妹の結婚式会場に着いた瞬間、新郎の両親が私をじろりと見て言った。「中卒の放浪者に、息子の晴れの日を台無しにされたくないんだよ」。私は必死に耐えてその場を離れた。数年ぶりに会った妹の千明は、私の知らない間に結婚するほど大人になっていた。三ヶ月後、空港から直接式場に向かった私は、自分の席が見当たらないことに気づく。そこへ現れた坂神夫妻は、私をまるで汚物を見るような目で「あなたの席はここにはない」…

妹の結婚式会場に着いた瞬間、新郎の両親が私をじろりと見て言った。「中卒の放浪者に、息子の晴れの日を台無しにされたくないんだよ」。私は必死に耐えてその場を離れた。数年ぶりに会った妹の千明は、私の知らない間に結婚するほど大人になっていた。三ヶ月後、空港から直接式場に向かった私は、自分の席が見当たらないことに気づく。そこへ現れた坂神夫妻は、私をまるで汚物を見るような目で「あなたの席はここにはない」...

妹の結婚式が開かれる式場へとやってきた俺に、新郎側の両親が冷たい視線を向けて言った。中卒の放浪者に、息子の晴れの日を台無しにされたくないんだよ。あなたみたいな人がいたら、家の格式が下がってしまうじゃないの。

確かに俺は中卒だ。一箇所に腰を据えて働いているわけでもない。だが、ここまで言われる筋合いはない。

「よくわかりました。では、私は帰ります」

ようやく自分の立場を理解したようだな、と言わんばかりに、なおも罵声を浴びせてくる坂神夫妻。怒りで体が震えそうになったが、妹の結婚式をぶち壊してしまわぬよう、ぐっとこらえて式場を後にした。

俺の名前は本田良一。歳違いの妹が一人いる。両親は俺が小学六年の頃に離婚し、俺と妹は父方の祖父母の元で育った。母は別の男性と新しい家庭を築き、父も不在がちで、親がいないというコンプレックスはどうしようもなかった。中学生になった俺は、素行の悪い同級生たちと荒れた生活を送っていた。

しかし、そんな俺でも妹のことは大事に思っていた。千明は俺と正反対で明るく真面目な優等生に育ち、お兄ちゃん、お兄ちゃんとよく慕ってくれた。そんな妹や、不良の孫を見放さずにいてくれる祖父母の姿を見ているうちに、俺は自分がいかに愚かだったかを悟り始めたのだ。

それから俺は彼らに恥じない人間であろうと一念発起し、まずは精神的にも金銭的にも自立することを目指して、高校には進学せず家を出て働き出した。苦労の連続だったが、どうにかこうにか生活を立てているうちに、あっという間に十五年が過ぎた。

その日、俺が久しぶりに実家へ顔を出すと、そこには二十五歳になった千明と、見知らぬ男性が祖父母と一緒に談笑している姿があった。男性は千明の少し上くらいの年齢だろうか。優しげな目元が印象的で、見るからに真面目で穏やかそうな人物だ。千明と男性の会話に、祖父母も嬉しそうに笑顔で相槌を打っている。その和やかな雰囲気は、男性が祖父母にも歓迎され、受け入れられていることを意味していた。

入り口で戸惑っている俺の姿にいち早く気づいた千明が、わずかに驚いた顔を浮かべ、それからパッと弾けるような笑顔になった。

「お兄ちゃん、もう久しぶりじゃない?それにこっちに帰ってくるんなら、連絡くらいしてよね」

「ああ、すまん。ちょっとバタバタしててな」

言いながら俺がちらっと男性に視線を向けたのが伝わったのだろう。元々の優しい顔立ちをさらに緩めて、彼がわざわざ立ち上がり、俺へと頭を下げてくる。

「初めまして。千明さんのお兄さんの良一さんですよね。千明さんとお付き合いさせていただいております、坂神啓介と申します。それで、あの、実は今日は結婚のご挨拶をさせていただいていまして」

「え、結婚?」

突然の報告に俺は思わず目を見張った。それはまたすごいところに縁を持ってきたものだ。何と言っていいかわからず言葉を失った俺をどう捉えたのか、啓介君が申し訳なさそうに再度頭を下げる。

