夕方、玄関のインターホンが鳴った。ドアを開けると、そこには数日前に私を「高卒で五十五歳以上は全員解雇」と切り捨てた新社長の竜星と、その甥の菅川が立っていた。二人とも顔色が悪く、菅川に至っては涙目だ。「お前のせいで二百七十億の契約が飛びかけてる。戻ってこい」と竜星が怒鳴る。だが、私を追い出したのはあなただ。「高卒は会社のお荷物」と言ったのもあなただ。私は静かに問い返した。「なぜ、私の住所を知っ…

夕方、玄関のインターホンが鳴った。ドアを開けると、そこには数日前に私を「高卒で五十五歳以上は全員解雇」と切り捨てた新社長の竜星と、その甥の菅川が立っていた。二人とも顔色が悪く、菅川に至っては涙目だ。「お前のせいで二百七十億の契約が飛びかけてる。戻ってこい」と竜星が怒鳴る。だが、私を追い出したのはあなただ。「高卒は会社のお荷物」と言ったのもあなただ。私は静かに問い返した。「なぜ、私の住所を知っ...

新しい社長が声を張り上げた。高卒で五十五歳以上は全員解雇する。目の前に立っている人物が本当にこの会社の社長なのか。いや、まともな大人なのか。俺は真剣に悩んだ。

新社長の竜星と、その甥である菅川が俺を呼びつけた。現場の注意をした結果、社長室でとんでもない宣告を受けたのだ。

こんな会社はこちらから願い下げだ。俺は二人を睨みつけた。

俺の名前は小森。五十六歳の会社員だ。高校を卒業してから、ずっと今の会社で働き続けている。管理職への打診は何度かあったが、技術者として現場重視で働くのが合っている。課長や部長ではなく、技術主任という立場だ。高卒と聞いて見下す人間は一定数いるが、俺は気にしたことがない。若い頃は高卒も珍しくなかった。

明確な将来の夢はなかったが、強いて言うなら興味のある分野で働くことだった。技術者はこれからも必要とされるだろう。機械も好きだった。工業高校を選び、優秀な成績を収めて、今の会社に推薦で入社した。

会社はプラント設備メーカーだ。科学製品や石油製品を製造する大規模な工場の設計を手掛けている。いわば工場の心臓部を作る仕事だ。

数ヶ月前、俺がおよそ二十年かけて開発した安全機構の特許が正式に登録された。二十年前、俺が三十代の頃だ。ある化学プラントで起きた事故のニュースを見て、このアイデアが浮かんだ。異常を検知してから全ラインが停止するまで、あと〇・三秒でも早ければ人命が救えたはずだ。従来の安全装置は検知から停止まで平均二・五秒かかる。俺が開発したのは、多段センサーと予測アルゴリズムを組み合わせた機構で、これを〇・八秒まで短縮した。

何度も実験を繰り返し、諦めかけたこともあった。だが仙台社長は、小森君の技術は必ず何人もの命を救うことになると信じて支援してくれた。特許が登録されたことは、俺の技術者人生でこれ以上ない誇りだ。社長も喜んでくれて、苦労をねぎらってくれた。

開発者として、小森君の名前はしっかり載せている。君は我が社の誇りだ。社長が笑いながらそう言ってくれた時、不覚にも目頭が熱くなった。

その世話になった社長が引退したのは二ヶ月前のことだ。高齢であることと、趣味の旅行がしたいというのが理由だった。息子の竜星が新社長に就任したのはいいが、竜星はいわゆる親の七光りの典型だ。有名大学を卒業し、大手企業で数年働いた後、三十代でうちの会社に入ってきた。経験を積むために外で働いていたとのことだが、現場経験はゼロに等しい。管理部門を点々とし、結局は創業者の息子だからという理由だけで社長になった。

俺は個人的に仙台に恩があるし尊敬しているが、この決定だけは納得がいかない。社員たちも当然不満で、この件に関する噂があちこちで聞こえてくる。竜星は仙台が大切にしてきた現場第一の方針よりもスピード重視、品質よりも見栄えばかりを気にする男だ。仙台を支えてきた古参の社員たちが説得しているようだが、俺の決定が全てだ、俺のやり方で新しい風を入れると権力を振りかざしているらしい。

俺は社長就任挨拶の時に顔を見た程度なので真実かどうかは分からないが、実際に社内がピリピリしているのを見ると本当なのかもしれない。

そんなある日、技術開発部に新卒が配属されてきた。菅川という二十四歳の男性だ。有名大学の大学院を出たエリートらしい。しかし部署のみんなの顔が明るくないのは、菅川が竜星の甥という点のせいだろう。ちなみにこの情報は、菅川自身が自己紹介の際に言っていたことなので間違いない。

