妻の寝息を聞きながら、安成は暗い天井を見つめていた。枕元の時計は午前二時を回ったところだ。眠れない夜は、もう何ヶ月も続いている。医者には行かない。行けば金がかかる。何より、眠れないことを病気だとは認めたくなかった。
翌朝、安成は六時十五分に目を覚ました。洗面所で顔を洗い、古い電動髭剃りを当てる。鏡に映る自分の顔は、見ないようにしている。六時四十分、団地の三階にある自宅を出て、駅前の自転車預かり所へ向かう。時給九百二十円の誘導員の仕事だ。十一月の朝は冷えた。
その日、自宅の郵便受けに一通の白い封筒が入っていた。差出人は「株式会社スクレイン保証サービス」。見慣れない会社名。安成はそれを胸の内ポケットに押し込み、トイレに鍵をかけてから開けた。
書類にはこう書いてあった。五年前、安成は親戚の男――亡き兄の息子、つまり甥の事業資金の連帯保証人として署名していた。甥は先月、自己破産を申請した。債務は保証会社に移り、連帯保証人である森本安成に対して全額の弁済を求める。金額は四百五十万円。
安成はその数字を三度読んだ。読み間違いではなかった。甥は電話も繋がらず、住所も変わっているらしい。安成は書類を折りたたみ、封筒に戻した。あの日、自宅のテーブルで署名をした時のことを覚えている。断れば義理知らずと思われる。甥に「おじさんしかいない」と言われて、承諾することが家族への誠意だと思った。すべきでないと感じながら、感じないふりをした。
トイレの中で安成は計算した。自分と妻の清の年金を合わせて月二十四万円。家賃が五万八千円、光熱費が一万五千円、清の目薬代が月四千円。残るのはわずかだ。四百五十万など、到底返せる額ではない。
「ご飯できてるよ」
台所から清の声がした。いつもと変わらない、穏やかな声だった。安成は「ああ」と答えて食卓に着いた。焼き魚と味噌汁。清は必ず温かいものを出す。それを食べながら、安成は何も話さなかった。味がしなかった。
昼前に区役所の法律相談窓口を訪ね、書類を見せた。相談員は三十代半ばの男性で、書類を黙って読み終えると、「連帯保証人として署名捺印されている場合、法的には弁済義務が生じます」と言った。「返済できない場合、債権者は森本さんの財産に対して強制執行の申し立てをすることが可能です。預金口座も差し押さえの対象になります」。
「年金の口座もですか」
「年金振り込み口座については差し押さえに一定の制限がある場合もありますが、振り込まれた後の預金残高については対象になり得ます」
安成は頷いた。自分の資産は普通預金に三十五万ほど。それだけだ。相談員は任意整理や個人再生を検討するよう勧めた。弁護士費用は法テラスの立替え制度が使えるかもしれないと言う。安成は「分かりました。ありがとうございます」と言って、それ以上は何も聞かなかった。
清には言えない、と安成は思った。言えば清は心配して責めるだろう。それは分かっている。四十年一緒にいたのだから。責めるのは清の権利だが、今の安成にはその言葉を受け止める場所がどこにもなかった。とにかく今は言えない。自分がどうにかする。安成はそう決めた。
翌日、安成は仕事を休んだ。管理会社には体調不良と伝えた。清にも「少し体が重い」と言った。清が熱でも測ると言いかけたが、「大丈夫だ。ゆっくりすれば治る」と言うと、それ以上は踏み込んでこなかった。
清が出かけた後、安成は法テラスに電話をかけ、予約を取った。訪問先で担当者――四十代の女性に事情を話すと、彼女は丁寧に書類を読み、「個別の事情にもよりますが、選択肢はいくつかあります」と説明した。任意整理、個人再生、自己破産。最後にこう付け加えた。
「こういった問題はお一人で抱えていると非常に辛くなります。ご家族に相談できる環境があれば、それが一番の助けになることが多いです」
安成は「はい」と言って立ち上がった。東京にいる息子のことを、安成は七年間、意識的に考えないようにしてきた。息子の名前は浩司。四十一歳になっているはずだ。七年前、清の姉の法事で親族が集まった席で、浩司が言った。「父さん、もう少し現実を見た方がいいと思う」。定年後の生活について、年金だけで大丈夫なのかと問われ、安成が「問題ない」と答えると、浩司は「でも実際には厳しいんじゃないか」と言った。安成は「お前に心配してもらう必要はない」と言った。会話はそこで止まった。あれから連絡はない。今更、息子に助けてくれとは言えない。それは死ぬことと同じくらい難しかった。
