「ただいま。ナさ、もう大丈夫だぞ。俺が帰ってきてやったからな。」
都心のタワーマンションの豪華なエントランスに、場違いな絶叫が響き渡った。7年ぶりに現れた元夫は、警備員に取り押さえられながら、まるで凱旋でもするかのように私に笑いかけた。その見苦しい姿に、私は一切の表情を変えず、ただ冷たく言い放った。
「どちら様でしょうか?」
私の氷の一言に、元夫の歪んだ笑顔が凍りつき、見る見るうちに顔面蒼白になった。この瞬間を、私は7年間、血のにじむような思いで待ちこがれていたのだ。
7年前、義父が倒れたことがきっかけで、私はパートを辞め、義母と協力して数年にわたる自宅介護に専念した。大変な毎日だったが、義母とは本当の親子のように絆が深まった。しかし、介護の代償は高く、まるで後を追うように、その2年後には義母も息を引き取った。
長年連れ添った夫の元へ旅立った義母。その安らかな顔を見て、私は涙が止まらなかった。しかし、そんな私の隣で、夫のトオルは涙一つ見せず、スマホの電卓を弾いていた。
「あなた、お母さんが亡くなったのよ。」
するとトオルは顔を上げ、嬉しそうに笑ったのだ。
「ああ、やっとだよ。これで親父の分と合わせて、土地と家と貯金で、ざっと数千万か。いや、もっと行くかな?」
信じられなかった。自分の親が亡くなったのに、悲しくないのか。私の問いに、トオルは鼻で笑った。
「悲しい? なんで? むしろこれでやっと自由になれるんだから、嬉しいだろう。お前も面倒な介護から解放されて嬉しいんじゃないのか。」
彼は目を輝かせ、欲望に満ちた声で続けた。
「これで俺も大金持ちだ。この遺産を元手に会社を立ち上げて、ビッグになってやるんだよ。」
そして、追い打ちをかける出来事が起こる。義母の四十九日を終えた直後、私は病院で定期検査を受け、そこで自分自身の体に癌が見つかったのだ。医師からは早期発見だと言われた。だが、頭に浮かぶのは、まだ10歳の娘・ユズハの顔ばかり。もし私がいなくなったら、この子はどうなるのか。これから始まる闘病と娘の将来への不安に、私はただ押しつぶされそうだった。
夫のトオルに、震える声で病気のことを告げた。
「私、癌だったの。早期発見だから、これから治療を…」
しかし、夫から返ってきたのは、想像を絶するほど冷たい一言だった。
「そうか。」
たった3文字。それだけだった。私の体を気遣う言葉も、治療を心配する言葉もない。ただスマホの画面に目を落としたまま。
その日から、夫は人が変わったように私を避けるようになった。帰宅はいつも深夜で、私が食事の準備をしていても、「外で食べてきた」と一言告げるだけ。
「あなた、少しは家のこととか、ユズハのこととか…」
「ああ、仕事で疲れてんだよ。病人の世話までできるか? お前の親にでも頼めよ。」
吐き捨てるようにそう言うと、夫は自室に閉じこもった。夫婦の会話は完全になくなった。
夫との溝が深まる一方で、私の唯一の光は娘のユズハだった。まだ10歳の小さな体で、必死に私を支えようとしてくれたのだ。
ある日、副作用でソファにぐったりと横になっていると、ユズハが心配そうな顔で私の顔を覗き込んできた。
「ママ、大丈夫? お背中さすろうか?」
「ありがとう、ユズハ。大丈夫よ。ちょっと休めば良くなるから。」
私が無理に笑顔を作っても、ユズハの不安げな表情は変わらなかった。
「私、お洗濯物畳めるよ。お茶も入れる。だからママはゆっくり休んでて。」
そう言って、小さな手で一生懸命に私の肩をさすってくれる。その健気な姿に、私は涙が出そうになるのを必死でこらえた。この子の前で、弱い母親ではいられない。
「ありがとう。ユズハがそばにいてくれるだけで、ママは元気になれるわ。」
