あの日、義母が私の手を掴んで地面に押し付けた瞬間、指先に伝わる生温かい感触と鼻を刺す悪臭で、私の頭は真っ白になった。夕方の住宅街に、義母の甲高い声が響き渡る。「聞こえなかったのかしら?汚い犬の糞なんだから、汚いあんたの手で直接掴んで片付けるのがお似合いでしょう。」私は安藤ゆい、町会議員の妻で、義母から四年間も嫁いびりを受けてきた。誰にも言えず耐え続けた日々。でもその時、私の中で何かが音を立て…

あの日、義母が私の手を掴んで地面に押し付けた瞬間、指先に伝わる生温かい感触と鼻を刺す悪臭で、私の頭は真っ白になった。夕方の住宅街に、義母の甲高い声が響き渡る。「聞こえなかったのかしら?汚い犬の糞なんだから、汚いあんたの手で直接掴んで片付けるのがお似合いでしょう。」私は安藤ゆい、町会議員の妻で、義母から四年間も嫁いびりを受けてきた。誰にも言えず耐え続けた日々。でもその時、私の中で何かが音を立て...

犬の糞を入れたビニール袋が、義母の手によってコンクリートの地面に叩きつけられた。パーンという乾いた破裂音とともに袋は破れ、中身が周囲に飛び散る。鼻をつく悪臭と、信じがたい光景に、私の思考は完全に停止した。

そんな私を、義母は歪んだ笑みを浮かべて見下している。

「あら、汚いわね。早く片付けないとご近所迷惑になるじゃない。」

その声に罪悪感のかけらはない。まるで面白いおもちゃを見つけた子供のような、残酷な響きだけがあった。

震える声で、新しい袋とトングを持ってくると言いかけた私を、義母の甲高い声が遮った。

「何言ってるの?そんなもの必要ないわよ。」

義母は一歩私に近づき、心の底から侮辱するような目で言い放った。

「聞こえなかったのかしら?汚い犬の糞なんだから、汚いあんたの手で直接掴んで片付けるのがお似合いでしょう。」

血の気が引いていくのがわかった。全身が恐怖と、込み上げてくる激しい怒りで震え出す。この屈辱を、私は決して忘れない。

私の名前は安藤ゆい。世間では三坂ゆいのペンネームを使い、家事コラムニストとして活動している。四年前に夫の武尊と結婚し、彼が生まれ育ったこの町へ引っ越してきた。現在は義実家から歩いて数分の距離にあるマンションが私たちの新居だ。

夫の安藤武尊は、町会議員として現在二期目を務めている。町民の声に真摯に耳を傾け、政策に反映させる真面目で有能な人物だ。しかし、そんな頼もしい夫にも一つだけ弱点があった。それは女手一つで自分を育ててくれた母、義母の安藤証子にだけは全く頭が上がらないことである。

その義母は、この町でご意見番として絶大な影響力を持っていた。町内会で特定の役職についているわけではない。だが、現職町会議員の母親という立場と、この地での長い居住歴を傘に着て、役員ですら彼女の顔色を窺う始末だ。

義母は、息子の功績を自分の手柄であるかのように語るのが常だった。

「夜道が暗くて危なかった路地に街灯が増えたのも、うちの武尊のおかげなのよ。」

近所の人を見つけてはそう話し、最後には必ずこう付け加える。

「その武尊を育て上げたのは、この私なんですからね。」

路線バスの廃止が撤回された一件も、全ては息子の功績であり、引いては自分の功績であると信じて疑わない人だった。

そんな義母にとって、私は大事な息子を奪った女でしかないらしい。結婚の挨拶に訪れた日から今日まで、その認識は変わっていないようだ。

「いい年をして漫画なんて書いて、いつまでお子ちゃま気分でいるのかしら。」

私の仕事を公然と見下し、その存在自体を否定してくるのである。

義母との関係は決して良好とは言えなかった。それでも私は、武尊さんを一人で育て上げてくれたことへの感謝と敬意を忘れたくなかった。自分にできる形で少しでも義母の負担を減らし、関係を改善したい。その思いから、私は義実家で飼われている大型犬・高森の世話を率先して引き受けた。高齢の義母にとって、力の強い大型犬の散歩は重労働だろうと考えたからだ。

