私はみな子、34歳の専業主婦。同い年の夫・蒼太と、小学2年生の娘・秋の3人暮らしだ。数年前に義父が病気で亡くなり、一人きりになった義母を心配した夫の提案で、3年前に義実家の近所へ引っ越してきた。当時は私の実家も近く、お互いの実家が近いのは便利だくらいにしか思っていなかった。
そんな私には悩みの種が二つある。一つは、重なる夫の浮気だ。夫は言い寄られると断れない質で、自分から目移りしてしまうところもある。付き合っている頃からそういうことはあったが、プロポーズの時に「これからは私だけを見る」と固く誓ってくれた。それを信じた私が悪いのかもしれない。それでも夫は結婚しても何も変わらなかった。大半はメッセージのやり取りのような直接的なものではなかったが、過去に一度、本当に離婚の危機を迎えるほどの修羅場も経験した。あの時、夫は深く反省し、私にもまだ気持ちがあったこと、そして当時まだ小さかった娘の成長を考えて離婚を踏みとどまり、再構築を選んだ。だが、未だにスマホを手放さない夫の姿を見るたび、今でも誰かと連絡を取っているのではないかと疑心暗鬼になってしまう。
もう一つの悩みは、近所に住む義母の存在だ。引っ越してきてからというもの、連絡もなく暇さえあれば我が家を訪ね、何かと私にネチネチと嫌味を言って帰っていく。きっと寂しいのだろうと最初は大目に見ていたが、月日が経つにつれてエスカレートしていった。まさかこんなに非常識な人だとは、気がついた時にはもう手遅れだった。準備していた食材を無駄にされたり、まとめておいたゴミ袋の中身にまでケチをつけられたりと、やりたい放題だ。文句を言っても夫はヘラヘラ笑うばかりで話にならない。しかも、夫との喧嘩には毎回義母が口を出してくる。どうやら夫は喧嘩のたびに義母へ告げ口して、味方につけているらしい。以前、夫の浮気で揉めた時など、「そりゃあんたみたいにいつも怒ってるお嫁さんのところになんか帰りたくもなくなるでしょうよ」と夫の肩を持つ姿には、あいた口が塞がらなかった。
そして、私を攻撃する時は決まって「せめて男の子が産めればね」と言う義母。今の時代にそぐわない発言だが、それ、今関係ないですよね。その度に私は心の中でそうツッコミを入れる。そもそも義実家は一般家庭で、後継ぎが必要なほどの家柄というわけでもないのだ。浮気性でマザコン気質の夫。息子ラブで嫁イビリが大好きな義母。そんな2人に関する悩みを抱える毎日の中で、娘の笑顔だけが私の希望だった。何度も離婚について考えたが、私は専業主婦で働いていないから経済力に不安がある。これから成長していく娘に不自由はさせたくないし、何より娘から父親を取り上げたくなかった。だからどうしても離婚には踏み切れなかった。
今日も娘が授業で書いたという絵を見せてくれた。絵の中で私は娘と手をつないで笑っていた。いつの間にか、随分上手に絵が描けるようになったんだな。娘の成長を感じて、私は微笑んだ。この子がいるからまだ頑張れる。ありがとうと頭を撫でると、娘は嬉しそうに笑った。
そんなある日、いつものように夫と娘をそれぞれ仕事と学校へ送り出し、家事をしていると義母から電話があった。「用があるから今すぐ義実家に来い」という内容だ。いつものように「お母さんがいらっしゃればいいんじゃないですか」と言い返すと、この頃には義母の無理強いにも多少は体勢がついていたので、一言二言くらいは言い返せるようになっていた。「もう年寄りの私を呼びつけるだなんて、なんて冷たい嫁だろう」と予想通り大げさに声を上げる義母。私はため息をついた。窓から外を窺うと、外はどんよりと暗く、今にも雨が降りそうだ。「はいはい。では、あと少ししたらそちらへ向かいますから」と適当に言って電話を切った。用事が何なのかは分からないが、どうせいつものように電球が切れただの、風呂掃除を代わりにしろだの、そういった雑用だろうと容易に想像がつく。洗濯物を畳む手を早め、動きやすい格好に着替えて義母の元へ向かった。