「申し訳ありません。本当ならば良一さんも揃われた場でご挨拶をしなければいけないところを」

「いいのよ、それは。だってお兄ちゃん、いっつも忙しいって私が連絡してもろくに返事をくれないんだもの。お兄ちゃんのこと待ってたら、私おばあちゃんになっちゃうわ」

弁解するような千明の言葉に、確かに妹の言う通りだと俺は思った。俺は一箇所に腰を据えて暮らすような生活をしていない。実際とても忙しいのもあって、二ヶ月前のメールに今気づいたようにして返信することもある。こちらに帰ってきたのも半年ぶりなので、そんな時に妹の婚約者と顔を合わせるというのは、まさに奇跡のタイミングだった。

「いや、それにしてもそうか。まだまだ子供だと思っていた千明が、結婚とは」

そんな考えに浸りながら、俺は啓介君に向かって深く礼をした。

「兄の良一です。こちらこそ、ろくに連絡も取れない生活をしておりまして失礼しました。この通り、兄には妹は優しくまっすぐに育ちました。千明をどうぞよろしくお願いします」

お兄ちゃん、と小さく声を震わせる千明。そんな俺たちを笑顔で見つめ、それから啓介君はしっかりと頷いた。

「はい。僕の命をかけて必ず千明さんを大切にします。あの、それで良一さん、お兄さんには是非僕たちの結婚式に参列していただきたくて」

そう言って啓介君は式の招待状を俺に差し出してきた。千明も婚約者と共に俺へと懇願してくる。

「お兄ちゃんが忙しいのは分かってるけど、私にはやっぱりお兄ちゃんに参列して欲しいの。お兄ちゃんにもう大丈夫だよって。今まで私を気にかけてくれてありがとうって伝えたくて」

二人してあまりにも真摯な姿でそう言うものだから、俺にはもう断る選択肢など存在しなかった。それに、散々好き勝手をした不肖の兄ではあるが、せめて家族の新しい門出くらいは心から祝わせて欲しい。

「こちらこそ、是非参列させていただきます」

俺は笑顔で頷いた。

さて、その三ヶ月後。妹夫婦の式当日、俺は空港から直接式場へと向かっていた。本当ならば前日に式場近くのホテルに一泊し、啓介君のご家族とも挨拶を交わす予定だったのだが、仕事でトラブルが発生し、到着がギリギリになってしまったのだ。慌ただしく礼服に着替えながら式場へと入る。幸い式はまだ始まっておらず、参列者たちは各々自由に談笑している様子だ。式の進行を妨げずに済んだことに安堵しながら、俺は自分の席を探す。

だが、不思議なことにこれがどうにも見当たらない。こういうことだと思いながら式場のスタッフに確かめようとしたその時。

「おい、そこのあんた。さっきからキョロキョロと何をしとるんだ」

つっけんどんなその声に、俺は反射的に振り向く。するとそこには、俺と同じく黒の礼服をまとった五十代ほどの夫婦が、こちらを不審そうに見つめていた。

「あんた、誰だ?うちの息子の知り合いか?それにしてみれば見かけない顔だな。それとも、向こうの家の人間か?」

その問いかけに俺はピンときた。この服装や年の頃を見ても間違いない。彼らは啓介君のご両親だ。いいところに来てくれたと思い、俺は笑顔を浮かべて頭を下げる。

「これは失礼しました。初めまして。私は千明の兄の──」

だが、その時俺の挨拶を遮り切って、啓介君の父である坂神氏がじろっと俺を睨みつけつつ口を開いた。

「ああ、あんたがうちの嫁の兄貴か」

「え、ええ、そうです。ご挨拶が遅れてすみません。仕事でバタバタしてしまって」

顔は笑顔を浮かべたままであったが、内心俺は引っかかりを覚えていた。うちの嫁、か。まあ間違っちゃいないが、なんだかな。それに初対面の人間に対して随分と横柄な口の聞き方をする人だ。だが、そんな夫の一言を受けて、その隣で同じようにこちらを眺め回していた坂神夫人も、なんとも嫌な笑みを浮かべていった。

「ああ、あなたが良一さん。へえ、そうなの」

現代にこんな人間がいるものか、と言わんばかりのその口調に、俺はさらに面食らう。知らないうちに俺が何かやらかしてしまったのだろうかと思うほど、俺に対する坂神夫妻の態度は攻撃的だった。もしかしたら、前日に挨拶することが叶わなかったことで怒らせてしまったのだろうか。そう思い、俺は再度姿勢を正して彼らに礼を取る。

「この度は良いご縁をいただきまして、千明の兄として感謝しております。先日啓介君とお会いしましたが、本当に穏やかでしっかりとした息子さんで、ご両親の教育の賜物かと感じました」

