70歳の母が、45歳の息子に「5万円くれ」と言われた。財布には870円しかない。それでも息子はバッグを引っ張り、私は床に転がされた。10年前、同じ職場で同じ退職金をもらった同僚は、今も優雅に暮らしている。私は値引きシールの弁当を買うのがやっとだ。老後の蓄え1500万円は、いつの間にか150万円になっていた。息子の生活費、親戚の冠婚葬祭、隣の家に負けないための外壁工事。全部、私が払ってきた。で…

70歳の母が、45歳の息子に「5万円くれ」と言われた。財布には870円しかない。それでも息子はバッグを引っ張り、私は床に転がされた。10年前、同じ職場で同じ退職金をもらった同僚は、今も優雅に暮らしている。私は値引きシールの弁当を買うのがやっとだ。老後の蓄え1500万円は、いつの間にか150万円になっていた。息子の生活費、親戚の冠婚葬祭、隣の家に負けないための外壁工事。全部、私が払ってきた。で...

同じ職場で同じ仕事をして同じ退職金をもらったのに、10年後、あの人は女王様のような暮らしをしている。私はといえば、錆びた小銭を一枚一枚かき集めながら、値引きシールの貼られた弁当を買うのがやっとだ。見える目と見えない目。愛というものは、時として人の老後を葬る、この世で一番残酷な刃になる。

黒木さよ子、70歳。10年前、魚介工場を定年退職した時、退職金は1500万円だった。その数字を通帳で確認した日のことを、さよ子は今でも鮮明に覚えている。窓口の女性行員が「おめでとうございます」と言いながら通帳を差し出した。受け取った手がかすかに震えていた。嬉しさからではなく、その重さへの戸惑いからだった。1500万円。それだけあれば、残りの人生を穏やかに過ごせると信じていた。

その朝、さよ子は駅の古びたATMの前に立っていた。6月の朝の光がガラスの向こうから差し込んで、機械の画面を白く照らしていた。さよ子は暗証番号を押し、残高照会のボタンに指を当てた。数字が表示されるまでの数秒間、胸の奥でかすかな予感がした。悪い予感ではなく、ただ漠然とした、何か確かめなければならないという感覚だった。

画面に浮かび上がった数字を見た瞬間、体の中の血が止まったような気がした。150万円と少しの端数。1500万円が150万円になっていた。さよ子はしばらくその場を動けなかった。後ろで待つ人の気配がしても、足が地面に張り付いたように動かなかった。画面を指でもう一度なぞった。数字は変わらなかった。機械の奥から紙幣が出てきたわけでも、エラー音が鳴ったわけでも、何かが爆発したわけでもなかった。ただ静かに数字だけがそこにあった。150万円。10年間で1350万円が消えていた。

連鎖工場でのパート仕事は、週5日、朝6時から昼過ぎまでだった。ベルトコンベアに沿って立ち、食品用の手袋をはめ、立て続けに弁当箱に一品ずつ食材を並べていく作業だった。冷えた揚げ物、色の悪くなったほうれん草のおひたし、小さな仕切りに入ったたくあん。工場の中は夏でも冷えていて、足元からじくじくと冷気が上がってくる。さよ子は毎朝、家から工場まで3キロの道を歩いた。バス代を節約するためだった。片道230円、往復で460円。月に20日通えば、9200円の節約になる。靴の底が薄くなっても構わなかった。痛みには慣れていた。

その日の昼前、工場の休憩室でさよ子は携帯電話を取り出した。メールの受信箱に、一見、大塚ヒサエからのメッセージが入っていた。同年で同じ職場で定年を迎えた、かつての同僚だった。ヒサエとはここ数年ほとんど連絡を取っていなかったが、さよ子の方から先週短いメッセージを送った。「近所の喫茶店でお茶でもしませんか」と。ヒサエは折り返しすぐに返信してきた。「いいですよ」と。あっさりと、ほとんど間を置かず。さよ子がその返信を読んだ時、胸の中にくすぶっていた感情をはっきりと自覚した。これは友人に会いたいという気持ちではなかった。ヒサエも自分と同じように苦しんでいるはずだという確信と、その事実を直接目で確かめたいという欲求だった。

ヒサエは夫を早くになくしていた。退職直後に海外旅行に出かけ、あちこちに遊びに行っていると風の噂で聞いていた。蓄えなどもう残っていないはずだ。ヒサエの困り果てた顔を見れば、自分が少しだけ楽になれる気がした。それは決して美しい動機ではなかったが、さよ子はその気持ちに正直だった。

待ち合わせの喫茶店は、商店街の外れにある小さな店だった。午後2時過ぎ、さよ子は古びたコートのボタンを掛け直しながら店の前に立った。ガラス窓の向こうに店内の明かりが見えた。ドアを押して入ると、コーヒーの香りが鼻を突いた。カウンターの奥でマスターらしき老人が新聞を読んでいた。客はほとんどいなかった。さよ子は窓際の席を選んで座った。ヒサエはまだ来ていなかった。さよ子はテーブルの木目を指でなぞりながら待った。5分が過ぎた。7分が過ぎた。外の通りを行き交う人を眺めながら、自分がなぜここに来たのかをもう一度静かに確かめていた。いや、確かめるまでもなかった。ヒサエの顔を見て、ヒサエが苦しんでいると知ればそれで良かった。ただそれだけのことだった。そう思うと胸が少し痛んだが、さよ子はその痛みを飲み込んだ。

ドアが開いて、冷たい外気が流れ込んできた。さよ子は顔を上げた。そして固まった。入ってきた女性は大塚ヒサエだった。しかし、さよ子の脳裏にあったヒサエのイメージとは、何かが根本的に違った。レースの綺麗なカーディガンを着て、髪はきちんとまとめられていた。肌つやが良かった。背筋がまっすぐに伸びていた。頬はふっくらとして血色が良く、目の周りに刻まれた笑いじわは、疲れの証ではなく、穏やかに積み重ねられた年輪の証に見えた。足取りは軽く、店の中を見回すその目に、迷いや不安の色はかけらもなかった。

10年でここまで変わるものだろうか。いや、変わったのはヒサエではないかもしれない。元からそういう人間だったのかもしれない。さよ子はそんなことを考えながら、反射的に立ち上がって手を上げた。ヒサエはさよ子を見つけて顔をほころばせながら歩いてきた。席に着きながらコートを椅子の背にかけ、当たり前のようにメニューを手に取った。そして、ページをめくることもなく店員を呼んで、迷いなく言った。「特選ポットサービス、一人前で」。1200円するやつだった。さよ子はブレンドコーヒーを頼んだ。420円のやつを。

ヒサエはカップが来る前から話し始めた。近所のカルチャーセンターで社交ダンスを習い始めたこと。週に一度は温泉旅館へ行くようにしていること。先月は長野まで日帰りで紅葉を見に行ったこと。声は弾んでいた。疲れた人間の声ではなかった。さよ子は話を聞きながら笑顔を作り続けた。それはなかなか骨の折れる作業だった。ヒサエの言葉の一つ一つが、さよ子の胸の奥のある部分を静かに押した。温泉旅館。週に一度。自分が温泉に最後に行ったのはいつだったか、もう思い出せなかった。旅館など、もう何年も縁のない話だった。ヒサエが楽しそうに笑うたびに、さよ子の中で何かが軋んだ。それは嫉妬とも怒りとも少し違う、もっと重くてどろりとした感情だった。

ポットのお茶を半分ほど飲んだところで、ヒサエがふとさよ子の顔をまじまじと見た。笑いかけてきたのではなかった。観察するような目だった。その目が、さよ子のコートの擦り切れた袖口に止まった。次に、テーブルの上に置かれたさよ子の手に移った。荒れて、指先がひび割れている手。そしてコーヒーカップ。ヒサエの表情がほんのわずか変わった。笑顔が薄くなったわけではなかった。ただ、何かを読み取ったような静かな変化だった。さよ子はヒサエの視線の動きに気づいていた。何も言えなかった。説明しようとも思わなかった。ただコーヒーカップを両手で包むようにして持った。手の冷たさを隠したかったのかもしれない。

ヒサエがゆっくりと口を開いた。「さよ子さん、最近どうしてるの」と聞いた。世間話のような口調ではなかった。さよ子は一瞬迷った。「大丈夫ですよ」と言おうとした。口が動かなかった。気づいたら言っていた。「貯金が150万しか残っていない」と。自分でもなぜそれを口にしたのか分からなかった。ヒサエに心配させたかったわけではなかった。ましてや同情してもらいたかったわけでもなかった。ただ言葉が出てきた。喉の奥に詰まっていたものが、ふとした拍子に転がり出てきた感じだった。

ヒサエはすぐには何も言わなかった。カップを受け皿に置いて、テーブルの上で手を組んだ。その沈黙は短かったが、さよ子には長く感じた。それからヒサエは言った。驚いた様子もなく、哀れむ様子もなく、ただ淡々と。「さよ子さん、老後の生き残り方を一度も考えたことがなかったの」。言葉の選び方が普通ではなかった。「生き残り方」。まるで戦場にいるかのような言葉だった。さよ子は黙っていた。

ヒサエはテーブルに少し身を乗り出した。声を低くした。「親戚の冠婚葬祭に10年間ずっと出席してきたでしょう。ご祝儀も香典もいつも多めに包んで、家を張ってきた」。さよ子の手がかすかに動いた。ヒサエの言葉は問いかけというよりも確認に近かった。さよ子が何か言う前に、ヒサエは続けた。「親戚の誰かがあなたのことを心から心配したことが、一度でもあったか。病気になった時、お見舞いに来た人がいたか。困った時に、電話一本くれた人がいたか」。さよ子は答えなかった。答えられなかった。

ヒサエの目が少し細くなった。「私は60歳を過ぎた時、そういう付き合いを全て整理した。義理の付き合いは最小限にした。親戚の集まりにも出なくなった。影で何を言われても気にしなかった。最初の1年は居心地が悪かった。でも2年目からは、ただ静かだった。毎月、自分のために使えるお金が増えていった」。

さよ子はその話を聞きながら、自分が過去10年間に出席した冠婚葬祭の数を頭の中でぼんやりと数えた。結婚式3つか4つ、葬儀は7つか8つ。七五三、宮参り、退院祝い。一度のご祝儀は最低でも3万円。多い時は5万円包んだ。親戚の手前、少ない額は恥ずかしかった。何十万円になるだろう。いや、100万円を超えているかもしれない。

