朝、年金の通知書を開いた瞬間、妻が静かに言った。「思っていたより少ないですね」。二人合わせて月十四万円。その現実を噛みしめていた数日後、自宅のポストに差出人不明の封筒が届いた。中身を見た妻の顔が、凍りついた。私たちが息子に貸した千五百万円。その保証人として、家の土地が担保に取られていた。印鑑も実印も知らないうちに使われ、息子は個人破産して免責を受けていた。二重三重に裏切られた現実の中、私は誰…

朝、年金の通知書を開いた瞬間、妻が静かに言った。「思っていたより少ないですね」。二人合わせて月十四万円。その現実を噛みしめていた数日後、自宅のポストに差出人不明の封筒が届いた。中身を見た妻の顔が、凍りついた。私たちが息子に貸した千五百万円。その保証人として、家の土地が担保に取られていた。印鑑も実印も知らないうちに使われ、息子は個人破産して免責を受けていた。二重三重に裏切られた現実の中、私は誰...

朝の六時ちょうど、黒沢茂は目を覚ました。三十年以上、現場に出る仕事を続けてきた体に染みついた習慣で、目覚まし時計が鳴る前から自然とまぶたが開く。薄暗い天井を数秒見つめ、それからゆっくりと起き上がる。窓から差し込む朝の光が、ハンガーにかかったシャツを静かに照らしていた。

洗面所で顔を洗い、丁寧に髭を剃る。この動作だけは現役時代と変わらなかった。鏡の中の自分と向き合う数分間、彼は何も考えない。ただ刃が肌を滑る感触と、水の冷たさだけを感じる。それが彼にとっての朝の儀式だった。

台所に降りると、妻の千鶴子がすでに小さなガスコンロに火をかけていた。エプロンをつけ、背を丸めて火加減を確認している姿は、何十年見続けても変わらない。茂は何も言わずに椅子に腰を下ろした。二人の間に言葉はいらなかった。長い年月をかけて作り上げた沈黙の心地よさがあった。

急須に茶葉を入れ、湯を注ぐ。茂は湯呑みを両手のひらで包むように持ち、ゆっくりと口をつけた。砂糖も何も入れない、渋みのある緑茶。これだけが彼が一日の中で唯一ほっとする瞬間だった。千鶴子が向かいの椅子に座り、麦茶を一口飲んだ。小柄な体に白いエプロンが少し大きすぎた。彼女の指先は細くて乾いていて、爪の際が少しひび割れていた。長年、家事と仕事を掛け持ちしてきた手だった。

今日は特別な朝だった。二人が揃って退職してから、ちょうど一ヶ月が経つ。茂は物流会社の管理職として三十八年間務め上げ、千鶴子は地域の区役所で二十五年間、非常勤職員として働いた。退職の日、どちらも派手なことは何もなく、ただ職場の人間に頭を下げ、いつも通りバスに乗って帰宅した。それだけだった。

テーブルの上には二枚の封筒が置いてあった。どちらも日本年金機構からで、茂宛てと千鶴子宛ての、それぞれの年金振り込み通知書だった。昨日届いたが、二人とも昨夜は開けなかった。なんとなく、翌朝に二人で開けようと無言のうちに決めていた。茂が先に自分の封筒を手に取り、糊で止めた封を丁寧に切り、中身を広げた。老眼鏡を鼻にかけ、数字を目で追う。千鶴子も自分の封筒を開け、同じように数字を見た。

しばらく、台所の時計の秒針の音だけが響いていた。茂は紙を静かに机に置いた。眼鏡を外し、人差し指と親指で鼻の付け根をつまんだ。千鶴子は自分の通知書を見たまま動かなかった。

二人の年金を合わせると、月に二十万円ほどになるはずだった。それが二人の退職前の計算だった。だが、通知書に記された数字はそれとは大きく違っていた。制度改正により介護保険料と後期高齢者医療制度の拠出金が引き上げられ、さらに新たな復興特別税が加算されていた。手取りは二人合わせて十四万円を少し上回る程度だった。

十四万円。東京郊外とはいえ、固定資産税、光熱費、食費、医療費、その他を引いたら、残るのはほとんど何もない。老後の楽しみとして話し合っていた年に一度の国内旅行は、もはや夢物語に等しかった。千鶴子が先に口を開いた。声は静かで、感情を押し込めようとしているのが伝わった。

「思っていたより少ないですね」

攻める言葉ではなく、ただ現実を言葉にした。それだけの一言だった。茂は窓の外に目をやった。曇り空だった。庭の隅に植えたままになっている柿の木が、風もないのにわずかに揺れていた。彼は何も言わなかった。言葉を探したが見つからなかった。

千鶴子は二枚の通知書を揃え、封筒に戻した。それを引き出しの中にしまい、家計のノートを取り出して、ボールペンのキャップを外した。数字を書き込む音が、静かな台所に響いた。彼女の字は小さくて丁寧で、数字を書く時は特に力強かった。茂はもう一杯茶を注いだ。二杯目は一杯目より渋かった。それでも飲んだ。何かをしていないと、自分の中で何かが崩れそうな気がした。

午前中は二人とも無言だった。茂は古い新聞を読み、千鶴子は洗濯物を干した。普段と変わらない午前の景色だったが、空気の質が少し違った。互いにそれを感じていたが、口にはしなかった。昼頃、千鶴子が冷蔵庫を開けて、少し長く閉めなかった。今週の買い物リストを確認しているようだった。やがて静かに冷蔵庫を閉め、エプロンの裾で手を拭いた。献立を減らすか、それとも量を減らすか。彼女の頭の中で、静かな計算が始まっていた。

茂は縁側に出て庭を眺めた。雑草が少し伸びていた。退職したら庭仕事でもするかと、去年まで思っていた。だが、今は草を見ても、ただ見ているだけだった。何かをやる気力が、どこかに落としてきたみたいに見当たらなかった。

午後二時を過ぎた頃だった。玄関の郵便受けに、何かが落ちる音がした。千鶴子が廊下を歩く足音がして、ドアを開ける音がした。それから少し間があった。茂が縁側から台所に戻ろうとした時、千鶴子の声がした。

「茂さん」

声に色がなかった。茂の足が止まった。千鶴子が、差出人不明の封筒を持って立っていた。開けると、中には日本年金機構からの通知書が入っていた。何か手続きの案内かと思った。だが、よく見ると、それは「年金支給額変更のお知らせ」ではなく、妻の名前で書かれた「介護保険料の納付のお知らせ」だった。

「なんだ、保険料の案内か」

茂がそう言うと、千鶴子は首を振った。

「違うの。これ、私の分じゃない」

彼女は封筒を茂に差し出した。宛名を見ると、確かに「黒沢茂」と書いてあった。茂は封筒を受け取り、中身を確認した。それは、茂の名前で届いた介護保険料の納付書だった。だが、金額がおかしかった。前年度の倍近くになっている。

「なんでこんなに……」

「再開発で、この辺りの土地の評価額が上がったんだって。固定資産税も上がるって、前に新聞で読んだわ」

千鶴子は静かに言った。茂は納付書をじっと見つめた。先ほど計算した年金の手取り額が頭の中をよぎった。十四万円。そこからさらに保険料が引かれていく。

二人はその日の午後、近くの銀行に年金の受け取り手続きに行った。手続きの間も、二人はほとんど言葉を交わさなかった。窓口で若い行員に案内され、番号札を持って並んで座っている間も、言葉はなかった。手続きが終わり、通帳が戻ってきた。茂は通帳を開いた。そこには、わずかな金額だけが記されていた。千鶴子も、通帳をのぞき込んだ。

「これだけ……」

「ああ」

茂は通帳を閉じ、ポケットにしまった。銀行を出ると、外は曇っていた。十月の空は低く、薄い灰色が広がっていた。駐車場の隅に、誰かが捨てたペットボトルが一本、横倒しになっていた。茂は立ち止まった。歩き出す気になれなかった。胸の中に、重いものがあった。

「大丈夫よ」

千鶴子が隣で言った。

「なんとかなるわ。二人でやっていけるわ」

茂は何も言わなかった。言える言葉が見つからなかった。二人は並んで、バス停に向かって歩き出した。バスの時間まで十分ほどあった。二人は駅前のベンチに座った。千鶴子がバッグから小さなタオルを出し、手の甲を拭いた。茂は両膝の上に手を置いたまま、行き交う人を見ていた。誰も二人を見なかった。誰も、二人が今日、現実と向き合い始めたことを知らなかった。世界は、関係なく動き続けていた。

バスが来た。二人は立ち上がり、乗り込んだ。座席に並んで座り、窓の外を見た。市街地が流れていった。色の薄い秋の風景だった。千鶴子がそっと、茂の手に触れた。指先だけの、小さな接触だった。茂は手を引かなかった。ただ窓の外を見続けた。彼の中で、何か大きなものがゆっくりと沈んでいく感じがした。

家に帰り、千鶴子が台所で夕食の準備を始めた。茂は自分の部屋に入り、背広を脱いでハンガーにかけた。ネクタイを外し、引き出しから着替えを出した。窓の外を見た。空はまだ曇っていた。柿の木が風に揺れていた。彼はしばらくそこに立ったまま、何も考えないようにした。考えると怖くなる気がした。

夕食は、味噌汁と小さなサバの塩焼きと冷奴だった。千鶴子が丁寧に盛り付けた皿を、茂は黙って食べた。味噌汁を一口飲んだ時、それがいつもより少し塩辛く感じた。気のせいかもしれなかった。それとも、自分の舌が今日のことを知っていて、何かを訴えているのかもしれなかった。食事の途中、千鶴子が言った。

「…しっかり食べないとね」

茂は箸を止めずに言った。

「…ああ」

それだけだった。

食後、茂は縁側に出た。夜の庭は暗く、柿の木は輪郭だけになっていた。町の灯りが、空の低いところをぼんやり染めていた。タバコのことを思った。二十年前にやめた。医者に言われたからやめた。だが、今この瞬間、一本だけ吸いたいと思った。もちろん、タバコはどこにもない。茂は縁側の柱に手を当て、それを握った。木の感触が手のひらに伝わった。

これからどうしていくのか。二人の年金だけでは、暮らしていけない。それだけははっきりと分かった。だが、どうすればいいのか、答えは出なかった。千鶴子が縁側に来た。湯呑みを二つ持っていた。茂に一つ渡し、自分も縁側の端に腰を下ろした。二人で暗い庭を見た。

「大丈夫よ」

千鶴子がまた言った。

「なんとかなるわ」

茂は湯呑みを両手で持ち、何も言わなかった。千鶴子の声は柔らかかった。本当にそう信じているからそう言っているのか。それとも、信じようとしているからそう言っているのか。茂には分からなかった。どちらでも、今夜は同じことだった。台所の時計が午後八時を告げた。千鶴子が立ち上がり、中に入った。茂は縁側に残った。空が少し動いて、雲の切れ間から星が一つ見えた。すぐにまた隠れた。茂は目を閉じた。胸の奥にある重いものは、まだ底にあった。消えていなかった。名前のつけようのない、冷たく重い感覚が、静かに彼の内側に座り込んでいた。それが何なのか、茂にはまだ分からなかった。ただ、今夜は眠れないだろうと、静かに思った。

