「幸さんが私のために二億円もする豪邸を建ててくれるんです。あなたの時は賃貸でしたよね」
元夫・博幸さんの再婚相手だという南さんに呼び出され、駅前のファミレスに行くと、彼女はそう言ってスマホの画面を見せてきた。そこには広い土地に建築途中の豪邸が写っていた。私は思わず息を呑んだ。あの博幸さんがそんなことをできるはずがない。けれど南さんは、私がショックを受けたのだと勘違いしたらしかった。
「これは私と博幸さんが一緒に住む家なんですよ。あなたの時はこんなことしてくれませんでしたもんね。ショックを受けて当然ですよ。でも、こんなおばさんより若くて可愛い私の方が愛されて当然ですよね」
夫にそんな豪邸が建てられるはずがない。だって夫は……
私の名前は恵美子、専業主婦だ。夫の博幸さんはこの地域では名の知れた開業医で、自分で言うのも何だが裕福な生活をさせてもらっている。博幸さんとは婚活パーティーで知り合った。私の両親は自分たちが貧しい生活を送っていたからか、私の結婚相手は高収入の人しか認めないと言っていた。そのせいで自由な恋愛ができず、二十五歳を過ぎた頃、私は半ば諦め気味でそのパーティーに参加していた。そこで博幸さんから熱烈なアプローチを受け、付き合うことになった。最初は本当に優しくて真摯で、まさに理想の男性だった。博幸さんは私より十三歳も年上だったが、両親は娘の私が玉の輿に乗ったと心底喜んでいた。私もそんな両親を見て、親孝行ができたと嬉しくなった。結婚式も盛大に行い、これが世間で言う女の幸せかと、当時は本気で思っていた。
しかし結婚前は優しかった博幸さんは、月日が経つごとに徐々に高圧的になっていった。博幸さんは仕事の不満をぶちまけるように、何かと家事に文句をつけてくる。この前は夕食が食べたいメニューではなかったというだけの理由で、目の前でゴミ箱に捨てられた。お風呂は三色以上彩りよく栄養バランスも整っていないと怒られる。掃除においても、埃がほんのちょっと棚に乗っていただけで大激怒。数十分以上怒鳴られることも珍しくなかった。
そんな博幸さんの態度に、私は日に日にストレスを溜めていった。それが原因なのか、最近私は不眠に悩まされている。ベッドに横になってもなかなか寝つけず、気づいたら朝を迎えていることもしばしばだ。安眠グッズや音楽など試せるものは全て試したが、全く効果がない。その横で博幸さんはいびきをかいてぐっすり眠っているから、余計に腹が立つ。博幸さんがそばにいるから緊張して眠れないのだと思い、私は博幸さんのいない昼や夕方に寝るようにしてみた。しばらくはそれでうまくいっていたのだが、うっかり寝すぎてしまい、私が起きるより先に博幸さんが帰ってきてしまったことがあった。その時の博幸さんの剣幕が忘れられず、以来私は昼や夕方に寝ることをやめた。
さすがに我慢の限界だと思い、両親に電話をしたこともある。しかし両親は私のことより、博幸さんからの仕送りが途絶えることの方が問題だったようで「うまくやっていきなさい。少しくらい目をつぶってやれ」と、私を心配するそぶりもなかった。味方だと思っていた両親にも見放され、ストレスが限界まで溜まっていた私は、ついに体調を崩してしまった。夕飯の買い物に行く途中、急に頭がクラクラして、私はしゃがみ込んでしまったのだ。さらに人通りの多い場所で動けなくなってしまったことでパニックになり、涙が止めどなく溢れてくる。助けを呼びたくても、うまく呼吸ができない。
「大丈夫ですか? よかったらこれ使ってください」
みんなが私を避けて素通りしていく中、声をかけてくれた男性がいた。男性はスーツをピシッと着こなした好青年で、綺麗にアイロンがかけられたハンカチを渡してくれた。その上、過呼吸になっている私の背中をさすり、落ち着くまで一時間近くそばにいてくれたのだ。
「助けていただきありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「当然のことをしたまでですよ。落ち着いたようで安心しました」
「もしよければ、今度お礼をさせていただけませんか?」
「お礼だなんて、そんなお気になさらず」
