午前4時、アラームが鳴る前によし子の目は覚めた。部屋はまだ真っ暗で、冬の夜明け特有の冷たい空気が布団の外から忍び込んでくる。腰を抑えながらゆっくりと体を起こすと、関節のあちこちから鈍い痛みが走ったが、今では慣れた痛みだった。枕元のテーブルには鎮痛剤のボトルと消化剤、半分乾いたウェットティッシュが散らかっていた。
スマートフォンの画面をつけると、ロック画面には病床に横たわる夫の写真が浮かび上がり、続いて病院からの通知が次々と画面を埋め尽くした。20万円、30万円。数字が目の前でちらつく。よし子は画面を消し、深いため息をついた。
クローゼットの扉を開けると、みすぼらしいエプロンと古びたジャンパーだけがぽつんとかかっていた。以前着ていたスーツはもうずっと前に処分してしまった。クローゼットの隅でほこりをかぶった古い書類かばんが目に入った。よし子は一瞬手を伸ばしかけてためらった。その中にはロシア語で書かれた古い契約書や名刺が入っていた。かつては彼女の誇りだったものだ。
「もう役に立たないものよ」
よし子は小さくつぶやきながら書類かばんを再び押し込んだ。しかし指先がかすかに震えていた。
洗面所で冷たい水で顔を洗いながら鏡と向き合うと、深く刻まれたしわと荒れた手が見えた。
「いつからこんなにふけたのかしら。昔は空港に出勤していたのに」
ふとスマートフォンに保存された古い写真を思い出した。スーツをきちんと着こなし、空港のゲート前で満面の笑みを浮かべていた若い頃の自分。よし子はその写真を見つけてしばらく眺めていた。
台所に出て冷蔵庫のドアを開けると、中はほとんど空っぽだった。漬物の容器が1つ、卵が2つ。それが全てだった。
「今日は少しでもチップが入るといいんだけど」
よし子は冷蔵庫のドアを閉め、食卓の上に置かれたエプロンを手に取った。その時、再びスマートフォンが鳴った。また病院からの請求メッセージだった。よし子はスマートフォンを伏せておき、深く息を吸い込んだ。
「病院代を払うためには今日も耐えなきゃ」
自分に言い聞かせるように言うと、よし子はエプロンの紐を腰に結んだ。
しばた弁当屋に着くと、店長が電卓をはじきながら言った。
「おばさん、今日は30人前だからちょっと忙しくなるよ」
「はい、わかりました」
よし子は頷きながら厨房に入った。隣で皿洗いをしていた若いアルバイトがスマートフォンを見ながら下打ちをした。
「こんな重いのを運んで大変じゃないですか。おばさんには思いでしょうに」
よし子は何も言わずに、お弁当の入った重いお盆を受け取った。熱いお茶を1つずつ乗せている時に指をやけどしたが、ただ息を吹きかけて冷やし、再び仕事を続けた。
重いお盆を抱え、よし子はビルに向かって歩き始めた。路地の階段を登るたびに息が荒くなった。途中、壁に手をついて一息つきながらつぶやいた。
「転ばなかっただけましだわ」
その時、後ろからがくせたちが通りすぎながらひそひそ話す声が聞こえた。
「は重そう。でもあの年でああいう仕事するんだね」
よし子は聞こえないふりをしたが、胸の片隅が冷たくなった。それでも歩みを止めなかった。
会社のビルの前に着くと、警備員のおじさんが心配そうな顔で近づいてきた。
「おばさん、そんな重いものを持ったら腰を痛めますよ」
よし子は無理に明るく笑って答えた。
「もう慣れたから大丈夫ですよ」
エレベーターに乗って上がり、会議室の前に着いた。よし子は慎重にドアをノックして言った。
「お昼をお持ちしました」
しかしその瞬間、会議室の中から普段とは違う緊迫した声が聞こえてきた。
「今日来るってこんなに急にいい。元々は来月だったじゃないか」
よし子の足が少し止まった。その会話の中で、聞き慣れた1つの単語が耳に留まった。
「ロシア」
よし子の胸がどきどきした。しかしすぐに首を振り、お盆を持って会議室のドアを開けた。
よし子は慎重に会議室のドアを開けて中に入った。テーブルの上に熱いお茶を1つずつ置きながら、彼女は習慣的に頭を下げたまま仕事をこなした。普段なら静かに出ていけばそれで終わりだったが、今日は雰囲気が違った。
その時、体を張った社員2人が慌ててドアを開けて飛び込んできた。手には分厚い書類の束を持っており、彼らは息を切らしながらテーブルの上に書類をばらまいた。
「ロシアの役員団が今日の午後3時に来るって。なんで急にそんなことに勝手に1ヶ月も前倒しにしやがって。100億円の契約なんだぞ。ますが必要だ」
会議室は一瞬にして修羅場と化した。ある社員が拳で机をどんどんと叩いた。
「今すぐ通訳が見つからなかったら俺たちは終わりだ」
別の社員は頭をかきむしりながらつぶやいた。
「今回の契約がダメになったらすぐにリストラが始まるって言ってたのに」
隅で電話を握りしめていた社員は、ほとんど泣きそうな声で懇願していた。
「今日当日の通訳は絶対に無理だなんて。どうかもう一度考えてみてください。うちの会社の損がかかってるんですよ」
よし子は廊下側に下がり、ぼんやりとその光景を眺めていた。手に持った空のお盆についた汁をゆっくりと拭きながらも、耳は自然と彼らの会話に集中していた。
「ロシア」「契約」「予定時間」
その単語が耳に突き刺さった。よし子の胸がどきどきし始めた。ふと遠い昔の記憶が蘇った。ノシビルスクの工場、夜明けまで続いた契約書の検討、気性の強いロシア人の管理者たちとの交渉。あの時もこんなに切迫していた。そしてあの時、自分はやり遂げたのだ。
その瞬間、副社長の鈴木が中途半端に立っているよし子をちらりと見て、苛立った声で言った。
「今忙しいのが見えないんですが、食事を置いたら出て行ってください。そのお盆は壁際にでも置いておいてください」
よし子は頷き、お盆を壁際に移動させた。しかし隣にいた別の社員が鼻をしかめながら一言付け加えた。
「知る物の匂いが会議室に充満するじゃないか。少しは気を聞かせてくださいよ。おばさん」
よし子の顔が瞬間的にこわばった。手に持ったお盆がかすかに揺れた。しかし彼女は何も言わなかった。ただ唇を固く結ぶだけだった。
その間にも社員たちの会話は続いていた。ある社員が自暴自棄になった表情で言った。
「しかもロシアの極東出身で気性が強いらしい。既存の通訳者たちもみんな断ってるって」
その言葉を聞いた瞬間、よし子の心臓がどきりとした。
「極東の気性だって、それなら私が一番よく知っているのに」
10年以上もそこで暮らした記憶が一気に押し寄せてきた。その独特のイントネーション、伸びる発音、独特の表現。よし子はその全てを知っていた。いや、今でも耳に鮮明に残っている。
ためらっていたよし子が勇気を出して、小さな声で口を開いた。
「あの、もしロシア語でしたら、私が少し話せますが」
瞬間、会議室の中が静まり返った。全ての視線がよし子に注がれた。しかしその視線は好奇心ではなく、呆れたもので満たされていた。
副社長の鈴木は顔をしかめ、鋭い声でよし子を遮った。
「おばさん、根性談を言ってるんですか?ここでバカなことを言わないでください」
よし子は慌てて手を振りながら言った。
「いえ、本当です。私は以前ロシアで……」
しかし鈴木は手を上げてよし子の言葉を遮り切った。
「ここは会社です。今100億円のプロジェクトがかかっている問題なんですよ。おばさんが何を知っていると言うんですか?」
隣にいた若手社員がくすくす笑いながら相槌を打った。
「僕たちの損がかかった問題の処理中なんですよ。お弁当をちゃんと運んでくれればいいですから」
別の社員も一言付け加えた。
「ロシア語、まさか『こんにちは』くらいは知ってるんじゃないですか」
周りから低い笑い声が広がった。誰かは「全く本当に」と呆れたように打ちし、誰かは首を横に振っていた。
副社長がさらに冷たく言った。
「おばさん、ここは国際貿易をしている会社です。通訳というのがそんなに甘い仕事じゃないんですよ。専門家たちもみんな断ったもの。弁当配達の方ができるとでも?」
よし子の顔が真っ赤に燃え上がった。耳まで熱くなった。もう少し声を出そうとしたが、唇が震えるだけで言葉が出なかった。
ある社員が苛立った声で付け加えた。
「食器洗いは厨房ですればいいでしょう。今時間がないので早く出て行ってください」
別の社員も相槌を打った。
「本当に忙しいのに、くだらない話で時間を無駄にしないでくださいよ。おばさん、一線を超えないでください。ここにいる社員は皆一流大学での人たちなんですから」
周りからくすくすという笑い声がさらに大きくなった。よし子は手に持ったお盆を強く握りしめた。指の関節が白くなるほどだった。
副社長が最後に断固として言った。
「ここは会社で、我々は専門職です。おばさんはお弁当をきちんと配達してくれればいい。理解しましたか?」
よし子は唇を固く結んだ。目頭が熱くなるのを感じたが、絶対に涙を見せるわけにはいかなかった。彼女は深く頭を下げ、小さく言った。
「申し訳ありませんでした」
声が震えていた。お盆を壁際に置き、廊下に出てきたよし子の手はひどく震えていた。会議室のドアを閉める瞬間、後ろから聞こえてくる声が耳を刺した。
「本当に来えるよな。弁当配達のおばさんがロシア語だって挨拶をいくつか知ってるくらいで通訳する気になったんじゃないか。はあ。最近は誰もが自分に何かできると勘違いしてるみたいだな」