数日後、安成は法テラスの紹介で弁護士と面談した。難波の近くの小さな事務所。五十代の橋弁護士は、書類を一枚ずつ確認しながら、「まず状況を整理させてください」と言った。任意整理という手続きについて説明され、「払える金額は月に二万が限界です」と安成が言うと、弁護士は「二万円ずつで二百二十五ヶ月、ほぼ十九年かかる計算になります」と言った。十九年後、自分は八十七歳。清は八十四歳だ。
弁護士は「交渉次第です。金額の減額も含めて話してみます」と言い、着手金が五万五千円、分割で毎月五千円ずつ支払う形でいいと言った。法テラスの立替え制度を使う。安成は「それで進めましょう」と言った。
その夜、安成は清に話した。甥の保証人になっていたこと、書類が届いたこと、弁護士に依頼すること。清は何も言わず、ただ手をテーブルに置いたまま動かさなかった。指先が少しずつ白くなっていった。
「いつ届いたの」と清が聞いた。
「今月の初め頃だ」
清は一ヶ月近く放置されていたことになる。「なぜ言わなかったの」と清が言った。声が低かった。いつもの穏やかな声ではなく、喉の奥から出てくるような声だった。
「心配かけたくなかった」
「心配かけたくなかった」と清は繰り返した。静かに。しかし静かであることが、今は逆に重かった。「私が妻じゃないの。私が一番に知るべきことじゃないの」
安成は「そうだな」とだけ言った。それが清の何かに火をつけた。四十年間、声を荒げることを自分に禁じてきたような女性が、その金を破った。
「四百五十万ってどうやって返すの。私たちの年金合わせて二十四万しかない。それ分かってて。なぜ一人で抱えていたの。なぜあの人の保証人なんかになったの」
清の目から涙が出た。声はほとんど出ていなかった。ただ涙だけが出た。そして、「お父さんの判子、私に何も相談せずに押したの」と言った。
「すまなかった」と安成は言った。
「すまなかったで済む話じゃないでしょう」
しかし声の荒さは少し引いていた。感情が泣くことで少し抜けていくような変化だった。長い沈黙の後、清は「夕食、作ってない」と言った。「いい」と安成は言った。「でも食べないわけにはいかない」と清は言って、立ち上がって台所に向かった。
その夜の夕食は温め直した煮物と漬け物だった。二人は食べた。言葉はなかった。食器の音だけが静かな部屋に響いた。食事の後、安成が皿を洗い、清が布巾で拭いた。二人は並んで立っていた。何も話さなかったが、並んで立っているということが、その夜の二人には必要なものだった。
その後の数日、家の中の空気は変わった。清は以前より口数が少なくなり、何かを考えている様子だった。ある朝、安成は洗面所の前を通りかかって、清が目薬をさしている姿を見た。小瓶を右手に持ち、顔を少し上げて一滴落とす。一瓶が四千円近くする。月に一本使う。その費用が今や清には重く感じられているはずだった。安成が「病院は行け」と言うと、清は「うん」と言ったが、それが本当かどうか分からなかった。
一週間後、保証会社から電話があった。今度は男性の声で、回答期限を過ぎていると言われた。安成は「対応を検討中です」と答えた。相手は「現状では、このままご連絡がなければ次の段階の手続きを取らせていただくことになります」と言った。安成は「分かりました」と言って電話を切った。次の段階の手続き。裁判所を通じた手続きが始まれば、団地の郵便受けに裁判所からの封筒が届く。近隣の知るところになるかもしれない。
その夜、安成は眠れなかった。布団の中で天井を見たまま、考え続けた。このまま何もしなければ状況は悪化する。動かなければならない。弁護士に依頼する。それしかない。
翌朝、仕事に向かう前に安成は法テラスに電話をかけ、弁護士への依頼について話を聞きたいと伝えた。その日の仕事が終わった後、再び電話をかけ、面談の約束を取り付けた。そのことは清に話した。「弁護士に頼むことにした。法テラスというやつを使えば、返済額と期間を交渉できるらしい」と。清は「そう」と言って頷いた。「費用は分割でいい。月に五千円くらいだ」。清は少し間を置いて「そうだね」と言った。
着手金の五万五千円は貯金から出した。三十五万あった残高が二十九万五千円になった。あの三十五万は、二人の葬儀費用として残しておいたものだった。かつて夫婦で話し合い、生命保険を解約した時、「いざという時のためにこれだけは残しておこう」と決めた額だった。
その週、弁護士が相手方の保証会社に受任通知を送った。以後、自宅への直接の電話や郵送は止まるはずだった。実際、電話の呼び出し音は突然消えた。清はその変化に気づいていた。「電話、ならなくなったね」と台所で皿を洗いながら言った。「ああ」と安成は答えた。