最初は私に警戒していた高森も、毎日顔を合わせるうちにすっかり懐いてくれた。今では私がリードを持つと、嬉しそうに尻尾を振るのが日々のささやかな喜びとなっている。

この散歩の時間は、私にとって地域の人々と触れ合う貴重な機会でもあった。道端で草むしりをしているご夫婦や、店の前を掃除している店主と挨拶を交わす。そうした何気ない交流が、この町での私の居場所を作ってくれているような気がした。

「おや、安藤さん。いつも高森君のお散歩ご苦労様ですなあ。」

ある朝、町内会長の山田さんが公民館の前で気さくに声をかけてくれた。

「おはようございます、山田会長。高森と歩いていると、四季の移り変わりがよくわかって楽しいですよ。」

「それは何よりだ。証子さんも、あなたのようなお嫁さんが来てくれて本当に助かっているでしょうなあ。」

山田会長の屈託のない言葉に、私は曖昧に微笑んで返事をすることしかできない。義母がどう思っているかは、他の誰でもない、この私が一番よく分かっているからだ。

回覧板を各戸へ届けるのも、いつしか私の役目になっていた。ほんの数分の立ち話だが、隣の奥さんと交わす会話は私の心を軽くしてくれる。こうした小さな関わりを積み重ねることで、私は少しずつこの町に溶け込み、多くの人々と顔見知りになることができた。気さくに「ゆいさん」と名前で呼んでくれる人々の存在が、私の心の支えになっていたのは事実である。

しかし皮肉なことに、私が地域に馴染み人望を得れば得るほど、義母の私に対する態度は氷のように冷たくなっていった。嫁いびりは日に日に陰湿さを増し、私の心をじわじわと、しかし確実に蝕んでいく。

ある日の夕食時、私は得意の煮物を大皿に盛り付けて義実家へと届けた。野菜が苦手な義母のために、隠し味に蜂蜜を少し加えた特製だ。

「お母さん、夕飯のおかずにいかがですか?たくさん作ってきたんです。」

「あら、ありがとう。ちょうどお腹が空いていたのよ。気が効くじゃないの。」

義母は満面の笑みでそれを受け取った。その表情に安堵したのも束の間。彼女は受け取った大皿を、その足でキッチンに置かれた生ゴミ用のゴミ箱へと逆さまにしたのだ。

ごとっという鈍い音とともに、私が心を込めて作った煮物はゴミ箱の中へ消えた。

「ごめんなさいね。なんだか変な、腐ったような匂いがするから、とてもじゃないけど食べられたものじゃないわ。」

「そんな、女将さんだってちゃんとしたのに。腐っているなんてことは絶対にありません。」

私の抗議に、義母は心底軽蔑したような目を向けた。

「あら、私の鼻がおかしいとでも言うのかしら。それともあなたは、腐ったものを平気で人に食べさせるような非常識な人間なの。」

あまりの言い草に言葉を失う私を、義母は冷たい目で見下していた。

さらに、私の漫画家としての仕事に対する妨害も激しさを極めた。アシスタントを入れず、一人で全ての作業をこなす私にとって、締め切り前の数日間はまさに戦場だ。義母はそのタイミングを正確に把握し、わざと深夜に電話をかけてくるのである。

深夜一時を回った頃、けたたましく響くスマートフォンの着信音に私の集中は無残にも断ち切られた。画面には「安藤証子」の文字が光っている。

「もしもし、ゆいさん、今すぐ家に来てちょうだい。急用ができたのよ。」

受話器の向こうから聞こえる声は、有無を言わせぬ調子だった。

「こんな時間にですか?何か大変なことでもあったんですか?」

「電話で長々と話している暇はないの。いいからすぐに来なさい。」

一方的に切られた電話に、私は嫌な予感を覚えつつも、万が一を考えて急いで義実家へ向かう。しかしそこで待っていたのは、呆れるほど理不尽で悪意に満ちた用事の数々だった。