義実家に到着すると「遅いじゃないか」と義母に出迎えられた。だが、心なしか機嫌が良さそうだ。「あれ? お母さん、お客様がいらっしゃるんじゃないですか」と、玄関に揃えられた革靴とパンプスを見て首をかしげると、「ああ、あんたに合わせたい人がいてね」と言う。ますます困惑したが、義母について中に入ると、そこには仕事へ行ったはずの夫と、見知らぬ女性がいた。しかも、女性のお腹は大きく膨らんでいる。
「まあ、座んなさいよ」と義母に促されて着席した。「仕事に行ったんじゃなかったの?」と、とりあえず女性のことは触れずに問いかけると、夫は罰が悪そうな顔をして口を開いた。「有給を使ったんだ。今日はみな子に話さなきゃならないことがあって、母さんに協力してもらったんだ」。「そちらの女性のことかしら」と私がちらりと目をやると、女性は平然とした顔でミカンの皮を剥き、それをむぐむぐと食べている。反対に、夫は青ざめて震え、ガバッと土下座した。「彼女を妊娠させてしまったんだ。もう3ヶ月後には生まれる予定で、彼女は産みたいって言ってる。だから、離婚してほしい」。女性のお腹を見た時には、もうおよそ察しがついていた。「ずっと言い出せなかったんだ。その間に、どんどんお腹が大きくなっていって」。情けなく土下座して離婚を要求する夫の姿に、私は大きなため息をついた。その土下座は何のため? 自分の要求を通すための土下座であり、決して謝罪ではない。それが分かるからこそ、込み上げる悲しみを抑えることができなかった。
「秋のことは考えなかったの? 浮気している間、どんなことを考えて秋と接していたの?」これは、以前に浮気で修羅場になった時にも夫に言った言葉だ。「浮気しそうになったら、私のことじゃなくて秋のことを考えてって言ったわよね」。夫は「娘ができた」と言って泣いて訴えた。だからこそ浮気は私だけでなく愛する娘を傷つけるのだと、あれほど泣いて訴えたのに、どうやら何の抑止力にもならなかったらしい。
「浮気じゃなくて、本気ですよ」。私と夫の間におっとりとした声が割って入る。浮気相手の女性が、穏やかな笑みでこちらを見ていた。「蒼太さん、奥さんや娘さんより私が一番だって、いつも言ってました。だからこそ、その愛の証に、お母さんが望んだ男の子だって妊娠できたんですよ」。そう言ってニコリと笑い、「そうだよね」と言いながらお腹をさすった。あまりのふてぶてしさに、怒りを通り越して呆れてしまう。この状況で、よくもそんなことが言えたものだ。
ここで黙っていた義母が口を開いた。「まあ、あんたと違ってまゆみさんは若くておっとりして、気持ちの優しい娘だからね。私もあんたたちの離婚には大賛成さ」。浮気相手はまゆみと言うらしい。「気持ちの優しい娘さんは、既婚男性の子を妊娠したりしないと思いますけど」。私がボソリとそう言うと、それが気に触ったようで義母が私をギッと睨む。「うるさいね。とにかく、もうあんたは用済みだから。女しか産めない嫁は離婚して、さっさと出ていきな」。シッシと追い払うような手の動きをしながら私を怒鳴る義母。夫は私とは決して目を合わせず、まゆみは勝ち誇った笑みを浮かべてお腹を撫でている。
「離婚は分かりました。秋は私が育てますから」。私は追い立てられるようにして義実家から飛び出した。外は予想していた通り、雨が降り始めている。私は傘を持って出たのだが、その傘は義実家の玄関に置きっぱなしだった。お気に入りだったのにな。だが、そんなことはもうどうでもいいことだ。私は乾いた笑いを浮かべ、とぼとぼと雨の中を歩いて家に着いた。
離婚は淡々と進み、気がつけば3ヶ月が過ぎていた。元夫は娘と離れることを渋ったが、自分のしたことの大きさは一応理解しているようで、最後には私の要求を飲み、希望の慰謝料と養育費を払うことを承諾した。慰謝料は、住んでいたマンションを売ったりして用意したようだ。精神的にも肉体的にも疲れきっていたが、私の父が紹介してくれた弁護士さんのおかげで、思ったより時間がかからずに済んだ。何より心配だったのは娘の心だが、娘は離婚後もずっと笑顔で私に接している。私を気遣って無理をしているのだろう。今はひとまず私の実家に身を寄せて、小学校も変わらず通っているが、これから決まる住居や私の仕事によっては転校も考えなければならない。娘はそれも承知しているようだが、内心は違うだろう。親の勝手で子供が苦しむ姿ほど悲しいものはない。私はなるべく娘に寂しい思いをさせないよう、娘の学区での新しい住まいと仕事を探しながら日々を過ごしていた。
