「どいてください。私が通訳します」――新宿のホテルで悲鳴が上がったのは、数千億円の契約交渉を十分後に控えた瞬间でした。アラブ政府系ファンドの代表がアレルギーで倒れ、会場は混乱の渦に。専属通訳は交通事故で入院中、代わりの誰もアラビア語を理解できない。私はその日、清掃のアルバイトとして廊下で窓を拭いていただけの十八歳でした。なのに、気づけば警備員の隙間をすり抜け、室内へ。すると、十五年連れ添った…

「どいてください。私が通訳します」――新宿のホテルで悲鳴が上がったのは、数千億円の契約交渉を十分後に控えた瞬间でした。アラブ政府系ファンドの代表がアレルギーで倒れ、会場は混乱の渦に。専属通訳は交通事故で入院中、代わりの誰もアラビア語を理解できない。私はその日、清掃のアルバイトとして廊下で窓を拭いていただけの十八歳でした。なのに、気づけば警備員の隙間をすり抜け、室内へ。すると、十五年連れ添った...

「代表が倒れた! 誰か助けてくれ!」

宴会の最中、新宿の両運ホテルで悲鳴が上がった。アラブ政府系ファンドの代表ハリードがアレルギー症状で苦しみ始めたのだ。会場は一瞬で混乱の渦に飲み込まれた。数千億円規模の契約交渉を十分後に控え、肝心の通訳は交通事故で入院中。社員たちがアラビア語で叫んでも、誰もその言葉を理解できない。

「通訳はどこだ! アラビア語が通じる人間はいるのか!」

清掃の女性スタッフが邪魔だと追い払われる中、気品室の前では天方グループの社員たちがただ立ち尽くすばかりだった。誰もが清掃服の少女が慌てて逃げ出すのを待っていた。

しかし、彼女は怯えることもなかった。警備員の隙間をすり抜け、静かに室内へと歩み入った。

「どいてください。私が通訳します」

その声は、騒然としていた室内に静かに響き渡った。

アラビア語で随行員に指示を出し、通訳と応急処置で代表の命を救った少女。危機が去った後、会長の神谷岩尾は清掃服の彼女をじっと見つめていた。どこか見覚えのある顔だった。

この清掃員が四カ国語を操り、数千億円の交渉を動かすとは、この時誰も知らなかった。

数時間前。その朝、最上階の会長室では通訳不在に追い詰められていた。

「通訳は今どこにいるんだ!」

会長室のドアが開き、神谷の低く鋭い声が廊下まで響いた。

「会長、申し訳ありません。交通事故で……」

「代わりを呼べ! 今すぐにだ」

「申し訳ございません。候補も……」

東京新宿の両運ホテル。その気品室の扉の向こうで、天方グループの未来が決まろうとしていた。アラブ政府系ファンドとの数千億円規模のエネルギー投資、一年以上に及ぶ最終交渉だった。この瞬間だけは絶対に失敗できない。神谷は窓の外を見つめていた。貿易会社から五十年かけて築き上げた天方グループ。今朝、専属通訳が事故で入院し、代わりの候補三人も使い物にならなかった。一人目は敬語を間違え、二人目は専門用語で詰まり、三人目は三十秒で辞退した。

「出ていけ」

交渉開始まであと十分。戦略室長の黒崎が入ってきた。十五年、共に戦ってきた側近だった。

「時間を稼ぎます。まず挨拶だけ交わし、本題は午後に延期しませんか?」

「他に選択肢はないな」

黒崎は一礼して部屋を出ていった。神谷はその背中に計算めいたものを感じたが、今は従うしかなかった。

同じ頃、裏廊下で日向は手押し車を押しながら窓を拭いていた。三ヶ月前から始めた清掃アルバイト。入学金がなく大学は見送り、一日十五時間働いて学費を貯めていた。父は三歳の時に亡くなり、母の行方も分からない。古いアパートで一人暮らしの十八歳だった。あと一年耐えれば、学費がたまる。