しかし生活は厳しかった。十二月、町内会の年末集金があった。五千円。安成は財布の中を見た。五千円札が一枚。今週の食費に当てるつもりだった。しかし払わなければ、町内会長の竹内が玄関に立っている。安成は財布を持って玄関に向かった。五千円札を一枚取り出し、「ありがとうございます」と言われて小さな領収書を受け取った。財布の中には小銭と千円札が一枚だけ残った。年金が振り込まれるのはあと三日後だ。
職場でも問題が起きた。十二月の中旬、高校生が勢いよく自転車を乗り入れてきて、隣に止めてあった自転車に接触した。自転車が倒れ、フレームに細い傷が入った。スーツを着た二十代後半の男性が、傷を指差して「これどういうことですか」と大声を上げた。安成は深く頭を下げて謝り続けた。男性は管理事務所に向かった。安成は自分の持ち場に戻ったが、手が震えていた。寒さではなかった。
午前の仕事が終わり、管理担当者の田岡に呼ばれた。田岡は温厚な人物だったが、その日は少し困った顔をしていた。「お客様がご不満でいらっしゃって、今後の管理体制を見直さなければならないということで、会社の方からも話がありまして…森本さん、今年でおいくつになられましたか」。六十八歳です、と安成は言った。「そうですよね。うちとしては本当にお世話になっていまして感謝しているんですが、今後については一度会社と相談させていただいた上で、改めてご連絡させてください」。
安成は「分かりました」と言った。田岡の言葉の意味は、安成にははっきりと分かった。遠回しに言っているが、意味は一つだ。
三日後、会社の事務担当者から電話があった。今月末を持って契約を終了したいという。安成は「分かりました」と言った。仕事がなくなる。月に十万円前後あった稼ぎが消える。年金だけになる。二人合わせて十四万。家賃と光熱費と食費と薬代を引けば、弁護士費用の分割を出すことすら苦しくなる。
十二月の末、自転車置き場での最後の仕事が終わった。田岡に挨拶をすると「長い間ありがとうございました。お体に気をつけて」と言われた。安成は「お世話になりました」と頭を下げた。それだけだった。
帰り道、商店街の八百屋にみかんが並んでいた。五個入りで三百八十円。安成はしばらくそれを見ていた。それから一袋取って金を払った。帰宅すると清がいた。「最後の日だった」と安成は言った。清は頷いた。安成はレジ袋からみかんのネットを取り出し、「これ買ってきた」。清は少しそれを見て、「ありがとう」と言った。静かな言葉だった。
収入を失った安成は新しい仕事を探し始めた。ハローワークに行き、端末で検索した。六十八歳。その年齢で採用してもらえる仕事は多くなかった。いくつか応募したが、返事はなかった。シルバー人材センターに登録したが、すぐに仕事があるわけではなかった。
年が明けた。一月の半ば、清が帰宅した時、いつもより少し顔色が悪かった。「少し目が痒くて」と言う。その夜、安成は洗面所の棚を見た。清の目薬の瓶が、ほとんど空のように見えた。一ヶ月で一本使い切るペースのはずが、今月はまだ半分も経っていない。安成は「目薬、ちゃんと毎日さしているか」と聞いた。清の手が止まった。「さしてるよ」と言ったが、その言葉の端がわずかに揺れていた。「瓶を見た。残量がおかしい」。清はしばらく黙ってから、「一日の回数を減らしてた」と言った。「二回のところを一回にしていた。一回でも少しは効果があるから。なければないよりましだと思って」。
安成は「目だけは削るな」と言った。清は下を向いて、ゆっくりと頷いた。「でも、お金が」と言いかけて止まった。安成はただ、「目は削るな」と一度だけ言った。
一月の末、ガス会社から督促状が届いた。十二月分と一月分、合わせて二ヶ月分の料金が未払いになっていた。自動引き落としになっていたはずが、口座の残高が引き落とし日に間に合わなかった。金額は二万八千円ほど。今の口座残高では払えなかった。月末、ガス会社から最後の通知が届いた。翌日の午前中にガスの供給が停止されるという内容だった。
翌朝、清がガスコンロのつまみを回した。火がつかなかった。カチカチという空回りの音だけがして、炎が出なかった。清はしばらくコンロの前に立っていた。それからエプロンの端を両手で持ち、ぎゅっと握りしめた。「安成さん」と清が言った。安成が来た。清はコンロを見ていった。「止まった」。安成は頷いた。「分かった」。
