あの日、山道で嫁がトイレに行っているほんの数分の隙に、見知らぬ男が血相を変えて近づいてきて、私の手にメモを握らせた。下を向いてもう一度顔を上げると、男は影も形もなく消えていた。手が震えて、メモを開くと、そこには信じられないことが書かれていた。息子が私に死んでほしいと願っている。私、鈴木鈴子、六十八歳。市場通りで四十年以上ラーメン屋をやってきた。口は悪いが情に厚いと評判のおばあちゃんだ。けれど…

あの日、山道で嫁がトイレに行っているほんの数分の隙に、見知らぬ男が血相を変えて近づいてきて、私の手にメモを握らせた。下を向いてもう一度顔を上げると、男は影も形もなく消えていた。手が震えて、メモを開くと、そこには信じられないことが書かれていた。息子が私に死んでほしいと願っている。私、鈴木鈴子、六十八歳。市場通りで四十年以上ラーメン屋をやってきた。口は悪いが情に厚いと評判のおばあちゃんだ。けれど...

嫁と登山に行く日だった。みきがトイレに行っているわずかな隙に、見知らぬ男が突然現れた。青白い顔で息を切らしながら、私の手にメモを握らせた。下を向いて、もう一度顔を上げると、男は消えていた。足音もなく、影もなく。心臓が止まるかと思った。

メモを開くと、そこには信じられない内容が書かれていた。私は息を呑み、周囲を見回したが誰もいない。手が震えた。これは夢か、それとも何かの間違いか。私は六十八歳の鈴木鈴子。市場通りで四十年以上、ラーメン屋を営んできた。口は悪いが、情には厚いと評判のおばあちゃんだ。

私はド鍋でスープを煮込みながら、壁のテレビを何気なく見上げた。ニュースキャスターの声が店内に響く。東京で五十代の息子が八十代の老母を殺害した疑いで緊急逮捕、という内容だった。客の一人が「あんなやつは人間じゃない。獣だ」と吐き捨てた。もう一人が「まったくですよ。最近の世の中はどうしてこうなっちまったのかね」と続けた。

私も心の中で同感だった。あんな人間のくずのせいで、世の中が物騒になる。ふと、うちの純平のことが頭に浮かんだ。うちの息子はあんな奴らとは全然違う。医者になって、嫁をもらって、順風満帆な人生を歩んでいる。私は手を見下ろした。節くれだった手は、いくら洗っても落ちないタレの染みがついている。この手でラーメンを作り、この手で息子を育ててきたのだ。

その日も昼の営業を終え、店の片付けをしていた。客足が途える時間帯、カウンターの椅子に座って膝を揉んでいた。最近、関節の調子が良くない。すると店のドアが開いた。

「母さん」

その声に私は顔を上げた。純平だった。隣には嫁のみきも立っている。純平はにこやかに笑いながら近づいてきた。片手にデパートの紙袋、もう片方に赤い風呂敷に包まれた箱を持っている。

「あらま、どうしたんだい。忙しい人が」

口ではそう言いながらも、私は嬉しくてたまらなかった。純平は大学病院の政権科の課長で、忙しくて月に一度顔を見るのも難しい息子だ。それが直接店に来てくれるなんて。

「お義母さん、お久しぶりです」

みきが腰を折って挨拶した。三十四歳の元看護師で、結婚してからは専業主婦をしている。可愛らしい顔立ちで、いつもきちんと身なりを整えている子だ。

風呂敷を解くと、中から最高級の和牛セットが出てきた。サーロインにひれ。雪のように白い霜降りが入っていて、一目で高級だと分かる。

「母さんの労いにと思って」

純平が言った。私は手を振って遠慮したが、心の中は温かかった。うちの子がこんなに親思いに育ってくれた。ところが純平は紙袋を持ち上げて言った。

「母さん、本当のプレゼントはこっちです」

紙袋から取り出されたのは、蛍光オレンジの登山ウェアだった。目がチカチカするほど鮮やかで派手な色だ。ケットとパンツのセットだった。

「母さん、最近山での遭難事故が多いんです。絶対に目立つ服を着なくちゃいけません。この色ならヘリコプターからでもすぐに見えるそうです」

純平の声は真剣だった。みきも隣でうなずいたが、その声はどこかぎこちなかった。笑っているのに、目が笑っていない感じだ。

「これ、最近は奥様たちの間でも手に入らないって評判なんですよ。私が並んでやっと買ったんですから」

私は蛍光オレンジのウェアを広げてみた。生地は薄くて軽い。でも、正直この色は少し気が引けた。

「ねえ、これ、派手すぎないかい。私がこれを着たら、山で標的みたいじゃないか」

「だから安全なんです。母さん、最近の山は危険です。絶対に目立たないと」

純平がもう一度強調した。息子がここまで心配してくれるのに、これ以上何を望むことがあるだろう。私はうなずいた。

その時、純平が紙袋からまた何かを取り出した。登山靴だった。真っ黒で、靴底が分厚く頑丈そうに見える。

「これは最新の機能性登山靴です。滑り止め機能が特許取得済みの製品だそうです」

純平は突然私の前に膝をついた。私は驚いた。

「おいおい、何してるんだい。立ちなさい」

「ちょっとだけ、僕が履かせてあげます」

純平は私の古いスリッパを脱がせ、新しい登山靴をそっと履かせてくれた。まるで私が幼い純平に靴を履かせてあげた時のように。その様子を見下ろしていると、涙が込み上げてきた。うちの子がこんなに大きくなったんだ。

「母さん、この結び方は二十重結びと言って、絶対に解けないんです。ネットで覚えました」

純平が靴ひもを結び始めた。しかし、少し変だった。ひもをきつく締めすぎているのだ。足が締め付けられる感覚に、私は顔をしかめた。

「おい、ちょっときつすぎじゃないかい。足がしびれるよ」

「こうやってきつく結ばないと、山で滑らないんです。緩むと危険ですから」

純平の声は断固としていた。私はただ信じるしかなかった。その時、みきを見ると、彼女は爪を噛んでいた。足も落ち着かず、カタカタと震わせている。

「みきさん、どこか具合でも悪いのかい」

「あ、いえ。コーヒーを飲みすぎてしまって」

みきの笑い声は不自然に途切れた。変だなと思いつつも、私は深く追求しなかった。

「母さん、明日登山に行かれるんですよね。みきが連れて行きますから」

「私が登山を?」

「お義母さん、膝も良くないでしょう。適度に運動しないと関節に良いそうですよ。コースも調べておきました。きつくないところです」

息子がここまで気遣ってくれるのに、断ることはできなかった。私はうなずいた。

「分かったよ。明日行こう」

純平とみきが帰った後、私はシャッターを下ろして家に上がった。夫の遺影に話しかけた。

「あなた、見てください。うちの純平がこれを買ってくれたんですよ」

写真の中の夫は穏やかに笑っているだけだった。

その夜、私は眠れなかった。明日の登山のことを考えると、心が躍った。リュックにおにぎり二つ、飲み物、手ぬぐいを詰めた。幼い頃の純平を思い出した。遠足の日には朝早く起きてお弁当を作った。空っぽのお弁当箱を持って帰ってくると、たまらなく嬉しかったものだ。

窓から月明かりが差し込む。私は目を閉じた。明日は良い日になるだろう。その時は本当にそう信じていた。これが私の人生で最悪の一日になるなんて、夢にも思わずに。

翌朝、午前五時に目が覚めた。蛍光オレンジのウェアを着て鏡を見た。まるで道路工事の作業員のベストみたいな色だ。七時、みきから電話があった。「三十分後に着きます」。空は曇っていた。雨が降りそうで降らない、あいまいな天気。

