宴会場の扉を開けようとした瞬間、取引先の樋口部長に呼び止められた。「お前、一体何をしに来た?」そう言われた時、私は今日がただの懇親会じゃないと悟った。父から会社を継いで一年、三十年来の取引先に招待され、緊張しながら受付を済ませた矢先のことだった。樋口は購買部長で、以前からうちを下請けと見下し、父にも暴言を吐いてきた男だ。でも今日は我慢しよう、そう思っていた。なのに彼は笑いながら続けた。「あい…

宴会場の扉を開けようとした瞬間、取引先の樋口部長に呼び止められた。「お前、一体何をしに来た?」そう言われた時、私は今日がただの懇親会じゃないと悟った。父から会社を継いで一年、三十年来の取引先に招待され、緊張しながら受付を済ませた矢先のことだった。樋口は購買部長で、以前からうちを下請けと見下し、父にも暴言を吐いてきた男だ。でも今日は我慢しよう、そう思っていた。なのに彼は笑いながら続けた。「あい...

渾新会の会場前、取引先の樋口部長が俺に言い放った。「お前の会社なんか、長く付き合ってるだけで酒の席の道具にされてるだけの存在なんだよ。」

今までも無礼な男だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。さらに続く暴言で、俺の我慢の限界はついに達した。

俺の名前は天宮、四十二歳。昨年父から会社を継いで社長になった。うちは機械部品を扱う製造会社で、様々な企業に部品を納めている。中でも長い付き合いなのが県内大手の自動車メーカーだ。およそ三十年、質の高い部品を安定して供給し続けてきた。互いに信頼関係は厚い。俺はそう信じてきた。

事の発端は、その取引先からの招待状だった。「年時渾新会のご案内」と書かれたそれを見て、俺は首をかしげた。これまで下請けが渾新会に招待されることはほとんどなかったからだ。

父に聞くと、取引先の社長が代替わりを考えているらしいという噂があると言う。取引先はいわゆる身内経営だから、息子かその辺の親族に社長を譲るつもりなのだろう。

「今の社長が就任した時も、下請けが参加する渾新会が開かれたんだ。渾新会の打ち上げみたいなものだな」

父は懐かしそうに目を細めた。なるほど。なら、樋口部長とも顔を合わせることになるのか。俺の様子を見て、父が苦笑する。

「仕方ないだろう。どうせ挨拶程度しか話すことはない。ちょっとの辛抱だ」

父はそう言うが、相手はあの樋口だ。俺が苦々しくぼやくと、父は励ますように軽く背を叩いた。

樋口というのは取引先の購買部長だ。父の代では課長だったが、俺が社長になったのとほぼ同時期に部長へ昇進した。社長の当選にあたる人物で、コネ入社出世と聞こえは良くない。俺も父の下で働いていたから分かるが、実際コスト削減ばかり考えていて現場のことは何も分かっていない男だ。品質を軽視する発言が多く、自分たちにしか利益がないような要求も平気でしてくる。しかも課長の頃から、うちを下請けだからと露骨に見下し、「下請けは黙って言われた通りに作ってりゃいいんだよ」と父に暴言を吐いたこともある。さすがにその時は父がクレームを入れて樋口は注意されたようだが、それで終わりだった。

「社長は決縁関係を重んじる人だから、俺が文句を言ったところで何にもならないぞ」

そう言って父は耐えていた。ビジネスってのは感情で動いちゃいけない。父は家族や社員たちの生活を考えて、耐える選択を取ったのだろう。

俺が社長になった後も、態度は相変わらずだった。ただ一度、社長に直接クレームを入れた成果が多少あったのか、極端な暴言は少なくなった。だがそれでも「もっと安くできるだろう」とか「二つセットで頼むから割引してよ」とか、そのたびにうんざりする。

そんな俺にも心の支えがあった。それは新しい技術の開発だ。うちは丁寧な仕事と高い品質を売りにしているが、これが一番と言えるような武器はない。だから父の代からずっと開発を進めてきた。この技術が完成すれば、耐久性などの品質向上はもちろん、長期的に見てコストも削減できる。俺が社員の頃から中心になって開発してきたが、最近になってようやく特許申請まで進めることができた。

特許登録できれば、いつも俺たちを馬鹿にする樋口も、さすがに見る目を変えざるを得ないだろう。うちにとっても取引先にとっても、大きなメリットになるのは間違いない。

まあ、父さんの言う通りだよな。会ってもずっと話すわけじゃないし。

こうして俺は、渾新会に出席することにした。

当日、俺はスーツに身を包み、高級ホテルの宴会場へ向かった。さすが県内大手の自動車メーカーだ。緊張しながら受付を済ませ、会場へ踏み入ろうとした瞬間、声をかけられた。

