父の誕生日に、雑誌で評判の高級レストランを予約した。家族でそんな店に行くのは初めてで、父も母も上品な個室で料理を味わいながら、自然と笑顔になっていた。「ありがとうな。こうして家族で出かけることも久しぶりだったから、本当に嬉しいよ」という父の言葉に、俺も心から笑顔で応えた。だが、デザートの後に席を外した廊下で、まさかあの男と鉢合わせするとは思わなかった。「お前みたいな底辺のバカが、なんでこんな…

父の誕生日に、雑誌で評判の高級レストランを予約した。家族でそんな店に行くのは初めてで、父も母も上品な個室で料理を味わいながら、自然と笑顔になっていた。「ありがとうな。こうして家族で出かけることも久しぶりだったから、本当に嬉しいよ」という父の言葉に、俺も心から笑顔で応えた。だが、デザートの後に席を外した廊下で、まさかあの男と鉢合わせするとは思わなかった。「お前みたいな底辺のバカが、なんでこんな...

父の誕生日を祝うために選んだのは、雑誌やSNSでも評判の高級レストランだった。家族でこんな店に来るのは初めてのことだ。上品で現代的な個室に通され、父も母も料理を味わいながら自然とほころんだ表情を見せていた。

「ありがとうな。こうして家族で出かけることも久しぶりだったから、本当に嬉しいよ」

そう言って微笑む父に、俺も笑顔で応えた。最近は仕事のことで気が沈みがちだったから、このひとときはいい気分転換になっていた。コースも終盤に差し掛かり、デザートのあとにコーヒーと小菓子が運ばれてきた頃、俺は一旦手を洗うために席を外した。

戻り道の廊下で、前方から歩いてくる男性と目が合った。その瞬間、相手は驚いたように立ち止まり、口を開いた。

「お前……」

坂野部長だった。まさかこんな場所で出会うとは思っていなかった。俺たちが務める大手スーパーの、新しく赴任してきたばかりの部長。名門大学を卒業し、ここに来る前は総務部で副部長を務めていた人物だ。昇格してこの部署にやってきたのだが、直接商品に関わる仕事は初めてだという。赴任してからもう二ヶ月が経とうとしているのに、彼は仕事を覚えるどころか、最低限のことさえ部下に丸投げする始末だった。

「お前みたいな底辺のバカが、なんでこんな高級レストランに来てるんだよ。俺でさえなかなか予約が取れない人気店なんだぞ。間違いも花々しいだろう」

ジャケットを着てはいるものの普段着の俺を、彼は品のない目つきでじろじろと値踏みしながら大声でまくし立てた。店内に響き渡るような声だ。彼自身も一応ジャケットを着てはいたが、その太い首元や腕には派手な装飾がじゃらじゃらと巻きつけられていて、上品で静かなこの店の雰囲気にはまったくそぐわない格好だった。

「今日は父の誕生日だったので」

言葉少なに答えた俺に対し、坂野部長はますます調子に乗ったように言い放った。

「ふん。お前みたいな底辺バカの家族には、どう考えても不釣り合いな店だな。それも誕生日だって? お前らはお前らしく、そこら辺のファミレスで十分だろうがよ」

でっぷりと肉のついた顎を揺らしながら、彼は嫌みたっぷりにそう言って、ひとりで下品に笑った。俺はさすがに頭に来た。自分のことを何と言われようが構わないが、大事な家族のことを馬鹿にされる筋合いはない。

「どこで食事を取ろうと、私たちの勝手ではないですか」

気づけば言い返していた。すると坂野部長は一瞬虚を突かれたように息を飲み、直後には顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

「お前、なんて口の聞き方をしているんだ? 俺はお前の上司だぞ。それをそんな揚げ足取りでバカにしよって」

ぶるぶると震えながら、彼は俺をひどく睨みつけた。

「そもそもお前はバカのくせに生意気なんだ。いっつも不満そうに俺を睨みつけやがって。現場上がりのバカ息子の親なら、どうせ底辺バカだろう。ここはお前ら底辺家族が来ていい店じゃない」

「坂野部長、それはさすがに失礼です。俺のことは何を言われてもいいですが、家族のことまでとやかく言われる筋合いはありません」

割って入った俺のその態度も、結局は彼の怒りに油を注ぐ形になってしまった。もはや口から泡を飛ばす勢いで、彼は食ってかかってくる。

「うるさい! もう一分一秒でもその顔を見たくない。早く親を連れてここを去れ。明日も仕事に出てくるなよ。俺の視界にその馬鹿面を晒してみろ。お前なんてやめさせてやる」

廊下に響く彼の怒声。その時だった。

「おい、一体何の騒ぎだ。想像店に迷惑じゃないか」

廊下の突き当たりにある個室から、俺の父が出てきて静かに俺たちを一瞥した。慌てて俺は姿勢を正す。しかし、あれほど興奮していた坂野部長が、何も言わない。どころか、真っ赤に染まっていたはずの顔を分かりやすく青ざめさせて、不気味なほど無言で固まっている。