私は自分の体調の悪化と戦いながら、たった1人で家事と育児をこなした。抗がん剤治療が始まると、その日々は地獄へと変わる。髪は抜け落ち、体は鉛のように重く、激しい吐き気に襲われ、トイレに駆け込む毎日。そんな状態でも、夫は私を人間として見ていなかった。
「おい、飯はまだかよ。病人だからってサボってんじゃねえぞ。」
キッチンで倒れ込んでいる私を見ても、彼は手を差し伸べることすらなかった。ただ舌打ちをして、コンビニの弁当を買いに行くだけ。私は病院の白い天井を見上げながら、何度も涙を流した。どうして私がこんな目に? それでも、娘のユズハの存在だけが私をつなぎ止めていた。
ある日、治療がうまくいき、医師から一時帰宅の許可が出た。私は心を躍らせた。久しぶりにユズハに手料理を作ってあげよう。トオルにも、少しは優しい言葉をかけてもらえるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、私は自宅のドアを開けた。
しかし、そこで私を待っていたのは、地獄の続きだった。
玄関には、見知らぬ若い女のハイヒール。リビングから聞こえてくる、楽しそうな男女の笑い声。私の心臓が嫌な音を立てて軋んだ。恐る恐るリビングを覗くと、そこにいたのは、ソファの上で若い女にだらしなく寄り添う夫の姿だった。
「あはは、トオルさんの奥さん受ける。介護して自分も癌になっちゃうとか、マジ何の罰ゲームだろう? 本当に疫病神だよな。」
「でもまあいいか。親の世話してくれたおかげで遺産はがっぽり手に入ったし、感謝しねえとな。」
夫は笑い、女は甲高い声でさらに続けた。
「そのお金で、今度はハワイ連れてってくれるんでしょう?」
「おお、任せとけ。あんな病人のまずい飯とはおさらばだ。お前の手料理が一番だよ。」
2人の会話が、ナイフのように私の胸に突き刺さる。立っていることさえできず、私はその場にへたり込んだ。ガタンと体が壁にぶつかる音で、2人がこちらに気づいた。
「ああ、なんだよ。ナさ、帰ってたのか。」
夫は少し驚いた顔をしたが、悪びれる様子は一切ない。それどころか、睨みつけるように私を見た。
「ちょうど良かった。お前に話があったんだ。」
そう言って、テーブルの上に1枚の紙を放り投げた。離婚届だった。
「何なの、これ?」
「見てわかんねえのか? 離婚だよ、離婚。もうお前みたいな病気のババアはうんざりなんだよ。こっちの若くて可愛い子と一緒になるからさ。」
女は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、私を見下した。
「私がどれだけ苦しんだか、あなたにわかるの?」
「うるせえな。お前が勝手に病気になっただけだろうが。俺には関係ねえよ。」
夫はさらに、私を絶望の底に叩き落とす事実を告げる。
「ああ、そうだ。親父たちが残してくれた土地も家も、もう売ったから。金は全部俺の口座に入ってる。なんでかって? あれは家督のあと、お前との共有口座にあった金も、全部俺の名義に変えさせてもらった。ユズハのための貯金? 知るかよ、そんなもん。」
夫は通帳のコピーを私の顔に叩きつけた。残高の欄には、私が想像もしていなかった金額が印されていた。そして、その全てが夫によって奪われていた。私は言葉を失った。この男は、私が義両親の介護に身を捧げている間に、着々と裏切りの準備を進めていたのだ。私が病に倒れることさえ、計画のうちだったのかもしれない。
「あなた、鬼よ。」
「なんだと、このクソババアが。」
逆上した夫は、私の髪を掴んで玄関まで引きずっていった。病気で弱った体に、抵抗する力など残っていない。
「いいか、てめえの居場所はもうここにはねえんだよ。2度とこの家の敷居をまたぐな。ババアは一生病院にでもいろや。」