「おい、ちょっと待て」

振り返ると、樋口部長が腕を組んで立っていた。俺は近寄り、礼儀正しく頭を下げた。

「これは部長。この度はお招きいただき、ありがとうございます」

「お前、一体何をしに来た?」

発言を遮られ、しかも何をしに来ただと。俺は一瞬耳を疑ったが、動揺を隠して笑顔をキープする。

「招待を頂いたので」

「ああ、そうだったのか」

俺の返答に樋口はにやりと笑い、続けた。

「だがな、あいにく下請けの中でも下の下であるお前たちの席はないんだよ」

は、と思わず間抜けな声が漏れた。俺は軽く咳払いをし、樋口に訪ねた。

「席がないとは、どういうことでしょうか?」

「言葉通りさ。まさか招待状が届いたからって、本当に来るとはな。一応礼儀として形だけ送っただけに決まってるだろう」

通りすがりの人が、チラチラとこちらを見ていた。俺たちの間に流れる異様な空気を察したのか、それとも樋口のありえない言葉が耳に入ったのか。

「ご自分がむちゃくちゃなことを言ってらっしゃるのが、お分かりですか?」

俺の問いに、樋口は鼻で笑った。

「いいか?俺は購買部長として、会社の余計なコストを取り除く義務があるんだよ。お前らみたいな下請け、特にその中でも底辺の席なんか用意しても無駄でしかない」

俺は黙って樋口の言葉を聞いていた。今までも無礼な男だという印象だったが、過去一番と言っていい。顔には出さないようにしていたが、腹の底はえぐり返っていた。怒り、失望、恥ずかしさ、色々な感情がぐちゃぐちゃと混ざっていく。自然と拳に力が入った。

そんな俺の様子にもお構いなしに、樋口は言葉を続けていく。

「いいか?お前の会社なんか、歴が長いだけで酒の席で使ってもらってるだけの存在なんだよ。それ以外の何者でもない。立場を間違えてこんな場所に来るくらいなら、徹夜で二十四時間働け。それがお前らの役目だろうが」

その瞬間、何かが机の上で切れた。樋口のありえない言動のせいで湧き立った感情が、不思議なほどスーッと冷めていく。ここで黙って帰れば、父と同じようにまた何年も耐え続けることになるだろう。俺の代でこの関係を終わらせよう。

握りしめた拳を緩め、顔を上げると同時に、そっと微笑んだ。一瞬だけ樋口がぎょっとするのが見えた。おそらく俺が怒り狂ってわめき散らす想像でもしていたに違いない。

「な、なんだよ」

俺は笑顔をキープしたまま、明るく言った。

「では、今後一切の納品をやめますね。これを持って、契約終了といたしましょう」

幸い、このやり取りを見ている人間は大勢いる。大手自動車メーカー側の人間だけでなく、俺のように招かれた立場の多くの人間が。俺はこの状況を逆手に取ることにした。ここまでの暴言を測れて、信頼関係を維持できるとはどう考えても無理だ。万が一契約終了の原因をうちのせいにされたとしても、信頼関係の崩壊を理由にこちらが原因ではないということを主張できるだろう。

「は、もっと早くそうなるべきだったな。これでもっと安い相手を入れることができる。大幅にコスト削減だ」

笑顔の俺に対し、気味悪く感じているのか樋口の表情は引きつっている。

「では、私はこれで失礼します。皆様、お騒がせして申し訳ございませんでした」

俺は俺たちのやり取りを見ていた人間全てに一礼する。

「ひどいな。まさかあんな言い方するなんて」

ひそひそと囁く声が聞こえた。多くの招待客が困惑や軽蔑の目を樋口に向けていた。樋口自身は気がついていないようだったが、俺は黙って会場を後にした。背後から樋口の「せいせいした」という笑い声が聞こえたが、俺は振り返らない。なぜそんなに自信満々なのかは全く理解できないが、どう考えても非常識で不誠実な真似をしたのは樋口なのだ。自社の人間だけでなく、外部の人間の前で晒らしたその醜態が、どう今後に響くのか。俺は楽しみにすることにしよう。

あれから一ヶ月半が経った頃のこと。昔の取引先からは文字通り縁が切れ、俺は日々の業務に追われていた。

「社長、お客様が見えておりますが」

事務社員の女性が内線で連絡してきた。今日は来客の予定はなかったはずなのに。俺は首をかしげながら、誰が来たのか確認する。

「それが、樋口部長なんです」

え?