日向が窓を拭いていると、切迫した外国語の声が備品室の方から聞こえてきた。角を曲がると、気品室の入り口が見えた。天方グループの社員が数人、その前にアラブ風の服装の人々が立っていた。会話は交わされているが、意思の疎通ができていないようだった。

アラビア語。日向にはその言葉が分かった。幼い頃から独学で身につけたのだ。英語、中国語、アラビア語を含め、四つの言語を操ることができた。国際放送と図書館、無料で身につけた独学の実力だった。しかし、今まで一度も役立ったことはなかった。

「通訳はまだですか? いつ始めるんだ?」

社員たちは身振り手振りで伝えようとするが限界だった。相手側の不満も高まっていた。声をかけるべきか。日向はその場を見つめていた。自分はただのアルバイトで、気品に入る資格などない。しかし、彼らは今すぐ通訳を必要としている。それは明らかだった。

日向は一歩下がり、手押し車の元へ戻った。窓拭きを再開したが、心は乱れていた。私に何ができる? 清掃服の私を受け入れてくれるだろうか? 古びた清掃服の自分が気品室に入るなど、想像もできなかった。

その時、大きな騒ぎが起きた。日向は雑巾を置いて走った。今、誰かが助けを必要としている。本能がそう告げていた。

入り口に近づき、中を覗くと、代表団の一人が椅子から崩れ落ち、首を抑え苦しそうに息をしていた。顔は真っ赤で、周りの人々が彼を取り囲んでいた。随行員たちが叫ぶが、従業員は言葉が分からずうろうろするだけで、状況は悪化していた。神谷会長が黒崎を伴って部屋に入ってきた。彼の顔は険しく状況を把握しようとするが、言葉の壁がそれを阻んだ。

倒れたのはハリード・マンスール。アラブ政府系ファンドの交渉代表だった。この投資案件の最終決定権者が、今呼吸困難に陥っていた。首の血管が浮き出て、顔は赤黒くなり、唇が腫れ上がってきていた。随行員たちの叫び声は、まるで怒っているかのように聞こえた。

「彼らは怒ってる。我々の責任を追求してるんだ。まず落ち着かせないと」

「医療班はまだか」

「医療班が向かっています。急げ!」

しかし、ハリードの呼吸はさらに浅くなり、顔は見る見るうちに腫れ上がっていく。入り口の日向には、随行員の叫びがパニックだと分かった。室内に目をやると、砕かれたナッツの飾りがあった。

アナフィラキシーショックだ。日向はもう迷わなかった。

「ここは立ち入り禁止です」

入り口へ向かうと、警備員が清掃服姿の彼女を上から下まで睨み、手で制した。

「あの方はアレルギーショックです。今すぐ応急処置が必要です」

警備員が一瞬気を取られた隙に、日向は中へ入った。騒がしかった室内が一瞬で静まった。清掃服を着た若い女。誰もが彼女を見ていた。神谷会長も黒崎もいたが、誰も何も言わなかった。状況があまりにも緊迫していたからだ。

「アレルギーですか?」

日向は随行員たちに近づき、アラビア語で尋ねた。

「はい。ピーナッツによるものです」

「薬は持っていますか? 鞄の中からすぐに持ってきてください」

随行員の一人が走っていき、日向はハリードのそばに駆け寄った。呼吸は浅く、脈は速い。顔と首はひどく腫れ上がり、意識も朦朧としていた。

「医療班はいつ来ますか? 酸素が必要です。救急車もすぐに」

「もうすぐだ。秘書、救急車を呼べ」

随行員が鞄を持って戻り、中から自己注射薬を取り出してきた。日向はそれを受け取り、ためらわずにハリードの太ももに注射を打った。薬液が注入され、数秒が経つと、ハリードの呼吸が少しずつ楽になっていくのが分かった。医療班が到着し、酸素マスクを装着させると、ハリードの呼吸は安定を取り戻した。顔の腫れもゆっくりと引き始め、室内には安堵の空気が広がった。

神谷は膝をつく日向を見ていた。黒崎は驚きと警戒が入り混じった表情で彼女を見つめていた。この女は一体何者なんだ?

