会議室の扉が開いた瞬間、課長が満面の笑みで「プレゼンは私の部下が英語で行います」と言い放った。頭が真っ白になった。この人は普段、俺を「中卒ニート」と呼んで蔑んでいるはずなのに、なぜこんなことを。しかも今日は会社の命運を左右する海外企業との商談だ。壇上に上がった俺を見て、課長は口元を吊り上げていた。ああ、そういうことか。俺に恥をかかせるつもりなんだな。怒りで手が震えたが、俺は深呼吸して一礼した…

会議室の扉が開いた瞬間、課長が満面の笑みで「プレゼンは私の部下が英語で行います」と言い放った。頭が真っ白になった。この人は普段、俺を「中卒ニート」と呼んで蔑んでいるはずなのに、なぜこんなことを。しかも今日は会社の命運を左右する海外企業との商談だ。壇上に上がった俺を見て、課長は口元を吊り上げていた。ああ、そういうことか。俺に恥をかかせるつもりなんだな。怒りで手が震えたが、俺は深呼吸して一礼した...

プレゼンは私の部下が英語で行わせていただきます。彼は英語が堪能で、我が社期待のホープであります。

会社の今後を左右するプレゼンの場で、課長が突然そんなことを言い出した。普段は中卒ニートと見下しているのに、これはどういうことなのか。驚いていると、課長がニヤニヤと笑みを浮かべて俺を見た。

ああ、なるほど。俺に恥をかかせる気なのか。俺なんかが英語を話せるわけがないと思っているのだろう。こんな子供じみた嫌がらせのために大事なプレゼンを利用する課長に、ふつふつと怒りが湧き上がる。だが俺はその怒りをぐっとこらえ、壇上に上がって一礼した。

まあいいさ。その浅はかな考えのせいで、全てを失うことになるのだから。

俺の名前はいばらき。現在営業部に所属して働いている。俺は中学生の時に父をなくし、それからは残された母と二人で生活していた。母は元々体の弱い人で、俺が生まれてからも一年に何回かは風邪をこじらせて床に着くほどだった。父の遺産はわずかにあったが、それでも俺の将来のためを思い、母はそんな体を押して仕事を探し始めた。けれど、いざ働こうと思ってもなかなか体力が追いつかず、仕事も休みがちとなり、生活は苦しくなるばかりだった。

俺も新聞配達などで家計を助けてはいたが、それでも十分な暮らしとはいかなかった。

そんな中、海外に居住していた母の兄が日本へ帰国。そして俺たちの生活を見かねた叔父は、自分と一緒に暮らすことを勧めてくれたのである。俺は母とも話し合い、中学卒業と同時に二人して叔父の家へ引っ越すこととなった。

それからは自営をしている叔父の仕事を手伝いながら、三人で肩を寄せ合い、穏やかな生活を送った。そして俺は叔父の元で十年ほど過ごした後、叔父の仕事での付き合いがあった人の紹介で今の会社に就職したのだ。営業部の仕事は大変だったが、やりがいもあり毎日が新鮮だった。

だが一つ、俺には悩みがある。上司である長谷川課長のことだ。彼は中卒で就職歴もない俺のことを、引きこもりのニートだったと思い込んでいるようで、ことあるごとに俺を馬鹿にし見下してくるのである。

「ちょっといばらき君、今日も来てるか」

朝から長谷川課長が大声で俺を呼ぶ。本日中に提出しなければならない書類があり、本当はそちらにかかりきりになりたいのだが、上司の言葉を無視するわけにもいかない。ため息をこらえて課長席へと足を運ぶ。

「来るのが遅い。なんだ、中卒のニート君は頭だけでなく耳も悪いのか」

最初っから嫌みを口にし、それから俺の方をじろりとひと睨みしてきた。

「今日までの書類どうなってんの? 出してないの君だけだよ」

案の定、あの書類のことを突っ込まれ、俺はひとまず頭を下げる。

「すみません。今しばらくしたら提出しますので」

だが長谷川課長は獲物を見つけたとばかりに、いやらしい嫌みを連発してきた。

「今って夏休みの最終日に焦る子供じゃないんだからさ。こういうのはできるだけ余裕を持って出して欲しいんだよね。だって君大人でしょ。分かってるのかな? そこんとこ」

はっきり言うが、一週間前、俺は部内で誰よりも早くあの書類を提出していたのだ。けれど締め切り直前になって、書類の不備を理由に長谷川課長がそれを俺に突き返してきた。不備の箇所を尋ねてみても、そんなの自分で考えろと取り付く島もない態度を見せるばかりの相手に、俺は理不尽を感じずにはいられなかった。それでも仕事は仕事。幸い他の仕事は前倒しで終わらせていたため、絶対今日中に再提出してやると、俺は先ほどから書類と格闘していたのである。