渾新会から帰ってすぐ、俺は社員たちに取引先との契約終了を伝えた。渾新会で樋口が俺にした仕打ちも、みんな知っている状態だ。だからこそ、女性社員の声には困惑が混じっていた。しかも樋口だけでなく、取引先の社長も同行しているらしい。

「渾新会の件を謝罪したいとおっしゃっていますが」

渾新会から一ヶ月半も経っている上に、アポなしで訪問してくるだなんて。女性社員の言葉に、俺はやれやれと首を横に振った。とはいえ長年の付き合いだ。謝罪したいというのなら、最後くらい応えてもいいだろう。

「分かりました。応接室にお通ししてください」

俺は内線を切り、ため息混じりに立ち上がった。今日はここに父がいなくて良かったとつくづく思う。渾新会の件を報告した際、父は顔を真っ赤にして怒っていたからだ。

「今まで会社やみんなのためだと思って耐えてきたのが、無になるとは。本当にすまない。お前に嫌な思いをさせて」

そう言いながら目頭を押さえる父を、俺は責めることなどできなかった。確かに樋口は最悪だが、関わるまではいい関係を築いていたのは事実。しかも県内大手のメーカーだ。やはり収入面で大きなものがあった。だけどもう関係ない。俺は大きく深呼吸をし、応接室へ向かった。

応接室に入ると、社長と樋口が座っていた。社長は樋口と親戚筋と言うだけあり、顔つきが少し似ている。俺の姿を見るなり社長は立ち上がって軽く頭を下げた。

「天宮社長、突然申し訳ない」

謝罪に来たという割には、余裕のある表情だ。樋口も同様で、特に悪びれた様子もない。何か引っかかったが、俺はひとまず対面側に着席する。

「それで、今日はどのようなご要件でしょうか?」

単刀直入に聞くと、社長と樋口は互いに頷き合う。

「天宮社長、我が社と再契約するつもりはないか?」

え?謝罪に来たんですよね、と思わず言いたかった。いや、言っても良かったのだろうが、驚きのあまり言葉が出てこなかったのだ。俺が否定しないのを好機と捉えたのだろうか。

「条件だが、もちろん相談に応じる。金額の問題なら、今までの二倍でも」

「お待ちください」

俺は構わず話し続ける社長を静止した。ここで黙っていた樋口が口を開く。

「渾新会でのことをまだ根に持っているのか?天宮社長も、つい勢いで納品をやめると言っただけだろう」

理解できないことで、ここまで不快になるとは思わなかった。大人が二人も目の前にいて、この二人が何を考えているのか全く理解できない。いや、再契約を求めていることくらいは分かる。だが、言葉を選ばずに言えば、一体どの面下げてというのが正直な気持ちだ。そもそも、二人とも謝罪の態度の一つも俺に見せていないのだ。

俺は細く長い息を吐き、社長たちを見据えた。

「申し訳ございませんが、再契約は無理です」

色々言いたいことはあるが、俺はひとまず淡白に告げる。

「どうしてだ?条件も金額も優遇する」

「そういう問題ではないのです。先日の渾新会で、私は樋口部長に門前払いを受けました。数々の暴言も測られましたが、『立場を間違えるなら二十四時間徹夜で働け』とまで言われたんですよ。社長として、どうお思いですか?」

俺の指摘に、社長は苦笑した。

「暴言って、そりゃ少し言い過ぎたんじゃないですか?樋口は親戚という縁を抜きにしても、いい社員だと思っていますよ」

全く話が通じない事実に、俺はある意味絶望した。

「ところで社長、渾新会には社長もいらっしゃいましたよね。樋口部長と私のやり取りはご存知ないのですか?」

社長は一瞬、罰が悪そうな顔をした。

「いや、会場が広くてな。君たちが揉めているとは知らなかった」

嘘だ。あれだけ人目を引いたのに、知らないはずがない。おそらく身内だから、見て見ぬふりをしたのだろう。

「それでは、何を謝罪にいらしたのでしょうか?」

樋口は大げさに肩をすくめて見せる。

「何って?だから、渾新会のことだよ。こうして誠意を持って来て、再契約を持ちかけてやったんだ。これで謝罪と言えなくてどうするの?」

樋口の隣で、社長も肯定するように頷いていた。ああ、もうこれ以上時間の無駄だ。昔からの付き合いのよしみで、最後くらいは話を聞こうと思ったのがそもそも間違いだった。

ここで俺は、ある話を持ち出した。

「ここ一ヶ月半、御社のことは噂程度に聞いておりましたよ。でも、弊社に変わる会社と契約されたとか。問題がなければ、弊社と再契約する必要などないはずです」

その瞬間、社長たちの顔色が露骨に変わる。

「新しい会社の部品を使うようになって、品質が低下したそうですね。不良も増えているという噂も聞きました。だから、元々使っていたうちの部品が欲しいのではないですか?」