元夫から電話があったのは、そんな時だ。養育費のこともあり、連絡先は残してあった。要件次第では黙って電話を切ろうと思い、私は電話に出る。電話に出るなり開口一番、「生まれた。この子の目の色が…」と慌てふためいている元夫。私はいきなりのことに面食らったが、「養育費とか必要なこと以外、連絡してこないって約束したわよね」と、努めて冷静に切り返した。「そんな場合じゃないんだ。俺、騙されてたんだよ」。無視して通話を切っても良かったが、話の内容が気になった私は、ひとまず話を聞いてみることにした。
「生まれた子の目が青いんだ。しかも金髪で」。要するに、先日まゆみさんが無事出産したらしいのだが、どう見ても生まれてきた子の血筋が日本のそれではなかったのだとか。ちなみに男の子だったというのは本当のようだ。私との離婚直後にまゆみさんと入籍したと話は聞いていたので、私は思わず笑いそうになるのを必死にこらえた。「まゆみがさ、俺の他に複数の男と付き合ってたって言うんだ。その中に外国人もいたみたいで。本当、信じられないよな」。元夫は、さも自分が被害者のように怒りを露わにしている。続けてこんなことを言った。「訴えるって言ったら、『一番お金持ってそうだったから選んでやったのに』って言われて。ひどすぎるだろう」。元夫や元義母はもちろん、出産した当の本人も、まさかこんなことになるとは考えても見なかったのだろう。にしても、身から出た錆なので、ざまあみろという感情しかない。
「いやいや、あなたが言うの?」私の言葉に「えっ」と驚く元夫に、私は苦言を呈する。この男は、私が慰めてくれるとでも思っていたのだろうか。「浮気するもの同士、お似合いだと思うけどね。目が青くてもいいじゃないの。あなたの大事なお母様が望んだ男の子には間違いないんだから」。私の言葉に元夫は明らかに動揺していた。「えっと、でもさ、俺、まゆみと別れるつもりだから。俺とよりを戻して欲しいと思ってて」。しどろもどろに再婚を要求する元夫に、私は頭を抱えた。「母さんも、そうした方がいいって」。元夫の余計な付け足しに、私の怒りが爆発した。「どうぞ、大事なお母様と似た者同士のお嫁さんと、それから金髪で青い目の可愛い赤ちゃんと、仲良く暮らしてください。あと、忘れてるみたいだけど、無事出産したんなら、これからまゆみさんにも浮気の慰謝料を請求するから、覚悟するように言っておいてよね」。私は吐き捨てるようにそう言うと電話を切り、すかさずスマホの電源をオフにした。
私は元々、お腹の子に配慮して、まゆみさんが出産するのを待って慰謝料を請求するつもりだった。この電話で出産したことを知れたので、ちょうど良かったと思う。だが同時に、元夫の「復縁」という言葉に私の危機感は募る。今まで私は娘の転校を防ぐために、この地域の周辺で住居や仕事を探していたが、元夫たちの手の届かない土地へ引っ越した方がいいのかもしれない。
その晩、私は母と娘で夕食を囲んでいた。父は仕事でまだ帰宅していない。「おじいちゃんが帰ってきたら一緒にアニメを見たい」と娘がねだっている。母も、笑顔の娘に「おばあちゃんも一緒に見ようかしら」と楽しげだ。そんな団欒の一時をピタリと止めたのは、突然鳴ったインターホン。「こんな時間に誰だろう」と画面を覗くと、なんと元夫と元義母の姿が。「秋、おばあちゃんとちょっと待っててね」。私は娘を母に任せると、チェーンをかけたまま玄関を開けた。その時、勢いよく扉が引かれて、ガチャッと鋭い音が響く。チェーンをしたままで良かった。心の底からそう思っていると、下のほうから顔を覗かせたのは元義母だ。後ろの方で元夫が暗い顔で佇んでいる。「蒼太がもう一度あんたを嫁にもらってやろうって言うのに、断ったそうだね」。蒼太というのは元夫のことだ。元義母は元夫のことを子供の時からそう呼んでいるらしい。「働きもせず、子供も女の子だけのあんたなんか、再婚の当てもないだろう。蒼太の優しさが分からないのかい」。
