空気に包まれる。おいおい、ってことは、もしかしてまた何か起きるんじゃないのか。鈴村部長、社長の無駄話のせいで他の仕事が押してますし、このままじゃまずいですよ。俺も不安な気持ちに駆られたが、みんなを安心させようと笑顔を心がけた。心配するな。帰国が本当の話だとしても、社長と同じ考えとは限らない。もしも何か言ってきたとしても、俺がしっかり対応するから。方針を考えるのが上だとしても、現場を一番知るのは俺たちだ。しっかり話し合えば、きっと会社にとって良い方向に進めるはずだよ。言いながら、説得力がない気がした。俺の発言が本当なら、社長がもっと早く理解しているはずだ。しかし、俺がみんなを励まそうとしているのは伝わったのだろう。部長、そうですよね。息子さんは冷静に話を聞いてくれるかもしれないし。部長がいると本当に心強いですよと言ってくれて、ほっとするのだった。

昼食を終えて仕事に戻ろうとモニターを付けた時だ。みんなお疲れ。社長。先ほど話題に出た当人。社長が俺たちの元へやってくる。噂をすればなんとやらとはよく言うが、まさかこんなにすぐ顔を合わせるとは。俺が内心苦笑していると、社長は全員に聞こえるように手のひらをパンパンと叩いた。今日はみんなに大切な話がある。俺も部下たちも互いに顔を見合わせる。社長は言葉を続けた。実はな、前から話は出ていたんだが、ついに正がうちに帰ってくることになった。来月からこの部署の一員となる。ついでに、この部署を任せようと考えているんだ。正という単語に部署内はどよめいた。社長の息子が帰ってくるらしい。その噂を聞いてすぐに審議が明らかになるなんて。タイミングが良すぎるが、今はそんなことを言ってる場合じゃない。この部署を任せるとは、どういう意味でしょうか。俺は動揺を押し隠し、社長に尋ねた。社長ははっきり、この部署を息子の正に任せると言ったのだ。部長の俺がこの部署をまとめているのに。一瞬にして嫌な予感が頭の中を支配する。

社長は俺をちらりと横目で見て、鼻で笑う。聞いてなかったのか?AI開発者の息子が帰国するんだよ。だから、昭和生まれは用済みだ。鈴村君のポジションには息子に付いてもらう。ですから、どういうことですか?社長は大げさにやれやれと首を横に振る。だから、首だって言ってるんだよ。こっちが真剣に話せばいずれ理解してくれると思ったが、お前のような老害は会社にとって荷物にしかならん。その点、息子の正なら新しい風を入れてくれるに違いない。今まで俺が筆頭になってAIについて反発していたことを、ずっと根に持っていたらしい。言いながら、あの時もこの時も否定された時のことを持ち出してくる。つまり、因縁のつけ方だ。ご自慢の息子を部長にし、ついでに俺を排除すれば、自分の思う通りにことが運ぶとでも考えたのだろう。なんて安直な考えを。怒りと同時に呆れてしまう。感情がいっぱいになる俺は、言葉にならなかった。それをいいことに、社長は得意げに告げる。怪我の功名だがな、息子にはお前が開発した特許システムにAIを導入してもらい、完全効率化を図ろうと思う。そうすれば、導入している取引先もアップデートを検討してくれるだろう。

俺の心を代弁するように、部下から反対の声が上がった。今まで鈴村部長がどれだけ貢献してきたと思ってるんですか。首なんておかしいです。部下の声に、俺は自然と体が震えた。確かに特許システムの開発は俺が主導して行ったものだとしても、所有権は会社にある。特許システムは完全に会社名義のものだからだ。だけど、と俺は拳を握りしめた。だからと言って、引き際が過ぎる。首だと言うからには、それに値する理由があるんでしょうね。俺は静かに尋ねる。当然だと社長は言う。いいか、鈴村部長。君はここ数年で会社にどれだけ損害を与えたと思う?AI化を進めようとするたびに反発し、部下たちを扇動し、俺の経営判断を何度も潰してきた。そのせいで会社がどれだけの機会を逃したと思ってる。君のような昭和気質の人間にはもう限界なんだよ。お前さえいなければ、思い通りになるはずだ。最後の一言が全てを物語っていた。

部長。部下の反論を手で静止する。これ以上、部下たちの心象を下げるわけにはいかない。それに、この時点で俺はもう心が決まっていたのだ。俺はまっすぐ社長を見据え、言葉を続ける。いいえ、私も社長と同じように会社のことを考えて行動してまいりました。何度も申し上げたことですが、AI自体を否定していません。それに対応できるシステムに関しては、導入のための調整と改良をしてきました。それは記録にしっかり残っています。社長にご迷惑な損害は与えていないものと考えます。俺の言葉に部下たちも黙って頷いた。私は再三申し上げてきました。AIをいきなり導入するのは難しい。検証やデータ収集、準備の上でなら対応可能だと。必要な工程を無視して導入を急ぐ社長の判断を否定してきただけです。だから、それだと遅いんだ。時代の流れというものは待ってくれん。社長の言葉を、俺は静かに遮った。ふと、先代の笑顔が頭をよぎった。都会で培ったスキルを我が社のために役立ててくれないか。あの言葉を信じて20年間ここにいた。しかし、心がぽっきりと折れてしまった。この会社を思う気持ちは一緒のはずだと信じていたのに。もう結構です。よくわかりました。俺は突き放すように社長の言葉を遮る。首だと言うなら、それで結構。私のことが必要ないと社長自らがおっしゃるのですから、私がすがる理由はございません。鈴村部長、そんな。俺の発言に、部下たちが焦った声を漏らした。部下たちには申し訳ない。だけど、もうこれ以上は無理だ。鈴村部長にどうしろって言うんだよ。社長が首だって言ってるんだ。部長は悪くないだろう。部下の一人が諦めたように口にする。確かにそうだと思ったのか、部下たちは押し黙った。それを見て社長はふっと、勝ち誇ったように笑う。どうやら観念したようだな。まあ、息子が帰国するまでの間、引き継ぎなんかだけはしっかり頼むよ。もう用はない。そう言わんばかりに笑いながら、社長は部署を出ていった。きっと、ろくな目に遭うはずがないだろう。順序を飛ばして結果と利益だけを求めても、結果は伴わない。長年技術者として働いた感が、俺にそう告げていた。

社長の話からおよそ1ヶ月後、退職届を提出し、さらに俺の引き継ぎ作業も最終段階に進んでいた。ノックもなしに情報システム部の扉が開き、なんだよ。本当に小さな文書じゃないか、と不満げな表情の男が現れる。40代くらいの男性だが、見覚えがない顔だ。どなたでしょうか。俺が声をかけると、男性は辺りをキョロキョロと見回す。なあ、鈴村ってのは誰?私ですが。質問を無視して質問してくる辺り、失礼な男だ。俺が返答すると、男性は吹き出した。お前が鈴村か。父さんから聞いてた通り、さえない顔だな。俺の踏み台、お疲れ様。あとは俺が引き継ぐから、もう帰っていいぞ。父さん、引き継ぎ。それらの単語からピンと来る。もしかして、あなたが正さんですか?男性はにやりと笑う。ああ、そうだ。今日は顔出しだけだがな。そうか。この男が。俺はまじまじと正を見つめる。どうやら父親そっくりの傲慢な考えの持ち主のようだ。それはこの短いやり取りから十分伝わった。これを渡せばおしまいだ。20年分の仕事がこの男の手に移る。だが、これは会社の財産だ。俺が持ち続ける理由はどこにもない。思い通りにやってみればいい。俺は黙って用意しておいたUSBを手渡した。こちら、正さんへの引き継ぎ資料となります。特許システムなどの権限も移行できますが、いかがなさいますか?俺が従順に見えたのだろう。正は気分を良くしたようだ。全ての作業が終わると、正は俺の肩をポンと叩いた。お前も運がなかったよな。もう少し柔軟な考えが持てればさ、父さんだって首まで言わなかったんじゃないか。まあ、今更遅いけどな。意味のない高笑いが俺の神経を逆撫でする。こんな奴が本当にアメリカでAI開発の主力メンバーを務めたのか疑問だ。そもそも、そこまで優秀ならわざわざ帰国して父親の会社に入るだろうか。様々な疑問が浮かんだが、もうどうでもいいことだ。部下たちが冷たい目で正を見つめていることに、正自身は気づいていなかった。

それからさらにおよそ1ヶ月、俺は有給を消化していた。今日は妻がパートへ行っているので、俺一人で留守番。そのはずだったのだが。きっかけは午前中にかかってきた一本の電話だ。着信元は元部下の番号からだった。時々元部下たちとはプライベートでも飲みに行ったりしていたので、連絡先を知っていること自体は問題ではない。だが、もう有給消化を開始している俺に、一体何の用だろうか。違和感があったものの、俺は電話に出た。戻ってこい。電話に出た瞬間、大きな声が俺の鼓膜を叩く。衝撃で思わずスマホを耳から離した。なんだ?俺がびっくりしている間にも、スマホからはギャーギャーと男がわめく声が聞こえてくる。しかも声は元部下の声ではない。俺は耳にスマホを持っていくのが嫌になり、スピーカーモードに切り替える。もしかして、正木さんですか?そうだよ。俺だ。まだよ。おそらく部下から無理にかけさせたのだろう。声があまりに切羽詰まっていたので、俺は興味本位で尋ねてみた。どうかされたんですか?問いに対し、一瞬だけ正が口ごもる。そっちからかけておいて、何なんだ?俺が呆れていると、今度は別の人物の声が聞こえてきた。鈴村君、お詫びは後で話す。急いで来てくれないか?社長だ。先に正がいて、社長が急いで俺を呼びつける状況。俺はピンと来た。できません。私はもう有給消化に入っています。電話の向こうから、がなり声が聞こえてくる。要件がそれだけのようでしたら、失礼しますね。俺が電話を切るそぶりをすると、社長は慌てたように説明し始めた。実は、正が特許システムにAIを導入したまではいいんだが。社長曰く、正は速攻で特許システムにAIを導入したそうだ。それだけ聞くと仕事が早いと思いそうだが、今朝になってトラブルが発生した。正はシステムの安全装置を無効化した上で、AIに生産データを丸投げしたのだ。しかもAIが出す指示の検証もせずに本番ラインに適用した。その結果、品質異常が検知されないまま不良品が生産され続け、生産ラインを停止せざるを得ない状態にまでなったらしい。およそ1ヶ月でここまでやらかすとは。いずれ何かしら起こるとは思っていたが、ここまで早いとは思わなかった。ちなみにトラブルが発生した当初、おい、システムが大変だ。お前らなんとかしろ。正は慌てて部下たちに指示、いや、助けを求めたようだが、部下たちは静観するのみだったらしい。復旧作業するには権限が必要ですから。権限のない我々が下手にいじって悪化してはいけませんし。と手伝おうとしなかったのだとか。全権限が正の手にある以上、部下が勝手に動けば一斉行為になる。責任を押し付けられるリスクもある。部下たちの判断は守銭全だった。ですから、私たちは何度も言いましたよね。導入すること自体は否定しない。ただ、準備が必要だと。俺の言葉に、社長たちは素直に謝罪するどころか、戻ってきてくれ。部長の座は、いや、望むならそれ以上の立場を約束する。ふざけるな。お前の開発したシステムだろう。お前がなんとかしろ。続けて、電話口から絞り出すような声が聞こえてきた。す、頼む。お前しか分かるやつがいないんだよ。正。かつて踏み台お疲れ様と高笑いした口が、今こうして俺にすがっている。俺はやれやれと首を横に振った。システムの全権限を譲渡し、実質退職している以上、私にできることはありません。責任ある立場にあるんですから、社長も正木さんも、それぞれ自分の役割を全うしてください。俺はそれだけをきっぱりと告げて、通話終了をタップしようとする。そうだ。俺はあることを思い出し、最後に告げた。社長に首宣告されてすぐ、弁護士に不当解雇の相談をしましたので、そのうち弁護士から連絡が行くと思います。その時はどうぞよろしくお願いいたしますね。な、弁護士だと。なぜ驚きの声をあげられるのか疑問だが、俺はもう言葉を交わすつもりはない。それでは。最後に俺はあえて明るい調子で言うと、問答無用で通話を切り、そのまま電源を切ったのだ。