「ああ、来てくれたの。戸棚の一番上にある大皿を取って欲しくてね。私じゃどうにも届かなくて。」

それは少し背伸びをすれば義母でも簡単に届く高さである。私が黙って皿を下ろすと、彼女はさらに要求を続けた。

「ついでにあそこの電球がチカチカするから交換してちょうだい。これからテレビの裏の配線が気になるから、全部きれいに束ねてくれる?」

全て、今すぐでなくとも良い。もしくは業者に頼むべき雑用ばかりだ。明け方近くまでかかって全ての作業を終えた私に、義母はねぎらいの言葉一つかけなかった。

それでも私が不満一つ口にせず耐え続けていたのは、全て夫のためだった。母と妻の間で板挟みになり、心を痛めている夫をこれ以上悲しませたくはない。いつかきっと私の誠意も義母に伝わる日が来るはずだ。そう信じることで、私はかろうじて正気を保っていたのである。

しかし、そんな私の淡い期待とささやかな平穏は、ある日の午後、あまりにも突然に、そして残酷に終わりを告げた。

その日も私は高森との夕方の散歩を終え、いつもの道を通って義実家へと戻ってきたのだ。西の空が赤色に染まり始め、どこかの家からは夕飯の支度をする良い匂いが漂ってくる。こんなありふれた平和な風景に、私の心も少しだけ和らいでいた。

右手には、きちんと処理を済ませた高森の糞が入ったビニール袋が、歩みに合わせて小さく揺れている。義実家の玄関が見えてきたところで、私は思わず足を止めた。玄関の扉の前に、義母が仁王立ちで私を待ち構えていたからだ。

腕を組み、無表情なその姿はまるで石像のようであり、異様な威圧感を放っていた。隣を歩く高森が義母のただならぬ気配を察知したのか、低く喉を鳴らしている。私は高森のリードを強く握りしめ、覚悟を決めて義母の元へと歩みを進めた。

「お帰りなさい。散歩ご苦労だったわね。」

ようやく私に気づいた義母が放った言葉は、その不気味な声色も相まって異様に響く。その声には、いつもの嫌味に加えて得体の知れない、粘つくような悪意がはっきりと感じられた。

私が何かを答えるよりも早く、義母は電光石火の速さで動いた。彼女は私の右手からビニール袋をひったくると、それをコンクリートの地面に思いきり叩きつけたのである。パーンという乾いた破裂音とともに袋は無惨に破れ、中身が周囲へと飛び散った。

「お母さん、一体何を?」

突然の暴挙に、私の思考は完全に停止した。目の前で起きたことが信じられず、ただアスファルトに散らばった糞を見つめることしかできない。そんな私を見下ろし、義母は口元に歪んだ笑みを浮かべていた。

「あら、汚いわね。早く片付けないとご近所迷惑になるじゃない。」

その言葉には罪悪感のかけらも感じられない。まるで面白いおもちゃを見つけた子供のような、残酷な響きだけがあった。

私は震える声で必死に言葉を絞り出す。

「すぐに新しい袋とトングを持ってきますから。」

私がそう言いかけた時、義母の甲高い声がそれを遮った。

「何言ってるの?そんなもの必要ないわよ。」

義母は一歩私に近づき、私の目を見据えて信じがたい言葉を言い放った。

「その糞を、今すぐ素手で拾いなさい。」

一瞬、何を言われたのか理解できなかった。聞き間違いだろうか。そんな非現実的な考えが頭をよぎる。しかし義母の目は正気であり、その表情は真剣そのものだった。

「聞こえなかったのかしら?汚い犬の糞なんだから、汚いあんたの手で直接掴んで片付けるのがお似合いでしょう。」

あまりの暴言と侮辱に、血の気が引いていくのがわかった。私の体は恐怖と、そして込み上げてくる激しい怒りで震え出す。しかし義母は私の反応を意にも返さず、さらに近づくと私の右手を、満身の力のような力で掴み上げた。骨がきしむような痛みが走り、私は悲鳴を上げる。