ヒサエがまたカップを持ち上げた。一口飲んで置いた。次に言われた言葉で、さよ子は思わず背筋が伸びた。「一番お金を吸い取ったのは、息子さんでしょう」。ヒサエは言った。さよ子の胸がずっしりと重くなった。息子の直人のことだった。45歳、8年前から無職だった。うつ病を理由にしていた。最初の1年はさよ子も信じていた。仕事のストレスで追い詰められたのだろうと。でも2年が過ぎ、3年が過ぎ、直人は家にいたまま、毎月生活費を要求し続けた。金額は少しずつ増えていった。最初は3万円だった。いつの間にか6万、7万になっていた。直人のゲーム機を買ったのはさよ子だった。テレビを買い換えたのもさよ子だった。直人が機嫌よくしていてくれればそれで良かった。直人に嫌われることが怖かった。

さよ子はヒサエの目を見られなかった。ヒサエは続けた。「子供は救えない。救おうとすればするほど、向こうは救われる必要がなくなる。私の娘も一時、借金の肩代わりを求めてきた。私は断った。それだけじゃない。家から出ていきなさいと言った。1週間後、娘は自分でアルバイトを3つ掛け持ちして、一人で暮らし始めた。今は結婚して子供もいる。あの時、私が金を出していたら、娘は今どうなっていたか」。

さよ子は何かを言おうとした。「でも直人は病気で」と言おうとした。しかし言葉が出てくる前に、自分の中から別の声が聞こえた。本当に病気だったのか?確かめたのか?一度でも直人を精神科に連れて行ったことがあったか?なかった。直人が行きたくないと言ったから連れて行かなかった。直人が怒るのが嫌だったから、何も言えなかった。さよ子の指先がコーヒーカップの縁を無意識にこすっていた。ヒサエはそんなさよ子を見て、何かを言うのをやめた。追い打ちをかけるつもりはないように見えた。ただ静かに窓の外を見た。商店街の通りを、年配の女性が買い物袋を下げてゆっくり歩いていた。

しばらく沈黙が続いた。さよ子の中で、いくつかのことが静かに形を変えていた。ヒサエの話を聞く前と聞いた後では、過去10年間の意味が微妙に違って見えた。義理のために払い続けたご祝儀、直人のために積み上げてきた支出。それを自分では愛情と呼んでいた。いや、義務と呼んでいた。いや、正直に言えば、恐れと呼ぶべきだったかもしれない。陰口を叩かれることへの恐れ。息子に嫌われることへの恐れ。それだけのために、1300万円以上を使い果たしたのかもしれなかった。

ヒサエがカップを置いて、コートを手に取りながら言った。「お互い長い付き合いだから言うけど、さよ子さんは一度も自分自身を大切にしたことがないでしょう」。その言葉は非難ではなかった。ただの観察だった。ヒサエは財布を出して、自分の分の代金をテーブルに置いた。ちょうどの額だった。1円の端数まで計算して用意してきたような、綺麗な硬貨の組み合わせだった。立ち上がりながら「また来ましょうね」と言った。微笑んでいた。その笑顔には、嘘も哀れみも混じっていなかった。

ヒサエが店を出てドアが閉まった後、さよ子はしばらく動けなかった。コーヒーはとっくに冷めていた。窓の外ではヒサエが商店街を歩いていくのが見えた。背筋の伸びた軽い足取りで、振り返らなかった。さよ子は財布を開いた。お札は一枚もなかった。小銭の中から硬貨を指で集めて数えた。合計で500円に少し足りなかった。コーヒーの420円を払って、残りをポケットにしまった。チップを置く余裕はなかった。

店を出ると、外の風がひどく冷たかった。商店街の人通りは少なかった。向かいの八百屋が半額シールの貼られた野菜を並べ替えているところだった。さよ子は足を止めて、値引きされた大根を見た。それから目をそらした。今日は買う余裕がなかった。家まで3キロの道を、さよ子は歩いた。一歩一歩踏むたびに、ヒサエの言葉が頭の中で繰り返された。「老後の生き残り方を一度も考えたことがなかったの」。生き残り方。その言葉が引っかかって離れなかった。70年生きて、自分が何かから生き残らなければならない立場にあると考えたことは一度もなかった。お金は使うためにあると思っていた。家族のため、世間体のため、人間関係のため。それが当たり前だと思っていた。しかし、今、通帳の中の150万円という数字が頭から消えてくれなかった。

家の門が見えてきた。外壁は綺麗だった。5年前に400万円かけて塗り直した外壁は、今もつやつやと光っていた。近所に新築の家が立った時、自分の家が古びて見えるのが嫌で、衝動的に業者に電話をかけた。あの決断を今更後悔したところで何も変わらない。でも変えられないからこそ、余計に重くのしかかってくるのだった。

玄関の鍵を開けようとした時、家の中からテレビの音が聞こえた。直人がいた。さよ子は少し息を吸い込んでドアを開けた。リビングのソファに、45歳の男が昼間からジャージ姿で寝そべり、天井に向けてスマートフォンを持ち上げながら何かを見ていた。さよ子が入ってきても顔を向けなかった。「ただいま」とさよ子は言った。直人は返事をしなかった。さよ子はコートを脱いでキッチンに向かいながら冷蔵庫を開けた。中は乏しかった。豆腐が1丁、納豆が2パック、卵が3つ、賞味期限の近い安売りの牛乳。夕食に何を作るかを考えながら、今日も直人の分を作らなければいけないということを思った。

直人の声がした。背中に向かって言った。「母さん、5万円くれ」。さよ子は振り返らなかった。「なんで」と聞いた。「投資の勉強をするアプリを買いたい」と直人は言った。「今度こそ本物だ。これで稼いで母さんに返す」。さよ子は冷蔵庫のドアをゆっくりと閉めた。振り返ると、直人はまだスマートフォンを天井に向けたままだった。目が合わなかった。さよ子はしばらく直人の横顔を見ていた。8年前の直人の顔と今の直人の顔を頭の中で重ね合わせた。最初に仕事をやめると言ってきた時、直人の目には確かに疲弊した色があった。あれは本物だったと思う。でも今は、その疲れた色の下に何が積み重なっているのか、さよ子にはもうよくわからなかった。

さよ子は口を開いた。「今はない」と言った。直人がスマートフォンを下げた。顔がこちらを向いた。目が細くなっていた。「なんで」と言った。声の温度が変わっていた。さよ子はキッチンの流しに手をついた。背中を向けたままで言った。「今日ATMで残高を確認した。150万しかない」。直人は黙っていた。数秒の沈黙の後、ソファがきしむ音がした。直人が起き上がった気配がした。その沈黙は怒りではなかった。計算しているような沈黙だった。その沈黙の種類を感じ取った時、さよ子の胸の中で何かがすっと冷えた。

直人がソファから起き上がった気配は、足音よりも先に伝わってきた。スプリングが一度だけ鈍く鳴り、床を踏む重みがじわりと広がった。さよ子はキッチンの流しに手をついたまま振り返らなかった。振り返れなかったという方が正確かもしれない。背中に直人の視線を感じた。それは温度のある視線ではなかった。「150万」と直人は繰り返した。確認するような声だった。怒っているわけではなかった。驚いているわけでもなかった。ただ数字を頭の中で転がしているような、妙に静かな声だった。さよ子は「そうだよ」と言った。自分の声が想像以上に小さく聞こえた。

直人はしばらく黙っていた。怒鳴り声が来ると思っていた。「なぜ今まで黙っていたんだ」「なぜもっと早く言わなかったんだ」という攻め言葉が来ると思っていた。しかし直人は怒鳴らなかった。代わりに「だからって、俺はどうすればいいんだ」と言った。その言い方が、さよ子の胸の奥に静かに刺さった。「だからって」。その言葉には、これは自分の問題ではないという前提が最初から含まれていた。母親の老後資金が尽きかけている。それは直人にとって、自分が対処すべき事態ではなかった。あくまでもさよ子の問題であり、直人はただそれに対してどう反応するかを尋ねているだけだった。

さよ子は流しから手を離した。蛇口のそばに、洗った茶碗が一つ伏せてあった。自分の分だけ。直人の食器はいつも直人が使いっぱなしにして、さよ子が片付けていた。それが当たり前になっていた。いつからそうなったのか、思い出せなかった。

翌朝、さよ子は4時半に目を覚ました。布団の中でしばらく天井を見ていた。外はまだ暗かった。隣の部屋から直人の寝息が聞こえた。よく眠れているらしかった。さよ子はゆっくりと起き上がり、台所でやかんを火にかけた。湯が湧くまでの間、テーブルの上に置いたままにしていた通帳を手に取った。開くのが怖かった。でも開いた。数字は昨日と変わっていなかった。当たり前だった。

工場までの3キロを歩きながら、さよ子はヒサエのことを考えた。昨日言われた言葉の中で一番頭に残っているのは、家のことでも冠婚葬祭のことでもなかった。ヒサエが途中で言いかけて、そのまま次の話に移ってしまった言葉だった。しかし、あの目の鋭さだけがまだ消えずに残っていた。だから、午後の仕事が終わった後、さよ子はヒサエに電話をかけた。「会えないか」と言った。また話を聞いてほしいという意味を込めて。ヒサエは少し間を置いてから「じゃあ、明日の昼前に」と答えた。

翌日の午前10時過ぎに、2人は前と同じ商店街の喫茶店で向かい合った。さよ子はまたブレンドコーヒーを頼んだ。ヒサエはアイスティーを頼んだ。前回と違い、ポットサービスではなかった。ヒサエなりの気遣いかもしれなかった。あるいはたまたまかもしれなかった。テーブルに飲み物が届いてすぐ、さよ子は口を開いた。「昨日からずっとヒサエさんの言っていたことを考えていた」と言った。「義理のこと、息子のことを頭の中で計算してみたら、怖くなった」と。ヒサエはアイスティーのグラスを両手でゆっくり持ちながら、「何が怖かったの」と聞いた。「直人に払い続けてきたお金が、8年間で500万円を超えるかもしれない」とさよ子は言った。自分でその数字を口にして、また改めて体が重くなった。

ヒサエは数字を聞いても驚いた顔をしなかった。むしろ「それくらいか」という表情だった。「500万だけじゃないでしょう」とヒサエは言った。ゆっくりと、しかしはっきりと。「冠婚葬祭のご祝儀はいくらだったか、ちゃんと足してみた」。さよ子は黙った。ヒサエは続けた。「10年間、あなたは何回ご祝儀を包んだか。葬儀に何回行ったか。一回ごとにいくら持っていったか」。さよ子はゆっくりと頭を動かした。結婚式が4回、葬儀が8回、七五三、入学祝い、退院祝い。毎回最低でも3万円は包んだ。5万円の時もあった。計算したくなかった。でも頭が勝手に足し算をした。100万円では効かないかもしれなかった。

