「お前たちは会社の奴隷だ。奴隷なら奴隷らしく、死ぬ気で働け。会社のために必死になれよ」
工場の食堂に響き渡ったその声に、全員が手を止めた。昼休憩を狙って乗り込んできたのは、次期社長として甘やかされて育ったサトシさんだった。彼は社員を見下し、自分勝手な企画を現場に押しつけ、仕事を予定通りに進まなくさせる。誰もが疲れ果てていた。
「俺は奴隷としてお前を使ってやってるんだ。文句あるなら出てけ。首だ」
反論しようものなら顔を真っ赤にして怒鳴られる。だから俺は一切抵抗せず、喜んで首を受け入れた。もう年だが、まだまだ会社に貢献できる自信はある。だが、それをいらないというなら、無理をして雇ってもらう必要はない。
「何があろうとも、俺はもう戻りませんからね」
そう独り言をつぶやきながら、俺は会社を後にした。
俺の名前は渡辺。某私立大学付属の工業高校を卒業後、ある大手の工業製造メーカーに就職した。大学に行くか就職するか、受験の時期には悩んだが、高校時代に取得した資格を武器に早めに就職することを決めた。十八歳で就職し、それから二十五年。四十三歳になった俺は、工場で製造・機材管理部門の責任者として業務を任されている。
俺の務める会社は、現社長の曽祖父が創業したという。そこから社長職は世襲され、今の社長・水谷三吉氏は四代目だ。しっかりとした会社のまとめ方とビジネスセンスがある人物だと、経営者や業界人の間では評判らしい。しかし、身近に接する機会の多い同じ会社の人間である俺たちは、その肯定的な意見に首をかしげている。
「おい、ちょっと聞いてくれ。来月から製造管理のシステムを変えようと検討してるんだ。誰でもいいから、現行システムの維持管理費と管理体制を説明してくれよ」
「ああ、すみません。今日はちょっと忙しいもので」
「え? なんだよ。せっかく俺が来たって言うのによ」
「すみません。できたらアポを入れてもらえませんか」
「アポ? なんで自分の会社の工場に来るのにそんなもんいるんだよ」
三吉社長の長男で、五代目社長就任が既定路線のサトシさん。サトシさんの存在が、俺たち社員の三吉社長への不信感、というより人柄への疑問の元になっていた。
「ああ、先月から納品されてる接着剤だけど、あれネットで見たら良くないらしいな。取り替えろよ。どっか別の会社のやつと」
「えっと、いきなりそう言われましても……」
「なんだよ。今すぐ別の取引先を見つけりゃいい話だろう」
三吉社長は息子のサトシさんのことを盲信していると言ってもいいレベルで、自分の息子は優れていると確信していた。確かにサトシさんの経歴は完璧だ。国内の有名進学校を出て、いい大学を出て、アメリカに留学し、そこで経営系の資格を取った。大学時代には経営系の学部に席を置いていたとのことで、事業に関連する知識も持っているらしい。しかし、それはあくまでも“らしい”だ。現実のサトシさんは、工場の業務や現場にずけずけと踏み込んでは、見当違いなアドバイスと提案ばかり残していく。
現場での実務経験のないサトシさんが頭の中で練り上げた理想のプラン。それを押しつけるため、暇さえあれば連絡なしにやってくる。俺が相手をする時もあるが、たまたま顔を合わせてしまった社員はサトシさんに付き合わされて時間を浪費することになる。とにかく、正直サトシさんは厄介だ。彼が優秀なのは分かるが、三吉社長が素晴らしいと祭り上げるような完璧に優秀な人ではないと思っている。
ある日、サトシさんが工場の昼休憩に乗り込んできた。全員が動きを止めて昼を取っている時間を狙っての来訪だというのは、誰もが瞬時に気づいた。サトシさんの姿を見て、工場の全員が何を言われるのか身構えた。
「全員揃ってるな」
サトシさんは総務で借りてきたのか、マイクを握りしめていた。全員の顔を見回し、しっかりと間を取って、サトシさんは工場のためになる新プランを発表した。
