中卒と車椅子のお荷物にボーナス三百万を支払う価値はない。新社長が俺と車椅子に座った相棒に放つ。俺たちは思いがけない言葉に衝撃を受けた。俺はともかく、相棒にこんな言い方をするなんて。相棒の表情は分からない。だけど小さく手を震わせているのが見えている。俺は新社長を真正面から睨みつけた。
俺の名前は高橋。四十三歳の技術者だ。うちの会社では産業用の機械や部品を製造している。俺は中学卒業から現場で技術を学んできた。最終学歴が中学なのは家庭の事情という点も大きい。高校進学や大学進学を進められていたが、うちは兄弟が多かったのだ。両親は気にしなくていいと言ったが、俺自身早く自立したいと考えていた。
そんな俺には相棒と呼べる人物がいる。青木という俺より二歳年上の男で、俺よりも数年後に入社してきた。現場で作業する俺とは違い、青木はデスクに向かって図面や設計をするのが得意だ。仕事を通じて顔を合わせるうちに自然と話すようになったのだ。馬が合ったのだろう。次第に俺たちは帰りに飲みに行ったり、一緒に組んで仕事をすることが増えた。青木が設計したものを俺が形にするようになり、技術部の中で俺と青木は名コンビと呼ばれるようになった。
そんな青木は現在車椅子で仕事を行っている。なぜそんなことになってしまったかと言うと、十年前に遡る。俺たちが一緒にあるシステムを完成させた直後の頃だった。うちの会社で長年磨かれてきた製造技術をデータ化し、製造ラインを独自に効率化するシステムだ。特許登録が完了したら最高だよな。なあ、本当に。もし登録されたら奥さんに自慢するよ。この時青木は結婚して間もない時期でもあり、余計に俺たちは気分が明るかった。
しかし青木が仕事帰りに交通事故にあったと聞かされたのは、その会話の数日後のことだった。完全に相手側の落ち度で起きた事故であり、幸い命に別状はなかったが、足の筋肉に重い後遺症が残ってしまったのだ。僕は会社をやめるよ。みんなのお荷物になりたくないからね。それに新婚なのに妻に申し訳ない。いっそ離婚を。最初はこんな言葉を口にするほど青木は落ち込んでいた。浮かぶ言葉はどれも今の青木にとって耳触りがいいだけの偽善にしか聞こえないのかもしれない。正直俺自身も不安だった。車椅子で現場に戻ることが青木にとって本当に幸せなのかどうか。
だけど、と俺は拳を握りしめた。何言ってんだよ。奥さんのことを考えるなら、尚更勢いでやめるとか離婚なんて言うなよ。みんなお前を待ってるよ。時間がかかったって。だからそんなこと言うなよ。例え一人疎まれてもいい。気がついたら俺は口走っていた。青木はその後長いリハビリを経て、車椅子で現場に戻ってくることに。高橋が励ましてくれたおかげだよ。ありがとな。相棒。改めて握手し合ったのを今でも覚えている。
そういえば聞いたか? 山の専務がいよいよ新社長になるらしいよ。過去を振り返っていると青木の言葉で現実に引き戻された。ああ、そうらしいな。俺は短く答えながら山の顔を思い出す。山は有名大学の出身で、入社当初から将来の幹部候補と囁かれていた男だ。大きな会議などで会う機会があるのだが、基本的に俺たち一般の社員のことは徹底的に見下しているのだろう。言動の端々から嫌でも感じ取れた。
山の専務といえば、覚えてるか? あの時のこと。あの時。俺が言うと青木は首をかしげる。二年前のことだったか。年に一度の規模の大きな会議の出来事だった。コスト改革の一環として、取引先を大手の一社に絞って経費を圧縮することを提案する。数字だけ見れば悪くない提案に聞こえる者もいるだろう。意見を述べてもよろしいでしょうか。その意見に異を唱えたのが、会議に参加していた俺と青木だった。俺が手を上げると一斉に視線がこちらに集まった。青木がパソコンのモニターを見ながら冷静に告げる。データによると、ご提案された取引先は過去三年で二度も大幅な納期遅延を起こしています。一社に集中した場合、欠品リスクが現状の倍以上になると試算が出ておりますが。さらに俺も続けていく。現場としても今の体制の方がトラブルへの対応が早いと思います。納期が止まるリスクが高まるのなら、賛成できかねます。俺たちの言葉に会議がざわめいた。私も同意見です。現場の感覚とこのデータは一致しているのではないでしょうか。他の社員が一人同意すると、次々と同意の声が上がっていく。その時、山の顔がどんどん赤くなっていくのが離れた場所からでもはっきり分かった。自分の判断が否定された上に、大勢の前で恥をかいたとでも感じたのだろう。山は明らかに怒りを滲ませていたが、視線が社長の方へ向く。社長の前で悪態をつくべきではないと判断したのか。山は悔しげに口元を引き締め、検討し直そう。それだけ言って引き下がった。
ああ、あの会議のことか。確かにあれ以来、たまに顔を合わせると俺たちのことを睨んでたっけ。ようやく思い出したというように青木が苦笑する。この様子からして青木はあまり気にしていないようだが、俺は少し引っかかるものを感じていた。そういえば、例の三百万。高橋はどうする? 唐突に話題が変わり、俺は目を丸くした。え?