ヒサエはグラスをテーブルに置いた。「それだけじゃない」と言った。「外壁の塗り直しを5年前にしたでしょう。あれはいくらかかったか」。「400万円」とさよ子は小さく言った。ヒサエの口元がわずかに動いた。笑ったわけではなかった。何かを確認したような表情だった。「なぜ塗り直したか、自分では分かってるの」とヒサエは聞いた。さよ子は答えなかった。理由は分かっていた。隣に新しい家が立ったのだ。綺麗な白い外壁の2階建ての家が。それを見てから、自分の家が急に古びて見えた。朝にゴミを出す時、その家の前を通るたびに居心地が悪かった。業者に電話したのはその翌月だった。家が傷んでいたから修繕した、といえば嘘になる。傷んでいたのは確かだったが、それより先に自分の気持ちが限界だった。見劣りすることへの、耐えられない感覚。「隣の家が立ったから」とさよ子は言った。「家が古く見えて」。

ヒサエはそれを聞いて少し目を伏せた。「それを聞かせてくれた隣の奥さんは、今もあなたのことを気にかけているか」とヒサエは言った。さよ子は答えなかった。隣の奥さんとは、塗り直し工事が終わった後に一度だけ外で顔を合わせて、「綺麗になりましたね」と言われた。それだけだった。それ以来、挨拶を交わす程度の関係が続いていた。気にかけているかどうか、正直に言えば、そうではなかった。400万円は、隣の奥さんの一言のために使ったということになる。

ヒサエはアイスティーを一口飲んでから、テーブルに肘をついて少し前に出た。声を少し落として言った。「さよ子さん、正直に答えて欲しい。これまでにかかったお金を全部合わせると、退職金の1500万のうち、どれだけが自分のために使われたと思う」。さよ子は黙ったままコーヒーカップを持ち上げた。一口飲んだ。冷たくなっていた。「自分のために」という問い自体がうまく理解できなかった。何が自分のためで、何がそうでないのか、これまで一度もきちんと考えたことがなかった。息子の生活費は、息子を養うためだった。冠婚葬祭は、人間関係を保つためだった。外壁の塗り直しは、家の見栄えを保つためだった。どれも目的はあった。でもヒサエの言う「自分のため」とは違う気がした。「ほとんどない」とさよ子はようやく言った。

ヒサエは何も言わなかった。ただじっとさよ子の顔を見ていた。その沈黙の中で、さよ子は自分が言った言葉をもう一度聞いた。「ほとんどない」。10年間で1300万円近くを使って、自分のために使ったものはほとんどない。それはどういう意味か。誰かのために生きてきた、といえば聞こえがいい。でもヒサエの顔を見ていると、それが美しい言葉ではないことが伝わってきた。

しばらくしてヒサエが口を開いた。「私が60歳の時、最初にやったことが何か分かる」と言った。さよ子は首を横に振った。「親戚への義理の付き合いを全部、断ち切った」とヒサエは言った。「1年間、結婚式も葬儀も全部断った。最初に断ったのは、遠縁の従姉の娘の結婚式だった。あの子とは生まれてから3回しか会ったことがなかった。それでも声がかかれば行くのが当然だと思っていた。断った時、親戚の何人かから陰口を叩かれた。『ヒサエさんは付き合いが悪くなった』『ケチになった』と」。さよ子はその言葉の重さを想像した。陰口。それが怖かった。いつも怖かった。「どうしたんですか」とさよ子は聞いた。ヒサエはまっすぐにさよ子を見て言った。「気にしなかった。ただそれだけ」。それだけ。その言葉は短かったが、さよ子にはその短さが途方もなく遠いものに感じられた。陰口を気にしない。それがどれほど難しいことか。さよ子は70年間ずっと、誰かの目線を気にして生きてきた。学校でも、職場でも、近所でも、親戚の集まりでも。いつも周りがどう見るかを先に考えてから、自分がどうしたいかを考えた。いや、自分がどうしたいかは考えたことがなかった。

「ヒサエさんは怖くなかったんですか」とさよ子は聞いた。ヒサエは少し考えてから言った。「怖かった。1年目は怖かった。集まりに欠席するたびに胃が痛くなった。でも1年経ったら、何も変わっていなかった。陰口を叩いた人たちは、相変わらず自分の生活をしていた。私が欠席したことで、誰かの人生が変わったわけじゃなかった。そこで気づいた。ご祝儀を包んで出席することと、関係が続くこととは別の話だということに」。さよ子はその言葉をゆっくりと飲み込んだ。ご祝儀を包んで出席することと、関係が続くこととは別の話。それは理屈としては分かった。でも体がついてこなかった。頭で理解することと実際にやることの間に、長い長い距離があった。さよ子にはその距離を超える勇気が、70年間で一度もなかったのだと思った。

ヒサエはグラスのアイスティーを飲み干した。氷がからんと音を立てた。その音を合図にするように、ヒサエは話題を変えた。声のトーンは同じままで、しかし話の方向がすっと変わった。「直さんは今も家にいるの」とヒサエは聞いた。さよ子は「いる」と言った。ヒサエはテーブルの上に手を平らに置いた。視線が少し鋭くなった。「いつ最後に直さんと将来のことについて、ちゃんと話したか」とヒサエは聞いた。さよ子は答えに詰まった。将来のことについてちゃんと話したことがあったか。あったような気もするし、なかったような気もする。直人が仕事をやめた直後、一度だけ真剣に話そうとした。でも直人が不機嫌になって部屋に閉じこもったので、そのまま終わった。それ以来、さよ子は直人の機嫌を損ねるような話題を避けるようになっていた。「ないかもしれない」とさよ子は言った。ヒサエはそれを聞いて少し目を伏せた。その表情は非難ではなく、ただ確認しているような静かさだった。

「直さんが仕事をやめた本当の理由を、あなたは知っているか」とヒサエは言った。さよ子は「うつ病だ」と言った。「直人がそう言っていた」と。ヒサエは即座には答えなかった。「一度でも医者に連れて行ったか」とヒサエは聞いた。さよ子の胸の中に静かな重さが沈んだ。なかった。直人が行きたくないと言ったから連れて行かなかった。直人が機嫌をなくすのが嫌だったから、それ以上は言えなかった。病気かもしれないという不安と、診断書がなければ証明できないという現実の間で、さよ子はずっと宙ぶらりんのまま8年間を過ごしていた。「言っていない」とさよ子は言った。ヒサエは「そう」とだけ言って、アイスティーの空のグラスをテーブルの端に寄せた。

「私の娘の話をすると」とヒサエは言った。ヒサエの娘は30代の時に離婚して、子供を一人抱えて実家に帰ってきたことがあった。半年間ヒサエの家に住んだ。その間、ヒサエは娘が新しい仕事を探すことを手伝ったが、金銭的な援助は最小限にした。生活費は出したが、貸したという形にした。金額も毎月きちんと記録した。娘は最初それを冷たいと感じたようだった。でも半年後、自分で仕事を見つけて家を出た。今は子供と二人で暮らしている。ヒサエへの返済も少しずつ続けている。さよ子はその話を聞きながら、ヒサエの娘と直人の違いを考えていた。違いはあるのか?あるとすれば、何が違うのか?

ヒサエは続けた。「私は娘に甘くなかった。でも見捨てたわけでもなかった。筋道を立てて、こう生きなさいと示した。お金を出すことが親の役目じゃない。子供が自分の足で立てるように、必要な時に必要な分だけ手を貸す。それが役目だと私は思っている」。さよ子はその言葉を聞きながら、自分が直人に対してしてきたことを頭の中に並べた。仕事をやめると言った時、なぜやめるのかを問い詰めなかった。「とにかくゆっくり休んでいい」と言った。お金が必要だと言えば、渡した。機嫌が悪い時は話しかけなかった。ゲーム機を欲しいと言った時、「気晴らしになるなら」と思って買った。それを愛情と呼んでいた。でも今、ヒサエの言葉を通してみると、それが愛情なのかどうか、さよ子には分からなくなっていた。直人を安心させることが、直人のためになっていたのか。それとも、直人に嫌われないために、さよ子が自分を安心させていたのか。その問いに答えを出す前に、ヒサエが言った。「さよ子さん、聞いてもいいか?」。「どうぞ」とさよ子は言った。「あなたは直さんに出て行って欲しいと思ったことがあるか」とヒサエは聞いた。

さよ子は黙った。その問いは予想していなかった。考えたことはあった。正直に言えば、何度もあった。深夜にトイレに起きた時、廊下の暗がりの中でふと「直人がいなければ」と思ったことがあった。朝起きて直人がまだ寝ているのを見た時、「この人はいつまでこうしているのか」と思ったことがあった。でもその考えが出てくるとすぐに罪悪感が来た。「親なのに、そんなことを思うのは間違いだ」という感覚が来て、その考えを押しつぶした。「ある」とさよ子は言った。ヒサエは驚いた顔をしなかった。「当然だろう」という顔だった。「その気持ちは正直なものだ」とヒサエは言った。「間違っていない。親だから子供を愛さなければいけないという話と、45歳の男が働かずに家にいることへの怒りは別の話だ。その2つを一緒にして、怒りを感じることを自分で禁じているから、代わりにお金を出し続けることになる。怒りを見ないようにするためにお金を使っているんだ」。

さよ子の体がわずかに固まった。「怒りを見ないようにするためにお金を使っている」。その言葉が何かに命中した感覚があった。胸の中の柔らかい部分に、痛みとは違う感触だった。でも確かに何かに触れた。ヒサエは前に乗り出していた体を戻して、背もたれにもたれかかった。声が少し柔らかくなった。「私も最初は怖かった」とヒサエは言った。「娘に冷たくすることが、本当に冷たい親になることだと思った。本当に冷たい親は、子供を一人にする親じゃない。子供が一人で立てなくなっても、それでいいと思って何もしない親だ。あなたが直さんにしてきたことは、冷たくないかもしれない。でも直さんのためにもなっていない」。