私はゴミのように家の外に放り出された。冷たいコンクリートに体を打ちつけ、ただ虚空を見つめることしかできない。家も金も夫も、全てを失った。私は、ユズハを預けている実家へ、ふらつく足で向かった。
実家に戻った私は、全てを両親に話した。両親は涙を流し、怒りに体を震わせていた。私の闘病生活は続く。しかし、そこにはさらなる苦しみが待っていた。高額な治療費だ。夫に奪われた私には、貯金など一円もない。
泣けなしの金で買ったパソコンで、昔からの夢だった漫画を書き始めた。在宅でできる唯一の仕事だったからだ。しかし、無名の新人が稼げる金額など、たかが知れている。稼いだわずかな収入は、あっという間に治療費に消えていく。結局、私の治療費も生活費も、全て高齢の両親の年金に頼るしかなかった。
「気にするな。さ、お前は生きることだけを考えろ。」
「そうよ。私たちがいるからね。」
両親の優しさが、申し訳なさで胸を締めつけた。
季節は夏になった。外からは子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。治療の副作用で、私は外に出ることさえままならない。夏休みなのに、娘のユズハをどこへも遊びに連れて行ってやれなかった。ある夜、私は娘に謝った。
「ごめんね、ユズハ。ママがこんな体だから、夏休みなのにどこにも…」
するとユズハは、私の手をぎゅっと握りしめ、健気な笑顔でこう言ったのだ。
「うん、大丈夫だよ。どこかへ遊びに行くより、元気なママと一緒にいる方が、私楽しいよ。」
その言葉に、私の涙腺は崩壊した。
「だから早く元気になってね。私待ってるから。パパなんていなくても、ママがいればそれでいいの。」
私は声をあげて泣いた。そして心に固く誓う。そうだ、私は1人じゃない。この子のために、私は絶対に負けない。そしてあの男、私から全てを奪ったこと、絶対に後悔させてやる。
絶望の縁で、私は娘が灯してくれた小さな光を握りしめ、力強く生き抜くことを決意した。
治療は想像を絶する苦しみだった。だが、私は1人ではなかった。家族の愛を一心に受け、私は歯を食いしばって治療に耐えた。長いトンネルの先に、ようやく光が見え始めたのだ。
そして運命の日が訪れる。診察室で、医師は穏やかな笑みを浮かべて私に告げた。
「ナささん、おめでとうございます。検査の結果、がん細胞は消えました。寛解です。」
その瞬間、隣にいた母は泣き崩れ、私は母の手を握りしめて、ただ涙を流した。私たちはついに、病という悪魔に打ち勝つことができた。
治療中、私の唯一の心の支えは漫画を書くことだった。病室のベッドの上で、私は自分の経験を無心で書き続ける。夫の裏切り、病の苦しみ、そして家族の愛。その全てをありのままに。退院後、私はがんサバイバーの交流会に参加した。そこで出会った友人の言葉に背中を押され、私は勇気を出して自分の漫画をSNSに投稿し始める。すると、共感のコメントが津波のように押し寄せ始めたのだ。
そしてある日、一通のダイレクトメッセージが私のSNSに届く。差出人は、誰もが知る大手出版社の編集者を名乗っていた。夢のようだった。トントン拍子に話は進み、私の漫画は単行本として全国の書店に並ぶことになる。本は発売と同時にベストセラーとなり、私は有名漫画家として知られるようになった。
だが奇跡はそれだけでは終わらない。今度は1人の映画プロデューサーが私の本を手に取ったのだ。
「あなたの物語は偉大です。ぜひこの物語を映画にさせてください。」
映画化。私たちが手にした契約金は、かつてトオルが私から奪い去った財産の何十倍もの金額になっていた。
そして離婚から7年の月日が流れた。私とユズハは、都心のタワーマンションの最上階で暮らしている。穏やかな幸せ。失ったと思っていた全てを、私は自分の力で取り戻したのだ。