「やめてください。離してください。」

必死の抵抗も虚しく、私の体は義母の力に全く抗えなかった。そして私の手は、無残にも地面の糞へとゆっくりと、しかし確実に押し付けられていったのだ。指先に伝わる形容しがたい不快な感触。鼻を突き刺す耐え難い悪臭。視界が歪み、涙が頬を伝う。尊厳も何もかもが踏みにじられていく感覚に、意識が遠のきそうになった。

義母は、私が素手で全ての糞を拾い集め、新しい袋に入れ終えるまで、すぐそばで腕を組んで満足そうにその光景を眺めている。彼女のサディスティックな欲望が満たされていくのが、その表情から見て取れた。

ようやく全ての作業を終え、汚れた手で立ち尽くす私に、彼女は最後の一撃を食らわせるのだ。

「ああ、ご苦労様。そんな汚い手で作った料理なんて、とてもじゃないけど食べたくないわ。私のお昼ご飯は、そこのコンビニで何か適当に買ってきてちょうだい。」

それは私がこれまでよかれと思って続けてきた食生活のサポートや料理の腕そのものを、根本から否定する言葉だった。言い残し、義母は満足したように踵を返し家の中へと姿を消していく。ガチャリと玄関の扉が閉まる乾いた音が、私の鼓膜に突き刺さった。

その場に一人残された私は、汚れた自分の両手を見つめる。涙はいつの間にか乾いていた。私の心の中で張り詰めていた最後の糸が、ぶつりと音を立てて切れたのだ。

もう我慢する必要などどこにもない。夫を悲しませたくないというちっぽけな道義も、いつか分かり合えるかもしれないという愚かな期待も、全て消え去った。この瞬間から、私の全てはあの悪魔のような義母への復讐のためだけに動き出したのである。

汚れた手を洗うのも忘れ、私は義実家を飛び出した。込み上げてくるのは涙ではない。私の全身を焼き尽くさんばかりの、熱い怒りの炎だった。

もう一刻の猶予もない。私は震える足を叱咤し、まっすぐに一つの場所を目指した。それは町内会長である山田さんのご自宅だ。

何度も押したインターホンに応答があり、玄関先に現れた山田会長は、私の慌てふためく様子に驚いた表情を浮かべた。

「安藤さん、どうかなさいましたか。すごい顔色ですよ。」

「山田会長、お願いがあります。少しだけこれを聞いていただけませんか?」

私は息を切らしながらスマートフォンを取り出し、録音アプリを起動させる。そして、先ほど録音されたばかりの生々しい音声データを再生した。

「その糞を、今すぐ素手で拾いなさい。汚い犬の糞なんだから、汚いあんたの手で直接掴んで片付けるのがお似合いでしょう。」

スピーカーから流れる義母の甲高い暴言と、私の必死の抵抗の声。そして糞を無理やり触らせるあの恐ろしい物音。最初は戸惑っていた山田会長の顔が、時間の経過とともにみるみる険しくなっていく。全ての音声を聞き終えた彼は、怒りに肩を震わせ、拳を握りしめていた。

「これはあまりにもひどすぎる。証子さんはあなたに対して、こんなひどいことを。」

「今日に限ったことではありません。でも、もう我慢の限界です。」

「当然です。許されることではない。私にできることがあれば何でも言ってください。全面的に協力します。」

山田会長の力強い言葉に、私は深く頭を下げた。

夫は町会議員という立場上、有権者の声を政策に生かすことが求められる。そのため私は日頃から住民の方々と会話をする際には、後で正確に内容を確認できるようにボイスレコーダーをオンにする習慣があったのだ。その習慣が、皮肉にも義母の卑劣さを証明する決定的な証拠を残してくれた。