その後の話は元部下たちから聞いた。生産ラインの緊急停止により遅延が多発した。社長と正はお互いに責任をなすり付け合ったようだ。しかも、取引先からの問い合わせをきっかけに正の経歴が調べられ、アメリカでAI開発の主力メンバーだった話は真っ赤な嘘だったと発覚したのだ。開発グループにいたのは事実らしいですけど、見栄のために話を盛っていたらしいです。なんともお粗末な話だ。それもあり、かつての親子の絆は見る影もないらしい。取引先からの信頼も失い、会社の評判は地に落ちているそうだ。退職届を出した後、部下の一人がこっそり話してくれていた。部長が首になったその日、みんなで話し合いました。部長がいないなら、ここにいる意味はないって。元部下たちの一斉退職が追い打ちをかけた。人員を募集しているらしいが、トラブルの話はすでに業界内に広まっている。応募者は来ないと、元部下の一人が苦笑いしながら教えてくれた。俺の方も弁護士との話が着々と進んでいる。時間はかかるだろうが、やるべきことは明確だ。部長さんには今でも感謝しています。飲みの席でそう言ってくれた元部下たちの顔を見て、俺は目頭が熱くなった。ありがとう。俺は静かに微笑んだ。20年間、俺はこの会社のために働いてきた。技術者として、それは間違っていなかったと今は静かに思える。次の場所でも、俺のやり方でまた誰かの役に立てれば、それでいい。

特許部品ごときが偉そうに意見するなら、契約終了するぞ。大手取引先という有利な立場を盾に俺を脅しているのは、取引先の部長だ。この人は、俺の工場が特許部品を作っているのは知っているが、どれほどの価値があるかは知らないらしい。それならば、存分に思い知ってもらおう。俺の反撃により、部長は社会的地位も後ろ盾も失い、自分の愚かな行為を心の底から後悔する羽目となった。俺の名前は上野、49歳。父親が40年前に立ち上げた工場の2代目経営者だ。うちの工場は時計の部品を作っている。社員数は少ないので、俺は社長の仕事をしながら現場業務や営業も担当していた。父の代から使い続けた工場の外壁は黒ずみ、看板の文字は薄れている。廃業寸前かと疑われるレベルだ。社長、そろそろ工場を立て替えましょうよ。すまん、もう少し待ってくれ。費用の捻出が難しいんだ。出勤後、事務室にある俺のデスクでノートを確認していたところ、ベテラン職人の一人が声をかけてきた。苦笑いを浮かべつつ、開いていたノートを閉じる。かなり古いボロボロのノートだ。しかし、工場の中にあるどんな機械よりも価値がある。これは俺の父が残したノートだ。数回の試行錯誤の末にたどり着いた調整値が、びっしりと手書きで記されている。現在工場で作っている部品は、父の積み重ねてきた努力の末に完成させたものだ。調整値はかなり細かく、工場にある機械全ての数値が記録されているので覚えるのは不可能だ。そのため、俺は出勤すると父のノートの数字を確認しながら機械の微調整を行っている。細かい調整の末に完成するのは、一見すると地味で小さい金属パーツだ。しかし、材料の配合比率、加工時の温度や圧力の調整はとても繊細で、見た目では分からない複雑さがある。さらに、父が導き出した数値は工場の古い機械固有の誤差まで折り込んで最適化されているので、たとえ優れた最新機械でも同じレベルの部品を作るのは不可能だろう。機械はそのまま使うとしても、工場の立て替え費用だけでもかなりの出費になるな。父のノートを机の奥にしまい、代わりに電卓を取り出した。試算で出した数字を見て、俺は大きなため息をつく。まとまったお金が転がり込んでくればいいのに。本音の俺の発言に、周りにいた社員たちが苦笑いを浮かべた。

そんなある日のこと、大手取引先の担当者が変更になった。前担当者が急病で倒れたらしい。新しい担当者は3ヶ月ほど前に本社の部長に就任した、織田という人だ。その織田部長が今日の午前、うちの工場へ挨拶に来た。随分古い工場だな。こんなところで本当に特許部品を作ってるのか?挨拶もそこそこに工場内を歩きながら、織田部長は信じられない発言をする。工場を見てくれだけで判断し、下賤な扱いする取引先は過去にもいた。しかし、織田部長の言動はかなり露骨で、俺は驚きすぎてしばらく何も言えなかった。ふん。これがうちに下ろしてる部品か。俺でも作れそうだな。どれだけの努力を積み重ねて作られたものか、織田部長は知らないらしい。その部品は数千の試行錯誤で作られたもので、俺が説明しようとすると、織田部長は手を振る。顔の近くに寄ってきた虫を追い払うような失礼な仕草だ。つまらん話を聞かせるな。お、なんだこれは?織田部長は作業スペースに置いてあった父のノートを手に取る。部長が来るまで、機械の調節を行っていたのだ。機械の数値が書いてあるノートです。それを見ながら調節作業をするんですよ。データで管理してないのか?この工場は見た目もシステムも古いんだな。鼻で笑う織田部長。俺はノートをさっと手に取り、作業スペースの机の中にしまった。雑に扱われてノートが破損したら、たまったものじゃない。織田部長はその後もずっと、工場や仕事を見下すような発言をしていた。

昼食は、ため息をつきながら弁当を食べていた。妻が作ってくれた美味しい弁当だが、今日は箸が進まない。午前中織田部長の相手をしていたせいで疲れきってしまったのだ。社長、織田部長はどうでした?事務の女性社員が声をかけてきて、苦笑いで答える。なんというか、個性的な人だったよ。やっぱり。何か知ってるの?事務の女性はこんなことを教えてくれた。仲のいい近所の奥さんの旦那さんが、織田部長と同じ会社に務めてるんです。奥さんから色々と話を聞いてるんですよ。織田部長は3ヶ月前に支社から本社へ移動してきた。部長を務めていた人が定年退職したため、織田部長がその椅子に座ることになったのだ。しかし、実力で本社の部長になったわけではない。大学時代の先輩で仲のいい副社長のコネを使ったのだ。実力はないんですけど、年功序列で支社の部長を務めてたんですよ。仕事ができるタイプじゃないんですって。自分の業務は部下に押し付けてばかりで、旦那さんも迷惑してるらしいですよ。織田部長は支社時代、取引先の一つを切り捨てたらしい。うちの工場と同じ歴史のある会社だが、織田部長は時代遅れの中小企業と軽視した。ところが、切り捨てた直後、その会社の技術が競合他社に渡り、売上で負けたという痛い経験をしたそうだ。それが原因で支社内での評価が下がり、居場所を失いかけた織田部長は、副社長に泣きつき、コネを使って本社に逃げてきたらしい。まあ、あくまで噂ですけど。あの人と接した後だと、信憑性があるなって思うよ。思わず本音を口にしてしまう。取引先をうわべでしか判断せず失敗したくせに、俺の工場でも同じことを繰り返すつもりなのか。自分の失敗を認めたくないのかな。誰にも聞こえない声で小さく呟く。俺の工場を、かつて切り捨てた中小企業と重ねているのか。だとすれば、異常な攻撃性の理由も理解できる。しかし、俺にとってはいい迷惑だ。何も起こらないといいけど。そう言いながら、今日何度目かのため息をついた。

俺の願いは虚しく、織田部長は担当着任早々に問題を起こした。初めて会ってから1週間後、いきなり工場にやってきたかと思うと、一方的に仕様変更を突きつけてきたのだ。その変更では精度に影響が出ます。言い訳は聞きたくない。取引先の俺の言う通りに作ればいいんだよ。ここの社員はこんな簡単なこともできないのか。この発言に、若手社員が顔を曇らせる。部長が帰った後、若手社員が俺にこんなことを言ってきた。あんな扱いを受け続けるなら、これから先やっていく自信がありません。織田部長は長時間に渡り社員を侮辱する発言をしていた。まだ若い社員は、部長の言葉に深く傷ついたらしい。君は悪くない。あの人の言うことは気にしなくていいから。俺の慰めに社員は眉を寄せた。若手社員だけでなく、他の社員にも動揺が広がっている。このようなことが度々起こり、織田部長のせいで社内の空気が徐々に悪くなっていった。

試練はさらに続く。長年の付き合いがある別の取引先から、こんな電話が入った。品質管理ってちゃんとやってます?え、どうしてですか?知り合いから教えてもらったんですけど、御社が昨今の原材料費の値上げを受けて、安い原材料で誤魔化してるって聞いたんです。根も葉もない噂だ。しかし、電話をかけてきた取引先の担当者は若い人間で、会社との付き合いは長いが担当者との関わりは1年にも満たない。担当者は俺ではなく知り合いの話を信じることにしたようだ。今進めてる新規案件の件、一旦保留いただけますか?わかりました。俺が何か言ったところで無駄だ。電話を切った後、思わず深いため息をついた。昼休み、落ち込みながら昼食を食べていると、事務の女性社員があることを教えてくれた。織田部長、かなりやばいですよ。うちの工場の変な噂を社内で流布してるらしいです。織田部長は、うちの工場が態度が悪いとかボロいから品質が怪しいと周りに言っているらしい。ふと、先ほどの電話を思い出した。担当者が言っていた知り合いというのは、織田部長かもしれない。証拠はないが、強い確信がある。しかし、どうすることもできない。本人にやめろと言ったところで聞かないだろうし、名誉毀損だと騒がれてしまう可能性がある。打つ手なしの現状に、俺は頭を抱えた。

数日後、俺を悩ませている張本人がアポイントなしで工場にやってきた。コストの見直しをする。単価を15%下げろ。現場で作業していた俺の方へ近寄ってきたかと思うと、挨拶もなしに一方的に要求を突きつけてきた。その価格では材料費も出せません。材料費だって、安い原材料を混ぜて誤魔化してるんだろ。口の端を歪めて笑う。やはり、根拠のない噂を流しているのはこの人だと確信した。それに、と織田部長は続ける。特許料として単価に上乗せしている分があるはずだ。だから、材料費分と合わせて15%値下げしても何の問題もない。安い原材料も使ってませんし、特許料はこちらの権利です。そもそも、特許料は。特許部品ごときが偉そうに俺に意見するなら、契約終了するぞ。俺の言葉を遮り、織田部長は現場にいる社員全員に聞こえる声で言い放った。次の瞬間、俺の中で何かが切れる音が聞こえた。49年生きてきた中で、他人にここまでの怒りを抱いたのは初めてだ。心の中で思う。うちの部品がないとそっちが困るのに、あんたのところのラインは止まるんだぞ。だけど、もう知ったことではない。わかりました。では、今日限りで契約は終了ということで。俺の言葉に、織田部長は目を丸くする。おい、自分が何を言ってるか理解してるのか?ええ、話はそれだけですか?怒りが抑えられず、無意識のうちに挑発的な物言いになってしまう。織田部長は一気に顔を赤くして、喚き声をあげた。上等だ。こんな低レベルな部品、代わりはすぐ見つかる。そうですね。もう帰ってください。仕事の邪魔です。織田部長はまだ何かわめいていたが、俺は仕事に戻り徹底的に無視する。くそが、なめやがって。叫び疲れた様子の織田部長は捨て台詞を吐くと、足音を立てて工場を後にした。織田部長が立ち去った後、現場にいた社員たち全員に謝罪する。俺のせいで嫌な思いをさせた。本当にすまなかった。社長は悪くないです。若手社員がすぐに返してくれた。でも、社長、大丈夫なんですか?不安そうな若手社員に、俺は笑顔で頷いた。心配かけてごめんな。少し待っていてくれ。現場での仕事を終えた俺は事務室へ行き、自分のパソコンを開く。覚悟しててくださいね、織田部長。誰にも聞こえない小さな呟きは、事務室に溶けて消えていった。

翌日の午前中、いつも通り仕事をしていると、社用スマホが鳴った。もしもし。おい、一体何をしたんだ?電話の向こうで叫んでいるのは織田部長だ。何のことか、分かるように説明してください。うちの工場のラインが止まったんだよ。工場長は原因はお前だと言ってたぞ。ああ、その件ですか。確かに、俺が原因です。昨日、特許部品の使用中止通知を送って、即日で御社に発送したんですよ。一瞬、織田部長が言葉を失う。その隙に、俺は事情を説明した。こちらは契約書に従い対応をしただけです。契約書?何のことだ。やはり、この人は契約書の中身を把握していなかったらしい。事務の女性社員に仕事ができない人だと聞いた時から、もしかしてとは思っていた。契約書にはこう書かれています。契約終了後は、当該特許部品の使用を即時中止するものとする。我が社と御社は、あなたが下した判断に基づき、契約書に書かれた通りの対応をしただけですよ。契約書は前の担当者の時に交わしたものだ。特許取得の部品という特殊性もあり、念のために盛り込んだ一文だ。前の担当者は納得済みで、会社側にも承諾を得ている。何も知らなかったのは、真面目に仕事をしなかった織田部長だけだ。ふざけるな。社内が停止したせいで、うちは損害が出てるんだぞ。責任を取ってもらうからな。俺が責任を取る義務はありません。言い切ってるし。言いたいことを一方的に怒鳴ったかと思うと、いつの間にか電話が切れていた。俺はスマホをしまい、作業に戻る。すぐに織田部長が泣きついてくるだろう。