救急車が到着し、ハリードが担架で運ばれていく。

「ありがとう。あなたが彼を救ってくれた」

日向は静かに頷くだけだった。人が少なくなった気品室から、日向も去ろうとした。

「待ちなさい。君の名前は?」

「森本日向です」

「ここで何をしている?」

「清掃のアルバイトをしています」

「アラビア語はどこで習った?」

「独学です」

「なぜ?」

日向は答えられなかった。ただ好きだったからとは言えなかった。

「今日はありがとう。君がいなければ大変なことになっていた」

「とんでもないです」

日向は深く頭を下げ、その場を去った。廊下で手が震えるのに気づいた。だが、今日何かが変わる。その確信だけがあった。

その日の午後、病院からハリードの容体が安定したとの連絡が入った。翌日から交渉を再開できるとのこと。担当医は、処置が遅れていたら命が危なかったと付け加えた。神谷は安堵したが、通訳の問題が解決していないことに頭を悩ませていた。戦略室の緊急会議で、有力な通訳事務所は軒並み予定が埋まっていた。

「外部のエージェントを使いましょう」

神谷はそれを承認した。

その夜、コンビニで働く日向に、人事部から電話が入った。

「会長がお会いしたいとおっしゃっています。明日の午前十時に本社までお越しください」

翌朝十時。本社最上階の会長室。神谷と黒崎が待っていた。

「実は君に頼みたいことがある。通訳を頼めないだろうか?」

「私が通訳を? 専門の通訳ではないのですが……」

「昨日の君の冷静な対応と語学力を見た。今の我々にとって君が最善だ。この交渉は会社にとって極めて重要だ。成功させてくれれば、相応の報酬を約束する」

「やらせていただきます」

外部エージェントへの依頼は、日向の起用ですぐに取り下げられた。午後に資料を受け取り、夜遅くまで読み込んだ。翌朝、寝不足のままホテルの交渉へ向かった。

やがて神谷会長や黒崎らが次々と入り、ハリードを伴う一行も現れた。

「あなたが先日私を助けてくれた方ですね」

「はい、そうです」

「あなたがなければ、私は今ここにいなかったでしょう。会長、あなたの会社には素晴らしい人材がいますね」

交渉が始まった。日向の声は最初は震えたが、次第に落ち着きを取り戻した。神谷は彼女の能力に驚きを隠せなかった。思った以上の能力を持っている。

「残りの交渉期間、ぜひ彼女に通訳を続けてもらいたい」

その日の帰り、神谷は日向に報酬を約束した。一日分の通訳料は、アルバイトの一ヶ月分をはるかに超える金額だった。日向はその申し出を受け入れた。もう後戻りはできない。

それから一週間、交渉は順調に進んだ。日向はホテルの清掃もコンビニのアルバイトもやめ、通訳の仕事に専念した。初めて経済的な余裕が生まれたが、失敗へのプレッシャーも大きくなっていった。

ある日の交渉後、神谷は日向に尋ねた。

「君は今どこに住んでいるんだ?」

「古いアパートです」

「交渉期間中、我が家の離れを使いなさい。業務上必要なことだ」

日向は戸惑ったが、疲労も限界に達していたため、その申し出を受けた。古いアパートの契約はそのまま残し、鍵だけ離れに持ち込んだ。

翌日、日向は会長の離れへ移った。一週間前まで清掃員だった自分には、まるで夢のようだった。この生活はいつまで続くのだろうか。

数日後、日向は会長に頼まれ、書斎へ資料を取りに行くことになった。廊下を歩いていると、壁にかけられた家族写真が目に止まった。若い頃の神谷会長とその妻、そして一人の男の子。十歳くらいの男の子が明るく笑っている。その顔になぜか胸が締め付けられた。どこかで見たような気がした。

