「そんなお金、要求するなよ」。息子のその一言が、私の心臓を踏みつぶした。67歳、36年間毎朝4時に起きて田を耕し、泥だらけで稼いだ500万円で息子を大学に行かせた。なのに今、私の治療費3万円すら「要求」だと?嫁は「年金があるでしょう」と冷たく言い放ち、月12万円の年金から8万円も取られ、残り4万円で薬代も交通費も削っている私に、孫の習い事には月3万5000円を即決する。誤って付けたYシャツの…

「そんなお金、要求するなよ」。息子のその一言が、私の心臓を踏みつぶした。67歳、36年間毎朝4時に起きて田を耕し、泥だらけで稼いだ500万円で息子を大学に行かせた。なのに今、私の治療費3万円すら「要求」だと?嫁は「年金があるでしょう」と冷たく言い放ち、月12万円の年金から8万円も取られ、残り4万円で薬代も交通費も削っている私に、孫の習い事には月3万5000円を即決する。誤って付けたYシャツの...

「そんなお金、要求するなよ」

息子の竜二から放たれたその言葉に、私は胸を締めつけられた。心臓を足で踏みつけられたような息苦しさを感じながら、震える手で診断書を封筒にしまった。

日山さえ子、67歳。36年間、毎朝4時に起きて田を耕してきた。泥だらけになりながら野菜を育て、その収入で息子の大学費用500万円を捻出した。なのに、今この息子から治療費3万円すら拒否されている。

「要求って……私はただ、病院の説明を」

か細い声でそう言いかけた私を、嫁のマリエが遮った。

「お母さんの年金があるでしょう。そこから出せばいいじゃないですか」

冷たい視線が私に突き刺さる。年金月12万円から家賃5万円と食費3万円を徴収されている現実を、彼女は知っているはずなのに。

診察室で医師から告げられた「継続的な治療が必要です」という言葉が頭の中で響いた。私は言葉を失い、ただ二人の顔を見つめることしかできなかった。

この家で、私は一体何者なのだろう。そんな疑問が静かに心を蝕み始めていた。

私は黙って席を立ち、自分の部屋へ向かった。足取りは重く、廊下を歩く音だけが静かに響いていた。

部屋の片隅に置かれた古いアルバムを手に取る。そこには若かりし頃の私が映っていた。朝露に濡れた畑で泥だらけの手袋をはめて微笑む姿。36年間、雨の日も風の日も休まず働いた。トマトの収穫時期には腰が砕けそうになりながら、キャベツの出荷にはこぼれる手で箱詰めを続けた。全ては家族のためだった。

竜二が大学に行きたいと言えば、どんなに収穫が少ない年でも学費を捻出した。「お母さん、ありがとう」と言ってくれた息子の笑顔が私の支えだった。結婚して子供が生まれた時も、マイホームの頭金300万円を黙って渡した。孫の顔を見られる幸せの方が、お金よりもずっと価値があると思っていたから。

でも今、私は月12万円の年金から8万円も取られている。残りの4万円で薬代も日用品も全て賄わなければならない。病院への交通費すら削っている現実を、息子は知っているのだろうか。

窓の外を見ると、かつて私が耕していた畑の跡地にマンションが立っていた。あの土地を売ったお金も、全て息子の将来のために使った。今思えば、私は何も残していなかったのかもしれない。自分のためには、何ひとつ。