1週間後、工場エリアで機械の調節をしていた俺に、社員が声をかけてきた。社長、お客様が来てます。工場エリアの入り口を見ると、そこにいたのは半泣きの織田部長。そして、パリッとしたスーツに身を包んだ60代くらいの男性だった。初めまして。朝川です。経営管理部門の責任者をしております。入り口へ向かうと、男性が名刺を差し出す。書かれた内容を見て、俺は慌てて頭を下げた。朝川専務でしたか。初めまして。社長の上野と申します。経営管理部門の責任者が自ら足を運ぶとは、よほどのことだ。背中に社員たちの視線を感じつつ、話を進める。この度は誠に申し訳ございませんでした。朝川専務が頭を下げ、織田部長も続く。ライン停止の報告を受け、織田部長に聞き取り調査をしました。織田部長は一方的に契約終了にされたと言ってましたが。隣にいる織田部長を一瞥し、朝川専務が小さく息を吐いた。御社から発送された使用中止通知書には、織田部長の契約終了宣言によるものと書かれていました。御社とは長い付き合いです。前担当者は本社の仕事ぶりや対応力を高く評価していました。そんな取引先が一方的に契約終了にするはずがない。そう考えて社内調査を進めてみたところ、織田部長の問題行動が明らかになったのです。織田部長は、我が社の評判を貶める噂を社内に流していた。その件が朝川専務の耳に入ったのだろう。本人は代替品を探していましたが、本社は世界的に有名なスイス高級ブランドの時計の部品を作っている工場です。そんなレベルの高い部品の代替品が見つかるはずありません。この事実を部長はついぞ調べようとしなかった。1週間前、織田部長が泣きついてくるだろうと予想していたのは、これが理由だ。我々が作っている部品は唯一無二。他の工場が簡単に真似できるものではない。父が長い年月をかけ、必死になって努力して完成させた部品だ。仮に他の工場が同じものを作ろうとするのであれば、同じくらいの年月と努力が必要になる。朝川専務の発言に、織田部長が驚いたように俺を見た。え、そ、そうなのか。朝川専務が言ってることは本当ですよ。うちは高級ブランドの時計の部品も作っています。逆に聞きますけど、担当者のあなたがなぜこのことを知らないんですか?俺の突っ込みに、織田部長は気まずそうに視線をそらした。朝川専務が鋭い目で織田部長を睨みつける。そして再度俺に向かって頭を下げた。無理を承知でお願いさせてください。もう一度、我が社に特許部品を下ろしていただけませんか?それは難しいですね。織田部長の対応を見る限り、今後の付き合いは難しいと判断しました。何があったか、お聞きしてもよろしいですか?朝川専務が行ったのは社内調査だけだ。我が社への聞き取りはしていない。織田部長から何を言われ、どんなことをされたのか、詳細に伝える。朝川専務の額に、怒りの青筋が浮いた。お前は、大切な取引先に何てことを。専務の声はそこまで大きなものではなかったが、威圧感がある。織田部長はびくっと肩を揺らし、目に涙を浮かべた。工場が停止し、我が社の損失は概算で1000万円となりました。今すぐラインを再開させなければ、損失は増えていく一方です。織田部長には厳しい処分を下し、担当者は優秀な社員に変更させていただきます。それと再契約の際には料金を上乗せさせていただきますので、どうか再考をお願いできませんか?朝川専務が差し出した書類を見て、俺は軽く目を見開く。契約金額に驚いたのだ。ふと、頭の中にある考えが浮かぶ。これだけもらえるなら、工場の立て替え費用も捻出できるだろう。織田部長との問題が起こる前、まとまったお金が転がり込んでくればいいのに、と力ない本音を言ったが、まさかこんな形で叶うとは夢にも思っていなかった。ご提示の条件でしたら、考えさせていただきます。契約金額に惹かれたことは悟られないよう、余裕のある笑顔を朝川専務に向ける。専務は表情を明るくしたが、織田部長は顔面蒼白だ。ちょ、ちょっと待ってください。俺、謝ったじゃないですか。謝ってもどうにもならんことがある。いい勉強になったな。朝川専務の厳しい言葉に、織田部長は息を飲む。額に脂汗をにじませながら、今度は俺にすがってきた。頼むよ。二度とこんな問題は起こさないと約束する。だから、お前からも専務に行ってくれ。あなたの言葉は信用できません。作業服を掴んだ織田部長の手を振り払う。そして、冷めた目と声を部長に向けた。あなたの身勝手な行動のせいで、すでに1000万円の損失が出ています。責任を取る必要があるでしょう。責任は仕事で挽回する。俺にもう一度チャンスをくれ。お断りします。契約書すら確認せず、取引先がどのような仕事をしてるかも把握してないような人が、仕事で失敗を取り返せると?はっきり言って、部長の実力では無理ですよ。仕事ができないと真正面から言われ、織田部長は言葉を失う。というわけで、大人しく処罰を受けてください。織田部長が力なくその場に膝をつく。俺と朝川専務。そして織田部長に散々馬鹿にされてきた社員たちは、冷めた目でその姿を見ていた。

織田部長を連れ帰った朝川専務は、約束通り厳しい処罰を下した。部長は降格処分の上、本社から元いた支社へ追い返された。今回の件は支社ですでに広まっていて、織田部長は職場で居場所を失い、準備しているらしい。コネで部長職を与えた副社長にも厳重注意が入り、身分に関して話し合いが進められているとのこと。織田部長は役職だけでなく後ろ盾も失うことになりそうだ。自業自得ですね。報告に来た朝川専務は、呆れた様子でそう言った。一方、俺は忙しいが平和な日々を送っている。新しい担当者は優秀な人で、とても仕事がやりやすい。上乗せされた契約金額が書かれた書類を見ながら、思わず笑みを浮かべた。来年には工場の立て直しを始められそうだ。綺麗になった工場を想像するだけで、嬉しい気持ちになる。社員たちもきっと喜んでくれるだろう。

こんなもん、契約金が安い海外の工場でも見つけろよ。俺が作っているものを、俺の目の前で否定してくる取引先の部長。別に、そっちがその気なら俺はいつでも契約を切る。ただ、その後どうなっても知らないからな。俺の名前は川本、45歳で町工場を経営している。元々は父が経営していた工場だが、体力的に工場を経営することがきつくなったと、5年前にここを受け継いだ。父は根っからの職人。経営者から身を引いた今も、この工場で働いている。俺は父の職人技を尊敬してはいたが、この先やっていけるのかという疑問だらけで、一度は違う道に進んだ。時代はITだと、工学部のある高校に進学。高卒でとある企業に就職し、たくさんのことを学んだ。だがある時、人事異動があり、学歴主義の上司の元で働くことになった。周りは大卒が多かったのもあり、俺は格好の餌食。朝から晩まで身に覚えのないことで怒られ、学歴を馬鹿にされ、人格否定までされた。そして、父の工場を今にも潰れそうな町工場と言われたことで耐えられなくなり、退職。そこから父の工場を手伝うことになったのだ。父は俺のことを受け入れてくれた。その思いに答えたくて、俺は今まで勉強してきた知識を父の工場で広めていった。今では昔ながらの職人技術と俺が学んだITの技術を融合させ、特許も持っている。例えば、絶対に垂れない醤油の蓋の製造では、最新のセンサーを取り付け、振動や温度をリアルタイムで収集している。それにより、AIが0. 01ミリのずれがいつ起こるかを予測するのだ。さらに、トレーサビリティという追跡可能性を徹底しているので、いつ、どの材料で、どの機械で作られたかを完璧に把握。もちろん、ISOも取得済みだ。取引先やお客様からの信頼を得ることにもつながっている。この製品を発表してから、大手企業の担当者がうちにやってきた。桐山さんという、俺と同世代の男性だ。コスト削減で海外メーカーで製造していたが、やはり注目されるのは国産。ぜひうちに作ってほしいということで、今はここの醤油のみならずドレッシングの蓋も製造している。桐山さんは、川本さんの技術はすごいですね。それにトレサビリティも徹底されているし、信頼性が高いです。長年培った職人技術も素晴らしい、と常にうちを褒めてくれている。桐山さんは今まで海外メーカーと取引をしてきて、安かろう悪かろうの精神が性に合わず、会社を納得させられる国内工場をずっと探していたのだそうだ。俺も桐山さんの言葉は嬉しいし、従業員にも伝えてみんなで活力にしている。

だが、そんな桐山さんがある時、暗い顔でうちの工場に来た。いつもはハキハキしているのに珍しくため息をつく姿を見て、どうしたんですかと思わず聞いてしまう。桐山さんは、ちょっと上司が変わりまして。コストカットだなんだって、常に言ってくるんですよ。でも、削っちゃいけないコストもあるじゃないですか。それを分かってくれなくて、と落ち込んでいる。俺はなんだか前の会社のことを思い出した。俺、前にいた会社で上司が変わって、学歴主義の人だったんですよ。しまいには人格否定までされて、父の工場も悪く言われて、結局やめましたね。ついていけませんでした、と話す。桐山さんの不満は止まらず、その夜2人で飲みに行ったほどだ。飲みの席で桐山さんは、俺も川本さんみたいな人と働きたいですよ。この工場で働きたいな、とこぼす。俺は、桐山さんみたいな優秀な営業マンがいたらうちも安泰だよな。職人ばかりでなかなか攻めの営業マンはいないんですよ、と半分本気で言ったが、大手に務める桐山さんを勧誘するのはさすがにできなかった。

それから数日後、次の受注のため桐山さんの会社を訪問。会議室に通されると、現れたのは桐山さんではなかった。50代半ばくらいの男性で、部長の岡田だと名乗った。桐山は別の商談が長引いていてな、俺が対応してやる、と言って、岡田は腕を組んだまま俺を一瞥する。2人きりになった静寂の中、岡田はじろじろと俺を見回し、君が町工場の経営者か。まだ若造だが、大丈夫なのかね、と聞いてきた。はい。父から色々学んでおりますので。俺は昔の上司のおかげで、この手の嫌味には慣れている。右から左に流し、今回の新製品のために開発した蓋のサンプルを取り出し、テーブルに並べ始めた。岡田はそれをちらりと見るなり、どれもどこでも作れそうなゴミ部品だな、と暴言を吐いた。いえいえ、他とは違う特徴がありますから。こちらの資料も合わせてご覧ください。新品のサンプルをゴミ扱いされて少しイラッときたが、俺は笑顔で書類を差し出す。岡田はそれを受け取ろうともせず、俺の顔をもう一度眺め、ふんぞり返ったまま言い放った。大体、社長がゴミ部品持って何の用だ?まさか、こんなゴミ部品をうちに売り込みに来たのか?ちょうどその時、ドアが開いて桐山さんが駆け込んできた。お待たせしました。申し訳ありません、と息を弾ませながら席に着き、すかさず、岡田部長、こちらは川本社長がうちの新しいドレッシングのためにわざわざ開発してくれた一品ですよ。見た目は以前のものと同じですが、ドレッシングによって柔らかさが違うので、ちょうどいい量が出る仕様になっています、と説明を加えてくれたので、俺は見積書も渡す。だが、それを見た岡田は、なんだこの金額、高すぎるだろ、と怒鳴った。桐山さんは、うちのために開発してくれています。このクオリティなら格安ですし、申し訳ないですよ、と言ったが、岡田はテーブルの上の蓋を指でつまみ、ただの蓋だろ、と言う。俺が説明を始めようとしたのだが、岡田はやはり聞く耳も持たず、どうせあんたのとこ、うちとの取引で食ってるようなボロ工場なんだろう、と言ってきた。父が一生をかけて築いた工場を、この男はボロと呼んだ。俺の中で何かがぐっと込み上げたが、表には出さなかった。すかさず桐山さんが、ゴミ部品って何ですか?それに、ボロ工場とは何ですか?部長、と反論した。岡田は桐山さんに向かって、お前もさ、こんなもん、契約金が安い海外の工場でも見つけろよ、と言う。そして岡田は俺に、あんたさ、ISOの意味分かる?と笑って言ってきた。俺は、A一貫した品質を維持するための世界共通のルールです、と答える。岡田はもう一度俺を馬鹿にしたように笑い、知ってるんだな。だが、あんたのところみたいなボロい町工場には無理だろ。うちみたいな大手はそれが必要なんだ。おい、桐山。安い海外工場を見つけろ。ISOの指導もしてやれば問題ないだろう、と言った。桐山さんは、いや、無理ですよ、と即答すると、岡田は、お前の自己満足のための仕事ではない。会社の方針に従えないのなら、今すぐやめろ、と桐山さんに言い放つ。桐山さんは下唇を噛んだ。岡田は俺に、そういうわけだから、あんたみたいな町工場はもういらん。ああ、今までの契約も破棄だ。更新は今月だろ。もう更新しないから。うちみたいな大手に切られて、かわいそうだな、とニヤニヤしながら言った。俺は、全ての契約を破棄ということですか、と念押しする。岡田は、そうだ。あんたのとこじゃ、品質が心配でしょうがない。高が蓋だろ。何でもいいんだよ。ほら、さっさと帰れ、と言って、見積書を俺に投げつけた。怒鳴り返したかった。だが、ここで感情的になれば桐山さんを巻き込む。それだけは避けなければならなかった。桐山さんは岡田を睨みつけている。今にも喧嘩を吹っかけそうな雰囲気だったので、俺は桐山さんにアイコンタクトをし、首を横に振った。そして俺は、では失礼します、と持ってきたサンプルを回収して会社を出た。