ああ、そうだな。実を言うと現実味がなくてな。俺はとっさに笑ってごまかした。
と言うのも、社長が山に後を任せると決める直前、俺と青木に三百万のボーナスを支給すると決めたのだ。理由は俺と青木が開発した特許システムである。無事に特許登録が完了してから今日に至るまで、システムは俺たちの想像を超える働きをした。コスト削減、納期や品質の安定。そして結果として受注が増加し、気がつけばシステムは会社の売上の七十五%を作り出していたのだ。システム完成からちょうど十年。これは二人を称えてしかるべきだ。社長としてはそう考えたらしい。僕もだよ。僕はそうだな。奥さんに何かプレゼントしたいかな。おいおい、相変わらず愛妻家だな。のろけは聞き飽きたぜ。俺が茶化すように言うと、青木が照れくさそうに笑った。
それから少し経ち、山が正式に社長に就任してすぐ、社内では山による視察が行われた。新社長が視察をすることは別段珍しいことでもない。だが、高橋と青木という社員を呼べ。不意に山はそう口にしたらしい。部長が俺たちを呼びに来た。いきなり俺たちの名前が出たことには驚いたが、呼んでいると言われれば行かないわけにもいかない。何の用事だろう? 青木とそう言いながら山の元へ向かった。
来たか。山は冷たい目つきで俺たちを出迎える。周りで仕事をしていた他の同僚たちも何事かと気になるのだろう。チラチラと俺たちと山を盗み見ている。緊張していると、山がにやりと口元を歪めた。まさか私に恥をかかせたお前たちが特許システムの開発者とは。会長から話を聞いた時はまさかと思ったよ。俺と青木は困惑しながら互いに顔を見合わせる。まさか本当にまだ根に持っているとは。俺が呆れていると山は言葉を続けた。確かにお前たちの開発した特許システムは売上に貢献はしたようだな。だが、中卒と車椅子のお荷物が作ったにしてはという程度の話だ。うちの会社も随分人材に恵まれなかったらしい。山社長。そんな言い方は。部長が山にそう言ってくれたが、山は部長を睨みつける。明らかな侮辱を込めた発言に、青木が小さく息を飲むのが分かった。部長が口を閉ざすのを見て、山は再び言葉を続けた。単刀直入に言う。中卒と車椅子のお荷物にボーナス三百万を払う価値はない。今日は視察ついでに、辞退するように言いに来たんだ。会長の提案だから無視はできんが、お前たちが辞退するなら話は別だろう。
山が言う通り、今回の三百万のボーナスは会長が言い始めたことだ。きっと会長には深い意図があったのだと思う。新社長の最初の仕事として、功績ある人間をきちんと評価することを選ばせる。それは単なるボーナスの受け渡しではなく、経営者とはどうあるべきかを山自身の行動で示させようとした。いわば山への教育。深い考えがあってのことだったのだろう。だが山は会長の真意など端から眼中にないようだ。そんな配慮も感じられなかった。無礼。俺は思わず山の言葉を繰り返し口にしていた。俺の考えが合っていたとしたら、山はとんでもない行動をしている。会長の俺たちに対する評価だけではなく、会長の山への真心に近い考えをも踏みにじっていることになるのだから。青木は俯いて表情は分からないが、車椅子の手すりに置いた手が小さく震えていた。会長には申し訳ないが、相棒を傷つけられて黙ってはいられない。お言葉ですが、わざわざ中卒や車椅子という単語を用いるのはおやめいただきたいです。成果とは何も関係ないですし、特に青木に対しての言葉選びには悪意を感じます。俺の指摘に山は鼻を鳴らした。ふん。嫌なら辞めろ。お前ら小物のような存在が、新社長である俺に楯突くのか。これ以上ない機会だと思ったんだよ。二年前の仕返しをする機会だと思ってな。何が仕返しだ。俺は心の中で吐き捨てる。そもそも二年前の会議での出来事だってこちらが悪いところは一つもない。そうだ。いっそ辞めてもらった方がいい。中卒と車椅子のお荷物がいるってだけで、ただでさえ会社の恥晒しなんだからな。で、どうする? ボーナス三百万を諦めて惨めに会社にしがみつくか、会社を去って就職活動をするか。選ばせてやる。