それから数週間が経った。二人の生活は、静かに、しかし確実に変わっていった。千鶴子は、スーパーで買う食材の量を少しずつ減らしていった。魚は一切れを二人で分けるようになり、肉はほとんど出なくなり、代わりに豆腐や卵の料理が増えた。味噌汁の具も減った。茂は気づいていた。だが、何も言わなかった。千鶴子が削っているのは、何かを見越してのことだということが分かった。何を見越しているのか。それを口にするのが怖かった。

ある日の昼食の時、千鶴子が茶碗に盛ったご飯の量が、茂の目にも明らかに少なかった。千鶴子の分は、さらに少なかった。

「千鶴子」

茂は呼んだ。千鶴子が顔を上げた。

「飯が少ない」

感情のない声だった。千鶴子は少し間を置いた。

「…最近、食べすぎだったから」

「ダイエットよ」

声は穏やかで、笑顔に近い表情だった。茂はそれ以上言わなかった。追求しなかった。千鶴子が嘘をついていることは分かった。だが、その嘘の意味を掘り起こせなかった。掘り起こしてしまえば、二人の間の薄い膜が割れる気がした。

数日後、茂がスーパーに買い物に行った時、千鶴子の財布を見た。中に入っている紙幣が、以前より明らかに少なかった。その夜、茂は家計のノートを引き出しから出した。千鶴子が毎日つけているものだ。ぱらぱらとめくった。支出の欄に、慎重に削られた後があった。光熱費の節約、食費の削減、日用品の見直し。その節約額が、千鶴子の小さな字で几帳面に記録されていた。茂はノートを閉じ、引き出しに戻した。台所の椅子に座り、しばらくその場にいた。

五ヶ月目に入ったある日、千鶴子がスーパーで買い物をしていた。いつも通り必要なものだけをカゴに入れ、レジに並んだ。順番が来てカードを差し込んだ。機械が少し間を置いた後、店員が申し訳なさそうに言った。

「こちらのカード、使えないとなっておりまして」

千鶴子は一瞬、何を言われたか分からなかった。「使えない」という言葉が頭の中で意味を持つまでに、少し時間がかかった。「もう一度試してもよろしいですか」と店員が言った。千鶴子は頷いた。もう一度差し込んだ。また間があった。やはり使えなかった。後ろに列が並んでいた。千鶴子は財布を開き、現金を確認した。ぴったりの金額は入っていなかった。少し足りなかった。千鶴子は少しの間カゴの中を見た。それから小さく、店員に言った。

「…お肉、戻してもらえますか」

店員は何も言わずに受け取った。千鶴子は現金で残りを支払った。店を出た。外は曇っていた。千鶴子は少しの間、スーパーの前に立っていた。買い物袋が腕に重くかかっていた。家に戻り、買ったものを冷蔵庫に入れた。茂はその日、外に出ていた。戻ってきた夫に、千鶴子は今日のことを言わなかった。

夜、千鶴子は自分の部屋でカードの明細を確認した。引き落とし額が、口座の残高を超えていた。口座に入っているのは、年金の振り込み分だけだった。老後の蓄えは、もうない。それを改めて数字として目の前に突きつけられた夜だった。千鶴子は明細書を畳み、引き出しの奥にしまった。電気を消した暗い部屋の中で、しばらく目を開けたままでいた。

六ヶ月目に入った頃、二つの悪材料が重なった。まず、固定資産税の納付書が届いた。地域再開発計画に伴い、この地区の路線が見直されていた。家の評価額が上がり、税額が前年の倍近くになっていた。十二万円を超える金額だった。千鶴子はそれを見た。目を一度閉じ、また開けた。それから封筒に戻し、テーブルの引き出しにしまった。

その三日後、台所の流しの下から水が滲み出てきた。千鶴子が最初に気づいた。朝、台所に降りると、床のフローリングが濡れていた。流しの扉を開けると、排水管の継ぎ目から水が漏れていた。古くなったパッキンが割れていた。茂を呼んだ。二人で覗き込んだ。茂が手を伸ばして触ると、継ぎ目がぐらついた。築三十二年。

「…もう、限界だな」

次の日、業者が来た。若い職人が配管の状態を確認して言った。

「継ぎ目だけでは済まないかもしれません。点検のために、壁の一部を開けさせて欲しいんです」

開けてみると、壁の内側の配管が広い範囲で腐食していた。部分補修では追いつかない状態だった。見積もりが出た。八十五万円だった。茂は見積もり書を受け取り、その数字を見た。それから職人に言った。

「少し考えさせてください」

職人が帰った後、二人は台所のテーブルに向かい合って座った。八十五万円。年金の振り込み口座に入っている金額は、今月の年金が入って十八万円ほどだった。固定資産税の分を差し引けば、残りは六万円を切る。そこに八十五万円は、どこにも存在しなかった。千鶴子が静かに言った。

「どうしましょう」

感情を抑えた声だった。茂は答えなかった。すぐには答えが出なかった。その夜は眠れなかった。天井を見ながら、選択肢を並べた。消費者金融は使いたくなかった。知人に頼るのはプライドが邪魔をした。銀行のカードローンは、収入が年金だけでは審査が難しい可能性があった。工事を先延ばしにすれば、被害がさらに広がるかもしれない。朝方になって、一つの考えが浮かんだ。

翌朝、茂は朝食を早めに済ませ、背広を出した。千鶴子が、何をするつもりかと聞いた。茂は言った。

「秀のところに行ってくる」

千鶴子の顔が一瞬動いた。何かを言いたそうにしたが、言葉が出てこなかった。それから、ゆっくりと頷いた。茂は電車に乗った。長距離の移動は久しぶりだった。バスで駅まで出て、そこから電車に乗り換え、都内まで一時間半ほどかかった。車内は平日の午前中で、サラリーマンが疎らに座っていた。茂は窓側の席に座り、外の景色を見ていた。郊外の住宅地が流れ、やがて建物が密集してきた。東京が近づいていた。

茂はずっと、秀に何を言うかを考えていた。怒鳴るつもりはなかった。詰め寄るつもりもなかった。ただ、実情を聞くつもりだった。会社が立て直せているなら、それはいい。まだ難しい状況なら、返済の見通しを確認する。それだけだ。そう思いながら、一方で胸の底に別のものがあることも知っていた。そこにあるのは怒りでも悲しみでもなく、もっと静かな何かだった。

秀樹が住んでいたのは、都内の中規模なマンションだった。エントランスでインターフォンのボタンを押した。部屋番号を入力した。呼び出し音がなったが、出ない。茂はもう一度押した。またなり続けた。今度は七回で止まった。茂は少しの間、エントランスの前に立っていた。それから、エントランスを入ってきた別の住民の後に続いて中に入った。エレベーターに乗り、秀の部屋の階で降りた。廊下を歩き、部屋のドアの前に立った。チャイムを押した。しばらく待った。ドアが開いた。

開けたのは、秀ではなかった。綾瀬さゆり。秀樹の妻だった。三十五歳になるはずだった。薄い化粧をしていた。茂は頭を下げた。

「突然すみません。秀はいますか」

さゆりは少し間を置いた。それから言った。

「秀は、今出かけています」

「戻りはいつ頃ですか」

「さあ、わかりません」

声は平坦だった。感情が入っていなかった。

「少し待たせてもらえますか」

さゆりは茂を見た。一、二秒。まっすぐに見た。それからドアを少し広く開けた。

「どうぞ」

玄関を入り、リビングに案内された。部屋は片付いていたが、壁際にダンボール箱がいくつか積んであった。引っ越しの準備をしているように見えた。茂はソファに座った。さゆりは向かいに座らず、キッチンカウンターの前に立っていた。お茶も出なかった。茂は聞いた。

「会社の状況は、どうなっていますか」

さゆりが言った。

「潰れました」

声に感情はなかった。ただ事実を言っただけの声だった。茂は少し止まった。

「…いつ頃ですか」

「先月です。秀樹が個人破産の手続きをしました」

茂の中で何かが静かに動いた。個人破産。その言葉が胸の中で音もなく広がった。

「そうですか」

茂は言った。声は静かだった。だが、続けようとした言葉を、さゆりが遮るようにして言った。慌てた様子もなく。

「それについては、弁護士に確認しました。個人破産の手続きを取った場合、債務は免責になります。親御さんへの借金も、法的には消滅しています」

茂はさゆりの顔を見た。さゆりは目をそらさなかった。

「…法的には」

「はい」

しばらく、どちらも何も言わなかった。リビングの窓から外の音が入ってきた。車の走る音と、遠くの工事音だった。茂はダンボール箱を見た。

「引っ越しをされるんですか」

さゆりは少し視線を横に動かした。

「ええ。私の実家の方で、少し落ち着きます」

茂は立ち上がった。膝に手を当てて立ち、ゆっくり背筋を伸ばした。

「秀樹に伝えてください。父が来た、と」

さゆりは頷いた。

「わかりました」

声はやはり平坦だった。茂は玄関まで歩き、靴を履いた。ドアを開け、廊下に出た。ドアが後ろでしまった。音は静かだった。廊下は蛍光灯の白い光に満ちていた。茂は少しの間、ドアの前に立っていた。足が動かなかった。頭の中にあった言葉が、整理できなかった。法的には消滅。個人破産。免責。それらの言葉が意味を持ちながらも、現実として体に届くまでに、時間がかかった。

千五百万円を、秀は返すつもりがない。返せないのではなく、法律の手続きを使って、返さなくていい状態を作った。あの振り込みから六ヶ月。電話に出なかった理由は、それだ。連絡をしなかったのは、忙しかったからではなかった。茂はゆっくりとエレベーターまで歩いた。ボタンを押した。扉が開くまでの数秒間、彼は廊下の床を見ていた。エレベーターに乗り、一階のボタンを押した。扉が閉まった。鏡に自分の顔が映った。老眼鏡が顔の下半分を覆っていて、顔色が白かった。見たことのない顔だと思った。

マンションを出た。外は薄曇りだった。春の光が雲越しに落ちていて、影がなかった。茂は少し歩いた。通りに出ると、人が行き交っていた。誰も立ち止まらなかった。近くの交差点まで来た時、茂は立ち止まった。右に行けば駅に向かう。左に行けば別の方向だ。どちらへ行くべきかを考えた。だが、実際にはどちらへ行きたいのかが分からなかった。信号が変わった。横断歩道を人が渡り始めた。茂は動かなかった。信号がまた変わった。また人が動いた。茂は交差点の端に立ったまま、人の流れを見ていた。

右手を見ると、自分の手が固く握られていた。いつの間にか、拳を作っていた。手のひらが少し白くなっていた。ゆっくりと開いた。手が少し震えていた。茂は深く息を吸った。吸った息が胸の中で詰まるような感覚があった。吐き出した。もう一度吸った。三十八年間、仕事でどんな理不尽に直面しても、茂は声を荒げたことがなかった。感情を表に出すことを、弱さだと思っていた。だが、今この瞬間、何かが喉の奥まで上がってきた。声ではなく、言葉でもなく、ただの圧力だった。それを茂は奥歯を噛んで押し込んだ。それきり、動けなかった。