そう言って男性は優しく微笑んだが、私が食い下がると後日食事をすることになった。翔太さんと言い、私より二歳年上だった。その日は連絡先を交換して別れた。博幸さんには買い物をしてこなかったことを怒鳴られたが、その日は機嫌が良かったおかげで、出前を取ることを許可してくれた。私たちの間に子供がいれば何かが変わったのかもしれないが、博幸さんは子供嫌いのため、子供を作る気持ちは到底ない。私も博幸さんと子作りをすることなど考えたくもないし、こんな家庭環境で育つことを考えると、子供がいなくて良かったと思う。この奴隷のような生活から、私はいつ解放されるのだろうか。
数日後、私は翔太さんと待ち合わせたイタリアンレストランに向かった。
「恵美子さん、お久しぶりです。今日はありがとうございます」
「こちらこそ、お時間を作っていただきありがとうございます」
「ここ前から気になってたんですけど、男一人で入るのは勇気が必要で」
そう言って翔太さんは少し照れたように笑っていた。その姿が結婚前の博幸さんと重なり、私は少し懐かしくなった。私は結婚前、商品開発部で働いていた。自分の開発したもので周りの人が笑顔になっていくことが嬉しくて、休みの日にも仕事のことを考えるほど仕事が大好きだった。最初は博幸さんも、仕事を頑張っている恵美子が好きだと言って応援してくれていた。しかし医者の嫁なのに働いているのは世間体が良くないらしく、結婚して早々に仕事を辞めることになってしまった。
そんなことを思い出しているうちに、次々と料理が運ばれてきた。料理はどれもおしゃれで美味しくて、翔太さんにすっかり心を許した私は、気がつけば自分のことをぽつぽつと話し始めていた。仕事を続けたかったこと、不眠のこと、博幸さんとの生活から抜け出したいこと。どれも暗い話ばかりだったが、翔太さんは何も言わずに最後まで話を聞いてくれた。話をしたことで、私の心はすっと軽くなった。また助けてもらってしまったな。
食事が終わり、お会計をしようとすると、いつの間にか翔太さんが済ませてくれていた。
「お礼のために来ていただいたのに、おご馳していただいては困ります」
「この店についてきてくださっただけで私は満足です。それと旦那さんの件ですが、あなたがそこまで我慢する必要はないと思います。もっと自分に正直に生きてみてもいいと思いますよ。また何かあったらいつでも連絡してください。待ってますから」
「自分に正直に」という言葉に、私は心臓を掴まれたような感覚になった。そうだ。私はずっと両親や博幸さんの顔色を伺い、自分の気持ちに蓋をして向き合おうとしていなかった。できないと、やる前から諦めていたのだ。私は本当はどうしたい? このままあの人の言いなりになって自分を殺して生き続けるの? それはごめんだ。翔太さんの言葉で、私は博幸さんと離婚することを決意した。
その日の夜。
「おい恵美子、今日の飯はまだか?」
「今日は作っていないわ。そんなことより、これにサインして」
そう言って離婚届を突きつけると、案の定博幸さんは大激怒した。
「俺と離婚するつもりか? 今まで誰のおかげで生活できてきたと思ってるんだ。俺の経歴に傷をつけるつもりか」
「何を言われても私の気持ちは変わらないわ。今までお世話になりました」
「お前の両親はどうするんだ? 俺の仕送りがなくなれば、また貧乏に逆戻りだぞ」
「そもそも私の両親があなたに仕送りしてもらってることがおかしいのよ。お金なら働いて稼げばいいわ」
「もういい。勝手にしろ。仕事のないお前がどうやって生活していくのか見物だがな」
そう言って怒りに任せて、博幸さんは離婚届にサインをしてくれた。これでやっと解放される。私はこれからの生活の不安よりも、この生活から自由になれる安堵を感じていた。
両親には会って話したいことがあると電話をし、翌日会うことになった。翌日、私は荷物をまとめて離婚届を提出し、両親の待つカフェに向かった。
「二人ともお待たせ。あのね、私、離婚したの」
「え、ちょっとどういうこと?」
「何よ、馬鹿なことを。博幸さんは医者なんだぞ。離婚したら俺たちの生活が成り立たなくなるじゃないか。どうしてくれるんだ」
「だから何? 私が前に相談した時も、私の心配なんて全然してくれなかった。口を開ければお金、お金って。そんなにお金が必要なら、働いて稼げばいいじゃない。私は二人にとって何なの? 金づるとしか思われていないのなら、もう私に二人は必要ない。二度と連絡してこないで」