しばらくして、黒いセダンが路地に入ってきた。みきの車だった。私はリュックを背負い、急いで車に乗り込んだ。

「お義母さん、おはようございます」

みきの顔色がおかしかった。目の下にひどいくまができている。一晩中眠れなかった人の顔だった。

「みきさん、顔色が悪いよ」

「あ、いいえ。昨夜ドラマを見ていて、少し寝不足で」

無理に笑って答えた。私はそれ以上深くは聞かなかった。ところで純平は? と聞くと、みきの言葉が濁った。

「今日の早朝、緊急手術が入ったそうです。それで、私一人で送っていくように言われて」

「あらま、そんなことで謝ることないよ。医者が患者を救うのは当たり前のことじゃないか」

私はむしろ誇らしく思った。忙しい中でも母親を心配して、嫁までよこしてくれるなんて。車に乗り込み、出発した。みきがカーナビに何かを入力した。画面に表示された「竜神山」という名前は初めて見るものだった。

「どこに行くんだい?」

「竜神山です。最近、隠れた名所として人気なんですよ。人もあまりいなくて、景色が最高だそうです」

聞いたことのない名前だったが、嫁の言葉を信じることにした。しかし、運転するみきの様子がどうもおかしかった。ナビが右折しろと言っているのに直進したり、信号が変わるのもぼんやりしていて後ろからクラクションを鳴らされたり。急ブレーキを三回も踏んだので、私は助手席の取っ手を固く握りしめなければならなかった。

「みきさん、今日体調が悪いなら、また今度にしてもいいんだよ」

「いえ、大丈夫です。ただ、少し緊張してて」

緊張。登山に行くのに何が緊張するというのだろう。私は心の中で首をかしげた。その時、ラジオからニュースが流れた。

「警察は昨日、保険金詐欺団の一味を逮捕しました。彼らは家族を装って自己を予想追い数千万円の保険金を騙し取ろうとした疑いが……」

瞬間、みきの手がピクリと動いた。ハンドルを握る指の関節が白くなるほど、力が入っていた。そして、神経質にラジオの電源を切ってしまった。

「お義母さん、最近のニュースは怖い話ばかりで、聞きたくないです」

声が尖っていた。普段のみきは、あんな風に感情を露わにする子ではない。

「ああ、そうかい。消そう、消そう」

車内には気まずい沈黙が流れた。二時間ほど走っただろうか。車窓の風景がだんだん見慣れないものになっていく。最初は高速道路だったが、いつの間にか一般道に入り、最後は舗装されていない砂利道を走っていた。

「みきさん、ここはどこだい? 山はまだかい」

「もうすぐ着きます。お義母さん、もう少しです」

そう答えたが、声に確信がなかった。カーナビの画面を見ると、目的地までの残り距離が何度も増えたり減ったりしていた。ちゃんと道を探せているのか疑わしくなった。

ついに車が止まった。目の前に広がっていたのは、鬱蒼とした森だった。しかし、何かがおかしい。登山口にあるはずの案内板が半分折れて倒れ、文字も剥げて読めなかった。駐車場というより、ただの草むらを適当に造成した場所だった。

「みきさん、ここは人もいなくて不気味だね」

「最近は非接触が主流ですから。こういう隠れた名所の方がむしろ人気なんですよ」

みきはそう言ったが、瞳は揺れていた。自分に言い聞かせているようにも聞こえた。私は車から降りた。空気が湿っていて、ひんやりとしている。どこからかカラスの鳴き声が聞こえた。不吉な声が森の中に響いていた。

みきがトランクを開け、リュックを二つ取り出した。みきのリュックは特に重そうだった。まるで石でも入っているかのように、ひもがパンパンに張っている。

「みきさん、何をそんなにたくさん持ってきたんだい。キャンプじゃないんだから」

「あ、これですか。食べ物とか、色々です」

みきは慌ててリュックを肩にかけた。その瞬間、リュックのジッパーから何かがはみ出しているのが見えた。黄色いゴム手袋。それも皿洗いに使うような薄いものではなく、工事現場で使うような分厚い工業用の手袋だった。

「みきさん、それは何だい。手袋みたいだけど」

「え? あ、これですか?」

みきは飛び上がるほど驚き、手袋をリュックの中に押し込んだ。

「山で岩を掴む時に、手を怪我しないように持ってきたんです」

嘘のように聞こえた。登山でそんな手袋を使う人がいるだろうか。しかしその時は、まさか嫁が何か悪いことを企んでいるわけがないと、深く考えなかった。

その時、みきの携帯電話が鳴った。着信音が森の静寂を破った。みきは画面を見て、顔をこわばらせた。画面に表示された名前が見えた。「愛しのあなた」と、ハートの絵文字までついている。つまり、純平からの電話だ。しかし夫からの電話なのに、みきの表情はなぜあんなに暗いのだろう。まるで恐ろしい人から電話がかかってきたかのように顔が青ざめていた。

「お義母さん、ちょっとだけ電話に出ますね」

みきは私から十歩ほど離れた場所へ歩いて行き、背を向けて小さな声で話し始めた。風の音に混じってよく聞こえなかったが、時々声が高くなるのが聞こえた。

「分かってる。やるって言ったでしょう。急かさないでよ」

声は震えていた。怒っているというよりは、怖くて焦っている感じだった。電話を切ったみきが戻ってきた。無理に笑っていたが、目元は赤くなっていた。

「すみません。あの人が心配で何度も電話してくるんです」

「喧嘩でもしたのかい。声が少し高かったようだけど」

「いえ、ただの夫婦の話です。そういうのありますよね」

みきは顔を伏せて言葉を濁した。若い夫婦のことには口を出さない方がいい。そう思って私は明るく振る舞った。

「そうかい、そうかい。夫婦喧嘩は犬も食わないって言うからね。さあ、早く登ろう」

私は先に立って歩き始めた。しかし、一歩踏み出した瞬間、奇妙な感覚に襲われた。カラスの鳴き声が大きくなったように感じ、森の奥から吹いてくる風がひどく冷たく感じられた。壊れた案内板の前に立ち、森を見上げた。木々が密集していて、太陽の光もほとんど差し込んでこない。山というより、巨大な口を開けた獣のようだった。

登山道は思ったより険しかった。落ち葉が厚く積もって足が沈み、あちこちに濡れた岩が突き出ている。私は戦闘を歩いた。四十年以上市場を駆け回って鍛えた足だ。これくらいの坂は平気だった。みきは後ろから息を切らしてついてくる。

「お義母さん、もう少しゆっくり行きましょう。膝が良くないんでしょう」

「大丈夫だよ。これくらい何てことないさ」

しかし、実は問題があった。膝ではなく、足だ。純平が買ってくれた新しい登山靴が、やたらと滑るのだ。最初は落ち葉のせいだと思った。濡れた落ち葉は滑りやすいのは当然だから。しかし岩を踏んでも同じだった。足を乗せた瞬間、ズルッと音を立てて後ろに滑る。

私は立ち止まり、足元を見下ろした。新品の靴のはずなのに、靴底が岩の表面を捉えきれずにスケートのように滑っていく。まるで氷の上を歩いているようだった。

「お義母さん、どうしました?」

「いや、靴が少しおかしくてね」

そう言って私は再び歩き始めた。慎重に足場を選びながら登っていく。しかし、それから間もなく事故が起きた。小さな石ころを踏んだ瞬間、足がグニャリと滑ってバランスを崩した。私は悲鳴を上げて尻餅をついた。手のひらを地面について擦りむき、血が滲んだ。