低い笑い声が廊下まで聞こえてきた。よし子はその場でしばらく立ち尽くしていた。足が震えて動けなかった。廊下をゆっくりと歩きながら、よし子は拳を固く握った。爪が手のひらに食い込んだが、痛みは感じなかった。胸のどこかが崩れ落ちるような気がした。
「極東の気性」
その言葉が頭の中で何度も繰り返された。よし子は立ち止まり、しばらく目を閉じた。遠い昔のロシアでの記憶が鮮明に浮かび上がった。寒い冬、工場の中で徹夜して契約書を読んでいた日々、気性の強い完備者たちと交渉し、会社を救った瞬間。あの頃は自分は必要な人間だった。あの頃は誰かに認められる人間だった。しかし今は……。
よし子は首を振り、再び歩き始めた。エレベーターに乗って降りる間、彼女はずっとさっきの場面を思い出していた。自分を無視していた彼らのまなざし、あざ笑う笑い声、そして「おばさん、お弁当をきちんと配達してくれればいい」という言葉が胸にナイフのように突き刺さった。
一方、会議室の中では依然として混乱が続いていた。後ろの隅に座っていた末端の社員が慎重に独り言のようにつぶやいた。
「さっきのおばさん、本当に何か知ってたんじゃないかな。目つきが普通じゃなかったけど」
隣にいた先輩社員が大したことではないというように手を振って答えた。
「おいおい、誰もが一言こを挟みたくなるもんだよ。気にするな。今はそんな場合じゃないだろう」
しかし末端の社員は何か釈然としない表情で会議室のドアを見つめていた。さっき出ていったあの女性のまなざしがなぜか気になった。そのまなざしには何か違うものが宿っていたような気がした。
よし子は建物の外に出て深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たした。彼女は空を見上げ、小さくつぶやいた。
「私にも何かできたかもしれないのに」
しかしすぐに首を振った。もう過ぎたことだった。よし子は弁当屋に戻るために歩き始めた。彼女の1日はまだ終わっていない。午後にも配達が待っており、夜には病院に行かなければならなかった。しかし彼女の頭の中では、さっき聞いた「極東の気性」という言葉がずっと響いていた。そして会議室で聞いたあの言葉が胸を締めつけた。
「おばさんが何を知っていると言うんですか?」「お弁当をきちんと配達してくれればいい」
よし子は拳を固く握りしめたまま、重い足取りで歩き続けた。
よし子が建物を去ったその頃、会議室はますます混乱の渦に巻き込まれていた。会社全体がまるで災害現場のように変わっていった。廊下のあちこちで切羽詰まった声が聞こえてきた。
「通訳者のリストをもう一度作り直せ」「人脈を総動員してでも探し出せ」「大学のロシア語科の教授にも連絡してみたか」
社員たちはスマートフォンを片手にあちこちに電話をかけまくっていた。しかし、帰ってくるのは冷たい断りの言葉ばかりだった。
「本日は人員がいません」「極東の気性までカバーできるものはすでに別の予定が入っています」「当日の通訳は弊社でも困難です」
通訳会社3者が立て続けに電話を切った。4社目も同様だった。5社目はもはや電話に出なかった。廊下の片隅では、ある社員がほとんど膝をつくようにして電話で懇願していた。
「お願いしますよ。部長、今回一度だけ助けてください。本当に急な話なんです。2倍、いや3倍を支払いしますから」
しかし相手が結局電話を切ってしまうと、その社員は力なく壁に持たれて座り込んだ。手からスマートフォンが滑り落ちたが、彼はそれさえ拾うこともできず、ぼんやりと座っていた。
「だめだ。全部だめだ」
隣にいた同僚が彼の肩を叩いた。
「他のところももっと探してみよう。諦めちゃだめだ」
「もう10か所以上全部かけたよ。みんな同じことしか言わないんだ。当日通訳は不可能だって」
会議室の中では副社長鈴木の怒号が響き渡った。
「100億円の取引なのに1人も見つけられないのか。うちの会社にロシア語ができる人間は1人もいないのか」
机を拳で叩く音が廊下まで響いた。社員たちはお互いに顔を見合わせるだけで何も言えなかった。ある社員が慎重に口を開いた。
「副社長、実はうちの会社ではロシア語ができる社員を特別に採用したことがありませんでした。必要な時はいつも外部の通訳者を使っていたので」
「それを今言うのか。それなら普段からなぜ人材確保しておかなかったんだ」
副社長の声はさらに大きくなった。顔が赤く蒸気している。
「こんな大企業がロシアと100億円の契約をしながら、社内にロシア語ができる社員が1人もいないなんてことがあり得るのか。これがまともな話か」
社員たちはさらに深く頭を下げた。誰も答えなかった。
「中国語は何人もいるのに、日本語もいるのに。なぜロシア語は1人もいないんだ」
副社長は机の上の書類を掴み上げ、再び叩きつけた。手が震えていた。
「今更後悔しても仕方ないじゃないですか」
誰かが小さくつぶやいたが、副社長の耳には届かなかった。
その時、人事部の社員が慌てて走ってきた。息が切れてまともに言葉を告げられない。
「副社長、社内、社内でロシア語の受講履歴がある社員を見つけました」
「本島か。誰だ?」
会議室の全社員が同時にそちらを見た。一瞬、希望の光が見えたかのようだった。
「3年前にロシア語の基礎クラスを受講した社員がいます。営業部の佐藤健太社員です」
「早く連れて来い。今すぐだ」
人事部はその社員を半ば強制的に会議室の前に連れてきた。20代後半くらいの若い男性社員だった。彼の顔はすでに真っ白で、体はぶるぶると震えていた。
「僕は本当に基礎しか知りません。アルファベットと挨拶くらいで」
副社長が切羽詰まった様子で訪ねた。
「基礎でもいい。少しでもできるならそれでいい。どのくらいできるんだ?」
「あ、と『こんにちは』くらいです。それと数字を数えること。それだけです。本当にそれだけです」
佐藤社員の声はますます小さくなっていった。彼は首を横にぶんぶんと振った。
「でも何も知らないよりはましじゃないか」
ある社員が必死に希望を持とうとしたが、佐藤はさらに激しく反応した。
「いや、本当なんです。僕は3年前に1月期だけ受けただけです。それも出席しただけで、試験も受けてなくて、聞くだけで頭が真っ白になるんです。僕には本当に無理です」
社員の声はほとんど鳴き声に近かった。実際に目元が赤くなっていた。
「お願いしますよ。僕にそんなことさせないでください。本当に無理なんです。文章1つまともに作れません」
周りから同時にため息が漏れた。誰かは頭を抱え、誰かは天を仰いでため息をついた。
「基礎クラスを1月期だって。これで100億円の契約の通訳をしろと。完全に終わったな」「本当に終わった」
絶望的な雰囲気が廊下全体を覆った。副社長が佐藤の肩を掴んだ。
「それでもやってみよう。最善を尽くすんだ。分かったな」
「副社長、僕には本当に無理です。責任が持てません。僕が失敗したら会社が潰れてしまうじゃないですか」
佐藤はほとんど泣きながら答えた。しかし副社長は彼の方を話さなかった。
「他に方法がない。君がやるしかないんだ」
その瞬間、廊下の向こうでドンという音がした。急いで書類を持って走ってきた社員が廊下の角で転んでしまったのだ。手に持っていた書類が四方八方に散らばった。
「あ、しまった」「大丈夫か?どこか怪我はないか」「書類から拾え、早く」
社員たちがわっと駆け寄り、床に散らばった書類を拾い集めた。一方ではプリンターが故障して契約書の印刷が遅れており、もう一方では誰かがコーヒーをこぼして書類の一部が濡れてしまった。
「これどうするんだ?もう一度印刷しなきゃいけないんじゃないか」「時間がないだろう。とにかく乾いてる部分だけ使おう」「乾いてる部分だけって、ここが重要な情報なのに」「ジャージしろって言うんだ。プリンターも動かないんだぞ」
会社全体がパニック状態だった。普段は冷静な社員たちも、今では完全にパニックに陥っていた。社員たちの間で不安な噂がささやかれるように広がり始めた。
「この契約がダメになったらリストラから始まるんじゃないか」「先月からすでに赤字だったって言うしな」「今回が最後のチャンスだって言ってたのに」「このタイミングで失敗したら副社長も首らしい。上が責任を取らせるって」「俺たちも全員首になるかもしれないぞ」「チームごと吹き飛ぶかも」
その言葉が廊下を伝わって広がった。緊張感が空気を押しつぶしていた。普段は冗談を言う社員たちでさえ口を固くしていた。
ある社員がトイレから出てきて同僚に尋ねた。
「どうなった?通訳は見つかったのか?」
「基礎クラスを一き受けたやつが1人見つかったけど、それもほとんど諦め状態だよ」
「本当にそれだけ?」
「うん。それだけ。この大企業にロシア語ができる人材が1人もいないんだって。笑えるよな」
その社員は力なく笑った。笑いの中に絶望が混じっていた。
その時、隅に座っていた末端の社員が慎重に口を開いた。
「あの、さっきお弁当を運んできたおばさん、何か言おうとしてませんでしたか?」
瞬間、周りが静かになった。しかし、すぐに隣にいた先輩社員が苛立った声で確めた。
「今そんなことを考えてる場合か。しっかりしろ」
「いや、本当に何か言おうとしてたみたいだったんですけど。ロシア語ができるって」
「弁当配達のおばさんがロシア語を知ってるってありえないだろ。黙って仕事しろ」
