営業部のオフィスに、ものすごい見幕で社長のひろ子が乗り込んできた。ひろ子は興奮した口調で俺にこう言い放った。
「ちょっと、さっき霞から聞いたわよ。あんた、うちの娘の契約を奪いやがって。アットワンスとの契約の担当者は霞のはずでしょ。部下の手柄を横取りするなんて図々しいわ。あんたは部長失格よ。今すぐ退職しなさい」
突然のことに戸惑いながらも、俺はできる限り冷静に言葉を返した。
「色々と考慮した結果、アットワンスとの取引は私が担当することにしたんです。そのことに関しては彼女も納得してくれました。ですから、私は決して霞さんが担当していた契約を無理やり奪ったわけでも、手柄を横取りしたわけでもありません」
だがひろ子は俺の言葉をまったく聞こうとしなかった。
俺の名前は泉俊。今年で五十歳になるサラリーマンだ。うちの母親は俺が生まれて間もなく病気で亡くなった。だから、例えば洋服のボタンが取れてしまった時に、母親に助けを求めることはできなかった。
代わりに父親がボタンを縫いつけてくれたのかと言えば、そうではない。かなり古いタイプの親父にとって、針と糸を持つことは男の沽券に関わるような行為だったらしい。ジェンダーレスが当たり前の現代では考えられない価値観だが、とにかく親父はそういう人だった。
そんなわけで、頼れる大人は周りに親父しかいなかった。俺は取れたボタンを自分で縫いつけるしかなかったのである。だが、その経験は俺にとってプラスになった。物心ついた頃には、俺はすっかり裁縫が得意になっていた。
正直に言うと、俺は勉強の成績も運動神経も平均以下だった。毎日の学校生活を苦痛に感じたこともある。それでも家庭科の時間だけはヒーローになれたのだ。人間、特技を褒められればさらに上達しようと頑張るものである。今も昔も褒められて伸びるタイプの俺は、周りからの賞賛に気を良くしてどんどん裁縫に熱中していった。
だが当時は、裁縫は女のものだなんて偏見がまだまだあった時代だ。実際のところ、中学生になってから俺は手芸部に所属していたのだが、他の部員は全員女の子だった。同じ趣味を持つ部員のみんなは仲良くしてくれたが、クラスメートの男子からはよく「女々しいやつだなあ」なんてからかわれたものである。
それでも俺は裁縫をやめようとは思わなかった。自分の手で何かを作り出せることは、俺にとって大きな自信になっていたのだ。そんな俺のことを親父は苦笑いしつつも、特に何も言わずに見守ってくれていた。親父が自分の価値観を子供に押し付けようとしなかったことに、俺は今でも感謝している。
やがて俺は大学を卒業し、株式会社例原という会社に就職した。例原は様々なアパレルメーカーの下請けとして衣類の製造を行っている企業である。入社当時から現在に至るまで、俺が在籍しているのは営業部だ。
正直、俺は自分の裁縫に関する知識や技術を生かせる製造系の部署を希望していた。だから配属先が決まった当初は、思わずがっかりしてしまったのを今でも覚えている。だがいつまでも愚痴を言っていたって仕方がない。そう自分を奮い立たせた俺は、営業の仕事を一から勉強しようと心に決めた。
そんなこんなで現在、俺は営業部長を務めている。営業部の未来を背負う部下たちのために、自分にできることを一生懸命やっている毎日だ。
実はこのところ、一つ悩んでいることがある。それはこの春入社して営業部に配属された新入社員、咲山霞のことだ。彼女は例原の現社長、咲山ひろ子の娘である。ひろ子は俺より五歳年上で、俺が入社した頃にはすでに完璧なエリートコースを歩んでいた。だから社内ではかなり有名な存在だった。
俺もひろ子とは何度か顔を合わせた際に言葉を交わしたことがある。だが正直、俺はこの人のことがあまり好きではない。ひろ子は自分が正しいと信じて疑わないタイプなので、いつも他人のことなどお構いなしに振る舞うのだ。
そんな母親に似たのか、娘の霞もまた厄介な性格だったりする。社長令嬢の霞は、うちの部署で働き始めてからというもの、やたらと問題を起こしているのである。どうやら今までわがまま放題で育ってきたらしい。
霞は自分の思い通りに行かないとすぐに癇癪を起こす。相手が先輩だろうが取引先の人間だろうが構わずに八当たりするので、こちらとしてはかなりヒヤヒヤしている。そして一通り当たり散らした後は、最後には決まって泣き出してしまうのだ。始末に困るとはまさにこういう状況のことを言うのだと、俺は彼女が入社してから何度も実感している。
