母さん、今日で同居は終了ね。
その日の夕方、息子の弘樹が私にそう告げた。まるで仕事の契約を打ち切るような、事務的な口調だった。私は坂本豊。66歳。10年前に夫を亡くしてから、息子家族と一緒にこの家で暮らしてきた。
「え、どういうこと?」
思わず聞き返した。弘樹は私と目を合わせようともせず、淡々と続ける。
「美咲の両親が来月から同居することになったんだよ。部屋が必要だから、母さんには出て行ってもらわないと」
「私が、出ていくの?」
信じられない気持ちで尋ねると、弘樹は嫌そうな表情を見せた。
「仕方ないだろう。美咲の両親は金があるし、子供の教育費も援助してくれるって言ってるんだから」
まるで私という人間の価値を、お金で測っているような言い方だった。35年間、朝から晩までホテルで清掃の仕事をして、この子を育ててきた私の人生は、そんなに軽いものだったのだろうか。
「明日までに荷物をまとめて出て行ってくれ」
それだけ言うと、私に背を向けて部屋を出て行ってしまった。私の足元が、急に崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
私がホテルの清掃員として働き始めたのは、夫の収入だけでは生活が苦しく、家計を助けたいと思ったからだった。朝5時に起きて朝食を作り、6時には出勤。夕方6時まで働いた後、さらに深夜のビル清掃のアルバイトにも出ていた。
弘樹が大学に進学する時、学費の工面は本当に大変だった。月収を合わせても20万円ほど。その中から4年間の学費を捻出し、息子のために費やした。自分の老後の貯金なんて、考える余裕もなかった。
「母さん、俺、就職決まったよ。一流企業だよ」
あの時の弘樹の誇らしげな顔は、今でもはっきり覚えている。結婚の時も、私は貯金を切り崩して300万円を援助した。結婚式で息子は「母さんのおかげで今の俺がある」と涙を流していた。
そして10年前、夫が急に亡くなった時、弘樹は28歳だった。
「母さん、1人じゃ寂しいでしょう。一緒に暮らそう」
あの優しい言葉に甘えて、同居を始めたのだ。35年間ホテルで膝をついて床を磨き続けてきたこの手は、今もゴツゴツしている。全て息子のためだと思えば、辛さも耐えられた。それが今、お金がないという理由だけで、簡単に切り捨てられようとしている。
窓の外には、街灯がぼんやりと光っていた。
翌朝、私は重い気持ちで台所に立っていた。いつものように朝食を作りながら、これが最後になるのかと思うと、胸が締め付けられるようだった。
「おはようございます、お母さん」
嫁の美咲が階段を降りてきた。普段より明るい声だったが、その表情には隠しきれない苛立ちの色が見えた。
「おはよう、美咲さん」
私が挨拶を返すと、美咲は急に真剣な顔つきになった。
「お母さん、昨日、弘樹さんから聞きましたか?」
「え、聞きましたよ」
すると美咲は、まるで長年の重荷を下ろすかのように、大きくため息をついた。
「正直に言いますね。お母さんがいると、私たちすごく窮屈なんです」
その言葉に、私は思わず手を止めてしまった。
「窮屈ですか?」
「はい。だってお母さん、年金も月に6万円くらいでしょう。生活費も入れられないのに、食事は用意してもらって当然みたいな顔してるし」
美咲の言葉は、私の心に鋭く刺さった。確かに年金は少ない。だが、家事は全て私がやっていたはずだ。
「それに比べて私の両親は違います。小春の教育費だけでなく、私たちの老後まで心配ないって言ってるんです」
美咲は得意げに話を続けた。まるで親の経済力を、自分の手柄のように語っているようだった。
「お母さんには悪いけど、正直邪魔なんです。友達を呼ぶ時も、まだお義母さんと同居してるのって言われるし。今時、息子夫婦に寄食する親なんて恥ずかしいじゃないですか」
寄食。その言葉が私の全身を貫いた。35年間必死に働いて息子を育て上げた私が、寄食扱いされているのだ。
そこへ弘樹も降りてきた。