「私は今、自動車部品製造への参入を考えている。我が社とこの工場があれば、十分に可能な目標だ。経験がないというのは分かっているが、そこは私に任せて欲しい。私が信頼できる取引先を見つけ、」
突然始まったサトシさんの演説とその内容に、食堂にいる社員全員があっけに取られて口を開けた。
「おい、おい、おい、マジかよ」「冗談だろ」
俺の隣に座っていた同僚は、箸を持ったままフリーズして呟いていた。
「そうだよな。何考えてるんだって。いつもだけど、あの人は」
俺は同僚に同意していたが、その間もサトシさんの演説は続いていた。
「いざ製造が開始となっても、君たちは何も心配しなくていい。工場の稼働計画、スケジュールと人員管理に関しても、私が最高の稼働システムをすでに構築している。君たちはもう無心で仕事に取り組んでくれたらそれでいい」
演説を切り上げたサトシさんを見て、俺たちの間に妙な間が流れた。だが、誰かが気のない拍手をして、サトシさんを満足させた。
「おいおい、拍手なんてしたらやばいだろう。あの人が調子に乗るぞ」
俺と同僚は拍手をしなかった。だが、サトシさんは適当な拍手でも満足だったのか、俺たちには何も聞かずに食堂を出ていった。
置き去りにされた俺たちは、サトシさんの演説の中身を反芻する。自動車部品製造への新規参入。その計画がどこまで具体的に進んでいるのかすら、こちらは知る由もない。だが、サトシさんの口ぶりでは、このままなし崩し的に始まる可能性も高い。普通ならば本社や企画・営業の人々と製造現場とのやり取りをしながら新規事業は進んでいくはずだが、サトシさんの手にかかれば、その関連はないものにされてしまう。
「あの、先日のサトシさんのお話は、検討というか審議を改めるべきですよね」
サトシさんの演説から二日後、俺は上司に相談を持ちかけた。サトシさんが勝手に進行させてしまいそうな新規事業計画は本物なのか。本当に始まってしまうのか。本社と上層部に確認すべきではないか。
「いや、そうなんだよな。私も聞こうと思っていてな。今日やっと社長が捕まりそうなんで、時間を作ってもらったところだ」
上司は俺と同じ不安を抱き、先に行動を起こそうとしていた。三吉社長のスケジュールを抑え、直談判と言わんばかりに急いでいた。俺は一緒に本社に行かないかと誘われ、二つ返事で応じたが、予定が変わった。工場の近くに外出の用事があった三吉社長が、帰りの道すがら工場に立ち寄ることになったのだ。
三吉社長が到着すると、上司は単刀直入にサトシさんが残していった新規事業計画に触れた。
「自動車部品製造に参入するという話は真実なのかい」
「社長、私たちはとにかく何も聞いていません。知らされてもいませんでした。ですがサトシさんは、もう何もかもが始まってるかのようにお話をされた」
「そうか……」
「お言葉ですが、現状のまま事態が変わってしまうとなると、こちらとしても到底受け入れられるものではありません」
俺の上司は忍耐強く誠実な性格の人だった。誰を相手にしても丁寧に言葉を選び、失礼のないように振る舞う。だから三吉社長と直接面談となったその場でも、三吉社長とサトシさんに気を使って意見を伝えていた。相手の怒りを刺激せず、それでもしっかりと要望と厳しい意見を言う。俺はそんな上司を助けるため、三吉社長に呼びかけた。
「社長、私からもよろしいでしょうか? 製造ラインと資材管理を預かる者として、明確なスケジュールと現在の計画の進捗を共有させてもらえませんか」
「ああ、それはそうだな。前向きに考えないとならんな」
「申し訳ありませんが、前向きに考えるのではなくて、すぐにでも計画の全容を明らかにして欲しいんです」
俺が社長にすがるような気持ちで頼めば、上司も同じように頼んで頭を下げた。三吉社長は俺たちを見て軽く数度頷き、首をひねる。