そんなある日のことである。学校から帰宅したユズハが、青ざめた顔で私に訴えた。
「ママ、最近誰かにつけられてる気がするの。」
数日後の夕方、エントランスにいるユズハから、インターホン越しに悲鳴が聞こえた。
「ママ、来て。あの人がマンションの中に入ってきた。」
私はペンを放り出し、真っ先にエントランスフロアへと走った。そこには、屈強な警備員2人に取り押さえられている、見窄らしい男が1人。ガリガリに痩せ、正気がない。まるで生きた亡霊だった。
その亡霊が私に気づくと、顔をぐにゃりと歪ませて叫んだ。
「おお、ナさ、俺だ。トオルだ。迎えに来たぞ。」
そして満面の笑みを浮かべて、こう言った。
「ただいま、ナさ。もう大丈夫だぞ。俺が帰ってきてやったからな。」
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中から、最後の情けのかけらさえも消え去った。私は一切の表情を変えず、ゆっくりと彼に近づいた。そして、集まった人々に聞こえるよう、はっきりとした声で言い放つ。
「どちら様でしょうか?」
「な、何を言ってるんだ? 俺だよ。お前の夫のトオルだろうが。」
必死に訴えかけてくるが、私の心は微動だにしなかった。
「この方は全く存じ上げません。」
私は少し間を置いて続けた。
「先日、娘がストーカーに付けられていると訴えていました。警備員さん、このストーカーを警察に突き出してください。」
トオルは「ああ…」と意味のない声をもらし、その場にへたり込んだ。警備員に両脇を抱えられ、まるでゴミ袋のように引きずられていく。私はその無様な姿を、ただ静かに見下ろすだけだった。これが、私と娘の人生をめちゃくちゃにした男の惨めな姿である。
警備員に引きずられていく中、トオルは最後の悪あがきのように叫んだ。
「待て。人違いなわけないだろうが。ダイエットに成功して、昔よりかっこよくなったからか?」
さらにトオルは、私の後ろに隠れるユズハに向かって、悲痛な声を張り上げる。
「ユズハ、パパだよ。お前のパパが帰ってきたんだぞ。」
その時だった。
「ナささん、ユズハちゃん、ただいま。」
エントランスの自動ドアが開き、穏やかで優しい声が響く。声の主は、私の婚約者である映画プロデューサーのハルトさんだった。ハルトさんは床に転がるトオルの姿を一瞥したが、まずはユズハの元へ歩み寄る。
「ユズハちゃん、出張のお土産だよ。」
「わーい、ハルトさん、いつも本当にありがとう。」
さっきまでの怯えた表情が嘘のように、ユズハはパッと顔を輝かせ、ハルトさんの元へ駆け寄る。その光景を見たトオルの目が、嫉妬と混乱で大きく見開かれた。
「な、なんだ、てめえは。」
ハルトさんは穏やかに自己紹介する。
「初めまして。ナささんの婚約者のハルトと申します。」
「婚約者?」
その言葉が引き金だった。トオルの顔は見る見るうちに真っ赤に染まり、血管が浮き出るほどにわめき散らす。
「こ、婚約者だ? ふざけんじゃねえぞ。こいつは俺の嫁だ。その子も俺の娘だ。どこの馬の骨ともわからん奴が、馴れ馴れしく触ってんじゃねえ。」
ハルトさんは、その品のない罵詈雑言にも全く動じなかった。彼は私の方を向き、確認するように静かに尋ねる。
「ナささん、もしかしてこの方が元夫ですか?」
私は静かに、しかしはっきりと頷いた。
「ええ。彼が私の漫画に書いた元夫よ。」
ハルトさんは「ああ、なるほど」と全てを理解したように頷くと、改めて床に突き伏すトオルに向き合った。その目は、先ほどまでの穏やかさとは打って変わって、氷のように冷たい光を宿している。
「話は聞かせてもらったよ。あなたがナささんにした数々の非道な行いをね。まさか実物がこれほどまでとは、想像以上だ。」
