夕食の席で、息子のショ太が嬉しそうにテストを見せてきた。百点の答案だった。
「やったね、ショ太。頑張ったもんね」
私は心から褒めた。五年生にもなると宿題を見てやるのも一苦労で、一緒に悩みながら問題を解く日々だ。息子の努力を誰よりも知っているのは私だった。
私は高卒のパート主婦。小学校五年生の一人息子ショ太と、夫の三人で夫の会社の社宅に暮らしている。ショ太は夫にも褒めてほしくて、花丸のついた答案を誇らしげに差し出した。
ところが夫は、息子を褒めるどころか自分の自慢を始めた。
「ショ太の成績がいいのは、俺の遺伝のおかげだよな。俺に感謝しろよ」
私はかちんときた。夫には他人の手柄を素直に喜べない癖がある。誰かが褒められていると、強引に自分の話へとすり替える。昔は気にならなかったが、最近は本当に気になる。自分の息子を素直に褒められないなんて、大人げなさすぎる。
「ねえ、違うでしょ。ショ太が頑張ったんだから、まずショ太の努力を褒めてあげてよ」
「はあ? だって俺の遺伝だぞ。俺は大卒で、お前は高卒。どっちのおかげで頭がいいか分かるだろ?」
違う。そうじゃない。私はただ、息子の努力を認めてほしいだけだ。遺伝なんてどうでもいい。確かに私は高卒だが、夫だって地方の三流私立大学出身だ。大した違いはない。社会に出たら学歴よりも性格や人間性のほうがずっと大切なのに。
「とにかく、ショ太のことを褒めてあげて」
私は反論を諦め、話を息子のテストに戻した。ショ太は私と夫のやり取りを不安そうに見ている。夫はすっかり機嫌を悪くし、息子の顔色にも気づかない。
「ああ、やっぱり小学校の勉強なんて、授業を聞かなくてもできて当然だろ。褒めるなんておかしいな」
その言葉に、ショ太が下を向いた。今にも泣き出しそうだ。
「なんで素直に『頑張ったね』の一言が言えないのよ」
私が夫を睨むと、息子が泣きそうな声で止めてきた。
「ママ、もういいよ」
これ以上私が何か言えば、夫はお決まりの行動に出る。離婚届を叩きつけてくるのだ。夫が「もう離婚だ」と騒ぎ、息子が「パパとママに離婚してほしくない」と泣くから、私が許しを請うて機嫌を取り、離婚を撤回してもらう。それがいつもの流れだった。
正直、最近は疲れてきていた。毎回夫が「最後に分かればいいんだよ」と偉そうに言ってくるのが、たまらなく面白くない。
私が黙ると、ショ太もいつの間にかテストを片付け、黙々とご飯を食べ始めた。嬉しい出来事があったはずの夕食は、無言のまま終わった。
あれはショ太が一年生のときだった。担任の先生が厳しいことで有名な先生になってしまった。私は入学前、ひらがなと数字が書ければ大丈夫だろうと思っていた。ところが、その担任の求めるレベルは全然違った。ひらがなは大人が書くような綺麗な字で書かなければ絶対に丸をつけてもらえない。おまけに百点を取れるまで何度でも再テストさせられるのだ。
ショ太の初めてのテストは四十点だった。一年生としてはよく書けていると思う。私が「次に頑張ればいいよ」と慰めると、夫の反応は違った。
「小学校のテストで百点取れないって、ある意味才能だな。バカすぎる」
と大笑いし、自分の息子を笑いものにした。ショ太はもちろん大泣きした。
「ショ太だって毎日頑張ってるの。なんで親が子どもを馬鹿にするのよ」
私が食ってかかると、夫はとんでもないことを言い出した。
「いや、むしろ俺の子供なのか? 俺の子供は俺に似て頭がいいはずだ。お前、浮気しただろ」
私は絶句した。ショ太は泣きすぎて真っ赤な顔を震わせながら、「パパの子供じゃないの?」と聞いてきた。素直な息子は夫の言葉を信じ、ひどくショックを受けている。
「いいえ、ショ太はママとパパの大事な子供よ」
私は泣く息子の小さな体を抱きしめた。
夫は白けた目をして言い放った。
「全く大げさだな。ちょっとした冗談だろうが。お前たちはバカだから理解できないんだ」
