「金庫の五百万がない。お前の仕業だな。この泥棒女が」
健一の怒号が家中に響き渡り、投げつけられた皿が私の顔をかすめて背後で粉々に砕けた。破片が床に散らばるのを見下ろしながら、私は思わず息を呑んだ。夫の声はこれまでにない狂気を帯びていた。
「ま、待って。そんなの私、知らないわ」
「黙れ」
そう言うと健一はスマホを取り出し、躊躇なく一一〇番通報した。電話越しに機械的で冷淡な言葉が流れる。
「はい。嫁が金を盗みました。今すぐ来てください」
やがてサイレンの音が近づいてくる。警察官が家に上がり込み、事情を確認すると、私に向かってこう言った。
「奥さん、署までご同行をお願いします」
このままでは本当に泥棒にされてしまう。胸が締めつけられるような恐怖の中、私は静かに口を開いた。
「じゃあ、証拠動画を提出しますね」
健一がぎょっとしたように振り向く。
「は? 動画? 何のことだよ」
先ほどまでの自信満々な様子はどこへやら、夫は突然たじろぎ始める。その情けない声を聞いた瞬間、私の中で感情が切り替わった。逃げる側から、事実を突きつける側へ。
「あなたが何をしたか、全部知ってるから」
健一の顔色がみるみる青ざめていく。私はゆっくりとスマホを操作し、警察と夫が見守る中、クラウドに保存された真実へとアクセスした。
私が健一と出会ったのは、友人に半ば強引に連れて行かれた婚活パーティーだった。「せっかくだから私もいい人と出会いたいな」と思いながら会場を楽しんでいた。休憩がてら片隅で静かに飲み物を飲んでいた私に、スーツ姿の男性が近づいてきた。
「よろしければ、少しお話ししませんか?」
その一言をきっかけに、私たちの距離は一気に縮まった。彼の名は木村健一。亡き父から大企業を継いだ二代目社長だ。それから約一年の交際を経て結婚した。
結婚後、健一は私に専業主婦となるよう望んだ。私は悩んだが、彼を支えることに決めた。会社員として築いてきたキャリアを手放し、専業主婦の道を選んだのだ。
一方、私の実家では深刻な問題が起きていた。父和吉が営む町工場が、取引先の倒産で資金繰りに行き詰まってしまったのだ。廃業寸前に追い込まれたそのとき、健一の会社が工場の技術に目を止め、新規取引が決まった。おかげで安定した受注が入り、父の町工場は奇跡的に息を吹き返す。
父は胸を撫で下ろし、私は健一への感謝の気持ちを深めていった。さらに妹の望美も健一の会社に採用され、若くして責任ある仕事を任されるようになる。こうして実家は丸ごと健一に支えられているような形になり、私にとって夫はますます逆らえない存在となっていった。
しかし結婚から半年が過ぎた頃、かつては優しかった健一は、いつしか私を女性として見なくなってしまった。話しかければ鬱陶しそうに視線をそらされ、触れようとしても冷たく手を跳ねのけられる。夫婦としての関係は日に日に冷えていく。唯一変わらず私に要求されるのは、完璧な家事と従順さだけだった。
義母の富佐子からは毎日のように電話やLINEで同じ言葉が飛んでくる。
「早く健一の後継を生みなさいよ。子供も生まずに専業主婦を気取らないで。息子の足を引っ張るんじゃありません」
繰り返される苦言を聞かされ続けたが、子供作りに消極的なのは私ではない。私を拒んでいるのは健一だ。こんな冷え切った夫婦関係で子供などできるはずがない。しかし義母は私が反論するたび、言い訳するなと一蹴した。
健一にとって私は、身の回りの世話を無償でやってくれる便利な使用人という考えのようだった。逆らえば手を上げられることもあった。
「もういい。私が我慢すればいいんだよね。そうすれば全てが丸く収まる」
そう自分に言い聞かせ、私は毎日をやり過ごした。夫に嫌われさえしなければ、父の工場にも妹の仕事にも悪影響が出ない。それだけを支えに過ごした。
だが、そんな思いは夫には届かなかった。健一は次第に私への関心そのものを失い、生活費の振り込みも突然止めてしまった。