翌朝、私はいつものように朝4時に起きて台所に立った。膝の痛みをこらえながら、息子夫婦と孫のために朝食を準備する。

「おはようございます」

マリエが髪を整えながらリビングに入ってきた。挨拶を返すと、彼女は眉をひそめた。

「お母さん、また大根の味噌汁ですか。うちの実家では必ず豆腐と赤だしなんですけど」

「すみません。明日から気をつけます」

「それと、お母さんの年金まだでしょう。早く振り込んでくださいね。年金日まであと1週間もあるけど」

何も言えなかった。

朝食の席で、竜二が新聞を読みながら言った。

「来月からマミの習い事増やすから、会費は月いくらかかる?」

「ピアノが2万、会費は1万5000円。でも子供の将来のためだから」

マリエがそう答えた。月3万5000円。私の治療費より高い。孫のためなら即決。私の治療費は「要求」扱い。胸が締めつけられた。

数日後、洗濯でミスをした。竜二のYシャツに小さなシミが残っていた。

「お母さん、大事な会議だったのに」

怒声が響く。

「ごめんなさい。老眼で……」

「もしかして認知症じゃない?最近、忘れ物も多いし」

マリエの言葉が胸に刺さった。認知症。私はただ疲れているだけなのに。

ある午後、マリエの実家の母親が訪ねてきた。

「お母様、今日はイタリアンでランチしましょう」

マリエの声は別人のように優しかった。実母には高級レストラン、私には治療費も渋る。

「お母さん、今日の夕食は私たちの分だけでいいです」

結局、私は1人分の質素な食事を作り、1人で食べた。

夜、竜二夫婦の会話が聞こえてきた。

「お母さんの部屋、もう少し小さくてもいいんじゃない?マミの勉強部屋にしたいんだけど」

「正直、負担だよね」

負担。36年間働いて育てた息子に「負担」と言われた。涙が静かに頬を伝った。

翌日、買い物から帰るとリビングでマリエが友人と電話していた。

「うちの姑?ああ、同居してるけど大変よ。何もできないくせに場所だけ取ってさ」

私は凍りついた。

「実家の母とは全然違うわ。あっちはまだ若いし、お金も持ってるし」

その夜、夕食の席で孫のマミが言った。

「おばあちゃんの作るご飯、まずい」

「マミ!」

一瞬竜二が注意しようとしたが、マリエが遮った。

「子供は正直なのよ。確かに味付け濃いかもね」

私は箸を置いた。食欲など、遠に消えていた。

日曜日、久しぶりに家族で外食することになった。私も誘われたが、店に入ってメニューを見て青ざめた。一番安いランチでも2000円以上。

「私は水だけでいいわ」

「え、せっかく来たのに」

竜二が不機嫌そうに言う。お腹の調子が悪いと嘘をついた。本当はお金がなかった。

マリエが小声で竜二にささやいた。

「だから言ったでしょ。連れてこない方が良かったって」

帰り道、膝の痛みが限界に達していた。

「ちょっと休ませて」

「え、まだ家まで10分もあるのに。年寄りは体力ないから困るわね」

その言葉を聞いた瞬間、心の中で何かが音を立てて壊れた。

そして決定的な出来事が起きた。マリエの実母が泊まりに来た日のことだった。

朝食を作っていると、マリエが言った。

「今日は母のために特別メニューでお願いします。あ、お母さんの分は簡単なものでいいですよ。どうせ病院行くんでしょう」

病院に行けるはずもない。お金がないのだから。

「あら、病院?」

マリエの母親が口を挟んだ。

「ちょっとした通院でうちの母は本当に大変で、毎日病院って」

マリエが大げさにため息をついた。

「でもお母様は違いますよね。まだまだお若いし、自立されてて」

その時、竜二も加わった。

「そうそう。お母さんはいつもお元気で、うちの母とは大違いです」

二人の義母への扱いの差は、もはや隠そうともしていなかった。私は震える手で茶碗を置いた。もう限界だった。

マリエの母親の滞在は3日間続いた。その間、私はまるで透明人間のように扱われた。

朝食の準備をしていると、マリエが母親を連れてキッチンに入ってきた。

「お母様、今日は何がお召し上がりになりたいですか?」

「そうね。フレンチトーストなんてどうかしら?」

「素敵!作りますね。お母さん、ちょっと場所開けてもらえます?」

私は黙って隅に寄った。自分が作りかけていた味噌汁はそのまま放置された。

リビングでは竜二が義母に新しく買ったマッサージチェアを勧めていた。

「これ最新式なんです。お母さんの腰痛にもきっと効きますよ」

「まあ、竜二さんたら。でも高かったでしょう」

「お母さんの健康には変えられませんから」

私は廊下でその会話を聞いていた。私の膝の痛みには3万円も出せないのに。義母のマッサージチェアには惜しみなくお金を使う。

昼食の時、マリエの母親が言った。

「マリエは本当に料理上手ね。誰に似たのかしら」

「お母様に決まってるじゃないですか」