正直、目の前のこの夫妻の息子が啓介君であるという事実を、俺はにわかには信じられなかった。この横柄で傲慢な両親から、どうしたらあんなに礼儀正しく優しく穏やかな青年が生まれるのだろう。しかし、もちろんそんなことは口に出すまい。俺はできるだけニコニコとしながら話を続ける。

「ところで、こんなことをお尋ねするのもお恥ずかしいのですが、私の席はどちらでしょうか?先ほどから探しているのですが、見当たらなくて」

すると、そんな俺を小馬鹿にするようにして坂神氏がふんと鼻を鳴らした。そして彼は、祝いの席にはあまりにも不似合いな冷たい視線で俺を見下す。

「残念ながら、あんたの席はここにはない」

「え、それは──」

二の句が継げないその返答に、俺は思わず目を見開いた。しかしそんな俺の様子には構わず、今度は坂神夫人が神経質そうに眉を吊り上げていった。

「夫の言う通りですわ。ここにあなたの席はございません。ですから、さっさとお帰りになって」

「えっと、その、それはどういう意味ですか?」

俺は話が見えないながらも、自分がこの夫妻に歓迎されていないということだけは理解できた。だが、俺だって妹の晴れ姿を見にこの場へと足を運んだのだ。席がないからと言われて、はいそうですかと簡単に帰るわけにもいかない。

「お言葉ですが、私は先日啓介君と直接お会いした時に、こうして招待状ももらっていて」

そうして俺は内ポケットから式の招待状を取り出す。しかし坂神夫妻はそれをちらっと見合った後、まるで分からず屋の子供を相手にしているがごとく、呆れたようなため息をついた。

「招待状を渡されたからって、そんな社交辞令を真に受けてのこのこやってくるバカがいるとはな。さすがにうちの息子も考えつかなかったんだろうよ」

「そうですよ。聞けばあなた、中卒で家を出てからあちこち転々としていらっしゃるそうじゃない。どうせ勤務先の人間とくだらないことで喧嘩でもして、その度に追い出されてるんでしょ」

浴びせかけられる坂神夫妻からの暴言に、俺はたじろいでしまう。これから親戚になるとはいえ、まだよく知らない相手だ。それなのに、彼らにはまるで他人に対する思いやりというものが感じられない。俺は怒り通りというより、強く困惑を覚えていた。一体彼らの中で、俺はどういう風に捉えられているのだろうか。彼らとこちらとの間にある認識の違いをどう埋めたらいいものか、俺はとっさに黙り込んでしまう。

口よりも先に手を動かす方が得意な俺は、こういう時にうまい返しができないのだ。だが、沈黙する俺をますます見下したようにして、坂神夫妻は好き勝手に言い放つ。

「そもそも、わしはあの子との結婚には最初から反対だったんだ。うちの息子と同じ会社に勤められるのだから、そりゃ本人は優秀かもしれないが、その兄と来たらとんだものじゃないか」

「本当にそうよ。どうしても千明さんがいいんだって啓介が言うから、仕方なく結婚は認めてあげたけど。もう、これから末永くお付き合いする坂神家の親戚に、あなたみたいな馬の骨が混じるだなんてぞっとしちゃう」

わざとらしく手を当てて、それはそれは不快そうに眉をひそめる坂神夫人。人を人とも思っていないかのようなその言葉に、今度はさすがの俺もカッとしてしまう。俺は彼らをまっすぐ見つめて、はっきりとこう口にした。

「確かに私は中卒で家を出て働き出しました。それに一箇所に腰を落ち着けるような生活をしていないのも事実です。ですが、自分の仕事には誇りを持っていますし、中卒という経歴を恥ずかしいとも思ってません」

そう言い返した俺の態度が、坂神夫妻には案の上生意気なものとして写ったらしい。坂神氏が苛立ったようにその目元を歪める。

「そりゃそうだ。矜持なんてものがあれば、そんな生活してないはずだしな。けどな、あんたと違ってわしらは常識人なんだよ。中卒の放浪者に、息子の晴れの日を怪我されたくないんでね」

そして勝ち誇ったように、夫に負けじと坂神夫人も当然のごとく口を挟んでくる。

「本当よ。今日は私たち坂神家のお式ですのよ。それなのに、あなたみたいな人がいたんじゃ、格式が下がってしまうじゃないの。あなた、私たちの家の品格というものをご存知ないでしょう」