「あのね、今月の生活費が入っていないんだけど」
「もういいだろ、そんなもん」
「はぁ? 私は専業主婦だろ。一体何に金を使ってるんだ? そんなに困るほど金がないのか」
「必要よ。だって私、あなたの生活を支えているんだから」
「はあ? それが専業主婦だろ。俺が働いて稼いで、お前は家でのんびり家事してりゃいいじゃん。なんで金がいるんだよ」
「のんびりなんてしてないわよ。毎日あなたの帰りを待って、食事も掃除も全部やってるのに」
「飯作って掃除したくらいで偉そうにすんなよ。ふざけるな」
健一は怒り始めた。怒りを買えば何をされるかわからない。私は仕方なくパートと在宅ワークを掛け持ちし、睡眠時間を削って稼ぐようになった。それでも少しでも家事がおろそかになると、容赦なく罵声が飛んでくる。私は謝ることしかできなかった。夫を怒らせると、夫の元で働く妹や父の会社にまで影響が出るかもしれない。そのため、ひたすら機嫌を損ねないよう耐えるしかなかったのだ。
ある日、事件が起きた。夫が接待ゴルフで不在のときだった。掃除をしていた私は、祖母の形見である高価な指輪がなくなっていることに気づいた。大切に保管していたはずの場所から忽然と消えていたのだ。
「もしかして、泥棒? この前まで間違いなくここにあったはずなのに」
しかし、嫌な考えが頭をよぎる。まさか健一の仕業ではないか。胸がざわついた。だが証拠はない。問い詰めれば逆上されることがわかっている。そのため私は夫に内緒で、リビングと寝室に防犯カメラを設置した。カメラは防犯対策という名目で購入したが、本当の目的は夫の行動監視だった。
「夫婦なのに夫を疑うようなことはしたくないけどね」
カメラ設置から数日後の夜、私のスマホが鳴り響いた。妹の望美からだった。声は震えている。
「お姉ちゃん、助けて」
「望美? どうしたの?」
「健一さんに、無理やり……何ですって?」
望美は涙ながらに、健一から無理やり関係を迫られたことを打ち明けた。仕事の相談に乗るという名目で個室に呼び出され、二人きりになったところで迫られたらしい。当然拒否する望美だったが、怒鳴られ、髪を掴まれ、強引に引き寄せられた。なんとか振り切って逃げ帰るのがやっとだったという。
「ごめんね、望美」
電話を切り、私は震える足でリビングへ向かった。当の本人である健一はソファにもたれかかり、呑気にビールを飲んでいる。
「健一、望美に何をしたの?」
問い詰めると、健一はゆっくりと顔を上げ、口元を歪めた。
「何って、可愛いだろ? 俺が可愛がってやってんだよ」
少しも隠そうとしない。言い訳するどころか、悪びれる様子すらない。
「ふざけないで。あの子は嫌がってた」
「お前の家族は全部俺の所有物だろう。俺に逆らえるのか? 文句を言うな。家族揃って絶対服従しろ」
そう言うと、健一は拳を振り上げた。私は危機を感じて逃げ出した。
その日から健一の暴力はエスカレートした。私は機嫌を損ねないよう必死になった。おまけに望美は仕事の後、連日のようにホテルや自宅へ呼び出されるようになった。拒否して泣きながら逃げ帰ってくる日もあったが、健一の執着は異常なほど強かった。さらに郵便受けには差出人のない茶封筒が頻繁に投函されるようになった。中身は、健一に抱きしめられて苦痛の表情を浮かべる望美の写真だった。私はその封筒が健一の会社の経理で使われているものと同じものだと気づいた。明らかな嫌がらせだ。
精神的に限界を迎えつつあった。なぜここまでのことをするのか。あるとき、父の和吉から電話がかかってきた。
「美冬、元気でやってるか?」
その声は優しかった。
「お父さん……」
私は思わず顔を覆った。どう言葉を返せばいいのかわからず、沈黙が流れた。不自然な沈黙に、父は何かを感じ取ったらしい。
「どうしたんだ、美冬」
その問いに、私は絞り出すように答えた。
「うん……健一と、ちょっとね」
決心がつかずにいると、父は黙って私の話を聞いてくれた。話を聞き終えた父は、申し訳なさそうに言った。