「そうだなあ。まあ、サトの考えはサトシのもので、私は信用して任せているからな」
三吉社長の顔には笑みが浮かんでいた。後々振り返ると、俺と上司の感情と三吉社長の気持ちは完全に正反対のところにあった。俺と上司は工場と現場の危機を想定して真剣に三吉社長と向き合っていたが、三吉社長はそうは思っていない。
「サトは本当にビジネスにたけたような人間だからな。アイデアもあれば、考えるスピードも早いと来ている」
三吉社長は息子のサトシさんを褒めるばかりで、俺と上司の質問に明確な答えを返そうとしなかった。
「私も自動車部品製造の新規計画は聞いているが、それはサトに任せていることだからなあ。恐れ多くて、そうも物を言えないものだ」
社長は笑顔で問題についてさらりと言及し、そしてその問題には自分は深く関わろうとしていないと語尾を笑って濁す。
「でしたら、今後はサトシさんのご意向に沿って動くということでしょうか」
「そうかもしれんな」
「私たちはこれからサトシさんの指示で動けということでよろしいですか? 申し訳ありませんが、そうなると混乱が起きてしまうかと」
これは上司よりも俺が我慢できず、それなりにきつい言葉で三吉社長に詰め寄っていた。上司は耐えていたが、拳を握りしめていたのを見ればストレスを感じていたのだろう。
「ああ、まあそうだね」
俺たちの圧に社長はのんびりと頷いた。そして一言、笑顔で空気を読まない三吉社長なりの焼き直しの言葉を俺たちに投げかけた。
「まあ、うまくやってくれ」
「はい?」
「サトを支えて、会社の発展のために。これもまたチャンスなんだよ」
三吉社長の笑顔がそれまでよりも輝き、上司が呆れ返る。俺も何も言えないだけだったが、冗談はやめて欲しいという気持ちでいっぱいだった。三吉社長は結局、次の予定があるとそそくさと車に乗って去ってしまった。
「俺はとりあえず、機械と人員に余裕を作っておく。あんなこと言われてしまえば、覚悟はしておかないとならないよ」
「だとしたら、私も手伝います。現状の計画を見直していきましょう」
三吉社長の車を見送りながら、俺と上司はやらなければいけないことを思い浮かべる。サトシさんの次回の来訪があってもどうにか立ち打ちする。そう決めて、俺は上司と打ち合わせを繰り返した。忙しいのは分かっている。本当にこんな話をすべきではないというのも承知している。大急ぎで上司と詰めた新計画を通達するその日、上司の顔は強ばっていた。その気持ちを理解しながら、俺も責任者の一人として覚悟を決めた。
「さっきの通達そのままなんだ。今後サトシさんの話が実現してしまった時のために備えないといけないんだ。渡辺、お前の大変さも分かるぞ。けど、本気でやらないといけないのか? っていうか、やるのか?」
「やらないといけないというより、サトシさんの無茶ぶりに答えられないといけないんだよ」
上司からの通達が広まり、自分の部署に戻って同期や後輩たちと向き合う。全員が俺の立場に理解を示しながらも、業務計画の変更にはいい顔をしなかった。やる気が出ないという声も聞いた。現場の士気の低下。仕事場にあってはならないことだ。それが起きている現実を目の当たりにして、俺は大きくため息をついていた。
サトシさんの新規事業計画は、本当にしれっとスタートを切ってしまった。
「これは試作品の図面だ。うちならできる。というわけで、君たちには力を発揮してもらいたい」
契約に向け、大手自動車部品メーカーからテストを借りてきたサトシさん。まずは工場の腕試しとして、基本的な部品の試作を依頼されたという。
「いいか? 君たちの未来を背負っての私の決断だ。感謝して欲しいね」
