蛍光灯がチカチカと点滅する古びた医局のソファで、俺は紙コップのインスタントコーヒーをすすっていた。スーツの袖口は擦り切れ、ネクタイは曲がり、顎には三日分の髭が伸びている。俺の名前は真宮亘、四十二歳。この大学病院に勤める内科医だ。
診察室のドアが勢いよく開いた。入ってきたのは内科部長の黒木周一。俺の姿を見つけると、わざとらしく鼻を鳴らした。
「真宮先生、また売店のカップ麺ですか。仮にも医者なんですから、もう少し身だしなみに気を使ってもらえませんかね」
「すみません。朝が弱いもので。今日のカンファには間に合わせますから、ご心配なく」
「君のような人間が、うちの内科に居続けられているのが私には不思議でならないよ」
そう言い残して、黒木は若手の鈴木を引き連れて部屋を出ていった。鈴木は二十八歳。黒木の腰ぎんちゃくで、俺の横を通り過ぎるたびに必ず嘲るような笑みを浮かべる。今日もそうだった。
「真宮先生、そのスーツ、何年着てるんすか。さすがに買い替えた方がいいっすよ」
「気に入ってるんでね。物は大事に使うものだろう」
「はあ。ま、人それぞれっすね」
鈴木は含み笑いを残して去っていった。
カンファレンス室には十数人の医師が集まっていた。プロジェクターの白い光が壁に症例のレントゲン写真を映し出す。俺は一番後ろの席で頬杖をついて聞いていた。発表しているのは鈴木だった。よく勉強しているのは分かる。だが、術式の選択に違和感があった。画像をもう一度見る。腫瘍の位置、リンパ節の腫れ方、患者の年齢。俺は手元の資料に小さく印をつけた。
「では、この症例については鈴木先生の提案通り、来週手術ということで」
「部長、少しよろしいですか」
空気が張り詰めた。黒木が眼鏡を押し上げ、俺をじろりと見る。
「腫瘍の位置から考えると、術前にもう一度CTを撮って、血管への浸潤を確認した方がいいと思います。このまま開けると、想定外の出血のリスクがあります」
「真宮先生。鈴木先生はちゃんと検査結果を踏まえて発表しているんだよ。君は普段、カンファに参加もしないくせに、急に何を言い出すんだ」
「出過ぎたことを言いました。ただ、念のためということでご検討いただければ結構です」
「次の症例に移りましょう」
俺は黙って引き下がった。言うべきことは言った。聞き入れるかどうかは向こうの問題だ。
カンファが終わり、廊下を歩いていると、後ろから足音が追いかけてきた。
「真宮先生」
振り返ると、朝倉陽が立っていた。三十五歳。地方の大学病院から来たと聞いている。化粧気のない顔に、真っ直ぐな黒髪。内科で一番信頼されている医師だ。
「さっきの指摘、私もずっと気になっていました。あの影、確かに怪しいです。先生、よく気づかれましたね」
「いや、たまたま画像が目に入っただけですよ。普段、発表も聞いていないと言われている男ですから」
「失礼ですが、真宮先生って、本当はどういう方なんですか。ご経歴を伺ったことがないんです。論文も学会発表もほとんど見当たらない。それなのに、画像を見る目はこの病院の誰よりも鋭い気がして」
俺は少し笑って頭を掻いた。
「買いかぶりすぎですよ、朝倉先生。俺はただの中年の医者です。真面目にやってきた方じゃない。期待されると困りますよ」
「そうでしょうか。私は人を見る目には自信がある方なんですが」
朝倉は真面目な顔のまま、少し首をかしげた。俺は話を打ち切るように軽く会釈をして、歩き出した。
午後二時を過ぎた頃、院内放送が走った。小児の救急搬送。俺は当番ではなかったが、近くにいたので救急外来へ向かった。ストレッチャーの上に小さな少女が横たわっている。青白い顔、荒い呼吸。付き添いの母親が震える声で叫んでいた。
「綾音、綾音、しっかりして」
俺はカルテを覗き込んだ。小川綾音、十歳。複数の病院をたらい回しにされ、ここに運ばれてきたという。朝倉が走り込んできて、脈を当て、すぐに眉を潜めた。
「ショックの可能性があります。ただ、感染がはっきりしません。血液検査の結果は炎症反応が上がっていますが、何か別の要素がある気がします」
俺はもう一度、綾音の顔を見つめた。唇の端に薄い色素沈着がある。指先の爪がほんのわずかに変色している。よくある症状ではない。何かが引っかかった。