しばらくして、茂は動いた。駅の方へ歩いた。一歩ずつ、確かめるように歩いた。帰りの電車に乗った。行きと同じ路線で、同じ方向を逆に辿るだけだった。だが、車窓の景色は行きとは違って見えた。都内の密集した建物が後ろに流れ、やがて住宅地になり、空が広くなった。田んぼが見えた。農作業をしている老人が一人いた。遠くに低い山が見えた。茂は目を閉じた。千鶴子のことを考えた。今頃、家で待っているだろう。何があったか、知りたいと思っているだろう。電話をするべきかと思った。だが、何を言えばいいのか。今日聞いてきたことを、どう伝えるか。言えない、と茂は思った。まだ言えない。千鶴子に伝えてしまえば、千鶴子が傷つく。あの小さな体が、また一つ崩れる。それを今日は見たくなかった。

家に戻ったのは、夕方の五時を過ぎた頃だった。千鶴子が台所にいた。夕食の準備を始めていた。茂が玄関を開けると、廊下に顔を出した。目が少し不安そうだった。

「お帰り」

茂は靴を脱いだ。背広のままで台所に入り、椅子に座った。千鶴子が聞いた。

「秀樹は、いましたか」

声は小さかった。茂は少し間を置いた。

「…いなかった。奥さんが出てきて、秀は事業の再建で飛び回っていると言っていた」

嘘だった。茂は自分が嘘をついていることを知っていた。だが、別の言葉が出てこなかった。今夜、千鶴子に本当のことを告げることができなかった。

「そうか」

千鶴子は言った。

「忙しいのね」

声に安堵が混じっていた。少し体の力が抜けたように見えた。その安堵が、茂の胸に刺さった。夕食は静かに食べた。千鶴子が作ったものだから、食べた。食後、二人で座った。千鶴子が言った。

「お父さん、少し疲れた顔してる」

茂は首を振った。

「電車が長かっただけだ」

千鶴子は少し沈黙した。

「秀樹が、ちゃんと立て直せるといいね」

茂は湯呑みを持ったまま、答えなかった。その夜、茂は眠れなかった。横になったまま天井を見た。千鶴子は隣で静かに眠っていた。今夜は眠れているようだった。安堵したからだろうと思った。偽りの安堵だと知っていた。

次の日から、茂は秘密の行動を始めた。千鶴子が買い物に行っている間、茂は古いタブレット端末を取り出した。現役時代に会社から支給されたもので、退職時に返却するのを忘れた私物だ。それでインターネットを開き、求人サイトを見た。「高齢者歓迎」「60代活躍中」「シニア採用」という言葉で検索した。出てくる仕事は多かった。警備員、清掃、農業補助、工場のライン作業、倉庫の仕分け。茂は一つずつ読んでいった。管理職の経験を生かせる仕事もあった。だが、面接が必要で、書類も必要で、採用まで時間がかかる。今必要なのは、早く確実に現金が入ってくる仕事だった。

産業廃棄物処理場での分別作業という募集を見つけた。夜間の勤務で、日払いが可能とあった。体力が必要だが、六十代可と書いてあった。茂はその求人を見ていた。現役時代、自分は輸送管理部の部長代理だった。部下に指示を出す側だった。こういう仕事とはかけ離れた場所にいた。だが、今はそういうことを言っている場合ではなかった。

翌日、茂は外に出た。最寄りのハローワークではなく、隣の市の事業所に行った。顔を知っている人間に会いたくなかった。窓口で相談員に話をし、求人票を見せてもらい、産業廃棄物処理場の夜間分別作業の欄に印をつけた。三日后、採用の連絡が来た。

夜の十時に家を出た。千鶴子には、近所に住む古い知人と夜に話し込む約束があると言った。嘘だった。バスを乗り継ぎ、処理場のある地区まで行った。工場の敷地に入ると、大型トラックが数台駐まっていた。敷地の中は投光器が明るく、夜なのに昼のように照らされていた。事務所で受付をして、作業着と手袋を受け取った。現場に入った。匂いがまず来た。腐敗した有機物と化学物質が混ざったような、重くて刺激的な臭いだった。茂は一歩入った瞬間、思わず口を手で覆った。だが、手袋を外すわけにいかなかった。

作業は単純だった。ベルトコンベアで流れてくる廃棄物を、素材ごとに分けてコンテナに投げ入れる。プラスチック、金属、紙、ガラス。それぞれの容器が並んでいて、それに従って分ける。一見単純だったが、スピードがあった。ベルトが止まることなく流れてくる。見分けにくいものもある。判断が遅れると、溜まる。隣の作業員が素早く動いていた。四十代か五十代の男で、慣れた手つきだった。茂は必死でついていった。最初の一時間は、汗が止まらなかった。三時間が過ぎた頃、少し慣れてきた。動き方が分かってくると、余裕が少し生まれた。休憩が入り、事務所の横の休憩室で缶コーヒーを一本飲んだ。隣の作業員が声をかけてきた。

「新しい人ですか」

茂は頷いた。

「慣れたら、楽になりますよ」

男はそれだけ言って、また現場に戻った。夜明け前の四時に終わった。作業着を返し、手袋を返した。日払いで現金が渡された。茂は外に出た。空が白み始めていた。東の方向が少し明るかった。茂は手を見た。手袋をしていたが、それでも手の甲が赤くなっていた。匂いが服に染み込んでいた。

家に帰る前に、コンビニのトイレで手を洗った。石鹸で何度も洗ったが、匂いは薄れても消えなかった。家に着いたのは五時を過ぎた頃だった。千鶴子はまだ起きていなかった。茂はそっと玄関を開け、脱衣所に直行した。来ていたものを全て脱いで洗濯機に放り込み、シャワーを浴びた。匂いが取れるまで、何度も体を洗った。着替えて台所に降りた。やかんに水を入れて、火にかけた。六時になると、千鶴子が降りてきた。

「おはよう」

眠そうな顔だった。

「おはよう」

茂は答えた。千鶴子が茂の顔を見た。

「早かったのね」

「朝の散歩に行ってきた」

千鶴子は少し見た後、

「そう」

と言って冷蔵庫を開けた。茂は緑茶を注いだ。湯呑みを両手で持ち、一口飲んだ。昨夜の仕事場の匂いが、まだどこかに残っているような気がした。気のせいかもしれなかった。

こうして、数週間が経った。茂は週に三日、夜の仕事に出た。千鶴子には毎回、別の理由を言った。知人との会合、近所の夜の散歩、古い仕事関係者との食事。どれも嘘だった。日払いで受け取る現金を、茂は自分の引き出しの奥に入れた。少しずつ溜まっていった。固定資産税の半分ほどが溜まった頃、水道管の修理代を業者と改めて交渉した。工事を三段階に分け、緊急性の高い部分だけ先に直す形にしてもらった。費用を抑えた。千鶴子には、市の補助制度を活用したと説明した。千鶴子は信じたようだった。茂はその信頼を重く感じた。嘘の上に積み上がっていく信頼は、重かった。だが、今は他に方法がなかった。

しかし、長く続けることはできなかった。ある週の末、千鶴子が茂の上着を洗おうとポケットを確認した時、小さく折りたたまれた紙切れを見つけた。広げると、産業廃棄物処理業者の支払い明細書だった。金額と日付が印刷されていた。千鶴子は台所のテーブルに座った。紙を広げたまま、しばらく見ていた。それから、茂が朝に帰ってくる時に脱衣所へ直行することを思い出した。作業着に似た上着を着ていることがあったこと。手が赤くなっていたこと。石鹸の匂いがしたこと。一つ一つが繋がった。

その夜、茂が夜に出かけようとした時、千鶴子が玄関に来た。

「茂さん」

茂は靴を履こうとしていた手を止めた。振り向いた。千鶴子の手に、折りたたまれた紙があった。茂は黙った。千鶴子は言わなかった。説明を求める言葉も、責める言葉も出てこなかった。ただ紙を持ったまま、茂を見た。目が少し赤かった。しばらく、二人は廊下に立っていた。茂が先に動いた。靴を脱いだ。台所に戻った。椅子に座った。千鶴子も後から来て、向かいに座った。茂は少し間を置いてから言った。

「…夜に、仕事をしていた」

「産業廃棄物処理場で、分別の仕事だ」

千鶴子は黙って聞いた。

「固定資産税と、水道管の修理代が必要だった。年金だけでは足りない。だから、やった」

声は低く、感情が抜けていた。千鶴子はしばらく黙っていた。それから言った。

「…一人で、やっていたんですか」

茂は頷いた。また沈黙があった。台所の時計が時を刻んでいた。千鶴子が言った。

「私も働きます」

茂は顔を上げた。千鶴子は続けた。

「私が知らない間にお父さんが一人でそんなことをしていたなんて。私も何かしなきゃいけない」

声は静かだったが、硬かった。揺れていなかった。茂は何も言わなかった。反論できなかった。翌日から、千鶴子は仕事を探し始めた。千鶴子が見つけたのは、駅前のカプセルホテルの清掃の仕事だった。週五日、午前八時から午後二時まで。時給は低かったが、交通費が出た。体力的にも、彼女の年齢でできる範囲だった。面接に行った日、千鶴子は家を出る前に鏡を見た。白髪の混じった髪をきちんと束ね、薄いベージュのカーディガンを着た。採用された。翌週から働き始めた。

二人とも外で働くようになると、家の中の時間が変わった。朝は早く出て、昼過ぎに帰ってきて、二人で遅い昼を取る。その時間だけ、少し話が増えた。千鶴子が今日の清掃中に見たことを話す。茂が夜の仕事を昼間に切り替えて、別の仕事を探したこと。二ヶ月が経った。収入が少しずつ安定した。固定資産税を払い、水道管の第一段階工事を済ませた。冷蔵庫の中身が、少しだけ増えた。

ある夕方、千鶴子の誕生日だった。茂はスーパーの値引きコーナーで、小さなショートケーキを買ってきた。夕食の後、テーブルに置いた。千鶴子は驚いた顔をした。茂は何も言わなかった。フォークを渡した。千鶴子は少し笑った。本当に小さな笑顔だったが、久しぶりに見る表情だった。二人でフォークを使って小さなケーキを分けた。甘さが口の中に広がった。しばらく、二人とも黙っていた。それが、悪い沈黙ではなかった。

しかし、その安らぎは長くは続かなかった。ある朝、玄関のドアが激しく叩かれた。千鶴子は仕事に出ていて、茂は一人だった。叩き方が強かった。呼び鈴ではなく、拳で叩く音だった。茂はゆっくりと玄関に向かった。ドアスコープで外を確認すると、スーツを着た男が二人、立っていた。見知らぬ顔だった。ドアを開けた。男の一人が名刺を出した。会社名が書いてあったが、茂の知らない社名だった。