その日から温かい食事を作ることができなくなった。小さな電気ケトルでお湯を沸かし、インスタントの味噌汁やお湯をかけて温めるだけのもの。浴槽のお湯も沸かせなくなった。暖房は前から使っていなかった。ダウンジャケットを着込んで毛布を重ねて、電気ケトルのお湯を入れたカップを両手で包んで温めた。言葉は少なかった。しかしその時間は、不思議と以前より長かった。二人とも冷えた布団に入ってもなかなか眠れないから、遅くまで起きていた。ただ座ってカップを持って、外の音を聞いていた。
清の目はさらに悪化していた。ある日、仕事から帰ってきた清は顔が青かった。客から預かったコートを処理する際、素材を見誤って通常の洗濯に回してしまい、コートは縮んで光沢が失われた。店主に厳しく叱責され、「今後の仕事を続けてもらうことも難しい」と言われた。数日後、清は店主に呼ばれ、弁償は不要ということになったが、今月末を持って契約を終了したいと言われた。
清は「仕事、終わりになった」と淡々と報告した。「お前のせいじゃない」と安成は言った。清は「でも」と言いかけて止まった。「お前のせいじゃない」と安成はもう一度言った。
二人とも仕事を失った。収入は年金だけになった。その年金からは、弁護士費用の自動引き落としと、相手方の保証会社が銀行を通じて申し立てた一定額の引き落としが行われていた。残高を確認すると、千八百円だった。現金も財布に三千円ほど。合わせて四千八百円で、次の年金が振り込まれるまで十三日。一日あたり三百六十九円。一人当たり一日百八十四円。
安成はスーパーで豆腐ともやし、卵一パック、安売りのキャベツを買った。四百三十円。これで三日分は持つかもしれない。帰り道、公園のベンチに一度だけ座った。三月までは持たないかもしれない、と思った。このままではいずれ家賃も払えなくなる。そのことを二人とも言葉にしていなかった。言葉にすれば、それが現実になってしまうような気がして、二人ともその言葉を回避し続けていた。
その夜、夕食は豆腐のサラダと卵の薄焼きだった。電気ケトルで沸かしたお湯で出し汁を作り、豆腐を浸した。温かくはなかったが、しみじみとした味があった。二人は食べた。清が「卵、うまく焼けなかった」と言った。電子レンジで作ったが、うまくいかなかったらしい。「うまい」と安成は言った。清は「そんなことない」と言ったが、少しだけ口元が緩んだ。
翌朝、安成は暗いうちに目を覚ました。午前五時十分。清はまだ眠っていた。安成は布団から出て、ダウンジャケットを羽織り、台所に入った。電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れた。ケトルが温まる間、窓の外を見た。団地の向こうの空がわずかに白み始めていた。ケトルが沸いた。湯飲みにお湯を注ぎ、インスタントの緑茶を入れた。両手で湯飲みを包んで、立ったまま飲んだ。頭の中に数字が戻ってきた。昨日通帳を確認した。千八百円。財布の中に二千五百円。合わせて四千三百円。昨日スーパーで四百三十円使った。今自分たちが持っているのは三千八百七十円。次の年金まで十二日。一日あたり三百二十二円。計算は合っている。しかし、その計算にはガス代の未払いが入っていない。弁護士費用の次の分割が入っていない。清の目薬の補充が入っていない。もう一度計算すると、どこかが崩れる。
安成は湯飲みを置いた。窓の外の空が少し明るくなっていた。その明るさを見ながら、これ以上考え続けることが今の自分にはできない、という感覚を覚えた。思考が限界に達していた。毎晩眠れなかった。眠れない夜の中で数字を並べ続けた。どう並べ替えても出てくる答えは変わらない。それをまた並べ直して、また同じ答えを見る。その繰り返しが何ヶ月も続いていた。
安成は着替えて外に出ようと思った。どこへ行くという目的があったわけではなかった。ただこの部屋の中にいることが、その朝だけはできなかった。清を起こさないように靴を履き、玄関を静かに開けた。外の空気が体に当たった。冷たかった。吐息が白かった。安成は歩いた。どこへ向かうともなく。駅の方へ向かっていた。駅に近づくにつれて、早朝の通勤者が少しずつ増えてきた。安成は改札には入らなかった。駅に沿って伸びる歩道を歩き、線路の下をくぐった。先にホームへの別の出入り口があった。安成はそちらに向かった。なぜそちらに向かったのか、自分でも説明できなかった。