別の社員も相槌を打った。
「そんなこと言うな。根性談がどれだけ深刻か分かってるのか。おばさんが何を知ってるって言うんだ」
末端の社員はそれ以上何も言えず口を閉じた。しかし彼の表情は依然として釈然としなかった。さっきのあの女性のまなざしが何度も頭に浮かんだ。確かに何かを訴えていた。あのまなざしには確信のようなものが宿っていた。
副社長の鈴木は会議室の中を行ったり来たりしながらイライラと時計を確認していた。すでに午後1時を過ぎている。ロシアの役員団が到着するまで2時間もなかった。
「まだ見つからないのか。一体どうなってるんだ」
「最善を尽くしております。副社長」
「最善がこれか。このようか」
副社長の声がますます高くなった。社員たちは頭を下げたまま何も言わなかった。ある社員が小さくつぶやいた。
「このままだと本当に契約がダメになるんじゃないか」
「静かにしろ。副社長に聞こえたらどうするんだ?」
時間は無常に過ぎていった。社員たちはスマートフォンを握りしめ、最後の希望を探そうとしたが、帰ってくるのは断りの言葉ばかりだった。誰も解決策を提示できなかった。会議室と廊下の空気は「今日失敗したら本当に終わりだ」という絶望感で重く沈んでいた。
その時、遠くから時計の鐘の音が鳴り響いた。午後1時30分。もう本当に時間がなかった。副社長は窓の外を見つめ、拳を固く握った。彼の額には冷や汗が流れていた。会社の運命をかけた瞬間が一刻と近づいていた。
午後3時ちょうど、会社のロビーに緊張感が漂い、あのコートを着たロシアの役員団3人が威圧的な雰囲気で中に入ってきた。彼らの靴音が大理石の床に響き、廊下にコツコツと鳴り響いた。副社長の鈴木と役員数人は急いで前に出て、腰を90度に深く曲げて挨拶をした。
「こそお越しくださいました。エルハルバル、お疲れ様でした」
しかしロシアの役員団は形式的な握手を短く交わしただけで、特に言葉もなくまっすぐ会議室に向かった。彼らの表情は固く、口元に笑みはなかった。廊下を歩いていく彼らの後ろ姿だけで、周りの社員たちは息を殺さなければならなかった。
会議室のドアが開き、ロシアの役員団が席についた。一番前に座った役員はゆっくりと会議室の中を見回し、無表情な顔で頷いた。雰囲気が冷ややかに固まっていった。隣に座った別の役員は腕時計をちらりと見て、ロシア語で短くつぶやいた。
「遅いな」
その一言で、日本側の社員たちはお互いに顔を見合わせながら席に着いた。副社長は無理に笑顔を作り、会議を始めようとした。
「では、それでは……」
しかし言葉を終える前に、ロシアの役員団が先に口を開いた。彼らは早いスピードでロシア語を話し始めた。しかもその話し方には強い地方の気性が混じっていた。標準語とは明らかに違う独特の伸びるイントネーションだった。
通訳を担当した若手社員は、最初の文章から耳が聞こえなくなったかのように呆然とした。彼の顔は一瞬で真っ白になった。玉の汗が額に浮かび始めた。彼はどもりながら、ろれつが回らない口を開いた。
「もう、申し訳ありません。もう一度ゆっくりとお願いできますでしょうか?」
ロシアの役員の1人が顔をしかめ、隣の人に向かってロシア語で短く何かを言った。声は低かったが、その口調には明らかな不満が込められていた。通訳担当の社員はその短い会話さえ聞き取れず、ただ呆然と立っているだけだった。
ロシアの役員たちの表情には、次第に「この程度の会社なのか」という失望が現れ始めた。1人は腕を組んで後ろにもたれかかり、もう1人はテーブルの上の書類を指でとんとんと叩いた。
副社長の鈴木は顔色を失い、急いで事態を収拾しようとした。
「大丈夫です。初めてなので緊張しているだけです。少しお待ちいただければ」
しかし彼の言葉の終わりはかすかに震えていた。手で机の角を強く握りしめ、必死に表情を管理していたが、すでに冷や汗が首筋を伝っていた。
会議室の後方に座っていた日本の社員たちは、小さな声でささやき始めた。
「これ、今のまま流れになるんじゃないか」「100億円が飛んだらうちの会社、ニュースに出るぞ」「本当にどうするんだこれ?」
ある社員は両手で顔を覆い、別の社員は頭を抱えていた。会議室の空気はますます沈んでいった。
ロシアの役員団は再び質問を投げかけた。今回は少しゆっくりと話したが、依然として気性が混じっていた。通訳の社員はまたしても言葉に詰まった。彼は手を上げて額の汗を拭い、ろれつが回らない口を開いた。
「あ、と、つまり、その……」
しかしまともな文章にはならなかった。ロシアの役員たちは互いに目くばせをした。そのまなざしには明らかな疑念と不審が込められていた。
結局、通訳の社員は手を下ろし、頭を抱えて言った。
「本当に申し訳ありません。ほとんど聞き取れません」
その瞬間、会議室の空気が一瞬にして凍り付いた。時計の秒針の音だけが静寂を破ってカチカチと鳴り響いた。誰も口を開けなかった。副社長は拳を固く握りしめ、目を閉じた。
ロシア側はゆっくりと目の前の書類を閉じた。そして席から少し体を後ろに引き、隣の人と短くロシア語で会話をかわした。通訳はされなかったが、そのまなざしだけで十分に意味は伝わった。
「このレベルでは契約条件を考え直さなければならないかもしれないな」
副社長鈴木の手がかすかに震えた。彼は唇を固く結び、ロシアの役員団を見つめたが、どんな言葉も発することができなかった。会議室後方の社員たちも息を殺して頭を抱えていた。誰も前に出ることができず、会議は破局寸前の静寂の中に陥っていた。100億円規模の契約が今この瞬間、崩れ去っていった。
ロシアの代表は鞄を持ち上げて膝の上に置いた。帰る準備をする動作だった。その様子を見て、副社長の顔から完全に血の気が引いた。
会議室の外の廊下では、社員たちがドアの隙間から中を覗き込み、不安な表情を浮かべていた。誰もが分かっていた。このまま帰りが終われば、会社は取り返しのつかない危機を迎えることになるということ。時間が止まったかのようだった。会議室の中の全員が身動き1つできず、ただロシアの役員団の次の行動だけを見守っていた。
その頃、よし子は昼食の食器を回収するために再び建物の中に入ろうとしていた。手には汁のしみがあちこちについたお盆が握られている。普段なら静かに食器を回収して出ていけばそれで終わりだったが、今日は建物の中の雰囲気からして尋常ではなかった。玄関を入った瞬間から空気が違った。普段は落ち着いているロビーが、今日はなぜか騒がしいのだ。社員があちこちで慌てて動き回り、スマートフォンを片手に切羽詰まった様子で通話する声が聞こえてきた。
エレベーターのドアが開くと、中に乗っていた社員2人が慌てて会話をかわしていた。
「今、会議が完全に決裂してるらしい。通訳が全然聞き取れないって」
「マジかよ。じゃあどうすんだ?」
「今、ロシアチームの表情完全に怖ってるってさ。鞄を手に取ってるのを見たやつもいるらしいぞ」
よし子は彼らの隣に静かに立ち、階数ボタンを押した。しかし耳は自然と彼らの会話に集中していた。胸がどきどきし始めた。
「これ完全に終わったな。契約が飛んだら俺たち全員首だって噂だぞ」「副社長も責任を取らされるって」「朝から顔が真っ白だったもんな」
社員たちの声はますます切迫していた。
「私が口を出すことじゃないけど、でも少しでもできることがあるかもしれないのに」
よし子の頭の中では、朝に聞いた言葉が巡っていた。「ロシア極東の気性」「100億円の契約」「通訳不可能」。その単語がずっと耳から離れなかった。
エレベーターのドアが開き、よし子はゆっくりと廊下に出た。しかし足はなぜか自然と会議室の方に向かっていた。頭ではただ食器を回収して帰ろうと思っていても、体は違う方向を選んでいた。
廊下を歩く間、よし子の心の中では葛藤が渦巻いていた。
「あんなに無視されたのに、また前に出てどうするの。また笑われるだけだわ」
しかし同時に別の声も聞こえてきた。
「でも私なら助けられるのに。このまま知らないふりをするのが正しいの?」
会議室前の廊下は修羅場だった。社員があちこちでスマートフォンを握りしめ、最後の希望を探そうと必死になっていた。
「これを解決できる奴、本当に1人もいないのかよ」「極東の気性だからさらに難しいらしい。標準のロシア語とは全然違うんだって」「じゃあどうしろって言うんだ」「本当に大学の教授にも連絡したけど、その人も気性は分からないって」
社員たちの声はますます大きくなっていた。誰かはプリンターの前で書類を慌てて書き集め、誰かは壁に持たれてため息をついていた。ある社員は床に座り込んで頭を抱えていた。
よし子はしみの乗ったお盆を静かに壁際に置いた。そしてしばらく会議室のドアの前に立った。ドアの隙間からかすかに聞こえてくるロシア語が耳に突き刺さった。そのイントネーション、その独特の伸びる発音、単語の選び方。よし子の全身に鳥肌が立った。それはよし子が過去に10年以上も暮らしたロシアの地方の村人たちの話し方だった。ノシビルスクの近く、寒い冬が長かったあの場所。そこの人々が使っていたまさにその訛りだった。
瞬間、よし子の目の前に過去の場面が走馬灯のように駆け巡った。ロシアの現地工場、古い事務所の机の上に置かれた分厚い契約書、夜明けまで続いた交渉、気性の強い現地の管理者と向き合い、丁寧に確認していた若い頃の自分。あの時もこんなに切迫していた。会社が倒産の危機にあり、契約書には罠が隠されていた。誰もその気性を聞き取れなかった。しかし自分は聞き取れたのだ。そしてあの時、自分はやり遂げたのだ。