さよ子はその言葉を反論せずに聞いた。反論できなかったというより、反論する気が起きなかった。ヒサエの言葉は一つ一つ、さよ子の中でずっと見ないようにしていたものに静かに照明を当ててきた。見たくないものが、ゆっくりと形を持ち始めていた。ヒサエは腕時計を見た。「そろそろ行かないと」と言った。「午後から歯医者の予約がある」と。「分かりました」とさよ子は言った。ヒサエは立ち上がりながら財布を出した。前回と同じように、自分の分だけをきっちりテーブルに置いた。端数まで合わせた小銭だった。コートを手に取りながら、一度さよ子の顔を見て言った。「一つだけ宿題を出す。直さんと向き合って、来月から生活費は出せないと言いなさい」。さよ子は息を吸い込んだ。ヒサエは続けた。「全額じゃなくていい。3万円にするとか、1万円にするとか、金額は何でもいい。ただ減らすことを直さんに伝えなさい。それだけでいい」。「なぜですか?」とさよ子の声が少し揺れていた。ヒサエはコートのボタンを掛けながら、「あなたが本当のことを言えば、直さんも本当のことを言わざるを得なくなる」と言った。「お金が出てくる限り、直さんには現実と向き合う理由がない。でもお金が減った時、直さんがどう動くか。そこを見なさい」。その言葉を残して、ヒサエは店を出た。

ドアが閉まった後の静けさの中で、さよ子はコーヒーカップの底に残った冷たい液体を見つめた。直人に言う。「来月から生活費は減らす」。その場面を頭の中で想像しようとした。直人の顔。直人の声。直人が怒鳴るかもしれない。物に当たるかもしれない。またはただ黙って部屋に戻るかもしれない。どの展開を考えても胸が重くなった。でもヒサエの言葉がもう一度浮かんだ。「お金が出てくる限り、直さんには現実と向き合う理由がない」。さよ子は財布を出した。コーヒー代の420円を置いた。立ち上がってコートを着た。店を出ると、商店街の風が冷たかった。

帰り道、さよ子は3キロをゆっくりと歩いた。いつもより遅かった。急ぐ気になれなかった。家の中に直人がいると思うと、足が自然と重くなった。それでも家に着いた頃、空は薄暗くなり始めていた。玄関の鍵を開けて中に入ると、テレビの音がした。リビングに直人がいた。ソファに横になって、幽霊のようにスマートフォンを天井に向けていた。さよ子がコートを脱ぐ音がしても、顔を向けなかった。さよ子は台所に向かい、夕食の準備をしながら頭の中で何度も言葉を作り直した。「直人」と呼んで振り向かせる。そして言う。「来月から毎月渡せるお金は3万円にする」。それだけ言う。それだけでいい。鍋に水を入れながら、さよ子は何度か息を整えた。ガスの火をつけると、青い炎が静かに燃え上がった。

喫茶店を出たのは午後3時を少し回った頃だった。外の空気は店の中より冷たかった。コートのボタンを掛け直しながら、さよ子は商店街の端に立った。人通りは少なかった。平日の午後、年配の女性が一人、エコバッグを下げてゆっくり歩いていくのが見えた。ヒサエの話は今日も容赦なかった。今日は外壁の話から始まった。5年前の400万円の話を、さよ子の方から切り出した。先週言いかけて、ヒサエに先を言われる前に話が変わってしまったから、今日こそ自分で言おうと思っていた。

隣に新しい家が立ったのは6年前の初秋だった。白い外壁の2階建てで、玄関に小さなタイルが張ってあった。引っ越してきたのは40代の夫婦と、小学校に上がる前の子供2人だった。挨拶に来た時、若い奥さんが手土産を持ってきた。それは問題ではなかった。問題はその翌日から始まった感覚だった。朝にゴミを出すたびに、自分の家の外壁が目に入った。古く、ひび割れている。日が数本入っている。隣の白い壁と並ぶと、明らかに古びて見えた。それがどんどん気になった。最初は週に一度気になる程度だったのが、3ヶ月後には毎朝気になるようになった。業者に電話したのはその年の冬だった。見積もりは320万円だった。高いと思った。でも断れなかった。断って、やっぱり安い業者に頼んで仕上がりが荒くなったら、また別の意味で恥ずかしい気がした。そのまま契約した。外壁の塗り直しと屋根の一部を吹き替えた。合計で400万円を超えた。

その話をヒサエにした。ヒサエはお茶を一口飲んでから、「一つだけ聞いていいか」と言った。「体の調子はどうか」と。さよ子は少し面食らった。外壁の話をしているのに、体の話になるとは思わなかった。「特に悪くはない」とさよ子は答えた。ヒサエの目が少し細くなった。「その400万円を使う前の年、健康診断で何か言われなかったか」とヒサエは言った。さよ子は黙った。言われていた。健康診断で骨密度が低いと言われていた。「要精密検査」という紙をもらっていた。「近くの整形外科に行ってください」と書いてあった。でも行かなかった。その時、直人の生活費が月6万円に増えたばかりで、余裕がなかった。精密検査がいくらかかるのかも分からなかったから、後回しにした。その後も精密検査には行っていなかった。ヒサエはそれを知っていたわけではなかった。でもまるで知っていたかのような問いだった。「行ってない」とさよ子はやっと言った。ヒサエは眉を動かさなかった。「外壁を塗るお金はあって、自分の体を見るお金はなかった。それがどういう意味か分かるか」とヒサエは言った。さよ子は答えられなかった。ヒサエは続けた。「外壁は人の目に映る。骨密度は誰の目にも映らない。だからあなたは外壁に400万円かけて、自分の体の精密検査には行かなかった。あなたにとって、他人の目に映るものの価値が、自分の体の価値より高かった」。その言葉は怒りではなかった。観察だった。でも観察であるからこそ、反論できなかった。

さよ子はテーブルの上の自分の手を見た。荒れていた。指の間のひび割れは、何年も前から治っていなかった。ハンドクリームを買う余裕がないわけではなかった。ただ買う気にならなかった。自分の手にお金を使うという発想が、自然に浮かんでこなかった。ヒサエが言った。「さよ子さん、あなたは自分のことを、お金をかけるに値しない人間だと思っているんじゃないか」。さよ子は顔を上げた。ヒサエの目がまっすぐにさよ子を見ていた。「値しないというより」とさよ子は言った。「自分のことは後回しでいいと思っていた」。ヒサエは首を横に振った。「それが同じことだ」と言った。「後回しにしてもいい存在というのは、価値を置いていない存在ということだ。あなたは70年間、自分を後回しにしてきた。残りの人生でそれを変えなければ、今度こそ本当に取り返しがつかなくなる」。

その言葉が、喫茶店を出た後もずっと頭の中にあった。帰り道の3キロ、さよ子はゆっくりと歩いた。商店街を抜けて住宅地に入ると、人通りがなくなった。電柱の影が道に長く伸びていた。秋の光は斜めで、影を長くした。さよ子は自分の影を踏みながら歩いた。「自分を後回しにしてきた」。その言葉は事実だった。何かを決める時、いつも誰かを先に考えた。直人のご飯は何がいいか?親戚に恥ずかしくない金額はいくらか。隣の家からどう見えるか。自分がどうしたいか、何が食べたいか、どこへ行きたいか。そういう問いを立てたことがほとんどなかった。立てても答えが出なかった。「何が食べたいか」と聞かれると困った。「何でもいい」という答えしか出てこなかった。それは謙虚さではなく、長年かけて作り上げた無関心だったのかもしれなかった。

家の門が見えた。外壁は今日も滑らかで均一だった。さよ子はその外壁の前に立って、少しの間見上げた。400万円。この塗料とこの作業とこの見た目のために400万円。そのお金で骨密度の精密検査を何百回受けられたか、計算する気にはなれなかった。玄関を開けるとテレビの音がした。直人がいた。ソファに横になって、天井に向けてスマートフォンを持ち上げていた。さよ子が入ってきても、指だけが動いていた。視線はスマートフォンの画面から外れなかった。「ただいま」とさよ子は言った。直人は返事をしなかった。さよ子はコートを脱いで台所に向かった。今日の夕食を考えながら冷蔵庫を開けた。豆腐が1丁、卵が2つ、ほうれん草が少し残っていた。これで2人分を作れる。豆腐と卵のあんかけにしようと思った。鍋に水を入れて火にかけながら、ヒサエの言葉がまた浮かんだ。骨密度の検査、受けに行かなければいけない。行くつもりはあった。ただ去年も一昨年もそう思いながら行かなかった。今年も年が明けたらと思っていた。でも年が明けた後も、気づけば半年が過ぎていた。まず電話だけでもかけてみようと思った。近所の整形外科の番号を、いつか調べていた気がした。どこにメモしたか思い出せなかった。

その時、リビングから声がした。「母さん」と直人が言った。さよ子は鍋を火にかけたまま「何」と返した。「金、5万くれ」と直人は言った。さよ子は振り返らなかった。「何に使うの」と言った。直人の声がソファの方向から続いた。「オンラインの投資講座だ。1回受けるだけで月10万くらい稼げるようになるって話で、受講料が5万かかるんだけど、1発で元は取れる」。さよ子は豆腐の袋を開けながら聞いていた。「ない」と言った。少し間があった。テレビの音がした。バラエティ番組の笑い声が大きく聞こえた。「ないはずがない」と直人は言った。声のトーンが変わっていた。さよ子は豆腐をまな板の上に置いた。包丁を持った。「本当にないよ」とさよ子は言った。「先週も言った。残りは150万で、それで残りの人生を生きていかないといけない」。

直人の足がソファから降りる音がした。床を踏む音が台所の方向に近づいてきた。さよ子は包丁を持ったまま振り返った。直人が台所の入り口に立っていた。ジャージのままだった。腕を組んではいなかった。手が体の横にぶら下がっていた。「隠してるんじゃないのか」と直人は言った。「隠していない」とさよ子は言った。直人の目が、さよ子の肩にかけた布のトートバッグに向いた。さよ子はそれに気づいた。バッグの中に財布があった。財布の中に、今日の工場の給料の残りがあった。1万円と小銭だった。それが今週の食費の全てだった。直人が一歩入ってきた。さよ子はバッグの片紐を左手で抑えた。包丁はまな板に置いた。その動作を見て、直人の顔が変わった。「なんで」と直人は言った。ただの確認みたいな声だった。「俺が盗もうとしてるとでも思ってるのか?」。思っていないとさよ子は言いたかった。でも言えなかった。

直人が手を伸ばした。バッグの持ち手を掴んだ。さよ子は片紐をきつく握った。引かれる感覚があった。体が持っていかれた。足元がタイルの上で一度滑った。左の足首をひねりそうになって、体のバランスが崩れた。直人がバッグを引いた力が、そのままさよ子の体に伝わった。さよ子の腰が流しの角にぶつかった。体が傾いた。右の膝が先に床に当たった。それから体全体が右側に崩れた。床に手がついた。硬かった。音はなかった。いや、音はあったかもしれないが、さよ子には聞こえなかった。直人は立っていた。バッグを持っていた。さよ子は床に座り込んだまま、直人の顔を見上げた。直人はバッグを開けて財布を取り出した。財布を開いた。1万円札を抜いた。小銭を見た。触れなかった。財布をバッグに戻した。バッグを床に投げた。「これだけか」と言った。声は低かった。怒りではなかった。落胆に近い声だった。直人は台所から出た。廊下を歩く音がした。玄関のドアが開いた。外に出た。ドアが閉まった。