だが目の前の長谷川課長は、そんなことなど忘れたとばかり口元をニヤニヤと引きつらせながら、嫌味を吐くこと自体を楽しむようにして先を続ける。

「まあ中卒ニート君にはちょっと難しいかな。いばらき君はもうちょっと大人にならないといけないね。だってこれは仕事なんだから」

そう言うなら、こんな嫌みを吐くために貴重な時間を費やしている長谷川課長も大概子供だろう。そうは思うものの、ここで言い返してもさらに粘着されるばかりなのは目に見えているため、俺はぐっと我慢してもう一度頭を下げた。

「書類は必ず本日中に提出します」

そして未だ嫌味を言い足りない顔をしている相手には気づかないふりをして、俺はさっさと自席へ戻り仕事を再開した。

長谷川課長の俺に対するこういった嫌がらせは、もはや日常茶飯事である。もちろん言いたいことはいっぱいあるが、不毛な言い合いをする暇があったら、少しでも目の前のやるべきことに時間を費やしたい。そもそもこちらの話を一切聞かないことは、入社当初ニートの勘違いを解こうとした際に体験して分かっている。諦めて、俺は今日も仕事に励むのであった。

そんなある日。

「この度、海外の企業との商談が決定した」

朝礼の場での部長の一言に、部内はにわかに湧き上がる。その企業とは、関連会社を国内外に展開しているグローバル企業で、話がまとまれば弊社にとってもこれ以上ない大きな取引となる。営業部からチームに加われるのは二人。もしそのメンバーに選ばれれば将来も明るいとのことで、部内の誰もが息を飲んで部長の次の言葉を待つ。

「部からは課長の長谷川君、そして、いばらき君」

え?

みんなのざわめきと、ぽかんとした俺の声が重なった。目を見開いて突っ立っている俺の横に部長が近づいてくる。そして部長は俺の肩を軽く叩きながらこう言った。

「特にいばらき君は社長の推薦だ。まだ若いが、貴重な勉強の場だと思って大いに頑張ってほしい」

その言葉に同僚たちは「社長の推薦だって」と目を丸くしながらも、頑張れよなどと温かく受け入れてくれる。

「では長谷川君、いばらき君、よろしく頼むな」

「はい」

「あ、はい」

俺にとって初めての大きな仕事だ。緊張で足が震えながらもやる気を見せるところ、そんな俺に部長が目線を外した隙をついて、長谷川課長が睨みつけてきた。

「なんでお前みたいな中卒ニートが選ばれるんだよ。いいか? 俺の足を引っ張ったら承知しないからな」

周りには聞こえない小声で彼はそれだけ言い捨てると、また前を向き愛想のいい顔で部長を取り入り始める。そんな裏表の激しい彼と同じチームになることへの不安を覚えつつ、それでもせっかく恵まれた大きな機会を無駄にしないよう、俺は改めて気合いを入れるのであった。

一ヶ月後の商談当日は、あっという間にやってきた。その間はまさしく目が回るほどの忙しさではあったが、なんとか事前準備を終えて、あとは長谷川課長のプレゼンを待つばかりである。プレゼンのための資料を作っている時も何かと子供じみた嫌がらせはされていたが、それでもこの大きな商談を前にして長谷川課長も緊張しているのか、今日はすっかり大人しい。

そしていよいよ本番のプレゼンの時間が回ってきた。俺は長谷川課長のフォローをすべく前に出た彼の横に立ち、手元のパソコンを操作して映し出されるモニター画面の調整を行う予定である。