ホームに立つと、電車が到着する前の静けさがあった。線路の向こうに住宅街が広がり、朝の光がまだ低い角度で屋根に当たっていた。安成は黄色いタイルの線の近くに立った。朝の風がホームを吹き抜けた。安成は線路を見た。銀色のレールがまっすぐに伸びていた。遠くでカーブして、その先が見えなくなる。頭の中が静かだった。いつものように数字が並ばなかった。清の顔も、弁護士の声も、田岡の困ったような表情も、通帳の残高も、全部がどこか遠くにあった。ただ線路だけが目の前にあった。
安成は生命保険のことを思い出した。小さな保険だった。月に二千円の掛け金で、死亡時に百五十万が支払われる。五年前に清が進めた保険だったかもしれない。百五十万。弁護士の費用の残りと、ガス代と、残りの借金の一部と、清の目薬代が何年分かになる。
遠くから電車の音が聞こえ始めた。線路のレールがわずかに振動し始めた。安成は黄色いタイルの線を越えて、一歩踏み出した。体重が前に移った。その時、右足の靴の後ろを何かが引いた。強く、確実に引いた。安成は振り返った。
清だった。ダウンジャケットではなく、家で着ている厚手のセーターの上にコートを羽織っただけの格好だ。スニーカーの紐が片方解けていた。その手が、安成の靴の後ろを掴んでいた。二人の目があった。清の顔に涙はなかった。安成の顔に向かって、清は何も言わなかった。遠くで踏切りの音が鳴り、電車が近づく音が大きくなっていた。清は安成の靴の端を掴んだまま、まっすぐに安成を見た。目が痒いはずなのに、それでも見ていた。それから清は口を開いた。
「西のスーパー」と清が言った。声が震えていた。「今日、卵が安売りなんやって。チラシに入ってた」
安成は何も言えなかった。清は続けた。
「帰ろ。お父さん」
お父さんという呼び方は、二人の間ではほとんど使われなかった。清が使うのは、本当に稀な時だった。電車が来た。ホームを風が走った。安成の体が少し揺れた。清の手がまだ靴の端を掴んでいた。電車がホームを通過していった。轟音が過ぎ去り、また静寂が来た。安成の足がその場に止まった。どれだけ時間が経ったか分からなかった。
それから安成の膝がゆっくりと折れた。ホームの床に両膝がついた。両手が顔の前に来て、そのまま両手で顔を覆った。声が出た。安成自身が驚くような声だった。抑えようとして抑えられない、そういう声だった。音としては小さかった。しかし体全体が動いていた。清は掴んでいた手を離さなかった。靴の端を掴んでいた手を、今度は安成の肩に移した。何も言わなかった。ただそこにいた。
どれだけの時間が経ったか。安成の呼吸が少しずつ戻ってきた。声が止まった。安成はゆっくりと立ち上がった。清の手が肩から離れた。二人は向かい合って立った。安成は清の顔を見た。清は安成の顔を見た。二人の目が赤かった。
「なぜついてきた」と安成は呟いた。怒りではなく、ただの問いだった。
「朝起きたら、いなかったから」と清は言った。「なんとなく分かった。なんとなく。四十年一緒にいるから」
安成は何も言わなかった。
「帰ろ」と清がまた言った。安成は頷いた。二人はホームを歩いた。清の靴紐がまだ解けていた。安成はそれに気づいて立ち止まった。「紐が」と言った。清は「ああ」と言って下を向いたが、老眼のせいで紐がよく見えないようだった。安成は屈み込んで、清の靴の紐を結んだ。清は黙って立っていた。安成は紐をきちんと結んで立ち上がった。「ありがとう」と清が言った。「行こう」と安成は言った。階段を降りた。朝の通りに出ると、太陽が低い位置にあった。二人は並んで歩いた。どちらも話さなかった。
団地が見えてきた。入り口を通り、階段を登り、三〇二号室の前に立った。安成はドアを開けた。玄関に入ると、台所のケトルがまだ温かかった。清が家を出る前に沸かしておいたものだろう。「お茶、飲む」と清が言った。「ああ」と安成は言った。二人はテーブルの前に座った。清が湯飲みを二つ出して、緑茶のパックを入れてお湯を注いだ。安成は湯飲みを両手で持った。温かかった。窓の外で電車の音がした。遠くを走り抜ける音が聞こえて、また消えた。二人は向かい合ってお茶を飲んだ。何も言わなかった。言葉はいらなかった。
その朝は長かった。二人でお茶を飲み終えた後も、安成と清はしばらくテーブルを挟んで座り続けた。話さなかった。しかし今度の沈黙は、これまでの沈黙とは質が違った。これまでの沈黙は何かを避けるための沈黙だった。言ってはいけないことを言わないための沈黙。今の沈黙は違った。言葉を必要としないという沈黙だった。窓から朝の光が差し込んできて、床の上に細長い影を作った。その影がゆっくりと動いていくのを、安成はぼんやりと見ていた。
