「先生、手術ができなくても、先生は先生ですよね」――十四歳の少年にそう言われた時、俺は何も言えなかった。天才外科医と呼ばれた右手は、事故で二度とメスを握れなくなった。病院を追われるように去り、リハビリで豆すら掴めない日々。そんな俺に毎月届く、差出人不明の花束。カードには「あなたの手は確かに命を救いました」と書かれていた。誰が、なぜ送ってくるのか。そして、その答えを知った時、俺の人生はもう一度…

「先生、手術ができなくても、先生は先生ですよね」――十四歳の少年にそう言われた時、俺は何も言えなかった。天才外科医と呼ばれた右手は、事故で二度とメスを握れなくなった。病院を追われるように去り、リハビリで豆すら掴めない日々。そんな俺に毎月届く、差出人不明の花束。カードには「あなたの手は確かに命を救いました」と書かれていた。誰が、なぜ送ってくるのか。そして、その答えを知った時、俺の人生はもう一度...

手術が終わり、振り返ると下部部長の黒川誠が立っていた。

「相変わらず見事な手際だな、鈴木。お前の手は本当に病院の宝だ」

「いえ、チームのおかげですよ。一人じゃ何もできません」

「謙遜するな。今日の症例、他の誰にも真似できなかった。お前だから任せた」

黒川は合理主義者で、無駄な褒め言葉を口にしない男だ。その黒川が、俺にだけは時折こうして本音をもらす。悪い気はしなかった。

俺の名前は鈴木理馬。39歳。20代の頃から天才と呼ばれてきた。最初は嬉しかった。やがてその言葉は重荷にもなった。それでも俺はメスを握ることをやめなかった。これが俺でいられる場所だったからだ。

更衣室でスクラブを脱ぎながら、鏡の中の自分を見た。目の下にうっすらと隈がある。昨夜も緊急で呼び出され、ほとんど眠っていない。携帯が震えた。父からのメッセージだった。「体に気をつけろ」。ただそれだけ。不器用な父らしい。俺は短く「了解」とだけ返して画面を閉じた。

病院の廊下を歩きながら、次の症例のことを考えていた。来週には別の難手術が控えている。頭の中で何度も手順を組み立てる。休む暇など欲しいとも思わなかった。それが俺の人生だった。

その夜のことを、俺はあまりよく覚えていない。夜明け前の帰り道、信号待ちで止まっていた俺の車に、居眠り運転のトラックが追突した。そう後で警察から聞いた。俺の記憶は、衝撃音とハンドルに手を伸ばした感触までで途切れている。

目を覚ましたのは、自分の務める病院のベッドの上だった。白い天井が見える。そして右手に違和感があった。動かそうとしても、思うように指が動かない。

診察したのは神経内科の同僚だった。彼は淡々と検査結果を読み上げた。

「橈骨神経と正中神経に損傷があります。リハビリは可能ですが、精密な動作の回復は正直難しいかと」

「執刀はできますか?」

「鈴木先生、正直に申し上げます。今のレベルの手術を続けるのは困難だと思います」

俺は何も言わず、ただ自分の右手を見つめた。昨日まで何百という命を救ってきた手だ。それが今、ペットボトルの蓋一つまともに開けられない。

その夜、黒川が病室を訪ねてきた。椅子に座らず、ベッドの脇に立ったまましばらく黙っていた。

「鈴木、辛いことを言うようだが聞いてくれ」

「部長、分かってます。続けてください」

「外科の現場にお前を戻すことはできない。これは個人の感情じゃない。患者の命を預かる以上、リスクのある手は使えない」

「ええ、その通りだと思います」

「研修医や指導としての道もある。考えてみてくれ」

黒川の言葉は間違っていなかった。合理主義者の彼が合理的な判断を下しただけだ。俺自身が同じ立場なら、同じことを言うだろう。黒川が出ていった後、俺は窓の外を見た。病院の駐車場の明かりがぼんやりと滲んで見える。

俺は自分の右手を左手で握った。感覚はある。熱さも冷たさも分かる。ただ、メスを握る指の繊細な動きだけがもう戻らない。

父が見舞いに来たのはその翌日だった。父は何も言わずベッドの脇に座った。持ってきたりんごを、丁寧に皮をむいてくれた。父も年を取ったと思った。皮をむく手が少し震えていた。