「お義母さん!」

みきが駆け寄ってきて、私の腕を掴んで立たせてくれた。

「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」

「大丈夫、大丈夫。ちょっと滑っただけだよ」

しかしその瞬間、奇妙な感覚に襲われた。みきが私を支える手の力の向きがおかしい。確かに立たせようとしているのだが、肩を掴んだ手がじわじわと右側、つまり崖の方へ私の体を押しているように感じられた。

「みきさん」

「はい、お義母さん」

みきはさっと手を離した。目を合わせずに俯いていた。私は登山道の脇にある平らな岩に腰を掛けた。靴を脱いで靴底を調べてみた。見た目は問題なかった。深い溝もある。しかし指で靴底をこすってみると、妙な感触があった。ツルツルとしている。まるでワックスを塗り付けたかのように滑らかな膜が張られている感じだ。鼻を近づけて匂いを嗅いでみると、ワックスのような匂いがした。市場で果物に艶を出す時に使う、あの匂いだ。

「純平のやつ、騙されたんだな。こりゃ不良品だよ」

「ああ、そうですか」

みきの声に心配の色はなかった。ただ気のない返事だった。

「それにしても、この靴、純平がすごく買ってくれたっていうのに、こんなに滑っては登山靴じゃなくて、すべり台だよ」

「お義母さん、とりあえずこのまま行きましょう。時間が遅れます」

「何が遅れるんだい。私たちは遊びに来たんだよ。試験を受けに来たんじゃない」

私は呆れてしまった。嫁が転んで怪我をしたのに、靴の確認もせずに早く行こうだなんて。しかしみきはすでに立ち上がり、山の頂上を見上げていた。足をカタカタと揺らしながら、焦っている様子がはっきり見て取れた。

私は仕方なく靴を履き直した。純平がきつく結んだひもが、足首を締め付けていた。再び山登りを始めた。私は先ほどよりさらに慎重に歩いた。一歩踏み出すたびに滑らないかと緊張した。

二十分ほど登っただろうか。上から人の声が聞こえた。中年の男性が登山客らしい装備で降りてきた。男性は私を見て、目を丸くした。

「お母さん、その服の色は本当に目が痛くなりますね」

「息子が買ってくれたんですけど、派手すぎますかね?」

「いや、よく目立っていいですよ。ところで、その靴……」

男性は私の足元を見下ろし、表情を硬くした。

「お母さん、その靴でこの山は登れませんよ」

「どうしてですか?」

「靴底を見てください。あれは登山靴じゃない。溝はあるけど、素材がね。上で滑るのにちょうどいい作りになってる」

男性は首を振った。

「この先に行くと急な斜面がありますよ。その靴で行ったら大変なことになります。アイゼンでもつけるべきですよ」

私が言葉を失っていると、横から鋭い声が飛んできた。

「おじさん、私たちが自分でやりますから。どうぞお構いなく」

みきだった。声はまるで突き放すかのように冷たかった。私は驚いてみきを見つめた。みきの顔は険しく歪んでいた。眉は釣り上がり、唇はピクピクと痙攣している。普段ののんびりした顔ではない。

「いいや、心配で言ってるだけなんだが」

「心配していただかなくて結構です。放っておいてください」

みきは腕を組んで言い放った。男性は呆れたように鼻で笑い、首を振りながら立ち去った。

「最近の若い者は礼儀を知らんな」

私は呆然とみきを見つめた。どうしたんだい? と尋ねると、みきはぶっきらぼうに答えた。

「お義母さん、知らない人の言うことなんて聞いちゃだめですよ。最近山には変な人が多いそうですから」

しかし声は震えていた。私はその時、もしかしたらと思い始めた。いや、まさか。嫁が何かを企んでいるはずがない。私はそう自分に言い聞かせた。

登山道はだんだん狭く険しくなっていった。両脇には崖が見え始め、足元からは石ころがガラガラと転がり落ちる音がした。みきが振り返った。

「お義母さん、早く来てください。もうすぐ頂上ですよ」

その口調は、せかしているというより、追い立てているように聞こえた。まるで自分が獣のように追い込みをかけられているような感覚だった。ただの気のせいだろう。私はそう自分に言い聞かせた。しかし、滑りやすい登山靴で一歩踏み出すたびに、不安は少しずつ大きくなっていった。

山の中腹に古びたあばら屋が現れた。柱は傾き、屋根はところどころ欠けている。みきが言った。

「ここで少し休んで行きましょう」

私は縁側に腰を下ろした。足がガクガク震えていた。

「ちょっとトイレに行ってきます。お義母さん、ここにいてくださいね」

みきはリュックを下ろしながら言った。私はうなずいた。みきが森の中へ消えていくと、私は一人で足を揉み始めた。膝の関節がズキズキと痛む。あばら屋の周りは静まり返っていた。鳥の声もせず、風の音もなかった。リュックからおにぎりを取り出して、一口かじる。

その時だった。階段の下から足音が聞こえた。顔を向けると、一人の男がフラフラと登ってくるところだった。登山客の格好ではない。くたびれた灰色の作業着に、古びた運動靴。髪はボサボサで五十歳を過ぎているように見えた。

「おじさん、大丈夫ですか?」

私は反射的に尋ねた。市場で長く商売をしていると、誰が本当に痛がっているか分かる。しかしこの男はどこかおかしかった。痛いと言いながらも、その瞳ははっきりと私を観察していた。

「ああ、すみません。足首を少しねじってしまって」

男はふらつきながら私に近づいてきた。私は立ち上がって助けようと手を差し伸べた。その瞬間、男は倒れるふりをして私の体にぶつかってきた。私はバランスを崩し、よろめいた。男は私の肩を掴み、何かが私のポケットの中に押し込まれる感触があった。くしゃくしゃになった紙のようなもの。そして男の唇が私の耳元に近づき、囁いた。

「読んですぐに破り捨ててください。嫁さんを信じちゃいけません。息子さんがやらせたんです」

私は心臓がドキンと跳ねた。

「え?」

「逃げてください」

男は最後にその言葉を残し、体を起こした。そして先ほどまで引きずっていた足が嘘のように、スタスタと歩いて森の中の脇道へ消えていった。私は呆然と立ち尽くしていた。震える手でポケットを探り、紙を取り出した。コンビニのレシートの裏に、ボールペンで殴り書きされた文字があった。

「鈴木純平が先週、母の死亡保険金一億円の受け取り人を嫁に変更済み。今日ここで事故として処理する計画。靴も服も全て計画されたもの。逃げてください。純平を知る者より」

手がガタガタと震えた。目の前がぐらついた。違う、これはありえない。どこの狂人が、他人の大事な息子をこんな風に貶しめるんだ。しかし、頭の中でパズルのピースがはまり始めた。目が痛くなるほど鮮やかな蛍光オレンジ。ヘリコプターからでも見えると言っていたあの色。それは遭難のためではなく、死体を見つけやすくするためだったのだろうか。油を塗ったように滑りやすい靴底。絶対に解けないと言ってきつく結んだ靴ひも。それは逃げられないようにするための杭だったのだろうか。爪を噛み、足を震わせていたみき。運転中に急ブレーキを踏み、ナビを見失っていたみき。保険金詐欺のニュースが流れるとラジオを消したみき。親切な登山客に怒鳴りつけたみき。その全てが、一本の線で繋がった。