「朝倉先生、この子の既往歴は」
「特にないと書かれています。健康な子だったと母親も」
「家族歴は。海外歴は。最近食べたもの、飲んだもの、全て聞き出してください。それから自己免疫系の検査も追加で。普通の感染症じゃない。これは」
朝倉は一瞬、俺の顔を見た。何かを問いかけるような目だった。だがすぐに頷き、母親の元へ駆け寄った。
そこへ黒木と鈴木がやってきた。
「これは内科の仕事だろう。真宮先生、下の出る幕じゃない。引っ込んでてくれ」
「部長、この子の容体は時間との勝負です。診療科の縄張りを言っている場合じゃないと思いますが」
「縄張りの話じゃない。専門の話をしているんだ。君は黙って内科の症例だけ見ていればいい」
鈴木がにやりと笑った。
「真宮先生、また出しゃばっちゃって。ほどほどにしないと、また怒られますよ」
俺は黙って綾音の手首に指を当てた。脈が確実に弱くなっている。このままでは長くは持たない。頭の奥で遠い記憶が浮かんだ。昔、父の研究所で見たことのある症例。あれと似ている。
朝倉が戻ってきた。母親から聞き出した話を早口で告げた。
「先月、ご家族で東南アジアに旅行されているそうです。それから、お父様の趣味で熱帯魚を飼っていて、綾音ちゃんもよく水槽を触っていたと」
来たな。俺は呟いた。一つの病名が頭の中に浮かび上がる。それはこの国ではほとんど報告例のない、稀な感染症だった。治療を間違えれば命はない。
俺は白衣の襟を正し、ストレッチャーの脇に立った。
「朝倉先生、検査をもう二つ追加してほしい。それと、念のため感染症科にも連絡を。この子は必ず助けます」
朝倉が真っ直ぐ俺を見て頷いた。処置室のドアが閉まる音が、夕方の空気に大きく響いた。
綾音の小さな体がベッドの上で浅い呼吸を繰り返している。俺は手袋をはめ直し、朝倉に指示を出した。
「血液バイオマーカー、もう一式。それから皮膚の発疹部分から組織を少し取らせてもらう。顕微鏡で直接確認したい」
「直接ですか。検査に出さずに」
「結果を待っている時間がない。俺が見ます」
朝倉は一瞬迷った様子を見せたが、すぐに準備に取りかかった。背後でドアが乱暴に開いた。黒木が鈴木を従えて立っていた。
「真宮先生、勝手な処置は許可しないと言ったはずだ。診断が固まっていない段階で、独断で動かれては困る」
「部長、診断を固めるための処置です。このままでは、固まる前にこの子が死にます」
「だから、それを判断するのは私だと言っているんだ。君は内科医だろう。出しすぎだ」
鈴木が後ろで腕を組み、口元を歪めた。
「先生、いい加減、引き際を覚えた方がいいですよ」
俺は何も言わずにピンセットを手に取った。綾音の腕に浮かんだ発疹の縁から、ごく小さな組織を採取する。スライドガラスに乗せ、染色液を垂らし、顕微鏡を覗き込んだ。視野の中に見慣れない形の何かが浮かび上がる。予想していた通りだった。俺は顔を上げ、朝倉に小さく頷いた。
「朝倉先生、これを見てもらえますか。判断材料の一つになります」
朝倉が顕微鏡を覗き込み、息を飲んだ。
「これは……一般的な細菌の形じゃありませんね。寄生虫性のものですか」
「東南アジアの淡水域に分布する原虫の可能性が高い。熱帯魚の水槽の水にも紛れ込むことがある」
「君は今、何を言っているんだ。そんな診断、根拠がどこにある」
「根拠は今、この顕微鏡の中にあります。部長もご覧になりますか」
黒木は顕微鏡に近づこうとして、途中で足を止めた。覗き込んで、もし俺の言う通りだったら、この場で立場を失う。覗き込まなければ、判断を保留できる。
「仮にそうだとしてもだ。その診断に対する治療薬は、この病院にはないだろう。海外からの取り寄せになる。間に合うはずがない」
「ご心配なく。手は打ちます」
俺はそう言って、白衣のポケットから携帯電話を取り出した。廊下の隅に出て、携帯を耳に当てた。コール音が三回鳴り、低い声が応じた。
「亘か。珍しいな。お前からかけてくるのは」
「親父、頼みがある。アムロベンダーゾールの在庫が、うちのグループのどこかにあるはずだ。一時間以内にこっちに届けてほしい」