俺たちが言葉を発せなくなっているのをいいことに、山はさらに言い放つ。恥晒しですか。青木が呟くのが聞こえ、俺は顔を上げる。周りにいる同僚たちのどよめきが遠くに聞こえ、目の前で山に抗議する部長の動きが余計にスローに見えた。頭の中がズンと重くなり、体全体が熱い。悔しさでも失望でもない。激しい怒りの感情に俺は飲み込まれそうになっていた。なんだその目は。山が俺の目つきに気がつきせせら笑う。学もなく、片方は現場に満足に立つこともできない。ボーナスどころか、そんな人間に払う人件費なんて無駄なんだよ。その言葉で俺は一歩前に踏み出した。やめろ、高橋。いつもは穏やかな青木が鋭い口調で俺を静止する。周りも驚いたのだろう。部長たちも動きを止めた。俺の目は多分血走っていただろう。青木の静かで真っすぐな視線とぶつかった。青木の目に怒りはなかった。俺はその目を見て奥歯を噛みしめる。暴力で返しても何も変わらない。それより自分たちの価値を証明する方法がある。
分かりました。ややあって俺は口を開く。はあ。山が腕を組んだ状態で怪訝を上げる。私と青木が恥晒しで人件費の無駄らしいので、辞めますね。僕も同意見です。望まれていない場所にすがりつくほど、僕たちは愚かではありません。俺たちの発言で周囲が大きくざわついた。高橋君、青木君まで。待ちなさい。私が。私が山社長にしっかり。いいんです。部長。部長が慌てて出ようとするのを俺は静止した。俺が感情に支配されて何も言えなくなっている間、部長は山に抗議してくれていた。それを見ていたからこそ申し訳ないが、俺と青木はすでに心を決めている。山はつまらなそうに部長と俺のやり取りを眺め、鼻を鳴らした。結構ならもう明日から来なくていいぞ。お前らが作って十年も経つシステムだ。引き継ぎなんぞなくても、他の者でなんとかなるだろうしな。そんな。周りで騒いでいた同僚のうちの一人が声を漏らした。その誰もが山に向けて暗い視線を向けている。こんな人が新しい社長なのか。声にこそ出さないが、同僚や部長はそう思っているに違いない。お世話になりました。青木はそう言って車椅子を操作して山に背を向ける。後ろから引き止める部長の声が聞こえてきたが、俺たちは決して振り向かない。
会長が社長のままでいてくれたらな。青木はそう呟く。俺と違って青木はどこか寂しげで遠い目だ。だが、俺たちがいなくなって困るのはおそらく向こうだ。俺の言葉に青木は静かに頷いた。その数日後のことだ。俺と青木は会社に来ていた。なぜかと言えば、それにはもちろん理由がある。今回は無理を言って申し訳なかった。目の前にある男性が俺たちに頭を下げている。髪は白く高齢には間違いないが、佇まいから風格のようなものが感じられた。俺たちはこの男性に呼び出され、再び会社にやってきたのだ。会長、頭をお上げください。青木が心苦しそうに言う。そう、目の前で頭を下げていたのは前会長その人だったのだ。俺はちらりと会長の隣を見る。会長の隣では黙って土下座をする山の姿があった。君たちの部長が直接私に連絡してきてくれたんだよ。部長が言うには、そういう経緯もあって、今回の山の暴走を知ったらしい。俺たちが帰った後、部長は即座に動いてくれたらしい。顔の効く社内の知人を片っ端から当たり、その日のうちに会長へ繋がる人物へたどり着いたという。社長になったからと言ってこんな無理を通すのは許せない。このまま山が社長でい続けるなら私もここにはいられない。そう強く抗議してくれたらしい。部長らしい真っすぐな行動だと思った。会長は説明しながらため息をつく。ボーナスの件を私が直接行えばこんなことには。会長は言いながら頭を押さえ、しばらく黙って目を閉じた。その沈黙には後悔と自責が滲んでいた。
山社長。あなたのしたことで会長が謝罪しておられます。ずっと黙っていますが、何とも思わないのですか?