「母さん、荷物はまとめた?」
まるで私がすでに承諾したかのような口ぶりだった。
「弘樹、本当にいいの? 私はあなたのお母さんよ」
すると弘樹は、嫌そうな顔をしてうつむいた。
「母さん、もう決まったことなんだ。美咲の両親は小春に一流の教育を受けさせたいって言ってくれてる。塾もピアノも全部、向こうが払ってくれるんだよ」
「でも、私だって……」
「母さんに何ができるの?」
弘樹の冷たい視線が私を射抜いた。
「年金は少ない。貯金もない。正直、母さんがいるとうちの家計が苦しいんだ。美咲の両親なら逆に援助してくれる。どっちが小春のためになるか、分かるでしょう」
まるで私という人間を、損得感情だけで測っているような言い方だった。
「それに母さんももう66歳でしょ。いつまでも息子に頼ってないで、自立したらどうなの?」
自立。この年で、どうやって自立しろというのだろうか。美咲が追い打ちをかけるように言った。
「そうそう。お母さん、最近物忘れも多いし、認知症じゃないかって弘樹さんと心配してたんです」
「認知症?」
私が驚いて聞き返すと、美咲はさも心配そうな顔を作った。
「だってこの前も鍋を焦がしたでしょう。それに小春の名前を間違えたり」
「やっぱりお母さん1人じゃ心配だから、施設とか考えた方がいいんじゃないですか?」
鍋を焦がしたのは、美咲に急に買い物を頼まれて慌てたからだ。孫の小春の名前を間違えたことなど、一度もない。
「私の両親の知り合いに、いい施設を経営してる人がいるんです。紹介しましょうか?」
美咲の提案に、弘樹も同調した。
「そうだね。母さんも同年代の人たちと一緒の方が楽しいんじゃない?」
2人はまるで私を厄介者扱いするかのように、勝手に話を進めていった。
「ちょっと待って。私はまだ元気だし、認知症でもないわ」
必死に抗議したが、弘樹は首を横に振った。
「母さん、意地を張らないで。これは母さんのためでもあるんだから」
「私のため?」
「そうだよ。母さんだって、いつまでも息子夫婦の世話になってるより、自分の生活を楽しんだ方がいいでしょう」
まるで私が望んで同居していたかのような物言いだった。弘樹が一緒に住もうと言ってくれたから、この家で暮らしていたのに。
美咲が時計を見ながら言った。
「あ、そろそろ子供を起こさないと。お母さん、朝ご飯の支度お願いしますね。あ、でも今日で最後ですけど」
そう言って美咲は笑顔で階段を上がっていった。弘樹も続く。
「母さん、夕方までには出ていってよ。美咲の両親が明日には来るから、部屋を片付けないといけないんだ」
「弘樹……」
「あ、それと。この家のこと、変に執着しないでよ。どうせ母さんの名前じゃないんだから」
その言葉を最後に、弘樹も2階へ上がってしまった。1人残された私は、震える手でテーブルに捕まった。
この家に執着するなと言われても、ここは私と夫が新婚時代から暮らしてきた思い出の場所なのだ。でも息子にとって、そんな思い出など何の価値もないのだろう。私という母親の存在そのものが、もはや邪魔でしかない。
窓から差し込む朝の光が、静かに部屋を照らしていく。新しい1日の始まりだが、私にとっては全ての終わりを告げる朝なのかもしれない。
朝食後の片付けを終えた後、私は自分の部屋に戻った。40年間暮らしてきたこの部屋とも、今日でお別れだ。そんな時、弘樹がノックもせずに入ってきた。
「母さん、まだまとめてないの?」
苛立った様子の弘樹に、私は最後の望みをかけて話しかけた。
「弘樹、お願いだからもう一度考え直してくれない? 私はどこにも行くところがないのよ」
「それは母さんの問題でしょう」
弘樹の返事は、あまりにも冷たいものだった。
「でも、この家は私とお父さんが……」
「だから何?」
弘樹は私の言葉を遮った。
「母さん、勘違いしないでよ。この家の名義は父さんだったけど、父さんが亡くなってからは実質的に俺が管理してるんだ。固定資産税も俺が払ってるし」
「でも私だって、少しは月6万の年金から……」