二人は楽しそうに笑い合った。私が36年間、畑仕事の合間に作り続けた食事のことなど、もう誰も覚えていないのだろう。

「あ、お母さん」

マリエが思い出したように言った。

「申し訳ないんですけど、お昼は自分で何か作って食べてもらえます?私たち、これから母とランチに行くので。マミも連れていくの」

「もちろん、おばあちゃまとの時間は貴重ですから」

私には「おばあちゃん」、義母には「おばあちゃま」。その違いが胸に深く突き刺さった。

三人が出かけた後、私は一人で台所に立った。冷蔵庫を開けると、昨日の残り物しかなかった。それを温めて食べながらふと気づいた。私の食事は、いつも残り物になっていた。

午後、三人が帰ってきた。マミが嬉しそうに紙袋を抱えている。

「見て、おばあちゃまが買ってくれたの」

高そうなブランドの子供服だった。

「マミちゃんにはやっぱりいいものを着せないとね」

マリエの母親がそう言うと、マリエも同調した。

「そうですよね。安物ばかり着せてたら将来のセンスに関わりますから」

私はマミの古くなった服を繕おうとしていた手を止めた。あれも安物だったのだろうか。

夕方、竜二が仕事から帰ってきた。

「お母さん、元気そうですね」

義母への挨拶は丁寧だった。私には目も合わせなかったのに。

「今夜は特別ディナーにしましょう」

マリエが提案した。

「お寿司でいい?」

「いいわね。久しぶりに豪華に行きましょう」

私はそっと自分の部屋に戻ろうとした。すると竜二が言った。

「母さんも一緒に食べる?」

一瞬、期待した。でもマリエがすぐに口を挟んだ。

「お母さん、生ものに負担かかるんじゃない?年齢的にも」

「そうだな。母さんは別のものを用意しよう」

私だけ、昨日の残りのご飯で済ませることになった。リビングから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。私は自室で冷めた味噌汁をすすっていた。

翌日、マリエの母親が帰る日。玄関で見送りの準備をしていると、義母が私に気づいた。

「あら、お母さん。お世話になりました」

社交辞令だと分かっていても、久しぶりに人として扱われた気がした。

「いいえ、こちらこそ」

するとマリエの母親が、マリエに小声で言った。

「大変ね、同居って。うちは絶対無理だわ」

「ええ、本当に大変です」

マリエも小声で答えた。でも、私には聞こえていた。

見送りが終わると、竜二とマリエはリビングでくつろいでいた。

「お母さんは本当に素敵な人だね。品があって、気遣いもできて」

二人の会話を聞きながら、私は夕食の準備を始めた。その時、マミが私のところにやってきた。

「ねえ、おばあちゃん。どうしておばあちゃまみたいに素敵じゃないの?」

子供の無邪気な質問が、私の心を深くえぐった。

「おばあちゃまはお金持ちだし、綺麗だし、いい匂いがする。おばあちゃんは……」

「マミ!」

竜二が慌てて止めた。でも、もう遅かった。

私は包丁を置いて、マミの頭を優しく撫でた。

「おばあちゃんはね、畑で働いていたから、土の匂いがするの」

「土の匂いは嫌い」

マミはそう言って、リビングに走っていった。

夜、布団に入ってからマリエの声が聞こえてきた。

「来月また母が来るって」

「いいよ。お母さんも喜ぶだろう」

「ただ、部屋の問題があるのよね。母だから和室より洋室の方がいいって言ってて」

私の部屋は洋室だった。まさか、部屋を交換しろということだろうか。

「お母さんには和室に移ってもらう?」

「でもあの和室、冬は寒いし」

「じゃあ、どうする?」

沈黙が流れた。そして竜二が言った。

「実家に帰ってもらうとか」

私の実家はもうない。田んぼも家も全て売って、竜二の学費にした。帰れる場所などないことを、息子は忘れてしまったのだろうか。

その瞬間、私の中で何かが変わった。もう我慢する必要はない。

私は静かに起き上がり、月明かりの中で決意した。明日、私は行動を起こす。それは息子夫婦が予想もしない行動になるだろう。

私は静かに微笑んだ。

深夜2時。家中が静まった頃、私は静かに部屋を出た。足音を立てないよう慎重に階段を降りる。膝の痛みをこらえながらリビングへ向かった。

パソコンの前に座り、電源を入れる。画面の光が暗闇に浮かび上がった。私はメモ帳を取り出し、以前調べておいた市役所のホームページを開いた。

「世帯分離届」

その文字が画面に表示された。私はメガネをかけ直し、必要書類の一覧を確認した。本人確認書類、印鑑……配偶者の同意書。いや、待って。よく読むと、同居していても世帯が別であれば、本人の印鑑だけで手続きができるとある。私の年金は確かに徴収されているが、名目上は生活費として私が渡している形になっている。つまり、法的には世帯は別だ。