台所に静けさが戻った。鍋の火がまだついていた。お湯が少しずつ沸き始めて、小さな泡がそこから上がっていた。さよ子は床の上でしばらく動かなかった。立ち上がろうとした。右の腰と太ももに鋭い痛みがあった。流しに手をかけて、ゆっくりと体を引き上げた。立てた。でも右足に体重をかけると、じくじくと痛んだ。立ち上がって鍋の火を止めた。それから台所の椅子を引き寄せて座った。テレビがついていた。笑い声がした。誰かが何かを言って、スタジオが湧いていた。さよ子にはその内容が聞こえなかった。床に落ちたバッグを、椅子から手を伸ばして拾った。財布を取り出した。開いた。小銭が残っていた。一枚ずつ数えた。870円だった。1万円はなかった。さよ子はしばらく財布を見ていた。怒る気力がなかった。泣く気力もなかった。ただ手の中の財布と小銭と、その合計870円を見ていた。外から車の音がした。通りを走って遠ざかっていった。

ヒサエの顔が浮かんだ。今日の午後、テーブルを挟んで向かいに座っていたヒサエの顔。声のトーンを変えずに淡々と事実を並べていたヒサエの顔。その顔が今、さよ子に何かを言おうとしていた。でも言葉は来なかった。ただ顔だけがあった。冷蔵庫の中にまだ豆腐と卵があった。食欲はなかった。でも食べなければいけないと思った。「体が資本だ」ということを、今日のヒサエも言っていた。骨密度のことを言いながら、ヒサエはそう言っていた。さよ子は椅子から立ち上がった。右足に体重をかけるとまた痛みがあった。でも立てた。鍋に火を入れ直した。一人分の夕食を作った。直人の分は作らなかった。今夜は初めて作らなかった。それが何かの決断のような気はしなかった。ただそうする気になれなかった。それだけだった。豆腐を温めて、卵を溶いてあんかけにした。椅子に座って一人で食べた。美味しいともまずいとも思わなかった。ただ飲み込んだ。食べ終わって食器を洗った。台所を片付けた。風呂に入ろうとした時、浴室に向かう廊下で右足がまた痛んだ。今夜は無理をしない方がいいと思って、足を引きずって布団に入った。

布団の中で天井を見た。直人はまだ帰っていなかった。いつか帰ってくる。それは分かっていた。今夜でなくても、明日か明後日には帰ってくる。帰ってきて、また何事もなかったような顔をするだろう。さよ子もそれに合わせるのだろう。そのことが今夜は怒りよりも疲れを感じさせた。ヒサエに電話しようかと思った。でも夜の9時を過ぎていた。こんな時間にかけるのは迷惑かもしれない。電話はしなかった。天井の木目を数えた。13本数えたところで止めた。右腰の痛みは横になっても続いていた。内出血のようなものだから、2、3日で引くだろうと思った。いや、引かないかもしれなかった。70歳の体は若い頃とは違う。骨密度が低いと言われていた。精密検査を受けていなかった。そのことが今夜初めて、単なる懸念ではなく、具体的な不安として胸に来た。明日、整形外科に電話しようと思った。電話だけでもしてみよう。それだけを思って目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。でも目を閉じた。外で風が動いた。枯れ葉が揺れる音がかすかに聞こえた。さよ子は右腰を抑えながら体を丸めた。

翌朝、さよ子は6時に起きた。右腰は昨夜より痛みが落ち着いていたが、完全には消えていなかった。布団から起き上がる時、腰を抑えながらゆっくりと体を起こした。立ち上がると、右の太ももの辺りにじくじくとした感覚があった。内出血だと思った。台所に行くと、直人はまだ帰っていなかった。玄関の靴がなかった。外泊したのかもしれなかった。どこへ行ったかは知らなかった。知ろうとしなかった。やかんに水を入れて火にかけながら、昨夜のことを静かに整理しようとした。直人に1万円を持って行かれた。床に倒れた。右腰を打った。一人で夕食を食べた。それだけだった。その出来事に、今朝は昨夜ほどの重みを感じなかった。夜の間に何かが変わったわけではなかった。ただ朝になると物事が少し遠くなる。それは70年生きてきて体が覚えた、ほとんど無意識の防衛のようなものだと思った。

お茶を入れて飲みながら、さよ子は整形外科に電話することを思い出した。引き出しを開けて、数年前にもらった健康診断の結果を探した。「要精密検査」という文字の下に、「かかりつけ医を通じて専門医への紹介を」と書いてあった。かかりつけ医は、2年前に体調を崩した時に一度だけ行ったクリニックがあった。商店街の少し先にある、古い建物のクリニックだった。さよ子は電話番号を調べて、9時になるのを待って電話した。受付の女性が出た。「先生の紹介状を書いてもらいたいのですが」と言うと、「今日の午後なら空きがあります」と言われた。さよ子は予約を入れた。電話を切って、少しの間テーブルの前に座った。受診するのが遅すぎたという気持ちがあった。3年前に言われていたのに、3年間放置していた。でも今日が昨日より遅いかどうかは、今日の自分には判断できなかった。ただ電話はした。それでいいと思うことにした。

昼過ぎに直人が帰ってきた。玄関のドアが開く音がして、廊下を歩く音がして、リビングに直人が入ってきた。さよ子はテーブルで新聞を読んでいた。直人はさよ子の顔を見た。さよ子も直人の顔を見た。何も言わなかった。二人とも。直人は台所に行って冷蔵庫を開けた。卵を取り出してフライパンに割り入れた。目玉焼きを一つ作って、皿に乗せてリビングのテーブルに来た。さよ子の向いに座って、黙って食べた。さよ子は新聞に目を戻した。昨夜のことを今ここで言うつもりはなかった。言ったところで何が変わるかを、さよ子は知っていた。直人が謝るか。謝ったとして、同じことをしないか。謝ることと繰り返さないことは別の話だと、ヒサエは言っていた。言わなかった。直人が食べて、皿を流しに置いてから部屋に戻っていった。ドアが閉まる音がした。

さよ子は午後1時に家を出た。クリニックまでは歩いて15分ほどだった。昨夜打った右腰を抑えながら歩いた。いつもより少し遅い足取りになった。途中、信号待ちをしている時、空を見た。雲が薄く広がっていて、光が均一に拡散していた。クリニックの待合室には、さよ子と同じくらいの年齢の女性が2人いた。番号票を取って椅子に座って待った。名前が呼ばれて診察室に入ると、初老の医師がカルテを見ながら言った。「骨密度の検査結果がありますか」。「3年前のものしかない」とさよ子は言った。先生は少し眉を動かした。それから何も言わずに紹介状を書き始めた。近くの総合病院の整形外科への紹介だった。「できるだけ早めに行ってください」と先生は言った。「骨密度が低いと言われていた年齢からすると、経過観察が必要ですから」。「できるだけ早め」。その言葉が帰り道の間もずっと頭に残った。ヒサエが言った言葉と重なった。「今度こそ本当に取り返しがつかなくなる」。

家に帰ると、直人の部屋からゲームの音がしていた。さよ子は台所で夕食の準備をしながら、昨夜のこと、今日のこと、それから来週のことを静かに並べて考えた。来週、整形外科に行く。検査を受ける。お金がかかる。でも、ヒサエが言っていた通り、体は後回しにしてはいけない。外壁に400万円かけて、自分の体の検査を後回しにしてきた。もうそれはしない。夕食は一人分だけ作った。昨夜に続いて、今日も。直人が食べたければ、昼のように自分で作ればいい。それがヒサエの言う「手の引き方」なのかもしれなかった。食べながら、さよ子はヒサエに電話しようかと思った。今日クリニックに行ったことを報告したかった。でも報告というより、聞いて欲しかった。ただそれだけの気持ちだった。でも夕食を食べ終えた頃、電話をかける前に疲れが出てきた。右腰の痛みはまだあった。体が重かった。昨夜もよく眠れていなかった。今日はもう休もうと思った。ヒサエへの電話は明日にしよう。布団に入って横になると、右腰を抑えながら体を丸めた。外から遠くで電車の走る音がかすかに聞こえた。直人の部屋のゲームの音はまだ続いていた。さよ子は目を閉じた。眠れるかどうかは今夜も分からなかった。でも目を閉じた。体を横にしている間だけは、足が痛くなかった。それだけでも今夜は十分だと思った。

その週の初め、さよ子とヒサエは3度目の喫茶店で向かい合った。前回から10日ほど経っていた。その間に、さよ子は整形外科の診断が出て、薬が始まった。直人にはゼロを告げた。直人はすぐには何も言わなかったが、翌日から少し態度が変わった気がした。変わったと言えるほどのことではなかったかもしれない。ただ以前より少しだけ静かになった。要求の声が来なくなった。それが続くかどうかはまだ分からなかった。

ヒサエは今日も約束の時間より少し早く来ていた。さよ子が入ると、ヒサエはコーヒーを飲んでいた。ブラックで、砂糖もミルクも入れない飲み方だった。「ヒサエさんはブラックなんですか」とさよ子は席につきながら言った。「ずっとそう」とヒサエは言った。「甘いものは体が欲しがる時だけ食べる。いつも飲んでいたら、美味しく感じなくなる」。さよ子はブレンドコーヒーを頼んだ。今日は砂糖を一つ入れてみた。いつもは何も入れなかったが、今日は少し甘くしたかった。理由は分からなかった。

ヒサエが言った。「直さんの件、その後どうだったか」。さよ子はゼロを告げた時のことを話した。直人がコーヒーを飲みながら黙っていたこと。それから部屋に戻ったこと。その後、特に何も起きていないこと。ヒサエは聞きながらカップを両手で持っていた。何かを言うでもなく、ただ聞いていた。話し終えた時、ヒサエは言った。「今のところはそれでいい。ただ、直さんがどう動くかを注意してみていなさい。今は静かでも、お金が本当になくなったと実感した時、何かが変わる可能性がある」。「変わるというのは、いい方向ですか、悪い方向ですか」とさよ子は聞いた。ヒサエは少し考えてから言った。「それは分からない。でもどちらであっても、あなたは自分の身を守る準備をしておかなければいけない」。