自分のことはともかく、息子までけなすのは許せない。
「ひどすぎるわ。ショ太に謝ってよ」
私が叫ぶと、夫は逆切れした。
「なんで俺が謝るんだよ」
すぐに仕事用の鞄から離婚届を取り出し、私に叩きつけてきた。
「お前とは離婚する」
夫の剣幕に、ショ太は泣き叫んだ。
「パパ、ごめんなさい。ママと離婚しないで。僕、次は絶対に百点取るから、お願い」
こんな最低な夫でも、息子は父親のことが好きなのだ。結婚前はこんなモラハラ男だとは全く気づかなかった。結婚してすぐに息子を妊娠したけれど、もし息子がいなかったら、もっと派手に喧嘩してもっと早く別れていただろう。でも、息子にとって両親が揃っているほうがいいのなら、私は息子が父親を必要とする限り、夫の我儘を我慢しようと決めた。
ショ太はそれから何かに追い詰められたように必死に勉強し、次のテストでは百点を取った。息子の頑張りが痛々しくて心配だったが、子どもだから常にピリピリしているわけでもない。遊び疲れて寝てしまい宿題を忘れることもあったし、年相応に反抗して泣くこともあった。夫が急に私を見下してきたり、喧嘩になるようなことを言い出さない限り、息子と私はそれなりに夫とうまくやっていたと思う。
ところが先日、とうとう決定的な事件が起きてしまった。
ショ太が自学級大会で一位を取ったと、大喜びで夕食の席で夫に報告したときだ。
「ええ? 運動神経がいいのは俺に似たんだな。すごいぞ」
夫は褒めた。いいところは夫に似たという枕詞はいらないけれど、ショ太はとても嬉しそうだった。顔は笑顔でいっぱいで、体全体で褒められた喜びを噛みしめている。
「一緒に練習頑張ったもんね」
私も褒めてやると、ショ太は嬉しそうに口を開こうとした。だが、突然夫が遮った。
「そうだぞ。お前はママに似て頭が悪い。でもスポーツができれば、勉強しなくてもスポーツ推薦枠に入れるんだ。お前みたいなバカが、俺みたいな大卒になれるチャンスだぞ」
なんでそんな余計なことを言うのだろう。私は頭に血がのぼるのを感じた。せっかく褒められて誇らしげだった息子の顔が、夫の一言でみるみる曇っていく。
「この前、ショ太が百点取ったのを見せたでしょ。そのとき『俺に似て頭がいい』って言ったのを忘れたの? 頭が悪いのはどっちなのかしら」
私がきつく言うと、夫も短気ですぐにカッとなった。
「お前が高卒のバカなのは事実だろう。俺は大卒だ。ショ太は前にテストに落ちたじゃないか。小学校のテストで百点取れないなんて、バカの極みだろ」
お決まりのセリフで怒鳴ってくる。ショ太が再テストになったのは、一年生のあの一度だけだ。二年生に進級するとき、あの厳しい担任の先生から「ショ太君は本当に努力家です。頑張りすぎるほど頑張ってしまうので、家庭では無理させずのびのびと愛情を込めて育ててくださいね」と言われたくらいだったのに。
「ショ太のせいじゃないわ。私が入学前にしっかり教えなかったせいだし、今その話は関係ないでしょ」
私が叫ぶと、夫はついにまたお決まりの行動に出た。
「うるさい。つまり全部お前のせいなんだろ。離婚するぞ」
夫は離婚届を取り出し、テーブルに叩きつけてきた。
私はすっと心が冷めていくのを感じた。またか。一体何枚の離婚届を鞄に入れてあるのだろう。これから夫の気が済むまで機嫌を取らなければいけないのか。
夫は私の顔色を見て勝ち誇った顔をしていた。絶対の切り札を出したと思っているからだ。
でも、私はめんどくさくなってきた。
「離婚届ね。うん、いいよ」
夫は私の反応が思ったのと違ったようで、「あ? なんだよ」と聞いてくる。
「離婚するっていう割に、いつも白紙だと思って。だから言っておくけど、実はいつも未記入なの」
理由は簡単だ。脅しに使いたいだけで本気じゃないから、わざわざ書き込むなんて面倒なことはしない。