はっきり言って、これでは低学年の小学生がオフィスにいるようなものだ。困惑している営業部の他の社員たちと同様に、俺も部長として彼女をどう扱っていいのか未だによくわかっていない。だからといって、まさか社長令嬢をここから勝手に追い出すようなことなどできるはずもなく、ただただ途方に暮れているような状態なのだ。
先日も霞は、アパレルメーカーのアットワンスの担当者と電話で相談の約束をしている最中に、癇癪を起こしかけたのである。この取引は元々俺が担当する予定だったのだが、そのことを聞きつけた霞が、ある日こんなことを言ってきたのだ。
「私、新作を毎回買ってるくらいアットワンスが好きなんです。担当させてください」
ここでその頼みを断れば、わがままな彼女が泣き出すことは間違いないだろう。そう思った俺は、不安を覚えながらも彼女の要求を飲んだのである。
だが残念ながら、俺のそんな不安は的中してしまったようだ。このまま霞に任せていたらとんでもないことになりかねない。相手を挑発するかのような強い口調で電話する彼女を見てそう判断した俺は、結局自分でアットワンスとの取引を担当することにしたのだ。担当者の交代について話した時、霞は口を尖らせながらも「わかりました」と頷いていた。
ちなみにアットワンスは飛ぶ鳥を落とす勢いの企業である。十代から二十代をターゲットにしたジェンダーレスなファッションは若者たちから絶大な支持を集めている。これまでのファッションとは一線を画すデザインがSNSで話題になったこともあり、今では知らない人はいないほどの有名な会社になった。数年前に誕生したばかりの企業としてはこれ以上ないほどの快進撃を続けているのだ。
俺が担当者になってから、アットワンスとはこれまで何度か相談を重ねてきた。契約が合意に達すれば、うちにとってはおよそ三十億円の利益になる見込みだ。そして今日は、その最終段階と呼ぶにふさわしい日である。これまでの手応えとしてはかなりいい感じなので、きっとうまくいくはずだ。こうしてあえて楽観的に考えることで自分を落ち着かせながら、俺はこの大口契約を結ぶためにアットワンスの本社へと向かったのである。
折衝は思った以上にスムーズに進んでいった。その結果、うちの会社はアットワンスとの契約を無事に結ぶことができたのである。
その吉報を早く営業部のみんなにも伝えたい。そう思った俺は足早に例原の本社へと帰った。オフィスに戻ってすぐに今回の契約が成立したことを報告すると、みんな歓声を上げた。ただ、霞だけは浮かない表情をしている。みんなが俺に祝いの言葉をかけてくれている中、霞はやがて一人でオフィスから出ていった。
それから数分後のことだ。ものすごい見幕で現れたのはひろ子である。突然オフィスにやってきた社長の姿を見て、他の社員たちはざわめいた。そしてひろ子は、随分と興奮した口ぶりで俺にこんなことを言い放ったのである。
「ちょっと、さっき霞から聞いたわよ。あんた、うちの娘の契約を奪いやがって。アットワンスとの契約に関する担当者は霞のはずでしょ。部下の手柄を横取りするなんて図々しいわ。あんたは部長失格。今すぐ退職しなさい」
いきなりそう言われた俺は戸惑ってしまった。こいつが何を言っているのか、いまいち理解できなかったからだ。とりあえず俺は、さっきと同じようにひろ子の言葉を訂正した。
「私は決して霞さんが担当していた契約を奪ったり、手柄を横取りしたわけではありません」
だがひろ子は俺の言葉にまるで聞く耳を持たない。
「あんた、もしかして霞を差別してんの? だったら許せないわ。やっぱりあんたは営業部の部長としてふさわしくないわね」
そう言ってひろ子は俺を睨みつけてきた。当たり前だが、他人の言葉をまともに聞こうとしない相手と話し合うことは不可能である。
「そんなことをおっしゃられても困りますよ」
俺が困惑の表情を浮かべると、ひろ子はさらにヒートアップした。
「何よ、その偉そうな態度は。高が営業部長が、社長であるこの私に逆らっていいと思ってんの?」
「こいつだけでは話にならないな」
そう思った俺は提案した。
「わかりました。では霞さんと三人で話し合いましょう。最も、彼女は先ほどオフィスを出てからまだ戻っていないんですけどね」
するとひろ子は大声をあげた。
「そんなこと、絶対にダメよ!」
さらにひろ子は続けた。