「坂野部長?」

呼びかけると、彼は我に返ったように限界まで目を見開き、わけがわからないという顔で俺を見た。

「なぜ会長がここに……というか、今『父さん』と言ったか? お前の父親が会長? 嘘だろ?」

まるで幽霊でも見たかのように、彼はぶつぶつと呟いた。そういえば、坂野部長は父の顔を知っているのだった。実は俺の父は、俺たちが務める大手スーパーの現会長を務めている。もともと祖父が経営していた小さな町のスーパーを、父は一代でここまでの大手に育て上げたのだ。現在は社長を弟に任せ、父は会長という一歩引いた立場で人材の育成に積極的に取り組んでいる。

そして、俺は立場上、次期社長ということになっている。ただ、会長の息子だと色眼鏡で見られたくなかったから、それを隠して会社に就職していた。名前は同じ渡辺ではあるけれど、ありふれた苗字だったため特段注目されることもなかった。顔も完全に母似なので、今まで職場で気づかれたこともない。俺の正体を知っているのは会社の上役の一部だけで、もちろん坂野部長も知らない。自社の会長の顔こそ知っていても、その息子がまさか自分の部下にいるなど想像もしていなかったことだろう。

ちなみに、俺が数年実店舗で経験を積んだのも先々を見越してのことだ。いずれ社長になる身なら、実際の店舗で学んだ肌感覚が必ず役に立つ。特にスーパーは消費者の声が日々生で届く場所だ。お客様が今何を求めているのか、どうして欲しいのか。それを見極める力がなければ、会社は立ちまち立ち行かなくなってしまう。

「現場あっての我々だ」

父は常日頃、口癖のようにそう言っていた。

「会長……えっと、これは……」

先ほどまで俺に対する理不尽な怒りで顎を震わせていた坂野部長も、今度は別の意味で体ごと震わせながら言い訳を口にしようとした。だが、あわあわと要領を得ない声を遮るように、父が鋭い視線を彼に投げかけた。

「君は渡辺の上司の坂野君だね。残念だが、君の大声はこちらにも筒抜けだったよ。そもそも、こんな場所でそんな大声を出すこと自体、褒められたものではない」

家ではごく普通の優しい父だが、こと仕事に関しては、傲慢ではないものの厳しい面を見せることを俺はよく知っている。俺にとって父は経営者としても尊敬できる存在だが、予想外のことが起きて気が動転している坂野部長には、その厳しさが必要以上に強く見えているらしかった。

「すみません。すみません」

父に一瞥された坂野部長は、もはや顔色を真っ白にさせてその場でへなへなと座り込んだ。そして土下座の姿勢を取って、力ない謝罪を繰り返す。

だが、土下座されている父はと言えば、どこか困ったようにため息をつき、それからごく静かな声で坂野部長に言葉をかけた。

「先ほどの言い争いは、私の息子にも落ち度がないわけではない。だが、いくら自身の部下だからと言って、あんな暴言を吐いていいわけがないのは、君も分かっているだろう」

諭すようなその口調に、坂野部長の肩がびくりと引きつった。

「彼らもそれぞれ家庭で大事に育てられた息子や娘だ。本人やその家族を、上司が勝手にバカにしていいわけがない。『底辺のバカ』などという、あんなひどい言葉を他人に向けて二度と使うな」

そうぴしゃりと言い放つと、それきり父は母を伴って出入り口の方へ歩いて行ってしまった。俺はしばらく迷い、それから未だ床に座り込む坂野部長に対して一度頭を下げた。

「先ほどは失礼しました。売り言葉に買い言葉で言い争ってしまったことを謝罪します」

だが、坂野部長は俺の声が聞こえているのかいないのか、頭を伏せたまま微動だにしない。丸まったその背中をわずかの間見つめて、俺もそれきり何も言わずに父と母の後を追ったのだった。

それから数日後、坂野部長は上からの判断ということで、徹底的な社内調査を受けることとなった。

「ねえねえ、聞いた? 坂野部長の件」

「知ってる。社内調査だろ? 唐突だったからびっくりしたけど、まあ俺たちにとっては幸いだな」

「だよね。本当にあの人の元で働くのは苦痛で仕方なかったから。これを機に全部調べて、色々と明るみに出て欲しいわよ」

「でも本当に突然だったわよね。何かあったのかしら?」

言わずもがな、あのレストランでの一件からの会長命令なのだが、それを知らない同僚たちの間では、誰かが上層部に坂野部長のことをリークしたのではないかと、しばらく噂が立っていた。

そして調査の結果、今までの職務怠慢や部下に対する暴力的な態度が次々と明らかになり、坂野部長は役員会議にかけられることとなった。上層部の判断は、彼の役職の剥奪。そして本社からグループ会社への移動だった。いわば、坂野元部長は平社員に降格の上、左遷されて、二度と戻って来られないという噂の僻地へ飛ばされることとなったのである。

坂野部長の代わりに新しく移動してきた部長は、系列の店舗で実際に働いていた経験もあるらしく、「現場あっての我々」という父の言葉をよく理解している人物だった。俺が会長の息子だということは知らないらしいが、時々休憩時間などに現場での苦労や面白い話を聞かせてくれる、親しみやすい部長だった。

それとともに部署内に淀んでいた鬱々とした空気も一掃され、俺はもちろんのこと、同僚たちの顔つきもようやく晴れやかなものになった。活気を取り戻した職場では、今日も社員たちが忙しくも充実した毎日を過ごしている。俺も、尊敬する父の背中に少しでも追いつけるよう、日々謙虚に学ぶ姿勢を大事にしながら、自身の仕事に打ち込んでいる。

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