「理馬、無理せんで」

「親父、すまん。心配かけて」

「こがなこと、気にせんでええ」

それきり父は黙って、りんごを切って俺の前に置いた。俺はそれを左手で取り、口に運んだ。甘さが喉に染みた。

退院の日は晴れていた。荷物をまとめていると、看護師が病室に入ってきた。両手に大きな花束を抱えている。白いバラと青いバラが組み合わされた上品な花束だった。

「鈴木先生、これ、受付に届いていました」

「誰から?」

「それが、差出人の名前がないんです。カードだけ添えられていて」

俺はカードを受け取った。万年筆で書かれた几帳面な字だった。

「あなたの手は確かに命を救いました。どうかそのことを忘れないでください」

俺はしばらくその文字を見つめていた。心当たりはあるようでなかった。これまで執刀した患者は数えきれない。誰の言葉なのか見当もつかない。

「ありがとう。受け取っておきます」

「素敵なメッセージですね。きっと先生に救われた方ですよ」

「そうかもしれませんね」

看護師が出ていった後、俺は花束をベッドの上に置いた。カードの文字をもう一度読み返す。「あなたの手は確かに命を救いました」。その手はもう失われた。今の俺には何の慰めにもならない言葉だった。むしろ過去の栄光を突きつけられているようで、息苦しくなった。

タクシーで自宅に戻った俺は、花束を玄関の脇に置いたままリビングのソファに座った。テーブルの上に、病院から渡された書類が積まれている。「休職届」と書かれた紙が一番上にあった。

携帯が震えた。父からだった。「夕飯食べたか」。たったそれだけ。俺は返事を打とうとして、左手の指が画面の上で止まった。なんと返せばいいのか分からなかった。俺はもうあの鈴木理馬じゃない。天才と呼ばれた外科医は、あの事故の夜に死んだ。ここにいるのはただの抜け殻だ。携帯を伏せて、俺は天井を見上げた。

退院から二週間が経った頃、俺は思い切って紹介されたリハビリ施設に足を運んだ。郊外の住宅街の一角にある二階建ての建物だった。受付で名前を告げると、待合室に通された。俺は窓際の椅子に腰かけ、右手をぼんやりと眺めていた。家を出る時、靴紐を結ぶのに五分かかった。左手だけでは結び目がどうしてもうまくいかない。そんな自分が惨めだった。

足音が近づいてきて、俺は顔を上げた。白いポロシャツを着た女性が立っていた。

「鈴木理馬さんですね。担当させていただきます。山本真帆です」

「よろしくお願いします」

「こちらへどうぞ。早速状態を見せてもらいますか?」

リハビリ室は明るく、機材が整然と並んでいた。彼女は俺を椅子に座らせ、右手をそっと取った。

「指一本ずつ動かしてみてください。痛みがあったら教えてくださいね」

「親指はまあ動きます。人差し指から先が思うように行きません」

「なるほど。じゃあまずは握る動作から始めましょう」

彼女は柔らかいボールを差し出した。握ろうとするが、指が三本までしか曲がらない。ボールが手のひらからぽとりと落ちた。俺は思わず息を吐いた。こんなことすらできないのか。

「大丈夫ですよ。最初はみんなそうです。少しずつでいいんです」

「山本さん、俺の経歴は聞いていますか?」

「カルテで拝見しました。外科の先生だったんですよね」

「ええ。だから、こういう動作ができないことの意味を、自分が一番よく分かってるんです」

山本はボールを拾い、もう一度俺の手に乗せた。そしてまっすぐに俺の目を見た。

「鈴木さん、今のあなたは私の患者さんです。元外科の鈴木先生じゃありません。ここでは、ボール一つ握れるかどうかを一緒に喜ぶ場所です。過去のあなたと比べたら辛いだけですよ。今日のあなたを見てください」