工場に帰って従業員に話をすると、社長の判断は間違ってないよ、とベテランの職人が声をかけてくれた。父も、お前はうちのプライドを守った。大丈夫だ。取引先は必ず見つかる、と俺の肩を叩く。とはいえ、大手との契約が今月で切られる。本当に俺の判断は正しかったのか。少し冷静になった今、俺は不安に駆られた。翌日から俺は新たに取引先を確保しようと、営業の電話をかけまくる。だが、間に合っている。今忙しい。などと言われ、なかなかうまくいかない。このままではまずい。ある夜、工場の電気を消すのが最後になった俺は、まだ作業場に残っている父の背中を目にした。無言で旋盤に向かい、黙々と手を動かすその背中。何十年もこの工場で積み重ねてきた背中だ。頭を下げて、値下げをして契約を確保した方がいいのか?いや、それは父が守ってきたものを、俺自身が踏みにじることになる。でも、このままでは。答えが出ないまま、俺はその夜も工場の戸締まりをした。

そんな時、社長、桐山さんがいらしてますよ、と従業員から声がかかった。顔を出すと、そこには妙にすっきりした顔をした桐山さんが立っている。何かいいことでもありました?と聞くと、桐山さんは一度真剣な表情になり、深々と頭を下げた。本当に申し訳ありませんでした。しばらく頭をあげないまま、そう言う。でも、桐山さんのせいじゃないし、むしろ彼はうちを買ってくれた。何か桐山さんに謝られることは何も、と言いかけると、桐山さんはパッと顔をあげ、満面の笑みで、会社、辞めてきました、と答える。は?あまりに予想外の答えに、俺は思わず間の抜けた声が出た。桐山さんは、岡田の態度に腹が立ち、こんなところではやってられないと、あの日のうちに退職願を出したという。今、有給消化中です、と笑顔で言う桐山さん。桐山さんは、それで俺、無職なんです。ここで雇ってくださいよ、と言い出した。そう来たか。俺は思わず笑ってしまった。とはいえ、この状況で桐山さんがうちで働いてくれれば、新たな取引先の確保ができるかもしれない。俺は現状を話し、協力してもらえないか桐山さんに持ちかける。じゃあ、10社と契約できたら、俺を雇用してもらうってのはどうです、と言ってきた。さすがに無理でしょう、と止めたのだが、桐山さんはやる気だ。1週間後、完全に退職した桐山さんがやってきて、前職時代から温めていた人脈リストを持ってきた。今からここに行ってきますね、と颯爽と工場を出ていく。その1時間後、早速桐山さんから電話が来て、一社、契約が取れました。早速、明日詳しい話をしに行きますよ、と言った。その数はみるみる増え、1週間で本当に10社との契約を果たしたのだ。なんだ、この人。うちの職人たちも目を丸くする。10社と言っても、1社あたりは大手ほどの発注ではないので、今までくらいの作業量だ。だが、桐山さんは、もう少し効率を上げたいです。AIに任せられる部分が増やせないか検討してください、と言い、俺もはっと気づかされた。1ヶ月で今までの受注を超え、一部さらにAIを追加し、増産できる仕組みを作った。桐山さん、あんた、何なんだ?と俺は笑った。桐山さんは、いやあ、ここの営業するの楽しいですよ。なんせ、売れるポイントが山ほどありますからね、と満足そうだ。

そんな時、従業員が俺たちのところに駆け込んできた。社長、出先でトラブってる人がいます。岡田と名乗っていますが。俺と桐山さんは目を合わせ、工場の入口に足早に向かう。そこには岡田の姿があった。岡田は桐山さんを見つけるなり、お前、なんでここに、と言ったが、退職した私がどこで何してようと、あなたに何か関係がありますか?と反論されたら黙った。そして、ご要件は?と俺が聞くと、岡田は焦ったように、海外に変えたら、使うたびに手が汚れるとか、キャップがうまく閉まらないとか、クレームの山だ。それにブランドイメージも失墜している。なんとかしてくれ、と言ってくる。桐山さんは、だから言ったじゃないですか、と鼻で笑った。俺も、どうにもできません。うちはもう契約を切られた身ですからね、と答える。岡田は、そこをなんとか頼む、と懇願してきた。俺は、安い海外工場にISOを指導すればできるんじゃなかったんですか、と言うと、岡田は、そうだ。分厚い資料を導入し、完璧な対応をした。それなのに、なぜこんなことに、と呻く。俺は桐山さんと目を合わせると、くすっと笑った。あんなに偉そうに言っていたくせに。ISOは書類を揃えるだけでクリアできるとでも?桐山さんがそう言って、完全にとどめを刺してくれた。俺は続ける。どんなに丁寧にマニュアルがあったって、現場の精度や意識が伴わないと意味がありませんよ。日本の町工場の長年の積み重ねでできた精度を、舐めていますね。桐山さんが俺の言葉に頷いた。岡田は、悪かった。舐めていたわけじゃないんだ。ただ、コストカットするにはこれしかなかった、と謝罪のような言葉を述べているが、その態度はふてぶてしい。俺は、他の海外工場にでも頼んでみたらどうですか、と言うと、岡田は、それが、上から、ここの工場は品質の管理が徹底されていて、なぜ契約を切ったのかと聞かれてな。あの町工場では増産ができないから、と伝えたら、出荷が遅れてでも、もう一度契約をしてこいと言われたんだ、と返す。岡田は、そういうわけで契約書を持ってきた。契約金は今までと変わらない。なるべく早めの納品を頼む、と、この後に及んで上から目線。俺はその契約書を受け取らず、ゆっくりと息を吸い、言葉を選んだ。無理ですね。うちはすでに10社以上、新たな取引先ができまして、御社の分を生産する余裕はありません。岡田は驚いた表情で、10社?でも、その10社よりもうちの方が価値があるだろう、と聞いてくる。俺は答えた。いいえ、うちがトレサビリティやISOを徹底していることも知らず、優秀な担当者を手放すような人には、全く価値を見出せません。ISOは別に大手の特権でもありませんし、我々にとっては当然のことです。うちはクラウドで全ての製造ログを自動管理していて、私のスマホでも常にその過程は見られるようにしています。品質管理を徹底するというのは、こういうことです。その価値も分からず、海外工場へなんて言う人とは、これ以上の取引に関わるつもりはありません。岡田は即座に、いや、それは困る、と言って粘っているが、俺は、お引き取りください、と追い払った。岡田は、桐山、お前、何を吹き込んだんだ?と桐山さんを睨みつける。桐山さんは、別に何も。この工場の素晴らしさを、僕は以前から知っていましたからね。なんせ、この工場を見つけたのは僕ですから。自分が素晴らしいと思っているものを営業先でプレゼンするなんて、簡単なことです。この後も商談が入っているので、さっさとお帰りください、と言って、完全にとどめを刺してくれた。俺は、後悔先に立たず。まさに、今のあなたですね、と言うと、桐山さんが笑った。岡田は俯いてため息をつき、肩を落としながら工場を出ていく。その姿を見た桐山さんは、あの人、多分この先、あの会社ではやっていけないですよ、と小声で呟いた。

それからしばらくして、桐山さんが、そういえば、岡田部長、平社員に降格したみたいで。周りから陰口叩かれてるのに耐えられなくて、自主退職したらしいですよ。退職したところで、あの態度じゃ、再就職も難しいだろうなって、俺の元上司が言ってました、と教えてくれた。その後も桐山さんは次々と契約を取ってきて、俺も新しいAIの仕組みを開発していく。量産はするけれど、品質は絶対に落とさない。その信念に共感してくれた企業からの受注がたくさん入ってくる。桐山さんと相談を終え戻ってくると、父が俺たちのところに歩いてきた。桐山さんに向かって、うちの息子をよく支えてくれた。ありがとう、と短く、しかしまっすぐに言ったのだ。桐山さんは少し目を丸くしてから、いえ、こちらこそです、と深く頭を下げる。父は俺に向き直り、いいパートナーを見つけたな、と笑い、肩を叩く。俺は、まだまだ忙しくなるから、親父もしっかり働いてくれよ、と肩を叩き返すと、人遣いの荒い息子だなあ、と笑って去っていった。俺は桐山さんに、これからも頼みますよ。世界が広がるかもしれないですね、と笑うと、桐山さんも、任せてください、と胸を張る。うちの工場は、まだまだ進化するぞ。これからも、仲間と共に頑張っていこうと思う。

中卒の元課長は勘違いだ。消えろ。大企業へ特許契約に行くと、偶然同級生に再会。順調に契約できそうだったのに、この男から追い払われそうになったのだ。当時から変わっていない態度に、俺はふつふつと怒りが湧いてきた。俺の名前は山口、65歳でついこないだ定年退職をした。少し前までは工場勤務の課長職。俺はわけあって中卒なのだが、研究や技術を磨くのが趣味みたいなもので、実力主義の社内で課長までのぼった。中卒では異例だと言われている。定年を迎えてもシニアスタッフとして働く道もあったのだが、俺はもう少し自分なりに研究をしたくて、退職を選んだ。というのは建前か。実力を認めてくれてはいたものの、なんで中卒が、という人間も少なくなく、シニアスタッフとして働くようになれば、そういった連中に下に見られるのが分かっていたからだ。俺が中卒なのは、家庭の経済事情だ。父は工場で働いていて、俺の原点は父の仕事場にある。ただ、俺が中学在学中に父が病気で倒れてしまい、母が代わりに働きに出た。俺の下に弟がいて、弟には大学に行く夢があったし、それを叶えてやりたいと、俺は中学を卒業すると働き始めたのだ。その時、小学校の頃からのクラスメートである田中という男には、随分と馬鹿にされたものだ。田中は機会あるごとに、俺につっかかってくる。確か、親の実家が金持ちで、生活に困っている俺の暮らしなんて想像できなかったのだろう。よく俺に、貧乏人が、と言って笑っているようなやつだった。今思えば、俺は成績はそれなりによく、いつも田中より少し上の順位にいたので、自分よりも下に見ている俺に成績で抜かされたのが気に入らなかったのだろう。そんな嫌なやつは、地元でも有名な進学校に入り、何年か浪人した後、大学に入ったという。そして5年前の同窓会で、大企業の役員になったと自慢していた。興味がなかったのでどこの企業だかは知らないが、とにかく役員という上の立場だと、言いふらしていた。俺は中小企業の課長。立場は雲泥の差だが、俺は俺で幸せな生活を築いていたし、特に気にしてはいなかった。まあ、案の上、田中は俺のところに来て、中卒がよく働いてるな。お前の会社はろくなところじゃないんだろうな、と笑ったのだ。そしてさらに、田中は、中卒は定年近くまで勤めても課長止まりなんだな、などと煽る始末だ。当時は一緒になって笑っていた奴らも、おい、やめろよ、と田中を止める常識人になっていた。変わってないのは、田中だけだ。同級生によると、田中はコネで入社し、コネで昇進したという。嫌なやつではあるが、俺の人生にそう関わることはないだろう。そう思っていた。