山田会長という強力な味方を得た私は、すぐさま自宅マンションへと戻る。リビングに入るや私はパソコンを起動し、いつもコラムを掲載している新聞社の担当編集者へ電話をかけた。

「もしもし、三坂です。急で大変申し訳ないのですが、明日の朝刊に掲載予定の記事を、これから送るものに差し替えていただくことは可能でしょうか?」

電話の向こうで驚く編集者に事情を簡潔に説明し、私は半ば強引に了承を取り付ける。そして、義母による長年の嫁いびりの実態を冷静かつ克明に綴った告発記事を書き上げた。怒りに任せて感情的に書くことはしない。あくまで客観的な事実だけを淡々と、しかし読者の心に突き刺さるように言葉を選び抜いていく。それが物書きとしての私のプライドであり、最大の武器だった。

さらに、この記事のオンライン版には、先ほどの暴言がはっきりと聞き取れるようノイズを除去し、短く編集した音声データを添付する。仕上げに、山田会長の協力のもと、完成したオンライン版記事のURLを町の電子回覧板と、全世帯が加入している町内LINEグループに、深夜一時を回った瞬間に一斉送信してもらった。

新聞の紙媒体よりも格段に早く配信されるオンライン版。特にスマートフォンに慣れた若い世代を中心に、町のご意見番・安藤証子の恐ろしい本性が、真夜中のうちに知れ渡ることになるだろう。

全ての準備を終えた私は、静かに夜が明けるのを待った。復讐の第一幕は、もう始まっているのだ。

翌朝、私は何事もなかったかのような穏やかな表情を浮かべ、義実家のキッチンに立っていた。いつものように義母の朝食を準備するためである。ダイニングテーブルでは、先に起きてきた義母が配達されたばかりの朝刊を広げていた。そして、私のコラムが掲載されているページに目を通した義母は、興味深そうに眉を上げる。

「あら、まあ、ひどい嫁いびりがあったものね。こんな鬼みたいな義母が本当にいるのかしら。」

味噌汁の味付けに文句をつけながら、彼女は記事の内容を完全に他人事として捉えていた。私が三坂ゆいのペンネームで活動していることなど、知るよしもないのだ。

食後のコーヒーを優雅にすする義母は、親戚のように面白そうに口元を歪める。

「世の中には本当にろくでもない人間がいるものね。このお嫁さん、可哀想に。」

彼女が自分自身を棚に上げてせせら笑った、まさにその瞬間だった。ピンピンというインターホンの音を無視して、玄関のドアがどんどんと激しく打ち鳴らされたのだ。

「何なのよ。朝っぱらから。」

驚く義母を尻目に、私はゆっくりと玄関へと向かう。ドアを開けると、そこには鬼の形相をした山田会長を筆頭に、町内会の役員数名がずらりと並んでいた。

「安藤証子さん、緊急の町内会議を招集しました。今すぐ公民館までご同行を願います。」

山田会長の有無を言わせぬその迫力に、義母はたじろぐ。

「私に何の用ですの?まだ朝食も済んでいないのに。」

「あなたの都合など聞いていません。これは決定事項です。」

役員たちに両脇を固められ、義母はまるで犯罪者のように自宅から公民館へと強制的に連行されていった。

町の公民館の会議室にはすでに他の役員たちも集まっており、異様な緊張感に包まれている。会議の議題はもちろん、私のコラム記事についてだった。内容の審議を問われた義母は、そこで初めて自分が断罪されるために呼び出されたのだと理解した。

「ま、まさか、あのコラムは私のことだと言いたいの?」

役員の一人が頷くと、義母は顔を真っ赤にして叫ぶ。

「馬鹿馬鹿しい。こんなものただの創作よ。誰が書いたか知らないけれど、目を瞑って訴えてやるわ。」

喚き散らす義母を、山田会長が冷たく一括した。

「お黙りなさい、証子さん。この記事を書いた人気作家・三坂ゆい先生は、何を隠そうあなたの隣にいるお嫁さんの、ゆいさんご本人ですよ。」

「はあ?この子が作家?」

信じられないという顔で私を見る義母に、山田会長はさらに追い打ちをかける。

「ゆいさんは地元観光協会からの正式な依頼を受け、町の広報紙で漫画を連載し、観光客誘致に多大な貢献をしてくださっている。この町にとって最大の功労者の一人です。その方をあなたは。」