俺は何も言えなかった。彼女は微笑んで、また指の動きを確認し始めた。俺の手を扱う指先は丁寧で迷いがない。

リハビリは一時間ほどで終わった。

「次回までに宿題があります。お箸を使って、右手で豆を掴むんです。一日五分でいいですから」

「豆をですか?」

「はい。落としても構いません。落とすことがリハビリですから」

俺は頷いて施設を出た。帰り道、空を見上げた。居たたまれなさと、奇妙な軽やかさが同時に胸の中にあった。

リハビリに通い始めて一ヶ月が経った頃、施設の待合室で一人の少年に出会った。中学生くらいだろうか。痩せた体に大きすぎるパーカーを着ている。胸元に心電図を取るための電極の痕が見え隠れしていた。少年は俺の隣に座り、しばらく黙っていた。それからおずおずと声をかけてきた。

「あの、鈴木理馬先生ですよね」

「ああ、そうだけど。君は?」

「サトルって言います。十四歳です。僕、先生のこと知ってます。テレビで見ました。三年前の難しい手術」

「よく覚えてるな。そんな昔のこと」

サトルは嬉しそうに笑った。痩せた頬に不釣り合いな笑顔が広がる。

「僕、心臓に病気があって、来年大きな手術をするんです。だから心臓の先生のこと、いっぱい調べてて」

「そうか。それは大変だな」

「でも怖くないんです。先生みたいなお医者さんが世の中にはいるって知ってるから。僕、将来医者になりたいんです。先生みたいな医者に」

俺は思わず目をそらした。この少年は俺の右手のことを知らない。天才外科医・鈴木理馬の、テレビで見たままの姿を信じている。

「さ、悪いけど、俺みたいになるな」

「え? どういうことですか?」

「俺はもう手術ができないんだ。事故で右手が動かなくなった。君が憧れているのは、もういない人間だ。別の医者を目標にしなさい」

言ってしまってから、しまったと思った。子供に向ける言葉じゃなかった。俺は自分の苦しさをこの少年にぶつけてしまった。

サトルはしばらくじっと俺の右手を見ていた。それからゆっくりと口を開いた。

「先生、手術ができなくても、先生は先生ですよね。サトル、だってテレビで先生が言ってたんです。『一人の命を救うのはメスじゃなくて、救おうとする気持ちだ』って。僕、その言葉ノートに書いて、ずっと覚えています」

俺自身がいつかインタビューで答えた言葉だった。

「だから先生はまだ先生です。僕、先生みたいになりたいの、変えません」

俺は何も言えなかった。

その日、俺は帰り道に書店に寄った。医学雑誌のコーナーを何ヶ月ぶりかで眺めた。手に取ろうとして、右手が震えた。左手で一冊抜き取り、レジに向かった。家に帰ってソファでページを開いた。新しい術式の記事が載っていた。俺はそれを最後まで読んだ。読んだだけだ。それでも、何かが少し動いた気がした。

それから数日後、俺は思い切って勤めていた病院を訪ねた。復帰したいわけじゃない。ただ自分の荷物を引き取るだけのつもりだった。ロッカーには私物が残ったままだった。医局に入ると、若い研修医たちが俺に気づき、立ち上がって挨拶した。気まずい沈黙が流れた。俺は軽く手を上げて、奥の部長室に向かった。

黒川は書類を見ていた。俺の顔を見ると、ペンを置いた。

「鈴木か。久しぶりだな。座れ」

「お時間いただいてすみません。荷物を取りに来ただけですから、すぐに失礼します」

「まあ、座ると言ってるだろう」

俺は仕方なく向かいのソファに腰を下ろした。

「リハビリはどうだ?」

「ぼちぼちです。指は少し動くようになりました」

「そうか。鈴木、はっきり言うぞ。外科は結果が全てだ。それはお前が誰より分かっているはずだ」

「ええ、分かっています」

「現場で失敗させるわけにはいかない。お前を現場に戻したら、俺はお前を殺すことになる。患者じゃない。お前自身をだ」

黒川の声は静かだった。それは優しさだったのかもしれない。

「部長、分かっています。私だって同じ立場なら同じことを言います」

「研究職の話、考えてくれたか?」

「まだ答えは出ていません。少し時間をください」

「いつまでも待つ余裕はないぞ」

俺は頭を下げて部長室を出た。ロッカーから私物をまとめて紙袋に詰めた。病院の正面玄関を出た時、ちょうど夕方のチャイムが鳴った。俺はベンチに腰かけて、しばらく動けなかった。

携帯を取り出すと、メールが一通届いていた。自宅マンションの管理人からだった。「またお花が届いています」。俺は息を飲んだ。あの日に届いたあの花束と同じ送り主だろうか。