「黒沢茂さんですか」

「…そうです」

男が言った。

「お話があって参りました。お時間よろしいでしょうか」

声は穏やかだったが、その穏やかさが不自然に整えられた穏やかさだった。茂は男の目を見た。目は穏やかではなかった。何かを待っている目だった。

「何のご要件ですか」

男は言った。

「こちらの物件に関連した、債権回収の件でございます」

「…物件」

「はい。こちらの土地建物に関して」

茂は男の顔を見た。それから、もう一人を見た。それから名刺を見た。

「詳しいお話をお聞きしたいのですが」

茂は静かに言った。

「入っていただけますか」

二人を居間に通した。茂は対面に座った。男が話し始めた。丁寧な言葉遣いだったが、内容は容赦がなかった。

「この土地と建物を担保として設定した債権が存在します。抵当権が設定されている。債務者は黒沢秀名義になっているが、担保提供者として黒沢茂さんの実印と印鑑証明書が使用されている。債務の返済が滞っており、担保権を実行する手続きを開始することになった」

茂は聞いていた。途中から、言葉の意味が届かなくなった。担保。実印。証明書。茂の実印は、自分の引き出しにあった。少なくとも、そのつもりだった。

「少し待ってください」

茂は言った。立ち上がり、自分の部屋に行った。引き出しを開けた。実印の入った桐の箱があった。開けた。印鑑はあった。証明書は、役所関係の書類をまとめた封筒の中に入れていたはずだった。それも、引き出しの中にあった。男が言った。

「書類は、こちらにあります」

男が鞄から書類を出した。茂に渡した。見た。担保設定契約書だった。担保提供者の欄に、黒沢茂の名前が書いてあった。実印が押してあった。印鑑が転写されていた。発行日は、一年半前だった。一年半前。秀樹が訪ねてくる、七ヶ月前だった。茂は書類を静かに置いた。印鑑証明書は、本人でなければ取得できないはずだった。では、秀はいつ、どうやって。記憶を辿った。確か、二年ほど前に、秀が実家に一泊したことがあった。近くに用事があったから、と言って。

全てが繋がった瞬間、茂の頭の中が静かになった。男が言った。

「任意での明け渡しが困難な場合は、法的手続きに移行することになります」

茂は顔を上げ、男を見た。

「この家を、ということですか」

男は頷いた。

「法的には、担保物件の処分はこちらの権限になります」

茂は黙った。静かな居間に、時計の音が響いていた。午前十一時を指していた。千鶴子は今頃、カプセルホテルの廊下を掃除しているだろう。茂は深く息を吸った。

「今日のところは、お引き取りいただけますか。弁護士に相談してから、連絡します」

男は少し間を置いた。

「分かりました。ただし、期限がありますので」

名刺をもう一枚置いて、二人は帰った。ドアが閉まった。茂は居間に戻り、椅子に座った。テーブルの上に書類が置いてあった。窓の外で春の光が庭を照らしていた。柿の木の新芽が、緑に輝いていた。茂はその緑を見た。長く見た。何も考えなかった。考えることが、もうできなかった。

千鶴子に伝えなければならない。だが、どう話せばいいのか。どこから話せばいいのか。あの日、再建回収の男たちが去った後、茂はどれくらいの時間、居間の椅子に座っていたのか、自分でも分からなかった。千鶴子が帰ってきた。茂は書類を背広のポケットにしまい、立ち上がった。

「お帰り」

「ただいま」

千鶴子は少し顔を上げて、茂を見た。居間の入り口に立っている茂を、少し不思議そうに見た。

「どうしたの?」

「何でもない。少し歩きつかれた」

千鶴子は少し見た後、「そう」と言って、台所へ向かった。その日の夕食も、翌日も、茂は千鶴子に何も言わなかった。ポケットの中の書類が重かった。物理的な重さではなく、存在としての重さだった。

夜、千鶴子が眠った後、茂は書類を取り出して読んだ。台所の蛍光灯の下で、何度も何度も読んだ。担保設定日は、一年七ヶ月前だった。秀樹が実家に泊まりに来た時期と重なっていた。あの時、秀樹は何と言っていたか。「近くに用事があったから、泊めてくれ」と言った。それだけだった。一晩泊まって、翌朝早く出ていった。茂は自分の印鑑を入れている引き出しを思い返した。鍵はかかっていなかった。

茂は静かに、その事実を見た。息子が、自分たちが眠っている夜中に、引き出しを漁った。それが現実だった。書類を畳み、封筒にしまった。水を一杯飲んだ。それから自分の部屋に戻った。布団に入った。目を閉じた。眠れなかった。

翌日、千鶴子が仕事に出ている間に、茂は近くの法律相談センターに電話をかけた。市が運営している、初回三十分無料の相談窓口だった。予約を入れ、翌日の午前中に行った。千鶴子には「顔なじみの友人に会いに行く」と言った。

事務所は古いビルの三階にあった。名前を呼ばれ、個室に通された。弁護士は五十代の男性で、眼鏡をかけていた。茂はかいつまんで話した。息子が千五百万円を借りに来た。振り込んだ。息子は個人破産した。免責を受けた。それとは別に、自分の知らないうちに自宅に抵当権が設定されていた。息子が自分の実印と印鑑証明書を、無断で使ったと思われる。弁護士は聞きながらメモを取った。途中でいくつか確認の質問をした。担保設定の日付は。借入れ先はどこか。書類はあるか。茂はポケットから書類を出した。弁護士が確認した。少し沈黙があった。弁護士が言った。

「複数の問題が絡んでいます。まず、印鑑の無断使用については、法的には詐欺ないし文書偽造に当たる可能性があります。ただし、それを立証するには、本人が知らなかったという証明が必要で、担保設定の際に本人確認が行われていた場合は、難しくなる可能性がある。次に、担保権の実行については、抵当権者は法的に有効な権利を持っている可能性が高い。仮に息子による詐欺行為だったとしても、担保権者が善意の第三者だった場合、その者は保護されることがある」

茂は黙って聞いた。弁護士は続けた。

「仮に争うとすれば、まず文書偽造の告発。それに伴う民事訴訟という流れになりますが、時間も費用もかかります。多くても百万円以上の費用を見込んでいただく必要があり、結果が出るまでに数年かかることもある。その間も、担保権の実行手続きは止まらない可能性があります」

茂は聞いていた。聞きながら、弁護士の言葉を一つずつ自分の頭の中に置いていった。最後に弁護士が言った。

「申し上げにくいのですが、現状ではかなり厳しい状況です。相手の担保権は、法的に整った形で設定されている可能性が高く、争う場合のコストとリスクを考えると、任意売却を検討する方が現実的なケースが多い。ただし、最終的にはご本人の判断です」

三十分が終わった。茂は立ち上がった。廊下に出て、エレベーターを待った。扉が開き、乗り込んだ。鏡に自分の顔が映った。何かが減った顔だった。

その日の夕方、千鶴子が洗濯物を畳んでいた。リビングのテーブルの上に洗濯物を広げ、一枚ずつ畳んでいた。茂のシャツ。茂のズボン。それから、昨夜茂が脱いだ上着を手に取った。千鶴子は上着の畳み方を確かめるように裏返した。その時、ポケットから小さな紙が落ちた。拾い上げた。折りたたまれた紙だった。広げると、法律相談センターと書かれた紙だった。住所と電話番号と、茂の名前が書かれた相談受付の控えだった。千鶴子はその紙を持ったまま、少しの間、立っていた。法律相談。その言葉が頭の中でゆっくり回った。

その夜、茂は産業廃棄物処理場の作業に行った。千鶴子には、「同僚が夜に訪ねてくると言ったので、会いに行く」と言って出た。いつもの嘘だった。夜明け前に仕事が終わり、日払いの現金を受け取った。帰り道、コンビニによってトイレで手を洗った。家の鍵を開け、音を立てないように玄関に入った。廊下の電気は消えていた。千鶴子は眠っているはずだった。脱衣所に向かった。上着を脱いだ。シャツを脱いだ。その時、廊下の奥で板の床がきしんだ。茂の手が止まった。

千鶴子は、その夜眠れていなかった。昼間に見つけた法律相談の控えが頭から離れなかった。深夜、千鶴子はそっと廊下に出た。茂の部屋のドアが少し開いていた。布団があった。茂はいなかった。台所を確認した。いなかった。玄関を確認した。茂の靴がなかった。千鶴子は廊下に立った。夜中の三時を過ぎていた。夫が外にいる。どこへ行っているのか。寒かった。千鶴子はカーディガンを羽織り、居間で待つことにした。電気はつけなかった。暗い居間でソファに座って待った。それから一時間ほどして、玄関の鍵が静かに回る音がした。

茂が入ってきた。廊下を歩く足音がした。脱衣所に向かう音がした。千鶴子はソファから立ち上がり、廊下に出た。脱衣所のドアが少し開いていた。中で、茂が上着を脱いでいた。廊下の板がきしんだ。茂が気づいた。二人の間に、短い沈黙があった。千鶴子は何も言わなかった。茂も何も言わなかった。千鶴子は台所の電気をつけた。椅子に座った。待った。しばらくして、茂が台所に来た。着替えていたが、髪がまだ少し濡れていた。シャワーを浴びたのだろう。二人は向かい合って座った。深夜の台所で。千鶴子はゆっくりと立ち上がり、自分の部屋に行った。戻ってきた時、手に折りたたまれた紙があった。テーブルの上に置いた。茂はその紙を見た。法律相談センターの控えだった。茂は目を上げた。千鶴子の顔を見た。千鶴子の目は、怒っていなかった。攻めてもいなかった。ただ、何かをまっすぐ見ようとしている目だった。

千鶴子が言った。

「話してください」

声は低く、揺れていなかった。茂は少しの間黙っていた。どこから話すかを考えた。結局、茂はあの日、再建回収の男たちが来た日から話し始めた。話しながら、茂は自分の声がひどく乾いていることに気づいた。感情が入っていない声だった。事実を述べる声だった。再建回収の男が来たこと。この家に秀樹が担保を設定していたこと。茂の実印と印鑑証明書が使われていたこと。秀樹が泊まりに来た夜に、無断で持ち出したと思われること。弁護士に相談に行ったこと。戦うには費用と時間がかかること。担保権を持つ相手が善意の第三者であれば、権利を覆すのは困難だということ。さらに、秀樹が個人破産と免責を受けており、千五百万円は法律上戻らないこと。それを自分はさゆりから直接聞いたこと。あの日、「いなかった」と嘘をついたのは、千鶴子を傷つけたくなかったからだということ。

話し終えると、台所は静かだった。千鶴子は聞いている間、一度も口を挟まなかった。表情はほとんど動かなかった。ただ、目だけが少しずつ変わっていった。やがて、千鶴子は言った。

「ずっと、一人で抱えていたんですか」

茂は頷いた。千鶴子の目が少し動いた。泣くのかと思ったが、泣かなかった。

「私に言えばよかったのに」

「言ったとして、どうなる」

茂は言った。声が少し硬かった。

「お前が知ったところで、状況は変わらない」

「変わらなくても、一緒に知っていたかった」

茂は何も言わなかった。二人はしばらく、何も言わずにいた。

翌日から、千鶴子が変わった。家計のノートをテーブルに出したまま、毎日広げるようになった。今まで以上に細かく数字を書き込んでいた。買い物の回数を減らし、特売の日を調べて、その日だけ行くようにした。スーパーのチラシを丁寧に見比べて、どの店に何を買いに行くかを決めた。昼食は、千鶴子自身がほとんど食べなくなった。茂には黙って一人分を作り、自分は漬物とごく少量の残りだけを食べた。茂が気づいて指摘すると、「今日は食欲がないだけ」と言った。だが、翌日も、その次の日も同じだった。