書斎に入ると、机の上に一つの写真が置かれていた。先ほどの男の子が成長した姿。二十歳くらいの大学卒業写真のようだった。その写真を見た瞬間、日向の心臓が速く鼓動した。その顔に見覚えがある。まさか、会長の息子では……。

日向は鞄から財布を取り出し、父が残した唯一の古い写真を取り出した。ぼやけてはいるが、書斎の写真と何度も見比べた。廊下の写真に目をやると、男の子が成長していく姿が順に並べられていた。二十代前半の男性の写真の前で、日向は凍りついた。スーツ姿で会社の前に立つ写真。その男性の右の鎖骨の近くに、小さなホクロがあった。日向は無意識に自分の同じ場所を触った。物心ついた時からある、同じホクロがあった。

離れに戻っても、資料に集中できなかった。

その頃、書斎では神谷もまた考えにふけっていた。今日書斎に来た日向の右の鎖骨の近くに、小さなホクロがあることに気づいたのだ。それは十五年前に二十二歳で交通事故で亡くなった息子と同じ位置にあった。偶然かもしれない。しかし、神谷の心は揺れていた。彼は引き出しから息子が事故の数日前に残した古い手紙を取り出した。息子が残した手紙には、隠された真実を知りたいと綴られていた。神谷は手紙をしまい、窓の外を見た。明りのつく離れの部屋。そこにいるのは日向だった。まさか、そんなはずはない。偶然だ。しかし、心の奥では確かめなければならないという声が聞こえていた。

交渉は最終段階に入り、調印式は一週間後に迫っていた。ある日の帰り道、車の中で神谷が口にした。

「君は、亡くなった息子によく似ている」

神谷が口にした息子の話に、日向は動揺してそれ以上聞けなかった。会長の表情が悲しみに沈んでいたからだ。

調印前の打ち合わせで、日向も本社にいた。その午後、会長が階段を降りる途中で目まいを起こした。手すりを掴み損ね、倒れそうになったその瞬間、日向がとっさに会長の腕を掴んで支えた。

「君のおかげで助かった。ありがとう」

その一部始終を、遠くから黒崎が見ていた。

その夜、黒崎は会社の警備室を訪れ、階段の監視カメラの映像を要求した。そして自らの手でその映像を編集し始めた。会長がよろめき、日向が手を伸ばす場面だけを切り取った。編集された映像は、まるで日向が会長を突き飛ばそうとしているかのように見えた。

「これで十分だ」

翌日、黒崎は神谷を訪ね、まず健康を気遣うそぶりを見せた。

「定期検診の結果、高血圧が指摘されています。判断力が鈍っているのでは」

さらに数日後、決定的な一手を打つ。

「会長。これは森本さんが会長を突き飛ばした瞬間ではないでしょうか。もちろん憶測に過ぎませんが」

「バカな。日向は私を助けてくれた人だ」

しかし、信頼する黒崎が証拠映像まで見せてそう言うのだ。神谷は黒崎の言葉と偽映像が頭から離れず、恩人であるはずの日向を疑ってしまった。最近の自身の体調不良も相まって、神谷の心は揺らぎ始めた。

「万が一に備え、彼女を邸宅から出し距離を置くべきです」

神谷は逆らうことができなかった。その夜、神谷は日向を呼び出した。

「しばらく、家から出てくれないか」

「理由を教えてください」

神谷は何も答えられなかった。日向はわけが分からないまま、再びあのアパートへ戻るしかなかった。それから数日、日向は通訳の仕事には通ったが、神谷は彼女によそよそしかった。二人の間には気まずい空気が流れていた。

あの人は、私を助けるはずなのに。なぜ?