「俺のせいだな。俺のせいで美冬に我慢させて、辛い目に合わせて……本当にすまん」
「お父さん……」
「だが、もうあの男の言いなりになるな」
父の声は震え、悔しさが滲んでいた。
「父さんは私の味方なのね。私、もう我慢しなくてもいいの?」
「お父さんが力になってやる」
その言葉が私の支えとなった。
その夜の夕食時だった。健一が突然テーブルを叩き、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「おい、美冬。金庫の五百万がなくなったぞ。お前、盗んだだろう」
叫びと共に手元の皿を私の顔に向かって投げつけてきた。私は間一髪で身をかわし、皿は壁に当たって砕け散った。
「違う。私は知らない」
「うるせえ! 事業資金だぞ。俺が用意しておいた五百万がなくなってるんだよ」
なぜそんな言いがかりをつけるのか。よく見ると、健一の顔は勝ち誇ったように歪んでいる。何か思惑があるのだろうか。
「まったく、姉は犯罪者だし、妹は俺のお願いを断るし。とんでもない姉妹だな」
そう言うと、健一はニヤリと笑って低い声で続けた。
「だが、お前の妹が俺を受け入れるというなら、考えてやってもいい。お前を警察に突き出すのをやめておいてやる」
どうやらそれが目的のようだ。
「お前が犯罪者になるか、妹が俺の愛人を続けるか。二つに一つだ」
私は震えたが、迷わず言い返した。
「私は犯罪者にならないわ。それに望美もあなたの言いなりにはならない」
健一の目が冷たく細められた。
「へえ、言い切ったな。後悔しても知らねえぞ」
そして健一は笑いながら一一〇番した。私たちが睨み合いながら待つこと数分後、玄関のチャイムが鳴った。警察官が二名、落ち着いた表情でリビングへ足を踏み入れる。
「一一〇番通報を受けてきました。金銭の盗難があったとお聞きしましたが」
健一は待ってましたと言わんばかりに作り笑いを浮かべた。
「はい。そうなんですよ。しかしね、困ったことに犯人は妻のようなんです」
そう言うと、健一は私を指差した。
「うちの妻が、私の金庫から現金五百万円を盗みました。会社の事業資金です。このままじゃ会社が大変なことになるんですよ」
被害者のような表情を浮かべて、はっきりと言い放った。警察官は私を見つめた。
「奥さん、本当ですか?」
「違います。私は盗んでなんかいません」
声を震わせながら否定するが、健一が割って入る。
「俺は金を茶封筒に百万ずつ小分けにして金庫に入れていたんです。その五つの封筒が丸ごとなくなっていてな」
そして健一は金庫の中の構造、封筒の数、いつ見たかをスラスラと説明した。まるでこうなることを見越したかのような見事な説明だった。警察官は金庫の確認を求め、私は言われた通り素直に自分の部屋へ案内した。
警察官に呼ばれた先には、私の化粧台の引き出しがあった。その中に、無造作に置かれた五つの茶封筒。中身を確認すると、百万円ずつきっちり入っていた。
「こちらの封筒、旦那さんの説明と一致しますね」
私は夫の方を見る。健一は小さく、しかし確かに口元で笑っていた。
私を落とし入れたのね。
疑念は確信へと変わった。警察官が状況を整理しようとしたそのとき、健一がそっと私に耳打ちした。
「なあ、美冬。妹に愛人を続けろって言ってくれよ。そしたら俺の勘違いでしたって笑って終わらせてやってもいいんだぜ」
ねっとりとした笑いに、私は顔を上げずに黙った。その沈黙に健一は腹を立てたようだ。
「おい、無視かよ」
目がギラついている。
「じゃあお巡りさん、その封筒の指紋を調べてくださいよ。絶対にこいつの指紋が出ますからね」
「まあまあ、落ち着いてください」
警察官は健一をなだめながら、念のため鑑識に連絡をした。数分後、封筒を回収した鑑識の報告が入る。
「封筒から、奥さんの指紋が出ました」
私は息を呑んだ。なぜ私の指紋が。健一が勝ち誇ったように声を上げる。
「ほらな。証拠が出ただろう」