そう言って私は席を立った。親不幸だと思われたっていい。後ろで何か言っているのは見えているが、もう気にしない。あの人たちはもう他人なんだから。
新居に戻ると、私はそのまま床に倒れ込んだ。博幸さんと離婚してすぐは、緊張の糸が溶けたのか何もする気にはならなかった。少し落ち着くと、今までできなかった自分のための買い物やヘアカットを楽しんだ。一日中何もしなかったり、映画を見続けたりしたこともある。以前の私なら考えられないほど堕落した生活を送っていた。しかしそうやって自分に正直に、ゆっくり体と心を休めたことで、私は少しずつ元気を取り戻した。
しばらく経ったある日、知らない番号から何度も着信があった。あまりにもしつこかったため出てみると、なんと相手は博幸さんの再婚相手だった。
「ああ、やっと出た。博幸さんの元奥さんですよね。私、南って言います。博幸さんのこと色々教えて欲しくって、今度会いましょうよ」
妻にそんな連絡をしてくるなんて、どういう神経をしているのかと頭に来た私は、そのまま無言で電話を切り、すぐに翔太さんに相談した。私は会うつもりなどさらさらなかったのだが、なぜか翔太さんが一緒に行きたいから会ってほしいと私に頼んできたのだ。乗り気にはなれなかったが、恩人である翔太さんの頼みを断れるはずもなく、私は翔太さんと一緒に南という女に会うことにした。待ち合わせは明後日の昼、駅前のファミレスとのことだった。
私たちが到着して数分後、南さんがやってきた。
「え、思ったよりおばさんじゃん。受けるんですけど」
初対面で最初の言葉がそれかと呆然としていると、翔太さんが淡々と自己紹介を始めた。
「初めまして。恵美子さんの友人の翔太です。今日は同席させていただきありがとうございます。いくつか質問させていただきますでしょうか?」
そう言って翔太さんは、南さんがどういう人なのかを聞き出した。南さんはまだ二十三歳。飲み屋で飲んでいる時に博幸さんが声をかけたことがきっかけで付き合うことになったらしい。南さんは恋愛感情はなく、パパ活の延長線上のような感覚だったらしい。年の差にネックを感じていたが、博幸さんからのプロポーズに南さんは財産目当てでOKしたらしい。
「博幸さんは私のことが大好きだから、毎月五十万もお小遣いくれるんです。毎日毎日ベッドで愛してるって言われてもう困っちゃう」
南さんのデリカシーのなさに、さすがの翔太さんも苦笑いだ。
「それで、聞きたいことって何?」
「あなたみたいに博幸さんに愛想を尽かされないようにしたくって。博幸さんの好きなものとか趣味とか教えて欲しいなって」
そんなことも知らないでOKしたのかとほとほと呆れたが、仕方なく教えてあげることにした。
「あの人の好きなものは若い女。趣味は嫁を罵倒することよ。あの人の好きなものも趣味も、その時の気分によってコロコロ変わる。掴みどころがないようなものだ」
皮肉を込めて言ってやったが、南さんはケロっとしていた。
「そんなこと言うから愛想を尽かされちゃうんですよ。まあ、私はそんなことないだろうけど。博幸さん、私のために二億円の豪邸を建ててくれるんです。あなたと結婚していた時は賃貸でしたよね。これが愛され方の違いってやつですかね。ほら、これですよ」
そう言って南さんは建築中の豪邸の写真を見せてきた。私は目を疑った。あの博幸さんがそんなはずはない。けれど南さんはそれを見て、私がショックを受けたと勘違いしたようだった。
「あなたの時はこんなことしてくれませんでしたもんね。ショックを受けて当然ですよ。でも、こんなおばさんより若くて可愛い私の方が愛されて当然ですよね。博幸さん、あなたのこと、いいところなんて一つもなかったって言ってましたよ」
散々な言われように私がぶち切れそうになったところで、翔太さんが口を挟んだ。
「南さん、残念ながらその家はあなたたちのものではないですよ」
「はあ? どういうことよ」
「見たところそこは私の土地で、私がその建築を依頼しているんですよ。そもそも博幸さんはそんなことができるはずがありません」
「何言ってるの? 博幸さんはお医者様なのよ。それにあなたが建ててるって?」
「これを読んでください」
