祖父が倒れたのは、俺が二十六歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。長年経営してきた精密板金加工の会社を、突然俺が引き継ぐことになったのだ。
「ちょっと早いが、お前が社長やれ」
病院のベッドに横たわる祖父にそう言われた時、思わず大声をあげそうになった。現場作業から事務仕事まで一通りの修行は積んできたつもりだったが、いきなり社長と言われても戸惑うばかりだ。それでも会社の人たちに支えられながら、なんとか日々をこなしていった。
社長業にもようやく慣れ始めた頃、以前取引のあった大手企業から新しい仕事の依頼が来た。担当者として訪ねてきたのは、酒井係長という男だった。見た目は爽やかで言葉遣いも丁寧だ。だが、後になってその丁寧さが本性を隠すための仮面に過ぎなかったことを知ることになる。
仕事の担当が酒井に決まったと祖父に報告したところ、祖父は渋い顔をしてこう言った。
「あいつとは以前一緒に仕事をしたことがある。自分のミスを隠蔽しようとしたんだ。俺がそれを見つけて注意し、取引先にも報告した。その件と過去のミスが原因で昇進できず、今も係長のままなんだと。しかも噂によると、あいつは俺と会社を恨んでいるらしい」
祖父の話を思い出しながら酒井の様子を伺ったが、表向きは真面目に打ち合わせを進めているようにしか見えない。心配しすぎかもしれないと思った矢先、仕事が始まって一週間後、電話でとんでもない требованияを突きつけられた。
「単価ですけど、半額まで下げさせていただきます」
理由はコスト見直しとのことだが、そんな理由で一度決めた単価を下げられるわけがない。応じれば会社は火の車だ。
「それは無理です」
はっきりと断ると、酒井は半笑いで脅してきた。
「もし契約中止になったら、御社の評判は落ちるでしょうね」
何も言い返せなかった。相手は業界の大手だ。うちは歴史は長いが規模は小さい。悪意を持って噂を流されれば、他の取引にも影響が出かねない。だが素直に従うわけにもいかず、粘り強く交渉して三割の値下げで手を打ってもらった。
「利益が一気に減ったな」
電話を切った後、思わずため息が漏れる。かろうじて黒字ではあるが、当初の予定よりかなり少ない。自分の給料をカットして皆に回すしかないだろうか。
しかし、酒井の嫌がらせはこれだけでは終わらなかった。
「コスト削減のために納期を短縮してください。これは決定事項です」
ある日、突然会社に現れたかと思うと、一方的に納期短縮を要求してきたのだ。しかも逆らうことは許されないという脅し付きだ。
「無理ですよ」
そう反論すると、酒井はわざとらしく肩をすくめ、やれやれと言いたげな様子で俺を見た。
「先代社長なら、この程度文句も言わずにやってくださいましたでしょうね」
嫌味な言い方だった。社長として経験も知識も足りないことは自分でも自覚している。その自尊心を傷つけ、プライドを踏みにじるような口調だった。
「ご指定の納期でやりましょう」
そう言ったのは、同席していた職人たちだった。俺が心配して大丈夫か尋ねると、全員が不敵な笑みを浮かべた。
「社長が馬鹿にされて黙ってるわけにはいかねえ。俺たちに任せてくれ」
ここにいる職人は皆、俺が小さい頃からお世話になってきた人たちだ。俺を気遣って無理な納期を受け入れてくれた。社長として、必ず報いなければ。そう決意したのも束の間、無理な納期に職人たちは連日深夜までの作業を強いられることになった。
過酷な労働が続いた結果、最年長の職人が過労で倒れてしまった。本人は体調管理のミスだと言ったが、元をたどれば酒井の無理な要求が原因だ。最初から強く突っぱねていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。経験も貫禄も足りない自分の不甲斐なさに、悔しさが込み上げてきた。
限界を超えた俺は酒井に電話をかけ、納期の延長を頼もうとした。
「職人がいなければ今回の仕事は進めることができません。何卒、納期の延長をお願いします」
ところが、飲井から返ってきたのはそんな言葉だった。