高飛車に図面を広げて見せたサトシさんは、こちらの苦労など知る由もなく、俺たちにハッパをかけた。納期も考えなければならない上に、通常業務もある。工場は次第に、当たり前だがサトシさんに振り回された。そして、それが会社の業績や数字に直接影響し、製造部門の数字が振るわなくなった。
気まぐれな訪問とは別に、定期的に行われる本社社員との定例会議のために工場に来たサトシさんは、直近のデータを手に工場を批判した。
「ここの稼働力には元々無駄が多いんだ。私はその状態を改善するため、新規事業が必要だと考えた」
サトシさんはこちらが黙っているとすぐに演説を始める。自分が会社のためにいかに神経を使い、身を粉にして働き回っているのか。そんなことを主張する。しかし、サトシさんの主張は見当違いもいいところだった。工場の稼働には無駄はなく、むしろ人員不足の中でどうにかフルに動かしていた。人員補充は本社に対して常に求めていたが、まともに取り合わなかった筆頭格はサトシさんだった。
「いいか、君たちは今この時も会社に甘えているだけなんだ。いくらでも仕事ができるはずなのに、やらなくて構わないというその環境に浸りすぎている」
身振り手振りを交えたサトシさんの話は熱を帯び、どんどん厳しくなる。俺や同僚たちは相変わらず冷めて呆れた感覚でサトシさんを眺めていた。
「君たちは会社のために身を粉にすべきだ。残業だって、残業代を請求してやろうなどという欲を捨て、喜んでサービス残業をすべきだ」
サトシさんは俺たちの働きぶりを認めず、まだまだひたすらに働けと隣り散らした。自分が頑張っているのだから、工場の全員も尽力を尽くせと叫ぶ。俺は上司と同僚たちの顔を見回した。全員、ここのところのスケジュールに振り回され、疲れていた。若手ですら顔色が白く、うつむいて座っている。
「お言葉ですが」
俺は一人、手を上げて立ち上がった。そして、ここまでの思いの丈をサトシさんへ一気に吐き出す。
「サトシさん、ご自身の主張はそのぐらいにしてください。私たちはすでに残業時間の上限を超える勢いで部品製造に取り組んでいますよ」
「そんなこと、仕事なんだ。当たり前だろう」
「そうでしょうか。サトシさん、あなたは現状を無視しているだけじゃありませんか? 工場の人員不足。労働時間の問題は以前からありました。こちらが報告しても聞かないのは、あなたです」
「だからそれはお前が悪いんだろう?」
「いえ、違います。解決すべき課題です。いいですか? いい加減、見当違いな発言はやめていただきたい」
俺の声が辺りに響き、同僚たちの背筋が伸びた。サトシさんはと言うと、俺の大声に面食らったのか、硬直したように立ち尽くしていた。
「さっきの話、今渡辺君が代弁してくれました。もしこの工場の今以上の働きを望むならば、課題と向き合っていただきたい」
「それと向き合い、私は業務を……」
「ですから、それは解決策ではないんです」
上司からも反撃を食らい、サトシさんはしどろもどろで主張を繰り返す。しかし、俺からのダメ押しと周囲からの冷たい視線に、黙り込んだ。サトシさんはそれから何も言わずに踵を返し、どこかに消えて本社に戻っていった。ひとまず一件落着、誰もがそう思っていたが、サトシさんは諦めていなかった。
「あんた、雇われの分際でよくもまあ、俺に立てついたもんだ」
工場から厳しく追い返されたはずのサトシさんは、変わらずに工場に足を運び続けた。そして、俺に粘着質でしつこく嫌味を吐いた。
「自分は雇われてるってことを忘れるな。ここを追い出されたら、あんたが働く場所はないんだぞ」
サトシさんが粘着質な性格だというのは、考えたことがなかった。それだけに、ひたすらサトシさんに嫌味を言われて当て擦られるのは応えた。それでも、サトシさんは次第に俺に雑用をしつけるようになり、俺を完全に敵認定した。
「渡辺、お茶。あとな、駐車場の草むしりと掃除してこいよ。雇ってやってるんだから、貢献してもらわないとね」