「いい? うちの霞は、大粒の涙を流しながら、アットワンスとの契約をあんたに奪われたことを私に明かしてくれたのよ。霞は今、私の社長室で休んでるわ。そんなうちの娘を、あんたはさらに傷つけるつもりなの?」
霞が泣いているのなんて日常茶飯事ではないか。親子揃って面倒な奴らである。こいつらは何が何でも俺のことを悪者にしたいらしい。俺はこの状況に心の底からうんざりした。ついさっきまで部署のみんなと今回の契約のことで喜び合っていたのに、どうしてこんな不快な思いをさせられなくちゃならないのだろうか。
これ以上ひろ子と話していても何も変わらないと判断した俺は、きっぱりと告げた。
「わかりました。社長がそんなにおっしゃるのであれば、私は本日限りで例原を辞めさせてもらいます」
俺の言葉を聞いた営業部のみんなはどよめいている。一方、ひろ子はといえば、
「ああ、そうしなさいよ、そうしなさい。今後はうちの娘に二度と近づかないでよね。さっさと出ていって」
と、吐き捨てるように言った。俺は自分のデスクに置いてある荷物を手際よくまとめた後、営業部のオフィスから去って行ったのである。
その翌日のことだ。俺は自宅のリビングでぼんやりしていた。平日の日中に自宅にいるなんて、一体いつ以来だろうか。大学を卒業してからはこれまでずっと働き詰めだったこともあり、なんだか自分でもこの状況が不思議で仕方ない。俺は社会人になってからコツコツと貯金してきたので、多少の蓄えはある。だからこんな風にのんびりするのもいいかもしれない。そんなことを思いながら、俺はゆったりと過ごしていた。
その日の夕方近くになって、突然なり響いたのは俺のスマホだ。画面を見ると、見覚えのない番号からの着信だった。最近は何かと物騒な事件も多い。そういうトラブルに巻き込まれないためにも、よくわからない番号からの電話には出ないのが一番である。そう思った俺は電話を無視することにした。
しかし、何度もしつこく同じ番号からかかってくる。そのことを不審に思った俺は、恐る恐る応答ボタンをタップした。すると聞こえてきたのはひろ子の声だ。
「ちょっと、電話ぐらいさっさと出なさいよ、この鈍間が。とにかく今すぐ私の社長室まで来なさい。これは命令だからね。逆らったら許さないんだから」
勢いよくそう言ったひろ子は、俺の返事も聞かずにそのまま一方的に電話を切ってしまった。全く、どこまでも自分勝手な女である。
俺はもう例原の人間ではないので、社長の命令を無視したところで別に痛くも痒くもない。だがどうしてひろ子が俺を呼んでいるのかは気になるところだ。そんなモヤモヤを抱えたままにしておくのは嫌だったので、俺は結局例原の本社へ向かうことにした。
社長室のドアをノックして中に入ると、そこにいたのはひろ子と霞である。俺が要件を尋ねると、ひろ子は苦い顔をしながらこう明かした。
「さっき霞がアットワンスの本社に行ったのよ。今回の契約の担当者として、改めて挨拶するためにね。そしたらアットワンスの広瀬社長から、『俺がいないなら三十億の契約は白紙で』なんて言われたらしいの。これは一体どういうこと?」
その話を聞いた俺は、思わずプッと吹き出してしまった。そんな俺に向かって、ひろ子は苛立ちながら問いかけてくる。
「ちょっと、何を笑ってるのよ。あんた、もしかして何か知ってるの?」
「いや、すみません。ただ、契約を白紙に戻すような思い切った判断を下すなんて、いかにもうちの娘らしいなあと思って」
「うちの娘?」
ひろ子が首をかしげる。俺は平然と答えた。
「ええ、アットワンスの社長は、私の実の娘ですから」
俺がそう言った瞬間、ひろ子は「へっ?」と間抜けな声をあげる。ずっと不機嫌そうにしていた霞も、鳩が豆鉄砲を食らったような表情に一変した。
今言ったように、俺の娘であるモネはアットワンスの社長を務めているのだ。そもそもアットワンスは、モネが数年前に立ち上げた会社である。モネは今年で二十六歳だ。あれだけ有名な会社の社長が二十代というのはなかなか珍しいことだが、彼女は幼い頃から起業したいという夢を持っていた。そのためずっとビジネスを学んできたので、社長としての能力はかなり高いのだ。ちなみに俺とモネの苗字が違うのは、数年前に結婚した彼女が夫の姓を名乗っているからである。
俺の話を聞いたひろ子と霞は、ただただ呆然とすることしかできない様子だ。俺は「ところで、話はそれだけですか? でしたら私はもう失礼します」と、社長室から出て行こうとした。こんな理不尽な相手とこれ以上過ごすくらいなら、さっさと家に戻ってゆっくりしていたいのだ。