「職人猿でもできる作業ですよね。納期半分か、契約終了か。選べよ」
今までは取ってつけたような敬語だったが、馬鹿にするような笑いの中に、酒井の本性が姿を現した。脳裏に祖父の言葉が蘇る。
——そういう人たちを大事にすればいい。
小さい頃から俺を支えてくれた職人たちを、これ以上踏みにじらせるわけにはいかない。
「どうしてここまでするんですか?」
喉の奥から言葉を絞り出す。
「お前のじじのせいで、俺は昇進できなかったんだ。この程度の仕返しは可愛いものだろ。大体、俺の下にいる部下だって、文句一つ言わずに俺の言うことを聞くんだよ」
「職人が一人倒れてるんですよ」
「だから何だ。そんなのすぐ代わりは見つかるだろ。職人って、この前一緒にいたじじたちだよな。よぼよぼの連中にできる仕事なんて、適当にバイトでも雇って頼めばいいじゃないか」
倒れた職人の顔が脳裏をよぎる。あの人たちは、酒井に馬鹿にされて許される人間じゃない。今この場で俺が守らなければ、一体誰が守るというんだ。
俺の中で、何かが切れる音がした。
「わかりました。では契約終了でお世話になりました」
酒井は一瞬言葉を失った。俺の返答が予想外だったようだ。
「本気か? うちは別に困らないが。お前の会社は売上がなくなって困るだろ」
「いえ、別に困りません。あなたと一緒に仕事をし続ける方が損失が大きいと判断したまでです」
すると電話の向こうから怒りに満ちた声が聞こえてきた。
「お前、あのじじにそっくりだな。生意気な若造が。今回の案件は別の会社に頼む。後で泣きついてきても知らないからな」
そう言い捨てて、電話は切られた。俺は肺の中に溜まっていた息を一気に吐き出した。
新しい取引先を探さないと。酒井の言う通り、我が社の損失は大きい。しかも俺の独断で、皆に迷惑をかけるはめになった。頬を軽く叩き、気合いを入れ直した。
それから一週間、俺は社長業の傍ら営業活動に奔走していた。失った売上を取り戻すため、あちこちの取引先に声をかけていたが、今のところいい返事はない。社長室で頭を抱えて悩んでいると、内線電話がかかってきた。
「社長、お客様です。酒井係長と、飯田部長と名乗る方がいらしてます」
「え、酒井係長が?」「どうします? 追い返しますか?」
事務の女性も今回の騒動は知っている。酒井を恨んでいるようで、声には棘が含まれていた。俺は苦笑いを浮かべつつ、空いている会議室に案内するよう頼んだ。本音を言えば対応したくなかったが、今回は酒井だけでなく飯田部長という人物も一緒だ。大企業の看板を背負っている以上、無下に追い返すわけにはいかない。話を聞かずに断るのは失礼だろうと判断した。
会議室に入ると、落ち着かない様子の酒井係長と目が合った。その隣にいたスーツ姿の男性が立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
「川口社長、突然すみません。私、飯田と申します。初めまして」
飯田部長は隙がなさそうに見えるが、表情には焦りが滲んでいた。
「今回は謝罪とお願いのために伺わせていただきました」
「謝罪ですか?」
飯田部長が低い声で酒井を呼ぶ。酒井はびくりと肩を揺らし、しぶしぶといった様子で頭を下げた。
「大変申し訳ございませんでした」
納得していない様子ではあるが、頭を下げざるを得ない理由があるらしい。
「なぜ謝るのですか?」
唐突な謝罪に戸惑っていると、酒井が慌てて事情を説明した。
「御社が世界唯一の技術を持っていることを知らなかったんです。別の会社に依頼しようとしましたが、どこも無理だと断られて」
飯田部長が苦い顔で補足する。
「本来この案件は私が担当するはずでしたが、多忙で酒井に一任していたんです。それが、あんなことになってしまいました」
どうやら飯田部長は、酒井の悪事をまだ知らないらしい。酒井は独断で契約を終了させ、新しい取引先を探していたが、どの会社からも断られ、困り果ててようやく部長に相談したという。そこで初めて我が社の技術が世界唯一だと知らされたのだそうだ。