「大きなお世話ですよ。青い目で金髪の、念願の男の子のお孫さんを産んでくれたお嫁さんがいるじゃないですか。そちらとよろしくやってください」。私の言葉に義母の顔が赤くなった。「あんな女だって分かってれば、あんたで我慢してやったのよ」。義母を押しのけるようにして、今度は元夫が玄関の隙間から手を伸ばしてくる。「みな子、本当に悪かったと思ってる。俺も騙されてたんだ。今度こそ、三人で幸せな家庭を作ろう」。玄関先でドアをガチャガチャさせながら泣いて訴える元夫に、感情的にわめく元義母。この異様な状況にどうしたものかと悩んでいると、二人を黙らせたのは意外な人物だった。
「パパたち、いつもママをいじめるから、大嫌い」。振り向くと、娘が目に涙を溜めて立っていた。その後ろから母が慌ててやってきて、娘が扉に近づかないように抑える。母の手にはスマホが握られていた。「お父さんと弁護士さんが、今こっちに向かってくれているから」。父と、離婚時にお世話になった弁護士さんに連絡をしてくれていたようだ。その隙をついて、秋は私のところへ来てしまったのだろう。母の言葉に私は少し安心した。正直、今にもチェーンを破壊して入ってきそうな二人の剣幕に、内心恐怖を感じていたからだ。「秋ちゃん、向こうでおばあちゃんと待ってようね」。母の言葉に娘は「いやいや」と首を振る。「秋がママを守るの。パパたちなんか大嫌い」。そう言ってワンワンと泣いている。私はその光景に思わず涙が溢れ、娘を抱きしめていた。
元義母と元夫は、その様子を呆然と眺めていた。先ほどの勢いはどこかに消えうせ、顔から正気がなくなっていた。娘の言葉が効いたのだと思う。そうしている間に父と弁護士さんが到着し、おまけにパトカーまでやってきた。どうやらご近所さんが通報してくれていたらしい。「蒼太君、娘が君と再び一緒になることは決してない。自分のしたことを後悔するのなら、君がすべきことはこんなことじゃない。わかるね」。父に続き、私は元夫と義母の前に立つ。「秋をこれ以上傷つけないでください。私があなたたちの要求に答えることは、絶対にありません。二度と関わりたくないんです」。私と父の言葉に、元夫と義母は顔を歪めて頷き、おとなしくパトカーに乗っていった。弁護士さんは「二度とこういうことのないよう、厳しく対処します」と頼もしい言葉をかけてくれる。浮気相手だったまゆみさんへの慰謝料の件も含めて、これからまたたくさんお世話になるであろう弁護士さんに、私は深々と頭を下げた。
その後、聞いた話だが、元夫は結局まゆみさんと離婚し、彼女を訴えた。まゆみさんは赤ん坊の父親である外国人男性を頼ったようだが、赤ん坊は引き受けてもらえたものの、なんとその男性には家庭があり、奥様に追い返されたらしい。私、元夫、そして赤ん坊の父親の奥様にも慰謝料を請求されることになり、まゆみさんのこれからの人生は悲惨だろう。赤ん坊の幸せを願ってやまない。元夫と元義母は、ご近所の噂の的になりながら、惨めに二人で暮らしているようだ。元夫は養育費と残りの慰謝料を支払うために残業を増やし、馬車馬のように働きながら、しっかり振り込んでくれている。私たちはと言うと、元夫たちとは縁のない土地へ引っ越した。私は独身時代の資格を活かして復職が決まり、娘も新しい学校で友達ができて楽しそうだ。娘の成長を楽しみに、強く生きていこうと思う。