「品格ですか?」

坂神夫人の一言を俺は思わず聞き返す。この言葉を単純に言葉の意味を理解していない故だと認識したらしい坂神氏は、俺を何度目かで馬鹿にするように睨みつけた後、呆然と顎をそらして言い放った。

「あんたには一生縁がない世界だろうが。何せうちは代々一流ホテルやレストランを経営しているオーナー一族だからな。系列店の顧客には、各界のお偉い方や有名セレブがずらりと名を連ねているんだ」

「そうよ。そういう方々をおもてなしする上で、何が大事かお分かりになる?品格よ。品格」

「まあ、あなたみたいな根無し草に、品格だの格式だの言っても、どうせ意味なんて分からないでしょうけど」

夫人のその物言いがおかしかったのか、坂神氏が途端に大声をあげて嫌味に笑う。

「そうだな。こんな一般人。それも中卒の底辺には、全く想像も理解もできない話だ」

そういう彼らの方が、今この場ではよほど下品に映っているのだが、そのことには全く思い至らない様子で夫妻は笑い続ける。

ああ、もう。これはどこまで行っても話が通じないパターンだな。俺はそう悟った。そして内心呆れ返っていることを表に出さず、俺は彼らに問いかける。

「一つ確認したいのですが、私の席が用意されていないこと。息子の啓介君はご存知なんですか?」

すると坂神氏はニタニタと歯を見せて俺を見つめてきた。

「いや、啓介はあの通りとても優しい子だからな。嫁の手前、兄を招かんわけにもいかなかったんだろうよ。親であるわしらがあの子の心中をお察しして、こうして手を回してやったんだ」

いかにも自分の行いが正しいと言わんばかりに、坂神氏は満足げな顔で横の妻に目配せをする。すると坂神夫人もこくこくと頷いて、夫に追従した。

「本当にあの子は昔から優しいいい子なの。というか、千明さんも大人しそうな顔して案外強気なんだから驚いたわよ。家の恥になる兄を式に呼ぶだなんて。嫁の立場なら、普通は遠慮して呼ばないものよ」

妻の言葉に「全く」と相槌を打ちつつ、坂神氏はなおも何か言いたそうに俺を見てくる。だが、先ほどからのやり取りで、さすがに自分たちが周囲の目を引いていることを、少なくとも俺は分かっていた。だからこれ以上はそれこそ式の邪魔になると思い、話を終わらせるために相手よりも一歩早く頭を下げる。

「よくわかりました。では、私は帰ります」

こう言って背中を向けた俺に、坂神夫妻は懲りずに罵声を浴びせた。

「やっと自分の立場を理解したようだな」

「あら、ご機嫌よう。二度と会うこともないと思うけれど」

最後まで嫌味を吐き続ける夫妻を振り返ることもなく、俺は式場を後にした。

その数時間後、俺のスマートフォンには妹からの着信があった。電話に出てみれば、相手は啓介君だった。電話口で土下座線ばかりの勢いで謝罪を繰り返す彼に、俺はなんだか深く同情してしまう。

「本当にこの度は、うちの親が申し訳ないことをしました。まさか勝手にお兄さんの席をなくすなんてことをするとは思わなくて」

聞けば、彼らは昔から傲慢でプライドが高く、また学歴や仕事の肩書きでしか相手を判断せず、周囲の人間を見下しているところがあったという。そして啓介君はそんな両親とは折り合えず、高校を出てからは一人暮らしをし、大学も実家からの援助は受けず奨学金をもらって卒業したらしい。今でも完全に自活をしていて、普段は実家とも関わらず暮らしているようだ。だがさすがに自身の式には呼ばないわけにもいかず、しぶしぶ招待したものの、ちょっと目を離した隙にこんなことになってしまったと、彼は謝罪に謝罪を重ねていた。とりあえず式は無事に終わったこと。そして坂神家ともあの両親とも縁を切ること。また後日正式に謝罪をしに伺うことを、俺に告げて、彼は電話を千明と変わる。

「お兄ちゃん、せっかく時間を開けてくれたのにごめんなさい」

啓介君同様、すっかり落ち込んでしまっている妹を、俺は「大丈夫だ」となだめる。

「今回のことはお前たちのせいじゃないよ。それに俺は、啓介君とお前が幸せになるのならそれでいいんだ」

幸い今日から数日は時間が取れるので、妹夫婦とは明後日に俺が止まっているホテルで落ち合うことを約束して、電話は終わった。

さて、翌日のことである。俺のスマートフォンに、とある電話がかかってきた。早速来たなと思い、俺はわざとゆっくり応答する。すると電話口の人物は、明らかに焦りを帯びた声で「担当から連絡が取れなくなったと聞いたが、何か問題があったのか」と尋ねてきた。