やがて清が「お腹空いてない」と言った。「いや」と安成は言った。「私も」と清は言った。「でも、何か食べないとね」。台所に立って、清は電気ケトルを再び沸かした。昨日の残りの豆腐を小さな器に出し、醤油を少し垂らした。それを二人分テーブルに置いた。安成は箸を取り、豆腐を一口食べた。冷たかった。しかし食べられた。清も食べた。二人は冷たい豆腐をゆっくりと食べた。
器を片付けながら、清が言った。「今日、どこかに行こうか」。「どこへ」と安成は言った。清はしばらく考えてから、「福祉事務所、っていうところがあるって、橋先生が言ってたね」と言った。安成は清の背中を見た。弁護士との電話のやり取りを、清は隣で聞いていた。生活保護という言葉が出た時、清は台所にいた。しかしその言葉を、清は確かに聞いていた。安成は何も言わなかった。
「私、言ってもいいと思う」と清は言った。流しで器を洗いながら、背中を向けたまま言った。「もう、それしかない気がする」
安成はテーブルの上に両手を乗せた。「そうだな」と安成は言った。声に力はなかった。しかし確かに言った。清は洗い物を終えて振り返った。安成の顔を見た。「今日、行けるかな」と清は言った。安成は時計を見た。朝の九時を少し過ぎていた。「行こう」と安成は言った。
二人は着替えた。安成はいつものダウンジャケット。清は薄いセーターを重ね着して、その上に古いコートを着た。玄関で安成は清の靴を見た。ホームで結んだ靴紐が、きちんとそのままだった。二人は団地を出た。福祉事務所の場所は、橋弁護士に電話して確認した。区役所の中に窓口があるということだった。歩いて二十分ほどの道のりだった。バスを使えば二百三十円。しかし今の二人には、その二百三十円がないとは言わなかった。ただ二人とも自然に、歩く方向に足が向いた。
道を歩きながら、安成は前を見ていた。清は横を歩いていた。二人の間隔は、肩が触れるかどうかという距離だった。手は繋いでいなかった。四十年間、手を繋いで歩いたことは数えるほどしかなかった。しかしこの距離で並んで歩くことは、いつもそうだった。区役所の建物が見えてきた。正面玄関を入ると案内があった。「福祉事務所 生活保護担当」という表示を二人で確認した。一階の奥の方に窓口があった。安成が先に歩き、清がついてきた。窓口の前に来た。カウンターの向こうに、四十代くらいの男性の職員が座っていた。眼鏡をかけており、書類を見ていた。
「生活保護の相談に来たんですが」と安成は言った。声が小さかった。職員は顔を上げて、「お名前をどうぞ」と言った。「森本です」と安成は言った。「森本安成です」。職員は「少々お待ちください」と言って、内側に向かって何かを確認した。待合いの椅子に案内された。二人は並んで座った。待合いには他にも数組の人がいた。それぞれがそれぞれの事情を持ってここにいた。名前を呼ばれるまで三十分ほどかかった。
案内されたのはパーティションで区切られた小さなブースだった。向いに座ったのは、三十代後半くらいの女性の職員で、田島という名札をつけていた。「本日はどのようなご事情で」と田島は言った。安成は口を開いた。甥が破産したこと、保証人になったこと、弁護士が交渉中だが口座から引き落とされていること、仕事を失ったこと、清の仕事もなくなったこと、ガスが止まっていること、口座の残高が千八百円だったこと。一つずつ順番に話した。田島は書き取りながら聞いた。途中でいくつか確認の質問をした。年金の金額、家賃の金額、資産の有無。安成は答えた。清も聞かれたことに答えた。
田島は話を聞き終えて、「分かりました」と言った。「生活保護の申請は、まず申請書を提出していただくことになります。その後、調査が入ります」。「調査というのは」と安成は言った。「資産調査と扶養照会です」と田島は言った。「資産については不動産や預貯金、有価証券などを確認させていただきます。扶養照会というのは、扶養義務者に当たるご家族に、援助できるかどうかを問い合わせる手続きです」。「扶養義務者というのは」と安成は言った。「お子様がいらっしゃいますか」と田島は言った。「息子が一人います。東京に」と安成は言った。「その方にご連絡することになります」。安成はすぐには言葉が出なかった。清が横でわずかに体を固くした。