俺は定年退職をして、会社を立ち上げた。技術的なサポートを支援する会社だ。俺は定年が近づいた頃、業務外の時間を使って研究し、退職直前に個人で特許を取得していた。会社の業務とは無関係な研究だったので、権利は完全に俺個人のものだ。定年まではそれを広めることができる時間もなかったので、これを機に技術を広めたいというのもあった。この特許というのは、簡単に言うと、めちゃくちゃ硬い合金だ。この硬さであれば、トンネルの掘削機にも使用できる画期的な発明だ。俺は早速、これを扱ってくれる会社はないかと、トンネル掘削機を扱う重工業メーカーに連絡をする。いきなり業界トップに連絡するのはどうなのかとも思ったが、断られたら断られたで、他に売り込めばいい。そんな気持ちで電話をしたが、話してくれた人物は意外にも高職だった。俺の特許のことも業界誌で見たとのことで知っていて、俺に連絡しようと思っていたというのだ。話はトントン拍子に進み、2日後、俺はその企業のビルの前にいた。受付を済ませ、案内された場所に座る。小規模な打ち合わせなどができるようで、パーテーションで区切られた広々とした空間。俺が勤めていた工場にはない、おしゃれな場所だ。警備員も配置され、大企業だとと思わせる。電話で話した人物は吉田という男だったが、担当者は役員の田中という人物らしい。電話口の反応はかなり良くて、すぐにでも契約してくれそうだったし、俺は期待しながら目当ての人物が来るのを待っていた。この技術を知ってもらえれば、きっとこの企業の力になる。俺はそう確信していた。しかし、待てども待てども、相手は来ない。一度、別の社員が、もうしばらくお待ちください、と声をかけに来てくれたので、俺が来ていることは分かっているのだろう。だが、さすがに30分経つと、俺も、そんなに待たせるのか、と不満が募っていく。30分も待たせるのか。だが、相手は大企業だ。こちらの都合など、知ったことではないのだろう。俺は深呼吸をして、資料を何度も確認した。そんな時、こちらです、と若手の社員に案内されて、男がやってきた。ようやく担当者が来たか、よかった、と思ったのも束の間、その顔を見てひっくり返りそうになる。相手は、お前、山口。同じように驚いている。そう、田中という担当者は、俺の同級生で、嫌味なあいつだったのだ。田中がどこかの大手企業に務めているということしか知らず、実際に務めている企業がどこかは、聞いたことがないし、興味もない。お互い、どこにでもいる苗字なので、気づきもしなかった。田中は、なんだよ。ダイヤモンド並の強度としなやかさを兼ね備えた超硬合金だって言うから、話を聞いてやろうと思ったのに、お前かよ、と息をつく。その言葉に、俺は顔をしかめた。田中は嘲笑を浮かべて言った。中卒のお前が、何を作れるって言うんだ。どうせ、既存技術の焼き直しだろ。もし本当に価値があるなら、大学の研究室やメーカーが先に目をつけているはずだ。こんなわけの分からん売り込みに時間を割いている暇はないんだよ。帰れ、帰る。田中は、しっしっと、俺を追い払う仕草を見せた。すると、田中を案内してきた社員が口を挟む。あの、これはトンネル掘削機に使える素晴らしい技術です。この技術は我が社に必要です。あのプロジェクト、このままじゃ凍結してしまいますよ。田中はその社員に向かって怒鳴った。吉田、お前ごときが口を挟める問題ではない。吉田と呼ばれたことで、俺はこの男が最初の電話の人物かと気づく。吉田は唇を噛み、俺に申し訳なさそうな目を向けた。この人には、まだ良心が残っているんだな。だが、こんな会社で、その良心は潰されていくのだろう。あのプロジェクトって何だ?何か問題があるのか?吉田に同情した俺は、助け舟を出そうと聞いてみた。しかし、田中は、お前には分からないようなプロジェクトを、我が社ではいくつも抱えてるんだ、と嫌味な笑みを浮かべるだけだった。そして、中卒の元課長は勘違いだ。まともな売り込みだと思ったんだがな。お前みたいな奴は必要ないよ。消えろ、と言い放った。吉田は気まずそうな顔して立っている。ここまで言われて、さらに食い下がるなんて、見苦しいだけだ。俺は短く、分かりました、と言い、田中に頭を下げて退出した。

その足でもう1社、アポを取っていた企業に向かう。こちらの企業は田中のところほど大きくはない。だが、最近力をつけている注目の企業といったところだ。社長の小泉さんは俺と同年代だそうで、電話で話をした時に、社長自ら話を聞きたいと申し出てくれた。田中の会社に先に行ったのは、単なるスケジュールの都合だ。小泉社長が午後にならないと戻らないというので、午前中に田中のところへ行っただけ。特に田中の会社の方が優先と考えていたわけではない。少し時間を潰してから、小泉社長のところへ向かった。失礼のないように10分前には着いていたのだが、通された応接室には、すでに小泉社長がおり、笑顔で俺を迎えてくれる。俺が資料を出し説明を始めると、熱心に話を聞き、鋭い質問を飛ばしてきた。そして、山口さん、素晴らしいですよ、と握手を求めてくる。なんともフレンドリーな人だ。俺は実物を持ってきていたので、それを取り出し小泉社長に手渡した。それを受け取った小泉社長は、山口さん、疑うわけではないのですが、一度試してみてもよろしいでしょうか、と提案してくる。俺は自信もあったので、ええ、ぜひ試してください、と前のめりで答えた。応接室を出て少し歩くと、自社工場があった。最新のドリルだが、これに勝てるかな、と小泉社長は、少年がいたずらを考えついたような顔で俺を見てくる。言っておきますが、このドリルが壊れても、私は弁償しませんよ。俺も、少年時代の喧嘩を思い出すように、小泉社長に対抗した。もちろん、そんな責任を押し付けるようなことはしないよ。豪快に笑った小泉社長。俺の用意した合金を、ドリルが削ろうとする。俺と小泉社長、真剣な対決を見ようと集まった社員たちが見守る中、戦いの火蓋が切られる。小泉社長がスイッチを入れると、最新ドリルが轟音を立てて回転を始めた。社員たちが固唾を飲んで見守る中、ドリルの先端が俺の合金に触れる。キーンという金属音が響き渡り、火花が激しく散る。焦げた金属の匂いが鼻をつく。ドリルは全力で削ろうとするが、合金はびくともしない。むしろ、ドリルの歯が赤くなり始めた。10秒、20秒、そして30秒後。バキッ、乾いた破砕音と共に、ドリルが粉々に砕け散った。破片が床に散らばり、合金だけが無傷のまま輝いている。次の瞬間、おおっ!小泉社長の雄叫びと同時に、社員たちからも、すげえ、本物だ。ドリルが負けた、と歓声が上がった。このドリルが負けたというのか。小泉社長は、ドリルを粉砕した合金を持ち上げ、まじまじと見た。すごい。宝物を発見した少年のように、小泉社長はにやりと笑う。そして、山口さん、ぜひ独占契約を結ばせてください。この素晴らしい技術で、契約しますから、と言ってきた。俺は、小泉社長の人柄に惚れ込み、すぐに大きく頷いた。その後、細かい内容を詰め、気がつけばすっかり時間が経ってしまう。山口さん、一杯どうですか?という小泉社長の話に乗り、俺たちは居酒屋で話し込んだ。俺が昔の話をすると、弟さんのために進学を諦めたんですか、と質問される。俺は頷いた。ええ、でも、後悔はしていません。弟は優秀なまま大学を出て、今も活躍しています。それに、弟は俺に敬意を持ってくれているんですよ。俺は高校に行かなかった分、人生経験を積めましたし、こうして実力を認めてくれる小泉さんのような人とも巡り合いましたから。すると小泉社長は、なんていいやつなんだ、と泣き出した。どうやら泣き上戸らしい。その夜、俺たちは親睦を深め、翌日から新たなプロジェクトに向けて動き出した。俺の開発した合金と小泉社長の会社の技術を合わせ、今までになかったトンネル掘削機の開発を進める。実は、ある大手のトンネル掘削プロジェクトが難航しているという噂を耳にしましてね。小泉社長の言葉に、俺はピンときた。詳しく話を聞くと、やはりそれは田中のいる会社のことで、小泉社長は、岩盤が硬く、田中の会社のトンネル掘削機では歯が立たないという噂を聞いたそうだ。だから、うちで開発したものを発注元に売り込んでやろうと思うんですよ。小泉社長はそう言って笑った。田中の会社は、大手ということを鼻にかけ、中小企業を潰すようなことを何度もしているそうで、小泉社長も過去に何度も煮え湯を飲まされているという。昨日飲みに行った時に、当たり障りのない範囲で、俺が田中の会社に売り込みに行ったこと、担当者がかつての同級生で、そいつに嫌味を言われていたことなどを話していた。それを聞いた小泉社長は、我々の敵は同じだな、と言ったので、俺も成功報酬で復讐してやろうと、俄然やる気が上がったのだ。

数ヶ月後、開発していたトンネル掘削機が完成。俺は今後の展開について小泉社長と相談すべく、応接室を訪れていた。小泉社長はすでに発注元に話をつけていて、売り込む手立てをしているところだという。そんな時、衝撃のニュースが流れた。社長、大変です、と小泉社長の会社の社員が応接室に駆け込んでくる。テレビをつけると、地下トンネルの掘削中にメインシャフトが歪み、完全にストップしてしまったというニュースが流れている。これは、田中の会社のトンネル掘削機の話だ。責任者として、田中のインタビューが映し出されるが、あ、まだ確認中でして、何もお伝えすることはありません、と繰り返すだけだった。これ、完全停止してますよね。前にも後ろにも進めない状況だとしたら、俺は、この後に起こりうる悲劇を口にした。小泉社長も頷き、ああ、このまま掘削機が放置されれば、最悪、真上の道路が陥没するぞ、と言い、電話をかけ始めた。この事業の発注元への連絡だ。発注元の責任者は、俺たちの新しい掘削機の導入をほぼ決めていたので、田中の会社には無理をするな、と伝えていたらしい。だが、田中が身を張った結果、とんでもない事故になってしまったという。山口さん、こいつを持って、今すぐ現場に行くぞ。小泉社長の声に、俺も頷く。社員たちも一緒に新しいトンネル掘削機を運び、田中の会社の掘削機を救い出すつもりだ。今は復讐とか、そんなこと言っている場合ではない。周辺住民も不安に思っているだろう。とにかく、今、俺たちにできることをやろう。俺と小泉社長の意見は一致していた。2時間かけて現場に着くと、報道陣が群がっている。田中の姿もあるが、何もできないまま、先ほどと同じように確認中だと報道陣に説明しているようだ。俺の姿を見つけた田中は、お前、なんでここに、と吠えた。お前に突っぱねられた特許技術で、新しいトンネル掘削機を開発した。これなら、別ルートから最速で穴を掘り、お前のところのマシンを掘り出せる。俺の説明に、ふざけるな。お前の手などを借りん、と田中は激昂するが、俺は一喝した。田中、今はお前がどう思うかの問題じゃないんだよ。技術じゃなく、見えだけで生きてきたお前に、技術者の誇りは分からないかもしれないが、今はマシンを掘り出して、これ以上被害を大きくしないことが最優先だ。その間に、小泉社長は発注元の責任者と話し合い、段取りをつけてくれていた。田中の会社の現場担当者たちも加わり、マシンの救出計画を立てる。俺たちはすぐに作業に取りかかった。現場は緊迫していた。報道陣が遠巻きに見守る中、俺たちの掘削機が唸りを上げて岩盤を削る。田中の会社の現場責任者たちも最初は疑心暗鬼だったが、次第に、これは行けるかもしれない、と色めき立つ。2時間が経過した時、岩盤の向こうに空洞を確認。作業員の声が響いた。3時間後、田中の会社のマシンは1ミリも進めずシャフトを歪ませた岩盤にたどり着く。田中は、無理に決まっている、と言っていたが、俺たちのマシンは難なく突き進んだ。現場の作業員たちからも歓声が上がる。こうして無事マシンを救出。道路の陥没という最悪の事態は免がれた。だが、発注元の責任者は、田中に対し、あなたの強行のせいで、危うく大事故になるところでした。今回の損害賠償はもちろん、今後の全プロジェクトから御社を外させていただきます、と言い放つ。田中は、申し訳ありません。今後はこのようなことのないように、と食い下がるが、俺は田中に言った。今後なんてないんだよ。俺の技術を勘違いだと言ったが、お前の方が勘違いだ。小泉社長は俺の隣で頷いた?田中さん、山口さんに謝罪し、すぐさま賠償金の支払いに取りかかるべきですね。その瞬間を、テレビカメラが捉えていた。田中の情けない姿が、全国放送されたのだ。その後、田中の会社の株価は暴落。テレビを見た同級生からは、心配の声や田中を馬鹿にする声が届いた。田中はコネで役員になっていたというので、さほど痛手では済まないかと思いきや、今回の責任は重大だった。田中は社内規定を無視して、独断で工事を強行したという。そのため、会社は田中個人に対しても損害賠償を請求する方針を固めたそうだ。役員としての責任は重い。そして、田中はこの業界から追放されたと、小泉社長が同業他社から聞いたという。同級生から連絡が来た内容によると、田中は実家に戻ったそうだが、いつの間にか実家が売却されていたという。全てを投げ打って損害賠償に回したのだろう。その後の田中の行方は、誰も知らない。