通訳席では笑顔を保ち、休憩中だけ枕に顔を埋めて震えていた。でも、明日も通訳しなければ。アラブ国の人たちを裏切れない。

「調印式の前に、あの女を完全に外す」

しかし、黒崎には一つ計算違いのことがあった。それはハリード氏の存在だ。ハリードは日向の暗い表情や、二人の間の不自然な空気に気づいていた。

「何かあったのですか?」

「何でもありません」

そう言いながらも、ハリードは内部調査を命じた。運転手の倉本も、黒崎の警備室への出入りを目撃していた。オリジナル映像と持ち出しログ。ハリード側の記録が一夜で重なった。

その夜、倉本は二人きりになった場で神谷に全てを話した。

「会長、あの子は会長を助けていたはずです。黒崎の映像は編集されたものだと思います」

その言葉に、神谷は凍りついた。

「倉本、私は黒崎にまで騙されていたのか。すぐに警備室に連絡しろ。オリジナルの映像を取り寄せろ」

怒りに震える神谷は、映像と持ち出し記録を突き合わせ、全ての証拠を固めた。

「明日の朝、黒崎を会長室に呼べ」

その朝、通訳の仕事で本社に来ていた日向は、会長の指示で会長室の奥で待たされていた。呼び出された黒崎は会長室に入り、机の上の編集前後の映像を見て、全てを悟った。

「会長、あの映像は私も見ました。あの子は会長の腕を掴んで支えています」

「見ろ。こちらがお前が見せた映像だ」

画面では、まるで日向が会長を突き飛ばすように見えた。

「こちらがオリジナルだ。支えている。違いが分かるな」

黒崎の顔から血の気が引いていく。

「会長、これは誤解です。あの映像は偶然切り取っただけで……」

「お前の口から、その言葉が出るのが一番恥ずかしい。お前は恩人を落とし入れようとした。映像改ざんと虚偽報告だ。定年退職では済まない。即刻、懲戒解雇だ」

「外長、十五年、共にしてきたじゃないですか」

「アラブ国との調印を前に、私を欺いた男にこれ以上の席はない。本社は全役員に通達する。業界全体にも事実を報告する」

その時、会長室の扉が開いた。調印前の打ち合わせで訪れていたハリード氏が立っていた。

「黒崎氏、あなたが内部を歪めようとした記録も、我々は受け取っています。彼女を疑った時点で、あなたの交渉は終わりです」

「そんな……アラブ国まで……」

「お前たちが自ら断った道だ。警備ログも提出する。弁護士を呼べ」

「会長、お願いします。あの清掃員のせいで、私が……」

「黒崎、お前の口からその言葉が出るのが一番恥ずかしい。損害賠償の通告と資産保全の手続きも始める。刑事告発も検討する。もう終わりだ」

「そんな……私が会長の右腕だったのに」

黒崎は膝から崩れ落ちた。編集した映像のコピーだけが床に散らばった。十五年かけて築いた信頼を、自分の手で踏みにじった。

「出ていけ」

黒崎の社員証はその場で回収された。エレベーターの鏡に映った自分の顔は、青ざめていた。廊下では社員たちがひそひそと噂していた。清掃服の少女を落とし入れようとした男が、自らの手で終わったのだと。