「冗談でしょう」
弘樹は鼻で笑った。
「母さんの意見なんてもう聞く必要ないんだ。俺はこの家の実質的な主なんだから」
その時、美咲も部屋に入ってきた。手には大きなゴミ袋を持っている。
「お母さん、いらないものは全部これに入れてくださいね。部屋を丸ごとリフォームするので、古いものは処分します」
「え?」
「私の両親の好みに合わせて和室を改装するんです。お母さんの古臭い家具も全部捨てますから」
美咲はまるで私の存在そのものがゴミであるかのような口ぶりだった。
「ねえ、弘樹さん。お母さんの仏壇も邪魔よね。処分していい?」
「仏壇を処分?」
私は驚いて声をあげた。あの仏壇には、夫の遺骨と遺影が安置されているのだ。
「だって古臭いし、インテリアにも合わないでしょ。お客さんを呼ぶ時に恥ずかしいわよ」
「でも、それはお父さんの……」
「母さん、もういいよ」
弘樹が嫌そうに言った。
「死んだ人のことより、生きてる人のことを考えなきゃ。美咲の両親の方が、俺たちの将来にとって大事なんだ」
私は言葉を失った。自分の父親の遺影さえ、平気で捨てようとする息子。私は一体、何を育ててしまったのだろうか。
「弘樹、あなた本気で言ってるの?」
「本気だよ。母さんこそ、いつまでも過去に執着してないで現実を見たら」
弘樹は腕時計を見た。
「もう10時を過ぎたよ。午後6時で出て行ってもらわないと困るんだ」
「美咲の両親、明日の朝一番で来るから」
「6時間で、どこへ行けって言うの?」
「それは母さんが考えることでしょう。親戚でも友達でも、頼れるところはあるはずだよ」
でも私には頼れる親戚などいない。友人たちも、皆それぞれの生活がある。
美咲が追い打ちをかけるように言った。
「あ、そうそう。引っ越し先が決まったら住所を教えてくださいね。年賀状くらいは送りますから」
年賀状。まるで他人のような扱いだ。
「もう一度だけ聞くわ。本当に、私を追い出すのね」
私の問いかけに、弘樹は深いため息をついた。
「母さん、何度も同じこと聞かないでよ。もう決めたことなんだ。母さんの意見は聞かない」
「私の意見は聞かないのね」
「そう。これは俺と美咲で決めたことで、母さんには関係ない」
「分かった」
弘樹の言葉は、まるで私という人間の存在を完全に否定しているようだった。母親としての立場も、この家で暮らす権利も、全て奪われようとしている。
「さあ、お母さん。時間がないから早く準備してください」
美咲はゴミ袋を床に置くと、弘樹と一緒に部屋を出ていった。1人残された私は、呆然と立ち尽くしていた。もう何も言い返す気力さえ残っていなかった。
でも、その時。ふと目に入ったものがあった。部屋を見回した私の目に止まったのは、古い箪笥だった。夫が生前、大切な書類は全てここに保管していたものだ。なぜか急に、その箪笥の中を確認したくなった。弘樹たちに急かされて慌てて荷造りをする前に、一度きちんと整理しておこうと思ったのだ。
箪笥の一番上の引き出しを開けると、そこには懐かしい写真や手紙が入っていた。夫との新婚旅行の写真、弘樹が生まれた時の写真。どれも大切な思い出ばかりだ。二番目の引き出しには、保険証書や預金通帳などが入っていた。どれもすでに解約済みか、残高がほとんどないものばかり。弘樹の教育費や生活費で、全て使い果たしてしまったのだ。
そして、一番下の引き出しを開けた時だった。
「これは……」
そこには見覚えのない茶封筒が一つ、大切に布に包まれて入っていた。表には夫の筆跡で「豊へ」と書かれている。震える手で開けると、中から数枚の書類が出てきた。それを見た瞬間、私は思わず息を飲んだ。
登記簿だった。所有者の欄には「坂本豊」と書いてある。私の名前だ。
信じられない思いでもう一度確認した。間違いない。この家の所有者は、私になっているのだ。
同封されていた夫の手紙を読んで、全てが分かった。