数日後、小泉社長と打ち合わせをしていると、珍しく弟から電話があった。弟は大学教授として忙しく働いているので、連絡が来ることなど滅多にない。何かあったのかと心配しながら出ると、弟は明るい声で話し出す。兄貴、すごいじゃないか。テレビ見たよ。兄貴は道路陥没から街を救ったヒーローだな。俺も同僚や生徒たちに自慢しちゃったよ。俺の兄貴はすごいだろって。弟の素直な賞賛が、なんだかくすぐったかった。弟は続ける。今の俺があるのは、大学まで行かせてくれた兄貴のおかげだ。改めて、ありがとうな。その言葉が妙に照れ臭く、バカ言うなよ。俺は勉強よりも早く社会に出たかっただけだ。お前に感謝されることなんて、何もないんだよ、と、はぐらかした。目頭が熱くなる。弟は、今度、お祝いに飯行こうよ、と言って電話を切った。目頭を押さえる俺に、小泉社長が、弟さんですか?素敵な兄弟ですね、と言うので、ますます泣けてきて、俺は袖で涙を拭う。顔をあげると、小泉社長と目があった。世界中から依頼が来ていますよ。忙しくなりますね、と言われ、俺は大きく頷く。これからも、この技術で世界中を助けていきたいと思う。よし、頑張るぞ。

ゴミはゴミ箱へ。常識だろう。目の前の男、俺の上司である部長が言う。部長は、俺を海外出張に追いやっている間に、俺がメインに開発した安全装置の試作品を捨てたと言ったのだ。俺はあまりの衝撃で、目の前が真っ暗になった。俺の名前は堀越、39歳の会社員だ。自動車部品メーカーで技術開発部の課長として働いている。そんな俺は、つい3日前まで海外出張に出ていた。どうも現地工場で不具合が発生したようで、日本の技術者に直接確認をしてほしいと要請があったのだ。海外出張は2週間近くにもなったが、俺としてはすぐに出社するつもりだった。ところが、部長の須賀川は、時差ボケ解消と出張の疲れを癒すために、と3日間の代休を取るように進めてくれたのだ。珍しいこともあるものだと思いながら、ありがたく3日間の代休をもらって、日本の会社に復帰した。代休中も、結局やりかけになっている仕事などが気になって落ち着かなかった。特に気になっているのは、俺がリーダーとして開発を進めた特許安全装置だ。3年ほど前に俺が開発した特許センサーを組み込んでいるもので、自動車や大型トラックに取り付ける想定のものである。運転中の視線や反応速度などをセンサーで分析し、AIが警告や減速、自動停止をサポートするものだ。この安全装置は、車の制御系に軽く手を加えれば取り付けられる設計にした。これは、高齢者の運転に着眼して開発を始めたのだ。年々、高齢者の運転による痛ましい事故のニュースが耳に入る機会が増えたように思う。免許返納という声も一理あるが、田舎に住む高齢者にとっては、車の喪失は重大な問題だ。また、物流業界の人手不足により、長時間運転などの過労も問題視されている。センサーで判断力低下を察知し、警告できれば、居眠り運転などの防止にもなる。情報を記録することも可能なため、業界の実態把握にも貢献できるはずだ。みんなが安心、安全に暮らしていける一助になりたいと思った。その特許安全装置のことが気がかりで、俺は休みの間も難しい顔をして過ごし、ゆっくり休める時に休めなくてどうするの、と妻に苦笑されてしまった。よし、気合い入れていきますか。会社の駐車場に車を止め、俺は颯爽と車を降りた。俺は会社に着くと、真っ先に技術部の保管ルームへ向かう。ここには試作品や、それに関係する機密資料などを保管するロッカーがある。鍵は暗証番号の入力で開けられるタイプだ。俺は数字を入力し、保管庫を開く。そこで俺は驚愕した。ない。思わず立ち尽くした。保管庫の中身は、綺麗さっぱり何もない。出張に行く直前では、確実に試作品と資料などが入っていた。安全装置は小型ではあるが、さすがに豆粒ほど小さいわけではない。どう見ても、無くなっている。いや、俺が不在時に部下が開ける場合は、必ず俺に報告する必要がある。出張中、誰からも保管庫に関する連絡は来なかった。帰国したか、どうしたのか。背後から声をかけられ、俺は驚いて振り返った。いつの間にか、すぐ後ろに見慣れた人物が立っている。お、おはようございます。須賀川部長。俺がひとまず挨拶をすると、保管ルームに入っていくお前が見えたから、後を追ってきたのさ、と須賀川は、なぜかニヤニヤしていた。実は、大変なことが。俺がすぐに保管庫の異常について報告しようとしたが、須賀川が遮るように口を開く。もしかして、あのゴミ、いや、特許の安全装置の試作品を探しているのか?ゴミという言葉は聞き捨てならないが、俺はあえて聞き流す。正直、それどころではないからだ。何かご存知なんですか?保管庫の暗証番号は、緊急時に対応できるように部長と課長も把握している。もし部長が行方を知っているなら、本来はほっとすべきなのだろう。けど、なぜか安心できない。須賀川の笑顔を見ていると、そんな気持ちになる。そもそも、俺は須賀川と良好な関係を築けているとは言えない。学年の頃から、俺ははっきりと嫌われているのだ。須賀川は、有名大学をストレートで入学、卒業したことが自慢で、いつも部下たちに自慢げに語っていた。しかし、須賀川は口先ばかりで、日々の仕事には情熱がなく、出世欲だけがあった。下の者の手柄を横取りするなんて当たり前で、事情を知る内部の者たちからは煙たがられている。俺が須賀川から決定的に嫌われたのは、3年前に特許センサーを開発した時だろう。俺がほぼ個人で開発したものを、部長主導で開発したことにされそうになり、一悶着あったのだ。最後に、こんなの役に立つものか。どうせゴミだ、と怒鳴られたのを今でも覚えている。あの時から、仕事上でもネチネチした嫌がらせ行為が増えた。そして、この特許装置の開発が進むにつれ、部長の嫌がらせ行為が少しずつエスカレートするようになり、俺は警戒を強めていた。今回の海外出張も、最初は課長が、という話になっていたのだが、課長がいないのは困る。堀越、お前が面倒を片付けてこい、と部長が言い出して、俺が行くことに決まったのだ。俺が思い返している間に、須賀川は一歩前に踏み出した。お前が作ったあのゴミの行方。ああ、知っているとも。ゴミはゴミ箱へ。常識だろ。俺は嫌な予感が確信に変わり、思わず拳を握りしめた。お前がいない間に、捨ててやったよ。おかげで保管庫の中身が綺麗になってるだろう。感謝してくれよな。須賀川はそのまま、すっと俺を指さした。そして、ドヤ顔で告げる。お前は用済みってことだ。ゴミと共に消えろ。面倒な海外出張を片付けてくれた上に、存在まで消えてくれるならありがたいよ。首宣告も当然の言葉だ。しかし、それよりも俺は須賀川を問いただす。あ、あの試作品は重要な契約の。須賀川部長だって分かってるでしょう。あの特許の安全装置は、今抱えている重要な契約に向けての試作品なのだ。あれがないと契約は進まない。下手をすれば破談だ。あの契約の場で提出するだけだったので、あえて誰にも触らせなかったのだろう。須賀川が何を考えているのか分からない。俺が気に食わなくてやった行動にせよ、自分だって火の粉が降り注ぐはずなのに。だというのに、今もなお須賀川は余裕がある。それが不気味でたまらない。いいか?あの特許の安全装置の試作品は、堀越、お前が捨てた。いや、紛失したんだ。海外出張の前に紛失して、今まで俺や課長にも黙っていた。さ、早く、部下のうちの誰かに罪をなすりつけようと画策しているところを、部長の俺が見つけて問い質した、というわけだ。何を言っているんですか?須賀川はさらに続ける。お前の大失態で、せっかくの契約が白紙になりそうなところで、俺がさらに優れた試作作品を用意して、先方の心をつなぎ止める。一躍、俺は会社の英雄になれるってわけだ。俺は愕然とした。本当に須賀川の考えが分からなかったからだ。言い方は悪いが、ネジが飛んでいるとしか言い用のない思考回路である。つまり、実際は須賀川が俺の試作品を捨てたのだが、俺の失態だと上に報告する気なのだ。俺の顔を見て、須賀川が吹き出す。ふん。これでお前はもう終わりだな。俺の目につくような行動ばかりしなければ、こんな目に合わなかったのに。優秀な人間に盾突くような真似ばかりするから、こうなる。感情が限界に達して、むしろ虚無感が襲ってくる。俺は淡々と吐き捨てた。目につく行動。盾つくような真似。私は、自分に任された仕事と全力で向き合っていただけです。須賀川は唸る。だから、そういうのが気に入らないんだよ。課長でさえ、俺よりもお前を頼りにする。部署のトップは俺なのに。お前、いつか俺を蹴落として部長の座を奪うつもりだったんだろう。俺には、全部お見通しなんだ。須賀川は、俺がいずれ自分を出し抜いて部長になるのではという噂を聞いたという。今回の安全装置の話がまとまったら、それが実現するのではないかと、須賀川は気が気じゃなかったらしい。これだけ厳重なセキュリティで保管していて、俺が自ら開発した安全装置を紛失して捨てたなんて、誰も信じないだろうに。俺は、ああ、そうか、と苦しんだ。ごく普通の常識的な思考ができないくらい、須賀川は自分で自分を追い詰めてしまったのだろう。しょうもないプライドを守るために、俺を勝手に敵視して妄想して、こんな暴挙に及んだのか。わざわざ、俺を海外出張で会社から追い払ってまで。人を蹴落とすことに頭を回すくらいなら、やるべきことをやって、部下を思いやればいいのに。そう考えずにはいられない。この男は、もうとっくに一線を超えてしまった。これ以上関わっていたら、何をしてくるか常人には分からないな。家族に手を出されたら困る。俺が苦笑を漏らしているのを見て、須賀川は眉を潜めた。おい、何を笑ってるんだ。よく分かりました。では、私はこれで失礼します。俺は須賀川を無視して、そのまま保管ルームを出る。その時、廊下で誰かとすれ違ったような気がするが、もう誰とも話したくない心境だった。俺は無言で席に着くと、退職届を書き上げ、課長に渡した。部下や課長が驚いて口々に声をかけてくれるが、何も聞こえない。俺は荷物を掴み、会社を出た。