一緒に働いていた同僚の顔も浮かんだ。雨に濡れながら工場の外で泣いていたあの同僚。契約が破断になり、会社が倒産した時、自分を恨んでいたあのまなざし。
「あの時、私がもっと早く気づいていたら、もっとはっきりと伝えていたら」
よし子は深く息を吸い込んだ。手がかすかに震えた。今の自分はただの弁当配達のおばさんだ。あっさ無視されたあのおばさん。しかし胸のどこかで、長い間しまい込んでいた何かがうめいていた。
よし子はためらいながら慎重にドアをもう少しだけ開けた。会議室が少しだけはっきりと見えた。日本の社員たちはすでに焦って書類をめくりながら、事実上、上げた状態だった。副社長は顔が真っ白になり、手が震えている。通訳を担当していた若手社員は椅子に座って頭を抱えていた。ロシアの役員団3人はテーブルの向かい側に座っていた。彼らの表情は冷たく固まっている。1人は時計を見ており、もう1人は書類を閉じていた。最後の1人は腕を組んで後ろに持たれ、何か退屈そうな表情を浮かべていた。
まさにその時、ロシアの役員の1人が隣の人に向かって短くロシア語で一言を投げかけた。よし子の耳がぴくりと動いた。その口調、そのイントネーション、そのニュアンス。よし子にとってはあまりにも馴染み深いものだった。それは内心で相手を嘲笑うような口調だった。契約を真剣に考えている人間の口調ではなかった。むしろ、すでに心の中で契約を諦めている人間の口調だった。
「この話し方、契約を破棄するつもりなんだわ」
よし子はその言葉のニュアンスを正確に察知した。10年以上もそこで暮らしながら身につけた感覚だった。単語だけでは分からない。イントネーションと表情と雰囲気で読み取る。そういう感覚。
よし子の心臓がさらに早く鼓動し始めた。このままでは会議は完全に破断になるのは明らかだった。そしてこの会社の人々は、朝自分を無視したあの人々は、その理由さえ分からないまま契約を失うことになるだろう。
もう見過ごすわけにはいかなかった。よし子は手に持ったお盆を固く握りしめた。心臓がどきどきと鳴り響いた。唇がカラカラに乾いた。しかし同時に、長い間忘れていた何かが体の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
「私が前に出るべき?また無視されたらどうしよう。また笑われるだけだわ」
よし子の頭の中は恐怖とためらいでいっぱいだった。しかし同時に、胸のどこかから別の声が聞こえてきた。
「でも私ならできる。まだできる」
10年以上も磨き上げてきたロシア語が、よし子の唇の間から慎重に漏れ出そうとしていた。よし子はしばらく目を閉じた。そしてゆっくりと息を吐いた。朝に受けた侮辱、あの全てが蘇った。
「おばさんが何を知っていると言うんですか?」「お弁当をきちんと配達してくれればいい」
その言葉が胸を刺した。しかし、同時にロシアで自分が成し遂げたことも思い出した。自分がどうしても必要とされた瞬間、誰かを助けた瞬間、契約書を正確に読み解いて会社を救ったあの瞬間。
「私ならできる。絶対にできる」
よし子は再び目を開いた。今度はまなざしが違った。ためらいではなく、決意が宿っていた。そして会議室のドアをもう少し押した。
ドアがきしむ音を立てて開いた。会議室の中の数人が首を回してよし子を見た。副社長が苛立った表情でよし子を見た。
「今忙しいのが見えないんですが。回収は後でしてください」
しかしよし子は止まらなかった。お盆を片手に持ったまま、震える声で一歩前に出た。会議室の全ての視線がよし子に注がれた。日本の社員たちの目にはいぶかしむ色が浮かび、ロシアの役員たちも首を回してよし子を見ていた。
よし子の唇がゆっくりと開かれた。そしてその中から、10年以上も眠っていたロシア語が慎重に流れ出し始めた。
運命の瞬間が近づいていた。よし子は依然として片手にお盆を持ったまま、震える声で会議室に向かってロシア語で一言を投げかけた。
「失礼ですが、先ほどのお言葉は契約を考え直すという意味ではございませんよね」
その瞬間、会議室の中の時間が止まったかのように静まり返った。誰も動かなかった。ペンを握っていた手が空中で止まり、俯いていた社員たちが1人、また1人と顔を上げた。最も近くに座っていた日本の社員の手からボールペンが滑り落ち、床に転がった。カチッ。その小さな音が静寂の中で一際大きく響いた。
全ての視線が一斉によし子に注がれた。ロシアの役員3人が同時に首を回してよし子を見た。少し前までの冷たく鋭いまなざしが、一瞬にして驚きと好奇心に変わった。
副社長の鈴木は口を開けたまま凍りついていた。目が大きく見開かれている。信じられないという表情だった。
会議室の片隅で、水をこぼす音がした。朝よし子を嘲笑したあの社員が、驚きのあまり手に持っていた水を落としてしまったのだ。水が机の上にこぼれ、書類数枚がびしょ濡れになった。
「あ、ロシア語」
その社員は慌ててティッシュを取り出して水を拭こうとしたが、手はよし子の方を指していた。周りが一瞬にして騒がしくなった。
「あのおばさん、ロシア語喋った」「本当か?」「どうして」
副社長の鈴木は席から半分立ち上がり、信じられないという表情でよし子を見つめた。彼の声は震えていた。
「な、なんだ、おばさん、今ロシア語を話したのか。本当にロシア語なのか」
よし子はもはや縮こまることはなかった。さっき無視されたあの瞬間とは全く違う姿だった。彼女はお盆を片手に持ったまま、自然なイントネーションでロシアの役員団に向かって再び口を開いた。
「私は以前ノシビルスクの近くで10年以上暮らしていました。皆様の故郷の言葉にはとても馴染みがあります。極東の訛りもです」
よし子のロシア語は流暢だった。イントネーションも自然で、発音も正確だった。何よりも、その独特の気性まで完璧に使いこなしていた。
その言葉を聞いた瞬間、ロシアの役員団の表情がぱっと明るくなった。一番年配に見える役員が席から勢いよく立ち上がりながら、嬉しそうに叫んだ。
「なんてことだ。この町で我々の言葉を知る人に会えるとは。あなたは同郷の人間だ」
隣に座っていた別の役員も笑いを浮かべた。
「我々が朝から言っていたじゃないか。ここの人々は我々の言葉を理解できないだろうと。ところが、あなたがここにいたとは」
3番目の役員が冗談めかしてロシア語で言った。
「あなた、もしかしてうちの町のあのパン屋を知っていますか?マヤサパンを焼いていて、街中を香りで包んでいたあの店ですよ。年をいたおじさんがやっていた店」
よし子は自然に微笑んで答えた。彼女の表情には余裕があった。
「ええ、知っていますよ。そのパン屋の店主さん、いつも客に冗談を言っていた方でしょう。お会計をしながらも必ず一言付け加えていましたよね。お釣りを渡しながら『これでまた明日も来てくださいね』って」
ロシアの役員たちが一斉に大笑いした。テーブルを手のひらで叩く音が会議室に響いた。彼らの顔には少し前までの冷たさが完全に消え、故郷の人に会ったかのような喜びが満ちていた。
「そうそう。まさにそのおじさんだ。今もそこでパン屋をやっていますよ。まさかこんな場所で故郷の話をすることになるとは。我々の言葉をこんなに上手に話せるなんて。あなたは本当にそこで長く暮らしていたんですね」
一番年配の役員がよし子に向かって丁寧に頭を下げた。
「失礼しました。我々はここの人々は誰も我々の言葉を理解できないだろうと思っていました。それで少し失礼な言い方をしてしまいました」
よし子は優しく微笑んで答えた。
「いえ、大丈夫ですよ。理解できます。故郷の言葉で気楽に話されるのは当然のことですから」
会議室の片隅では、日本の社員たちが口を開けたまま互いを見つめ合っていた。
「あの方、本当にロシア語ができるのか?」「あっさ弁当を配達してたあのおばさんだろう」「めちゃくちゃ流暢じゃないか」「気性までできるって」「俺たち、朝あの方に何て言った?」
会議室の隅で縮こまっていた若手の通訳社員は、口を開けたまま信じられないという表情でよし子を見つめていた。少し前まで自分が一言も聞き取れなかったその訛りを、弁当配達のおばさんが流暢に話している。しかもロシアの役員たちが笑顔で会話をかわしている。
朝よし子を嘲笑したあの社員は、顔が真っ白になり俯いていた。隣にいた同僚が彼の肩をとんとんと叩きながら、小さな声でささやいた。
「おい、お前、朝あの方に何て言ったんだ?『皿洗いでもしてろ』って言っただろう」
「黙れ。今その話をするな」
雰囲気が急激に変わると、副社長の鈴木は素早く状況を把握した。彼はよし子に向かって丁寧に頭を下げた。声には切実さが込められていた。
「お願いします。正式な通訳として会議に参加していただけませんか?会社の公式な要請です。報酬は十分にお支払いします」
後方に座っていた社員たちの間で小さなざわめきが起こった。
「あの方、一体何者なんだ?」「どうしてあんなに上手なんだ?」「俺たち完全に勘違いしてたのか」「俺たち、本当にまずいことしたな」
末端の社員が小さくつぶやいた。
「だから言ったじゃないか。あの方は何か言おうとしてたって。目つきが違ったんだって」