夫は私の指摘に目を見開くと、みるみる顔を真っ赤にしながら「お前がそう言うなら、俺にも考えがある」と言って、テーブルの上の離婚届を回収して自室に持って行ってしまった。
「ごちそうさま」
息子の声で我に返る。ショ太は自分の食器を重ねて台所まで運んでくれた。
気づけば、私たちの夫婦喧嘩が始まるとすぐに「ママ、パパ、喧嘩はしないで」と訴えてくる息子が、今日は何も言わなかった。
それでも私は、息子の前でまた夫婦喧嘩をしてしまったことを後悔した。
「ごめんね。ママ、後でパパに謝るから」
夫が私に謝ってほしいことは分かっている。プライドがエベレスト並みに高い夫が、自分から謝ることは絶対にない。
ところが息子は、あっさりと言った。
「うん、もう謝らなくていいよ。僕、今のうちにお風呂入ってくる」
そう言って、さっさと風呂場へ行ってしまった。息子の反応に、私は驚きを隠せなかった。
翌朝、夫は私に記入済みの離婚届を叩きつけてきた。
「ほら、書いたぞ。言っとくけど、俺は本気だからな。後悔しても知らないぞ」
捨て台詞を吐き、夫はそのまま出ていった。
私は「さて、どうしたものか」と考えていると、学校の準備を終えた息子から声をかけられた。
「ママ、それ、いつもの離婚届でしょ?」
「あ、そうだけど。どうしたの?」
子どもがすぐに離婚届だと分かるくらい見慣れているなんて、教育上良くないだろう。
「あのね」
息子はぽつりと言った。
「僕、パパがいなくても大丈夫だよ。五年生だし、家庭科で習ったからカレーライスも作れるよ。僕はママと二人で暮らしたい。だって、僕はパパの子供じゃないんでしょ」
ショ太は、一年生のときの夫の言葉をまだ気にしていたのだ。私は息子に心の傷をつけた夫のことが腹立たしかった。
「うん。ショ太は、心からパパの子よ」
私が笑顔で答えると、息子はちょっと考え込んで言った。
「そうか、やっぱりパパの子か。でも、もういいや。ママは離婚したくないの?」
私は思わず本音が出た。
「うん。ママと二人がいいなら、離婚したい」
「僕はいいよ。あ、もう遅刻だ。行ってきます」
息子はあっけらかんと言って、そのまま家を出ていった。
私は呆然とした。子どもってあっという間に成長するんだな。同時に、息子に気を使わせてしまったと恥ずかしくなった。
息子を送り出した後、朝食の後片付けを手早く済ませる。今日はちょうどパートがお休みだ。私は日記帳を押し入れから引っ張り出した。学生時代からつけている日記で、ここ何年かは夫の暴言や行動を記録している。離婚届を渡された日を数えてみると、なんと今まで十九回もあった。今日でちょうど二十回目。なんだか区切りもいいし、息子からも離婚していいと言われた。もういい加減、我慢しなくていいだろう。
離婚届に自分の名前を記入し終えると、私は離婚経験のある友達に電話をかけ、弁護士を紹介してもらい、相談の予約を入れた。離婚したらとりあえず実家に戻ろうと決め、引っ越しの準備をしながらお昼になるのを待つ。
そして、夫の会社がお昼休みになる時間を見計らって、私は電話の録音ボタンを押し、夫に電話をかけた。
「なんだ、仕事中だぞ。謝るなら夜に土下座しろよ」
夫は勘違いして怒ってきた。
「まだ昼休みじゃなかった? それはごめん。ところで、親権者って私でいいよね」
「はあ? 子育てはお前の仕事だろう」
「じゃあ、ショ太は私が世話をする。いいよね、念のため」
「ショ太の子育ては全部お前に任せる。くだらないことで電話をするな」
夫はそれだけ言うと電話を切ってしまった。
離婚届は夫婦と証人二人の署名だけでなく、子どもがいれば親権者の欄を記入する必要がある。だから私はわざわざ確認したのだ。夫の言質も取れた。
片付けも一段落したから、私は同じ市内にある実家に向かった。事情を話し、証人欄を両親に書いてもらう。そのまま市役所に提出し、家に戻った。
その夜、夫が帰ってきたとき、私は離婚届を出したことを伝え、今後の話を詳しく説明した。引っ越しはもう少し先だと教える。息子の宿題を見てやり、夕食を作った。