「だからなんだって言うのよ。大げさなのよ。ちょっとした嫁と義母の間のいざこざでしょ。」

場を悪く開き直る義母の姿に、私は静かにスマートフォンを取り出した。そして、オンライン版に添付するために短く編集したデータとは別に、昨日の暴言の一部始終を記録した、より長尺で加工前の録音元データをその場で再生したのだ。

「聞こえなかったのかしら?汚い犬の糞なんだから、汚いあんたの手で直接掴んで片付けるのがお似合いでしょう。」

公民館の会議室に、義母の耳障りな声と私の嗚咽が響き渡る。静まり返る役員たちの前で、音声は無情にも真実を語り続けた。再生が終わると、山田会長が重々しく口を開く。

「これでもまだ、いざこざとおっしゃるか。」

義母は顔面蒼白になり、言葉を失っている。その後、役員たちによる短い話し合いの結果、彼女に対する処分が満場一致で決定された。

「安藤証子さん、あなたは町の輪を著しく乱し、町の発展を妨害した重要人物と認定されました。よって本日付けで、町内会が主催する全てのイベント、集会、寄り合いへの参加を一切禁じます。」

それは、この狭いコミュニティにおいて社会的な死を意味する処分だった。

「ふざけないで。私は絶対にこの町から出ていかないから。」

義母は最後の力を振り絞ってそう叫ぶと、悔しさに顔を歪ませながら足早に公民館を後にした。しかし、彼女の本当の地獄はまだ始まったばかりだったのである。

町内会から事実上の追放処分を言い渡され、完全に孤立無援となった義母。しかし、誇大な自己愛の持ち主である彼女が、己の非を認めて反省するはずもなかった。

それから数日後、義母は起死回生を狙い、最も卑怯で愚かな最後の手段に打って出た。それはゴシップを得意とする週刊誌を利用して、私の本性、もちろんその全てが彼女の作り上げた嘘と妄想の産物だが、それを世間に告発するという途方もない計画だった。

ある日の夜、私のスマートフォンに夫から着信があった。電話の向こうの彼の声は、ひどく思い詰めている。

「ゆいか、実はさっきお袋から電話があって。」

夫の話によると、義母はすでにとある週刊誌に接触し、取材のアポイントメントを取り付けたらしい。そしてその取材の場に、息子である武尊も同席させ、「私が言う通りに証言しなさい」と一方的に命令してきたというのだ。長年母親に逆らえずに生きてきた夫は、電話口では「分かったよ、お袋」と力なく了承してしまったと、吐き捨てるように言った。しかし彼は続けてこう言った。

「でも、もうお袋の言いなりになるのはたくさんだ。俺は母親の間違いを正したい。だから頼む。ゆいも取材の日に一緒に来て、真実を話してくれないか。」

その声は震えていたが、そこには固い決意が感じられた。私は夫のその申し出を、静かに受け入れた。

そして約束の取材当日がやってきた。舞台は義実家の和室。部屋の中央に置かれたソファーには、私と夫、そして義母が並んで腰かけている。その向かい側には、週刊誌の記者と名乗る中年男性と、若いカメラマンが座り、私たちの顔を値踏みするように観察していた。