「奥さん、任意同行をお願いできますか?」
私の腕を掴まれそうになった瞬間、私は口を開いた。
「それよりも、防犯カメラを確認した方が手っ取り早いと思いますよ」
私の声は震えていなかった。それどころか、力強いものだった。
「は? うちにそんなものはない」
「ありますよ。防犯対策で設置しましたから。リビングと寝室の天井に」
警察官が天井に視線を向けた。よく見ると分かりにくい場所に、確かに小型のカメラが取り付けられている。
「では、映像を確認させていただきましょうか」
そう言われた瞬間、健一の顔色が変わった。
「だ、だめだ。あれは俺たちのプライベートな姿が映ってるだろうが」
慌てふためきながら叫び、突然別の部屋へ駆け込む。そしてゴルフクラブを取り出した。
「すみません。そういえば明日は接待ゴルフでして。今のうちに道具の手入れをしておかないと……」
そんな説明をしながら、健一はゴルフクラブを持ち出し、わざとらしくカメラの辺りでふらついた。
「なんだか目まいがするな。フラフラする……」
言い訳しながら、リビングの防犯カメラを思いっきり叩き壊した。ガシャン。レンズが砕け飛び、破片が床に散らばる。
「あ、足がもつれて手が滑った」
言い訳しながら証拠隠滅を図ったのだ。警察官たちが驚く中、私は冷静に言った。
「ご安心ください。データはクラウドに保存される設定にしてあります」
警察官は健一に冷たい視線を向けた。
「では、そちらを確認します」
私はパソコンを開き、クラウドにログインした。
「おい、やめろ!」
震える声で健一が叫ぶ。慌てて私のパソコンに手を伸ばしたが、警察に静止された。
「邪魔をしないでください」
やがて画面に映像が映し出される。誰もいないはずの寝室に、健一が入っていく姿が鮮明に映っていた。そして金庫を開け、中から五つの茶封筒を取り出す。健一はその封筒を、ゆっくりと私の化粧台の引き出しへ移し替えた。誰もがその映像を見て固まった。
「これは、どういうことですか?」
健一は歯を食いしばり、額に汗をにじませ、必死に言い訳を探しているようだった。そして絞り出すように言う。
「でも、封筒からはあいつの指紋が……」
しかし、私は畳みかけるように口を開いた。
「以前、私の元に郵便で妹の写真が送られてきたことがあります。そのときの封筒も、写真を入れるために使われていたものも、全部この茶封筒でした。封筒に私の指紋が付いたのは、そのときだと思います」
室内が静まり返った。警察官の視線が健一に集中する。
「あ、あれだよ。勘違いだったんだ。てっきり全部美冬がやったと……」
乾いた笑いを浮かべる健一。しかし警察官は淡々と告げた。
「あなたの行為は、虚偽告訴罪に該当します」
その一言で、健一の表情は凍りついた。
私は、もしこのまま健一が警察に捕まれば解放されるかもしれないと思った。こんな夫なら逮捕されてしまった方がましではないか。そんな考えも頭をよぎった。しかし、健一の性格的に彼がこのまま黙っているはずがない。見下して舐め切っていた相手から、まさかの反撃にあったのだから。予想通り、彼は怒りのあまり唇を震わせて私を睨みつけている。その目には殺意すら宿っていた。
しかし、私は戦うことを決意した。
人を落とし入れようとした人間になんか、負けないわよ。
私はゆっくりと拳を握りしめた。自分のためではない。望美のために。そして父のために。これ以上誰一人、健一の犠牲になることを許さないために。
虚偽告訴の疑いを突きつけられた健一は、警察官に取り囲まれながらもどこかへ電話を入れたようだ。そしてしばらくの間、必死に言い訳を続けた。
「お、俺じゃない。映像もあれは編集されたものだ。今の技術なら映像ぐらいどうとでもできるだろう」
だが、その声には力がなかった。追い詰められた焦りだけが浮き上がっている。しばらくすると、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「こんなときに誰?」