私の名前はみな子、35歳の会社員だ。夫の健一とは会社で知り合って5年前に結婚した。夫は1つ年上で、2年ほど前にうちの会社を辞めて転職した。転職してからは年収が増え、私たちはマンションを購入。「そろそろ子供が欲しいね」なんて話しながら、幸せな生活を送っている。でも、ある日そんな生活が音を立てて崩れていった。その日は休日で、夫と買い物に出かける準備をしているとインターホンが鳴る。着替えをしていた私は、夫に声をかけて出てもらった。しかし、夫が玄関に出ていく様子がない。着替え終わってから夫に聞くと、どうやら間違いだったようだという。オートロックのマンションだから、部屋番号を押し間違えたのだろう。出かけるために玄関へ向かおうとすると、インターホンが光っているのが見えた。疑問に思って通話ボタンを押すと、若い女性の声が響く。「健一いるんでしょ?」その勢いに驚いていると、玄関を出ようとしていた夫が慌てて戻ってきて、通話を切った。
「え、何? 誰?」私がそう言っている間も、インターホンは鳴り続けている。夫が最初にインターホンに出た時に、呼び出し音を切ったのだろう。画面が光るだけで音は出ない状態になっている。私は何がどうなっているのか分からずに、夫に問いただす。「誰なの? 知り合いならどうして出ないの? 何があったの?」歯切れの悪い夫に苛立って、私はインターホンに出た。「どちら様ですか?」すると、画面越しの彼女は言った。「健一の彼女です。健一いますよね」。そんな素振りには気づかなかったけど、この女性の勢いでなんとなく分かってしまった。夫は浮気をしていて、浮気相手のこの女性と何かトラブルになったんだ。別れる、別れないで揉めたとか、お金の貸し借りがあったとか、そんなところだろう。とにかく、このままにしておくわけにはいかない。何も言わない夫に代わって、私はオートロックを解除し、彼女を迎え入れた。別に浮気相手に親切にしたかったわけではない。ただ、あのまま放置していたらマンションの他の住人にも迷惑がかかるし、変な噂が立って住みづらくなるのも困る。外で騒がれるよりは、家の中の方がいいだろうと思っただけだ。
玄関を開けると、彼女はズカズカと入ってくる。「さき、お前、どうしてここに?」夫はしどろもどろになっているが、彼女の勢いは止まらない。「会社の書類で住所を控えてきたんだって。こうでもしないと話もできないでしょ」。とにかく凄い剣幕だ。随分と若そうなこの人が、夫の浮気相手。私は複雑な心境で二人のやり取りを見ていた。すると、彼女がとんでもないことを言い出す。「奥さんとは別れるからって言ったじゃない」。夫はそんなことを言っていたのか。浮気相手への上頭句だ。でも、別れ話なんて一度も出ていなかったし、私は夫が浮気していることすら気づいていなかった。彼女は続ける。「妊娠したって言ったじゃない。責任取ってよ」。はあ。平静を装っていたはずの私は、衝撃の言葉に思わず声が出てしまった。「そろそろ子供が欲しいね」って言ったのは、私との子供じゃなかったのか。なかなか子供ができないって私が悩んでいる時に、他の女を妊娠させただって。不妊治療をするなら年齢的にもすぐに始めないとって相談していたのに、夫は積極的じゃなかったから、子供がいなくてもいいのかと思っていた。いきなり浮気の事実を突きつけられて呆気に取られていたけど、私はその状況に怒りが込み上げてくる。「健一、どういうことなの?」私が夫に言うと、夫はビクッとなったが何も言わない。しばらく私と浮気相手が夫を攻め立てることになった。
でも、このままでは何も解決しない。しかも彼女は妊娠していると言うし、こんな状況は体に悪いだろう。私は「一度夫婦で話し合うから、帰って欲しい」と彼女に言うと、彼女は鞄から何かを取り出して私に渡してきた。「え、離婚届け?」思わず受け取ったものは離婚届けだった。「こんなおばさんより私の方がいいって、ずっと言ってたの。だから、早くこれ書いて、健一と離婚して。パパが健一を呼べってうるさいからさ。早くしてくれる?」人が優しくしていれば、図に乗って。浮気相手のくせに何言ってんだ。最初から浮気して、しかも妊娠までするような女なんだから、頭がいいとは言えなさそうだ。その非常識さに、私の怒りは増した。すると、夫がようやく口を開く。「みちこ、離婚してくれ。頼む」。え、やっと言った言葉がそれ。私は夫に嫌悪感しか抱かなかったけど、このまま離婚するなんて悔しすぎる。だから絶対に離婚はしない。少なくとも、子供が生まれるまでは。今、私が離婚したら、夫と愛人は夫婦になって、子供が生まれて幸せな生活を送るのだろう。そんな惨めなのは嫌だ。子供に罪はないけど、夫と愛人に普通の生活はさせたくない。「みち子、今すぐそれ書いて」。夫が離婚届けを書くように迫る。夫は私より愛人を取るというのか。でも、思い通りになんてさせない。「絶対嫌よ。1年後、覚悟しててね」。そう言って、夫と愛人をまとめて玄関から追い出した。