ある朝、郵便受けに赤い紙が入っていた。固定資産税の督促状だった。第一期分の支払いが一ヶ月以上遅れており、延滞税が加算されていた。茂は紙を持ったまま、しばらく玄関に立っていた。千鶴子に見せた。千鶴子は紙を受け取り、金額を確認した。それからノートを開き、計算した。表情は変えなかった。計算が終わると、

「こちらを先に払いましょう。延滞が続くと、それ自体が問題になります」

と言った。茂は頷いた。その日の午後、二人で市役所の窓口に行き、現金で支払った。

その週の終わり、担保を設定した貸金業者から正式な文書が届いた。内容証明郵便だった。担保権実行の通知で、任意での売却か、裁判所による手続きを開始する旨が書かれていた。期限が、三週間後に設定されていた。茂はその文章を読んだ。法律用語が並んでいたが、意味は分かった。この家を売るか。売らないなら、法的手続きで強制的に売られるか。千鶴子も読んだ。読み終えて、文書をテーブルに置いた。それから、両手を膝の上に揃えた。

「どうしましょうか」

彼女は言った。泣いてもいなかった。声が揺れてもいなかった。ただ、聞いた。茂は答えなかった。答えが出なかった。

その後、茂はもう一度弁護士に連絡を取ろうとした。先日相談した事務所に電話すると、継続して依頼する場合は着手金がかかると言われた。金額を聞いた。六十万円から、と言われた。電話を切った。六十万円は、今の茂には出せない金額ではなかった。処理場の仕事で貯めた金を出せば、ゼロにはならない。だが、弁護士を頼んで勝てる保証がない、というのが先日の相談の結論だった。勝てない可能性のある戦いに、六十万円を使うのか。

夜、夕食が終わった後、千鶴子がお茶を入れた。二人でテーブルに座った。茂が言った。

「弁護士を頼むとすれば、六十万円かかる」

千鶴子は頷いた。

「その費用を使って、勝てるかどうか分からない。弁護士もそう言っていた。担保権は有効に設定されている可能性が高い。争うためのコストと、得られるものが釣り合わないかもしれない」

千鶴子はお茶を一口飲んだ。それから言った。

「つまり、最悪の場合、この家を出なければならないかもしれない、ということですね」

茂は頷いた。千鶴子は少しの間テーブルを見ていた。それから、顔を上げた。

「分かりました」

それだけだった。それ以上は、何も言わなかった。受け入れると言ったわけでも、諦めると言ったわけでもなかった。ただ、「分かりました」と言った。茂は千鶴子の顔を見た。千鶴子は目をそらさなかった。その目が、何かを決めた目だとは分かった。

それから数日が経った。茂は夜の仕事を続けていた。千鶴子も毎日カプセルホテルに出かけた。二人の生活は、表面上静かに流れていた。だが、内側では何かが積み重なっていた。

ある日、茂は仕事帰りにタバコを一箱買った。家に帰る前に、公園のベンチで一本だけ吸った。二十年ぶりのタバコは、思ったよりもきつかった。煙が肺に入った時、少しむせた。それでも、最後まで吸った。翌朝も、茂は早起きして外に出た。また一本吸った。千鶴子はそれに気づいていた。朝、茂が帰ってきた時、かなり煙の匂いを感じた。だが、何も言わなかった。今の茂にとって、それが何かを保つための行為なのだとは分かったから。

それから、また別の問題が起きた。ある午後、茂がタブレットで家計の調べ物をしていた時、千鶴子が洗濯物を持って部屋に入ってきた。茂のズボンのポケットに、紙が入っていた。千鶴子はいつものように確認してから洗濯機に入れようとして、紙を取り出した。そこには、産業廃棄物処理場の求人票のコピーがあった。夜間勤務、日払い可、六十代歓迎と書いてあった。千鶴子はそれを見た。それから、もう一枚あった紙を開いた。産業廃棄物処理場の勤務表だった。茂の名前が、何週間分も書かれていた。週に三日、夜間の欄に丸がついていた。

千鶴子は紙を持ったまま、居間の茂のところに行った。見せた。茂は紙を見た。顔が、少し固まった。

「これは」

千鶴子は言った。茂は答えなかった。

「仕事?」

茂は頷いた。

「夜の仕事?」

静かな声だった。

「処理場の」

茂はまた頷いた。千鶴子は茂を見た。それから、紙をテーブルに置いた。何も言わなかった。茂は千鶴子が何かを言うのを待っていた。怒るか、泣くか。だが、千鶴子は何も言わず、台所へ戻った。夕食の準備を始めた。鍋に水を入れる音がした。茂は、その音を聞いていた。

翌朝、二人が朝食を食べていた時、千鶴子が口を開いた。

「昨日の紙のこと」

声がいつもと少し違った。低かった。茂は箸を置いた。

「いつから」

「半年ほど前から」

千鶴子はそれを聞いて、少し目を閉じた。半年。その間、茂は毎晩嘘をついていた。知人と会う。散歩する。同僚と話す。その全てが、夜間の仕事のための嘘だった。

「…それだけ隠していたのに、どうして教えてくれなかったんですか」

茂は答えた。

「心配させたくなかったから」

千鶴子が、少し声の質を変えた。

「私だって、ちゃんと一緒に考えられる。そのために私も仕事に出ているのに。なぜ、私だけ蚊帳の外なんですか」

声が震え始めていた。茂は返答を探した。この半年、茂の中に積み重なっていたものがあった。秀樹への怒り。さゆりの冷たい顔。弁護士の言葉。処理場の匂い。担保設定の書類。督促状の赤い文字。それらが、毎日少しずつ積み重なっていた。そして、今、千鶴子が自分に対して声の色を変えた。茂の中で、何かが限界を超えた。それは、千鶴子への怒りではなかった。だが、怒りの形を取って、千鶴子に向かった。行き場のない圧力が、最も近くにいる人間に向いた。それは、制御できなかった。

茂は、テーブルを手で叩いた。音が台所に響いた。湯呑みが少し動いた。千鶴子が、体を引いた。茂は言った。

「それが全部、お前のせいだということが、まだ分からないのか」

声が出た後、茂自身がその言葉の重さに気づいた。千鶴子が、固まっていた。

「お前が泣いて頼んだから、あの時金を出した。お前が秀を信じると言ったから、俺も動いた。それがなければ、こんなことにはならなかった。そういうことだ」

言いながら、違う、と頭の別の部分が言っていた。そうじゃない。千鶴子のせいではない。自分も判断した。最終的に動いたのは、自分だ。だが、声が止まらなかった。積み重なったものが、出口を見つけて流れ出ていた。千鶴子は、声を出さなかった。体が、少し小さくなった。椅子の上で縮んでいくように見えた。茂は言い終えた後、口を閉じた。台所に沈黙があった。

千鶴子はしばらく、そのままでいた。目が赤くなっていた。泣いているのではなく、泣くことを抑えている目だった。茂は立ち上がった。台所を出た。自分の部屋に入った。ドアを閉めた。部屋の中に一人でいると、さっきの自分の言葉が戻ってきた。お前のせいだ。それは、本当のことだったか。いや、違う。千鶴子はあの時、泣いていただけだった。息子を信じていただけだった。それが、なぜ「お前のせい」になるのか。判断したのは自分だ。署名したのも自分だ。だが、言ってしまった。取り消せない言葉というものがある。四十年以上一緒に生きてきた人間に向かって、そういう言葉を出してしまった。

夕方になっても、二人は話さなかった。夕食は、二人が向かい合って食べた。会話はなかった。箸の音と、外の車の音だけがあった。千鶴子は半分ほど食べて、箸を置いた。残した。茂はそれを見たが、何も言わなかった。食器を洗い終えて、茂は居間に行った。千鶴子がソファに座っていた。テレビはついていなかった。茂は言った。

「千鶴子」

千鶴子は顔を上げた。

「朝のことは、言いすぎた。お前のせいではない。俺が判断した。俺が署名した。お前が泣いたから動いたというのは、言い訳だ。本当のことを言えば、俺もあの時、信じたかった。信じて動いた。だから、俺の責任だ。お前に向けた言葉は、間違いだった」

千鶴子は少しの間黙っていた。それから、言った。

「分かりました」

それだけだった。許すとも、許さないとも言わなかった。ただ、「分かりました」と言った。

翌朝、千鶴子が台所に降りてきた時、茂はすでにお茶を入れていた。

「おはよう」

「おはよう」

それだけだった。いつも通りの朝の言葉だった。だが、言葉の質が変わっていた。以前は「おはよう」の中に何かが入っていた。長年の習いから来る、二人だけの温度のようなものが。今は、その温度が薄かった。何かが割れた。音もなく、形も変えずに、だが確かに割れた。それが元に戻るかどうか、今は分からなかった。

七月に入って、収入が少し安定してきた。茂の早朝仕事と千鶴子の清掃仕事を合わせると、月に十万円ほどの収入になった。年金と合わせれば二十四万円を超える。固定資産税の延滞分を返済し、水道管の第二段階工事の費用の目処も立ってきた。家計のノートに、数字が少し増えた。千鶴子はそれを毎日書き込んだ。数字が増えていくのを確認するように、丁寧に記録した。ある日、千鶴子が言った。

「来月くらいには、少し余裕が出るかもしれない」

声に、久しぶりに先のことを考える色があった。茂は頷いた。

「少し余裕が出たら、近くの銭湯に行きませんか。二人で、久しぶりにちゃんとお湯に浸かりたい」

茂は少し考えて、「いいな」と言った。千鶴子が微笑んだ。本当に小さな微笑みだったが、茂には届いた。

しかし、八月の初旬、早朝五時に倉庫の仕事に出かけようとした茂が玄関の鍵を開けた時、ドアの外に人影があった。スーツを着た男が二人。玄関先に立っていた。まだ夜明けから間もない時間だった。道路に、黒い車が一台駐まっていた。先月来た時とは別の顔だったが、雰囲気は同じだった。男が言った。

「先日お送りした通知の返答期限が、昨日で切れましたので、確認に伺いました」

茂は少し間を置いた。

「中に入ってください」

男たちを居間に通した。千鶴子はまだ寝ていた。起こさないようにした。男が言った。

「任意での売却についてのご検討は、いただけましたでしょうか」

茂は言った。

「弁護士と相談している最中です」

実際には、費用の問題で前に進んでいなかったが、それは言わなかった。男は少し沈黙した。

「お時間をいただいてきましたが、こちらもいつまでも待てるわけではございません。今月末までに何らかのご回答をいただけない場合は、裁判所への申し立てを進めることになります」

「分かりました」

男たちが帰った。茂は居間に立ったまま、しばらくいた。その夜、茂は千鶴子に話した。今朝、また来た。今月末までに返答しなければ、裁判所に申し立てる。と言っていた。弁護士を頼む費用は確保できていない。戦って勝てる見込みも薄い。最悪の場合、この家を出ることになるかもしれない。千鶴子は黙って聞いた。話し終えると、千鶴子は言った。