会長室の奥で、日向は柱の影からその背中を見ていた。あの人が、私を落とし入れようとしたんだ。

「日向、もう大丈夫だ。お前の席に戻れ」

黒崎の私物だけが詰められたダンボールが運ばれ、戦略室の鍵は彼から二度と渡されなかった。当日、アラブ国側にも公式説明が送られ、黒崎の名前は交渉記録から抹消された。

その日の午後、神谷は日向に連絡を取り、書斎で会った。神谷は編集前後の映像を日向にも見せ、黒崎の策略を全て説明した。

「黒崎の策略と、君を誤解してしまったことを深く謝罪する。もう一度、この家に戻ってきてほしい」

日向はまだアパート暮らしだったが、その日のうちに荷物を離れへ運び戻した。

「あの夜、君を疑った自分が、今も一番恥ずかしい」

「黒崎さんが、私を落とし入れようとしたんですか?」

「そうだ。だが、もう終わった。お前を疑う者は、私が許さない」

「あの夜、理由も言われず出ていけと言われて、本当に怖かった」

「申し訳なかった。二度と、お前を一人にはしない」

「分かりました。信じてくださって、ありがとうございます」

「君が私を救ってくれたのは、通訳としてだけではない。君は人として、正しいことをした」

「会長の息子さんは、どうして……」

「十五年前、交通事故で亡くなった」

神谷は、日向の右の鎖骨の近くにあるホクロが息子と全く同じ場所にあることを告げた。

「君の父親について、教えてくれないか?」

「三歳の時に交通事故で亡くなり、写真が一枚あるだけです」

「その写真を見せてくれないか?」

日向が差し出した古く色あせた写真を受け取った神谷の手は、震えていた。

「この男は、私の息子だ」

「え? 嘘ですよね。そんな偶然、すぎます……」

「私も信じたくない。だが、写真も、ホクロも、君の目も、全部息子だ」

「でも、私はずっと一人で……誰もいないと思って……」

日向の声は震え、膝から力が抜けた。

「母が何も言わなかったのは、知っていたからですか?」

「探した。十五年間、探し続けた。見つけられなくて……」

「認めたくない。今更家族なんて……怖いのは分かる。無理にとは言わない」

「父の顔が、会長の息子? じゃあ、私は……」

神谷はゆっくりと語り始めた。十五年前、息子には愛する女性がいたが、家柄の違いから結婚に反対した。息子は家を飛び出し、連絡が途絶えた。事故の知らせを聞いた時、すでに三歳の娘がいることを初めて知った。しかし、その女性と娘は行方が分からなくなり、神谷は十五年間探し続けていた。

頭では分かる。でも、心が追いつかない。日向の頭の中で全ての点と線が繋がったが、拒否する感情も同時に押し寄せた。

「遺伝子鑑定を受けてくれないか?」

「……お願いします。でも、結果がどうであれ、今日までの私は消えないで欲しい」

一週間後、二人は鑑定の結果を聞きに行った。

「二人が血縁関係にあることは、科学的に証明されました」

診察室で、神谷は涙を流しながら日向の手を握りしめた。日向も、涙を止められなかった。

「おじい様と、呼んでいいですか?」

「もちろん。お前はもう、一人じゃない」

その週、アラブ政府系ファンドとの調印式が華やかに行われた。数千億円規模の投資が、正式に決定したのだ。

「今日の調印は、日向の勇気から始まった。清掃服で入ったあの日が、ここまで繋がっている。この交渉の成功は、彼女の能力と誠実さ、そして信頼があってこそだ。私の命を救ってくれた人に、アラブ国は永遠に敬意を表する」

「私に、この通訳を続けさせてください。アラブ国の方々との約束を果たしたい」

「もちろんです。あなたがいなければ、今日の調印はありません」

満場の拍手の中、日向は深く一礼した。清掃員と呼ばれた日が、遠く感じられた。

その夜、邸宅では運転手の倉本などを招き、さやかな宴が開かれた。

「会長、あの映像を見て確信しました。あの子は救いの手を差し伸べていた」

「倉本、報告してくれてありがとう。お前のおかげでもある」

「日向は私の孫だ。これからは家族として、ここで暮らす」

誰もが驚き、そして心から祝福した。日向は父が使っていた部屋で暮らすことになった。そこには父の残した本や写真がそのまま残されていた。神谷は日向に会社の経営を教え始め、いつかは会社を継いで欲しいと願うようになった。