家に帰ると、玄関先に白いユリの花束が置かれていた。今度もカードが添えられている。万年筆の几帳面な字。

「あなたが手術をしなくても、あなたに救われた命はここで生きています」

俺はカードを握りしめた。誰だ? 誰がこんな言葉を毎月のように送ってくるのか。過去の患者の顔を順に思い出そうとした。だが、思い当たる人物は浮かばない。花束を抱えて部屋に入った。ソファに座り、カードをもう一度読んだ。答えのないまま、日々が過ぎていった。

花束のことが気になって、俺は管理人に頼み、次に届いたら届けに来た人を見ておいてほしいと伝えた。それから二週間後の午後、管理人から電話が入った。

「先ほどお花を持ってきた方がいらっしゃいました。今度はご本人がご挨拶したいと」

俺は急いで一階のロビーに降りた。エントランスにスーツ姿の男が立っていた。四十前後だろうか。痩せ型で眼鏡をかけている。胸に白いユリの花束を抱えていた。俺の顔を見ると、男は深く頭を下げた。

「鈴木先生、突然お尋ねして申し訳ありません。森本健二と申します」

「森本さん」

「七年前、先生に救っていただきました。緊急の手術でした」

七年前。俺は記憶を辿った。夜中に運ばれてきた患者を緊急で執刀したことがある。血圧が下がり続け、家族にも覚悟を伝えた症例だった。名前までは正直覚えていなかった。

「申し訳ない。手術のことは覚えていますが、お顔までは思い出せません」

「いいんです。先生にとっては、たくさんある中の一例でしょうから」

俺は森本をロビーの椅子に促した。彼は花束を膝の上に置き、ゆっくりと話し始めた。

「あの頃、私は仕事も家庭もうまくいっていませんでした。倒れた時、正直もう死んでもいいとさえ思っていたんです。手術の前、麻酔がかかる直前に、先生がおっしゃった言葉を私は覚えています」

「私は何と言いましたか?」

「『私が必ず助けます。後ほどまたお会いしましょう』。それだけです。たったそれだけの言葉で、私は目を覚ましたらもう一度生きてみようと思えたんです」

俺はそんなことを言った記憶もなかった。忙しさの中で患者にかけた一言など、いちいち覚えていなかった。それが誰かの人生を変えていた。

「事故のことを新聞で知りました。いても立ってもいられなくて。せめて先生の手が確かに人を救ったということを忘れないでいてほしくて。差し出がましいと思いながら、毎月花を送らせていただきました」

「森本さん、そのカードの言葉はあなたが書いたものですか?」

「はい。万年筆で震える手で書きました。私は今も字を書くと震えるんです」

森本はそう言って、自分の右手をそっと見せた。指の関節が変形していた。彼もまた、戻らないものを抱えながら生きてきたのだ。

俺は花束を受け取った。七年分の重さが腕にかかった気がした。

「森本さん、お礼を言うのはこちらの方かもしれません。あなたの花が、私をギリギリのところで支えていました」

「先生、実は今日お尋ねしたのは、もう一つお話があるんです」

森本がゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の目がまっすぐに俺を見ていた。森本は名刺を差し出した。医療機器メーカーの開発部門の肩書きが書かれていた。

「手術後、私は前の会社をやめて医療機器の道に進みました。先生に救われた命を何かに返したかったんです」

「そうでしたか」

「今、うちの会社で片手でも操作できる作業用の支援機器の開発を進めています。脳卒中や事故で利き手を失った人が現場に戻れるようにと。ただ……」

森本はそこで言葉を切った。膝の上で両手を握り直した。

「開発チームには、繊細な感覚を本当に理解している人間がいないんです。図面の上では正しくても、実際に握った時、命と向き合う指の繊細さを設計に落とし込めない。鈴木先生に力を貸していただきたいんです」

「私にですか?」

「先生の手はもうメスを握れないかもしれません。でも先生の頭と目と経験は、誰よりも生きています。先生が監修してくださったら、これから何百、何千という人々が現場に戻れるかもしれない」