手が震えた。でも、それは恐怖からではない。希望からだった。

必要な書類をメモし、私は次のページを開いた。「高齢者の経済的虐待について」。そこには、私が受けているような扱いがまさに経済的虐待にあたることが書かれてあった。年金の搾取、必要な医療を受けさせない、生活費の制限。全て当てはまる。相談窓口の電話番号も記載されていた。私もそれをメモした。

次に調べたのは生活保護についてだった。世帯分離をすれば、私一人の収入で判断される。年金月12万円では、医療費補助を受けられる可能性がある。

パソコンを閉じ、私は自室に戻った。クローゼットの奥から古い封筒を取り出す。そこには私がコツコツ貯めた現金が入っていた。3万円。これは、もしもの時のためにと年金から少しずつ抜き取っていたものだ。月1000円、時には500円。3年かけて貯めた虎の子だった。このお金があれば、世帯分離後の最初の1ヶ月はなんとかなる。部屋を借りる資金にはならないが、とりあえず手続きと当面の生活はできる。

翌朝、私はいつもより早く起きた。朝食の準備を済ませ、誰も起きてこないうちに外出の支度をした。

「どこ行くの?」

階段の上からマリエの声がした。

「ちょっと散歩に。朝ご飯は全部用意してあります」

マリエは不満な顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。

市役所は朝に開く。私は始発のバスに乗り、一番乗りで窓口に向かった。

「世帯分離の手続きをしたいのですが」

若い女性職員が丁寧に説明してくれた。

「ご家族とはお話し合いされましたか?」

「いえ。でも、世帯は別なので」

職員は私の様子を見て、何か察したようだった。

「わかりました。では、こちらの書類にご記入ください。あの、もし何かお困りのことがあれば」

彼女は一枚のパンフレットを差し出した。「高齢者支援センター」と書かれていた。

「ありがとうございます」

書類を記入しながら、手が震えた。これで後戻りはできない。でも、不思議と恐怖はなかった。

手続きが終わると、私は高齢者支援センターへ向かった。ここなら、誰かに相談できるかもしれない。センターは市役所の隣にあった。入り口で躊躇していると、年配の女性相談員が声をかけてくれた。