一人になった私は、状況を整理する。彼女の口ぶりからすると、二人は同じ会社に勤めているということだ。随分と若そうな愛人だった。私より10歳くらいは年下だろう。「パパ」と言った途端に健一の態度が変わったということは、相当怖い人なのか、権力があるのか、どっちかだろう。妊娠は本当なのか、愛人のついた嘘なのかは分からないけど、とにかく夫が浮気をしたことは事実だ。まずは相談すべきところに相談しよう。私は弁護士に相談することにした。その日、夫は帰ってこなかったけど、私は一人の夜を過ごし、色々考える。そして結論を出した。やっぱり、今のこの状況で離婚したくない。
翌日、夫にメールを送る。「話したいこともあるし、顔も見たいから、一度帰ってきてほしい。今日は健一の好きなハンバーグを作って待ってるね」。私は夫のことが好きで好きでたまらない妻だから、一度の浮気なんて問題ない。私のところに戻ってきてさえくれればいいんだ。夫にはそう思わせよう。離婚を徹底的に引き延ばす。だって、私が夫に捨てられるんじゃなくて、私が夫を捨てたいから。1年あれば、夫の気持ちを私に戻す自信がある。夫に捨てられて、不利な立場になるなんて冗談じゃない。それに、1年後には今の仕事に区切りがついて、転勤の話も出ている。1年後を想像すれば、耐え切れるはずだ。
すると、その日の夜、夫は帰ってきた。夫の帰りを、私は笑顔で迎える。夫の好きな料理を作って、夫の好きなワインを用意して待っていた。それを見た夫は喜んでテーブルに着く。食事が終わると、夫はほろ酔い状態。私は夫の顔を見て言った。「私、健一に捨てられたら、生きていけないよ。こうやって健一の帰りを待つことも、健一の好きな料理を作ることもなくなる人生なんて、私には耐えられない」。すると、夫は少し複雑そうな顔をして考え込んだ。「確かにみちこの料理はうまいし、比べるとさきは料理もできない。でも、俺の子を妊娠してるって言うしな」。「それは産んでくれても構わないから。とにかく、今は離婚したくないの」。そう言うと、健一は「分かった」と言ってワインを飲み始めた。
その日から、私の生活は変わった。今までよりも夫に尽くす。元々家に帰る時間が私の方が早く、家事もほとんどやっていたけど、夫に任せていたお風呂掃除やゴミ捨ても全部自分でやった。考えるのは、夫がいかに快適に生活できるか。旗から見れば、夫に尽くす献身的な妻だ。これが功を奏したのか、夫は私に優しくなったし、前よりも家にいる時間が増えた。でも、相変わらず夫のスマホには愛人であるさきからの連絡が絶えない。まあ、妊娠しているのは本当だったようだし、仕方のないことだ。衝動なのか何なのか、夫がまださきと会っているのは知っている。私はそれを知らないふりをしていた。
そんな生活が続いて9ヶ月、ついにさきの子供が生まれたらしい。あれ以来さきに会うことがなかったから、結局彼女がどう思って出産したのかは知らない。まだ私と別れて再婚するつもりなのか、さき一人で子育てさせるつもりなのか、夫もそのことについては何も言わなかった。でも、この問題は何ひとつ解決していない。そして、ちょうど1年後。「話し合いの場を設けたいから」と言って、夫にさきを呼んでもらう。でも、私は今度は家には入れなかった。健一を連れてマンションのロビーに降りる。そこにはちょっとしたコミュニティスペースがあるから、さきをそこのテーブルに座らせた。マンションに出入りする人の視線を感じる。それに気づいた夫が、私に耳打ちをした。「おい、家の中の方がいいんじゃないのか」。でも、私はきっぱり断った。「どうして? 私は他人を家にあげるの、好きじゃないの。話をするだけなら、ここで何の不都合もないでしょう」。そう言うと、夫もしぶしぶそこへ座る。