重苦しい沈黙を破ったのは義母だった。彼女はハンカチで目元を押さえ、悲劇のヒロインを演じながら震える声で語り始める。

「この女が安藤家に嫁いでからというもの、私たち家族の平和な日々は地獄へと変わってしまったんです。」

そこから先は、まさに嘘八百を並べ立てた狡猾な毒舌会だった。

「見てください。この、あの女に突き飛ばされた時の傷ですわ。」

そう言って彼女が見せた腕の痣は、数日前に自分で柱にぶつけて作ったものだ。

「息子の食事にこっそり虫を混ぜていたこともありました。私が気づかなければ、武尊は今頃どうなっていたことか。」

あまりにも荒唐無稽な作り話に、私は呆気に取られて言葉も出ない。極めつけは、こんな告発だった。

「それだけではありません。この女は夫のライバルである町会議員の広報担当者と、不倫までしているんですよ。私はこの目で、二人がホテルに入っていくのを見ました。」

涙ながらに訴える義母の自信の演技に、記者は奇妙な顔で頷きペンを走らせている。一通り義母の話を聞き終えた記者は、やがて顔を上げ、私の隣に座る夫へと視線を移した。そして、確信をつく質問を投げかける。

「ご主人にお伺いします。今のお母様のお話は、全て事実なのでしょうか?」

部屋中の視線が夫の口元に集中する。義母が勝ち誇ったような笑みを浮かべて促した。

「さあ、お前が見てきた真実を、ちゃんとお話ししなさい。」

夫は一度固く目を閉じ、何かを振り払うように小さく息を吐くと、ゆっくりと口を開いたのである。夫の武尊は記者の目をまっすぐに見つめ返し、落ち着いた、それでいて揺るぎない口調で言い放った。

「いえ、今母が言ったことは、全て完全な出鱈目です。」

その言葉は、静かな和室に驚くほどはっきりと響き渡った。一瞬の沈黙の後、最初に我に返ったのは義母だった。

「武尊、何を言っているの?私を、この母親を裏切るの?」

語気を変えて激昂する義母を、夫は悲しげな目で見つめ返す。そして彼は、これまで胸の内に溜め込んできた全ての思いを、堰を切ったように吐き出し始めた。

「裏切っているのは、お袋の方じゃないか。俺はずっと知っていたんだ。お袋が俺の見ていないところで、どれだけ妻のゆいを苛め抜き、苦しめてきたのかを。」

彼は記者たちに向き直り、深々と頭を下げた。

「申し訳ありません。母は長年に渡り、妻に対して精神的な虐待を繰り返していました。先日の犬の糞の件も、全て事実です。」

「何よ。私はお前のためを思って。」

義母は、武尊が二期目の選挙で当選できたのは他ならぬ自分のおかげだと信じて疑わなかった。しかし夫は、そんな母親の妄想を残酷な事実で打ち砕く。

「お袋のおかげだって、冗談じゃない。一期目の後、あんたの傲慢で高圧的な態度が原因で、俺の支持率がどれだけ下がったか知っているのか?」

その言葉は、義母にとってまさに晴天の霹靂だったようだ。彼女は呆然と息子を見つめている。

「講演会の人間も、町の人たちもみんな口を揃えて言っていたよ。『安藤先生はいい人だが、あの母親だけは勘弁して欲しい』ってな。俺はあんたのせいで、次の選挙に落ちる寸前だったんだ。」

そして夫は私の手を強く握りしめ、記者たちにはっきりと宣言した。

「そんな絶望的な状況から俺を救い、二期目当選へと押し上げてくれた最大の功労者は、ここにいる妻のゆいです。彼女の地域への献身的な活動と、それによって得られた町民からの熱い人望がなければ、今の俺はなかった。」

その言葉に、私は思わず涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。最後に夫は、実の母親に向かって、生涯で最も辛いであろう宣告をする。

「お袋、育ててくれたことは心の底から感謝してる。でも、あんたがゆいにしてきたことは、人として絶対に許されることじゃない。もう、あんたを母親だとは思えない。今日限りで、縁を切らせてもらう。」