「患者か」
「十歳の女の子だ。あと数時間持たないかもしれない」
短い沈黙があった。電話の向こうで父が誰かに何かを指示する声が聞こえた。
「四十分で着くように手配する。お前、戻ってくる気はないのか」
「その話はまた今度だ。今はこの子を助けることだけ考えたい」
「相変わらずだな、お前は。母さんに似てきた」
電話が切れた。俺は携帯をポケットに戻し、ふっと息を吐いた。振り返ると、朝倉が少し離れた場所に立っていた。何かを感じ取った顔をしていた。
「先生、薬剤の手配、できたんですか」
「ええ、四十分ほどで届くはずです」
「四十分。普通のルートじゃ絶対に無理な時間ですよ」
「ちょっとした手があるだけです」
朝倉はそれ以上何も聞かなかった。ただ、俺の目をじっと見つめていた。俺は目をそらし、処置室へ戻った。
綾音の容態は一刻と悪化していた。血圧はさらに下がっている。モニターの波形が時折乱れた。母親が廊下で泣き崩れているのが、ガラス越しに見えた。
その時、処置室のドアが開き、黒木が再び入ってきた。表情が先ほどとは違っていた。迷いが滲んでいた。
「真宮先生、少し話がある」
「部長、今は手が離せません」
「ここで聞く。その診断が間違っていた場合、誰が責任を取るんだ。海外取り寄せの薬を未承認の用法で使う。万が一があれば、君だけの問題では済まない。病院全体の問題になる」
「責任なら、俺が取ります。診断書にも処方判断にも、俺の名前で署名します。部長や朝倉先生に迷惑はかけません」
「そういう問題じゃない。そんな簡単に取れる責任じゃないんだ」
黒木の声は少しだけ震えていた。五十歳の外科部長。彼にも守りたいものがあるのだろう。それは分かる。だが、今この瞬間、守らなければならないのは、ベッドの上の十歳の命だ。
「部長、俺はこの子の手を握っている家族の顔を見てしまいました。三日前まで普通に学校に行っていた子なんです」
黒木は何も言わなかった。
時計の針が四十分を回ろうとしていた。運送業者の制服を着た男がクーラーボックスを抱えて入ってきた。俺はサインをし、ボックスを受け取った。中には目的の薬剤と、父からの一枚のメモが入っていた。「責任は理事長権限で引き受ける。お前は治療に専念しろ」とだけ書かれていた。
朝倉がクーラーボックスのラベルに目を留めた。
「真宮メディカルグループ中央研究所……」
朝倉の目がほんの一瞬見開かれた。
「朝倉先生、点滴を切り替えます。投与速度は最初はこの値で。十分ごとにバイタルを確認。副作用が出たらすぐに止めてください」
「分かりました。先生、私も最後まで一緒にやらせてください」
「ええ、お願いします。一人じゃこの子は救えない」
黒木は処置室の隅でただ立っていた。止めようとはしなかった。止められないと理解した顔だった。鈴木はその横で、自分が何をすべきか分からないまま突っ立っていた。
薬剤が綾音の細い腕に滴り始めた。長い夜が始まろうとしていた。
時計の針が深夜零時を回った。綾音の額には汗が滲み、時折苦しげに眉が寄る。俺はその小さな手を握り、脈を確かめ続けていた。朝倉は反対側で、十分ごとにバイタルを記録していた。
「先生、血圧が少しだけ戻ってきました。八十二の四十八」
「さっきよりは悪くない。このまま明け方まで持ってくれれば」
「先生、少し休んでください。私が見ていますから」
「いや、薬剤の効き目が見えるまでは、ここを動けない。朝倉先生こそ、休んでいいんですよ」
朝倉は首を横に振った。彼女もまた椅子から立たなかった。処置室の隅、丸椅子に腰かけたまま、黒木が動かずにいた。深夜になっても帰ろうとしなかった。鈴木は壁に持たれ、何度も時計を見ていた。彼の表情から、いつもの薄笑いは消えていた。
午前二時を過ぎた頃、綾音の呼吸がわずかに乱れた。モニターの波形が一瞬跳ねた。朝倉が立ち上がりかけたが、俺は手で制した。
「大丈夫です。薬が効き始めた反応だ。ここを超えれば潮目が変わる」
十五分ほどで波形は落ち着いた。朝倉が小さく息を吐いた。
午前七時、朝の光が処置室に差し込んだ。綾音は眠っていた。血圧は安定し、呼吸も穏やかになっていた。発疹はまだ残っている。だが、進行は止まった。峠は超えたと、誰の目にも分かった。