俺が指摘すると山が顔を上げる。顔は血の気がないはずなのに、目だけが妙に血走っている。ぎろりとした目つきで俺を睨んできた。会長は山の表情に気がつき、吐き捨てるように言う。全く。新社長になって自分に敵などないと思いやがったのか。私は君を信頼していたのに。会長の声はどこか悲しげだ。山は一瞬表情を歪めた。山君。君から直接説明しなさい。会長が静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。山は一瞬口を噤んだ。その顔には俺がこれまで一度も見たことのない表情が浮かんでいた。屈辱とでも言えばいいのだろうか。特許システムの定期メンテナンスのタイミングで不具合が発生しました。対応できる人間が社内におりません。声が途切れ途切れになる。あれだけ俺たちを罵倒した男が、今は一言ごとに言葉を絞り出している。俺は何も言わなかった。言う必要がなかった。先日のことは心から謝罪する。だからどうか戻ってきてほしい。ボーナスは増額するし、なんなら昇進させてやってもいい。床に膝をつき謝罪している人間の言葉とは思えない。そんな言い方があってたまるか。会長がすぐに叱りつけたが、山は撤回する様子はない。俺は思わず青木と顔を見合わせた。
そうですか。でも、仕方ないことです。今までは私と青木がメインで見ていましたし、山社長は引き継ぎも必要ないとおっしゃった。同僚では把握できていない箇所があったとしても仕方ありません。俺の返事に青木も頷く。そもそも私たちは人件費の無駄なんでしょ。そんな私たちに戻れとは笑い話にもなりません。高橋君たちの言う通りだ。私は今日謝罪をしろと言ったのに、恥を知れ。会長の怒声に山が肩を震わせる。わ、私は社長として責任を。何が社長としてだ。これ以上失望させてくれるな。会長は何度目かのため息をつく。私の見る目のなさが招いた結果だ。本当に申し訳ない。今日何度目かの謝罪の言葉に俺は心が苦しくなる。様子を見るに、青木も同じようだ。俺は意を決して口を開いた。会長。私たちは山社長を許すつもりはありませんし、弊社に戻るつもりもございません。俺たちの真っすぐな目に、会長はそうかと悲しげに目を伏せる。場が静まり返った。引き継ぎだけはきちんとやらせてください。俺が続けると会長も山も驚いたように顔を上げた。念のため、と俺は言葉を足した。これは決して山社長のためじゃない。会長と、引き続き働いている部長や同僚たちのためにやりたいんです。ええ、僕も高橋と同じ気持ちです。僕たちは辞めますが、このシステムへの誇りは変わりません。青木が静かに、しかしはっきりと言い添えた。会長の目が大きく見開かれる。本当に惜しい人物を失った。高橋君、青木君。本当にありがとう。山君にはしかるべき処置をする。私が約束するよ。山は驚愕に声を震わせたが、会長は山を無視する。俺たちに土下座した時よりも絶望に駆られた顔だ。今更みっともない。そんなことよりも、悔やんでいる高橋君と青木君に何か言うべきことがあるんじゃないのかね。じっと会長が山を見据える。山は俺と青木の顔を交互に見て、あ、ありがとうございます。この度は申し訳ありません。不服そうに声を発した。
それから俺たちは宣言通り引き継ぎを行った。尽力してくれた部長に感謝をし、部長や同僚たちとの別れを惜しんだ。当初受け取るはずだった三百万のボーナスだが、会長の強い要望で改めて受け取ることに決まった。封筒を手にした時、俺はふと思うことがあった。十年分の仕事がこの封筒一つに収まっているのかと。それに加え、今回の件に対する解決金を上乗せした退職金を受け取ることにもなった。仲の良かった同僚から聞いた話だが、臨時取締役会が開かれた結果、山は異例のスピードで社長を解任されたという。それ以来めっきり会社に姿を見せなくなったそうだ。きっとプライドの高さゆえに、もう誰にも会いたくないと思っているのかもしれない。俺たちはと言うと、会長の手助けもあり早くも次の職場に向けて動き始めている。俺たち二人での功績も多いことから、二人を望んでくれる会社も多い。最終的に青木と同じ職場か別の会社で働くかは分からないが、俺たちの友情は変わらない。そう確信している。