夫は私が謝らないので不審そうだったが、私はもう夫のご機嫌取りなんてしない。私も息子も夫に全く構わず、その日は過ぎていった。
夫はいつもと違う展開に我慢できなくなったのだろう。私に聞いてきた。
「あれ、ここにあった離婚届は?」
私は笑顔で答えた。
「昨日、出したよ」
夫は驚いて口をパクパクさせ、何も言えない。
「だから、今週末、私たちは実家に戻るから」
夫の驚いた顔は、最高にスカッとした。
「おい、なんで出したんだよ。俺と離婚するつもりなのか?」
夫は笑っちゃうくらいに動揺しているが、もう遅い。
「離婚届は、あなたから渡されたの。二十回目だったの。いい加減、離婚してあげるわ」
「ショ太はどうするんだ? 子供が片親になってもいいのか? 俺はお前をただこらしめようとしただけで、本気じゃない」
「あのね、本気じゃないなら、離婚届を切り札に使わないで。それに、私、あなたに確認したでしょ。どっちが親権を持つかって。あなたは『お前に任せる』って言ったのよ」
夫はようやく電話のことを思い出したようだ。
「お前、俺と別れてどうやって生活していくつもりだ?」
夫は動揺してどもりながら言う。なんとも情けない。
「もちろん弁護士さんに相談しているから、財産分与はしてもらうわ。長年のモラハラの慰謝料もね。ショ太の養育費ももらうし。私たちの今後をあなたが心配しなくても大丈夫よ」
夫には教えないが、就職活動も始める予定だし、引っ越し業者への予約もした。離婚に向けて着々と準備は進んでいる。
夫は私の決意が固いのを悟り、今度は息子へと矛先を向けた。
「おい、ショ太。お前は、パパとママが離婚したら嫌だよな」
「全然。僕、もうパパと一緒に暮らさなくていいよ。だって、いつも『離婚』っていうの、パパじゃん。離婚したいなら、離婚していいよ」
息子からも見放され、夫は真っ青になる。
私はため息をついた。夫は本当に何も分かっていなかったんだろう。
「今まであなたは、喧嘩のたびに離婚届を突きつけてきたわね。自分の要求を通したいだけで、本気で離婚したいわけじゃないくせに。あなたは本気じゃなかったかもしれないけど、何度も離婚届を叩きつけられれば、愛情なんてなくなっちゃうのよ。ショ太のために我慢しようと思ってたけど、ショ太が『もういい』って言ってくれたから、私たちは終わり。いくら勉強ができても、他人の気持ちを思いやることができなければ、結局は一人になっちゃうの。やっと分かったかしら。今週末には出ていくから、後は弁護士を通してね」
私は夫にも分かるよう、はっきりと教えてやった。
夫はもう全て遅いと悟ったのだろう。膝をつき、ぼろぼろと泣いていた。
その後、弁護士を通したことで夫と私は無事に離婚が成立した。財産分与の計算も終わり、マイホーム用に貯めていた貯金から慰謝料と養育費も一括でもらうことができた。私と息子は夫から解放された。
元夫は会社の社宅が家族用のため、一人になった元夫は社宅を出て義実家に戻ったが、義両親は長年の夫の言動を知らなかったため、私たちの離婚は寝耳に水だった。事情が分かった義両親は驚き呆れ、元夫は散々怒られ、最後は勘当されたとか。
私たちは実家に戻って生活している。実家の両親は孫のショ太に甘くて、何をするにもベタ褒めだ。息子はもう五年生なのに「おじいちゃん、おばあちゃん、照れるよ」と口では恥ずかしそうに言うけど、見るからに嬉しそうでニコニコしている。今までとは違い、のびのびと心の底から楽しそうに勉強やスポーツに取り組むようになった。息子の笑顔が増えて、離婚して本当に良かったと思う。
私の名前はカオル、六十五歳。今は主婦をしているが、つい先日まで小学校で教師をしていた。私には二歳年上の夫タケシとの間に、大地という息子がいる。大地の三年間の育休期間を除き、四十年以上児童たちと関わってきた。時代と共に生徒との接し方もどんどん変わり、その変化についていくだけで必死だった。もちろん家では、母親として妻として家事をしっかりこなしてきたつもりだ。