私は座り込んでしまった。足から力が抜けた。私の息子が、私が骨身を削って育てた息子が、私を殺そうとしている。信じたくない。しかし、メモの文字は鮮明だった。そして、森の奥から足音が聞こえてきた。みきが戻ってきたのだ。

私は本能的に動いた。メモを口の中に突っ込み、噛み始めた。レシートの紙が唾液でふやけていく。私はそれを無理やり飲み込んだ。喉がヒリヒリした。しかし証拠を残すわけにはいかなかった。

「お義母さん、お待たせしました。トイレがすごく汚くて」

みきが笑顔であばら屋に上がってきた。しかし私にはその笑顔が仮面のように見えた。

「いや、大丈夫だよ。私も少し休んだから」

私は普段通りに答えた。声が震えないように力を込めた。

「お義母さん、顔色が少し優れませんね。どこか辛いですか?」

「いや、ただ少し疲れただけだよ」

「では、もう少しだけ行きましょう。この上に景色の良い場所があるんです」

みきが手を差し伸べた。私はその手を取った。冷たかった。あばら屋を出て、再び山道を登り始めた。今度はみきが先頭で、私が後ろからついていく。みきが私をどこへ導いていくつもりなのだろう。私はみきの後ろ姿を見つめながら歩いた。

しばらくして、みきがリュックからペットボトルを取り出した。コンビニで売っているミネラルウォーターだ。しかし妙だった。キャップがすでに開いていた。

「お義母さんが飲みやすいように、さっき私が先に開けておきました」

みきがペットボトルを差し出した。私は受け取りながら、メモの内容が頭を駆け巡った。水も計画されたものなのだろうか。私はキャップの辺りに鼻を近づけた。市場で四十年商売をしていると、鼻が自然と利くようになる。何か臭う。無味無臭のはずのミネラルウォーターなのに、かすかに苦い匂いが混じっていた。薬の匂いだ。

「みきさん、ありがとう。でも、あなたも喉が乾いているでしょう。先に一口飲みなさい」

私はペットボトルをみきに差し返した。みきの顔がこわばった。

「あ、いえ、私は大丈夫です」

「どうして。あなたも汗をたくさんかいたじゃない。さあ、お飲みなさい」

「私はさっきトイレで水道水を飲みましたから」

水道水? さっきのトイレに水道なんてあるわけがない。扉も壊れた古びたトイレだったのに。私はしつこくペットボトルを差し出した。

「それよりもこっちの水の方が綺麗じゃないか。高いミネラルウォーターなんでしょう。さあ、飲んでみなさい」

みきの額に汗が滲んだ。唇をもごもごさせながら、言葉を探しているようだった。

「お義母さんが飲むべきですよ。お義母さんのために持ってきたんですから」

みきは手を振った。声が高くなった。普段なら素直に受け取るのに、今日は固く拒否している。私はこれ以上問答するのはやめた。代わりにペットボトルを受け取り、口元へ持っていった。しかし、飲まなかった。市場で覚えた技がある。厄介な客に酒を勧められた時、断ると面倒なので飲むふりをするだけ。唇を水につけ、喉をゴクリと鳴らす真似をした。実際には一滴も飲んでいない。

「ああ、冷たくて美味しい」

私はわざと感嘆をもらし、ペットボトルを下ろした。そして手ぬぐいで口を覆い、口の中に溜まっていた水をそっと吐き出した。手ぬぐいに染み込んだ。

「お義母さん、もっとどうぞ。たくさん飲んでください」

「もういいよ。飲みすぎるとトイレに行きたくなるからね」

私はペットボトルのキャップを閉めながら答え、自分のリュックに入れた。証拠として残しておくべきだと思った。みきの顔に悔しさが浮かんだ。しかしすぐに表情を作り直した。

少し後、私はこっそりと手ぬぐいを調べた。先ほど吐き出した水が染み込んだ部分に、白い粉が付着していた。水に溶け残った粉だった。粒子は細かいが、はっきり見える。睡眠薬。私は確信した。薬を混ぜた水を飲ませて、意識がもうろうとした隙に崖から突き落とすつもりだったのだ。手が震えた。全身から汗が流れ落ちた。もはや疑いではなかった。確信だった。私の嫁が私を殺そうとしている。私の息子に命じられて。

私はみきを見つめた。みきも私を見ていた。その瞬間、みきが人間ではないように見えた。笑顔の裏に牙を隠した死神。

「お義母さん、どうしてそんなにじっと見るんですか?」

「いや、なんでもないよ。みきさんも大変だなと思ってね」

私は無理に笑った。笑顔を作るのがこれほど難しいとは思わなかった。逃げなければ。しかし、体が動かなかった。足が岩に張り付いたかのように重い。恐怖が全身を凍りつかせていた。

みきが立ち上がった。

「お義母さん、もう行きましょう。もうすぐ頂上です」

差し伸べられた手を見つめた。白く細い指。きれいにマニキュアが塗られている。この手が私を崖の下へ突き落とすのか。私は歯を食いしばり、自力で立ち上がった。みきの手は借りなかった。

「大丈夫。一人で立てるよ」

みきの眉がわずかに動いた。しかしすぐに笑顔に戻った。

「では行きましょう。景色の良いところへお連れします」

みきが先に立ち歩き始めた。私はその後を追った。景色の良い場所。それがどこなのか、分かるような気がした。崖だ。落ちたら骨も拾えないような断崖絶壁。私はみきの背中を睨みつけた。背中に背負った重いリュックの中には、私の死体を処理する道具が入っているに違いない。ビニール袋、結束バンド、工業用手袋。怒りが込み上げてきた。悲しみよりも怒りが先だった。純平に対する怒りよりも、みきに対する怒りが。

すると、私は突然お腹を押さえてうずくまった。

「ああ、お腹が痛い」

「お義母さん、どうしました?」

みきが驚いて駆け寄ってきた。

「さっきサービスエリアで食べたうどんが悪かったのかしら。お腹がねじれるように痛い」

市場で長年商売をしていると、演技はお手の物だ。客に商品を売る時、金を回収しに行く時、厄介な客を相手にした時。私は痛がるふりを完璧に演じた。

「薬を飲みますか?」

みきがリュックを探り始めた。私は心の中で嘲笑った。薬だって、また何を飲ませるつもりだ。

「いや、薬はいい。トイレに行かないと。急いでるんだ」

私はふらつきながら立ち上がり、周りを見回すふりをして尋ねた。

「さっきのトイレはどっちだったかね?」

「あそこの森の奥です。でも、すごく汚いですよ」

「汚くたっていいじゃないか」

私はみきの言葉を遮り、森の方へ歩いていった。トイレの中に入り、扉を閉めた。いや、閉めようとしたが、しっかり閉まらない。鍵も壊れていた。とりあえず奥の隅にうずくまり、息を殺して耳を澄ませた。外から足音が聞こえた。みきが近くまで来たようだ。そして、電話をかける音がした。

「もしもし」

みきの声だった。電話の相手は純平だろう。私は息を止め、耳を澄ました。板は古く、隙間だらけだった。音はかなり鮮明に聞こえた。みきがスピーカーフォンに切り替えたようだ。純平の声が聞こえた。