そう言って翔太さんは南さんに封筒を渡した。中身を読み進めていくうちに、南さんの顔色がどんどん変わっていく。
「待って。どういうこと?」
「そこに書いてある通り、博幸さんは詐欺師です。探偵社で調べてもらったので間違いはないかと。私と離婚した直後に、博幸さんの経営していた病院は経営不振で廃業していたんです。しかし博幸さんは病院をそのまま残し、何も知らずにやってきた患者たちに『払えなければあなたは死ぬ』と脅し、数百万単位の法外な金額を請求していたんです」
その調査書には、特に異常がないにも関わらず癌が悪化していると伝え、その手術代として五百万円を請求していたと書いてあった。しかもこの件だけで数人の被害者がいるという。他のケースも含めると、被害者は数十人に上るだろう。状況を理解できない南さんに、翔太さんは続けていった。
「それと同じものを警察に提出済みなので、博幸さんは近々手錠をかけられると思いますよ」
「そんなはずはない。私が羨ましいからって、こんなことをして恥ずかしくないの? もう帰る」
南さんはそのまま店を出ていった。私と翔太さんは、風のように去っていった南さんの後ろ姿を見て、二人で顔を見合わせて思わず笑ってしまった。
数日後、私は翔太さんに呼ばれ、ホテルの最上階のレストランにいた。
「今日は来てくれてありがとうございます。実は恵美子さんに話したいことがあって。実は僕、こういうものでして」
そう言って翔太さんが差し出した名刺には、超有名企業の名前と役職に社長とあった。その名前は、私が商品開発部門で働いていた時の取引先の一つでもあった。食品や雑貨、サービス業など幅広い事業を展開している。
「恵美子さんの商品開発に対する思いを聞いて、是非うちで働いて欲しいと思ったんです。どうか力を貸していただけませんか?」
そろそろ就活をしなければと思っていた私にとって、渡りに船の話だ。しかし私にはブランクがある。とてもそんな大手で役に立てる自信はない。
「そんな私なんかが……」
「恵美子さんの『人を笑顔にしたい』という気持ちこそが、弊社の経営理念なんです。どうかお願いします」
ここまで言われたら断る理由が見つからない。
「わかりました。こちらこそよろしくお願いします」
「ありがとうございます。それでもう一つお話が」
そう言って翔太さんは、とても綺麗なネックレスを取り出した。
「恵美子さん、僕と結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」
「え?」
唐突な申し出に、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。でも私は迷わず答えた。
「もちろん喜んで」
その後、翔太さんの言った通り博幸さんは逮捕された。情けないことに私の両親も逮捕されたという。三人は実刑を言い渡され、しばらく刑務所生活を送ることになった。南さんも共犯を疑われて取り調べを受けたらしい。このことがきっかけで博幸さんと南さんは離婚。さらに南さんは博幸さんの財力を当てにして生活していた結果、感覚が麻痺してしまったようで、借金まみれの生活を送っているという。しかも大したスキルもなく、あの性格のため周囲の人と折り合いがつかず、仕事も長続きしないらしい。若いのに気の毒だが、因果応報というものだ。
私はと言うと、翔太さんの会社の商品開発部でコツコツ働いている。さらにそこで開発した不眠枕が大ヒットし、全国一位の売上を叩き出したのだ。私と同じように不眠に悩んでいる人を助けたいと開発したものだったので、本当に嬉しかった。翔太さんとは今も順調にお付き合いを続けていて、翔太さんが建ててくれた家で二人で気ままに暮らしている。このまま結婚する日も遠くないと思う。
「最近、顔色がいいね」
「好きなことに集中してのびのびと働いているからよ。やっぱり私、この仕事が好きみたい」
「働いている時の恵美子は本当に生き生きした顔してるもんな。でも、無理するなよ」
「ありがとう。でも無理なんかしてないわ。自分に正直に生きてるだけよ」
あの時私を助けてくれた翔太さんの言葉がなければ、私は未だにあの地獄の日々を送っていたのだろう。そう考えるとゾッとする。でももう私は大丈夫。自分に正直に生きるって決めたからね。