「それは、必ずしなければならないことですか」と安成は言った。田島は「扶養照会は生活保護法の手続きです。実施が義務となっています。ただし、照会を行うかどうかは状況によって判断する場合もあります。具体的にはどういった事情がおありでしょうか」と言った。安成は「息子とは七年間、連絡を取っていません」と言った。田島は何も言わなかった。ただ記録を取った。「それでも、照会を行いますか」と安成は言った。「基本的には行います」と田島は言った。「ただ、強制的に援助を求めるわけではありません。あくまで確認のための文書を送るという形です。お子様から援助の意思がない、あるいは援助できないという返答があれば、それで手続きは進みます」。
安成は「そうですか」と言った。それ以上は言わなかった。清が「申請、進めていただけますか」と言った。静かな声だった。田島は頷いた。「申請書を渡します。今日ご記入いただいても、持ち帰って後日でも構いません」。「今日、書きます」と清は言った。田島が申請書を持ってきた。安成と清はカウンターの脇の棚に立って書類を書いた。名前、住所、生年月日、家族構成、収入、資産。安成がペンを持った手はわずかに震えていた。それでも書いた。一つずつ丁寧に書いた。清が横に立って、時々安成の手元を覗いた。書き終えた書類を田島に提出した。「受理しました」と田島は言った。「今後、担当者からご連絡します。調査の日程についても追ってご連絡しますので、しばらくお待ちください」。安成は頭を下げた。「よろしくお願いします」。清も頭を下げた。
二人はブースを出た。待合いを通り、玄関を出た。外に出ると冷たい空気だった。二人は並んで立ち、しばらく区役所の正面を見ていた。「出した」と清が呟いた。「ああ」と安成は言った。清が「お腹空いてきた」と言った。安成は清の顔を見た。清は真顔だったが、その真顔の中に何かが含まれていた。切実さと、それと同時に存在している、どうしようもないおかしさのようなもの。「そうだな」と安成は言った。
二人は歩き始めた。区役所からの帰り道、西側のスーパーに寄った。清が「ここ」と言ってスーパーの入り口に向かった。チラシにあった卵の安売りは、特売コーナーにまだ残っていた。一パック百五十九円。清はそれを一パック取った。それともやしが十九円、豆腐が六十八円。三つを買い物かごに入れてレジに向かった。二百四十六円。清が財布から出した。袋に詰めながら、清が「今晩は卵焼きにしようか」と言った。「電子レンジでうまくいくか分からないけど」。「それでいい」と安成は言った。
帰り道、二人はまた並んで歩いた。来る時と同じ道を、来る時と同じ速度で歩いた。途中、公園の前を通った。ベンチに鳩が数羽来ていた。地面をつついていたが、何もないと分かると飛び立っていった。清がそれを見て、「寒そうだね。鳩も」と言った。「そうだな」と安成は言った。それだけだった。
翌日、福祉事務所から電話があった。扶養照会の返答が届いていると言う。翌日、二人は区役所に向かった。田島のブースに案内されて、二人は並んで椅子に座った。田島は書類を一枚、テーブルの上に出した。「東京のご長男、森本浩司様から返答がございました」。安成は書類を見た。印刷された書式に、いくつかの項目がチェックされていた。田島が「扶養の意思と能力についてのご確認なのですが」と言い、書類の該当箇所を指した。そこには二つの選択肢があった。「援助できる」という項目と、「援助できない」という項目。浩司が選んだのは後者だった。さらに余白に一言だけ記載があった。手書きではなく、印字されていた。
「援助の意思もなく、能力もない」
安成はその文章を読んだ。一度読んで、また読んだ。「援助の意思もなく」という部分を目で辿った。能力がないのではなく、「意思もない」と書いてある。義理を果たすためだけに「援助できない」と書いた返答ではなく、それ以上のことが、その五つの文字の中にあった。安成は書類から目を上げなかった。清が横で固まっていた。田島が「返答をいただきましたので、手続きを進めることができます。審査の結果については、来週中にご連絡できる見込みです」と言った。安成は「分かりました」と言った。自分の声がどこか遠くから聞こえる感じがした。
二人はブースを出た。待合いを通り、玄関を出た。外に出た途端、強い風が吹いた。二月の末の風で、まだ十分に冷たかった。二人は区役所の玄関の前に立った。清が安成の横顔を見た。安成は正面を向いていた。「安成さん」と清が言った。安成は答えなかった。「安成さん」と、もう一度清が言った。安成はゆっくりと清の方を向いた。清の目が赤かった。泣いていた。声を出さずに、涙だけが出ていた。安成は「なぜ泣く」と言った。声に感情がなかった。「だって」と清が言った。「浩司がいい」と安成は言った。「でも、いいんだ」と安成はもう一度言った。「あいつはあいつの答えを出しただけだ」。清は口元を押さえた。安成は正面を向いた。「正直に書いてくれた方が、こっちも楽だ」と安成は言った。「お世辞や建前を書いて、意思があるふりをされる方が困る」。それは本心だったかもしれない。本心ではなかったかもしれない。安成自身にも分からなかった。しかし言ってしまうと、少しだけ体が軽くなったような気がした。清が涙を手の甲で拭った。「帰ろうか」と安成は言った。清は頷いた。