「豊へ。もし君がこの手紙を読んでいるとしたら、俺はもうこの世にいないだろう。実は医者から余命宣告を受けた時、俺は一つの決断をした。この家の名義を君に変更したんだ。手続きは全て済ませてある。俺がいなくなっても、君が路頭に迷わないように。君は俺のためにたくさんのことを諦めてきた。せめてもの恩返しだ。弘樹には内緒にしておいた。いつか必要な時が来たら、この書類を使ってくれ」
涙が止まらなかった。夫は最後まで、私のことを考えてくれていたのだ。
でも、なぜ弘樹は知らないのだろうか。そういえば夫が亡くなった時、葬儀の手配などは全て私がやった。相続の手続きも、弘樹は「面倒だから母さんに任せる」と言って、ほとんど関わらなかった。登記簿を確認すると、確かに10年前の日付で所有者が夫から私に変更されている。つまりこの家は、最初から私のものだったのだ。
弘樹が言っていた固定資産税についても、思い返せば毎年私が年金から少しずつ貯めたお金で払っていた。弘樹には「税金は俺が払ってる」と言われて、その分のお金を渡していたが、実際は私が払っていたことになる。
私は静かに書類を封筒に戻した。この切り札を、いつ使うべきか。普通ならすぐにでも弘樹たちに見せて、真実を突きつけるところだろう。でも私はそうしなかった。なぜなら、弘樹たちの本性をもっとはっきりと見極めたかったからだ。そして、最も効果的なタイミングでこの真実を明らかにしたいと思った。
私は黙って荷造りを始めた。大切なものだけを選んで、小さなスーツケースに詰めていく。その間にも、美咲が何度か様子を見に来た。
「お母さん、まだ終わらないんですか? もう3時ですよ」
「ええ、もう少しで終わります」
私は冷静に答えた。美咲は不思議そうな顔をしている。
「お母さん、随分落ち着いてますね。てっきり泣いたり騒いだりするかと思ってました」
「もう年ですから、諦めることも覚えましたよ」
そう言うと、美咲は満足そうに微笑んだ。
「それがいいです。年寄りは大人しく、若い世代に道を譲るべきですから」
夕方4時になった。弘樹が迎えに来る。
「母さん、準備できた?」
「ええ、できました」
私はスーツケースを持って立ち上がった。弘樹は少し驚いたような顔をしている。
「意外と早いね」
「もう諦めたのよ。これ以上、あなたたちと争うこともしたくないし」
玄関に向かいながら、私は最後にもう一度この家を見回した。40年間の思い出が詰まったこの家で、もうすぐ全てが変わる。
玄関で靴を履きながら、私はつぶやいた。
「あ、そうそう。弘樹、一つだけ確認したいことがあるの」
「何? 早くしてよ」
「この家の登記簿を、最近確認したことある?」
「登記簿? 何の話?」
弘樹は面倒臭そうに聞き返した。私は静かに振り返る。
「この家の所有者のことよ」
「それがどうしたの? 父さんの名前から、俺に相続してあるでしょう」
弘樹の答えに、私は小さく首を横に振った。
「違うわ。この家の所有者は、私なのよ」
一瞬、静寂が流れた。弘樹の顔から表情が消えていく。
「何言ってるの? 冗談はやめてよ」
「冗談じゃないわ」
私はバッグから茶封筒を取り出した。
「これを見て」
震える手で封筒を受け取った弘樹は、中身を確認すると顔面蒼白になった。
「これは……」
「お父さんが亡くなる前に、私に名義を変更してくれていたの。10年前にね」
美咲が慌てて駆け寄ってきた。
「何?」
弘樹から書類を奪い取った美咲も、内容を見て凍りついた。
「嘘……。この家、お母さんの名前になってる」
「そういうこと。つまりこの家の正式な所有者は私。あなたたちこそ、私の家に住まわせてもらっていたのよ」
弘樹は必死に書類を見直しているが、事実は変わりません。
「で、でも固定資産税は俺が……」
「あなたは毎年、私から預かったお金をそのまま払っていただけよ。私は年金から少しずつ貯めて、その分を毎年渡していたの。だから実際に負担していたのは、私なのよ」
弘樹の顔が見る見るうちに赤くなっていった。
「なんで、今まで黙ってたんだよ」