「身を守る準備」。その言葉がさよ子には抽象的聞こえた。「具体的にどういうことをすれば」と聞いた。ヒサエはテーブルの上で指を一本立てた。「一つ目、通帳の場所を直さんが知らない場所に移しなさい。タンスの引き出しとか、分かりやすい場所に置いておかない」。指を一本増やした。「二つ目、大切な書類。登記証明書、権利書なども同様」。指を三本目に。「三つ目、もし直さんが乱暴になりそうな気配があれば、その日は外に出ていなさい」。ヒサエは3つを頭の中で繰り返した。「乱暴」という言葉をヒサエが使った時、先日の夜のことが浮かんだ。バッグを引かれて床に転んだ夜のことが。あれを「乱暴」と呼ぶのかどうか、さよ子にはまだ決めかねていた。でもヒサエはその3つを言ったのだから、何かを察しているのかもしれなかった。

「ヒサエさん」とさよ子は言った。ヒサエは目を向けた。「先日、直人に転ばされた」とさよ子は言った。ヒサエの手の動きが止まった。「バッグを引っ張られて」とさよ子は続けた。「故意ではなかったかもしれない。でも結果的に転んで、腰を打った」。ヒサエはしばらくさよ子の顔を見ていた。その日の目に、初めてはっきりとした感情が見えた。怒りに近いものだったが、さよ子に向けた怒りではなかった。「どうして今まで言わなかったのか」とヒサエは言った。「言いにくかった」とさよ子は言った。ヒサエは一度目を閉じた。それから開いた。声を少し低くして言った。「それは転んだのではない。さよ子さん、自分に正直に言いなさい」。さよ子は黙った。ヒサエは続けた。「息子に暴力を振われたと、あなたは思っているか?」。さよ子が答えるのに少し時間がかかった。「故意ではなかったと思う」とようやく言った。「でも結果的に転んだのは本当のこと」。ヒサエはその言葉を聞いて、少し間を置いた。さよ子がそれ以上言わないのを確かめてから、静かに言った。「故意かどうかより、あなたが傷を負ったことが問題だ。そしてそれは2度と起きてはいけない。あなたの骨は今、普通より折れやすい状態にある。次に同じことが起きた時、打ち身では済まないかもしれない」。その言葉は医師の言葉と重なった。「次に転んだ時、骨折するかもしれない」という言葉と。さよ子はコーヒーカップを両手で包んだ。手のひらにカップの温かさが伝わってきた。

ヒサエは続けた。「今日から、財布は外出する時以外は、肌に離さず持ち歩きなさい。鞄に入れておくのではなく、ポケットに入れるか、体に近いところに置きなさい」。さよ子は頷いた。それからヒサエはもう一度言った。「気配があれば、外に出ていなさい」。その言葉の意味するところが、今日は先週より重く届いた。帰り道、さよ子は財布を鞄から出して、コートの内ポケットに入れた。それだけのことで、何かが少し違う気がした。小さな備えだった。でも何もしないよりは、何かをしたという感覚があった。

月曜日の朝、さよ子は5時に起きた。右腰の痛みはまだ完全には消えていなかった。3日前に転んでからずっとそこにあった。横になっていれば楽だったが、立ち上がると引きずるような感覚が戻ってきた。布団から出る時に、思わず声が出た。声を出すつもりはなかったが出た。工場に行かなければいけなかった。今月の給料日まで後5日ある。財布の中には870円しかなかった。直人が持っていった1万円の残りだった。月末の電気代の引き落としが来週ある。口座の残高を確認すると、そちらには3万円が入っていた。退職金の残りとは別の生活費用の口座だった。電気代と食費でほぼ消える額だった。工場のパート代は月末締めの翌10日払いだった。今日から10日間、今の財布の中身と口座残高でやりくりしなければいけなかった。

さよ子は台所で湯を沸かしながら、今日の朝食に何が食べられるかを考えた。冷蔵庫の中には卵が1つ、納豆が1パック、昨日の残りのご飯が少しあった。卵と納豆でご飯を食べれば、一食になった。さよ子は食事を済ませた。工場まで3キロを歩いた。腰を抑えながら歩くと、いつもより少し時間がかかった。途中、信号待ちのたびに右腰に手を当てた。抑えると少し楽だった。それでも工場には約束の10分前に着いた。更衣室でエプロンをつけていると、藤本さんが近づいてきた。「まだ痛そうな顔してるよ」と藤本さんは言った。声が心配そうだった。「少し」とさよ子は答えた。藤本さんは何か言いたそうだったが、言わなかった。「無理したらダメだよ」とだけ言った。

ベルトコンベアの前に立った。弁当箱が流れてくる。唐揚げを2切れ置く。次の箱、また2切れ。いつもと同じだった。でも腰を抑えながら立ち続けると、同じことが同じではなくなった。10分が経つと、右腰の奥にじくじくとした痛みが来た。20分が経つと、それが少しずつ広がった。1時間が経った頃、さよ子の手が止まった。弁当箱が流れてきたのに、唐揚げを置く手が一拍遅れた。次の箱も遅れた。その次の箱を流す時、指が食材に引っかかった。唐揚げが一切れ、ベルトコンベアの外に落ちた。音を立てて床に落ちた。隣に立っていたパートの女性がさよ子を見た。続いて、もう一つ落とした。今度は弁当箱ごと傾いて、中身が散らばった。ラインが一瞬止まった。

工場長の矢野が近づいてきた。矢野は30代半ばで、工場の現場を仕切っていた。細身で、表情をあまり変えない人間だった。いつも同じ速度で歩いてきて、同じ速度で話した。「黒木さん」と言った。さよ子は床の弁当箱を拾おうとして、腰に痛みが走って動きが止まった。矢野はそれを見て、少し立ち止まった。「今日は上がってください」と矢野は言った。さよ子は顔を上げた。矢野の顔を見た。感情のない顔だった。怒っているわけでも、同情しているわけでもなかった。「ラインが遅れています。今月の給料は計算して振り込みます」と言った。「来週からは来なくていいです」。さよ子はしばらく動けなかった。「来なくていい」。その言葉の意味を、頭が少し遅れて受け取った。首になったということだった。理解した時、何かを言おうとした。でも出てこなかった。矢野はすでに背を向けて、ラインの方へ戻っていた。

更衣室でエプロンを外しながら、さよ子は自分の手を見た。震えていた。寒いわけではなかった。痛いわけでもなかった。ただ手が震えていた。コートを着て、鞄を持って工場を出た。外は晴れていた。午前10時の光が明るくて、目がくらんだ。工場を出て少し歩いたところに公園があった。小さな公園で、ベンチが2つあった。さよ子はそのベンチに座った。しばらくただ座っていた。頭の中でさっきの矢野の言葉が繰り返された。「来なくていいです。来なくていいです。来なくていいです」。工場のパート代は月に約8万円だった。年金が9万8000円。合わせて約17万8000円が毎月の収入だった。それで食費も光熱費も固定資産税も払っていた。そのパート代がなくなった。年金だけになる。9万8000円。毎月の支出が約9万5000円。つまり毎月3000円しか残らない計算になる。それは余裕ではなく綱渡りだった。薬代が増えた。今は3000円でも足りない可能性があった。ベンチに座ったまま、さよ子は空を見た。雲一つない青空だった。こんなに晴れているのに、自分の状況は音を立てて崩れていた。

しばらくして、さよ子は立ち上がった。どこへ行くかは、歩きながら決まっていった。ヒサエの家だった。ヒサエの家はさよ子の家から20分ほど歩いた住宅地の中にあった。以前一度だけ来たことがあった。白い塀に囲まれた、こぢんまりとした家だった。チャイムを押した。少し待つと、インターホンからヒサエの声がした。「はい」と言った。「さよ子です」とさよ子は言った。「急に来てすみません」。少し間があってから、玄関のドアが開いた。ヒサエはエプロンをつけていた。昼前だったから、台所で何かをしていたのかもしれなかった。さよ子の顔を見て、ヒサエの目が少し細くなった。「どうしたの」とヒサエは言った。さよ子は口を開いた。「今日、工場を首になった」と言った。「腰の具合が悪くて、ラインを止めてしまって」。ヒサエはドアの内側に立ったまま、さよ子を外に立たせたまま、それを聞いた。家の中に招き入れなかった。それから言った。「それで」。さよ子は続けた。声が少し揺れた。「お金を貸して欲しい。10万円。食費も光熱費も、今月どうすればいいか分からなくて」。

ヒサエはしばらく黙っていた。ドアの枠に手をかけたまま、さよ子の顔を見ていた。その目は冷たくはなかった。でも柔らかくもなかった。ただ静かに見ていた。「さよ子さん」とヒサエは言った。「はい」とさよ子は答えた。「私が今、あなたにお金を貸したら、そのお金はどこへ行くか」とヒサエは言った。さよ子は答えられなかった。ヒサエは続けた。「生活費に使うというかもしれない。でも直さんがいれば、その一部は直さんに渡ることになる。あるいは、直さんが家にいる以上、あなたが動く理由がなくなる。私がお金を出せば、あなたは今週を乗り越えられる。でも来月は?再来月は?私がお金を出し続ければ、あなたはずっと今のままでいられる。それはあなたを助けることじゃない」。

さよ子の目がじわりと熱くなった。泣くつもりはなかった。でもヒサエの言葉が、体の中の何かに触れた。ヒサエは言った。「さよ子さん、あなたは今、本当の崖の前に立っている。お金がない。仕事がない。体が弱っている。息子が家にいる。これが現実だ。私がお金を貸して、その現実を1週間先の延ばしても、何も変わらない。変えられるのは、あなただけだ」。さよ子は唇を結んだ。涙が出そうだったが、こらえた。こらえながら、ヒサエの顔を見た。ヒサエの目には、拒絶ではなく何か別のものがあった。怒りでも、憐れみでもなかった。痛みに近い何かだった。言いたくないことを言っている人間の、静かな痛みだった。

ヒサエが言った。「社会福祉協議会に電話しなさい。区役所でも相談できる。あなたは一人でこれを抱えなくていい。でも、その一歩は私じゃなくて、あなたが踏まなければいけない」。さよ子はゆっくりと頷いた。頷くことしかできなかった。ヒサエはドアをゆっくりと閉めた。音もなく、そっと閉まった。さよ子は白い塀の前に立っていた。チャイムを押したいという気持ちはなかった。もう一度頼もうという気持ちもなかった。ヒサエが言ったことは正しかった。それが分かっていたから、何も言えなかった。正しいことを言われると、人間は沈黙するしかなかった。