「どうされましたか?」

私は涙が出そうになった。久しぶりに、優しい言葉をかけられた気がした。

相談室で、私は全てを話した。息子夫婦との同居、年金の搾取、治療費の拒否、そして今日行った世帯分離のこと。相談員の山田さんは、じっくりと話を聞いてくれた。

「日山さん、よく決断されましたね」

「でも、これからどうすれば?」

「まず医療費の助成申請をしましょう。世帯分離すれば、あなたの収入だけで判断されます。それから、住まいの相談も」

山田さんは様々な支援制度を説明してくれた。市営住宅の優先入居、医療費補助、状況によっては生活保護の一部受給も可能だと。

それから山田さんは声を落とした。

「もし息子さんたちが無理に連れ戻そうとしたり、脅したりしたら、すぐに連絡してください。これはあなたの権利なんですから」

私は深く頷いた。

センターを出ると、もう昼過ぎだった。家に帰らなければならない。でも、今朝とは違う気持ちだった。私は一人じゃない。助けてくれる人がいる。制度がある。

携帯が鳴った。竜二からだった。

「母さん、どこにいるの?」

「もう帰るところよ」

「マリエが、昼ご飯の準備してないって怒ってるよ」

「ごめんなさい」

私は電話を切った。もう少しだけ。もう少しだけ我慢すれば、全てが変わる。

帰宅すると、玄関でマリエが不機嫌な顔で待っていた。

「お母さん、無責任じゃないですか?」

「申し訳ありません」

私は頭を下げながら、心の中で数えた。世帯分離の効力が発生するまで、あと数日。それまでの辛抱だ。

夕食の準備をしながら、私は静かに微笑んだ。明日、年金が振り込まれる。でも今月は全額を渡すつもりはない。なぜなら、私はもうこの家の世帯員ではないのだから。

世帯分離の手続きから3日後の朝、私は再び市役所へ向かった。正式に受理されたことを確認し、新しい保険証を受け取る。これで私は、法的に独立した世帯主となった。

帰宅すると、竜二とマリエがリビングでくつろいでいた。私は深呼吸をして、二人の前に立った。

「お話があります」

「何?」

竜二は面倒臭そうに顔を上げた。

「私、世帯分離の手続きをしました。もうこの家の世帯員ではありません」

一瞬、静寂が流れた。マリエが最初に反応した。

「は?何それ?」

「つまり、私はもう扶養家族ではないということです。独立した世帯主です」

竜二の顔色が変わった。

「母さん、何を馬鹿なことを……」

「治療費3万円も出せない家族と、世帯を共にする必要はないでしょう」

その時、玄関のチャイムが鳴った。マミが学校から帰ってきたのだ。

「ただいまー。あれ?おばあちゃん」

マミがリビングを覗き込んだ。私はいつものように「お帰り」と言おうとしたが、マリエが遮った。

「マミ、おばあちゃんは別の家族になったんですって」

「え?どういうこと?」

マミが不安そうな顔で私を見た。

「おばあちゃん、どこか行っちゃうの?」

私はマミの頭を優しく撫でた。

「おばあちゃんはね、法律上、別の世帯になっただけよ」

「でも、でも、もう一緒に住めないかもしれない」

マリエが冷たく言い放った。竜二も同調した。

「そうだな。別世帯なら、別に住むのが普通だ」

マミの目に涙が溜まった。

「やだ!おばあちゃんがいなくなったら、誰が私のお弁当作るの?宿題見てくれるの?」

その言葉に、竜二とマリエは顔を見合わせた。そう、私がいなくなれば、今まで私がやっていた全ての家事を、誰かがやらなければならない。

「大丈夫よ、マミ。パパとママがやってくれるわ」

私はそう言いながら、自室へ向かった。

その夜、竜二が私の部屋のドアをノックした。

「母さん、ちょっと話がある」

「どうぞ」

竜二は部屋に入ると、困ったような顔をした。

「世帯分離って、どういうことなんだ?」

「文字通りよ。私は独立した世帯主。あなたたちとは別の家計。でも税金とか、そういうのは……」

竜二はやっと気づいたのだ。私を扶養から外せば、扶養控除がなくなる。高齢者を扶養している場合の様々な税制優遇も受けられなくなる。年間でいくらぐらい増税になるか、計算した。