幼い頃は学校の先生になると言っていた息子だが、今は弁護士として自分の事務所を構えている。自ら決めた道へ進んでくれた大地を誇りに思っている。
夫は昔、会社を経営していたのだが、不況に煽られ倒産した。その後、夫はかつてからやってみたかったという個人タクシーの運転手として再出発している。タクシーの運転手としておよそ二十年。毎日乗客の文句を言いながらも、頑張って働いていた。
夫が辛い仕事を頑張ってこられたのには理由がある。息子夫婦には可愛らしい奥さんのアミちゃんと、五歳の息子がいる。夫は目に入れても痛くない孫のために稼がねばと思っていたらしい。
アミちゃんの実家は県外にあるため、大型連休しか帰れないという。そのためか、何か困ったことなどがあると我が家を頼ってくれる。私の立場からしても、とても嬉しい。ほぼ毎週孫を連れて遊びに来てくれるアミちゃんには本当に感謝だ。
仕事も充実していて孫にまで恵まれて、幸せに暮らしていた私だが、親族の中でただ一人だけ人間関係に問題がある人物がいる。それは三歳年上の義姉だ。夫の姉なのだが、この人は昔からわがままで、私たちはいつも振り回されている。義姉には子供がおらず、ご主人が三年前に亡くなって以来、義姉のわがままが増したような気がした。
幼い頃から義姉は夫を自分の奴隷のように扱ってきたようで、夫もそれが普通だと思い込んでいる。私と結婚して少しずつ義姉と距離を取るようになり、その後義姉が結婚したことにより夫への攻撃は激減していた。ところが三年前、義姉が私たちの住む家の近所に引っ越してきて、子供のときのように夫を奴隷扱いし始めたのだ。
夫は体力的にきつくなってきたという理由でタクシー運転手の仕事もセーブしていて、自分の好きな時だけ働いている状況だ。しかし義姉に呼ばれれば、夫はどこへでもタクシーで向かう。弟の売上に協力してくれるのかと思いきや、義姉はお金を払ったためしが一度もないらしい。
「そんなことなら断ればいいじゃない」
と私が止めても、夫は「いや、姉さんには逆らえないから無理だよ」と情けないことを言うだけだ。時には常連客からタクシーの依頼を受けても、義姉を乗せている時には断るしかなく、売上にも影響している。何度も断っているとお客様からの信頼もなくなり、売上にも影響が出る。我が家の家計が苦しくなるので、私が一言物申すことにした。
義姉から夫に電話がかかってきた時、私が電話を奪い取った。
「お姉さん、夫はタクシー運転手として仕事をしています。送迎者のように無料で使用するなら、やめていただけませんか?」
私が強い口調で言うと、義姉は悪びれることなく言い放った。
「何よ? 家族間でのお願いなんだから、いいじゃない。別に私はタクシーじゃない、車で来てくれてもいいのよ」
「あの家の車でも同じです。車の種類がどうとかではなく、お客様から電話があっても、お姉さんの呼び出しのせいで断らなくちゃいけないんですよ。こんなことを続けていたら、お客様も離れていきます。お金を払ってもらえないのであれば、今後は呼び出さないでください。今回の呼び出しも、行きませんから」
私も負けじと言い返した。すると、それから毎日のようにあった呼び出しが、ぴたりと止まったのだ。やはりはっきりと断らなかったから、義姉は調子に乗っていたのだろう。
それから一週間後、私は夫と息子家族の五人で家族旅行に来ている。行き先はアミちゃんの実家の近くにある、ある遊園地だ。アミちゃんのご両親も現地で合流し、さらに周辺を観光することになっていた。ホテルは一泊だけ、遊園地の敷地内にあるホテルに滞在した。もちろん三部屋取ったが、息子家族の部屋だけはキャラクターの部屋にした。私たち両家の親もその部屋を見に一度入ったが、噂通りの凝った作りだ。孫はベッドで飛び跳ねたりキャラクターの絵を触ったりとかなり喜んでくれたので、この部屋にして良かったと私自身も嬉しくなった。