竜星おじさんには小さい頃から可愛がってもらってたんですよね。親にもお前は特別なんだって言われて育ったし。正直、就活とかだるいんで、おじさんにお願いして一発もらっちゃいました。

その発言を聞いた時、俺たちの表情は凍りついた。みんな口にこそしなかったが、思ったことは共通していた。厄介そうな奴が入ってきた、と。

自己紹介からしてそんな調子で、菅川は新人とは思えない尊大な態度で周囲を振り回した。

僕はエリートなんで、基礎なんか必要ないですよ。

教育係の若手社員が基礎から教えようとしても鼻で笑う。挙げ句に勝手に自己流で進めてミスを連発することは数えきれなかった。教育係が注意しようものなら、いいんですか?僕、竜星おじさんに可愛がられてきたって言いましたよね。と圧力をかけてくる。

教育係が困り果てているのを見かねて、俺はついに口を出した。

菅川君、基礎をおろそかにしちゃいけない。確かに君の学歴はすごい。社長の甥ということも事実だ。でも会社で仕事をする以上、そんなものは関係ないんだよ。

もちろん、そんな苦言を呈したところで菅川が素直に謝罪するとは思っていなかった。現にこの発言で菅川は眉を釣り上げている。

はあ。関係ないことないでしょ。僕はあんたたちと違って、スピード出世していくのが確約されてるんです。その僕に目をつけられないようにするのが、あんたたちにとって最善だと思いますけど。

正直、どこから突っ込んでいいのかさえ分からない。

大体、やり方がいちいち古いんですよね。効率がなってないっていうか。

基礎ができないうちから効率を語るのはどうかと思うよ。仮に君の言う通り出世が進んだとしても、そんなものに何の意味がある。知識も経験もない上司なんて、ただの飾りじゃないか。君は将来そんな人間になりたいのかい?違うだろ。

少しきつい言い方になったかもしれないが、俺は真剣に菅川に訴えかけた。菅川は決して能力がないわけではない。悲しいかな、考え方をこじらせているだけなのだ。同じ部署に配属された先輩として、どうにかできないかと考えての行動だった。

だが、菅川にとっては逆効果だったらしい。

偉そうに。小森さん、他の人から聞きましたけど、高卒だそうじゃないですか。そんな人がよくも僕みたいな人間にとやかく言えましたね。今日のこと、よく覚えておきますから。

菅川はそう言って、部屋を飛び出していった。教育係や他のみんなには、よく言ってくれたと言ってもらえたのだが、俺は心にモヤモヤを残すことになった。

あの出来事から数日後、俺は業務中に菅川から声をかけられた。

竜星おじさんがお呼びです。

まるで勝ち誇ったかのような顔に、俺は眉をひそめた。瞬間的に先日の出来事が頭をよぎる。菅川の発言を聞いていた同僚たちも同じことを考えているのだろう。不安げに俺を見ている。ここで拒否しても無駄だろうな。俺は小さく息をつき、菅川を見据えた。

分かりました。俺は短く答えて席を立った。

社長室に入ると、新社長の竜星が単刀直入に切り出した。

小森君といったね。君、私の可愛い甥に侮辱的なことを言ったそうじゃないか。

竜星の隣に立った菅川がニヤニヤと俺を見ている。あまりに精神的に幼すぎると、俺は呆れてしまう。

侮辱はしていません。注意をしただけです。菅川さんは基礎をおろそかにし、力量に合わない仕事で部署に迷惑をかけています。

事実を述べるが、竜星は首を横に振る。

私の甥に、ただのお飾りエリートと言ったと聞いているが。

竜星の発言で、俺は思わず菅川に視線を向ける。すると菅川はわざとらしく「ひっ」と悲鳴をあげ、竜星の影に隠れた。

言っておりません。知識も経験もないお飾りのような上司になりたいのかと尋ねただけです。基礎ができていなければ、誰にでもそうなる可能性があります。

ですから、それが侮辱だと言っているんだ。竜星の怒声に、俺の発言は掻き消される。自分の身内に楯突いたという事実が気に食わないだけで、理由なんてどうでもいいのだろう。

全く、甥の菅川君の言う通りだよ。君のような古い考えの人間が、我が社の改革を邪魔しているんだ。

改革という単語が出てきて、俺は顔を上げた。竜星は菅川と視線を交わしながら、俺に笑いかけるような視線を向けている。

僕が小森さんにされた仕打ちを話した時に言ったんですよ。小森さんみたいな人が会社を停滞させるんだってね。

竜星が頷きながら言葉を続ける。

私が新社長になったからには、この会社を改革するのが使命だと思っている。古いものを一掃し、新しい風を呼び込まないと、今の時代は生きていけん。

極論だと俺は心の中で呟いた。

生産性の低い層を整理することこそが、改革には必要なんですよ。

俺が否定しようとした瞬間、竜星は俺に指を突きつけた。

ちょうどいい機会だから、高卒で五十五歳以上は全員解雇しよう。聞けば君は五十六歳の高卒らしいじゃないか。再就職も難しいだろうが、まあ頑張ってくれたまえ。会社のお荷物にはふさわしい待遇ですね。