さきが席につくなり、声を荒げた。「いつ離婚してくれるの?」夫はそれに対して、か細い声で答える。「だから、別れるのはさきの方で。子供だって、勝手に産んだんじゃないか」。これが自分の夫とは思いたくないほど、最低な言葉を吐いている。でも、私はしばらく沈黙する。「勝手に産んだって何? 産んでもいいって言ったじゃない。奥さんと離婚して、私と結婚するんじゃなかったの?」「それは、気持ちが変わったんだ。やっぱりみちこの方が料理もうまいし、尽くしてくれる。でも、さきは実家暮らしで、家事もできないだろう。料理は苦手って言ってたけど、前に作ってくれたクッキーも硬くて食べられたものじゃなかったし。お菓子でそれなんだから、料理なんて食べられるものが出てくるとは思えないな」。そう言われて、さきがますます怒り始めた。「何よ、それ。じゃあ、嘘だったって言うの。パパに言うんだから。そうしたら、あなたなんて首だからね」。どうやら、さきの父親は夫の上司か、会社の偉い人らしい。それで、夫もさきに逆らえなかったというわけか。しかし、夫は何を勘違いしたのか、得意げに言う。「俺を首に? 別にそんなの痛くも痒くもない。俺ほどの男が、再就職できないと思うか? それに、俺の妻は働いてるんだ。俺には劣るけど、二人で暮らしていくには十分な収入もある。俺が仕事を辞めたところで、俺たち夫婦の生活は困らないんだ」。はあ、と言いたい衝動をぐっとこらえて、私は涼しげな顔をして座っていた。
さきがテーブルを叩きながら言う。「だったら、今すぐ首にしてもらうから。もう、あなたなんか知らない。でも、養育費は払ってもらうからね。認知だってしてもらう」。「冗談だろう。勝手に産んだ子供だ。俺は認知なんてしないよ」。またしても得意げに言う夫。そこで、私はようやく口を挟んだ。「健一、知らないの? あなたが認知しなくても、強制認知と言って、裁判所に認知を求める申し立てができるのよ。親子関係が立証できれば、ほぼ確実に認知することになって、もちろん養育費の支払い義務も発生するのよ」。ええ、と夫は顔色を変え、さきは私の顔を見て笑う。「奥さん、詳しいんですね。じゃあ、私は健一から養育費をもらえるってことですよね」。なぜか私を味方のように見てくるさきを、私は一瞥した。「勘違いしないで。私は別にあなたの味方じゃないの。それに、人の話、聞いてた? 『親子関係が立証できれば』、この意味、分かる?」そう言うと、二人が私の顔を見るので、私は続けた。「私、あなたのことを調べるよう、興信所に頼んだの。そうしたら、あなた、別の人とも付き合ってる。そうね」。すると、健一は驚いた顔をし、さきは一瞬で顔色を変えた。「相手は健一の同僚だって。しかも、彼も既婚者。あなたは、人のものを取らないと気が済まないのかしら。既婚者を二人、手玉に取っている気分はどうだった? おまけに妊娠までして。一体、どっちの子かしら? まあ、あなたは分かってるんだろうけど。二人を天秤にかけて、役職も高く収入も多い健一の方を選んだそうよね」。さきはもう顔面蒼白で、今にも椅子から転がり落ちそうだ。それを見た健一は、勝ち誇ったように言う。「はあ。お前、俺だけじゃなかったのかよ。しかも同僚って、あいつかよ。まさか同じ会社内で浮気されるとはな。それに、お前は分かってるって、俺の子じゃないってことだろ。まあ、俺の子じゃないって分かって良かったよ。これで俺は、離婚を迫られることも、養育費を請求されることもないんだもんな。ほら、もう俺は関係ないんだから、さっさと帰れよ」。そう言われても、さきは動けないようだ。
私は持っていた荷物の中から、夫に一枚の紙を差し出した。「え?」それを見て驚く夫。「今すぐ書いてくれる?」笑顔で言う私を、夫は目を丸くして見てくる。「どうして?」「どうしてって? 浮気して、妊娠までさせるような男と、結婚生活なんて続けていくわけないでしょ」。「でも、俺の子じゃなかったんだし」。「はあ。それは結果論。浮気したことには変わりないんだから。そんなの関係ないわよ」。「だって、俺のために尽くしてくれただろう」。