「言う必要があったかしら? あなたたちが普通に親子として接してくれていたら、このまま黙っていたかもしれない。でも……」
私は深呼吸をした。
「私をお荷物扱いして、追い出そうとした。だから、真実を話す時が来たと思ったの」
美咲が取り乱したように叫んだ。
「そんな! 私の両親、明日来るんですよ! どうするんですか?」
「それは、あなたたちが考えることね」
私は玄関のドアを開けた。
「ちょっと待って!」
弘樹が必死に呼び止める。
「母さん、話し合おう。俺たちが悪かった」
「今更、何を話し合うの? もう決めたことでしょう。私の意見は聞かないって、さっき言ったじゃない」
弘樹は言葉に詰まった。私は続ける。
「あ、そうそう。言い忘れていたけど、出ていくのは私じゃないわ。あなたたちよ」
「え?」
「だって、これは私の家だもの。所有者の私が、もうあなたたちとの同居は望まないと決めたの。明日の朝までに出て行ってもらえるかしら」
美咲が金切り声をあげた。
「そんなの無茶よ! 私たちにだって小春もいるのよ!」
「あら、それは私も同じことを言いたかったわ。でも、あなたたちは聞く耳を持たなかった」
弘樹が土下座する勢いで頭を下げた。
「母さん、本当にごめん。謝るから、許してくれ」
「謝る?」
私は冷笑した。
「さっきまでの威勢はどこへ行ったの? 私が家の所有者だと分かった途端に」
「違う、母さんのことも大切に……」
「嘘はやめて」
私は弘樹の言葉を遮った。
「お父さんの遺影まで捨てようとした人が、何を言っているの?」
美咲が泣きながら縋った。
「お母さん、お願いします。私たち、どこにも行くところがないんです」
「あら、それは私も同じことを言ったわよね。でもあなたは何て答えた? 『それは母さんの問題でしょ』って」
私は美咲の言葉をそのまま返した。
「だから、それはあなたたちの問題ね」
弘樹が必死に食い下がる。
「母さん、考え直してくれ。俺たちは家族だろ」
「家族?」
私は鼻で笑った。
「ついさっきまで、私を家族扱いしていなかったじゃない。美咲の両親の方が大事だって言ってたよね」
「それは……」
「じゃあ、その大事な美咲さんのご両親のところに住まわせてもらったら? きっと立派な家があるはずよ」
美咲が慌てて言った。
「で、でも両親は両親の生活があって……」
「あら、そう。じゃあ結局、都合のいい時だけ利用しようとしていたのね」
そう言って、私は玄関のドアに手をかけた。
「母さん!」
弘樹が叫んだが、私は振り返らなかった。
「ああ、そうそう。もう一つ言い忘れていたわ。明日、私の弁護士が来るから、正式な退去通知を渡すわ。法的な手続きももう始めているから」
これは嘘ではない。実は書類を見つけた後、すぐに夫の知り合いだった弁護士に連絡を取っていたのだ。
弘樹と美咲は、完全に打ちのめされた様子で立ち尽くしていた。
「1週間以内に出ていかなければ、法的措置を取るわ」
2人は何も答えられなかった。私は最後に言った。
「人を見下したり、経済力だけで価値を判断したりすると、いつか必ず自分に返ってくるのよ。これが、あなたたちへの最後の教育かもしれないわね」
そう言い残して、私は家を出た。振り返ると、玄関に立ち尽くす2人の姿が見えた。まるでこの世の終わりのような顔をしている。
でも、私の心は不思議なくらい晴れやかだった。10年ぶりに、自分の人生を取り戻したような気がしたのだ。
あの日から3ヶ月が経った。私は今、あの懐かしい家で穏やかな日々を送っている。弘樹たちは1週間以内に荷物をまとめて出ていった。最後まで泣きついてきたが、私の決意は変わらなかった。
朝起きると、まず仏壇に手を合わせる。夫の遺影は、今も変わらずそこにある。
「あなた、見ていてくれたのね。最後の最後で私を守ってくれて、ありがとう」
毎朝そう語りかけるのが、日課になった。
リビングには新しい家具を置いた。といっても豪華なものではない。私の年金でも買える、シンプルで使いやすいものばかり。でも自分で選んだものだからこそ、愛着がある。