「まだ終わってないのか」

苛立ちがたっぷり混じった声だった。私の知っている純平の声ではない。

「分かってる。でも簡単じゃないのよ。あなたのお母さん、勘が鋭すぎるわ」

「薬は飲ませたのか?」

「飲ませようとしたけど、うまく飲んでくれなくて。自分に先に飲んでみろって言うし」

「ああ、本当にイライラするな。ただ突き落とせばいいって言っただろう。薬も何もいらない。崖からただ突き落とせ」

私の息子が、私の嫁に、母親を突き落とせと叫んでいた。

「分かった、分かったわよ。私も怖いのよ。ずっと私を疑うような目で見てるの」

「疑われたってどうだっていいだろう。どうせ今日で終わりなんだから。今日終わらせないと、明日には差し押さえられるんだぞ。分かってるのか? あのババアが死ねば一億円が入るんだ。一億円あれば借金の半分は返せる」

あのババア。私の息子が私をそう呼んだ。私は口を手で塞いだ。悲鳴が漏れそうだったから。全身がブルブルと震え、涙が溢れ落ちた。

「あなた、私、怖いわ」

「怖いって何が怖いんだ。目をぎゅっとつぶってやれ。突き落としたらすぐに降りて来い。俺がアリバイを作っておくから。終わったら電話しろ。愛してるよ、お前」

電話が切れた。私はトイレの床に座り込んでしまった。足から力が抜けて、立てなかった。口を手で塞ぎ、声を殺して泣いた。私の息子が、私が骨身を削って育てた息子が、私を殺そうとしている。お金のために。たかがお金のために。毎朝ラーメンを作って育てた息子。手がひび割れても働いた息子。大学に行く時、学費を工面するために借金までした息子。その息子が私を「あのババア」と呼んだ。

しかし、不思議なことに、悲しみは長くは続かなかった。悲しみは怒りに変わった。熱く燃え上がる怒りに。私は涙を拭い、歯を食いしばった。震える足に力を込めた。このまま死ぬわけにはいかない。あいつに殺されるわけにはいかない。私が産んで育てた奴に、金のために見捨てられるわけにはいかない。生きなければ。何としてでも生きて、この山を降りなければ。

私はトイレから立ち上がった。深呼吸を三回した。表情を整え、怒りをぐっと押し込んだ。まだ悟られてはいけない。扉を開けて外に出ると、みきが立っていた。電話を切って、タバコを吸っていた。私を見ると慌ててタバコをもみ消した。

「お義母さん、大丈夫ですか? お腹は良くなりましたか?」

笑顔だった。たった今、私を殺せという指示を受けた顔ではなかった。私も笑った。普段通りの、気のいいお袋の笑顔で。

「うん、すっかり良くなったよ。さあ、行こう」

今回は私が先に立って歩いた。みきが後ろからついてきた。その足音が、死刑執行人の足音のように聞こえた。しかし、私はもう怖くなかった。恐怖は怒りに道を譲っていた。やってみるがいい。お前が私を殺すか、私が生き延びるか。

山道はますます険しくなった。傾斜は急になり、両脇には断崖絶壁が見え始めた。私はわざと戦闘を歩いた。後ろから押されないように。それは市場で学んだ生存の法則だった。金を回収に行く時も、決して背中を見せてはいけない。

「お義母さん、そこを左に曲がってください。頂上への道です」

私は振り返り、みきが指差す方向を見た。狭い小道が岩の間を抜けている。あそこへ行けば何があるのか、検討はついていた。崖だ。私を突き落とすための崖。

「分かったよ」

私は短く答え、その道に入った。小道の先に開けた空間が現れた。岩が崖の方へ突き出ている。下を見下ろすと、目がくらむような深い谷。霧が立ち込めて、底は見えない。落ちれば遺体の収容も難しい高さだろう。

「お義母さん、ここです。ここの景色が最高なんですよ」

みきが息を切らしながら登ってきた。顔は汗でびっしょりだったが、目は決意した人の目だった。

「あそこの岩の先から見てください。私が写真を撮ってあげますから」

みきはスマートフォンを取り出した。私を崖の端へ誘い出そうとしている。岩の先端に立てば、後ろに下がるスペースはない。一歩でも押されれば、そのまま墜落だ。

私はゆっくりと崖の方へ歩いていった。みきの望み通りに。一歩一歩進みながら、周りを見渡した。左手には拳ほどの大きさの石。右手には太い枝。いざという時には武器になるものだ。岩の先端に立つと、風が強く吹いてきた。蛍光オレンジのウェアがはためく。下を見下ろすと、足がすくんだ。本能的な恐怖だった。

私は振り返らなかった。代わりにみきに背を向けたまま尋ねた。

「みきさん、純平は元気にしているかい?」

「ええ、とても元気にしています」

「病院は順調なのかい? 最近は景気が悪いって言うけど、患者さんはたくさん来ているのかい?」

私は普段通りの、息子を心配する母親の声で尋ねた。後ろからみきの荒い呼吸が聞こえた。

「はい。病院も順調です」

嘘だ。順調なら、差し押さえなどという話になるわけがない。

「そうかい。それは良かった」

私はうなずいた。そして付け加えた。

「純平が小さい頃の話だけどね。あの子は本当に泣き虫だったんだよ。幼稚園の頃、友達に玩具を取られては泣き、先生に叱られては泣いて。毎日泣きながら家に帰ってきた。その度に私が背中をさすって慰めてあげたんだ」

私は昔話を始めた。声が震えないように努めて。

「中学生の時は勉強ができないって泣いた。高校生の時は大学に行けないかもしれないって泣いた。その度に私が何て言ったか分かるかい?」

みきは答えなかった。後ろから足音が少しずつ近づいてくる。

「大丈夫。お母さんがいるじゃない。お母さんが何とかしてあげるからって言ったんだ」

私は苦笑いした。

「でも、あの子がここまで大きくなるとは思わなかったよ。母親を殺そうとするほどにね」

後ろでみきの息遣いが止まった。私はゆっくりと振り返った。みきと目が合った。みきの顔は真っ青になっていた。目を見開き、唇を震わせている。

「お義母さん、それは何のことですか?」

「全部知ってるよ」

私はみきの言葉を遮った。

「メモももらったし、さっきの電話も全部聞いた。トイレの板がどれだけ薄いと思ってるんだい。全部聞こえたよ」

みきの顔から血の気が完全に引いた。私は一歩前に出た。みきは一歩後ろに下がった。

「純平あの野郎がやらせたのか。あいつに言われて、ここまで私を連れてきたのか」

声が高くなった。四十年間市場で鍛え上げた、口の悪いおばさんの声量だった。みきは俯いた。肩を震わせ、泣いているようだった。

「ごめんなさい。お義母さん。私も……仕方なかったんです」

「仕方なかった? 人を殺すことが仕方ないことなのかい?」

「お義母さんが死なないと、私も生きられないんです。あの人が言いました。お義母さんの保険金がないと、私たちはみんな死ぬって」

「だから私を殺すというのか」

「ごめんなさい!」

みきが突然飛びかかってきた。両手で私の肩を掴み、力いっぱい押した。体が後ろに押され、かかとが岩の端にかかった。しかし、私はすでに予想していた。体を低くし、横に回転した。市場で酔っ払いを相手にしていた時の動きだ。みきの両手は空を切り、そのままバランスを崩した。彼女自身が崖の方へ倒れかけた。