俺が自分の仕事をしていても、サトシさんは俺を見つけ出して連れ出す。
「工場にあるゴミ箱、全部空にしておいて」
今やるべきではないことを俺に頼み、本来の業務から遠ざける。俺はとにかく、その状況がたまらないものではなかった。それを見ていた上司も同じ思いで、三吉社長に抗議に出た。
「サトシさんに行動を改めてもらえるように、忠告してもらえませんか? 私からも強くお願いしたい。サトシさんは工場を乱す存在になっています」
三吉社長は困っているそぶりを見せた。だが、俺たちの抗議を本気で受け止めるというわけではなかった。
「ああ、そうだな。なんというか、サトにはサトの主義があるものだ。私は、おいそれとは言えない」
三吉社長に怒るより、呆れ果てるしかない。そんな返事しかもらえない。今になってみれば、俺と上司はここで三吉社長とサトシさんを見限っていたのかもしれない。父親である三吉社長に、息子と向き合う気がないのなら、他人の俺たちができることはない。結局、サトシさんの問題は宙に浮いた。そして、サトシさんは順調に増長していく。しているうちに、ある日ついに大きな衝突が起きた。
「いいか? 雇われている以上、あんたたちは会社の奴隷だ」
製造スケジュールに遅れが生じる事態が発生し、工場は大急ぎで対応に追われていた。そこにサトシさんがやってきて、話を聞いて怒り狂った。
「ありえない、使えない」
と暴言を吐き、最後の最後にとんでもないことを口を滑らせたのだ。
「奴隷だったら、アンタのために必死になれよ。おい、渡辺、お前は奴隷の頭なんだよ。それならそれらしく、誰よりも死ぬ気で働け」
奴隷という単語を、ごく自然に言えるとは。少なくとも自分は学校の勉強の中で触れて、口にしたことがある程度だ。だが、サトシさんは俺や同僚たちと自分を主従関係で捉えているようだ。それが分かり理解した瞬間、俺はもうどうでも良くなって、サトシさんを怒鳴り散らした。
「おい、あんたは言っていいことと悪いことの区別がつかないのか。どこまで我が儘で、人を舐めてるんだ」
俺の怒号に周囲がざわつく。そしてサトシさんも驚き、俺に張り合おうと大声を出す。
「おい、お前、誰に対して口を聞いてるんだ?」
「サトシさん、あんただ。あんたが人を奴隷だなんだって言うからだろ」
「俺は本当のことを言ってるだけだ」
「おい、あんた正気かよ。俺はいつだって正気だ。正しいことしか言わないよ」
「冗談じゃない。“奴隷だって”それが正しいことかよ」
「ああ、正しいね。俺は奴隷としてお前を使ってやってるんだ」
「いいよ。文句あるなら出てけ。首だ」
俺を気に入らない邪魔なやつだと言い捨て、サトシさんは俺に工場を出ていけと迫った。
「そういうことでしたら、今日で失礼させてもらいます」
自分が会社でやれること。それこそ、正気に戻ればいくらでもあると分かっていた。しかし、首と言われて、ここが潮時だと決めた。サトシさん、そして盲目の三吉社長がいる会社に付き合う義理はもうない。
サトシさんとの言い争いは上司が出てきて収まった。それから落ち着いて話し合いをして、俺は正式に解雇を受け入れることにした。
工場での騒動はその日のうちに本社にも伝わったらしい。翌日、俺の電話は朝から鳴りっぱなしだった。本社にいる同期やかつての上司、一部の上層部の人たちからも事情を尋ねられて忙しい。そのうち昼過ぎには、三吉社長からの電話も受けることになった。
「渡辺君、どうかね。考え直してみては。仕事がなくなって、どうするんだね」
社長は相変わらず悠長だった。今何が起きているのか、まともに認識しているとは思えない言いぶりと態度。俺はしばらく黙って話を聞き、自分の意思に変わりはないと告げた。
「何があろうとも、私はもうそちらには戻りません」
「それでいいのかね?」