先輩社員が苦々しく答えた。
「俺たちが本当に間違ってたよ」
よし子はしばらくためらってから、手に持ったお盆を静かに隣のテーブルに置いた。そして慎重に口を開いた。
「でも、私は今、空の食器を回収に来ただけなので。弁当屋の店長に連絡して許可をもらえたら、その時にお手伝いします」
副社長が慌てて言った。
「もちろんです。当然連絡してください。我々が店長に直接お話ししても構いません。必要であれば何でもお手伝いします」
よし子は頷き、会議室の外に出た。廊下で見守っていた社員たちがよし子を見てひそひそと話していた。しかし今や彼らのまなざしは全く違った。少し前までの無視と嘲笑はどこへやら、驚きと好奇心、そして明らかな申し訳なさが混じっていた。
ある社員がよし子に近づき、慎重に声をかけた。
「あの、何か必要なものはありますか?お水でもお持ちしましょうか?」
別の社員もすぐに近づいてきた。
「お座りになる場所が必要でしたら、私の席を使ってください」
よし子は小さく微笑んで首を振った。
「大丈夫です。電話を少ししてくるだけですから」
よし子は廊下の隅に行き、スマートフォンを取り出した。手はまだかすかに震えていた。弁当屋の店長の番号を押し、よし子は深く息を吸い込んだ。
「もしもし、店長、私、よし子です」
電話の向こうから店長の声が聞こえた。
「おう、食器の回収は終わったのか」
「申し訳ないんですが、今配達に行った会社で急な用事ができてしまって。もし今日の午後、私が少し遅くなっても大丈夫でしょうか?」
よし子は慎重に状況を説明した。急な通訳が必要であること、会社が公式に依頼したこと。店長はしばらく沈黙してから答えた。
「昼休みも過ぎたし、そんなに急なことなら手伝ってきてやれ。うちの長年のお得意さんだ。会社が潰れちゃ困るだろ。よし子さん、腕の見せどころだぞ。頑張ってこい」
「本当にありがとうございます。店長」
「その代わり、夜の配達は必ず出てくれよ。分かったな」
「はい。もちろんです。必ず出ます」
電話を切ったよし子は、しばらく廊下の窓の外を眺めた。数時間前には無視されて追い出されたこの廊下で、今は自分が求められる人間になっている。胸の中から何か温かいものが込み上げてきた。
よし子はゆっくりと会議室のドアを開け、再び中に入った。ロシアの役員たちが嬉しそうに彼女を迎えた。
「来ましたね。やっとまともな会話ができそうだ。我々がどれだけもどかしかったか分かりますか?」
副社長は急いでよし子のための席を用意した。通訳席、少し前まで若手社員が座っていたその席だった。社員たちが急いで椅子を拭き、水を注ぎ、綺麗なノートとペンを準備した。
「こちらへどうぞ。楽にしてください。何か必要なものがあれば、いつでもおっしゃってください」
よし子はその席に静かに座った。10年ぶりに戻ってきた席だった。彼女の胸は高鳴っていた。しかし今では恐怖ではなく、期待感で高鳴っていた。
副社長が慎重に尋ねた。
「本当に大丈夫ですか?気性まで全て理解できるんですよね」
よし子は落ち着いて頷いた。
「はい。10年以上そこで暮らしていましたから。心配いりません」
会議室の日本の社員たちは依然として信じられないという表情でよし子を見つめていた。しかし今やそのまなざしには尊敬と期待が混じっていた。
会議が再び始まろうとしていた。そして今回は、まともな通訳と共に行われるのだ。
よし子が通訳席に着くと、会議室の雰囲気が一変した。社員たちはまだ半信半疑の目で見ていたが、ロシアの役員団の表情だけは明らかに明るくなっていた。
会議が再開された。ロシアの役員団が気性の混じった早いロシア語で質問を浴びせかけた。少し前までは若手の通訳社員を困惑させていた、まさにその話し方だった。しかし今回は違った。よし子は彼らの言葉を正確に理解し、自然な日本語に訳して伝えた。
「今おっしゃったのは、物流の輸送期間に関する懸念ですね。冬場の港の状況が良くないため、配送スケジュールをもう少し余裕を持って設定したいとのことです」
副社長が頷きながら答えた。
「十分に理解できます。その部分は我々も考慮できます」
よし子はその言葉を再びロシア語に正確に伝えた。あまりにも自然に交えながら、ロシアの役員たちが満足な表情で頷いた。
「やはり話が通じるとずっと楽だ。これでようやくまともな話ができる」
会議室の空気が次第に安定し始めた。副社長と社員たちの顔にも安堵の色が広がった。少し前まで絶望的だった状況が、今では希望に変わりつつあった。
会議室の後方である社員が小さくささやいた。
「うわ、本当に通訳できてる。あんなに上手な方だったのか」
隣にいた社員が答えた。
「俺たち、朝本当に大きな間違いを犯したんだよ」
会議は順調に進んだ。契約条件を1つ1つ確認しながら、双方は互いの立場を調整していった。よし子の正確な通訳のおかげで、誤解が生じる余地は全くなかった。
「今期の納品量は何トンと予想されていますか?」「弊社では500トン程度を考えています」「品質検査はどの段階で行われますか?」「出荷前の段階でまず検査し、到着後に再検査を行います」
会話は滞りなく続いた。ロシアの役員たちは故郷の人に会ったかのようにリラックスして話し、よし子はその全てを正確に伝えた。
副社長の鈴木は安堵のため息をつきながら思った。
「助かった。本当に助かった。この方がいなければ」
しかし、まさにその時だった。ロシア側が契約書のある情報を何気なく読み飛ばそうとした瞬間、よし子の表情が目に見えて硬くなった。彼女は契約書をもう一度丹念に見直した。契約書の中ほどにある小さな情報。他の人々は気にも止めずに通りすぎるような部分だった。しかしよし子の目には、それがはっきりと見えた。
「危ない。これは昔、あの工場を倒産させた手口だ」
瞬間、よし子の頭の中に過去の場面が蘇った。ロシアの現地工場。似たような情報を見落として会社が大きな損害を被ったあの日。契約が破断になり、工場の門が閉ざされたあの瞬間。泣きじゃくる現地の同僚の顔。雨が降る工場の前庭。あの時、自分がもう少し注意深く見ていれば、あんなことにはならなかったかもしれない。同僚たちが職を失うこともなかったかもしれない。
「あの時の失敗を、今回は繰り返してはならない」
よし子は現在に戻り、ロシアの役員団が互いにかわす小さな会話に耳を済ませた。彼らは日本側が聞き取れないだろうと思い、母国語で短くささやいた。
「今回も向こうがこの情報をちゃんと見なければ、我々は損をせずに抜け出せるぞ」
「ああ、静かにやりすごそう」
よし子はその隠された意図を正確に察知した。表面的には平凡に見える情報だったが、実際には後で日本側に大きな損害を押し付ける構造になっていた。
よし子はしばらくためらった。
「私が口を出したら、もしかして会議が壊れてしまうのではないか。雰囲気がこんなに良くなったのに、わざわざ水を刺すことになるのではないか」
しかし過去の後悔が再び頭をよぎった。
「あの時、沈黙したことをどれほど後悔したことか。同僚たちの涙、崩れ去る工場、自分を恨んでいたあの視線」
今回は違った。今回は見逃さないと心に誓った。
よし子は勇気を出して手を上げ、話を遮った。そして会社側に向かってはっきりとした口調で言った。
「少々お待ちください。失礼は承知ですが、この情報は再確認していただく必要があります」
会議室の中が静まり返った。全ての視線がよし子に注がれた。副社長が驚いた表情でよし子を見つめ返した。
「何か問題でも?」
よし子は契約書を指差しながら冷静に説明した。
「表面的には問題ないように見えますが、実質的には我々側に一方的な損失を押し付ける構造になっています」
「どの部分が問題なのですか?」
よし子は契約書の該当部分を指差しながら詳細に説明し始めた。
「こちらをご覧ください。配送時の責任情報が曖昧に書かれています。『やむを得ない事情による遅延』としか書かれていませんが、これでは後でロシア側の都合で配送が遅れても、全ての責任が我々側に押し付けられる可能性があります」
社員たちが急いで契約書をもう一度見始めた。副社長も書類を手に取り、念入りに確認した。彼の顔が次第に固くなっていくのが見えた。
「これは……これは大問題だ。このまま契約していたら」
副社長の声が震えた。背筋が凍るような思いだった。100億円の契約でこのような情報を見落としていたら、会社は後でとんでもない損害を被るところだった。
ある社員が書類を見て顔が真っ白になった。
「これ、俺たち普通に見過ごすところでしたね」
別の社員も頷いた。
「あの方がいなければ、大変なことになるところでした」
ロシアの役員団は一瞬戸惑った様子を見せた。しかしすぐに表情を作り直し、よし子に向かって笑顔で冗談半分の口調で言った。
「さすが我々の同郷の人間は目が鋭い。やはり誤魔化せませんな」
表向きは笑っていたが、彼らのまなざしは少し前とは違った。よし子が単なる通訳者ではないということを、今やはっきりと理解したのだ。彼女は契約書を正確に読み解くことができる専門家だった。
副社長が断固とした声で言った。
「この情報は修正が必要です。双方にとって公平な条件で再作成しなければなりません」
ロシア側の代表がしばらく沈黙してから頷いた。
「わかりました。公平に修正しましょう。あなた方の通訳者は本当に素晴らしいですね」