竜星と菅川が揃って笑っている。身内ということもあってか、下品でそっくりな笑い方だった。

本気でそう考えていらっしゃるのですね。俺は短く問う。これ以上喋ると笑ってしまいそうだった。あまりに非常識で、本当にこれで会社の社長なのか信じられない。そもそもいくら社長の方針とはいえ、こんなことがまかり通るはずがない。労働基準監督署に訴えたら一発だろう。いや、その前にネットで発信したら炎上不可避だ。

冗談だと思いたい気持ちは分かるが、間違いなく本心だ。竜星と菅川は俺の呆れ果てた心も知らずに堂々と言う。この会社はもう終わりだな。仙台が築き上げたものを、たった二ヶ月でここまで壊すとは。頭の中に高校卒業から今までの三十八年間の出来事が流れていく。仙台への恩は忘れていないが、ここまでされたならもういいだろう。

他にも気にかかることがあったが、新社長自ら俺を解雇する方針を固めている。だったら俺が取る選択は一つだろう。

あなた方が改革を取る会社なんて、こちらから願い下げです。引き継ぎ業務を済ませましたら、退職させていただきます。

俺の潔い態度に、竜星たちは少し驚いた顔になる。しかしすぐにまた笑い始め、俺を馬鹿にした。

はっ、その潔さだけは認めてやろう。何事も諦めが肝心ですよね。

竜星と菅川の笑い声が神経を逆撫でしてくるが、俺はぐっとこらえた。笑っていられるのは今だけだろうから。

こうして俺は、高校卒業からおよそ三十八年勤めた会社を辞めることになった。即日退職を受け入れたのは、竜星たちがこれ以上俺と関わりたくなかったからだろう。俺としてもそれで好都合だった。

退職が成立した翌日、俺は縁側で緑茶をすする。膝の上では飼い猫が二匹、場所の取り合いをしていた。

こういうことしてみたかったんだよな。仕事の忙しさから、こんなにゆったり過ごしたことは数える程度しかない。

あなた、着信が来てるみたいよ。さっきからずっとブーブーうるさいわ。

妻が奥から顔を覗かせている。着信音の代わりに設定したバイブレーションのことを言っているのだろう。今回退職したことは後悔していないが、唯一の心配が妻だった。だが、会社から帰って伝えた時、妻は思いのほかケロっとしていた。

あら、そう。そんなくだらないことを言う会社なんてやめて正解よ。なんなら少しぐらいゆっくりしなさいよ、と言ってきて、俺が驚いたくらいだ。

でも、あなた本当に大丈夫なの?

少し心配そうに訪ねてくる妻に、俺は静かに答えた。

ああ、退職金もあるし、何より俺の技術を必要としてくれる場所は他にもあるさ。

そうね。あなたのこと、私もずっと誇りに思ってたのよ。

妻のその言葉に、俺は少し救われた気がした。俺は妻の知らせに首だけ向けて返事をする。

ああ、確認する。

猫たちには申し訳ないが、俺はゆっくりと腰を上げることにした。

リビングに行くと、置きっぱなしにした俺のスマホがソファの上で震えている。画面には知らない番号が表示されていた。迷惑電話かとも思ったが、電話が切れたタイミングで確認するとなんと、この時点で五十件超の履歴が残っていた。

留守電も何件か入っていたので再生してみると、その声の主に俺は驚いた。声の主は、俺が辞めた会社の新社長、竜星その人だったのだ。ちなみに電話をかけた時に一緒にいたのだろう。菅川らしき人物の声も混ざっている。今更何なんだ?

俺はいくつか留守電を再生していく。どの音声も感情的で、聞くに耐えない。

お前が特許の開発者なんて聞いてない。

主に言っているのは、この特許のことだった。俺は数ヶ月前に登録が完了した特許のことを思い出す。ああ、このことか。

俺が退職を決意した際、頭に浮かんだのがこの特許だった。竜星が新社長になる少し前。会社は大型案件の受注に向けて動き始めていたのだ。二百七十億円にもなるプラント設備案件で、最終的なプレゼンテーションを控えていた時期だった。この設備の鍵は、俺が開発した特許安全機構だった。

つまり、俺に解雇を告げた時、竜星も菅川も特許技術を開発したのが俺だとは知らなかったという話だ。甥の菅川はともかく、社長の竜星が知らなかったというのは無理がある。

親父から特許の話は聞いてたが、書類なんて見てなかったんだ。まさか現場の高卒が開発したなんて思わないじゃないか。大学の研究者か、最低でも本社のエリートが開発したと思ってたんだよ。

留守電の中でそう言っているのが聞こえた時、俺は思わず吹き出した。

あなた、何の電話だったの?