その侮辱を含んだ言葉に、トオルの理性が完全に焼き切れた。嫉妬と怒りに我を忘れたトオルは、獣のような声をあげてハルトさんに向かって殴りかかる。
「う、うるせえ。邪魔者は引っ込んでろ。」
だがハルトさんは、驚くほど冷静だった。次の瞬間、トオルの体は宙を巻いて鈍い音を立て、床に叩きつけられていた。武道の有段者であるハルトさんは、床でのた打ち回るトオルの腕を掴むと、簡単に関節を極めてねじ伏せる。
私はねじ伏せられているトオルの前に、ゆっくりと歩み寄った。そして、わざとらしく左手を彼の目の前にかざす。薬指には、ハルトさんからもらった婚約指輪がキラキラと光輝いていた。
「残念だけど、トオルは私の夫じゃないわ。私の夫になる人はハルトさん。私はハルトさんと結婚することにしたから。」
ハルトさんはトオルを見下ろしながら、静かに語り始める。
「実はね、僕も子供の頃、ナささんと同じ病気と戦った経験があるんだ。僕たちは同じ地獄を見てきた。」
そしてトオルの目をまっすぐに見て言う。
「あなたには到底入り込めない深い絆で結ばれているんだ。」
その言葉に、トオルは何も言い返せない。すると、今まで黙っていたユズハが、私の前に一歩踏み出した。そして、床に突き伏す男を、強い意志を宿した瞳で見下ろす。
「あなたに、ママの何が分かるの?」
「ゆ、ユズハ…」
「あなたがママを捨てた後、ママがどれだけ苦しんだか、あなたは知らないでしょ。」
娘の震える声がエントランスに響き渡る。
「毎晩、吐き気と痛みで眠れないのに、私のために無理して笑ってた。髪が全部抜けても、私の前では絶対にウィッグを外さなかった。」
涙をこらえながら、ユズハは続けた。
「治療費のために、震える手でペンを握って、血を吐く思いで漫画を書いてた。あなたが若い女と遊んでる間、ママはたった1人で命をかけて戦ってたんだよ。」
その言葉に、私の目から涙が溢れる。ハルトさんがそっと私の肩を抱き寄せる。
「僕も見てきたよ。映画化の打ち合わせの時、彼女は家事と育児と仕事で忙しくても、一度も弱音を吐かなかった。全てはユズハちゃんのためだって。」
ハルトさんは軽蔑の眼差しでトオルを睨みつけた。
「あんたが捨てたのは、ただの女じゃない。世界で一番強くて美しい魂を持った人間だ。あんたには彼女の隣に立つ資格なんて、最初からなかったんだよ。」
味方がいる。私を理解し支えてくれる人たちが、こんなにもそばにいてくれる。その事実が、何よりも私を強くした。トオルは2人の言葉を、悔しそうに聞いていた。顔は嫉妬と屈辱で真っ赤になっている。
「うるさい、うるさい、うるさい。綺麗事ばかり並べやがって。結局金だろ。こいつが金持ちになったから、お前らみたいなのが集まってきただけだろうが。」
見苦しい悪あがきだった。その時、エントランスの自動ドアが開き、息を切らした女が駆け込んできた。それは7年前にトオルと笑い合っていた、あの愛人である。しかし、かつての華やかな姿はない。安物の服に、手入れされていない髪。その顔には焦りと絶望が張り付いていた。
「トオル、いた。こんなところにいたのね。私の金、返しなさいよ。」
彼女は床に這いつくばるトオルに掴みかかった。
「は、話せ。お前の金じゃない。俺の金だ。」
「何言ってんのよ。あんたがすぐ儲かるなんて言うから、私の貯金まで渡したんじゃない。全部パーになっちゃったじゃないのよ。」
2人はエントランスの床の上で、見苦しい言い争いを始めた。
「うるさい。お前がブランドばかり買うからだろうが。」
「あんたが社長夫人にしてやるって言ったんでしょ。嘘つき。」