「問題?ああ、ありましたね。なので、今回の件は白紙にします」

すると電話の相手はさらに焦った様子で何事か叫んでいる。そのうるささに辟易しつつ、俺は淡々と告げた。

「だって、私と関わるとそちらの品格が落ちるんですよね」

その一言で、不意に電話口が静かになる。そして相手は、まさに恐る恐るといった風に俺に問うてきた。

「もしかして、本田さんは──」

小刻みに震える相手の声に、俺はそ知らぬふりをして頷く。

「ええ、お察しの通りです。昨日はどうも。妹の兄の本田良一です。まあ、あなた方にはフレンチシェフの本田と名乗った方が通りがいいかもしれませんが」

そうなのだ。実は俺は現在、フレンチの料理人として世界中で働いている。中学を卒業した後、俺は祖父母の家を出て一人暮らしを始めた。そして住み込みのアルバイトを探して見つけたのが、とあるレストランの求人だった。そこで俺は皿洗いからスタートし、とにかくがむしゃらに働いた結果、だんだんと厨房の仕事も任せてもらえるようになった。その中で俺はいつしか料理の奥深さと厳しさ、そして楽しさに目覚め、気づけばすっかり料理の道に魅了されていたのだった。

それから俺はせっせと貯金をし、単身フランスへ渡る。そして十年余りフランス各地の店で腕を磨き、その後独立。自身の店を構えるというよりは、各店舗のオーナーに呼ばれて個人で契約を結び、その店の料理人として腕を振るう生活を送っているのだった。幸い仕事の方は順調で、三年先まで契約が埋まっている状態だ。確かに落ち着きはないかもしれないが、元々一箇所にじっとしていられない性格なので、今の生活は自分に合っているとも思っている。

そして俺は、半年ほど前に坂神氏からも仕事の依頼を受けていた。曰く、新しく建設するホテルのレストランを監修して欲しいこと。俺の名前と考案したレシピを使わせて欲しいこと。またレセプションパーティーには有名セレブを招くので、そこで特別にディナーを振る舞って欲しいこと。この三点が彼からの依頼であり、契約金として提示された金額は数億にも上っている。

それでも俺は、初めその依頼は断ろうかとも思っていた。単純に今抱えている仕事が忙しく、そこまで手が回らないというのが理由だった。だがその後日本に帰国した時にたまたま啓介君と顔を合わせ、もしやと思い確認してみれば、依頼主である坂神氏がなんと彼の父であることが分かった。こんな偶然があるのかと俺は驚き、そしてそこまで縁があるのなら、と断る予定であったその依頼を一転前向きに検討するとして担当者に伝えたのだった。

俺としては、ろくな兄でもできてやれなかった、兄からのせめてもの鼻向けのつもりだったのだが。まあ、事情を知らなかったとはいえ、坂神夫妻のあの言動はやはり看過できるものではない。

俺が誰であるかをようやく理解したらしい電話口の坂神氏は、衝撃のあまり言葉を失っている様子だ。しかし、彼に付き合ってやる義理もないため、俺は要件をさっさと告げることにした。

「どうやらご理解いただけたようで。ということで、今回の話は全て白紙にします。そういえば、啓介君からも縁を切られたようですね。まあ、当然かと思いますが。それでは、忙しいので失礼します」

だが、直後。坂神氏が叫び声をあげて、俺を引き止める。

「待ってください!知らなかったんです。知っていたら、あんなことを──申し訳ありませんでした!しかし、今回のプロジェクトはあなたのお名前ありきで進めてしまっております。どうか、どうか──」

きっと顔面蒼白になっているのだろう。電話口からは、彼の奇声にも似た懇願が聞こえてくる。ホテル建設に目玉の高級フレンチレストラン。俺が普段契約している海外のオーナーたちと比べると規模こそ小さいものの、それなりに人もお金も動くプロジェクトだ。大方銀行や取引先から資金も集めているだろうし、時期的にホテル建設も始まっているはず。それくらい俺でも察しはつくのだが、かと言ってそれが契約を交わす理由にはならない。