洗濯物の籠を持った妻が後ろから聞いてくる。俺はふっと笑って、もう関係ない電話さ、と答えた。

それから数時間後のことだ。夕方になった時点で、竜星の着信履歴は百件を超えていた。うわ、と俺はスマホを手に取って思わず顔をしかめる。振動もオフにしていたので、着信に全く気がつかなかったのだ。ブロックすれば良かったのかもしれないが、電話が繋がらないことに焦ればいいと思って放置していた。とはいえ、まさかこの数時間でさらに五十件以上電話をかけてくるとは思わなかった。そのうち諦めるだろうと思っていたのだ。どうやらよっぽど俺に言いたいことがあるらしい。

異常だな。呆れながらそう呟いた瞬間だった。インターホンの音がして、妻が対応するのが聞こえてくる。

え、あの、何なんですか?

妻の訝しげな声が聞こえてきて、俺は妻に近寄る。妻は困惑した表情でこちらに視線を向け、インターホンのカメラ映像を指さした。そこには、見覚えのある人物が二人立っている。竜星と菅川だった。

カメラ越しでも分かるほど、二人の見た目はげっそりしている。特に菅川は鼻をすすってはすすり泣く状態だ。

お宅のご主人に話があるんですよ。竜星はカメラに向かって吠えている。何の用事かは知らないが、こんなに感情的になっている人間を家に上げるわけにはいかない。

なぜうちの住所を知っているんですか?

俺が短く尋ねると、俺の声に二人が反応する。小森、なぜ電話を無視したんだ?小森さん、助けてください。二人ともかなり切羽詰まっているようだ。どうやら俺が電話を無視するので、人事部から無理やり俺の個人情報を引き出して住所を確認したらしい。どこまでもむちゃくちゃな人たちだ。ちらりと妻に視線を移すと、呆れ果てている。

とにかく入れてください。話をさせてくださいよ。

菅川の情けない発言に対し、俺は真っ向から否定する。

申し訳ございませんが、こちらとしては話すことは何もございません。お引き取りください。

と告げた瞬間、鈍く大きな音が鳴り響いた。竜星が玄関のドアを蹴ったらしい。

おい、ふざけるな。お前のせいで二百七十億の契約が流れそうになってんだぞ。先方が開発者本人から直接説明を受けたいと言ってるんだ。お前じゃなきゃダメだって言ってるんだ。責任を取れ。

妻がスマホを取り出すのが見えた。おそらく、いつでも通報できるよう準備しているのだろう。

退職の際、しっかりと後輩たちに引き継ぎはしましたが、これ以上騒ぐと警察を呼びます。俺は警告する。菅川がまずいですよと竜星の袖を引っ張るが、竜星は完全に頭に血が登っているようだ。うるさいと菅川を振り払う。

和解金は出してやるから戻ってこい。もう一度、ガンと玄関から音が聞こえてきて、妻が迷わず通報する。俺から少し離れて、ことの詳細を電話で話し始めた。

俺はやれやれと首を横に振る。これでもう最後だと心の中で呟き、竜星たちに告げた。

私は自分の意思で会社をやめました。その選択は正解だったようですね。まるで話にならない。あなたに人の上に立つ資格なんてない。菅川君も君も同様だよ。もう私に関わらないでくれ。

俺はそう告げて、インターホンの通話を切る。しばらく外から玄関を蹴る音と竜星の怒声、竜星を止めようとする菅川の声が聞こえてきたが、少ししてパトカーが到着すると、音も怒鳴り声もぴたりと止んだ。

それから数年後、俺は友人の会社で新たな安全機構の開発に成功し、去年待望の特許を取得することができた。業界誌にも取り上げられ、複数の企業から技術提供の依頼が来ている。技術者冥利に尽きるというものだ。

元職場は、以前とは見る影もない状態だ。あの二百七十億の契約が流れた後、業績が急激に悪化したと聞いている。優秀な技術者たちも次々と辞めていったそうだ。竜星は社長の座を追われ、菅川も一緒に会社を追い出されたらしい。教えてくれたのは、俺がお世話になった仙台だった。

全ては私の責任だ。本当に申し訳なかった。小森君にも社員たちにも申し訳ない。

そう謝罪する仙台の声は震えていた。今では、俺が技術の引き継ぎをした後輩たちが特許に関して何とかしているらしい。

人の命を守ることに、俺の技術が役立つのだ。それを誇りに、これからも頑張ろう。

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