その光景は、滑稽を通り越して哀れですらあった。お互いを罵倒し、責任をなすりつけ合う2人の姿は、まさに地獄絵図。やがて女は私に気づくと、目を血走らせて詰め寄ってきた。
「あんたのせいよ。あんたが変な漫画なんか書くから、私の人生めちゃくちゃじゃない。」
「私のせい?」
私は冷たく言い放った。
「人の家庭を壊し、病気の人間を嘲笑ったあなたが、どの口でそんなことを言うのかしら。ねえ、自業自得という言葉を知ってる? 今のあなたたちは、まさにそれよ。」
全ての希望を打ち砕かれた2人は、床に突っ伏したまま、壊れたおもちゃのように震え始めた。
「そ、そんな…」
虚ろな目で宙を見つめ、彼はぽつりぽつりと自分の身の上を語り始めた。2人が地獄に落ちたそのきっかけこそが、皮肉にも私が書いた漫画である。映画化によって私の物語が社会現象になると、ネットの特定班が動き出したのだ。漫画に書かれた特徴的なエピソードや夫の職業などから、SNSであっという間にトオルの身元が特定された。「クズ夫のモデルはこの男だ」と、彼の顔写真、名前、そして彼が立ち上げた会社の情報までがネット上にさらされる事態に発展する。
そこからは、まさに地獄の始まりだった。トオルが遺産を元に立ち上げた会社には、非人道的な経営をするブラック企業として、抗議の電話やメールが殺到。重要な取引先からは次々と契約を打ち切られ、会社の評判は地に落ちた。それは愛人も同じである。彼女の職場やSNSにも「不倫略奪女」として批判が殺到し、彼女は社会的な居場所を完全に失った。
私にされた仕打ちは、7年の時を経て巨大なブーメランとなり、彼と彼女の人生をこっぱみじんに破壊したのだった。
だが、この男の腐り切った根性は、それでも治らない。
「そうか。分かったぞ。お前が寂しかったんだな。」
彼は狂気の宿った目で私を見つめている。
「俺の代わりにあんな男を見つけて、でももう安心しろ。本物の俺が帰ってきたんだからな。なあ、ナさ、やり直そうぜ。」
呆れて言葉も出ない。私は警備員に向き直り、ガラス越しのように冷たい声で最後の命令を下した。
「もう結構です。早く警察を呼んでください。」
その言葉を聞いた瞬間、トオルと女の顔から、さっと血の気が引いた。さっきまでの虚勢は完全に消え去り、顔面蒼白になって慌てふためき始める。
「ま、待て。冗談だよな。警察なんて…」
「そ、そうよ。私たち、ただ会いに来ただけで…」
私は一切答えず、ただ冷たい視線を送るだけ。その沈黙が何よりの答えだと悟ったのだろう。2人はねじ伏せられたまま、必死に頭を床に擦りつけ始めた。その姿は滑稽そのものだった。
「ごめん、ごめんなさい。俺が悪かった。本当に本当に悪かった。」
「私もごめんなさい。あの時は若くて…どうか許してください。」
鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、2人は叫ぶ。
「もう2度としないから、警察だけは勘弁してくれ。なあ、お願いだ。」
その見苦しい姿に、私は何の感情も抱かなかった。
「今さら何ですって?」
私の氷のような声に、2人はびくっと体を震わせた。
「頼む。考え直してくれ。お前を捨てたこと、金を奪ったこと、全部謝るから。土下座でも何でもする。」
彼は必死に言い訳を並べ立てる。
「お前の収入、すごいんだろ? なあ、俺の会社、大変なんだよ。お前の金で何とかしてくれよ。」
その言葉に、私は心の底から軽蔑した。
「あなたにとっての価値は、結局お金だけなのね。」
私は彼を見下ろし、一音一音、区切るように言い放った。
「でも残念。あなたの謝罪も命乞いも、私にとっては一銭の価値もないわ。」
そして私は彼らに背を向けた。
「さようなら。2度と会うことはないでしょうけど、せいぜい2人で罪を償ってください。」
「ナさ、待ってくれ。」