今日は、友人たちとのお茶会の日だ。
「豊さん、本当に良かったわね」
親友の久子が温かく言ってくれた。
「ええ、でも正直最初は迷ったのよ。やりすぎたかなって」
「何言ってるの? 息子さんたちの方がひどいじゃない。実の母親を追い出そうとするなんて」
別の友人、さ子も頷く。
「そうよ。豊さんは何も悪いことしてない。当然の権利を主張しただけよ」
友人たちの言葉に、私は救われる思いだった。実は弘樹からは何度か連絡があった。謝罪の手紙も届いた。でも、私はまだ許す気にはなれない。
最近聞いた話では、美咲の両親には同居を断られたそうだ。弘樹たちは小さなアパートで暮らしているとのこと。美咲は実家からの援助も期待できず、パートに出始めたそうだ。でも、それはそれでいい経験になるのではないだろうか。自分たちの力で生活することの大変さを、今頃実感しているはずだ。
「豊さんは、これからどうするの?」
久子の問いかけに、私は微笑んだ。
「実はね、この家の一部を改装して、小さなカフェを始めようと思っているの」
「え、カフェ?」
友人たちが驚きの声をあげた。
「そう、昔から夢だったの。これまでは生活に追われて、考える余裕もなかったけど。実は、一部を改装して地域の人たちが集えるような小さなカフェにする計画を立てていたの。年金だけでは少し心配だけど、貯金も少しあるし。何より、残りの人生を自分のために使いたいと思ったの」
「素敵! 私たち、常連客第1号になるわ」
久子が嬉しそうに言ってくれた。その時、窓の外を見ると小さな女の子を連れた母親が通りかかった。弘樹と小春の姿が一瞬、頭をよぎる。正直、小春には会いたい気持ちもある。でも、今はまだその時ではないと思っている。
「豊さん、後悔してない?」
久子が心配そうに聞いてきた。
「後悔?」
「そうね。全くないと言えば嘘になるわ」
でも、私は深呼吸をした。
「でも、あのまま我慢し続けていたら、私は本当にお荷物になっていたと思う。自分の尊厳を守ることは、決して悪いことじゃない。そう思えるようになったの」
友人たちは、優しく頷いてくれた。
夕方、友人たちが帰った後、私は1人で庭に出た。夫と一緒に植えた梅の木が、もうすぐ花を咲かせそうだ。あの日、弘樹たちを追い出したことは確かに厳しい選択だった。世間から見れば、冷酷な母親と思われるかもしれない。でも私は思うのだ。親子だからと言って、何をしても許されるわけではない。むしろ親子だからこそ、お互いを人として尊重し合うべきなのだと。
私は66歳にして、初めて自分の人生を生きている実感がある。誰かのための人生ではなく、自分のための人生を。
夜、仏壇の前で手を合わせながら、私は夫に語りかけた。
「あなた、私、間違っていなかったわよね」
返事はない。でも仏壇の写真の中の夫は、優しく微笑んでいるように見えた。
弘樹のことを考えないわけではない。いつか本当の意味で親子として向き合える日が来ることを願っている。でもそれは、弘樹が本当の意味で成長した時。人を経済力や利用価値だけで判断するのではなく、一人の人間として尊重できるようになった時。その日が来るまで、私は私の人生を歩んでいく。
人生には、我慢すべき時と戦うべき時がある。理不尽な扱いを受けた時、黙って耐えることが美徳だと思われがちだが、それは違う。自分の尊厳を守るために立ち上がることは、決して悪いことではない。むしろ、それは自分を大切にすることの第一歩なのだ。
家族から軽んじられ、存在価値を否定され、肩身の狭い思いをしている人たち。でも、忘れないでほしい。あなたにはあなたの人生がある。誰かの付属物ではなく、一人の人間として生きる権利があるのだ。
年齢なんて関係ない。60歳でも70歳でも80歳でも、新しい人生を始めることはできる。私は今、心から幸せだ。自由で、誇りを持って生きている。これが私の選んだ道。そして、私の新しい人生の始まりなのだ。



