三十五年前の春、静岡のその家に越してきたのは、娘が三歳になる前のことだった。そんな記憶の糸を手繰りながら、春子は今、この床の間の前で立ち尽くしていた。板の間は拭き掃除で水気を含み、寒い風が障子の隙間から忍び込んでくる。四十年近くをここで過ごした。しかし、そう言葉にしてみても、もうこの家には取り戻せない時間だけが積もっているのだと、春子にはわかっていた。今朝、夫の隆が持ってきた一枚の紙切れが、その何十年かを、あっけなく終わらせてしまったのだ。
「立替えに伴い、退去していただきます」
管理会社の名義が変わり、届いたのは簡潔な通知だけだった。古びた団地の一部を解体し、新しい建物に建て替える。それまでに住まいを明け渡せという。何度も読み返したが、書かれた内容が変わることはなかった。隆は電話で問い合わせを試みたが、窓口に通じるたびに同じ答えが返ってくるばかりだった。「賃貸契約期間の延長はございません。建て替え後の優先入居の制度も、今回は対象外となります」
春子は手袋をはめた手を布団の上に置いたまま、部屋の中を見渡した。一間ほどの茶の間には、夫婦の暮らしの痕跡がいろいろと残っている。長年使った箪笥、隅に畳まれた布団、押し入れの奥には二人のこれまでが詰まった段ボール箱があった。これが全部、もうすぐ違う場所へ行く。いや、行かなくてはならない。
「どうする?」
隆が小さく呟いた。春子は答えず、ただ頷くだけだった。若い頃から、余計な言葉は交わさない夫婦だった。それがよかったのかどうかは、もう考えないことにしている。
それから二人は、新しい住まいを探し始めた。駅から歩いて十分ほどの不動産屋を片っ端から訪ねた。しかし、どの窓口でも同じような顔をされた。年齢を聞かれ、現在の収入を聞かれ、保証人がいるのかと尋ねられる。そのたびに隆は決まって、同じ台詞を繰り返すのだった。「この歳で、まともな収入がなければ、借りられる部屋はないんだ」
どの店でも、出してくる資料はどれも同じようなものだった。やっと条件が合いそうな物件を見つけても、契約の段階で断られる。大家が老人の単身入居を嫌がる例もあったが、夫婦だからといって状況は変わらなかった。十日ほどの間に、二人は十件近い不動産屋を回った。足は棒のようになり、心も擦り切れていくようだった。
そんなある日のことだった。駅前のベンチで春子が一人、行き交う人々を眺めながら呆けていると、見知らぬ若い男が声をかけてきた。
「すみません、こちらで松崎さんではいらっしゃいませんか?」
白いワイシャツに黒いスーツという服装で、手には鞄を提げていた。三十歳前後といった風体だった。名乗ることなく、男はにこやかな笑顔で話を続けた。「私、この辺りで不動産の仕事をしているものです。お二人にしては、何かお困りのようでしたので。よろしければ、ご相談に乗れませんか?」
警戒心が先に立ったが、土地勘のある人間に話を聞いてもらえるのは心強くもあった。春子は男に促されるまま、状況を話した。すると男は「それでしたら、うまい話がありますよ」と、にっこりと笑った。郊外に、空き家になったままの物件がある。家賃も相場よりずっと安くできる。すぐにでも見に行かないか、と。
翌日、二人は男の案内で、郊外の一軒家を訪ねた。古びた木造の平屋で、庭は雑草が伸び放題だった。室内も、何人かの住人が入れ替わり立ち替わり住んでいたのか、傷みが目立つ。それでも、手頃な値段で住める場所を探していた二人にとって、選択肢はほとんどなかった。
「ここでいい」
隆がそう言った時、春子は息を飲んだが、反対はしなかった。新しい家での生活が始まった。荷解きをして、古い家具を配置し直して。それでも落ち着かない。土地勘のない場所で、二人の足取りはどこか心細そうだった。
その生活は、しかし長くは続かなかった。住み始めて半月ほど経ったある日、男が突然、電話をかけてきたのだ。「ちょっと、今日、いいですか? お二人に、大事なお話があって」
男が現れたのは、それから二時間ほど後のことだった。車で来たのか、あるいは徒歩か。玄関に立った男の顔は、以前と変わらずやにこやかだったが、どこか強張っているようにも見えた。座敷に上がることもなく、男は立ったまま、会話を始めた。
「実はですね、この物件のことで、少しご相談がありまして」
男の話は単刀直入なものだった。この家の所有権が、実は自分のものではなく、債権者に移っている。その債権者から、すぐに明け渡すよう求められている。自分にはそれを阻止する力がない。だから、お二人には速やかにお引っ越しいただく必要がある、と。
耳を疑った。言葉を失うとは、まさにこのことだった。春子は夫の横顔を見る。隆もまた、男の言葉を咀嚼しきれずにいるように見えた。
「そんな……そんな急に言われても」
「それはもう、こちらの事情、ご理解いただかないと。裁判沙汰になれば、お二人にもご迷惑がかかりますので」
男の言葉は丁寧だったが、その中に、一切の妥協の余地を感じさせないものがあった。契約書を交わしていない二人に、抗う術はない。隆が何か言いかけ、口を閉じた。春子もまた、ただ項垂れるしかなかった。
結局、二人がその家を出て行くまでに、かかった時間は、わずか三日だった。行く当てもないまま、夫婦は駅前の安いアパートを一室借り、転がり込むようにして暮らし始めた。そこはかつての団地よりも狭く、風呂もトイレも共同だった。同じ年の春、二人はようやく、この街に、足を踏み入れたのだった。
あれから、二十年。春子は今、その日のことを思い出し、冷たい手をすり合わせていた。年を取るとは、こういうことなのかもしれない。住む場所が変わる。家族が変わる。そして、身の回りのものが少しずつ減っていく。それは決して、悪いことばかりではない。けれども、あの日の喪失感だけは、いくつになっても、胸の奥に鋭い刺として残り続けるのだった。