俺は黙って自分の右手を見つめた。この手はもう人を切れない。それでも、この手が覚えている感覚は確かにある。

返事を保留して森本を見送った数日後、リハビリで山本に会った。彼女は俺の顔を見るなり首をかしげた。

「鈴木さん、何かありました? 顔つきが違います」

「山本さん、人に何かを伝えるということを、俺は今まで考えたこともなかったんです。自分で切ること、自分で救うこと、それしか頭になかった」

「いいことじゃないですか。やっとご自分以外のことを考えられるようになったんですね」

彼女は笑って、俺の右手を握らせるように差し出した。俺はそれをしっかりと握った。以前より確かに力が入る。

その日の夕方、俺の携帯にメッセージが届いた。サトルの母親からだった。息子が来週心臓の手術を受けること。そしてその執刀に俺の元同僚を指名できたこと。サトルが鈴木先生にも報告したいと言っていること。

手術当日、俺は病院の廊下で家族と一緒に待った。手術が無事に終わったと聞いた時、サトルの母親が泣き崩れた。俺は廊下の窓際に立ったまま、ガラスに映る自分の顔を見た。そこには外科医ではない。ただ一人の男が立っていた。それでも、命が繋がる瞬間に、俺は確かに立ち会っていた。

数日後、面会が許され、俺はサトルのベッドの脇に座った。サトルは目を輝かせて言った。

「先生、僕、生きてます。ちゃんと生きてます。先生、僕、医者になります。僕、医者になりますから」

俺はサトルの小さな手をそっと握った。動かない指で、それでも握り返す力は伝わったはずだ。

退院したサトルを見送った夜、俺は実家に向かった。久しぶりに父の顔を見たくなったのだ。父は縁側に座って夕刊を読んでいた。俺が隣に腰を下ろしても、顔を上げなかった。

「親父、俺、医療機器の開発に協力することにした。あと研修医の指導も引き受けるかもしれない」

「そうか」

「メスはもう握れない。それでも俺にできることは、まだあるみたいだ」

「ああ、分かってる」

それきり父は黙って新聞をめくった。庭で虫の声が鳴いている。しばらくして、父はぽつりと言った。

「理馬、お前が小さい頃、絵が下手でな。それでも毎日描いとった。下手でも描くのが好きだったんだな」

「親父、何の話だよ」

「医者も同じだろ。やり方が変わっても、好きなもんは好きなままや」

父はそれだけ言って、湯飲みを口に運んだ。俺は何も返せず、ただ庭の暗がりを見ていた。不器用な父の言葉がこんなに胸に届いたのは初めてだった。

数週間後、俺は森本の会社の会議室にいた。机の上に試作機の図面が広げられている。若い技術者たちが、俺の言葉を一言も漏らさずメモを取っていた。

「ここのグリップ、もう一ミリ細くしてください。長時間握ると母指が疲れます」

「鈴木先生、それだと強度が。素材を変えれば対応できるはずです」

「私の手は四時間、五時間握り続けます。一ミリの差で最後の一瞬が変わるんです」

技術者たちが互いに顔を見合わせ、頷いた。森本が部屋の隅で静かに微笑んでいた。

その帰り道、俺はリハビリ施設に立ち寄った。山本がいつものように待合室で待っていた。

「お疲れ様です。今日はどうでした?」

「会議で二時間喋りっぱなしでしたよ。手より口の方が疲れました」

「いい疲れ方ですね」

「山本さん、あの時、ボール一つ握れなかった俺に、『一緒に喜ぶ場所だ』と言ってくれましたね。あの言葉がずっと残っていました」

「覚えてくださってたんですね」

「ええ。あなたがいなかったら、俺は多分今もあのソファで天井を見ていました」

窓の外で街路樹が風に揺れていた。

家に帰ると、玄関先にまた花束が置かれていた。白い花と小さな黄色い花が混じっていた。カードにはいつもの几帳面な字でこう書かれていた。

「これからのあなたの手も、きっと誰かを救います」

俺は花束を抱えて部屋に入った。花瓶に差し、しばらく眺めた。右手をゆっくりと開いて閉じた。完全には閉じない。それでも、確かに動く指がある。

机の上に書きかけの原稿が置いてある。若い医師たちに向けた教科書の草稿だ。タイトルはまだ決めていない。俺は椅子に座り、左手でペンを取った。不器用な字で、それでも一文字ずつ書き始めた。夜は静かで長かった。それでも、明日が来ることを今夜は信じられた。

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