よし子はその言葉を日本語に訳しながら、ロシア側からの心からの賞賛を伝えた。
「ロシア側から、我々の意見を尊重するとのことです。公平な条件で再交渉をしましょう、と」
副社長は大きく安堵のため息をついた。背中に流れる冷や汗を拭いながら、よし子を見つめた。彼のまなざしには感謝と尊敬が満ちていた。
「本当にありがとうございます。我々が完全に見落とすところでした」
会議室の後方に座っていた社員たちも互いを見つめ、胸を撫で下ろした。
「ふう。本当に大変なことになるところだった」「あの方がいてくださってよかった」「俺たち、朝あの方にあんな態度を取ったのに、それでもこうして助けてくださるなんて」
あっさよし子を嘲笑したあの社員は深く俯いていた。顔が真っ赤に染まっている。恥ずかしさと申し訳なさが入り混じった表情だった。
結局、双方は該当の情報を削除し、修正する方向で交渉を再開した。よし子の鋭い指摘のおかげで、100億円規模の契約はむしろ会社にとってより有利な条件で再生される可能性が開かれた。
さらに1時間ほど交渉が続いた。よし子は双方の言葉を正確に伝えながら、時にはより良い表現を提案することもあった。
「この部分は『相互協議の上』という文言を加えられてはいかがでしょうか。そうすれば双方とも保護されます」
「品質基準は国際標準を明記する方が、後々の紛争の種を減らせます」
よし子の提案は双方にとって合理的であり、交渉はますます円滑に進んでいった。
ついに契約書の最終案が完成した。ロシア側が満足そうな表情で言った。
「素晴らしい。この条件なら我々も満足です。あなた方の通訳者のおかげで、誠実な契約が結べました」
よし子がその言葉を伝えると、副社長は満面の笑みを浮かべ、握手を求めた。
「ありがとうございます。良いパートナーになれることを願っています」
双方が握手をかわし、会議室の中には拍手が響き渡った。社員たちは安堵と喜びで互いを祝福した。
副社長の鈴木はよし子を見つめ、ゆっくりと頷いた。彼のまなざしには深い感謝が込められていた。少し前まで無視していたあの弁当配達のおばさんが、今、会社を救っているのだ。
会議室の後方に座っていた社員たちも、今ではよし子を全く違う目で見ていた。驚き、尊敬、そして深い恥ずかしさ。あっさ自分たちがどれほど失礼だったかを骨身にしみて感じていた。
よし子は静かに契約書を置きながら思った。
「今回はちゃんとやり遂げたわ。あの時の失敗を繰り返さなかった」
会議が終わり、ロシアの役員団が会議室を出る際、よし子に近づいてきた。
「本当にありがとうございました。あなたのような方にお会いできて光栄でした。故郷の人にこんな遠い場所で会えるとは」
よし子は優しく微笑んで答えた。
「私もお会いできて嬉しかったです。良い契約になりますように」
会議は成功に終わった。しかし今や会議室にいる誰もが知っていた。この場で最も重要な人物が誰であったかを。通訳席に座っている、少し前までお盆を運んでいたあの女性。まさによし子こそがその人だった。
契約が成功に終わった後、社内には静かな噂が広がり始めた。
「弁当配達のおばさんが会社を救ったんだって」「ロシア語があんなに上手だなんてね」「契約の情報から問題点まで見つけ出したらしいよ」
廊下で会う社員たちがよし子をちらりと見るようになった。誰かは小さな声でささやいた。
「あの方がそのおばさんだよ」
また誰かは誇らしげに言った。
「ロシア語を話すところ、俺その場で見てたんだぜ。本当にすごかったよ」
よし子は依然として古びたエプロンをつけ、お弁当を運んでいた。しかし今や人々のまなざしが少し変わっていた。嘲笑と軽蔑の代わりに、好奇心と尊敬が混じっていた。
数日後、副社長の鈴木がよし子を別に呼び出した。小さな会議室に2人きりで座ると、彼は慎重に尋ねた。
「ロシアでは具体的にどのようなお仕事をされていたのですか?」
よし子はしばらくためらってから、ゆっくりと口を開いた。
「貿易会社で契約実務を担当していました。ロシアの現地工場と直接取引をしながら、契約書の検討や交渉もしていました」
「では、なぜ今は……」
よし子の表情が一瞬暗くなった。
「夫が事業に失敗しまして。健康も悪化して病院に入院することになり、それで仕事をやめざるを得なくなったんです。日本に戻ってきて、また仕事を探しましたが、年齢もありますし、経歴も途切れていましたから」
鈴木はしばらく考え込んだ。
「こんな人が弁当配達をしていたとは」
彼はよし子を改めて見直すようなまなざしで見つめた。
「1つお願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい。何でしょう?」
「ロシア市場の動向に関する簡単なレポートを作成していただけませんか?正式採用の前に、我々のチームの基準でどの程度の実力なのかを一度見てみたいのです」
よし子は頷いた。
「やってみます」
その日からよし子の日常はさらに忙しくなった。昼間は相変わらず弁当屋で働き、夜は病院に行って夫の看病をした。病室のベッドの横に座り、夫の手を握って今日あった出来事を静かに話した。
「あなた、私、会社で通訳をしたのよ。ロシアの役員たちと話していたら、昔のことをたくさん思い出したわ」
意識がもうろうとしている夫だったが、よし子の声を聞くだけで慰めになっているようだった。
夜11時過ぎに家に帰ってきたよし子は、小さな食卓の前に座った。古いノートパソコンを開き、古いファイルやメモを1つずつ取り出した。画面にはロシアの経済ニュース、為替レートのグラフ、地域別の物流網に関する記事などが表示された。よし子は過去の経験と現在のデータを結びつけながら、現地の感覚が生きているレポートを書き始めた。
キーボードを叩く指は最初はぎこちなかったが、次第に慣れたリズムを取り戻していった。ふと手を止めて窓の外を眺めた。
「こうして仕事をするのは、どれくらいぶりかしら」
指がキーボードの上でかすかに震えた。しかしよし子は再び画面に集中し、タイピングを続けた。時計は午前2時を指していたが、彼女は止まらなかった。
夜が明ける頃になって、ようやくレポートが完成した。よし子は完成した文書を印刷してファイルに挟み、震える声でつぶやいた。
「まだ完全には錆びついていなかったわね」
数日後、副社長の鈴木がそのレポートを読み、驚愕した。隣にいた課長を急いで呼び、レポートを渡した。
「これを見てください」
課長がレポートを読むと、目を大きく見開いた。
「これは、うちのチームが1ヶ月会議してやっと出てくるレベルですよ」
「そうなんです。実務経験が体に染みついている。本で学んだ人間ではありません」
会社は迅速に決定を下した。よし子を国際貿易チームの主任として正式に採用することにしたのだ。
鈴木が直接よし子に電話をかけた。
「よし子さん、正式に弊社に入社していただきたいのです。国際貿易チームの主任として採用したいと考えています」
電話の向こうでしばらく沈黙が流れた。そして震える声が聞こえてきた。
「私が机の前にまた座れる日が来るなんて」
よし子はスマートフォンを握る手が震えるのを感じた。目元が熱く赤くなった。
初出勤の朝、よし子はクローゼットの奥にしまい込んでいたスーツを取り出した。何年ぶりに着るスーツだろう。サイズが合わず、少し困ったが、なんとかボタンを止めることができた。鏡の前に立ち、自分を見つめたよし子は、気恥ずかしく笑ってつぶやいた。
「おっかなびっくりの新人みたいね」
会社の正門を入るよし子の手には、今度はお盆ではなく書類かばんが握られていた。警備員のおじさんが嬉しそうに挨拶した。
「あ、これからはこちらにお勤めですか?」
よし子は明るく笑って答えた。
「はい。これからは国際貿易チームのオフィスに」
オフィスに入ると、机の上には「よし子、主任」と書かれた新しい名札が置かれていた。よし子はその名札を手で撫でた。一度、二度、三度。目元が再び赤くなった。
同僚たちが拍手でよし子を迎えた。ある社員が冗談めかして言った。
「おばさんが配達してくれたお弁当は、もう終わりですね」
すると別の社員が笑いながら相槌を打った。
「これからは主任も一緒に食べればいいんですよ」
よし子は笑って頷いた。しかし心の中では夢のようだと繰り返していた。新しい机に座ったよし子は、しばらく窓の外を眺めた。その下には路地が見えた。数日前までお盆を運んで、あの道を歩いていたのだ。しかし今は、ここの机の前に座っている。よし子は名札をもう一度見つめ、静かに微笑んだ。人生の第2章が始まろうとしていた。
仕事に慣れてきたある日、よし子は海外取引の書類を整理していて、奇妙なパターンを発見した。特定の取引ごとに手数料の項目が異常に膨れ上がっているのだ。最初は単なるミスだと思った。
「まさか、これはただのミスよね」
しかし数ヶ月分の書類を集めて比較してみると、同じ口座に振り込まれる金額が繰り返し目についた。よし子は何度も数字を再確認し、頭を抱えた。
「まさか、まさか、そんなはずは」
しかし、過去のロシアでの経験からすると、これは明白な横領の構造に近いものだった。金額も馬鹿にならない。数年にわたって累積された金額は数千万円に達していた。