健一は、私の策略にまんまとはまってくれた。私が献身的な妻を演じていたのは、証拠も不十分な状態で離婚したら不利になると考えたからだ。それに、浮気相手や浮気をした夫に迫られるまま離婚するなんて、私のプライドが許さない。あの時離婚していたら、二人は結婚して家庭を築いて、私は離婚して捨てられた女になってしまう。そんなのは嫌だった。だから、私から離婚してやるんだと決めて、そのために夫に尽くす妻を演じてきた。だんだんと夫の態度が変わってきて、私に依存を始めた時は、心の中で笑った。「健一に捨てられたら生きていけない」って言ったのも、あなたが快適な暮らしができるようにしていたのも、全部、私から離婚を言い渡すため。ちなみに、赤ちゃんの件は、興信所を雇ったらそういう結果だったのよね。まさか二股をかけているなんて思わなかったから、私も驚いたわ。
案の定、私にすがりついてくる夫。「気づいてないと思うけど、私、いつでも家を出られるよう、自分の部屋に荷物をまとめてあるの。これから運び出すわ。あと、その前に、さきさんのお父さんにも事実を伝えないとね。お父さんに車で送ってもらったんでしょ」。そう言って外に出ると、さきの父親が車で待っていた。私が事実を伝えると、父親は激怒。さきが既婚者との子供を妊娠しても怒らなかったのに、二股をかけていたこと、相手が別の人間だということで爆発したようだ。もしかしたら、健一が私と離婚するのを前提にさきと付き合っていたのだと思っていたから、怒らなかったのだろうか。健一が最後まで離婚をしないと言い張ったので、父親の怒りの矛先は健一にも向き、最後の方は父親自身も何が起こっているのか分からなくなったのかもしれない。私は事実のみを伝えて、とにかく落ち着いて、さきと一緒に家に帰るように促した。
さきを乗せた車が去るのを見届けると、私は前々から頼んでいた業者を呼び、荷物を運び出す段取りを取る。すがりついてくる夫を振り切りながら、荷物を持ち出した。「どっちにしても、もうここになんて住めないでしょ。あそこで話している間、みんなあなたたちのこと見てたわよ。このマンション、噂好きな人が多いから、結構すぐに広まっちゃうのよね。私も聞きたくもない噂をよく耳にしたし、あの場所で浮気の話をしていた家庭なんて、すぐに噂が広まって引っ越ししちゃったもんね。私は出ていくからどうでもいいけど。あなたはまだここに住むの? 早く考えた方がいいわよ。それに、ここのところあなた、散々浪費してきたから、貯金なんてないでしょ。この家売らないと、慰謝料も払えないかもね」。
そう。半年ほど前、私は昇進して給料が上がった。それを知った健一は、私が生活費を払えばいいと言って、自分の給料はパチンコに注ぎ込み、浪費していた。元々パチンコ好きで、私と結婚する時にやめることを条件にしていたから、ずっとやっていなかったけど、自由になるお金ができた途端に元の生活に戻ってしまった。センスがなくて勝てないんだから、やめればいいのに。これからは止めてくれる人もいないし、資金もなくなるし、どうするんだろう。でも、そんなのは私の知ったことではない。離婚届けは書いてもらったけど、もう顔も見たくなかったし、その後の細かい手続きは弁護士に任せた。慰謝料の請求を行い、思った通り貯金で賄えなかった慰謝料は、マンションを売ってお金を作ったようだ。
健一の会社では噂が広まり、結局居づらくなって退職。就職活動もうまくいってないらしい。マンションはそれなりの金額で売れたはずなのに、パチンコに注ぎ込んで、今ではボロアパートで暮らしているという。さきへの慰謝料請求もとりあえず片付いたようだけど、全額支払ってもらった。さきは実家から追い出され、赤ちゃんは祖父母の元で暮らしているようだ。私は健一と離婚してから、予定通り地方のプロジェクトに携わり、今では空気の綺麗な田舎で楽しく生活している。私はこの結果に満足だ。