一方、懲戒解雇を受けた黒崎は、本社を追われ、業界の人脈も次々と切られた。転職先を探しても、天方グループの名前を出した瞬間に面接が打ち切られた。

「私だって、会社のためを思って……あの女が現れるまで、全部順調だったのに」

かつての部下に連絡を取っても、既読のまま返事は来なかった。

「おい、少し話がしたい」

「無理です。黒崎さんも関われません。映像の件、業界中に回ってます」

十五年間かけて築いた地位は一週間で崩れ、彼は夜中に求人サイトを眺める日々を送っていた。

「あの清掃員のせいだ。あいつがいなければ、今頃私が……」

かつて自分の元で働いた社員が新しい戦略室長として挨拶する姿を見て、黒崎は笑えなかった。天方グループ本社前を通るたび、彼は足を止めてしまう。あの会長室にもう一度だけ。警備員に声をかけられ、名乗りを上げる前に追い返された。編集ソフトの画面を叩いても、消えない自分の姿だけが残っていた。

俺は何を、何のために? 鏡に映った男は、かつてのスーツ姿とは別人のようにやつれていた。

そんな中、ハリード氏からアラブ国で通訳として働かないかという正式なオファーが届いた。祖父のそばにいたい気持ちと、自分の力で道を切り開きたい気持ちの間で、日向は悩んだ。

ある日、日向は一人で全ての始まりの場所であるあのホテルの気品室を訪れた。ガランとした空間の真ん中に立ち、清掃服姿でためらっていた自分を思い出していた。

あの時、皆さんは私を見向きもしませんでした。でも、あの一歩を踏み出してよかった。勇気を振り絞って中へ飛び込んだあの瞬間が、自分の人生を全て変えたのだと。

数日後、日向は決断を神谷に伝えた。

「おじい様、私はアラブ国へ行きたいと思います。でも、完全に離れるわけではありません。日本とアラブ国を行き来しながら、仕事をしたいのです」

「いつでも、ここがお前の帰る場所だ。忘れるな」

日向は古いアパートを引き払い、再び会長の離れへ戻った。三ヶ月後、アラブ国での仕事を終えた日向が日本へ帰ってきた。神谷は孫の帰国を喜び、車の中で日向がアラブ国での経験を生き生きと語った。

「通訳は、ただ言葉を映すだけじゃない。心と心を、違う世界でつなぐ仕事なんだと分かりました。それが、私のやりたいことです」

神谷は嬉しそうに微笑んだ。夜の書斎で、二人は語り合った。

「お前が初めてこの家に来た時、まさか孫だとは思わなかった」

「私もです。なぜだか、おじい様のそばがとても心地よかったんです」

二人は笑い合った。窓の外には星が輝いていた。

調印から数ヶ月後、天方グループとアラブ政府系ファンドの共同事業発表会が開かれた。会場には神谷会長と、その隣で通訳を務める森本日向の姿があった。

「この事業は、信頼から始まった。一人の若者の勇気と能力が、この結果を産んだ。彼女の声がなければ、アラブ国と日本は繋がらなかった。それが何よりの証拠だ」

日向の明るい声が会場に響き渡る。発表が終わり、満場の拍手が送られる中、日向はスポットライトを浴びていた。かつて清掃服で入れなかった気品室の向こう側に、今自分が立っている。しかし、今の彼女は堂々としていた。

どいてください。私が通訳します。

これからは、私の人生も。眩しい光の中、日向は微笑んだ。新しい人生の始まりだった。

一方、黒崎は半年後も業界から完全に締め出されたままだった。日雇いの仕事も三日で首になり、給与明細の差し押さえ通知がポストに入っていた。

「十五年、十五年やってきたのに……清掃員一人のせいで」

テレビには先日の共同事業発表会の映像が流れ、通訳する日向の姿が映った。

「あいつが……あいつが、俺の席に……」

窓の外では花火が上がっていたが、彼の部屋には音すら届かない。彼はリモコンを投げつけ、暗い部屋でうなだれた。もう誰も、黒崎の名前を出さない。

清掃服の少女が四カ国語で数千億円の交渉を救い、血のつながりを取り戻した物語。肩書きより、誠実さが人をつなぐ。そんな逆転の物語だった。

Thumbnail