よし子はさらに深く調査を始めた。取引履歴を1つ1つ追跡し、口座の流れを追っていった。調べれば調べるほど確信は強まっていった。これは単なるミスではなかった。
昼休み、同僚の社員がよし子の隣に慎重に近づき、小さな声で言った。
「主任、この会社に長く務めている人はみんな知ってるんですよ。副社長の取引に関しては、あまり深入りしない方がいいって」
よし子は戸惑って尋ねた。
「どういう意味ですか?みんな知ってるって?」
同僚は周りを見回し、さらに声を潜めた。
「見てみぬふりをするんです。それがこの会社で生き残る方法なんですよ。以前、ある先輩がそれを指摘して、結局会社を辞めさせられました」
「じゃあ、みんな知っていながら、大きな声で言わないでください、と」
「主任も気をつけてくださいね」
同僚はそれ以上何も言わずに席を立った。その後ろ姿を見ながら、よし子は胸が苦しくなるのを感じた。
その夜、夫が入院している病院から帰った後、よし子は家の食卓に書類を広げ、1つ1つ照合をした。口座の流れ、日付、金額。全てが正確に一致した。
「これは確実だわ。これは明白な不正だ」
数日後、よし子は勇気を出して副社長の鈴木を直接訪ねた。副社長室のドアをノックする手が震えた。
「どうぞ」
よし子は深く息を吸って中に入った。鈴木は机に座って書類を見ていた。
「よし子主任、何か用かね」
「副社長、お話ししたいことがありまして。もし少し時間よろしいでしょうか?」
鈴木は時計を見て頷いた。
「今は時間がある。何だね」
よし子は持ってきた書類を慎重に机の上に置いた。
「海外取引の書類を整理していて、少しおかしな部分を見つけました」
鈴木の表情がかすかに変わった。しかしすぐに無表情な顔に戻った。
「おかしな部分?例えば」
「手数料の項目が異常に膨れ上がっているようなのです。そして同じ口座に繰り返し……」
よし子が話を続けようとした瞬間、鈴木は手を上げて話を遮った。
「よし子主任、ここで働き始めてどれくらいになる?」
「3ヶ月ほどです」
「3ヶ月か。会社の仕組みはまだよくわからないだろう。こういう取引は複雑な手続きがあるから、見た目にはおかしく見えることもある」
「しかし、私が数ヶ月分を比較してみたところ、これは明らかに……」
鈴木は席から立ち上がった。窓際まで歩いていくと、振り返ってよし子を見つめた。まなざしが冷たく変わっていた。
「よし子主任、正直に言ってもらおうか。何をしようとしている?」
よし子は戸惑ったが、冷静に答えた。
「私はただ、これが間違っていると思いまして。今ならまだ正せると……」
「正す?」
鈴木は嘲笑うように笑った。
「よし子主任、本当に純粋だな。だが、会社というものはそんなに単純な場所じゃないんだよ」
彼はよし子にゆっくりと近づいてきた。距離が縮まるにつれて、よし子は緊張を感じた。
「今、私が何をしていると思っているんだ?まさか横領でもしているとでも思っているのか?」
よし子は唇を噛みしめた。言いたかったが、声が出なかった。
鈴木は小さな会議室のドアを閉めながら言った。
「よし子主任、ちょっとここに座りなさい。真剣に話をする必要がある」
2人は小さな会議室で向かい合って座った。鈴木の顔から笑みが完全に消えていた。
「最近、あまりにも数字にばかり固執しているんじゃないか。会社の仕組みは、見てみぬふりをする方がお互いにとって楽な時もあるんだよ」
「しかし副社長、これは明らかに間違って……」
「間違っているだと?」
鈴木の声が低く響いた。
「よし子主任、正直に言おう。私がいなければ、どうなっていたと思う?今でもお盆を運んで階段を登り下りしていただろう。恩は少しは感じるべきじゃないか」
よし子は一瞬言葉に詰まった。その言葉が胸を刺した。事実だったから。
「そう、それも分かっています。副社長のおかげでここに座っていることも」
「それならいい。もうその書類のことは忘れなさい。ただ業務に忠実に励めばいい」
鈴木が席から立ち上がろうとした瞬間、よし子は再び口を開いた。
「副社長、それでもこれはダメです。今ならまだ正せば、もっと大きな問題になる前に」
鈴木の顔が硬直した。
「何と言った?」
「どうか副社長ご自身で正してください。私がお手伝いします。今ならまだ……」
「よし子主任」
鈴木がよし子を遮った。声が冷たく冷え切っていた。
「今、私に忠告しているのか?弁当配達をしていた人間が」
その言葉によし子の顔がこわばった。鈴木は書類の束を机の上にばさりと叩きつけて言った。
「ご主人の病院代、月にいくらかかっている?30万円か、40万円か。ここで働き続けたいなら、賢く行動すべきだ」
よし子の手がかすかに震えた。
「脅迫ですか?」
「脅迫?これは忠告だ。現実的な忠告だよ」
鈴木はよし子にさらに近づいた。
「よし子主任、もう一度だけ言っておく。この件に関しては、口を閉ざしている方がお互いのためだ。分かったか?」
よし子は顔を上げて鈴木をまっすぐに見つめた。
「副社長のおかげでここに座っていることは事実です。しかし、間違っていると分かっていながら見てみぬふりをする方が、もっと難しいです」
「そんな正義感では、この業界で長くは生き残れないぞ」
「続きはごもっともです。以前にも、よし子主任のような人間がいたよ。正義感に燃えてあれこれと手を出して、結局会社を辞めていった。何も変わらなかった。その人間だけが損をしたんだ」
よし子は唇を固く結んだ。
「それでも、それでもこれはダメです」
「ダメだと?」
鈴木の声がますます高くなった。
「いいだろう。それなら、よし子主任はどうするつもりだ?誰に話すんだ?証拠でもあるのか?」
よし子は答えられなかった。
「まさか、その書類で何かができるとでも思っているのか?あれは私の承認の下で進められた正式な取引だ。問題になることは何もない」
鈴木は会議室のドアを開けながら、最後に言った。
「よし子主任、最後の警告だ。無駄なことに時間を費やさず、与えられた業務だけをしっかりやりなさい。それが皆のためだ」
ドアが閉まった。よし子はその場にしばらく座っていた。手が震え、胸が苦しくなった。
その夜、よし子は病院に立ち寄った。夫のベッドの横に座り、今日あった出来事を慎重に話した。
「あなた、私、今どうすればいいのか分からないの」
意識がもうろうとしている夫だったが、よし子の手を強く握り返してくれた。その小さな手のぬくもりから、よし子は何かを感じ取った。夫も分かっているのだ。妻がどんな人間であるかを。
よし子は涙をこらえながらつぶやいた。
「私、何をすればいいのかしら。副社長の言う通り、ただ見てみぬふりをするのが正しいのかしら」
病院の廊下の椅子に1人で座り、よし子は目を閉じた。
「私さえ黙っていれば、この人の治療は続けられるのに。私が職を失ったら、病院はどうするの?」
その誘惑が心の奥深くに忍び寄った。しかし同時に、ロシアでの記憶が蘇った。似たような不正に目をつぶった結果、会社が倒産し、同僚たちが路頭に迷ったあの日。雨が降る工場の前で、同僚が泣きながら言ったあの言葉が耳元で鮮明に響いた。
「なぜ誰も止めなかったんですか?私たちみんな知っていたじゃないですか。なぜ誰も声を上げなかったんですか?」
その時、よし子は何も言えなかった。そして会社は倒産した。その後悔が今も胸に残っている。
「今回は、今回は違うようにしなければ。あの時の失敗を繰り返してはならない」
よし子は心を決めた。家に帰り、食卓の上に全ての資料を広げ、口座の流れと日付をまとめた不正の証拠ファイルを作り始めた。1つ1つ証拠を集め、確認し、整理した。夜が更けていった。時計は午前0時を過ぎている。しかしよし子は止まらなかった。
その頃、鈴木はよし子の動きを予感したかのように、夜遅くオフィスに1人で残っていた。文書保管庫から書類をいくつか取り出し、鞄に入れた。
「これで十分だろう。証拠がなければ、何もできない」
しかし、すでに手遅れだった。よし子は確定的な資料をすでに別にコピーしておいたのだ。数日前から少しずつ慎重に準備してきたものだった。
数日間悩み抜いた末に、よし子は最終的な決断を下した。会社の本社の監査チームに匿名で資料を送ることにしたのだ。パソコンの前に座り、ファイルを添付し、送信ボタンの上にマウスを置いた。指が震えた。しばらくためらってから、よし子は目を閉じてボタンをクリックした。
「ファイル送信完了」
画面にそのメッセージが表示された。よし子はパソコンの画面をしばらく見つめ、深いため息をついた。
「ごめんなさい、副社長。でも、手遅れになる前に正さなければならないと思ったんです。私ができる最後の恩返しは、今これを止めることです」
その夜、よし子は眠れなかった。天井を見つめながら、何度も自問自答した。
「私は正しいことをしたのかしら。もしかして会社がもっと大変なことになるんじゃないか。私が職を失ったら、夫の病院は……」
不安と恐怖が押し寄せてきた。しかし心の片隅では確信があった。
「これでいいんだ。これが正しい道なんだ。過去にできなかったこと、今回はやり遂げた」
窓の外が白々と明けてきた。よし子はゆっくりと目を閉じた。もう後戻りはできない川を渡った。これから何が起こるか分からなかったが、よし子は自分の選択を後悔しないと心に決めた。