「この家を出たとして、どこへ行けばいいんでしょうか」

怒りではなく、ただの問いだった。茂は答えた。

「公営住宅の抽選に申し込むことはできる。ただ、当たるかどうかは分からない。民間の賃貸は、年金だけでは審査が難しいところもある」

千鶴子はしばらく黙っていた。

「分かりました」

前と同じ言葉だった。同じ言葉だったが、今回は少し声の色が違った。前回は受け止める声だった。今回は、覚悟を決める声だった。

翌日、二人で市役所に行った。住宅担当の窓口で、公営住宅の申し込み用紙をもらった。用紙に必要事項を書いた。「退去予定の理由」の欄に何を書くか、二人は少し迷った。茂は「担保物件の処分により退去予定」と書いた。窓口の若い職員が書類を確認した。

「申請はお受けできますが、現在の待機者数が多く、当選まで数年かかる場合もございます」

「数年」

茂は繰り返した。

「はい。優先枠はございますが、高齢者単身世帯への適用で、ご夫婦の場合は一般枠になります」

茂は書類を受け取った。千鶴子は窓口に頭を下げた。二人で外に出た。市役所の前の広場に、ベンチが並んでいた。千鶴子が歩きながら言った。

「数年、待てない」

声は静かだった。茂は頷いた。

「当面は、どこかに仮の住まいを探すしかない」

その週から、茂は不動産の情報を集め始めた。タブレットで検索した。この地域で月四万円以下で借りられる物件を探した。条件を絞ると、数が一気に減った。築四十年以上、風呂なし、駅から徒歩三十分。そういう物件ばかりが残った。二人で住むことを考えると、さらに難しくなった。見学に行ける物件を見つけた。市内から少し外れた地区にある、築三十八年の木造アパートだった。一DKで、家賃は月三万八千円だった。物件の前に着いた時、茂は建物を見た。外壁に茶色いシミがあった。雨漏りの跡だった。千鶴子は部屋を一周した。キッチンの蛇口をひねってみた。水が出た。それから黙って戻ってきた。担当者が「いかがですか」と聞いた。茂は答えなかった。千鶴子が言った。

「少し考えさせてください」

外に出て、二人で歩いた。茂は千鶴子に聞いた。

「どう思う」

千鶴子は少し間を置いた。

「…他を見てみましょう」

声は静かだったが、あの部屋には入りたくないという気持ちがにじんでいた。八月の末日の朝、茂が早朝の仕事から帰ってきた時、玄関の前に車が二台駐まっていた。朝の七時だった。茂は足を止めた。車から男が四人降りてきた。スーツを着た男と、作業着を着た男が混じっていた。男の一人が茂に気づいた。

「黒沢茂さんですか」

「…そうです」

「本日より、担保物件の引き渡し手続きを開始します。裁判所の執行官も同行しています」

茂は男たちを見た。四人いた。

「中に、妻がいます」

男は頷いた。

「同居の方のご退去も、お願いすることになります」

「少し時間をください」

「短時間でお願いします」

茂は家に入った。千鶴子の部屋のドアをノックした。

「起きてる」

ドアを開けた。千鶴子はすでに着替えていた。起きた時に、外の車の音を聞いて気づいていたのかもしれなかった。

「来た」

茂は言った。千鶴子は頷いた。

「今日です」

千鶴子はしばらく茂を見た。それから、

「分かりました」

と言った。二人はほとんど話さずに動いた。持ち出せるものと、持ち出せないものを、お互いが判断しながら動いた。茂は自分の引き出しから通帳と印鑑、大事な書類を一まとめにした。千鶴子は、押入れの奥から古いアルバムを取り出していた。重そうなアルバムを両手で持って、それを先にバッグに入れていた。茂はそれを見た。一時間ほどで、持ち出すものをまとめた。ダンボール箱二つと、スーツケース一つと、大きなバッグが二つになった。下に降りると、男たちが待っていた。

空が曇り始めていた。荷物を玄関先に出している途中から、雨が降り始めた。茂が何度も往復して荷物を出した。シャツが濡れた。執行官が書類にサインを求めた。茂はサインした。鍵を渡した。それで終わりだった。茂は家の方を見た。開いたままだったドアが、男の手でしまった。施錠の音がした。千鶴子が、アルバムを胸に抱えていた。雨の中で背中を丸めて、アルバムを濡らさないようにしていた。茂は急いでバッグからビニール袋を出し、千鶴子のアルバムを包んだ。千鶴子は少し手を差し出した。二人でビニール袋を広げ、アルバムを入れた。その作業をしながら、二人の手が触れた。雨の中で、一瞬だけ触れた。どちらも、何も言わなかった。

荷物を近くのコンビニの軒下に移動させた。雨宿りをしながら、茂はスマートフォンでタクシーを呼んだ。千鶴子は軒下に立って、今まで住んでいた家の方向を見ていた。建物は街路樹の向こうにあって、直接は見えなかった。それでも、その方向を見ていた。タクシーが来た。荷物を積み込んだ。二人で乗り込んだ。行き先を告げた。街から離れた地区にある、安いビジネスホテルだった。前日にネットで調べておいたところだった。タクシーの中は静かだった。雨が窓に当たった。千鶴子が、ビニール袋に包んだアルバムを膝に乗せていた。茂は、正面を向いていた。

ホテルは古かった。部屋は六畳ほどで、ダブルベッドが一つと、テレビと小さなテーブルがあった。荷物を部屋に入れた。ダンボールをベッドの横に積んだ。部屋の中を見回した。千鶴子が窓を開けた。外は雨だった。隣のビルの壁が見えた。空は見えなかった。窓を閉めた。茂はベッドの端に腰を下ろした。スプリングが、少し沈んだ。千鶴子が小さなテーブルの椅子に座った。しばらく、二人とも何も言わなかった。茂がまず口を開いた。

「ご苦労をかけた」

千鶴子は首を振った。

「お父さんが一番しんどかったはずです」

茂は答えなかった。千鶴子が言った。

「ここから、また考えましょう」

前向きな言葉ではなかった。追い詰められた人間が、それでも前を向こうとする時の声だった。茂は頷いた。外の雨が止んでいた。窓の外が、少し明るくなった。

ホテルでの生活が始まった。朝は早く起きて、一階のコンビニで食パンとコーヒーを買う。部屋に戻って食べる。千鶴子が小さな鍋をどこか調達してきた。ホテルのフロントに聞いたら、貸し出し用品があると言われた、と言った。コンビニで袋ラーメンと卵を買ってきて、部屋でそれを作った。ガスがないので、ホテルの電気ポットでお湯を沸かしてカップに注いだ。完全な料理ではなかったが、温かいものを食べた。茂はそれを食べながら、何も言わなかった。千鶴子も、何も言わなかった。ただ、食べた。

三日目、公営住宅の担当窓口に電話した。抽選は次の募集期に行われる予定で、結果は二ヶ月後にわかると言われた。ホテルに来てから五日目の朝、千鶴子が仕事に行こうとして、準備をしながら少し咳をした。最初は一度だけだったが、夕方には続くようになった。翌日、カプセルホテルに電話して、体の具合が良くないので休むと伝えた。茂が近くのドラッグストアで風邪薬と栄養ドリンクを買ってきた。千鶴子が受け取った。

「ありがとう」

「大丈夫か」

千鶴子はしばらく黙った。

「…ホテルの空調が、体に合わないのかもしれない」

その夜、千鶴子が眠った後、茂は椅子に座っていた。テーブルの上に、持ち出してきた家計のノートが一冊あった。ノートを開いた。千鶴子が書いていた数字が並んでいた。最後の記入日は、家を出る前日だった。その数字を見ながら、茂は計算した。今月残っている現金。来月の年金。ホテルの宿泊費。食費。薬。千鶴子が仕事を休んだ分の、収入減。数字は、まだ回っていた。ギリギリだったが、回っていた。

十日ほど経った頃、茂が仕事から帰ると、千鶴子がテーブルに紙を広げていた。

「何ですか」

千鶴子が言った。

「フロントの方に教えてもらったんです。この地区の福祉住宅の一覧があって、高齢者向けに月額が抑えられた物件があると」

市が斡旋している、民間のサービス付き高齢者向け住宅の一覧だった。月に六万円から七万円程度の物件が複数あった。初期費用が通常の賃貸より低い設定になっているものもあった。

「ただ、入居には審査があって、ある程度の収入証明が必要で」

二人の年金証明書と、今の仕事の収入証明があれば、審査を受けることはできそうだった。通るかどうかは、やってみなければ分からなかった。

「やってみましょう」

茂は言った。千鶴子は頷いた。翌日、二人で見学の予約を入れた。見学に行った物件は、駅から徒歩十分ほどのところにある、四階建ての建物だった。外観は古かったが、手入れはされていた。部屋は六畳と台所付きの小さなLDKで、小さなバスルームがついていた。窓から外が見えた。向かいに低い建物があり、空が少し見えた。千鶴子が窓を開けた。風が入ってきた。外の音が入ってきた。車の音と、遠くで子供が遊ぶ声だった。千鶴子が静かに言った。

「ここ、いいかもしれません」

茂は部屋を見回した。狭かった。前の家のリビングより、はるかに狭かった。だが、清潔だった。匂いがしなかった。壁が白かった。帰り道、二人は並んで歩いた。千鶴子が言った。

「あそこに入れるといいですね」

茂は頷いた。

「部屋は狭いけれど、窓から空が見えたから」

茂はその言葉を聞いた。空が見えた、という言葉を聞いた。長年一緒に育てた家を失って、今は六畳一間から空が見えることに、希望を見ている。茂はしばらく黙って歩いた。

「入れるといいな」

千鶴子が、少し微笑んだ。だが、そこまでだった。

見学から三日後の朝、茂が早朝の仕事に出ようとして玄関のドアを開けた時、廊下に人が立っていた。ホテルの廊下だった。スーツを着た、別の男だった。茂は一瞬、状況が飲み込めなかった。男が口を開いた。

「黒沢茂さんですね」

茂は頷いた。男が名刺を出した。別の会社名だった。だが、書いてある業種は、同じ種類の会社だった。

「黒沢秀樹様が、連帯保証人として黒沢茂様のお名前を使用された、別の件でお話が伺いたく参りました」

「…別の」

茂は繰り返した。

「はい」

茂の頭の中で、何かが崩れた。秀樹が、また茂の名前を使っていた。どこかで、また。いつ。どうやって。部屋の中から千鶴子の声がした。

「どなたですか」

茂は答えなかった。ドアが少し開いて、千鶴子の顔が覗いた。廊下の男を見た。男の名刺を見た。茂の顔を見た。千鶴子の表情が、変わった。男が言った。

「詳しいお話は、このままここでするより、どこか落ち着いた場所で」

千鶴子が廊下に出てきた。ドアを後ろで閉めた。茂の横に立った。茂は男に言った。

「内容だけ、ここで教えてください」

男は少し考えた後、言った。

「黒沢秀樹様が二年前に別の貸金業者から借入れをされた際、連帯保証人として黒沢茂様のお名前と印鑑が使用されておりました。この場合、連帯保証人には、借主と同等の返済義務が生じます。借主である秀樹様が個人破産を申請されましたが、連帯保証人への債務は免除されませんので、残債についての請求をさせていただく運びになりました」