玄関へ向かおうとしたが、それよりも早く一人の女性が勝手に扉を開けて、ズカズカと家に上がり込んできた。
「ちょっと、うちの息子が何をしたって言うのよ!」
怒声と共に入ってきたのは義母の富佐子だった。その後ろには、小柄で白髪混じりの老齢の弁護士が立っている。義母は息子をかばうように腕を広げ、警察官を睨みつけた。
「母さん、助けてくれよ。警察が俺を連行しようとするんだ」
「この子に限って悪いことをするわけがないでしょう。あなたたち、息子を犯人扱いして許さないからね!」
「私たちは、旦那さんから現金盗難の報告を受けてこちらへ伺いました」
警察官が冷静に説明する。
「そして防犯カメラを確認すると、旦那さんご自身が金庫から現金を取り出し、奥さんの引き出しに移す映像が残っていたんです。こちらをご確認ください」
タブレットの画面で映像が再生された。しかし義母は画面を一瞥しただけで叫んだ。
「こんなの嘘よ! AIってやつで作った偽物でしょ。最近流行ってるじゃないの、こういう嘘動画」
必死で息子をかばおうとする。警察官はため息を一つこぼし、淡々と返した。
「映像が本物かどうかは、専門の鑑識が調べればすぐに分かることです。あなたの息子さん、先ほど防犯カメラを破壊していますし、随分行動が不自然ですよね」
義母の顔が一瞬引きつる。それでも引き下がらない。
「とにかくこの子は無実よ! 弁護士さん、あなたも何か言って!」
老齢の弁護士は重たいため息をつき、健一を見た。その視線には呆れと諦めが混ざっている。
「木村さん、あなた本当にやっていないんですか?」
「やってない! 全部出鱈目だ!」
必死に叫ぶが、共に映像を確認した弁護士は首を振った。
「素直に認めた方が、傷は浅いですよ。この映像では、弁護のしようがありません」
「は? あんた誰の味方だよ!」
健一は怒りを抑えきれない。
「私は事実の味方です。依頼人を救える状況ではありません」
そう言い切り、弁護士は書類をしまうと席を立った。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! お金なら払うから、息子を無罪にして!」
義母が叫ぶが、弁護士は背を向けたまま答えた。
「無理なものは無理です。正義ある弁護士として、虚偽を擁護することはできません」
そのまま去っていった。義母は呆然と立ち尽くし、健一は歯を食いしばり、拳を震わせている。その殺気立った目が私の方へ向いた。思わず体がすくんでしまう。
だが、事態はここで終わらなかった。弁護士が出ていった直後、玄関の扉が再び開いた。立っていたのは父の和吉と妹の望美だった。そして彼らの後ろには、カメラを持った報道関係者が二名。
「お姉ちゃん!」
望美は駆け寄り、私の手を強く握りしめた。そして父が深く頭を下げてから顔を上げた。
「もう、黙っているわけにはいかん。美冬、今まで本当にすまなかった」
父の声には、ずっと耐えてきたであろう苦しみが滲んでいた。
「健一君の会社からは、うちの町工場にも無茶な納期短縮の要求や、設備投資の強要など、散々な扱いを受けてきた。だが、お前たち姉妹のために我慢してきたんだ」
父は拳を握りしめた。家族のために耐えていたのは、父も同じだったようだ。
「だが、娘たちを地獄に落とすような男に、これ以上従えるか」
父は私たちの受けた被害の実情を知り、半生をかけた決意を語った。
「俺は他の企業と力を合わせて、健一君の会社を訴えることにしたからな」
父の町工場同様、健一の会社から不当な扱いを受けてきた他の中小企業と連携し、集団訴訟を起こすことを宣言した。
「覚悟しておけ」
悔しさと怒り、そして覚悟を決めた父の言葉だった。
その瞬間、健一が嘲笑うように笑った。
「はっ。町工場ごときが何を偉そうに言ってるんだよ。お前らなんか、俺の会社が気まぐれを起こせば終わりだろうが」
しかし、その傲慢な態度を打ち砕くように、報道記者が割って入った。