初日の夕飯は、アミちゃんのご両親から私への退職祝いも兼ねて、そのホテルでのディナーを準備してくれていた。これは完全サプライズだったので、私は涙を拭ってお礼を伝えた。アミちゃんのご両親はまだ現役で働いているので、退職した時は私もサプライズでしっかりお祝いしようと心に決めた。
それからも家族旅行を存分に楽しみ、後ろ髪を惹かれる思いで帰宅した。これまで仕事人間だった私は、初めてこんなに楽しんで旅行をしたと思う。
「楽しかったわね」
夫と大量のお土産を抱え、家の中に入った。リビングのドアを開けると、目に飛び込んできたのは変わり果てた我が家だった。家の中は台風でも来たのかと思うような荒れよう。しかし、玄関の鍵はしっかりかかっていた。
「え? 何これ?」
私はその場に立ち尽くしてしまった。外出する時も家の中は綺麗に片付けたのに。思った瞬間、何か嫌な予感がした。私は急いで自分の寝室に向かう。
「どうした? どこに行くんだ?」
夫が追いかけてきたが、私は構わず自分の寝室へ。そして恐る恐る箪笥の引き出しを開けると、ない。
「ここに置いてあったお金がない!」
私は大声で叫んでしまった。
「いくらあったんだ? それよりも、本当にそこにあったのか」
夫は少し焦っている。
「大地たちがくれた退職祝いの百万円がないの。旅行に行く前に大地が持ってきてくれたから、ここにしまってたのよ」
私がそう告げると、「俺も探すよ。しまった場所を勘違いしてるかもしれないし」と夫は部屋を出ていった。私も念のため何度も箪笥の周りを探したが、やはり見当たらない。
「これ以上探しても無駄だわ。泥棒よ。通報しましょう」
私が夫に申し出ると、夫は今まで以上に慌て出した。
「なんであなたが慌ててるのよ。もしかして、あなたが百万円盗んだの?」
「違う。俺じゃない」
「じゃあ、やっぱり警察を呼ばないと」
「いや、やめろ。姉さんに鍵を貸しただけなんだ。家族間での問題だから、待ってくれよ」
警察を呼ぶと騒いでいる私に、夫はとんでもないことを言ってくれたのだ。この後に及んで義姉が出てくるとは。
「なんでお姉さんが。というか、この家は私の家よ。この家を購入する時、あなたはタクシードライバーに転職したばかりだったでしょ。だから私の名義で購入して、ローンも組んだのよ」
「だって、姉さんが……」
夫はぶつぶつ呟いている。そんな夫に、私はあることを告げた。
「もう警察に通報したわ」
「え? なんでそんなことするんだよ。今すぐキャンセルしろ」
「キャンセル? 警察を呼んでキャンセルをするなんて初めて聞いたわ。何言ってるのよ。これはれっきとした窃盗なんだから、来てもらうに決まってるじゃない」
そんな言い合いをしていると、五分後、警察のサイレンが聞こえてきた。一軒家が立ち並ぶ地域なので、どの家に来たかすぐに分かるため少し恥ずかしかったが仕方がない。
警察が数名、自宅に入ってきて、あちこちから指紋の採取をしている。しかし、警察の方からとんでもないことを言われた。
「奥さん、帰ってきてからこのままの状態ですよね。家の中の至るところから指紋採取を試みてるんですが、お二人の指紋しか出てきてないんです。綺麗に拭き取ってから出ていたと考えられます」
私は警察に、夫が義姉に鍵を渡していたからきっと義姉が怪しいと伝えたが、「民事不介入」ということで帰ってしまった。
夫は「ほら見たことか」と言っていたが、勝手に家の鍵を渡したことも私は絶対に許せない。どうして鍵を渡したのか聞くと、夫は意味不明なことを言い出した。
「姉さんが一軒家で暮らしてみたいって言ってたから、三日間ならいいよって言って貸したんだ」
「はあ? そんな理由で貸したの? 私に何の断りもなく?」