それからおよそ3日。俺は家で過ごしていた。俺の心はもう限界だったのだ。唐突に須賀川の悪意に触れ、思った以上に俺の精神はダメージを負ったらしい。妻には事情を話してあるが、それ以来、俺はほとんど自室にこもっている。せめて次の職を探すために情報収集はしているが、頭に須賀川の邪悪な笑顔がちらついて、気分が悪くなる。俺がこうして黙って退職し、特許の安全装置もない以上、準備していた大きな契約も白紙となったに違いない。やはり、俺が紛失したと、須賀川は報告したのだろうか。上はそれを信じたんだろうか。あの特許の安全装置は、うまくことが運べば、経済効果270億円が期待できる契約の重要な要素だった。俺は額に手をやって、一人、首を横に振る。いや、このままじゃダメだ。俺がもし責任を追うことになれば、家族に迷惑がかかる。それだけは絶対に避けないと。自分のせいで家族が不幸に見舞われる。そんな想像をするだけで、ぞっとした。今からでも弁護士とか誰かに相談。そう思い立ち、俺はスマホに手を伸ばし、電源を入れた。課長?それに、みんなも。着信履歴には、たくさんの人間の名前が並んでいる。課長を始め、部下たちからも何件も連絡が入っていた。帰ってから時々連絡が来ているのは知っていたが、返事を返す気力がなくて、電源をオフにしていたのだ。履歴の中には、留守番電話のメッセージも含まれていた。再生すると、課長の穏やかな声が俺の心配をしてくれている。このメッセージを聞いたら、どうか折り返し連絡が欲しい。君は今、失望や不安の真っただ中かもしれないが、事態は思ったより悪くない。私を信じて、どうか頼む。どういう意味だろう、と俺は首をかしげた。少し迷った末に、俺が課長に電話をかける。ああ、堀越君、よかった。大丈夫かい?体を壊したりしていないかな?課長は、黙って退職届を出した俺を叱るどころか、開口一番、俺の身を案じてくれた。私も、みんなも、堀越君を心配していたんだよ。あ、ありがとうございます。それから、申し訳ございません。私は。俺が拙く言葉を続けようとすると、課長は、いいんだ、と俺の言葉を遮る。事情は知ってる。須賀川部長が、みんなに吹聴して回っていたから。だけど、誰も信じてないよ。もちろん、社長もね。ど、どういうことでしょうか?部署のみんなが俺のことを信じてくれるのはまだ分かるが、社長まで。俺の疑問を察したのだろう。課長は続けた。まあ、有力な証言者が現れたんだよ。須賀川部長の報告は全て嘘で、堀越君を落とし入れるための策略だとね。それを電話で説明してもいいんだが。堀越君、急ですまないが、会社に来るかな?社長も、じきに君と話がしたいとおっしゃっているんだ。俺は課長との電話を終えると、すぐに準備を始めた。部屋から出ると、妻が少し驚いた顔をしている。あなた。妻が心配そうに口を開いたのを見て、俺は妻の手を握る。心配かけてすまない。もう、俺は大丈夫。何があっても、家族に辛い思いをさせたりしないから。妻は何か言いかけていたが、静かに微笑んで、俺を見送ってくれた。

俺が会社に着くと、課長や部下たちが俺を出迎えてくれた。待っていたよ、堀越君。今回は、本当に災難だったね。今ちょうど、社長からも連絡が来たところだ。堀越君が来たなら、ちょうどいい。行こう。課長に言われるがまま、たどり着いたのは社長室だ。中から、男のすすり泣くような声が聞こえてくる。異様な空気感に、あの、これは一体、と俺は課長に尋ねた。入れば分かるさ。課長と一緒に社長室に入ると、後ろ向きの男性が社長に向かって土下座しているところだった。突然の光景に、俺はぎょっとする。まさか、須賀川部長?俺が思わず口走ると、土下座の男性がびくっと体を振わせる。体勢を起こしてこちらを振り向いた顔は、紛れもなく須賀川だった。しかも、涙と鼻水で顔がひどく汚れている。よく来てくれたね。社長は俺と課長にソファーに座るよう促し、俺に向かって深く頭を下げた。社長として、今回の件に責任を感じています。本当に申し訳ありませんでした。俺が呆然としていると、課長が苦笑する。有力な証言者が現れたと言っただろう。君は気づいていなかったようだが、実は、君と須賀川部長の会話を聞いていた人物がいたんだ。え、その瞬間、俺はあることを思い出す。そういえば、須賀川とのやり取りの直後、誰かとすれ違った気がする。ただ、見覚えのない顔だったこともあり、あまりよく思い出せない。社長が、課長の言葉をフォローするように言う。実は、その人物とは、私の息子でね。最近まで支社にいたし、君が顔を知らないのも無理はない。最近、本社に呼び寄せたんだよ。私の代わりに安全装置の件の進捗を聞きに行こうとしていたところ、保管庫に君に続き、須賀川部長が入っていくのを見て、後に続こうとしたらしいんだ。なるほど。その際に、須賀川が本性をさらけ出したため、入るに入れなくなってしまったというわけか。あるいは、その場で問い詰めても白を切られる可能性が高いと踏んだのかもしれない。俺はすぐに会社から出て帰ってしまったため知らなかったことだが、俺の退職届に事情を記載しておいたことと、社長の息子が速攻社長に申告した内容が一致したこともあり、すぐに須賀川の嘘は暴かれたそうだ。課長から君とコンタクトが取れたと聞いて、ちょうどいいからと思い、須賀川君を呼んでおいたんだよ。須賀川君自身の謝罪は当然だが、私も、社長として大いに責任を感じていたからね。俺は一気に脱力した。しかし、すぐに、はっとする。し、しかし、安全装置は。そう、結局、須賀川が安全装置を捨ててしまった以上、契約の損失は計り知れない。それなら、大丈夫だ。社長が言う。社長が、社長の指示である箱を持ってくる。その中には、俺が開発した特許の安全装置の試作品が、綺麗に収まっていた。須賀川が、苦虫を噛みつぶしたような表情になる。須賀川が白状した時に、社長に箱を提出しておいたらしい。技術部の備品庫の奥に隠されていたそうだ。それを横目に、課長が言った。須賀川部長は、捨てたと言ったようだが、こんな機械、簡単に捨てられるもんじゃない。ひとまず、捨てたと言っておいて、ゆっくり処分するつもりだったようだよ。俺は震える手で箱の蓋を閉じた。ほっとしたやら、呆気に取られるやら、複雑な感情でいっぱいだ。さて、須賀川部長。先ほどから黙っているが、何か言うことがあるんじゃないのかな?急に話を振られ、須賀川は小さな悲鳴をあげた。真っ赤になった目で俺を見て、唇をわなわなと震わせている。も、もう、申し訳ございませんでした。その一言が出てこないらしい。プライドの高さゆえなのか、それとも、未だに自分の非を認めたくないのか。どちらかは分からない。俺はゆっくりと首を横に振った。誠意のない謝罪ほど、意味のないものはありませんから、もう結構です。俺の言葉に、須賀川はかすかにほっとした顔になる。その代わり、厳正な処遇を望みます。私は、あなたを絶対に許さない。弁護士にも、今回の件を相談することも考えていますから。俺が吐き捨てるように言うと、再び須賀川の顔が真っ青になる。中身のない、今更の謝罪が、社長室に響き渡った。

この後、須賀川は懲戒解雇になった。須賀川は、最後まで、首だけは勘弁してください、と惨めに泣いて懇願していたらしいが、自業自得である。俺は、須賀川の懲戒解雇と、社長の誠実な謝罪、課長や部下たちの温かな気持ちを受け止めて、会社に戻ることにした。社長は、謝罪の気持ちを込めて、いくらか包んでくださった。お金の問題ではないと一度は断ったが、社長の気持ちを汲み、最終的には受け取ることにした。このお金は、家族と幸せに暮らしていくために、堅実に使わせてもらおうと考えている。もうすぐ、いよいよ安全装置の商談の場が設けられる。この安全装置が、たくさんの人の役に立てる日も、そう遠くないかもしれない。

うちでも作れそうだから、受け取り拒否。俺が5年の歳月を費やして開発し、特許も取得した車の安全装置バネ。しかし、納品先の新しい担当者は、俺の苦労を鼻で笑い、受け取り拒否を宣告してきた。しかし、この担当者は、俺のバネに秘められた技術の高さが、自動車産業の未来を変えるものだということを知らない。俺は担当者に言い放つ。技術を軽視したものへの復讐の一言を。俺は坂本、42歳。父から継いだ自動車部品工場を経営し、部品開発にも携わっている。従業員は20名ほどの小さな工場だが、確かな技術力を売りに、長年やってきた。5年前、工場の売上の7割を占める大手自動車メーカーの田代さんから、新型車の安全装置に使うバネの開発を打診された。田代さんは技術者上がりの営業マンで、長年うちの工場との取引を担当してくれている。田代さんの依頼は、エアバッグやシートベルトに使うバネで、人命に直結する重要な部品だ。確かに、従来品では性能に限界があり、どのメーカーも開発に苦労している。俺は寝る間も惜しんで、バネの研究に没頭した。素材の選定から設計まで、何度も見直す日々。工場の古参従業員で技術顧問の小川さんや、若手従業員たちも開発を支えてくれた。開発開始から3年、ようやく試作品が完成し、すぐに特許を出した。そこからさらに2年、特許の審査を待ちながら、耐久性試験と量産化に向けた実証実験を繰り返す。そして、開発開始から5年目、ついに特許が認可され、量産可能なバネが完成した。このバネは、10年以上劣化しない耐久性を持ち、従来品と比べて作動不良率を10分の1以下に抑えることができる。さらに、極端な高温や低温でも確実に作動し、衝突の強さに応じた精密な制御も可能にした。田代さんに完成品と特許認可を報告すると、目を輝かせながら言ってくれた。素晴らしい。これで新型車の安全性能が飛躍的に向上します。早速、ライセンス契約を結びましょう。自動車メーカーは、この特許バネを使用するため、俺とライセンス契約を結んだ。他の従業員たちに契約を伝えると、小川さんは満面の笑みで言った。社長、これで会社は安泰ですね。俺は、5年間の苦労が報われたことを実感するのだった。

迎えた納品当日。俺は特許バネを積んだトラックで、取引先の大手自動車メーカーを訪れる。受付で田代さんを呼び出してもらうと、30代後半ほどの見知らぬ男が現れた。坂本さんですか?営業部の青木と申します。初対面の男は、名刺を差し出しながら、ややめんどくさそうに続けた。実は、田代が昨夜、持病の発作で入院しまして、急遽、私が代理で対応することになりました。まあ、田代の尻拭いをやらされているわけですが。青木の言葉には、嫌味と不満が滲んでいる。田代さんの病気には驚いたが、納品自体は形式的なものだろうと思っていた。このバネは、近く予定の新型車の安全装置に組み込む予定で、大手自動車メーカーにとって不可欠な製品なのだ。会議室で、俺は慎重に特許バネの入った箱を開ける。青木は、興味なさげに覗き込んだ。へえ、ただのバネじゃないですか。その言葉に違和感を覚えたが、俺は技術を取り出して、丁寧に説明を始めた。このバネは、5年かけて開発した特許製品です。青木は資料を受け取り、興味がないというようにパラパラとめくりながら、鼻で笑った。ったく、こんなもの、なぜ田代が高く評価したのか理解できませんね。青木の顔には、技術を見下すような態度が露骨に出ている。そして、このバネが、各社メーカーが抱えている技術的な課題を克服するものであることを、全く理解していない。俺は我慢して、さらに丁寧に説明しようとした。このバネで、エアバッグの作動信頼性が飛躍的に向上します。10年以上劣化せず、極端な温度でも確実に作動する、人命に直結する重要な技術です。しかし、青木は俺の言葉を遮る。この程度なら、うちの技術部でも作れそうですけどね。青木は、この5年間の努力を一瞬で否定し、資料を机に叩きつけた。そして、納品書を見て、目を剥いた。ちょっと待て。1個5万円?こんな小さなバネが、そんな値段するわけないだろう。俺は冷静に答える。いえ、1ケース10個入りの価格です。1個あたり5000円になります。青木の顔が一瞬赤くなる。恥をかかされたと感じたのだろう。ふざけるな。1個5000円でも高すぎる。こんな小さな部品に、5年もかけるなんて、非効率極まりない。青木の侮辱的な言葉に、怒りが込み上げてくる。青木はバネをケースに戻し、言い放った。1個50円なら、納品させてやってもいいですよ。俺は言葉を失う。5000円を50円。100分の1の価格だ。青木は勝ち誇ったように続けた。まあ、うちでも作れそうだから、受け取り拒否させてもらいますけどね。5年間の努力を、たった50円の価値だと言われ、さらに受け取り拒否。俺の中で、何かがプツンと切れる音がする。分かりました。全て白紙にします。納品も、これからの取引も、そしてライセンス契約も、全部終わりです。青木は鼻で笑った。はいはい。こっちも願ったり叶ったりですよ。俺は特許の箱を抱えて立ち上がった。青木は、勝ち誇った表情で腕を組んでいる。俺は振り返らずに会議室を出た。