「金額を教えてください」

茂は言った。声が、自分の声に聞こえなかった。男が数字を言った。

「四百八十万円です」

茂は黙った。千鶴子も黙った。その数字は、茂の頭の中で、千五百万円という数字と並んだ。後日、書面でお送りします、と男は言った。それだけ言って、エレベーターに向かった。廊下に、茂と千鶴子だけが残った。

千鶴子が先に部屋に入った。茂も入った。ドアを閉めた。部屋の中は、昨夜と同じままだった。ダンボールが積んであった。スーツケースが窓際にあった。小さなテーブルの上に、昨夜千鶴子が調べていた住宅の一覧の紙が置いてあった。千鶴子はベッドの端に座った。茂は、立ったままだった。二人の間に、長い沈黙があった。千鶴子がゆっくりと、住宅の一覧の紙を手に取った。少し見た。それから、手を離して、ダンボール箱の上に置いた。千鶴子が口を開いた。

「あの子のせいで、いくつのことがありましたか」

怒りではなかった。答えを求める声でもなかった。ただ、確認する声だった。茂は頭の中で並べた。千五百万円。固定資産税の増加。水道管の修理。担保物件の引き渡し。そして、今日の連帯保証の件。千鶴子は答えを待っていなかった。彼女自身が、目の中で数えていた。茂が言った。

「全部を数えると、終わりが見えない」

千鶴子は頷いた。しばらく沈黙があった。

「それでも、今日ご飯を食べなければいけない」

声は揺れていなかった。ただ、事実だけを言った。茂は妻の顔を見た。千鶴子は、自分の膝を見ていた。

「そうだな」

千鶴子が立ち上がり、バッグを肩にかけた。

「コンビニに行ってきます」

茂は頷いた。ドアが閉まった。茂は一人で、部屋の中に立っていた。千鶴子が帰ってきた。コンビニの袋を持っていた。サンドイッチとお茶を出した。テーブルに並べた。茂は椅子に座った。サンドイッチを手に取った。食べた。千鶴子も食べた。食べながら言った。

「あの部屋も、し審査が通れば、そこから考えましょう」

茂は頷いた。

「今日のことは、一つずつ考えるしかない。全部一緒に考えると、どこから手をつけていいか分からなくなる」

茂は妻を見た。千鶴子はサンドイッチを食べながら、窓の外を見ていた。

九月になった。ホテルに来てから、一ヶ月が経っていた。連帯保証の件の書面が届いたのは、あの朝から三日後だった。茂は書面を受け取り、封筒のままダンボールの上に置いた。千鶴子はそれを見たが、何も言わなかった。翌日、茂はもう一度、法律相談の窓口に電話した。「法テラス」という国の機関があり、収入や資産が一定以下の方は、弁護士費用の立替え制度を利用できる場合がある、と教えられた。千鶴子に伝えた。千鶴子は頷いた。

翌日、二人で法テラスの事務所に出向いた。担当者が丁寧に話を聞いてくれた。世帯収入と資産を確認した後、立替え制度の対象になる可能性があると言った。手続きには時間がかかるが、まず申請してみてください、と。申請書類をもらい、二人で記入した。帰り道、千鶴子が言った。

「少し、出口が見えた気がします」

大きな言葉ではなかった。ただ、今日の会談後で、何かが少し違う、という意味の言葉だった。茂は頷いた。

九月の半ば、福祉住宅の審査結果が出た、と担当者から電話があった。書類が揃っていたこと、二人の年金収入が審査基準をクリアしていたことが理由だった。入居日は十月一日からで、初期費用は二十万円だった。茂は電話を切った後、千鶴子に伝えた。千鶴子は少しの間黙っていた。それから、

「良かった」

と言った。声が、かすかに震えていた。初期費用の二十万円は、処理場の仕事と倉庫の仕事で貯めた分から出した。残りは、ほとんどなくなった。だが、それで屋根のある場所が確保された。

引っ越しの日、ホテルのフロントで清算をした。荷物をタクシーに積んだ。新しい場所に向かった。新居は、見学に来た時と同じだった。六畳と台所付きのLDK。天井が低く、壁が白かった。窓を開けると、向かいの建物の向こうに空が見えた。千鶴子が最初に窓を開けた。風が入ってきた。それから、ダンボールからアルバムを取り出した。棚がなかったので、とりあえず窓際の床に立てかけた。茂はそれを見た。家を出る時、千鶴子が真っ先に持ち出したアルバムだった。雨の中でビニール袋に包んだ、あのアルバムだった。千鶴子が言った。

「棚を、買わないといけないですね」

茂は言った。

「そうだな」

それだけの会話だったが、二人とも先のことを話していた。買うものがある、ということは、ここで生活を始める、ということだった。

十月になった。二人の生活が、少しずつ形を作り始めた。茂は早朝の倉庫仕事を続けた。千鶴子は、カプセルホテルの清掃を再開した。二人とも体にはきつかったが、続けた。新居の台所は狭かった。まな板を置くと、作業スペースがほとんどなくなった。千鶴子は工夫した。まな板を斜めに置く方法を見つけた。鍋は小さいものだけ使った。食事の量は、前の家より少なかった。だが、千鶴子は必ず二人分を作った。品数は少なくても、盛り付けは丁寧だった。茂はそれを毎日食べた。何も言わなかった。だが、毎回一口目を食べた後で、少し黙った。その我慢の中に、何かがあった。千鶴子には分かった。言葉にはならなかったが、届いていた。

十月の終わり、倉庫の仕事先から通知が来た。十一月から早朝のシフトを削減する。茂を含む数名のパートタイムについて、契約終了とする、という内容だった。理由は書いていなかった。電話で聞くと、「業務の効率化のため」と言われた。茂は電話を切り、テーブルに座った。千鶴子が台所から出てきた。

「仕事、終わった」

「十一月から」

千鶴子は少し間を置いた。

「探しましょう」

翌日から、仕事を探すと、条件が前より厳しかった。倉庫の仕事は、どこも若い人間を優先していた。警備の仕事は夜間が多く、体への負担を考えると踏み込みにくかった。いくつか面接に行ったが、採用の連絡は来なかった。一週間が過ぎた。二週間が過ぎた。収入が、茂の分だけ消えた。千鶴子の清掃の仕事だけが残った。年金と合わせると、月二十七万円ほどになった。家賃が六万二千円。光熱費が一万五千円ほど。食費が三万円。医療費が月に八千円ほど。日用品が五千円。合計すると、十二万円を超える。残りは、五万円を切った。茂は家計のノートを開き、計算した。千鶴子も計算しているのを知っていた。二人とも数字を知っていた。だが、声に出して確認し合うことは、しばらくしなかった。

十一月に入ると、食卓がまた変わった。千鶴子が、昼食を作らなくなった。朝食と夕食だけにした。茂が昼に何か食べないのかと聞くと、「昼はいらない」と言った。夕食の量も、少しずつ減った。以前は小鉢が二つあったものが、一つになった。味噌汁の具が、一種類になった。魚は、週に一度になった。茂はそれを毎日食べた。文句は言わなかった。量が少ないとも、言わなかった。それを言えば、千鶴子がまた自分の分を削る。ある夕食の後、お茶を飲んでいると、千鶴子が言った。

「今月の残りは、四万二千円です」

茂は頷いた。

「来月の年金が入れば、少し楽になります」

茂は頷いた。ただ、頷いた。千鶴子がお茶を一口飲んだ。それから、窓の外を見た。夜の空が、窓の上の方に少し見えていた。星が、一つあった。

「お父さん」

千鶴子が言った。茂は返事をした。

「来年の春になったら、銭湯に行きましょう。少し余裕が出たら、前に言いましたよね」

茂は少し止まった。あの夏に、千鶴子が言った言葉だった。あの頃から、半年近く経っていた。

「ああ」

茂は言った。

「行こう」

千鶴子が少し笑った。小さかったが、確かに笑った。

十二月になった。この地区の冬は冷えた。新居の窓は薄く、隙間風があった。夜になると、室内の温度が下がった。暖房をつけると、電気代が上がった。二人で相談して、夜は電気毛布を使い、暖房は最小限にした。茂は、新しい仕事をまだ見つけられていなかった。いくつかの求人に応募したが、返事が来ないものと、面接で見送りになるものが続いた。六十六歳という年齢が、どこへ行っても壁になった。ある日、茂は一つの求人に電話した。近くのスーパーで、早朝の品出し作業の募集だった。「六十代歓迎」と書いてあった。電話に出た担当者が年齢を確認した。

「六十六歳です」

少し間があった。

「現在応募が多く、ご連絡に少々お時間いただきます」

一週間後、お断りの連絡が来た。茂はスマートフォンの画面を見た。それから、伏せた。千鶴子には言わなかった。言っても仕方がないと思ったからではなく、言葉にするとそれが現実として固まる気がして、もう少し自分の内側にだけ置いておきたかった。

財布の中が、薄くなっていた。十二月の中旬、茂は財布を確認した。紙幣が一枚と小銭がいくつか。合計で二千円と少しだった。口座の残高は、三千円を切っていた。次の年金の振り込みは、月末だった。あと十五日あった。千鶴子には言わなかった。だが、千鶴子も家計のノートで把握しているはずだった。

夕食の時、千鶴子がご飯を茶碗に盛った。茂の分を先に盛り、自分の分は少量だった。茂はそれを見た。

「千鶴子」

千鶴子が顔を上げた。

「お前の分が少ない」

千鶴子は少し間を置いた。

「もう、十分食べたから」

「まだ、食べていない」

千鶴子は答えなかった。箸を持った。茂は自分の茶碗を見た。それから、千鶴子の茶碗を見た。自分の茶碗からご飯をすくい、千鶴子の茶碗に移した。千鶴子が顔を上げた。茂を見た。茂は、視線をそらさなかった。千鶴子はしばらく茂を見ていた。それから、箸を動かした。二人で食べた。

その夜、真夜中を過ぎた頃、千鶴子のスマートフォンが鳴った。千鶴子は眠っていたが、音に気づいて目を覚ました。画面を見た。知らない番号だった。だが、着信音がなり続けた。受けた。

「もしもし」

声がした。千鶴子は、その声をすぐに認識した。秀だった。声は少し変わっていた。低くなっていた。それでも、息子の声だとは分かった。

「お母さん」

秀樹は言った。

「元気?」

「元気にしています」

千鶴子は言った。声に感情がなかった。平坦だった。

「そう」

秀は言った。少し間があった。

「実は、ちょっとまずくて。今、大阪にいるんだけど、手元に金がなくて。少し都合をつけてもらえないかな。親戚とか知り合いから借りてもらうだけでもいいから。何百万か、あれば」

千鶴子は黙っていた。秀樹が続けた。

「返せなかったら、本当にまずいことになる。頼れる人間がいないんだ。お袋しか、いない」

千鶴子は、まだ黙っていた。

「お袋、聞いてる?」

「聞いています」

「頼む」

秀は言った。声が、少し低くなった。千鶴子は少しの間黙っていた。窓の外の夜が、静かだった。千鶴子の中で、何かが動いていた。息子の声を聞いた。息子が、また困っていると言っている。以前なら、この声を聞いた瞬間に、胸が締めつけられた。涙が出た。何かしなければ、と思った。だが、今は違った。胸は締めつけられなかった。涙も出なかった。ただ、静かだった。その静かさが、千鶴子には少し怖かった。こんなに静かに慣れてしまうのか、と思った。だが、静かだった。