「御社の絞り加工は、金属板を均一な厚みのまま複雑な曲面に絞り込む技術だと伺っています。薄い部分ができれば強度が落ち、厚みが偏れば精度が狂う。それを機械の誤差なく、指先の感覚だけで仕上げる。しかも特許は取得しておらず、親方から弟子へと一子相伝で受け継がれてきた技だとか。世界中で、川口製作所の職人にしか再現できないと聞いています」
話を聞きながら、俺は呆れた目で酒井を見た。あの時、自信満々に「別の会社に頼む」と言っていたのは、何も知らなかったからか。
「身勝手なお願いだと承知の上ですが、どうかもう一度我が社と契約していただけないでしょうか?」
俺はため息をついて、首を振った。
「契約は双方の合意が必要です。酒井係長の言動を振り返って、信頼できない相手だと判断しました。お断りさせていただきます」
「川口社長、その件はどうか内密に」
顔面蒼白の酒井が声をあげるが、飯田部長が鋭く睨みつけた。
「黙れ」
俺は飯田部長に、これまでの経緯を詳しく説明した。酒井は無理な値下げを強要し、納期を短縮させ、職人を馬鹿にし、挙句の果てに過労で倒れさせた。その上「職人猿でもできる作業」と言い放ったのだ。
「お前は大切な取引先に何をしてるんだ。こちらは仕事を頼む側だぞ。どんな会社であろうとも敬意を持って接するのが普通だ」
飯田部長に責められ、酒井は半泣きで土下座していた。結局、再契約は断ろうという方向で話がまとまりかけた。ところが、その時だった。
「おじいちゃん」
会議室に入ってきたのは、退院したばかりの祖父だった。社員から事情を聞きつけて、家から駆けつけたという。祖父は、新人時代に世話になったという飯田部長との過去を語ってくれた。
「若い頃、担当ミスで案件が暗礁に乗り上げた時、フォローして解決してくれたのが飯田君だったんだ。飯田君は真面目で腕もいい。信用できる相手だ」
「そっか。おじいちゃんが言うなら間違いないね」
だが、無条件で再契約はできない。俺は一つだけ条件を出した。
「酒井係長は、今後一切我が社に関わらせないでください。彼は我が社の大切な職人を馬鹿にしました。俺にとって、それは絶対に許せないことなんです」
飯田部長は力強く頷いた。
「もちろんです。上層部に報告し、処分を与える予定です」
「たかがこの程度のことで」
「お前は事態の重さを分かっていない。それと、部下に自分のミスを被せていた件もあるぞ」
飯田部長によると、酒井はこれまでも部下に責任を押し付けるようなことを繰り返していたらしい。弱い立場の部下が証拠を集めており、昨日それが正式に認められたという。酒井の処分は、もう決まっていたのだ。
祖父の言葉に、酒井はぶるぶると震え出した。
「だ、頼む。水に流してくれ」
すがりつこうとする手を、俺は避けた。
「絶対に許さないと言いましたよね。きちんと処分を受けて、心の底から反省してください」
酒井は絶望の表情で、その場に崩れ落ちた。
後日、飯田部長から連絡が来た。酒井は平社員に降格となり、車両変電室へ異動になったという。昇進の可能性はゼロ。主な仕事は備品補充と清掃だそうだ。結婚を約束していた女性にも振られて、周囲に味方する者もいないらしい。
幸い、酒井が電話で口にしていたような我が社の悪評が広まることはなかった。人を人とも思わない態度を続ければ、いずれ自分に返ってくる。当たり前のことだが、酒井の姿はそれを改めて教えてくれた。
「自業自得というやつですね」
俺は契約書にサインをした。再契約は余裕のある納期に加え、報酬も上乗せしてもらえた。
病気から回復した祖父は自宅療養を続けながら、俺や会社を見守ってくれている。倒れた職人も無事に復帰し、工場に顔を出してくれた。
「社長、心配かけたな。もう若い頃みたいには無理できねえが、まだまだお前を支えてやるよ」
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
その言葉に、思わず目頭が熱くなった。変わらず俺には頼れる人たちがいる。そのありがたさを、社長になった今だからこそ強く噛みしめている。深々と頭を下げる俺に、職人は優しく肩を叩いた。
「さて、仕事するか」
飯田部長を見送った後、俺は笑顔で呟いた。皆の期待に一日でも早く応えられるよう、俺は今日も一生懸命働いている。