「いいも何も。自分だったらどうにかなると。見通しが甘いと言われるかもしれませんが、そう思っています」
「そうは言うが、君もいい年だ。その年齢と君の能力を生かせるのは、うちだけだよ。それはどう思うかね?」
「そうでしょうか」
三吉社長の説得に応じるような問いかけに、俺は三吉社長にも危機感があるのだと気がついた。俺の経歴。その中には、会社的に見過ごせないものがある。かつて研究部門に所属していた時代、俺は工業資材に使う新素材の開発に関わったことがあったのだ。チームのリーダーに就任していた俺は研究を引っ張り、自ら成果を出して新素材の開発を成功させた。周りの協力もあり、俺は一躍会社のスターになった。開発した素材は特許も取得し、俺には開発者として一定の権利も与えられた。素材に対して会社にも所有権はある。だが、俺が素材の使用禁止を申し立てれば、俺の権限の方が大きくなる。
「私としては、君には戻ってもらいたいものなんだよ」
「そうなんですか。私としては、拒否をしたいですね」
過去を思い出しながら、三吉社長のどこか幼稚な思惑に苦笑するしかなくなる。俺はしばらく三吉社長と、会社に戻る戻らないの押し問答を繰り返した。
「おい、いつまでごねてるんだ?」
その時、三吉社長の電話の奥からサトシさんの声が割り込んだ。
「また戻してやるって言ってるんだ。お前はありがたいと思わないのか?」
サトシさんの相変わらずの横柄さに、開いた口が塞がらなくなる。
「全くだ。せっかくサト氏も君を許そうというのに」
サトシさんの勢いに背中を押されたのか、三吉社長が態度を変えた。
「一からの恩を忘れたか? この恩知らずが。いいから黙っていればいい。何もなかった顔をして、明日からまた戻ればいいだけだろう」
三吉社長もサトシさんの嫌らしい本性を向き出しにして、喚き散らしていた。俺は電話を耳から離して、向こう側にいる親子の叫びをしばらく聞き流した。
「もうよろしいでしょうか?」
「ああ、なんだ」
「私はもう、あなた方と話をするつもりはありません。それに、私は会社にとっては老骨とも言える年でしょうから、自分から身を引かせていただきますよ」
俺は三吉社長とサトシさんの声を振り切り、電話を切った。そして、俺を心配してくれていた人たちに電話をかけた。それぞれに、なんとなく三吉社長とサトシさんとの間に何があったのかを報告しておく。それで、俺のやるべきことは終了した。
一連の騒動から数ヶ月、会社と工場では起こるべきことが一気に起きて、混乱が生じた。俺の解雇騒動から会社と三吉社長親子への不信が広がり、社員が大量に退職したのだ。工場の方でもサトシさんへの反発が勃発し、多くの公員が辞めていった。社員の離脱。工場は事実上稼働停止となり、会社はあっという間に倒産寸前に追い込まれる状況に。そしてそこに至って、ようやく三吉社長も知らなかったサトシさんの暴走も発覚したようだ。サトシさんは会社の事業拡大を想像以上の規模で考えていたらしく、異業種へ参入するために銀行から多額の融資を受けていたらしい。
「借入れ金だ。多額だとんでもない負債を背負ったようだな」
と、元上司が三吉社長とサトシさんの現在を俺に教えてくれた。親子はどうにか頼み込んで、工場だけを支援してくれる企業を探し出したそうだ。現在はその工場で、親子で平社員として黙々と働くだけの日々らしい。だが、負債をどうにかできる手立てはないようだ。遅かれ早かれ、親子は完全に詰んで破滅すると周囲には見られている。
俺はと言うと、現在は前職の取引先企業の研究所で働いている。前職での特許部品開発の実績と持っていた資格。十分な評価をされ、対価も得て迎え入れてもらった。今の会社には、横柄な人などいない。俺は自分の仕事にやりがいを感じながら、本気で会社のためになれるこの機会を存分に楽しんでいる。