「なんでお前に許可取らないといけないんだ? ここは俺の家でもあるんだから。姉さんが『俺の一存で大丈夫だから』って言ってたんだ」
またお姉さんなの。いい加減にしてよ。もう話す気がなくなった私は、自室にこもって大地に連絡をした。せっかく楽しんで帰ってきたのに申し訳ないと思ったが、こちらも一刻を争う事態になりそうだったからだ。
「母さん、どうした?」
電話の向こうから大地の声がする。
「疲れてるところ悪いわね」
一言添えて、帰宅してからの出来事を話し、義姉が犯人だと思うから弁護してほしいと大地に頼んだ。息子が弁護士で、本当に良かったと思う。
義姉を訴えるだけではなく、夫との離婚も考えたのだが、大地と話してそれはひとまず保留にすることにした。なぜかと言うと、夫は何かを決める時、ほとんど自分で決めたことがない。唯一「タクシー運転士をしたい」と言ったことだけが夫自身の意見だった。大地に相談しなければ、私は感情に任せて夫との離婚を決めていただろう。
夫が義姉に洗脳されていて、その洗脳を解くことさえできれば、私は夫との離婚はしなくてもいいと思っている。私はこれまで、私から見るといい夫でいい父親、いいおじいちゃんだった。それに、夫のことを嫌いになったわけではない。義姉の旦那さんが存命の時は義姉が遠方で暮らしていたのもあって、本当に夫本人はいい人だった。義姉が夫の感覚を麻痺させていったのだと思っている。
私は義姉を訴えて、お金を取り戻そうと決めた。しかし大地が「鍵を貸しただけでは証拠が弱い」というので、泣き寝入りするしかないかと落ち込んだ。リビングのソファーに座り込んだ私は、ふとスマホを見つめる。そこで私は「これだ」と思いつき、連休明けに大地の弁護士事務所を訪ねた。大地にこの証拠を確認してもらうと、「これなら大丈夫」と心強い返答をもらうことができた。
大地に依頼して内容証明を作ってもらい、義姉に送った。義姉の家に届いたであろう翌日、義姉から電話が来た。
「これはどういうこと? 百万円って何? 私、何のことか知らないけど」
堂々と知らばっくれている。
「証拠のDVDも一緒に同封しましたけど、ご覧になってませんか?」
私は義姉に書類と共にあるデータを送っていたのだ。
「どうやって使うか分からないから見てないし、見る必要なんかないわ」
義姉はそう言い張るので、私は封筒に書いてある弁護士事務所に来るように伝えた。義姉はその後もずっと文句を言い、「絶対に見ない」と拒み続ける。
「そこに証拠が映ってるから、見てください。見ないなら裁判を起こしますよ」
そう伝えると、義姉は渋々受け入れてくれたようだ。お互い時間を合わせて、大地の事務所でそのまま話し合いをすることになった。大地にも時間は確認済みで、二日後の十三時から話し合いをすることに決まった。
私は大地と先に話し合うために一時間ほど早く待ち合わせをして、ランチをしてから事務所に戻った。約束の時間から十分経過した頃、やっと義姉が事務所に現れた。
「お待たせしちゃってごめんなさいね。というか、息子を使うなんて卑怯じゃない」
悪びれもせず、意味不明な文句を言いながら、勝手にソファーに腰をかけている。呆れたが、大地は早速義姉に弁護士の名刺を渡し、質問をする。
「お久しぶりですね、おばさん。DVDは持ってきてもらえましたか?」
「え? 持ってきたわよ。こんな変なもの送られても、分かるわけないじゃない」
笑っている。これから自分が何を見せられるかも、全く分かっていないようだ。
そして大地はノートパソコンに義姉から預かったDVDを入れた。パソコンに映っていたのは、私の箪笥から百万円が入った封筒を取り出している義姉の姿だ。さらには、その封筒の中身を箪笥の椅子に座りながら数えている様子まで映っていた。
それを一緒に見ていた義姉の顔が、みるみる青くなっていく。義姉は声を震わせながら詰め寄ってきた。