だが突如、長谷川課長が大げさな動作で一礼すると、全くもって寝耳に水なことを言い出したのだ。

「では、ここからのプレゼンは、ここにいる私の部下、いばらきが行います」

「え? 課長?」

戸惑う俺をよそに、長谷川課長が大きな声で説明する。

「彼は英語が堪能であり、我が社期待のホープでもあります。グローバル企業である先方へのプレゼンには彼より他いないと判断しました」

この人は何を言っているんだ? 降って湧いたようなその紹介に、俺は思わず目を向けて長谷川課長を見た。すると彼は、俺の驚く顔を見てこらえきれないとばかりに口元を吊り上げる。

「それでは、いばらき君。しっかり伝えなさい」

そんなことなど誰も思っていないのは明らかな目をしながら、表面上はニコニコ笑うと、彼は俺を一人壇上に残してさっさと会議室の隅へ引いていく。その迷いのない足取りに俺は悟った。彼は初めから俺に恥をかかせるつもりだったのだと。

あれだけ俺に仕事なんだからと嫌みを言っておいて、小さな自己満足のためならその仕事でさえも簡単に放り出す長谷川課長に、俺はふつふつと怒りが湧いてきた。けれど、今は自分の感情に振り回されるわけにはいかない。

俺は顔を上げぐるりと室内を見渡す。相手方の担当者数人。そして弊社からは社長をはじめとした上層部も数人顔を出していて、会議室はそうそうたる顔ぶれである。そんな中、俺は一つ深呼吸をした。

そして一礼の後、使い慣れた英語で流暢にプレゼンを開始する。

相手方はさすがグローバル企業と言うべきか、全員が英語に堪能なようで、俺のプレゼンに時折り頷きながら聞き入ってくれている様子だ。俺は余裕を持ちつつ、合間にパソコンを操作しつつも聞き取りやすい速さで話を進めていった。

「弊社の提案は以上となります。では引き続き質疑応答に移らせていただきます」

そう言いながら目線を動かせば、視界の隅にひどく取り乱した様子で俺を見る長谷川課長の姿が映った。今更何か反応するのも馬鹿らしくすぐに視線を外す。やがて何点か相手方からの質問があり、その全てに俺は英語で答えていった。

「では他にご質問はないようでしたら、ここで失礼いたします。ご清聴ありがとうございました」

そうして俺が再び頭を下げたと同時に、会議室は拍手に包まれたのである。相手方の反応も悪くないようで、ひとまず成功と言ったところだろうか。その様子を見て取って社長がにこやかに立ち上がった。

「我々に習い、最近は弊社の社員にも積極的に語学の勉強を進めておりましてな。ここにいるいばらき君は十年間海外暮らしをしていたこともあり、ご覧の通り若手では群を抜いて英語が堪能なのですよ」

社長が鼻高々と言った具合でそんなことを口にした。

「へえ、十年も住んでたの?」

「ネイティブと変わらないね」

「いばらき君のおじさんが海外に拠点を置いていらっしゃるんだよね?」

「はい。父が亡くなり、残された母と私を心配して、叔父が自身の元へ呼び寄せてくれたのです。また叔父は現地で会社を経営しておりましたので、私もそこで学生の頃から手伝いをしておりました」

そう、俺は日本では中卒であるが、叔父の力添えもあり、海外ではそれなりの大学を出ている。ちなみに俺が日本へ帰国したのは、母がこちらの病院に入院することとなったからだ。これほど英語には慣れていなかった母は、入院生活は慣れた日本の病院がいいと言ったので、それに合わせて俺もこちらで就職することにした。その際に、もしよかったらと叔父が紹介してくれたのがこの会社なのである。叔父は以前より弊社の社長と親交があったらしく、俺の話をしたら是非面接を受けてくれとなったらしい。とは言いつつ、俺はコネで入社することにはどうしても抵抗があり、結局は周りの学生たちと同じようにきちんと試験や面接を突破して今に至るのである。