「きゃあ!」

みきが悲鳴を上げた。私は素早くみきの髪の毛を掴み、襟首を掴んで岩の内側へ叩きつけた。ドスンと音を立てて、みきが地面にうつ伏せになった。

「バカな女だね」

私は冷たく吐き捨てた。

「あいつに言われて、こんなことをしたのかい? 私が死んだら保険金をあんたと分けると思ってるのかい? あいつには他に女がいるんだよ。あんたはただの使い捨ての駒だ。私が死んだら、あんたも殺される運命だよ」

みきが顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔だった。目を大きく見開き、唇を震わせた。

「うそ……あの人がそんなはず……」

「信じるも信じないも、あんたの勝手だよ。考えてもみなよ。身の母親を殺そうとするような奴が、嫁を大事にすると思うか?」

みきの顔が歪み、泣き声を上げた。私はその様子を冷たく見下ろしていた。かわいそうだとは思わなかった。さっきまで私を殺そうとしていた女だ。

その時だった。森の中からガサガサと音がした。落ち葉を踏む足音。私は素早く顔を向けた。木々の後ろから黒い影が現れた。黒い帽子を深く被り、黒いマスクで顔を覆った男。登山客の格好をしていたが、どこか見覚えのある体付きだった。男は崖の方へズンズンと歩いてきた。そして、地面にうつ伏せるみきを見て、ため息をついた。

「ああ。もう見てらんないね。本当に」

その声を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立った。この声。一生聞き続けてきた声だった。男はマスクを脱ぎ捨て、帽子も脱いだ。純平だった。私の息子、鈴木純平が、そこに立っていた。

「純平」

私は呟いた。声が震えた。頭ではもう分かっていたが、目で直接見るとまた違った。純平の顔には殺気が満ちていた。普段、母親の前で見せる優しい笑顔はどこにもない。目は冷たく沈み、口元は歪んでいた。まるで別人だった。いや、これが本当の純平なのかもしれない。私が今まで見てきた親孝行な息子が偽物で、この姿が本物だったのだ。

「母さん、どうして言うことを聞かないんだ?」

純平は一歩近づきながら言った。声は苛立ちで満ちていた。

「ただ薬を飲んで眠ってくれればよかったじゃないか。そうすれば何も知らずに楽に行けたのに。どうしてこんなに面倒なことをするんだ」

私は信じられなかった。それが私の息子の口から出る言葉だということが。

「純平、お前、本当に……本当にこんなことをするのかい?」

声がかれた。目から涙が込み上げてきた。先ほどトイレで電話を聞いた時とは違う衝撃だった。直接顔を見て、その言葉を聞くと、胸をナイフでえぐられるようだった。

「するって何だよ。母さん、俺はもう限界なんだよ」

純平は頭を掻きながら言った。まるで些細な不満を訴えるかのように。

「病院の経営がどれだけ大変か知ってるのか? 借金がどれだけあるか知ってるのか? 毎日債権者に追い回されて、差し押さえの通知書が来て、眠れもしないんだ。母さんには分からないだろう、そのストレスが」

純平は声を荒げた。

「母さんが死ねば、一億円が入るんだ。一億円あれば借金の半分は返せる。ビルを売れば残りも何とかなる。そうすれば俺はまたやり直せるんだ」

私は耳を疑った。今この言葉が、私の息子の口から出ているのか。

「だから、この母親を殺すというのかい?」

「親が子供のために犠牲になるのは当たり前のことじゃないか」

純平は平然と答えた。眉一つ動かさずに。

「母さん、今まで俺にどれだけ投資してきた? 大学の学費、病院の開業資金。全部合わせれば数千万円になるだろう。その投資金を回収すると思えばいいじゃないか。母さんの人生も、どうせもう長くないんだし。六十八にもなれば、もう十分生きただろう」

私は言葉を失った。これは人間の言葉ではなかった。獣でさえ、そんなことは言わない。

「この親不孝者。私がお前をどんなに苦労して育てたと思ってるんだ。毎朝豚骨を煮込んでラーメンを作り、手がひび割れても手袋もせずに麺を打ってきたんだよ。お前の学費を稼ぐために。お前の食費を稼ぐために」

声が大きくなった。四十年間市場で鍛え上げた声量だった。

「大学に行く時、学費がなくて借金までしたんだよ。その金を返すために、五十を過ぎても朝四時に起きて働いてきた。腰を痛めても、一度も病院に行かずに働いてきた。全て、お前のために」

純平は黙った。

「分かってる。分かってるよ。母さんが苦労したことは分かってる。でも、それがどうしたって言うんだ。今俺が苦しんでいることの方が、もっと重要なんだよ」

私は呆然とした。その言葉を、あんなにも堂々と言えるなんて。良心のかけらもない。

「お前、お前は人間じゃない。獣だ」

「獣で何が悪い? 獣だって、生きるためには必死にもがくだろう」

純平は嗤いながら近づいてきた。

「母さん、もうやめよう。どうせここで終わりなんだ。素直に協力してくれれば、痛い思いはさせないから。ただ目を閉じていればいい。すぐに終わる」

純平が手を伸ばした。私の肩を掴もうとした。私は後ろに下がった。しかし背後は崖だった。もう下がる場所はなかった。

「純平。お願いだから、正気に戻っておくれ。お前が今何をしようとしているのか、分かっているのかい?」

「分かってるよ。母さんを殺そうとしてるんだろう。何を今更聞くんだい?」

純平はにやりと笑った。その笑顔があまりにも見慣れないものだった。

「最後に一度だけチャンスをやる。素直に飛び降りろ。そうすれば、少なくとも俺の手は汚れないで済む」

純平は顎で崖の下を指し示した。私は下を見下ろした。目がくらむような深い谷。霧の間に岩がかすかに見える。あそこに落ちれば、骨も拾えないだろう。

「嫌なら、まあいいや」

純平は突然飛びかかってきた。予想はしていた。しかし三十八歳の男の力は、六十八歳の女が叶うものではなかった。純平の手が私の胸ぐらを掴み、そのまま崖の方へ押した。私は悲鳴を上げた。足が岩の端にかかった。

「母さん、ごめん。でも、仕方ないんだ」

純平は私を崖の端へ押し付けながら言った。顔は汗でびっしょりだった。しかし、目は冷たかった。

「死んだら楽になるよ。ご苦労様、母さん」

かかとが宙に浮いた。もう少し押されれば、そのまま墜落だった。その瞬間、私はふと足が軽いことに気づいた。先ほどあばら屋で休んでいる時、純平がきつく結んだ登山靴のひもがあまりにもきつくて足がしびれていた。だから、こっそりと緩めておいたのだ。滑りやすい登山靴。私は瞬間的に決心した。足を捻ると、緩んでいたひものおかげで登山靴が足からするっと抜けた。私はその登山靴を手に掴み、ありったけの力を込めて叫んだ。

「この親不孝者が!」

そして、登山靴を振り回した。硬い靴底のかかとが、純平の眉間を正確に捉えた。鈍い音がした。純平の頭が後ろにのけぞった。

「ぐわっ!」

純平は悲鳴を上げ、顔を覆って後ろによろめいた。指の間から血が流れ落ちる。眉間が切れたのだ。私はその隙を逃さなかった。登山靴を再び振り回し、今度はこめかみを狙った。鈍い音とともに、純平は力なく崩れ落ちた。

その時、みきが飛びかかってきた。さっき地面にうつ伏せていたみきが立ち上がり、私に襲いかかってきたのだ。

「お義母さん!」

みきは叫びながら私の腕を掴んだ。私は体を捻ってみきを突き飛ばした。みきはよろめき、起き上がろうとしていた純平とぶつかった。二人はもつれ合い、そのまま崖の端の方へ転がっていった。