ドアへと向かっていく俺の腕を掴んで引き止めたのは、ひろ子である。ひろ子はこれまでとは打って変わって、非常にぎこちない笑顔を俺に向けてきた。
「なんて嫌な表情だろう。こいつの顔を見ていたら目が腐ってしまいそうだ」
そんなことを思っている俺に、ひろ子はニヤニヤしながら言った。
「アットワンスの広瀬社長があんたの娘だなんて初耳だわ。そうと分かっていれば、私だってあんたを大事にしてやったのに。そういうことはもっと早く言ってよ」
それからひろ子は続けた。
「とりあえず、今から霞とアットワンスの本社に行ってちょうだい。うちとしては三十億もの大口契約をミスミス逃すわけにはいかないからね。頼んだわよ、泉」
そう言って、ひろ子は俺の肩をポンと叩いたのである。その軽々しい態度に、俺はとても腹が立った。昨日あれだけ俺を罵倒して退職に追い込んでおいて、今度は都合よく頼ってくるとは。
俺は自分の中に湧き上がる怒りをコントロールしながら、なるべく冷静さを失わないように務めた。小さな子供じゃあるまいし、感情の赴くままに行動することは避けたかったのだ。
俺は落ち着いた口調でひろ子に言った。
「何をおっしゃってるんですか。私はもう例原の人間ではありません。昨日、あなたが退職を迫ったじゃありませんか。そういうわけで、私には何も関係ないことですので」
そんな俺の言葉を聞いたひろ子は、慌てて取り繕った。
「いやいや、昨日のあれはちょっとした冗談だってば。本気にしないでよ」
俺はそれでも毅然とした態度を貫いた。すると、ひろ子の苛立ちは次第にヒートアップしていったらしい。やがて不機嫌そうな顔になったひろ子は、怒鳴った。
「あんた、ふざけないで! こっちが丁重にお願いしてやってるってのに、何考えてるの? 私は社長よ! 少しは身の程を弁えなさい!」
こいつがいつどこで『丁重にお願い』したというのだろうか。誰か分かる人がいるならば教えて欲しいものである。
「どうして私の命令が聞けないの!」
ひろ子が声を荒げる。そんなに大声をあげなくても聞こえるというのに、随分と騒がしいやつだ。俺はもうこいつに対して言葉を発することすら嫌になってきた。どこまでも身勝手なこの暴君には、何を言ったところでどうせ無駄なのである。
怒鳴り続ける母親の姿を見て、霞はいつも以上に情緒が不安定になったようだ。彼女はワンワンと赤ちゃんのように大泣きし始めた。その鳴き声を聞いて、ひろ子は「うるさい!」とさらに怒鳴り声をあげる。やがてひろ子と霞は言い合いを始めた。
この光景はもはや地獄絵だ。俺は自分の貴重な時間を無駄にしてしまったことを悔みつつ、親子喧嘩をしている二人をよそに、社長室から出ていったのである。
その後、結局例原はアットワンスと契約を結ぶことができなかった。大口契約を逃してしまったひろ子は、そのストレスもあってこれまで以上に傲慢になっていったらしい。こんな社長に愛想を尽かした社員たちは次々と退職していった。あっという間に例原は、仕事が回らないほどの人材不足に陥ったそうだ。当然、業績も次第に悪化していった。そして他の役員たちからひろ子はその責任を追求され、とうとう辞職に追い込まれたらしい。
ひろ子が会社を去ると同時に、霞も仕事をやめた。無職になったひろ子は酒に溺れるようになったという。そしてある日、泥酔して車道をフラフラと歩いていたひろ子は車に引かれた。その怪我の後遺症で、今では歩くことさえ困難になっているらしい。
一方、俺はといえば、貯金があるおかげで次の就職先を探すことなく自由気ままに暮らしていた。そんな生活の中で俺が熱中していたのは、もちろん裁縫である。モネの勧めもあって、俺は作品の制作過程を記録したムービーを動画サイトに投稿してみた。するとこれがなんと大バズり。どうやらこんなおっさんがコツコツと手芸に勤しんでいる姿が受けたらしい。今ではチャンネルの登録者数も百万人を超え、ちょっとした有名人である。
動画を見た人たちからは、作品を売ってほしいという要望が相次いだ。そんな声に応えるために、先日から俺はモネに手伝ってもらいながら作品を販売することにしたのである。おかげ様で、作品は全て販売開始から数分で売り切れた。
俺はこれからも大好きな裁縫を続けながら、豊かな人生を送っていきたいと思う。