竜二の顔が青ざめた。

「それに、私の医療費。今までは家族で合算して控除を受けていたでしょう?それもできなくなるわね」

翌日は年金振込日だった。いつものようにマリエが玄関先に来た。

「お母さん、年金」

「ああ、そうね」

私は財布から2万円だけ取り出した。

「これ、今月の家賃」

「は?いつもは8万円でしょう」

「私、もう別世帯ですから。普通に部屋を借りるだけの関係です。この部屋の相場を調べたら、2万円でした」

マリエの顔が真っ赤になった。

「ふざけないで!食費は?光熱費は?」

「別世帯ですから、それぞれ自分で払います。私の分の食事は自分で用意しますし、電気代だけ払います」

マリエは竜二を呼んだ。二人で何やら相談している。そして竜二が戻ってきた。

「母さん、そんなことしたら、もうここには住めないよ」

「構いません。高齢者支援センターで市営住宅を紹介してもらいました。来月から入居できます」

これは本当だった。山田さんが手配してくれて、優先的に入居できることになっていた。

竜二の顔が歪んだ。

「でも、マミは……」

「ああ、そうね。おばあちゃんがいなくなったら、寂しがるでしょうね」

その時、マミが学校から帰ってきた。

「ただいまー。おばあちゃん!」

マミはまっすぐ私のところに来た。

「今日ね、スコーン作ってもらったの。おばあちゃんが教えてくれた通りに作ったら、先生が褒めてくれた」

「まあ、良かったわね」

「おばあちゃん、明日も一緒に宿題やってくれる?」

マリエが口を挟んだ。

「マミ、おばあちゃんは来月から別の家に住むのよ」

マミの顔が曇った。そして、突然泣き出した。

「やだ!おばあちゃんがいなきゃ、やだ!」

「マミ、わがまま言わないの!」

「違う!おばあちゃんがいないと、お弁当も作ってもらえないし、宿題も見てもらえない。ママはいつも忙しいって言うし、パパは仕事で遅いし」

マミの言葉は、まさに核心をついていた。

その夜、竜二夫婦は慌てていた。税理士に電話をかけ、扶養控除がなくなった場合の増税額を計算してもらったのだ。年間で50万以上、税金が増える。竜二の声が震えていた。

「それに、母さんがいなくなったら、家事は?家政婦を雇う?月に10万はかかるよ」

二人の会話を聞きながら、私は布団を敷いていた。

数日後、竜二とマリエが揃って私の部屋に来た。

「お母さん」

マリエが珍しく下手に出た。

「考え直してもらえませんか?」

「何を?」

「世帯分離のことです」

「もう手続きは終わりました」

「でも、取り消しもできるでしょう」

竜二が必死の顔で言った。

「母さん、悪かった。治療費、ちゃんと出すから。月3万円、いや、必要なだけ」

私は首を横に振った。

「もう遅いです。あの時、『そんなお金要求するな』と言ったのは、誰でしたか?」

二人は言葉を失った。

「お母さん、お願いします」

マリエが頭を下げた。生まれて初めて見る光景だった。

「マミのことも、心配しています。でも、『年寄りのくせに』『負担』『認知症』。そんな言葉を投げつけられる家に、私の居場所はありません」

翌週、私は荷物をまとめて家を出た。マミが泣きながら私にしがみついた。

「おばあちゃん、行かないで」

「マミ。おばあちゃんはすぐ近くにいるから。会いたい時は、いつでも来ていいわ」

私はマミを抱きしめた。そして竜二とマリエを見た。二人の顔は青ざめ、疲れきっていた。きっとこれから始まる生活の大変さを想像しているのだろう。

私は静かに微笑んで、新しい生活へと歩き出した。

市営住宅の朝は、鳥のさえずりで始まった。ワンルーム系の小さな部屋だが、全てが私の空間だった。カーテンを開けると、優しい朝日が差し込んでくる。キッチンで湯を沸かし、ゆっくりとお茶を入れる。誰にせかされることもない。自分のペースで、自分の好きなものを作れる幸せ。