今の二人の状況を、千鶴子は頭の中で並べた。家を失った。ホテルに住んだ。六畳の部屋に引っ越した。財布に二千円しかない。茂が仕事を失って、毎日求人を探している。自分の手は、薬品でひび割れている。それが、全て秀樹から始まった。千鶴子は、秀に何か言いたかったわけではなかった。怒鳴りたかったわけでも、泣きたかったわけでも、謝れと言いたかったわけでもなかった。ただ、一つはっきりしていたことがあった。スマートフォンを持つ手が、一定していた。震えていなかった。

「私たちは、今、六畳の部屋に二人でいます」

千鶴子は言った。声は静かで、感情をそぎ落とした声だった。

「財布に、二千円あります。お父さんは仕事を失って、今もまだ探しています。私の手は薬品で荒れていて、毎晩薬を塗っています。あなたに貸せるお金は、一円もありません」

秀樹が、沈黙した。千鶴子は続けた。

「それと、今後はこの番号にかけてこないでください」

またしばらく、秀樹が沈黙した。それから、電話が切れた。千鶴子はスマートフォンの画面を見た。「通話終了」と表示されていた。千鶴子はしばらく、スマートフォンを持ったままでいた。それから、SIMカードの取り出し方を調べた。古いスマートフォンだったので、少し手間取った。やがて、SIMカードを取り出した。小さな、爪ほどの大きさの板だった。テーブルの上に置いた。折らなかった。ただ、置いた。

茂が布団の中で動いた。

「千鶴子」

千鶴子は振り返った。

「秀か」

千鶴子は頷いた。

「何を言ってきた」

「お金を都合して欲しい、と言われました。私たちの状況を話して、断りました」

茂は答えなかった。千鶴子が続けた。

「もうかけてこないで、と言いました。SIMカードを外しました」

茂はしばらく黙っていた。天井を見ていた。

「それで、良かった」

声が低かった。千鶴子は布団に戻った。電気を消した。暗い部屋の中で、二人は横になっていた。茂は眠れなかった。秀樹の声を、千鶴子のスマートフォン越しに聞いていた。内容は聞き取れなかったが、秀だということは分かった。千鶴子が静かな声で話しているのを聞いた。怒鳴らなかった。泣かなかった。ただ、静かに話した。そして、電話が終わった。茂は天井を見ていた。息子のことを考えた。今も大阪にいる、と言った。さゆりとは、どうなったのか。一人でいるのか。どうやって生きているのか。答えは出なかった。出す必要も、なかった。

翌朝、千鶴子が台所に立った。小さな台所で、今日もご飯を炊いた。冷蔵庫に残っていたものを確認した。卵が二つあった。味噌が少しあった。ネギが半本あった。茂が起きてきた。洗面所で顔を洗い、台所に入った。千鶴子が、味噌汁を作っていた。小さな鍋から、湯気が出ていた。

「おはよう」

「おはよう」

茂は椅子に座った。テーブルを見た。テーブルの上に、SIMカードが置いてあった。昨夜のままだった。茂はそれを見た。それから、窓の外を見た。空が明るかった。冬の朝の光が、向かいの建物の壁に当たって、部屋の中に反射していた。千鶴子が味噌汁を持ってきた。ご飯を持った茶碗を置いた。卵一つを落とし込んだ小皿も置いた。二人で、向かい合って座った。茂がご飯を一口食べた。千鶴子も食べた。味噌汁を飲んだ。温かかった。

月末になった。年金が振り込まれた。茂はATMで記帳した。数字が増えていた。十四万三千円。変わらない数字だった。だが、今日はその数字が少し違う意味を持っていた。帰り道に、小さなスーパーに寄った。特売のコーナーを見た。うどんの玉が、三袋で百円だった。卵が六個入りで百三十八円だった。長ねぎが一本九十円だった。うどんの玉を一袋取った。卵を一パック取った。長ねぎを取った。それから少し迷って、安売りの油揚げを一枚取った。レジで会計をした。三百五十円だった。家に帰った。千鶴子が、仕事から戻っていた。

「今日のご飯、作っていいか」

千鶴子が顔を上げた。少し驚いた顔をした。茂は台所に立った。鍋に水を入れた。出汁の昆布が少し残っていたので、入れた。火をつけた。千鶴子が横に来た。

「手伝う」

「ネギを切ってくれ」

千鶴子がネギを切り始めた。茂が鍋の様子を見た。二人で小さな台所に立った。うどんを茹でた。湯が沸いたらうどんを入れ、油揚げを加えた。少し醤油を垂らした。卵を一つ、割り入れた。千鶴子が切ったネギを散らした。鍋から湯気が上がった。うどんの匂いが、部屋に広がった。茂は二つの器に盛った。千鶴子の器を先に渡した。千鶴子はそれを受け取った。両手で持った。温かさが手のひらに伝わったのだろう、少しだけ目を細めた。二人で窓際に座った。床に座り、壁に背を当てた。箸を持った。一口食べた。温かかった。うどんが喉を通った。出汁の味がした。薄かったが、十分だった。千鶴子が食べながら、ふと息を吐いた。茂も食べた。窓の外から、風の音がした。十二月の夜は冷えていた。窓ガラスの向こうで、木の枝が揺れていた。部屋の中は、温かくはなかった。だが、器の中が暖かかった。茂が箸で卵を器の端に寄せた。千鶴子が箸を止めた。茂を見た。茂は黙って、卵の半分をすくった。千鶴子の器に移した。千鶴子はしばらくそれを見ていた。それから、自分の器から卵をすくった。茂の器に返した。二人は、互いの器を見た。茂が自分の器の卵を一口食べた。黄身が口の中で溶けた。千鶴子も食べた。何も言わなかった。ただ、食べた。器が空になった。千鶴子が台所に立って、片付けた。茂は壁に背を当てて座っていた。千鶴子が戻ってきて、茂の横に座った。二人で窓を見た。ガラスの向こうに、向かいの建物の輪郭があった。その上に、空の一部があった。黒い空に、星がいくつかあった。千鶴子が言った。

「今日のうどん、美味しかったです」

茂は少し間を置いた。

「…俺が作ったの、初めてだな」

千鶴子が笑った。声を出した笑いだった。久しぶりに聞いた笑いだった。茂も、口の端が少し動いた。この半年で、何を失ったか。家。老後の蓄え。息子との関係。それまで積み上げてきた生活の形。何が残ったか。茂と、この六畳の部屋。毎月の年金と、指先が荒れるほど働いている千鶴子の少しの収入。残ったものの方が、少なかった。数で言えば、失ったものの方が多かった。それでも、今夜、うどんを食べて、温かかった。それは、本当のことだった。先のことは、まだ分からなかった。法テラスの件がどうなるか。仕事がどうなるか。連帯保証の問題が解決できるかどうか。公営住宅の抽選は、次の募集期になる。何もかもが、まだ宙に浮いていた。だが、今夜はうどんが暖かかった。それで、十分だった。

茂は壁に背を当てて、窓を見ていた。千鶴子が横にいた。肩が触れていた。小さな体が、自分の腕の近くにあった。三十八年以上、この体の近くで生きてきた。喧嘩もした。大事なところで間違えた。あの朝、言ってはいけない言葉を言った。それでも、今ここにいる。茂には、それが不思議だった。不思議でもあり、当たり前でもあった。外の風が、少し強くなった。窓が、かたかたと鳴った。千鶴子が言った。

「寒くなりましたね」

茂は頷いた。

「春になったら、銭湯に行こう」

千鶴子は、少し笑った。また笑った。今度は声が出なかったが、顔が柔らかくなった。

「約束です」

「ああ」

冬の夜が、深くなっていった。二人は並んで壁に背を当て、窓の外を見ていた。向かいの建物の向こうに、黒い空があった。星がいくつか、静かに光っていた。社会は、この二人に多くのものを奪った。法律は守ってくれなかった。血の繋がりは、守り合いではなく傷つけ合いに変わった。老後の設計は、跡形もなくなった。それでも、二人はここにいた。六畳の部屋に。SIMカードをテーブルの端に置いたまま。財布の中身が、少しだけ増えた。うどんを食べた。卵を半分ずつ分け合った。何かが解決したわけではなかった。これから先も、問題は続く。年が変わっても、体が疲れても、仕事が見つからない日が続いても、問題は続くだろう。だが、今夜、二人はここにいた。それだけが、今夜の事実だった。

窓の外の星が、一つ、雲に隠れた。また出た。茂と千鶴子は、それを見ていた。特に何も言わなかった。ただ、同じものを見ていた。翌週、法テラスから連絡が来た。立替え制度の審査が通った、という内容だった。担当の弁護士を紹介してもらえることになった。連帯保証の件について、貸金業者の本人確認義務違反の主張が可能かどうか、精査してもらえることになった。茂はその連絡を受けて、千鶴子に伝えた。千鶴子は頷いた。それから、家計のノートを開いた。今月の残りの数字を確認した。それからノートを閉じた。

「一つずつですね」

「ああ」

十二月の後半に入った頃、茂はもう一度、近所の求人を丁寧に調べた。今度は、清掃の仕事を中心に見た。体力よりも、継続性を重視した仕事だった。公共施設の清掃スタッフの募集が、一件あった。週三日、午前中だけの勤務だった。電話した。担当者が出た。年齢を聞かれた。

「六十六歳です」

今回は、少し間があった後、言われた。

「一度、ご面接にお越しいただけますか」

面接に行った。清掃会社の小さなオフィスだった。担当者が一人で、話を聞いてくれた。現役時代の経歴を話した。三十八年間、物流会社に務めた、といった。採用の連絡は、三日後に来た。茂はスマートフォンの画面を見た。「採用」という文字があった。千鶴子に言った。

「仕事が見つかった」

千鶴子が台所から顔を出した。

「本当ですか」

茂は頷いた。千鶴子が少しの間、茂を見た。それから言った。

「よかった」

声が、柔らかかった。

十二月三十一日の夜、二人は小さな部屋にいた。テレビはなかったので、ラジオを小さく鳴らしていた。紅白の音が、遠くで聞こえていた。夕食は、千鶴子が年越しそばを作った。そばの束が安売りになっていたものを、買っておいた。つゆは、昆布とかつおで作った。茂が、揚げ玉を買ってきた。二人で食べた。

「美味しいですね」

「そうだな」

ラジオから、年が変わるカウントダウンが聞こえてきた。茂は窓の外を見た。向かいの建物の上に、空があった。黒い空だった。花火の音が、どこか遠くで鳴った。千鶴子も、窓を見ていた。年が変わった。ラジオが、新年を告げた。

「明けましておめでとうございます」

千鶴子が言った。茂は少し間を置いた。

「…おめでとう」

二人は窓の外を見ていた。花火の音が、続いていた。新しい年が来た。解決したことは、まだ少なかった。これから向き合わなければならないことが、まだ多かった。それでも、年は変わった。二人は並んで、窓の外の空を見ていた。

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