工場に戻ると、従業員たちが笑顔で迎えてくれた。しかし、トラックの荷台を見た瞬間、小川さんの表情が変わる。社長、なぜ荷物があるんですか?納品に行ったんですよね。小川さんが不安そうに尋ねた。取引先との契約を解除した。俺が答えると、小川さんが青ざめた顔で聞き返す。解除って、あの大手自動車メーカーとの取引をですか?俺は静かに頷く。それは、売上の7割を占める取引先を失ったことを意味した。翌日、工場は重苦しい空気に包まれていた。従業員たちは黙々と働きながらも、不安の色が浮かんでいる。俺は従業員たちを集めた。みんな、聞いてくれ。技術を侮辱する相手とは取引しない。本当に価値を分かってくれる会社を探す。俺の言葉に、従業員たちは黙って頷いた。その時、小川さんが口を開いた。私に、心当たりがあります。小川さんは、工業大学時代の後輩が、準大手の自動車メーカーで技術部長をしていると教えてくれた。松岡という名の技術部長は、技術者としても評価が高く、会社でも信頼されているという。小川さんの提案に、俺は即座に頷いた。すぐに、連絡を取ってもらえますか?小川さんはその場で携帯電話を取り出し、松岡に電話をかけた。数分後、電話を切った小川さんが、嬉しそうに報告する。松岡は、私の話に飛びついてきました。安全装置用のバネの性能向上は、松岡の会社でも課題になっていて、開発に苦戦しているそうです。ぜひ、話を聞きたいと言ってきました。翌日、俺は特許バネをサンプルとして持ち、準大手の自動車メーカーを訪れる。応接室に通されると、穏やかな雰囲気の男性が現れた。技術部長の松岡です。坂本さん、お会いできて光栄です。松岡は丁寧に挨拶をしてくれた。俺は特許バネを見せながら、技術的な説明を始める。松岡は、真剣な表情で俺の説明に耳を傾けた。時折、質問を挟み、技術的な理解を深めようとする姿勢が伝わってくる。説明が終わると、松岡の目が輝いた。耐久性も信頼性も、申し分ない。松岡は興奮して続ける。坂本さんが開発した特許バネは、まさに我々が求めていたものです。俺の胸に、熱いものが込み上げてくる。技術を正当に評価してくれる相手が、ここにいたのだ。松岡はその場で提案してくれた。適正価格での大口取引をお願いしたい。長期のライセンス契約も、結ばせていただけませんか?提示された条件は、青木が提示した50円とは比べ物にならない。1個5000円という適正価格での取引だった。ありがとうございます。ぜひ、お願いします。俺が答えると、松岡は笑顔で握手を求めてきた。工場に戻り、俺は従業員たちを集めた。新しい取引先が決まった。適正な条件での長期契約だ。小川さんは目を輝かせて叫んだ。本当ですか?よかった。従業員たちの顔に、笑顔が戻る。会社は、危機を脱したのだ。

それから2ヶ月が経過した。新しい取引先との関係は順調そのもので、工場には活気が戻っている。そんなある日、工場の電話が鳴った。事務員が受話器を取ろうとした瞬間、ナンバーディスプレイを確認して手を止める。俺は事前に社員全員に通達していた。契約を中止した大手自動車メーカーから連絡があっても、一切応答するな、と。無視してくれ。俺がそう言うと、事務員は頷いて受話器を取らずにいる。電話は、留守番電話に切り替わった。スピーカーモードにすると、青木の焦った声が聞こえてくる。坂本さん、至急連絡をください。重要な話があります。俺は完全に無視を貫いた。技術を侮辱した相手と話すことなど、何もない。その後も大手自動車メーカーからの電話は続いたが、俺たちは一切応答しない。それから数日後の午後、工場の事務員が俺に伝えに来た。社長、大手自動車メーカーの田代さんがお見えです。俺は驚いて顔をあげる。田代さんは、入院していたはずだ。工場の入り口に行くと、少し痩せた田代さんが立っていた。顔色も、まだ優れない。田代さんは深刻な表情で頭を下げた。坂本さん、お時間をいただけませんか?田代さんは、長年良好な取引関係を築いてきた相手だ。無下にすることもできず、話だけは聞こうと思った。田代さん、とにかく応接室で話しましょう。応接室で腰を下ろした田代さんは、重い口調で語り始めた。坂本さん、今、うちの会社が大変なことになっています。俺は黙って、田代さんの話を聞いた。田代さんは、入院から復帰後、青木が特許バネの納品を拒否していたことを知り、愕然としたという。しかも、その後の対応がさらにひどかった。青木は、うちの技術部でも作れる、と豪語し、営業部長に報告したのだという。青木は営業部長のお気に入りとして知られていて、部長からの信頼も厚い。青木は部長に、バネなら自社でも製造可能で、外注コストを大幅に削減できる、と吹き込んだという。部長は青木の言葉を鵜呑みにし、技術部に同等品の開発を依頼したのだ。田代さんの話では、技術部は当初、この提案に強く反対したらしい。数週間で再現するのは不可能だと。しかし、青木は営業部長を通じて、経営層に働きかけた。会社は当時、株主から厳しいコスト削減要求を受けていた。バネを自社製造できれば数億円のコスト削減になるという青木の提案は、経営層の心を動かす。結果として、技術部には可能性を探れという指令が降りた。技術部は、不本意ながらも、試作してみるしかなくなったという。ここで問題が起きる。大手自動車メーカーは、安全装置のバネ製造を完全に俺の工場に任せていて、ノウハウが蓄積されていなかったのだ。技術部は試作品を作り上げたものの、3割の性能しか出せなかったという。しかし、新型車の最大の売りは、安全性の飛躍的向上だった。田代さんは苦い表情で続ける。坂本さんの特許バネは、耐久性が高い上、どんな環境下でもエアバッグを確実に作動させることができます。この確実性が、衝突時の乗員生存率を向上させるんです。俺は黙って頷く。技術の向上によって生まれた圧倒的な信頼性が、命を守る最後の砦になるのだ。田代さんの声が震える。技術部の試作品では、その性能を実現できませんでした。従来品と同程度の性能しか出せなかったんです。つまり、新型車の目玉である安全性の飛躍的向上という宣伝文句が使えない。それでも、青木は強引に話を進めようとしたらしい。青木は、これで十分、と部長に報告し、新型車への組み込みを進めようとしたんです。俺は眉を潜めた。安全装置に使うバネで、妥協など許されない。田代さんの話は続く。品質管理部門が猛反対したのだ。このバネでは、新型車に対する消費者の期待に答えられない、と指摘したのだ。さらに、開発段階から広告で宣伝していた手前、虚偽広告として問題になる可能性もある、という。結果、予定していた新型車の発売は、無期限延期となった。すでに大々的に宣伝していた。顧客からの問い合わせが殺到しているという。会社の信用も、地に落ちた。田代さんは深く息をついた。開発や広告費だけで、数十億円の損失が確定しています。説明を終えた田代さんは、俺に向かって深々と頭を下げた。青木の対応は、完全に間違いでした。どうか、もう一度、取引を再開させていただけないでしょうか?俺は静かに答える。田代さんには申し訳ありませんが、すでに別の取引先と長期契約を結んでいます。田代さんは項垂れた。それでも、最後に小さな声で教えてくれる。青木は、重大な判断ミスの責任を問われ、会社での立場が危なくなっています。俺は、当然の結果だと思い、何も答えなかった。田代さんは、重い足取りで工場を後にする。

一方、松岡さんの会社では、特許が高く評価されていた。業界内でも話題になり始めている。複数の自動車メーカーからも引き合いが来るようになった。小川さんが嬉しそうに報告してくれる。また、新しい取引先から問い合わせです。社長の判断は正しかったですね。俺の会社は、着実に成長軌道に乗っていた。それから1ヶ月が経過したある日、事務員が慌てて俺の元に駆け込んできた。社長、大手自動車メーカーの常務取締役の奥谷さんと、青木さんがお見えです。俺は一瞬、耳を疑う。取締役といえば、経営の重要な決定権を持つ立場だ。そして、青木も一緒とは。応接室に行くと、60代ほどの男性が立ち上がり、深々と頭を下げた。その隣には、見る影もなく憔悴しきった青木の姿がある。青木は、俺と目を合わせようともせず、俯いたままだ。奥谷常務と名乗った男性は、重い口調で切り出した。坂本社長、この度は、弊社の青木が大変失礼なことをいたしまして、まずは心からお詫び申し上げます。本来なら、田代も同席すべきところですが、病状が悪化して再入院となり、とうとう同行できませんでした。奥谷常務は、再び深く頭を下げる。弊社は現在、青木の判断ミスにより、極めて厳しい状況に陥っております。新型車の発売延期により、数十億円の損失が確定し、取引先からの信用も大きく損なっております。奥谷常務の声には、切迫感が滲んでいる。原因は、この青木が、すでに納品が決まっていた坂本社長の特許バネを受け取らず、自社で製造可能と誤った判断をしたことにあります。俺は違和感を覚えた。奥谷常務の説明は、受け取らなかった、誤った判断、という表面的な事実だけで、あの日の青木の暴言には一切触れていない。奥谷常務は、青木に向き直った。青木、坂本社長に謝罪しろ。青木は、しぶしぶと言った様子で頭を下げる。申し訳ございませんでした。判断を誤りまして。やはりだ。青木は、判断ミスという言葉で全てを済まそうとしている。あの日の侮辱的な暴言の数々を、奥谷常務に報告していないのだ。形だけの謝罪に、俺の中で怒りが再燃する。ならば、全てを明らかにしてやろう。青木さん、あなたは、私に何と言いましたか?青木は答えられずに、黙り込む。俺は続けた。ただのバネ、と言いましたね。5年かけて開発した特許製品を。ただのバネ、と。うちでも作れそうだから、受け取り拒否、とも言いました。青木の顔が青ざめていく。極めつけは、1個5000円のバネを、50円なら納品させてやってもいい、でしたね。俺は、一つ一つ、あの日の侮辱を暴露していく。奥谷常務の怒号が、応接室に響く。青木、そんな失礼なことまで言ったのか。青木は慌てて言い訳を始める。技術的なことは、私には分かりませんでした。田代が入院していて、引き継ぎも不十分で。俺はすかさず反論する。俺は、丁寧に技術を説明しようとしました。しかし、あなたは、聞く耳を持たなかった。青木は焦った口調で言い訳する。小さな工場の部品が、そこまで重要だとは思わず。俺は静かに、しかし、はっきりと告げた。青木さん、あなたは、技術を理解しようともせず、私どもが5年間かけた開発を、一瞬で否定した。青木は、何も言い返せない。奥谷常務は、深いため息をつき、厳しい表情で告げる。この件は、役員会で厳正に審議する。懲戒処分は免れないだろう。損害賠償請求も、検討することになる。青木の顔から、血の気が引いた。常務、お願いします。家族もいるんです。青木は必死に懇願するが、奥谷常務は冷たく言い放つ。君の軽率な判断で、会社がどれほどの損害を被ったか、分かっているのか。覚悟しておけ。青木は、崩れ落ちそうになりながら、椅子にしがみつく。奥谷常務は、俺に向き直った。坂本社長、どうか、取引を再開していただけないでしょうか。条件は、全て見直します。奥谷常務が提示した条件は、破格だった。特許料を含めた価格を、1個8000円に。さらに、今後の新技術開発への研究費支援も約束した。確かに魅力的な条件だ。しかし、松岡との信頼関係を損ねるわけにはいかない。一つ、条件があります。俺は、奥谷常務を見据えて言った。最近、取引が決まった準大手の自動車メーカーさんとの取引を、優先します。御社とは、そちらに支障が出ない範囲でのみ、取引させていただきます。奥谷常務は即座に答えた。それで構いません。坂本社長の技術を正当に評価できなかった、我が社の落ち度です。奥谷常務は、深く頭を下げる。俺は、最後に、青木に向き直った。青木さん、技術を侮辱した代償は、高くつきましたね。青木は、絶望的な表情で立ち尽くしている。何も言えずに項垂れたまま、青木は奥谷常務に促されて、応接室を出ていく。その背中には、全てを失った男の哀れさが漂っていた。応接室のドアが閉まった瞬間、技術者としての誇りを守り抜いたという達成感が、俺の胸の中に満ちていく。

それから数ヶ月後、俺は、退職した田代さんから、大手自動車メーカーの末路を聞くことになる。青木は懲戒解雇され、会社から数億円の損害賠償を請求された。転職先も見つからず、日雇いの仕事で生計を立てているという。青木の報告を鵜呑みにした営業部長も責任を問われ、関連会社への出向という事実上の左遷処分となった。大手自動車メーカーが数ヶ月遅れでようやく新型車を発表する一方、松岡の準大手メーカーが発表した新型車は、俺の特許バネによる高い安全性能が評価され、大ヒットを記録した。俺の工場には、複数の自動車メーカーから引き合いが殺到する。俺の工場は、従業員を増やし、敷地も拡張することになった。技術への敬意を持つ相手とだけ取引する。その信念を貫いた結果が、この成功につがったのだ。

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