「な、何よこれ。どこで撮ったの? あんたたち、旅行にいたんでしょ? まさか盗撮」
「これは本来、箪笥の隣にあるペットケージを撮影しているものです。私自身が設置を撮影しているものなので、盗撮にはならないですね」
私は力強く言い返した。
実は旅行から帰宅した日、ふとスマホを見るととある通知が来ていたのだ。我が家ではペットを飼っている。私の寝室にケージを置いてあり、そのケージに向かって見守りカメラを設置していた。そして旅行に出る前、ペットをホテルに預けたにも関わらず、見守りカメラを切り忘れていたのだ。カメラの動体検知が働き、録画通知が来ていたらしい。旅行中はカメラを切ったと思っていたので、通知を気にしていなかった。まさかと思い、私は見守りカメラを確認した。録画されているデータを再生すると、義姉と一緒に見た通りの映像がばっちり映っている。
義姉は言い逃れができないと悟ったのか、話をすり替えてきた。
「か、箪笥なんかにお金を入れておく方が間違ってるんじゃないの? 家の中に大金が置いてあるなんて、持っていってくださいって言ってるようなものじゃない」
私はため息がこぼれた。
「私の箪笥、鍵がかかってましたよね。それをわざわざ開けるなんて、あなたの行動の方がおかしいでしょう。というか、その前に、持ち主が不在の時に勝手に家に上がり込んで生活するなんて非常識すぎます」
今回のことを不法侵入で訴えようかと思ったが、夫が義姉に鍵を渡し家に入ることを了承しているので、訴えられないようだ。刑事事件にできないのは残念だが、証拠はしっかり揃っているので、盗まれたものに対して民事で裁判を起こすことはできる。義姉の態度によっては、裁判も辞さない覚悟だ。
ちなみに箪笥の鍵は、箪笥の上に置いてあるオルゴールの引き出しに入れてあった。義姪から聞き取りをすると、こうだ。オルゴールの箱を宝石箱と勘違いした義姉は、上を開けてがっかりした。しかし引き出しを開けたところ、何やら鍵が入っているではないか。どこの鍵だとあちこち見渡すと、箪笥の鍵穴が目についたらしい。そこで僉の引き出しを開け、今回盗まれた現金百万円が入った封筒を見つけ持ち去ったという。
私は義姉に、百万円を返してくれないのであれば裁判にすると告げた。裁判という言葉に恐れをなしたのか、義姉は「返します。でも今すぐには返せません」と答えた。何やらすでに半分ほどを使用していたらしい。三日で五十万ものお金をどのように使ったのかと思ってしまったが、私は一括返金を要求した。
さらには、夫との接触を今後一切禁じるという一筆の同意書にもサインをしてもらった。唯一の弟との接触を禁じられてしまった義姉は、いい年をして駄々をこねている。しかし、今後夫に変わってもらう環境を作るには、無理やりにでも引き離さなければならない。
「私の大切な家族を奪わないでください」
私は義姉に懇願した。
「これからもタケシさんや私たち家族に近づいてきたら、ストーカーとして通報しますので、覚悟してください」
そう告げると、通報という言葉が効いたのか、義姪は受け入れてくれた。
その後、義姪は頼れる親戚もいないため、とある怖い筋の人からお金を借りて私に渡してきたらしい。今はその返済で年金を切り詰めた暮らしをしていたのだが、それだけでは返済ができず、朝から晩まで働き詰めになっているようだ。一度、知り合いのコンビニで深夜にバイトをしているのを見てしまった。義姉は我が家に嫌味を言っていた時より、かなり痩せて見えた。
一方、私は返してもらった百万円で、兼ねてから開こうとしていた子ども向けの初等教室のために自宅の一部を改装した。今では毎週子どもたちに囲まれて、楽しく過ごしている。夫は義姉から解放されたからか、家事や私の仕事のサポートもしてくれる。やはり夫は、義姉が関わらなければ優しくていい人だった。昔の夫に戻ってくれて、私は嬉しかった。
これからも二人で仲良く、長生きしたいと思っている。