「うわあ! 助けて!」

悲鳴が響き渡った。私は息を切らしながら、その光景を見守っていた。純平とみきが、崖の岩にしがみついてぶら下がっていた。指先で掴まり、足は宙にぶら下がっている。

「母さん! 母さん、助けてくれ!」

純平が叫んだ。顔は血まみれだった。さっき私が殴りつけた眉間から血が流れ続けている。

「母さん、俺だよ。純平だよ。お願いだ! 手を貸してくれ!」

純平は懇願した。声がかれて、目からは涙まで流している。私はその姿を見下ろしていた。さっきまで私を殺そうとしていた奴。私を「あのババア」と呼んだ奴。手を伸ばせば届く距離だ。引き上げることはできた。しかし、私は動かなかった。

「母さん!」

純平が再び叫んだ。私は冷たく口を開いた。

「お前、さっき何て言ったっけ? 『母さんの人生はもう長くない』って。『六十八にもなれば、もう十分生きた』って」

純平の顔が歪んだ。

「そうだよ。私はもう十分に生きたよ。でもね」

私はゆっくりと言った。

「死ぬ前に、やることがあるんだ。お前みたいな親不幸者を世の中に放っておいては、死ぬわけにはいかないんだよ」

純平の目が大きく見開かれた。恐怖が広がっていた。その時だった。麓の方からサイレンの音が聞こえてきた。最初は遠くでかすかに聞こえていたが、だんだんと近づいてくる。そして空からはヘリコプターの音まで聞こえてきた。私は空を見上げた。警察のヘリコプターが山の上を旋回しているのだ。

「な、なんだあれは?」

純平が岩にぶら下がったまま呟いた。すぐに、登山道の下の方から大勢の足音が聞こえてきた。

「動くな!」

力強い声が森の中に響き渡った。警察の特殊部隊員たちが現れた。黒い戦闘服にヘルメットをかぶった男たちが、山道を駆け上がってくる。その中に見覚えのある顔があった。田中刑事だった。四十五歳。交番係の刑事で、うちのラーメン屋に十年通ってくれている常連客だ。毎朝、出勤前に立ち寄っては熱々の豚骨ラーメンをすする男だ。

「女将さん!」

田中刑事が私を見つけて叫んだ。顔には安堵と心配が入り混じっていた。

「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」

田中刑事は息を切らしながら崖の方へ駆け寄ってきた。後から続々と警官たちが到着し、現場を取り囲んだ。

「私は大丈夫だよ。でも、あいつらは」

私は崖にぶら下がる純平とみきを顎で指し示した。田中刑事はそちらを見て、すぐに後ろの隊員たちに手招きした。

「ロープを投げろ。早く」

警官たちは素早く動いた。ロープを解き、崖の下へ投げた。純平とみきはもがきながらロープを掴んだ。警官たちが二人を引き上げると、地面にうつ伏せになった。

「鈴木純平。鈴木美紀。お前たちを、殺人未遂及び保険金詐欺の容疑で逮捕する」

田中刑事が冷たく宣告した。

「何だって!」

純平がパッと起き上がろうとしたが、警官たちに肩を押さえつけられて地面に膝まずいた。

「誤解です! 母さんと冗談で遊んでいただけですよ!」

冗談? 親孝行? 私は呆れて、思わずふっと笑いが漏れた。さっきまで母親を崖から突き落とそうとしていた奴が、何を言っているんだ。

「黙れ」

田中刑事が低い声で言った。純平はびくっとした。

「こっちは全部お見通しだ。保険契約の変更履歴、事前の下見記録、共犯者の状況、全て証拠は揃ってる。お前の通話内容も録音されてる。『あのババアが死ねば一億円が入る』『ただ突き落とせ』。それも全部証拠だ」

純平の顔が真っ青になった。警官が手錠をかけると、金属音がひどく大きく響いた。みきも同様だった。地面にうつ伏せたまますすり泣いていたが、警官が立たせて手錠をかけた。みきは抵抗もせず、ぐったりとしていた。

「女将さん」

田中刑事が私に近づいてきて、アルミブランケットを私の肩にかけてくれた。

「大変でしたね。大丈夫ですか?」

私はブランケットを握りしめながらうなずいた。しかし、大丈夫ではなかった。全身から力が抜けていく感じ。

「どうして、ここが分かったんですか?」

「通報があったんです。昨日の夜、匿名の通報がありました。『鈴木純平という男が、母親を山で事故に見せかけて殺そうとしている』。場所、時間、手口まで詳細に書かれていました」

「通報者を? 誰が?」

「まだ分かっていません。匿名でした。ただ、鈴木純平を非常によく知る人物のようです。犯行計画を、あまりにも詳細に知っていましたから」

私はふと、メモのことを思い出した。見知らぬ男が渡してくれたあのメモ。そこにも「純平を知る者より」と書かれていた。同じ人物だろうか。その時、山の下の方が騒がしくなった。警官の制止する声が聞こえた。

「すみません! ここは立ち入り禁止です!」

「ちょっと待ってください! 私、関係者なんです!」

鋭い女の声がした。私はそちらを見た。登山道の下から、若い女が上がってくるところだった。華やかなワンピースにハイヒール。山には全く似合わない格好だった。二十九歳くらいに見える、可愛らしい顔立ちの女。その女を見た瞬間、純平の顔が歪んだ。

「あけみ!」

純平が叫んだ。声には驚愕と怒りが入り混じっていた。

「あけみ、お前、どうしてここにいるんだ? まさか、まさかお前が……」

女は純平の前に立ち止まった。腕を組み、冷たく見下ろした。

「久しぶり、純平君」

女はにやりと笑った。口元が歪む、挑発的な表情だった。

「お礼を……警察に通報したのか?」

純平は知った。血まみれの顔が怒りで歪んだ。

「売ったなんて、人聞きが悪いわね。ただ、本当のことを話しただけよ」

あけみは肩をすくめた。

「純平君、私に何て言ったか覚えてる? 『保険金が入ったら借金を返して、またやり直そう』って。その時、貸した五千万円も返すからって。だから私は待ってたのよ」

あけみは爪を見つめながら言葉を続けた。

「でも、後で分かったの。保険金の受け取り人が、私でもなく、あなた自身でもなく、あんな女だったってこと」

あけみは顎でみきを指し示した。みきはびくっとした。

「それで悟ったのよ。ああ、私は捨てられるんだなって。利用されるだけされて、ゴミ箱に捨てられるんだなって。だから、このゲームをひっくり返すことにしたの。あなたが私にそうするなら、私もあなたにそうしてやってもいいでしょう」

純平の顔が真っ赤に燃え上がった。怒りで首筋が赤い。

「この、腐れ女が! 俺を誰だと思ってる?」

「誰って? 何よ? 先に裏切ったのはあなたじゃない」

あけみは冷笑した。

「あ、それと、私に借りた五千万円。刑務所で体で返しなさいよ。それか、臓器で払うか」

あけみはくるりと背を向け、最後に言った。

「さようなら、純平君。来世では人間に生まれ変われるといいね」

あけみはハイヒールをカツカツと鳴らしながら、山を降りていった。純平は後ろで悪態をついたが、手錠をかけられたままでは何もできなかった。警官たちが純平を連行していく。私はその光景を呆然と見守っていた。私の命を救ってくれたのが、息子の愛人だったとは。実に、皮肉なことだ。