俺がここまで知っているとは思わなかったのだろう。社長はさっきまでの余裕が嘘のように、「それは…」と小さな声で頷いた。うちの会社は確かに取引先に比べたら小さい。しかし、この土地に根を張って誠実に仕事をしてきた分、横の繋がりは広く強い。俺が進んで情報収集していなくても、いろんな人が樋口の会社に関しての情報を教えてくれたのだ。

「部長、渾新会で喜んでいたじゃありませんか。うちが契約終了することで、大幅にコスト削減できるって。だったら、コストのかかる再契約なんてしなくていいでしょう」

黙り込んでいる樋口にあえて話を振ると、樋口はびくっと肩を震わせた。余裕の表情は消えうせ、顔が青白くなっている。よく似た親戚同士だな。俺はため息混じりに苦笑し、さらにあることを告げた。この際だから、カッコ悪いまでに現実を突きつけてやろうと思ったのだ。

「それに、すでに他のメーカーさんと独占契約を結ばせていただいたんです」

「な、なんだと?大体、どこの?」

俺は身を乗り出してくる社長をちらりと見た。

「通常なら取引先の情報は開示できませんが、同じ業界ですからいずれ分かることです。先方からも、必要であればお伝えして構わないと了承をいただいています」

俺はそう前置きをして、ライバル社であることを告げた。

「そんな…よりにもよって、あの会社と」

社長はつぶやき、頭を抱え込んだ。俺は渾新会の後、以前アプローチを受けたことがある会社に順次営業をかけていった。その中のある会社、取引先のライバル社が俺の話を前向きに聞いてくれたのだ。

「独占契約したのは、今までの会社に納品していた主要部品を始め、特許登録申請中の技術で作った部品も含まれています」

「特許?」

社長が声を潜めた。

「ええ、現在弊社はある技術を開発し、特許申請中です。今まで樋口部長にも話していたことですが、聞いてらっしゃいませんか?」

俺が特許と独占契約の話をすると、樋口の顔色がみるみる変わった。

「それは…」

社長がギロリと樋口を睨んだ。

「樋口、貴様。新技術の報告をしていなかったのか?」

「い、いえ、それは…」

言い訳をしようとする樋口だが、言葉が続かない。社長の視線が厳しさを増す。その時、樋口は完全にパニックになったようだ。

「あっ、天宮社長、どうかお願いします」

樋口は座っている俺の足元に土下座した。

「私が悪かったのは認めます。謝罪しますから、本当に申し訳ございませんでした」

今更、もう遅いですと言おうとした時、樋口は必死に言い訳を始めた。

「渾新会の直前、部下の失敗にイライラして、それで目についた天宮社長に嫌がらせしてやろうと思ったんです。本当に後悔していないと言ったら嘘です。席がないというのも嘘で…」

必死に言い訳する樋口を、俺は無感情に見下ろした。

「正直、そんなことはどうだっていいですよ」

俺はそう言って、掴みかかってきた樋口の手をやんわりと避ける。

「あなた方としては、弊社と再契約して体制を立て直したいのでしょうが、失った信頼は取り戻せません。それに、今度は社長に視線を向ける。御社の身内経営の方針には、以前から困っていました。私の代になったからには、付き合い方を考えていかなければと常々思っていたんですよ」

俺の発言に、社長はみるみるうちに顔を赤くした。

「この…黙って聞いていれば、若造が!」

何か怒鳴りつけてきそうな社長を冷めた目で見て、俺は立ち上がり、応接室の扉を開く。

「これ以上、こちらから何かお話しすることはございません。どうぞ、お引き取りください」

社長と樋口は不機嫌そうにごちゃごちゃと言っていたが、これ以上いると告げると、諦めたように部屋を出ていった。

その後、樋口は懲戒解雇になったと聞いた。品質低下によるクレーム、そしてうちとの契約終了の責任を問われた結果だ。身内経営していた社長も、株主から厳しい追求を受けているという。

教えてくれたのは、次期社長とされている社長の息子である。父親と樋口のことを改めて謝罪しに来てくれたのだ。息子さんは以前から父親の身内経営を危惧していたらしく、自分の代からはそういった体制を少しずつ直していきたいと考えているらしい。

「天宮社長、並びに社員の皆様の今後を応援しています」

息子さんは深く頭を下げ、そう言っていた。それから契約終了になった原因が自分たちにあるとして、慰謝料と違約金を兼ねた金額を支払うことを約束してくれた。本来ならお金の問題ではないのだが、息子さんの強い要望でもある。会社や社員のために使うことにしよう。

新しく独占契約を結んだ会社とは、良好な関係で仕事ができている。特許技術の登録も、無事完了した。互いを認め合い、対等であることに喜びを噛みしめている。

これからも会社や社員、家族はもちろん、自分たちの誇りを守り続けていこう。

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