ドアが開き、黒木が立ち上がった。一晩中、ほとんど一言も発さずにいた男が前に進み出た。眼鏡を外し、目元を指で抑え、深く息を吐いた。
「真宮先生。私は君のことをずっと間違っていた。昨日、君が顕微鏡を覗けと言った時、私は覗かなかった。覗けなかったというのが本当のところだ。情けない話だが、保身を優先した。君が責任を一人で背負おうとしているのを、止めもしなかった」
「部長、その話はもういいですよ。患者が助かった。それで十分です」
「いや、言わせてくれ。私はこの子の命より、自分の立場を先に考えた。医者として、それは恥ずべきことだ。すまなかった」
黒木は深々と頭を下げた。五十歳の内科部長が、腰を折って四十二歳の俺に頭を下げていた。鈴木がその後ろで呆然と立ち尽くしていた。
俺は軽く手を上げて、黒木の肩に触れた。
「部長、頭を上げてください。俺だって、立場が逆なら同じように迷ったかもしれない。明日からまた、いつものカンファでよろしくお願いしますよ」
「君は本当に、変わった男だな」
「よく言われます」
鈴木がおずおずと前に出てきた。
「真宮先生。先生のこと、本当に何も分かってませんでした。カップ麺がどうとか、スーツがどうとか、そういうことばっかり言って、すみませんでした」
「鈴木先生、君はよく勉強している。腕もある。これからは患者だけを見るようにすればいい」
鈴木は唇を噛み、何度も頷いた。目に涙が滲んでいた。
朝倉と二人で処置室を出た時、俺の携帯が震えた。父からだった。俺は廊下の端で電話に出た。
「容態はどうだ」
「峠は超えた。ありがとう、親父。あの薬がなければ無理だった」
「お前、いつまでそこにいるつもりだ。グループにはお前の席が空けてある」
「親父、俺はまだ現場にいたい。理事長室から見える景色じゃ、見えないものがあるんだ。もう少しだけ、ここで医者をやらせてくれ」
電話の向こうで父が笑った気がした。
「好きにしろ。だが、必要な時はいつでも言え」
「ああ、頼りにしてる」
電話を切ると、朝倉が少し離れた廊下のベンチに腰かけていた。俺は隣に座った。二人ともしばらく何も言わなかった。
「先生、私、メモを見てしまいました」
「そうですか。じゃあ、もう隠しても仕方ないですね」
彼女は俺という医師をずっと不思議に思ってきたのだろう。クーラーボックスに記された真宮メディカルグループ中央研究所の文字。その社長で、署名にあった真宮竜一は俺の父親だ。真宮メディカルグループの名前は、医療業界にいれば知らぬ者はいない。実は俺は、国内最大級の医療財閥の後継者でもある。だが、今は医師として働いているのだ。
「誰にも言いません。先生がそうしている理由は、聞かないでおきます。ただ……ただ、なんですかね」
「何だ」
「これからも、先生の隣で見させてもらいますか。同じ病棟の、ただの医師として」
「こちらこそ、よろしくお願いしますよ。一人じゃ見落とすことが多すぎるんでね」
朝倉はふっと笑った。化粧のない顔が、朝の光の中で少しだけ柔らかく見えた。
数日後、綾音は一般病棟に移った。退院の日、親子は俺と朝倉のところへ来た。綾音は小さな手に折り紙の花束を持っていた。
「先生、ありがとう。大きくなったら、私もお医者さんになる」
「そうか。じゃあ、その時はカップ麺の買い方を教えてやるよ」
「え、それだけ? 」
「それが一番大事なことなんだ。長い夜を超える医者の燃料だからな」
綾音は笑った。母親が深々と頭を下げ、二人は病院を出ていった。玄関の向こうで桜が満開になっていた。花びらが風に乗って、白衣の肩に落ちた。朝倉が隣に並んだ。何も言わずに同じ景色を見ていた。黒木と鈴木が少し離れた場所から、こちらに向かって軽く会釈をした。俺も小さく頷き返した。
医局に戻れば、また擦り切れたスーツの袖がある。売店のカップ麺がある。黒木の小言があり、カンファの長い議論がある。それでいい。肩書きを背負って見えなくなる景色より、ここから見える景色の方が俺には合っている。
桜の花びらが肩に落ちた。俺はそれをそっと指でつまみ、白衣のポケットに入れた。