一週間後、生活保護の受給が認められた。田島からの電話だった。詳細はケースワーカーが説明すると言う。ケースワーカーの近藤という男が自宅を訪れ、月額の給付額や手続きについて丁寧に説明した。医療費については一定の費用が援助されること。ガスの未払いについては緊急の一時金が支給される可能性があること。弁護士との件については引き続き依頼していただいて問題ないこと。保護費は債権者に直接差し押さえられることはないこと。安成はメモを取りながら聞いた。
一週間後、ガスが再び通った。近藤の説明に従い、ガス会社に連絡して再開の日程を確認した。その日の朝、清がコンロのつまみを回した。火が出た。青い炎がバーナーの上で揺れた。清はしばらくその炎を見ていた。安成も後ろから見ていた。清がつまみを戻して炎を消した。振り返って安成を見た。何も言わなかった。安成も何も言わなかった。
その夜の夕食は、清が久しぶりにコンロで作った。卵は電子レンジではなくフライパンで焼いた。目玉焼きがきちんと焼けた。それと大根と油揚げの味噌汁、白いご飯。ありふれた夕食だった。どこにでもある、どの家庭にもある、普通の夕食だった。安成はテーブルの前に座り、清が器を並べるのを見ていた。味噌汁の椀が置かれた。湯気が立っていた。目玉焼きの皿が来た。醤油が少しかかっていた。「いただきます」と清が言った。「いただきます」と安成が言った。安成は箸を取り、味噌汁を一口飲んだ。熱かった。大根が柔らかく煮えていた。味噌の味がした。ちゃんとした、温かい味噌汁の味がした。安成はもう一口飲んだ。
清が目玉焼きを箸で切りながら言った。「硬くなかったかな。黄身」。「ちょうどいい」と安成は言った。清は「そう」と言って、自分の目玉焼きを食べ始めた。
窓の外は雨だった。細かい雨が窓ガラスを静かに叩いていた。三月に入り、少しだけ気温が上がったが、雨の夜はまだ冷えた。しかしガスが通っているので、味噌汁が熱かった。それで十分だった。二人は食べ続けた。早くも遅くもない速度で、それぞれの食事を食べた。ご飯を半分ほど食べたところで、安成は箸を止めた。清が顔を上げた。安成は清の椀を見た。それからゆっくりと自分の箸を持ち、清の椀に白いご飯をよそった。清は「いい。私は十分」と言いかけた。安成は「食え」と言った。押し付けがましい言い方ではなかった。ただ言った。清は「ありがとう」と言って、よそわれたご飯を食べた。安成はまた自分の食事に戻った。外の雨が少し強くなった。窓を伝って雨粒が流れ落ちる音が、かすかに聞こえた。
食事が終わった。安成が皿を洗い、清が布巾で拭いた。いつも通りの順番で、いつも通りにやった。洗い終えた器を棚に戻しながら、清が「味噌汁、薄かったかな」と言った。「いや」と安成は言った。「ちゃんとした味だった」。清は「そう」と言って、布巾を畳んで引き出しに入れた。
夜、布団に入ると、清が「今日は早く寝ようか」と言った。「そうしよう」と安成は言った。「目が、少し楽になってきた気がする」と清が言った。「薬、ちゃんと差してるか」と安成が聞いた。「毎日」と清は言った。「二回、ちゃんと」。安成は頷いた。医療費の援助が始まったことで、清の目薬は処方通り使えるようになっていた。来月、眼科に予約を入れてある。清が「お休み」と言った。「お休み」と安成は言った。豆電球を消した。部屋が暗くなった。外の雨音が壁を通して薄く聞こえた。安成は天井を見た。いつも見ていた天井だった。しかし今夜の天井は、いつもより少しだけ距離が遠い気がした。いつもは低く迫ってくるような感じがあったのに、今夜は普通の天井だった。清の寝息がやがて始まった。思ったより早かった。安成は目を閉じた。数字は来なかった。封筒の中の文書も来なかった。田岡の顔も来なかった。ホームで見た線路も来なかった。ただ暗さだけがあった。外の雨音が続いていた。安成はその音を聞きながら、目を閉じていた。眠りが来るかどうか確かめようとしなかった。ただそこに横になっていた。それで十分だった。やがて意識が少しずつ薄くなっていった。雨の音が遠くなった。遠くなった。そのまま消えた。