「へえ。余裕ですね。ヘラヘラと笑いながら、まだそんなことが言えるんですね。明日からメディアは大騒ぎになりますよ。あなたの会社で臨時役員会が開かれて、クーデターが起きているのをご存じですか?」
「何だって?」
記者はタブレットを操作し、全員に見えるように画面を向けた。そこには数名の役員たちが険しい表情で会議をしている様子が映っていた。
「木村社長の独断専行にはもう耐えられません。会社の資金をクラブ遊興費に私的流用していた証拠も揃っています。これ以上会社を傾かせる前に、退陣すべきです」
役員たちの口から、健一の悪事の数々が明かされていく。父の反撃に連動するように、健一の会社内部では社長退陣に追い込むクーデターが勃発していたのだ。健一の不正が役員たちによって次々と暴露される事態に発展していた。
「な、なんだこれは?」
健一の顔から血の気が引いていく。記者はさらに続けた。
「さらに、これは早刷りです」
新聞の見出しを取り出すと、健一の顔写真が大きく掲載された見出しが目に入る。
「大企業二代目社長、会社資金で銀座高級クラブに連夜の散財。複数ホステスが証言、毎晩のように大金をばらまいていた」
発売予定の刷りを健一に渡しながら、記者は笑った。
「よく撮れてるでしょう」
それを見た健一の顔が真っ赤になる。
「肖像権の侵害だ! 訴えてやる!」
しかし記者は鼻で笑った。
「無理ですね。刑事事件の容疑者になる人に、そんな余裕あるんですか?」
警察官が健一の腕を掴んだ。
「木村健一さん。虚偽告訴、強要、暴行、業務上横領など、複数の容疑がかけられています。同行をお願いします」
義母が叫び声を上げた。
「ちょっと待って! 息子は社長よ! 逮捕なんかできるはずない!」
しかし警察官は淡々と答えた。
「立場は一切関係ありません」
連行される健一の顔は怒りで歪み、私に向かって毒づいた。
「美冬、てめえだけは許さねえ。必ず復讐してやるからな」
その言葉に私は少し震えてしまう。だが、父と望美が両側から支えてくれた。
「もう大丈夫だよ、お姉ちゃん」
「お前たち姉妹は、絶対に俺が守る」
ついに健一は連行されていき、部屋から怒鳴り声が消えた。残されたのは壊れたカメラと散らばった破片、そして静寂だけだった。
その静けさの中で、私はようやく呼吸ができるようになっていた。長い悪夢が終わりに近づいていた。目の前で泣きながら笑う妹。悔しさで肩を震わせる父。怒りの中で叫び続ける義母。全てが現実だ。
私はようやく、この地獄から抜け出せたんだ。
こうして全てが終わった。健一が連行されて一週間。慌ただしかった私の周囲には、少しずつ静けさが戻り始めていた。自宅には父と妹が頻繁に訪れ、散らかった部屋を片付け、壊れた家具を修理し、食事を作ってくれる。ようやく自分の家に、温かさというものが戻ってきた気がした。
朝、一人で入れたコーヒーの湯気を眺めながら、私はふっと息をついた。こんな普通の時間が、どれほど恋しかっただろうか。
健一は社会的信用を失い、勾留された。義母は息子をかばい続けているが、彼の数々の不正が明らかになるにつれて孤立していった。それどころか義母は会社の連帯保証人になっていたため、健一の逮捕と会社の倒産によって全財産を失い、路頭に迷うこととなった。
私は即座に離婚を申請し、慰謝料を健一の個人資産からしっかりと回収した。望美は健一の会社を辞め、現在は父の町工場を手伝っている。父の工場は大企業の不正を告発した勇気ある会社として一躍注目を浴び、現在は休む間もなく稼働していた。
私も父の工場に加わり、会社員時代の経験を生かして広報と総務の部門を担当した。望美の営業力、父の技術力、そして私の管理能力と補助的な戦略が噛み合い、工場の業績は急速に回復していった。
「色々あったが、やっと俺たちにも追い風が吹いてきたな」
父は私たち姉妹と働けて嬉しそうだ。これからは親子仲良く工場を盛り上げていこう。そう決意したのだった。