涙を流しながらの、魂からの絶縁宣言だった。完全に追い詰められた義母は、もはや正気を失い、最後の足掻きとばかりに叫び散らす。

「この子は騙されているんです。息子は勉強ばかりで世間を知らないんです。この女が議員である息子を利用して、何か甘い汁を吸おうと企んでいるに違いありません。」

しかしその必死の叫びも虚しく、記者たちからはこらえきれないといった様子の失笑が漏れ始めた。中年記者は呆れたようにやれやれと首を振り、母に告げた。

「お母さん。残念ですが、奥様がご主人を利用するメリットなんて、限りなくゼロに等しいですよ。」

「な、なんですって。」

そう、母は何も知らなかったのだ。

「三坂ゆい先生の父親は、政界の大物である三坂派の会長で、現職の国会議員も頭が上がらないほどの日本経済界の重鎮です。これは少し調べれば誰でも分かる、公然の事実です。」

その事実を記者から突きつけられ、義母は口をパクパクさせ、完全に思考を停止させている。自分のちっぽけなプライドを守るために戦ってきた相手が、雲の上の存在だったと知ったのだ。呆然とする母の姿に、夫は全てを諦めたように力なく呟いた。

「もうやめてくれ。これ以上の醜態の上塗りは、本当にやめてくれ。」

その言葉が、義母の完全敗北を告げるゴングとなったのである。

あの壮絶な取材から数週間が過ぎた。結局、義母の告発記事が週刊誌に載ることはなかった。それどころか、取材テープに残された義母の暴言と夫の告白は、別の形で町の人々の知るところとなったのだ。町内会の追放処分そのものに法的な強制力はなかった。しかし、町民全員から向けられる冷たい視線と、日々の無視は、どんな法的措置よりも義母の心を抉ったようである。

誰からも相手にされず、挨拶すら返されない日々。スーパーへ行けばひそひそと噂され、道を歩けば子供たちから遠巻きに指を差される。あれほどまでに固執していた町のご意見番という立場は、今や影もない。その耐え難い居心地の悪さに、義母は自らこの町を去ることを選んだ。引っ越し先は、隣町の寂れた集落にある、今にも崩れそうなボロ民家だと風の噂に聞いた。

環境が変わろうど、あの歪んだ性格が改善されることはなかったらしい。隣町でも自分の価値観を一方的に押し付け、若者や子供たちに説教をして回っては煙たがられているという。かつての権威も自慢の息子も失った彼女は、完全なる嫌われ者として孤独な老後を送っているのだ。まさに自業自得の末路と言えるだろう。

一方、私たち夫婦には穏やかで輝かしい日々が訪れていた。夫の武尊は、先日行われた町会議員選挙で見事三期目の当選を果たした。嫁いびりの一件を経て、母の呪縛から解放された彼は、以前にも増して町民一人ひとりの声に耳を傾け、政策に反映させている。そんな夫の真摯な姿は多くの町民の心を打ち、今では町の誰もが認めるリーダーとなった。

そして私もまた、この町にとってかけがえのない存在としてようやく認められることになったのだ。人気漫画家・三坂ゆいが、実は町会議員の妻・安藤ゆいであったという事実は、またたく間に街中に広まった。今では町の広報紙のデザインや観光パンフレットのイラストなどを一手に任されるようになっている。自分の持てるスキルで、愛する夫が守るこの町に貢献できる。これ以上の喜びはない。

あの一件で、私たち夫婦の絆は以前とは比べ物にならないほど強く、そして深くなった。辛い日々を共に乗り越えたからこそ、お互いを心の底から信頼し、尊敬し合える関係を築くことができたのだ。

義母が出ていった義実家は、先日引き払うことになった。その際、私たちは家族として大型犬の高森を正式に引き取ることにした。広々としたマンションのリビングで、高森が安心しきったように寝息を立てている。その穏やかな寝顔を、夫と二人で並んで眺める。

「高森、すっかりこの家の子になったわね。」

「ああ。ゆいがいてくれて、本当に良かった。ありがとう。」

夫はそう言って、私の肩を優しく抱き寄せてくれた。もう、私の心に暗い影を落とすものは何もない。愛する夫と忠実な愛犬・高森。そして、私を温かく受け入れてくれたこの町の住民たち。かけがえのない宝物に囲まれて、私の幸せな日々はこれからもずっと続いていくのである。

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