来た道を引き返した。足が重かった。腰の痛みが戻っていた。歩きながら、頭の中がぼんやりとした白さで満たされていた。工場の仕事がなくなった。ヒサエにも断られた。直人は家にいる。財布には870円がある。その4つの事実が頭の中で横に並んだ。怒りは来なかった。悲しみは来なかった。ただその4つの事実がそこにあった。商店街を通り過ぎた時、スーパーの前を通った。特売の張り紙が出ていた。もやし1袋19円。納豆3パックで98円。さよ子は立ち止まって、その値段を見た。財布を開いた。870円。もやしを2袋と納豆を1パック買った。116円だった。残りは754円になった。

家に向かいながら、さよ子は区役所の場所を頭の中で確認した。バスで15分のところにある。電話でも相談できるはずだった。「社会福祉協議会」という名前をヒサエが言っていた。以前、電話番号を調べたことがあった気がした。手帳のどこかに書いてあったかもしれなかった。帰ったら探してみよう。ただそれだけを思いながら、さよ子は家への道を歩いた。空は相変わらず晴れていた。午前の光が斜めに差して、電柱の影が道に長く伸びていた。さよ子はその影の中を歩いた。日向に出ると少し温かかった。でもすぐにまた影に入った。

家の門が見えてきた。外壁は今日も滑らかだった。400万円かけて塗り直した外壁が、秋の光の中でつやつやと光っていた。さよ子はその前を通り過ぎながら、一度も顔を向けなかった。玄関の鍵を開けた。家は静かだった。直人がいるかどうかは、声をかける前には分からなかった。「ただいま」と言った。返事はなかった。さよ子は台所に向かって、買ってきたものを冷蔵庫に入れた。それから手帳を探した。古い手帳だった。数年前に買って、あまり使わないうちにそのままになっていたものだった。ページをめくると、以前書いたいくつかの電話番号が出てきた。区の社会福祉協議会の番号もあった。さよ子は携帯に打ち込んだ。発信ボタンを押す前に少し止まった。何を言えばいいかを頭の中で整理しようとした。仕事がなくなった。貯金が少ない。息子が無職で家にいる。体が悪い。何から言えばいいか分からなかった。でもヒサエの言葉を思い出した。「その一歩は、あなたが踏まなければいけない」。さよ子は発信ボタンを押した。

呼び出し音が3回なった。4回目の途中で、女性の声が出た。「お電話ありがとうございます」と言った。さよ子は少し息を吸って、話し始めた。相談員の声は穏やかだった。「このようなご相談でしょうか」と言われて、さよ子はまた少し詰まった。「どのような」と言われると、何から言えばいいか分からなかった。「えっと」とさよ子は言った。「70歳で、今日仕事を失いまして」。相談員は「はい」と言った。急かさなかった。「息子が無職で家にいて、貯金が150万円ほどしかなくて」とさよ子は続けた。「年金だけになると毎月ギリギリで、どこかに相談できる場所があるかと思って」。相談員は「そうですか」と言った。「一度窓口においでいただけますか」と続けた。「電話でもある程度お話は聞けますが、収入や支出の詳しい状況を聞いた上で、利用できる制度をご案内した方が良いかと思いますので」。「予約は取れますか」とさよ子は聞いた。「来週でしたら空きがございます」と相談員は言った。「曜日と時間帯はどちらがよろしいでしょうか?」。さよ子は手帳を開いたまま、「来週の火曜日か水曜日の午前」と答えた。予約が取れた。来週の火曜日、午前10時。電話を切って、日付を手帳に書いた。来週の火曜日。それまでの1週間を、754円と口座の残金で乗り越えなければいけなかった。でも電話した。予約が取れた。それだけのことを、今日はそれだけのことだと思うことにした。

夕方になって、直人が帰ってきた。どこかから戻ってきた気配がして、玄関のドアが開いた。リビングに入ってきた直人は、コンビニのビニール袋を下げていた。さよ子は台所で炒め物をしていた。直人は台所を通り過ぎながら、「何か作ってんの」と言った。「もやし炒め」とさよ子は答えた。直人は袋の中からカップラーメンを取り出して、シンクの前に立って湯を注いだ。自分でラーメンを作って、リビングのテーブルに座って食べ始めた。さよ子はもやしの炒め物を一人分作って、テーブルに持っていった。自分の分だけ。向かいで直人がラーメンをすすっていた。「今日、工場をやめることになった」とさよ子は言った。直人はラーメンから顔を上げた。首になったということを、今日初めて直人に伝えた。朝帰ってきた時、直人がいなかったから、そのままになっていた。直人は少し黙ってから言った。「そうか」。それだけだった。それ以上何も言わなかった。驚いた様子も、心配した様子もなかった。ただ「そうか」と言って、またラーメンをすすった。さよ子はもやし炒めを一口食べた。直人の反応が何かを示していると思った。どういう意味かは分からなかった。無関心なのか、処理しているのか、それとも何かを考えているのか。顔を見ても分からなかった。

食べ終わって、直人は袋を台所に置いて、部屋に戻っていった。食器は洗わなかった。いつも通りだった。さよ子は一人で食器を洗いながら、来週の火曜日のことを考えた。社会福祉協議会の窓口で、何を聞かれるだろうか。「収入と支出の詳しい状況を」と相談員は言っていた。通帳を持っていくべきか、年金の振込通知書も持っていくべきか。何を準備すればいいかを、今夜のうちに考えておこうと思った。食器を洗い終えて、タオルで手を拭いた。右腰はまだ残っていたが、今日の朝よりは少し楽だった。窓の外が暗くなっていた。さよ子はテーブルに戻って、封筒の裏に書いた数字をもう一度見た。年金9万8000円。月の支出約9万5000円。差し引き3000円。そこから薬代が毎月3000円かかる。つまり収支はほぼゼロになる計算だった。パートがなければ、このギリギリで生きていくしかない。直人への援助はゼロでなければ、赤字になる。分かっていた。全部、分かっていた。でも分かっていることと、覚悟が決まることは少し違った。封筒を畳んで引き出しにしまった。来週の火曜日に全部話す。専門家に聞いてもらう。それだけが今できることだった。

布団に入って、さよ子は天井を見た。直人の部屋はまだ明かりがついていた。ドアの隙間から細い光が漏れていた。70年間、この家に住んできた。夫とここで暮らして、直人をここで育てた。その家が、今、外壁だけ綺麗で、中は少しずつ朽ちていた。畳のへたりも、床の傷みも、天井の雨染みも、全部後回しにしてきた。外だけを磨いて、内側を見なかった。それは家のことだけではなかったかもしれない、とさよ子は思った。外から見える自分を守ることに力を注いで、内側を見なかった。世間体、人の目。それを守るために使ってきたお金と時間と気力。それが今、全部一緒に崩れてきていた。目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。ただ明日が来れば、また1日が始まる。それだけは確かだった。

その夜、帰宅したさよ子が玄関の電気をつけようとして、スイッチを押した。明かりがつかなかった。もう一度押した。やはりつかなかった。廊下が暗いままだった。玄関に立ったまま、さよ子はしばらく考えた。電球が切れたのかと思った。でもリビングのスイッチを押しても、台所のスイッチを押しても、何もつかなかった。家の中がどこも暗かった。ゆっくりと理解した。電気が止まっていた。料金の支払いが3ヶ月以上滞っていた。引き落としの口座に残高がなくなってから、ずっと後回しにしていた。督促の封書は来ていた。赤い字で「支払いのない場合は供給を停止します」と書いてあった。読んだが、お金がなかった。今月中に何とかしようと思っていた。その今月が終わらないうちに、止まった。

さよ子は暗い台所の中に立って、携帯の画面を光らせた。時刻は午後6時を少し過ぎていた。外はまだ完全には暗くなっていなかった。窓から薄い光が入っていた。でも夜が深まれば、その光も消える。直人はいなかった。朝から出かけていて、まだ帰っていなかった。どこへ行ったかは知らなかった。さよ子は台所の椅子を引き寄せて座った。暗い台所の中で、携帯の光だけを頼りにして、電力会社の番号を調べた。電話をかけると、自動音声が流れた。「料金のお支払いが確認できない場合は」と言って、いくつかの選択肢を案内した。オペレーターにつないでもらって、事情を話した。今すぐ払える金額がないことを、さよ子は正直に言った。オペレーターは「分割払いの相談が可能です」と言った。「ただし、少額でも本日中にお支払いいただければ、明日中に復旧できます」と言った。「いくらから」とさよ子は聞いた。「最低でも3000円以上のお支払いが確認できれば」と言われた。

さよ子は財布を開いた。携帯の光で中を照らした。お札はなかった。小銭があった。1円玉、5円玉、10円玉、100円玉。全部合わせた。2340円だった。3000円に660円足りなかった。さよ子はしばらく暗い台所で、財布を持ったまま座っていた。オペレーターはまだ電話にいた。「すみません。今日はその額が用意できなくて」とさよ子は言った。オペレーターは「では、明日以降にご連絡いただければ」と言って、丁寧に電話を切った。携帯の画面が暗くなった。台所が暗くなった。さよ子はそのまま座っていた。窓の外の薄明かりが、少しずつ消えていった。夕方から夜へ変わる時間のあの境界線が、今夜は普段より早く感じられた。暗い中に座っていると、部屋の輪郭が少しずつ消えていった。冷蔵庫がどこにあるか、シンクがどこにあるか。体が覚えているから迷わないが、目には見えなくなっていった。

さよ子はもう一度、携帯を光らせた。ヒサエに電話しようかと思った。でも指が動かなかった。何を言えばいいかが分からなかった。電気が止まった。3000円が用意できない。財布の中に2340円しかない。それをヒサエに言えば、ヒサエはまた正しいことを言うだろう。でも今夜のさよ子には、正しいことが届く場所が少し閉じていた。電話しなかった。

しばらくして、玄関のドアが開く音がした。直人が帰ってきた。廊下を歩く音がして、台所のそばで止まった。「なんで暗いんだ」と直人は言った。「電気が止まった」とさよ子は言った。携帯の光だけが頼りで、顔は見えなかった。直人は黙っていた。「お金を払えなかったから」とさよ子は続けた。「3000円あれば明日直せるけど、今財布に2340円しかない」。また沈黙があった。直人が何かを言う前に、さよ子は続けた。「社会福祉協議会に来週相談の予約を入れてある。シルバー人材センターにも登録した。整形外科にも通っている。できることはやっている。でも今夜は電気がない」。直人がため息をついた。ため息の意味が、怒りなのか、諦めなのか、別の何かなのか。暗くて顔が見えないから、読み取れなかった。「財布から」と直人は言いかけて止まった。さよ子は直人が何かを言い直そうとしているのを感じた。少しして、直人は言った。「俺も持ってないんだ。今」。さよ子はそれを聞いた。持ってない。バイトを始めると言っていたが、まだ決まっていなかった。面接を受けに行ったかどうかも、さよ子は確かめていなかった。直人の言葉を信じるかどうかではなく、ただそれが今夜の現実だった。「そうか」とさよ子は言った。