「ああ、それでか。君の英語力は把握していたが、若いのにプレゼンの方も随分成長していた。いばらき君、これからも期待しているよ」

こんな社長の言葉で商談は一旦終了となった。

相手方を見送りつつ、社長を始め上層部数人と共に俺や長谷川課長も今一度会議室へ戻る。相手方から出た質疑応答に対して、今後の対応を詰めておくためだ。

だがそこで営業部長が首をかしげて口を開いた。

「そういえば長谷川君。当初の予定では、プレゼンは長谷川君が行う予定じゃなかったかい?」

それはそうと、先ほどから周囲に合わせて動いてはいるものの、どことなくぼんやりとした顔をしている長谷川課長が、その問いにぎくりと肩を揺らす。

部長の指摘に上層部の視線までもが集まったためか、長谷川課長は途端にそわそわと落ち着きをなくし、しばらく視線を泳がせた後に脂汗を垂らしながら早口にまくし立てた。

「い、いばらき君が、是非自分でプレゼンしたいと。英語には自信があるので任せて欲しいと言ってきて…… 私は止めたのですが、どうしても」

責任転嫁する気満々で、長谷川課長は俺を指差しそう言い放つ。その懲りない態度に、俺はもはやため息も出ず、逆に笑ってしまいそうになった。

そして俺はその場で静かに手を上げる。みんなの視線が俺に集まった。そこで俺は先ほどと同じように一度にこやかに笑うと、ここぞとばかり先ほどの倍の速度で英語をまくし立てていく。

「お言葉ですが、長谷川課長のおっしゃっていることは事実とは異なります。私は入社以来、長谷川課長から度重なる嫌がらせを受けてきました。この場にいる皆さんは英語が堪能なようですので、続きは英語で説明させていただきます」

どうやら長谷川課長はそれほど英語が得意ではないらしい。自分が何か言われていることは分かるようだが、異国の言葉を弾丸のような速さで吐き出し始めた部下を前にして、どうしていいか分からないのか、意味なく手を上げたり下げたりしている。一方、彼を除いたこの場の全員は英語に堪能なようで、俺の早口の訴えを理解するそばから絵に描いたような寒気を浮かべてくれた。

そこで俺はダメ押しの一言を添える。

「証拠ということになりましたら、音声のみですがこちらに。全てではありませんが、私に対する長谷川課長の嫌がらせ行為の一部始終が録音されています」

わざとその部分だけ日本語に切り替えて、俺は自身の内ポケットから小型のレコーダーを取り出し、上層部の前に掲げた。

「なるほど」

そこまで無言で話を聞いていた社長が、ぽつりとそう漏らす。そして社長は眼光鋭く長谷川課長を睨むと、重々しい口調で続けた。

「従業員からの訴えが上がってきているが、まあ、君の言い分は社長室で伺おうじゃないか。じっくり時間をかけてな」

「ひっ」

脇をがっちりと固められ、小さな悲鳴をあげながら長谷川課長は早々に連れて行かれた。

「すまないが、いばらき君は質疑応答部分をまとめて、明日提出してくれるか?」

「はい。承知しました。ありがとうございます」

威厳をまといつつも冷静にそう言った社長に俺は頷き、そうして深く頭を下げたのだった。

さて、その後の長谷川課長はと言えば、あれから改めて社内調査を受けることとなった。結果、勤務中に一部の部下に対して不適切な言動があったとして、平社員に降格させられた上に、窓際部署へ移動となったのである。社内では長谷川課長の処分が話題となり、それを受けた各部署も今一度組織内の風通しを見直した結果、会社全体の雰囲気がより明るいものへと変化した。またそれに伴い、ハラスメント再発防止のための研修や指針の策定なども積極的に行われるようになる。そのおかげで、社員同士の円滑なコミュニケーションや、個々の能力を重視する風潮が広まり始めた。

一方俺は、あの時のプレゼンが高く評価され、引き続き担当として抜擢された。さらにその件が発端となって、この度会社主体で社員一人ひとりのスキルを上げることを目的とした学びの場も設けられることに。俺はそこで英語の社内講師を務める傍ら、自身も中国語を学び始めたところである。

それからプライベートの方でも、素晴らしい変化があった。入院していた母の手術が成功し、この度めでたく退院となったのだ。

退院当日、病室の片付けをしていた俺に、母がゆったりと聞いてきた。

「ゆうや、お仕事の方はどうなの?」

「大変なこともあるけど、毎日が新鮮だよ。それに海外暮らしの経験を生かして、今は英語の社内講師をしているんだ」

俺はにっこりと笑って答える。

「あら、まあ、そうなの? それは良かった」

俺の答えに、母が嬉しげに笑って頷いた。

聞けば叔父も近々帰国できるように仕事を調整しているらしい。その時には、これまでお世話になった礼を伝えると共に、一回り成長した自分の姿を見せられるよう頑張ろう。俺は改めて気合いを入れるのであった。

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