朝食は久しぶりに作った卵焼きと、新鮮な野菜のお味噌汁。膝の調子に合わせて、ゆっくりと味わった。

午前中、病院へ向かった。世帯分離で医療費助成の申請が通り、自己負担は大幅に減った。

「日山さん、膝の状態、良くなってきましたね」

医師が笑顔で言った。

「ちゃんと治療を続けてくださったおかげです」

「これからも、無理せず続けてくださいね」

診察を終え、処方された薬を受け取る。治療費は助成のおかげで1000円程度。あの時の3万円が嘘のようだった。

帰り道、商店街を通ると、野菜屋のおばさんが声をかけてくれる。

「日山さん、今日は大根が安いよ」

「じゃあ、一本もらうわ」

こんな何気ない会話が、心を温めてくれる。

アパートに戻ると、郵便受けに封筒が入っていた。差し出し人は竜二。恐る恐る開けてみると、そこには走り書きのような文字が並んでいた。

「母さん、本当にごめん。月10万円払うから、戻ってきてください」

私は苦笑した。お金の問題じゃない。私が求めていたのは、人としての尊厳だった。手紙をテーブルに置き、返事を書き始めた。

「竜二へ。手紙ありがとう。でも私はもう戻りません。お金の問題ではないのです。あなたたちには、もう一度家族とは何かを考えてほしい。マミのためにも」

午後、高齢者支援センターの山田さんから電話があった。

「日山さん、来週から始まる料理教室、参加されませんか?」

「料理教室?」

「ええ、一人暮らしの高齢者の方々が集まって、一緒に料理を作るんです。楽しいですよ」

私は迷わず参加を決めた。新しい出会いが待っているかもしれない。

夕方、インターホンが鳴った。ドアを開けると、そこにはマミが立っていた。

「おばあちゃん」

「まあ、マミ。一人で来たの?」

「うん。ママが下にいる。でも、上がってこないって」

私はマミを部屋に入れ、温かいココアを作ってあげた。

「おばあちゃんの新しいお家、小さいね」

「でも、とても居心地がいいのよ」

「おばあちゃん、寂しくない?」

「全然。それより、マミは大丈夫?」

マミの表情が曇った。

「ママ、最近いつもイライラしてる。お弁当も、コンビニのおにぎりになっちゃった」

私の心が痛んだ。でも、これも竜二とマリエが選んだ道だ。

「マミ。おばあちゃんはいつでもここにいるから。会いたくなったら、いつでも来ていいのよ」

「本当?」

「もちろん」

マミが帰った後、私は夕食の準備を始めた。今日は大根と鶏肉の煮物。自分一人分だけれど、丁寧に作る。

食事をしながらテレビのニュースを見ていると、高齢者の経済的虐待についての特集をやっていた。まさに私が経験したようなケースだった。

「自分の権利を主張することは、決して悪いことではありません」

コメンテーターの言葉に、深く頷いた。

翌週、料理教室に参加した。同じような境遇の人たちと出会い、話に花が咲いた。

「私も息子夫婦と同居してたけど、出てきちゃった」

「あら、私もよ。でも今の方が幸せよね」

みんなで笑い合った。孤独じゃない。仲間がいる。

ある日、竜二から再び手紙が来た。今度はもっと長い内容だった。

「母さん。この1ヶ月で、母さんがどれだけ大変だったか分かりました。朝5時に起きて、夜遅くまで家事をして。僕たちはそれを当たり前だと思っていました。本当にごめんなさい」

さらにマリエからの手紙も同封されていた。

「お母さん。私の態度、本当に申し訳ありませんでした。今、自分で全ての家事をやってみて、お母さんの苦労が分かりました。でも、もう遅いですよね」

二人の手紙を読んで、複雑な気持ちになった。でも、私の決意は変わらない。

週末、マミがまた尋ねてきた。今度は手作りのクッキーを持って。

「おばあちゃん、これ作ったの。ママに教えてもらった」

「まあ、上手にできてるわね」

「ママ、最近料理の勉強してるの。おばあちゃんみたいに上手になりたいって」

少しずつ、竜二とマリエも変わってきているのかもしれない。でも、それでも私は戻らない。なぜなら、今の生活が本当に幸せだから。

朝は好きな時間に起き、好きなものを食べる。病院にも自由に行ける。新しい友人もできた。何より、誰からも「負担」と言われない。

ある日、料理教室で知り合った佐藤さんから電話があった。

「日山さん、明日お茶でもしない?」

「ええ、喜んで」

翌日、喫茶店で佐藤さんと会った。彼女も似たような経験をしていた。

「でもね、自分で決めて出てきて、本当に良かった」

「そうですね」

「人生、まだまだこれからよ」

二人で笑い合った。67歳。まだまだ人生は続く。

そして今日、私は市の広報誌を見ていた。「子育て支援ボランティア募集」の文字が目に入る。地域の子供たちに昔の遊びや料理を教えるボランティア。これなら、私の経験が生かせる。早速申し込むことにした。新しい挑戦が、また私を待っている。

振り返れば、あの日「そんなお金要求するな」と言われた時、本当に辛かった。でも、その言葉があったからこそ、私は立ち上がることができた。分離という選択は簡単ではなかった。でも、その一歩を踏み出したことで、私は自分の人生を取り戻した。

医療費の心配もなくなり、好きなように生活できる。マミとも良い関係を保てている。そして何より、自分の尊厳を守ることができた。

高齢者だって、一人の人間。大切にされる権利がある。我慢し続ける必要はない。自分の人生は、自分で決めていい。

今、私は心から言える。私は幸せだと。

小さな市営住宅の窓から、夕日が差し込んでいる。オレンジ色の光が部屋を優しく包んでいく。明日もきっと、いい日になる。そんな希望を持って、私は今日も生きている。

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