数日後、会社に本社の監査チームが電撃的に投入された。普段とは違うスーツを着こなした知らぬ人物たちが会社のあちこちを回り、書類を要求し、社員を個別に面談し始めた。廊下はあっという間に緊張感で満たされた。
社員たちは互いに顔を見合わせ、小さな声でささやいた。
「何事だ?」「なんで監査チームが急に」「本社から直接来たらしいぞ」「何か大きな問題が起こったんじゃないか」「これ、リストラの始まりじゃないだろうな」
よし子は席に座って静かに業務をこなしていた。しかし胸のどきどきを止めることはできなかった。指先が冷たく冷えていく。パソコンの画面を見ていたが、文字がまともに入ってこなかった。
「私がしたことは正しかったのかしら。もしかして会社がもっと大変なことになるんじゃないか」
副社長の鈴木は最初は平然とした態度で監査チームに対応をしていた。会議室から出てきて、社員たちに余裕の笑みまで見せていた。しかし時間が経つにつれて、彼の表情は次第に固くなっていった。
2日目、監査チームが彼が処分したと思っていた書類のコピーを取り出した瞬間、鈴木の顔が真っ白になった。彼の手がかすかに震えた。
「これは……どうして」
「副社長、この書類について少しご説明いただけますか?」
監査チーム長の冷静だが断固とした声が会議室に響いた。
数日後、全社員が集められた会議室で中間発表が行われた。監査長が厳粛な表情で口を開いた。
「数年にわたって続いた海外取引における横領、背任の疑いが明白です。関連する証拠資料は十分に確保されており、本件については捜査機関に通報する予定です」
「もしこの問題がさらに大きくなっていたら、会社全体が法的責任を問われる可能性もありました」
社内に大きなため息と衝撃のざわめきが広がった。社員たちは互いを見つめ、信じられないという表情を浮かべた。
「副社長がそんなこと」「何年もずっと続いていたって」「会社が危ないところだったんだ」
監査チーム長が再び口を開いた。
「幸いにも内部からの通報により早期に発見されたため、会社はより大きな被害を防ぐことができました。今回の件を通じて、会社はむしろ透明性を確保することになり、今後より健全な組織として前進することができるでしょう」
会議が終わり、鈴木が会議室の外に出てきた瞬間だった。廊下を通りかかったよし子と目が合った。鈴木はしばらく足を止め、よし子を見つめた。最初は裏切られたという感情が彼のまなざしに宿っていた。しかしすぐにそのまなざしは変わった。困惑、後悔、そして認める気持ち。複雑な感情が駆け巡った。
鈴木はゆっくりとよし子に近づいてきた。周りの社員たちが息を殺して見守っている。
「よし子主任」
鈴木の声は低く震えていた。よし子はゆっくりと顔を上げて彼を見た。
「私が判断を誤ったようです」
よし子は驚いて彼を見つめた。鈴木の目元が赤くなっていた。
「最初は腹が立ちました。裏切られたと思った。しかし監査チームの話を聞いてみると、あなたが会社を救ったのだと分かりました。2度も」
鈴木はしばらく言葉を止め、深く息を吸い込んだ。
「1度目はロシアの契約の時だ。あなたがいなければ、100億円の契約も飛んでいたでしょう。そして今回は、私の過ちで会社全体が法的な問題に巻き込まれるところだったのを、あなたが止めてくれた」
よし子は胸が詰まるのを感じた。鈴木は言葉を続けた。
「最初は理解できなかった。私があなたをここに座らせてやったのに、なぜ私にこんなことをするのかと。しかし今なら分かります。あなたは私を攻撃したのではなく、会社を守ろうとしていたのですね。そして結果的には、私をより大きな犯罪から守ってくれた」
鈴木の声がますます震えた。
「もっと遅かったら、私は取り返しのつかない犯罪者になっていたでしょう。今、正す機会を与えてくれたのですね。ありがとうございます。よし子主任。あなたこそが、この会社の真の柱です」
よし子の目にも涙が浮かんだ。
「副社長、私があなたを軽んじてしか見ていなかったことが恥ずかしい。あなたの経験と勇気がこの会社を救った。申し訳なかった。そして、本当にありがとう」
鈴木は深く頭を下げた。周りにいた社員たちもその姿を見て粛然となった。よし子はゆっくりと頭を下げた。目は重かったが、同時にすっきりとした気持ちだった。
鈴木は顔を上げ、最後に一度よし子を見つめた後、エレベーターの方へ歩いて行った。
結局、鈴木副社長は役職を解任され、捜査機関の正式な調査対象となった。エレベーターの前で彼とすれ違う社員たち、一部は顔を背け、一部は苦々しい表情で短く挨拶をかわした。
よし子は席に座って窓の外を眺めた。
「副社長、私がしたことは正しかったようです。会社も副社長も守ることができて良かったです」
目元が赤くなった。涙が浮かんだが、今回は後悔ではなく安堵の涙だった。
しばらくして、社長と人事部長がよし子を呼び出した。社長は心からの表情で言った。
「匿名の通報がなければ、会社はもっと大きな危機に直面していました。法的責任まで問われるところだった。よし子主任の勇気と実務能力を高く評価し、国際貿易顧問の職を提案したいと考えています」
よし子はしばらく沈黙した。そして慎重に微笑んで言った。
「私のような年寄りも必要とされるのですね。おお、私の年齢ではなく、私が生きてきた経験の重みが認められる時代が来たのかもしれませんね」
社長は温かく笑って答えた。
「よし子顧問、これからよろしくお願いします。顧問がいてくださったおかげで、我が社は2度も危機を乗り越えました。本当にありがとうございます」
その後、よし子は新入社員を対象に、ロシアのビジネスや市場リスクについて講義をすることになった。新入社員たちの間では「実践経験が生きているレジェンド」というあだ名がついた。
講義が終わったある日、1人の新入社員がよし子に慎重に近づいてきた。
「顧問、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ。何かしら」
新入社員はしばらくためらってから口を開いた。
「私の父が最近早期退職しまして。50代半ばなのですが、毎日家にいるだけで無気力になっているようで心配なんです」
よし子は頷きながら彼の話を聞いた。
「父のような人間も、顧問のようにまたやり直せるでしょうか。年だからと諦めているようなんです」
よし子は温かく笑って答えた。
「できますよ。50代ならまだお若いじゃないですか。大切なのは諦めない心です。私も60を過ぎてお盆を運んで弁当配達をしていたところから、ここまで来たんですから。遅いなんてことはありませんよ」
新入社員の顔が明るくなった。
「本当ですか?じゃあ、父に顧問の話を聞かせてもいいですか?」
「もちろんです。お父様に勇気を出すように伝えてあげてください。経験は決して無駄にはなりませんから」
新入社員は満面の笑みを浮かべ、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます。顧問。家に帰ったらすぐに父に話します」
彼は希望に満ちた表情で戻っていった。よし子はその後ろ姿を見つめ、小さく微笑んだ。
ある日の昼休み、社員食堂で食事をしていたよし子は、大窓の外を眺めた。その下には路地が見えた。以前、お盆を運んで立っていたまさにその場所だった。その時と今の違いといえば、今では頭の上のお盆の代わりに、胸に「国際貿易顧問 よし子」と書かれた社員証を下げていることだけだった。
夕方、よし子は病院に立ち寄った。夫のベッドの横に座り、今日あった出来事を聞かせた。
「あなた、私、顧問になったのよ。顧問。信じられる?副社長も最後には感謝してくれたわ。私が会社を2度も救ったんだって」
意識がもうろうとしている夫だったが、よし子の手を強く握り返してくれた。その小さな反応によし子の目元に涙が浮かんだ。
「私たち、まだ終わったわけじゃないのよ。少し遅くなっただけ。あなたの治療費ももう心配しなくていいの。私たち、またやり直せるわ」
夫の目元にも涙が浮かんだ。2人は言葉もなく、互いの手を固く握り合っていた。
夜になり、病院を出たよし子は、会社のビルの前をゆっくりと通りすぎた。足を止め、一度振り返った。建物の中では明かりがぽつぽつと灯っていた。夕日がよし子の肩を温かく照らしていた。
よし子は心の中で繰り返した。
「遅く始めても大丈夫。大切なのは諦めない心。そして正しいことをする勇気」
鞄の中から古い名刺を1枚取り出した。「よし子 国際貿易実務担当」と書かれた古びた名刺だった。ロシアで働いていた頃に作った名刺だ。よし子はその名刺を指で撫でながら、明るく笑った。
「もう新しい名刺を作らなければならないようです」
「国際貿易顧問」と書かれた彼女の第2の人生が、今本当に始まろうとしていた。夕日の中を歩いていくよし子の足取りは、もはや重くはなかった。むしろ軽やかだった。お盆を運んで階段を登っていたあの頃とは違い、今では堂々と前を見つめて歩くことができる。無視されていたあの弁当配達のおばさんではない。今では会社を2度も救った、経験の重みが認められる専門家だった。
よし子はバス停に向かいながら空を見上げた。雲の間から夕焼けが美しく染まっていく。人生は終わっていなかった。60という年齢も、弁当配達という仕事も、何ひとつ彼女を止めることはできなかった。ただ新しい扉が開かれただけだった。そして、その新しい扉はよし子自身が作り出したものだった。