「いやあ、警察だけは…」
2人の叫びが、広々としたエントランスホールに虚しく響き渡る。後ろで聞こえる2人の鳴き声は、私たちの新しい人生の始まりを告げる鐘のように聞こえた。
警察に連行されたトオルがその後どうなったか。その後の顛末は、弁護士を通じて私の耳に入ってきた。彼の会社は倒産し、彼の元に残ったのは億単位の莫大な借金だけだった。まさに因果応報。人を不幸にして得た金と地位は、決して長続きなどしない。接近禁止命令が出されたにも関わらず、彼はしつこく私たちの周りを嗅ぎ回り始めた。その度に私たちは警察に通報し、彼は何度も警察沙汰となった。ストーカーという犯罪者のレッテルは、デジタルタトゥーとなって永遠に彼に刻み込まれる。親戚やかつての友人たちも、そんな彼を助けようとはしなかった。彼は完全に社会から孤立し、誰からも見捨てられたのだ。
そして風の噂で、彼の最後の末路を聞く。借金取りに追われる日々も限界を迎え、ついに路上生活者になったと。
その話を聞いた時、私の心は不思議なほど凪いでいた。同情も哀れみも、そして憎しみさえもう湧いてこない。あるのはただ、完全な無関心。それが、人の心を踏みにじり続けた人間が受ける最大の罰なんだろう。
一方、私たちは新しい人生を歩み始めている。私とハルトさんは、親しい人だけを招いて、ささやかな結婚式を挙げた。純白のウェディングドレスに身を包んだ私の隣で、ハルトさんが優しく微笑んでいる。フラワーシャワーの中を歩く私たちの前を、少し照れ臭そうに、でも満面の笑みでユズハが花びらを撒いてくれた。あの地獄の日々が嘘のように、温かい祝福と光に満ちた1日だった。
私たちの新しい生活は、笑い声で溢れている。ある日の夕食後、リビングでくつろいでいる時のことだ。ユズハが模擬試験の結果を嬉しそうに広げて見せてくれた。
「ママ、見て。A判定だったよ。」
「すごいじゃない。ユズハ、頑張ったわね。」
ハルトさんも、自分のことのように喜んでくれる。
「さすがだね、ユズハちゃん。この調子なら、夢の志望校もすぐそこだ。」
ユズハは少し頬を赤らめながら、でも真っすぐな目で私たちを見た。
「ママがあの時、諦めないで戦ってくれたからだよ。ママが頑張る姿を見て、次は私も頑張りたい。ママを助けてくれた医師のように、人の命を救う仕事がしたいって、本気で思ったの。」
その言葉に、胸が熱くなる。
「ありがとう、ユズハ。そう言ってくれるだけで、ママは頑張ってよかったって思えるわ。」
ハルトさんは、そんな私たちのやり取りを、愛おしそうに見つめていた。
「ナささんの漫画も、たくさんの人を救っているよ。君は僕の誇りだ。」
「ハルトさんとユズハがいるからよ。2人が私の光だから。」
私たちは顔を見合わせて微笑み合う。失ったものは大きかったけれど、それ以上に温かくかけがえのないものを、私は手に入れた。
そして私自身も、漫画家としての活動の傍ら、がんサバイバーとして全国で講演活動を続けている。マイクの前に立ち、私は自分の経験をありのままに語る。絶望の闇、裏切りの痛み、そしてそこから這い上がるために必要だった一筋の光。
講演が終わると、多くの人が涙ながらに私の元へ駆け寄ってくれる。
「勇気をもらいました。私も負けません。」
そう言って握り返される手の温もりが、今の私の生きる力だ。あの男に全てを奪われ、地獄の底で見た絶望。だが、そこから這い上がった先には、こんなにも温かく優しい光に満ちた世界が待っていた。もし今どこかで同じように苦しんでいる人がいるのなら、伝えたい。明けない夜はない。そして、あなたを大切に思う人は、必ずそばにいると。
食卓で、ハルトさんとユズハの笑い声が響く。私はこの上ない幸福を噛みしめながら、2人を見つめて静かに微笑んだのだった。