俺は諭すようにして坂神氏に語りかける。

「契約を交わす時、私は何よりも相手が信頼できるかどうかを重視します。あなた方だって、そのはずだ。坂神さん、あなたもあの時おっしゃってたじゃないですか。信頼とは、すなわち相手の品格を信じるということだと」

その言葉に、電話の向こうでは「ひっ」とかれた悲鳴が聞こえた。だがそれに構わず俺は続ける。

「そして残念ですが、私はあなたを信頼することはできません。理由は、分かりますよね。あなた方の振る舞いは、あまりにも下品だった」

坂神氏は、もはや荒い呼吸音を繰り返すのみだ。それもそうだろう。得意げに品格を語り、高笑いで追い出した相手から、下品だと面と向かって指摘されているのだから。

「そもそも、仮にも依頼主であるのなら、私の顔くらい知っておいてくださいよ。こちらの顔も知らない相手と、私は契約を交わすことなど御免被ります。それでは、ご機嫌よう」

俺は淡々とそう告げて、電話を切ったのだった。

さて、さらにその翌日。約束通り俺の止まっているホテルに妹夫婦が訪ねてきた。まずは謝罪をとその場で膝をつき始める啓介君をなんとかなだめ、人心地ついたところで、千明が話し始めた。

「お兄ちゃんに伝えておくねっていう前置きがあってなんだけど、お父さんの会社のこと」

聞けば、俺が依頼を蹴ったあの後、坂神氏の会社は早速大変な騒ぎとなったらしい。俺が抜けたということでプロジェクトは即刻中止。それに伴い銀行や取引先からは出資金の返金を求められており、またここに来てのプロジェクトの中止ということで、一気に周囲の信用を失いつつある坂神氏は窮地に立たされているという。

義理とはいえ夫の家族のことだ。それもその理由に自身の兄が関わっているということで、複雑な表情を見せる千明。その心中をおもんばかってか、啓介君が穏やかにフォローを入れてくる。

「千明、僕は大丈夫だよ。お兄さんも、どうか気にしないでくださいね。元々、父の会社は経営状態が悪かったのです。父や母は過去の栄光にすがるばかりで、自分の置かれた立場に向き合おうとしなかった」

啓介君は、事実を事実として受け止めるようにしてそう言った。

「時代の流れというものを、父は全く読めていません。いつまでも自分が偉い旦那様だと思っていて。多分父は、近いうちに社長職を解任されるのでしょうが、僕はそれならそれでいいと思っています」

幸い、坂神夫妻が細々と暮らしていく程度には蓄えもあるとのこと。

「それに私たちは私たちで働いているのだし、いざとなったら助けてあげられるもの」

妹がそう言って、啓介君の手をそっと握る。その明るい笑顔に励まされるようにして、やがて啓介君も笑みを取り戻した。互いを支え合い、思いやる夫婦の姿がそこにあった。

ああ、この二人なら大丈夫だな。俺はそう確信する。そして啓介君は再び俺を見やり、頭を下げた。

「今回のこと、両親にはいい教訓になったと思います。ですから、どうかお兄さんはこれからも自由に、自分のやりたいことを実現させていってくださいね」

「ああ、でも私からの連絡には、きちんと返事してね」

絶妙な掛け合いを見せる二人に、俺は頷く。

「ああ、了解する。千明、啓介君。この度は結婚おめでとう。末永く、幸せにな」

「そうだ。少し落ち着いたら、二人には俺が特別ディナーを用意するよ」

「本当に?約束だからね!」

はしゃぐ声をあげる妹を、宝物を見るようにして啓介君が見つめている。その光景を目に焼きつけ、俺はその翌日また日本を離れた。

ちなみに、その後。啓介君の読み通り、坂神氏は社長職を解任されたと聞いた。今回のプロジェクトの中止で、回収不可能な大きな損失が出たからだ。結果、会社は何件かのホテルやレストランを売却するはめになり、坂神氏は株主たちからの批判を浴びたという。今は手元に残ったわずかな蓄えで、妻と二人、人が変わったようにして質素に暮らしているらしい。

どうしようもないところがある夫妻ではあったが、それでも彼らは啓介君の実の両親であり、千明の義理の両親でもある。今すぐとはいかないが、普通に挨拶くらいは交わせる間柄になれるのなら、俺もそれに越したことはない。

日本の穏やかなそれとは似ても似つかない、ギラギラと照りつける太陽を見上げ、俺は生まれ故郷に思いを馳せた。そして今日も、俺は広い世界で自由に腕を振るっている。

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