直人がまた動く気配があった。台所に入ってきて、さよ子の向かいの椅子を引いて座った。暗い中に2人がいた。携帯の光をさよ子が持っていたが、それも少しして画面が暗くなった。完全な暗闇になった。窓の外に街灯の薄い光がかすかに入っていた。それだけが光源だった。しばらくどちらも何も言わなかった。さよ子は暗闇の中で、直人の存在を感じていた。息の音が聞こえた。椅子のきしむ音が聞こえた。8年間同じ家にいて、こんな風に暗い中で向かい合ったことは一度もなかった。直人が言った。「母さん、俺、来週から工場のバイト始めることにした」。さよ子はその言葉を暗闇の中で受け取った。いつ決まったのかとは聞かなかった。本当のことかどうかも確かめなかった。ただ「そう」と言った。直人は続けた。「夜勤で、週3から。慣れたら昼のシフトに移れるかもしれない」。さよ子はまた「そう」と言った。何も言わなかった。「頑張れ」とも「良かった」とも「信じてる」とも言わなかった。ただ「そう」と言った。

暗闇の中の沈黙が続いた。直人がどこかに行こうとして、立ち上がる気配があった。でも立ち上がらなかった。また椅子に座り直した。「ロウソクあるか」と直人は言った。「押し入れの奥に」とさよ子は言った。「防災用に買ったやつがあるはず」。直人が立ち上がった。携帯の画面を光にして、廊下を歩く音がした。押し入れを開ける音がした。しばらくして戻ってきた。テーブルの上にロウソクと100円ライターが置かれた。火がついた。小さな炎だった。でも炎があると、台所の輪郭が戻ってきた。冷蔵庫の白い側面。シンクの光沢。直人の横顔。直人の横顔を、さよ子はロウソクの光の中で見た。45歳の横顔だった。若いとも言えず、老いているとも言えない顔だった。何かを考えているような顔だったが、それが何かは分からなかった。直人がロウソクを台の上に固定しながら、ぽつりと言った。「最初に仕事をやめた時、戻れると思ってた。でも戻れなかった」。さよ子は何も言わなかった。直人は続けた。「最初の1年は本当に辛かった。2年目からはもう外に出られなかった。3年目からは、出たくなくなった。自分でもそれがおかしいとは分かってた。でもどうにもできなかった」。さよ子はその言葉を、ロウソクの炎を見ながら聞いた。8年間、一度もその話を聞かなかった。いや、聞けなかった。聞けば怒る気がして、聞かなかった。でも今夜、暗い台所の中で、直人はそれを言った。「分かってたんだね」とさよ子は言った。直人は少し間を置いて、「うん」と言った。それだけだった。

ロウソクの炎が、台所の空気の動きで少し揺れた。さよ子はそれを見ながら、今夜ここで何かが少し変わった気がした、と思った。何が変わったのか、名前をつけることができなかった。でも暗い中で向かい合って、直人がそれを言った。それが今夜起きたことだった。電気はまだ来ていなかった。財布の中には2340円があった。貯金はまだ150万円あった。しかし、その150万円は固定資産税の支払いが残っていて、直人が知らないうちに部屋のローンの連帯保証人として名前を使われていたとすれば、という仮定を、さよ子はまだ確かめられていなかった。来週、社会福祉協議会で確かめようと思っていた。問題は山積みのままだった。でも今夜はロウソクの光があった。直人と暗い台所に座っていた。さよ子は炎を見ながら、今夜だけのことを考えた。今夜食べられるものは、冷蔵庫の中にあるものだけだった。電気がないからレンジは使えない。でもガスはまだ来ていた。ガスで何かを作れば、温かいものが食べられた。

さよ子は立ち上がった。ガスコンロに火をつけた。青い炎が出た。ロウソクとは違う、安定した炎だった。鍋に水を入れた。直人がロウソクを持ちながらそばに立った。「何作るの」と言った。「雑炊でも作ろうか」とさよ子は言った。「残り物のご飯と卵があるから」。直人は「そう」と言った。2人並んで、暗い台所に立った。ガスの炎が鍋の底を温めた。水が少しずつ湧いていった。ロウソクの炎とガスの炎と、2つの光の中で、今夜の夕食が作られていった。問題は何も解決していなかった。電気は止まったままだった。お金は足りなかった。仕事はまだなかった。直人が来週から本当にバイトに行くかどうかも、まだ分からなかった。何もかもが霧の中にあった。でも今夜の台所には炎があった。温かいものがあった。それが今のさよ子の全てだった。

翌朝、さよ子が目を覚ました時、電気はまだ来ていなかった。昨夜は直人と雑炊を食べて、それぞれの部屋に戻った。さよ子はロウソクを一本持って寝室に行って、布団に入るまでの間だけともして、それから消した。暗い中で目を閉じた。眠れたかどうかは分からなかった。朝になっていた。それだけだった。携帯の残量が少なくなっていた。充電ができなかった。さよ子は朝のうちに電力会社に電話した。昨夜から今朝の間に、財布の中身と引き出しの中を改めて探した。小銭を全てかき集めた。前回の計算より少し増えた。引き出しの奥に10円玉が数枚と100円玉が2枚、使い忘れていたものが出てきた。全部合わせると2580円になった。3000円にはまだ420円足りなかった。電話口のオペレーターに、「今日払えるのは2500円ほどで、残りは来週年金が入ったら払う」と言った。オペレーターは少し待ってから、「上の者に確認させてください」と言った。保留音が流れた。2分ほど待った。オペレーターが戻ってきて言った。「今回に限り、2500円のお支払いを確認できれば、本日中に復旧させていただきます」。さよ子はコンビニのATMから、口座の残高の中から2500円を引き出した。電力会社の指定口座に振り込んだ。手数料を引いて、財布の中には80円の小銭だけが残った。

午後の3時頃、電気が戻った。廊下の電球がついた時、さよ子はその光をただ見た。昨夜の暗闇と今の光。その差を目で確認した。ヒサエに電話した。今日、電気が戻ったと言った。止まっていたこと、昨夜のことも含めて、順に話した。ヒサエは黙って聞いた。話し終えると、ヒサエは言った。「直さんが『俺も持っていない』と言ったこと。それから、工場のバイトを始めるといったこと。その2つを覚えておきなさい」。「覚えておく」という意味がよく分からなくて、さよ子は「どういう意味ですか」と聞いた。ヒサエは言った。「直さんは昨夜、暗い台所で本当のことを言った。追い詰められた時、人は本音を出すことがある。あなたもそれを聞いた。その夜のことを、あなたは忘れない方がいい。直人を信じる根拠にしろということじゃない。ただ、あの夜があったということを、忘れない方がいい」。さよ子はその言葉をしばらく考えた。「忘れない方がいい」。それは怒りを持ち続けろということでもなく、許せということでもなかった。ただ「あった」ということを、そのまま持っておけということだと理解した。

それからもう1週間が経った。直人は工場のバイトに行き始めた。初日の朝、直人は6時半に起きた。昨夜と同じだった。自分でコーヒーを入れて、トーストを焼いた。出かける前に玄関で靴を履いた。「行ってくる」と言った。さよ子は「行ってらっしゃい」と言った。それだけだった。2日目も行った。3日目も行った。今週は5日全部出かけた。さよ子はそのことを確認しながら、ヒサエの言葉を思い出していた。「変わることと、変わらないことが同時に起きているのかもしれない」という言葉。直人が働き始めた。でも8年分の問題が、それで消えるわけではなかった。信用は時間をかけて積み上げるものだと、ヒサエは言っていた。

シルバー人材センターからも連絡が来た。庭入れ作業の仕事が一件。週に2日、午前中の短時間で、体への負担が少ないものだという。さよ子はすぐに引き受けた。月の収入は多くはないが、ゼロよりはいい。何よりも、動いていることがさよ子の体と頭を保っていた。社会福祉協議会の面談にも行った。木村という相談員と向かい合って、家の名義のことや、これからの生活費の計算を一緒に確認した。生活保護は持ち家があるため難しいかもしれないが、直人が収入を得れば世帯の状況が変わって、申請できる可能性もあると言われた。「急がず、状況を見ながら、また相談に来てください」と言われた。さよ子は「分かりました」と言って頭を下げた。

帰り道のバスの中で、窓の外を流れる景色を見た。何かが劇的に変わったわけではなかった。お金は相変わらず少なかった。体の痛みは少しずつ和らいでいたが、消えてはいなかった。直人がこの先も働き続けるかどうかは、まだ分からなかった。でも今日のバスの中で、さよ子は窓の外を見ながら、ただそれらをそこに置いておいた。問題はある。でも、そこに置いておく。それが70歳のさよ子が今できることの全部だった。

あの電気が止まった夜、暗い台所に座っていた時、さよ子は思った。70年間生きて、70歳になってから、こんなにも色々なことを考えるようになった。ヒサエと話す前は、考えていないのではなく、考えることを許していなかった。自分のことを、自分の恐れを、自分の怒りを、自分の疲れを。それを見ないようにすることが正しい生き方だと思っていた。でも今は違う。怖い。お金がなくなることが怖い。体が弱っていくことが怖い。先が見えないことが怖い。その怖さを、ヒサエに話せるようになった。話しても解決はしないが、話すことで怖さが少し形を持つ気がした。形を持てば、少し動かせる気がした。

さよ子は70歳だった。残りの人生がどれくらいあるかは、誰にも分からなかった。でも命があるうちに、自分のために動くということを、今は少しずつ覚えようとしていた。今日の帰り道、スーパーに寄った。特売品の棚を通り過ぎて、そのまま歩いた。少し迷ってから、冷凍のサンマを一匹、手に取った。180円だった。今日は自分のためだけに焼こうと思った。レジで払いながら、財布の中を確認した。今日は1200円あった。昨夜の80円と比べれば、ずっと多かった。それが豊かとは言えなかった。でも今日は、一匹のサンマを買える1200円があった。家に帰って、サンマを焼いた。台所に、焦げた油の香ばしい匂いが広がった。一人で食べた。美味しかった。それが今日のさよ子の全部だった。

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