純平とみきが警官に連行されていった。よろめきながら山を降りていく後ろ姿を見つめながら、私は思った。涙が出るかと思ったが、出なかった。あまりにも呆気なくて、涙も枯れてしまったようだった。

「女将さん、降りましょう。病院で検査も受けないといけないし、事情聴取もありますから」

田中刑事が私の隣に来た。私はうなずき、田中刑事の肩を借りながらゆっくりと山を下り始めた。足には登山靴が片方だけ履かれていた。もう片方はさっき純平を殴る時に使ったものだ。裸足で石を踏む度に、足の裏がちくりと痛んだ。しかし、その痛みが逆に、私を現実に引き戻してくれた。生きたんだ。何とか生き延びたんだ。

事件の後、世間は騒然とした。医者である息子の非道。保険金目当ての母親殺害計画。奇跡的に生還した老婆。ニュースは連日私の話でもち切りになった。記者たちがラーメン屋の前に集まり、インタビューの依頼電話がひっきりなしに鳴った。私は全て断った。皆の前で泣きながら身の上話をする気力など、もうなかった。店のシャッターを下ろし、家に閉じこもった。

一ヶ月が経った。その間、私はほとんど何もせずに過ごした。食事もまともに取らず、眠りも浅く、ただぼんやりと天井を眺めていた。夫の遺影の前に座り、独り言を言うこともあった。

「あなた、うちの純平があんなやつだったんですよ。私が一生懸命育てた子供が、あんなやつだったんですよ」

返事はなかった。写真の中の夫は、相変わらず穏やかに笑っているだけだった。

ある朝、私は鏡を見た。一ヶ月ぶりにまともに見た自分の顔だった。げっそりと痩せ、頬がこけ、目の下に真っ黒なくまができていた。まるで幽霊のようだった。その時、ふと思った。このままでは、本当に死んでしまう。純平に殺されず、崖から落ちず、そうやって生き延びたのに、このまま一人で老衰か、あるいは痩せ衰えて死んでしまう。それだけは嫌だった。あいつのせいで死ぬのは、絶対に嫌だった。

私は歯を食いしばって立ち上がった。シャワーを浴び、食事をし、服を着替えた。そして、ラーメン屋のシャッターを開けた。一ヶ月ぶりに開ける店の中は、ほこりが積もり、冷蔵庫からは異様な臭いがした。私は一日中掃除をした。床を拭き、テーブルを拭き、窓を拭いた。日が暮れる頃には、店は何とか見られるようになった。

翌朝、午前四時に起きた。豚骨を煮込み、スープを作り、麺を打った。手が覚えていた。四十年以上も続けてきた仕事だから。午前七時に店を開けた。客が一人、また一人と入ってきた。ほとんどが見知らぬ顔だった。常連客は来なかった。おそらく私に何と言葉をかければいいのか分からず、避けているのだろう。代わりに、好奇心で訪れた人々が来た。こそこそと私を盗み見ながら、ひそひそと話している。

「あのばあさん、ニュースに出てた人だろ。息子に殺されかけたって」

私は聞こえないふりをした。気にする余裕などなかった。ただラーメンを作り、器を洗い、会計をし、機械のように動いた。

数日が経った。ある日の午後三時頃、昼の営業が終わり、客足が途えた時間帯だった。店のドアが開き、一人の青年が入ってきた。二十六歳くらいに見える。古びたジーンズにくたびれたTシャツ。手には書類の封筒を持っていた。

「豚骨ラーメン、一つ」

青年は隅の席に座りながら言った。声に元気がない。私はラーメンを作って持っていった。青年は夢中で食べ始めた。ご飯をスープに入れ、ずるずるとすする。何日も何も食べていなかった人のように食べた。その姿を見ていると、胸が妙に締め付けられた。純平もそうだった。高校生の頃、塾が終わって家に帰ってくると、腹が減ったと騒いで、私が作る飯を夢中で食べていた。

青年が食べ終わり、レジに来た。カードを差し出した。しかし、機械から「エラー」という音が鳴った。残高不足。青年の顔が真っ赤になった。慌ててポケットを探ったが、現金もないようだった。

「あ、あの、すみません。今ちょっと……」

青年はがっくりと肩を落とし、俯いた。耳まで赤くなっている。私はじっとその様子を見ていた。そして口を開いた。

「いいよ」

「え?」

「開店記念のサービスだよ。就職したら、その時に返しに来な」

青年は目を丸くした。信じられないという表情だった。

「本当ですか?」

「うん。もう行きなさい。早く」

私は手を振った。青年は何度も頭を下げながら出て行った。ドアが閉まり、私は空の器を片付けながら独り言を言った。

「私も、どうかしてるのかね。サービスだなんて」

しかし、気分は悪くなかった。むしろ心のどこかが温かくなるような感じだった。

数日後、ドアが開き、あの青年が再び入ってきた。両手に何かをたくさん持っている。

「おばあちゃん!」

青年はにこやかに笑いながら近づいてきた。手に持っていたのは栄養ドリンクの箱と、くしゃくしゃになった一万円札、そして一通の手紙だった。

「これは何だい?」

「この前のラーメンの代金です。それと、お礼を言いたくて」

青年は手紙を差し出した。私は受け取り、開いてみた。そこにはこう書かれていた。

「おばあちゃんへ。あの日のラーメンを食べて元気が出て、面接に合格しました。僕は両親がいなくてずっと寂しかったのですが、おばあちゃんのラーメンは本当に温かかったです。必ずこの恩は返します。ありがとうございました」

手紙を読んでいると、目の前がぼやけた。涙が込み上げてきた。私がお腹を痛めて生んだ子供は、私を殺そうとした。しかし、全くの他人であるこの青年は、ラーメン一杯に感謝してくれている。

「おばあちゃん、泣いてるの?」

青年が慌てて尋ねた。

「いいや、いいや。目にゴミが入っただけだよ」

私は手の甲で涙を拭いながら笑った。

「就職おめでとう。頑張りなさいよ」

青年は満面の笑顔で出て行った。私はその背中をいつまでも見つめていた。

店の片隅に、蛍光オレンジの登山ウェアがかかっていた。破れて汚れたあの服を、私はまだ捨てられずにいた。私はその服を見下ろし、ハサミを取り出した。そして、服をジョキジョキと切り始めた。布巾の大きさに切り、流しの横に積み重ねる。もうこれは、ただの布巾だ。息子が買ってくれた登山ウェアではなく、食器を拭く布巾。私は独り言を言った。

「そうさ。私がお腹を痛めて産んだ子供は腐ってしまったけど、私が作ったラーメンを食べて生きてきた奴らは、みんなまともじゃないか。なら、それでいいじゃないか。私の人生、まだ無駄じゃなかったようだ」

その時、店のドアが開いた。客がドヤドヤと入ってきた。私はエプロンを締め直し、カウンターの前に立った。そして、いつにも増して大きくて元気な声で叫んだ。

「いらっしゃい! 熱々のラーメン、いっぱい食べていきな!」

客たちは笑いながら席に着いた。私はお玉を手に取り、寸胴の前に立った。グツグツと煮えるスープから湯気が立ち上っている。その湯気の向こうに、夫の遺影がかすかに見えた。

「あなた、私、まだ生きてますよ。そして、これからもずっとずっと生きていきますよ」

私はお玉をかき混ぜながら、心の中で言った。あいつのせいで死んでやるものか。私は私のラーメンを作りながら、私の人生を生きていく。ラーメンの匂いが店中に広がった。温かくて香ばしくて、生きている匂いだった。

Thumbnail