「お前のとこさ、部屋に空きあるよな。今度の土曜日、母さん連れてそっち行くからよろしくな。」
電話の向こうから、兄の苛立った声がそう言った。私は若。四十五歳。夫と中学二年生の息子・淳との三人暮らしだ。反抗期で生意気な淳だが、家族は何だかんだでうまくやっていた。そんな日常に、突然この電話が割り込んできたのだ。
家を建てて一年。客間も作ったし、兄夫婦を呼んだこともあったから、部屋に空きがあることは知られていてもおかしくない。でも、いきなりそんなことを言われて、事情が呑み込めない。「え、ちょっとどういうこと?」と聞き返す間もなく、兄は一方的に用件だけをまくし立て、電話を切ってしまった。
兄は昔からそうだ。自分勝手で横柄で、母のことはいつも自分の思い通りになると思っている節がある。父は穏やかな人で、そんな兄を叱り、母に敬意を持つように、妹を大切にするようにと言ってくれていた。しかし、そんな父も随分前に亡くなってしまった。
父の死後、実家に一人で住んでいた母の元に、兄夫婦が引っ越してきた。私は母から話を聞いて実家に飛んで帰り、兄夫婦に事情を尋ねた。兄は「仕事先が移動になり、実家から通える範囲になったから」と言い、兄嫁は付け足すように「お父さんも亡くなって、お母さん一人じゃ心配でしょう」と微笑んだ。
この兄嫁はなかなかの食わせ者だ。兄より十歳も若く、私から見ても美人。夜のお店で働いていて、兄とは客と従業員の関係だったらしい。何が良かったのかは分からないが、金に執着するという点では似た者夫婦だ。兄は「俺はこの家の長なんだから」と実家を自分のものだと思っているし、兄嫁は「長男の嫁なんだから、義理の妹が年上だろうと自分の方が偉い」と考えているようだった。
母は楽天家で、「一人で寂しく暮らすよりいい」と我慢していた。「自分だけのためにご飯を作る気にならないのよ」と笑う母の言葉に、私も納得せざるを得なかった。実家に頻繁に帰るわけにもいかないし、お互いがいいならそれでいいかと思っていたのだ。
それなのに、いったい何があったのか。
夫の高史が帰ってきて話をすると、母を迎えることを快く承諾してくれた。それどころか、母の心配までしてくれている。翌日、昼間に何度か母に電話をしたが、応答はなかった。そのまま週末を迎えることになった。
車の音がして外に出ると、母を乗せた兄の車が家の前に到着していた。母が降りてくる。兄は荷物を下ろすと、そのまま運転席に乗り込んだ。兄嫁に至っては、助手席から降りてくることも挨拶することもなく、ずっとスマホをいじっていた。兄は運転席の窓を開けると、私に向かって手を挙げた。
「じゃあ、よろしくな」
「え?」
声をかける間もなく、車は走り去った。
仕方なく母の荷物を持って家に入ろうとすると、高史が出てきた。「あれ? お兄さんは?」「それが、荷物だけ下ろしてすぐ行っちゃったの」「そっか」。高史は母と私が持っていた荷物を持ってくれた。「お母さん、いらっしゃい。中でお茶でもしましょう」「高史さん、急なことでごめんね」と申し訳なさそうに言う母を、高史は笑顔で迎えた。
リビングでは淳が待っていた。「ばあちゃん、久しぶり」。兄夫婦が実家に住むようになってから、訪問するのも気を使うようになった。前回会ったのは、淳が中学に入った時だった。この一年でぐんぐん背が伸びた淳を見て、母が驚いている。夫も息子も、心よく母を迎えてくれたことに、私は本当に感謝した。
落ち着いてから母に話を聞くと、どうやら兄嫁に「出て行ってほしい」と面と向かって言われたらしい。「夜に仕事をしているのに、母がいると生活音が気になって眠れない」と言うのだ。
「兄さんたちが出ていくっていう選択肢はなかったの?」
「こんなボロじゃなくてもっと綺麗なマンションを借りたらどうかって言ったんだけどね。お嫁さんが、無駄に家賃がかかるって」
「どういうこと? 兄さんは何て言ってたの?」
「俺はこの家の長なんだから、ここに住む義務があるって言い張ってね」
母は言葉を濁した。兄夫婦が実家に住むようになった時、私は勝手に家賃を払っているのだと思っていた。しかし実際は、家賃は払わず、生活費も微々たるものだったらしい。生活にかかるお金は、母がかなり負担していたそうだ。その事実にも驚いたし、兄夫婦の態度にも怒りが湧いてきた。でも、そんなところに母を住ませておくのも気が引ける。
とにかく、一度うちで同居してもらうことになった。
「それでね、ここに置いてもらうのに、毎月生活費を渡したいんだけど」
母がそう言い出すと、高史がはっきり言った。「家族から生活費なんてもらえません。気にしないでください」。高史は幼い頃に母親を亡くし、ずっと父親と二人で暮らしてきたからか、私の母のことを自分の親のように思ってくれている。
しかし、高史がそう言っても母は引かなかった。平行線のままなので、私が妥協案を出した。
「じゃあお母さんは、夕飯を担当してもらえる? そうすれば私ももう少しパートの時間を増やせるし、私も助かるよ」
こうして、私たちの新しい生活が始まった。
翌朝、目を覚ますとキッチンの方から懐かしいいい匂いがする。テーブルには朝食が並べられていた。「私がやるからいいのに」と言うと、「早く起きるとやることがないから、暇つぶしよ」と母は笑う。高史も淳も起きてきて驚き、嬉しそうに朝食を取って家を出ていった。
二人が出た後、母が私にしみじみと言った。
「みんな、いただきますもごちそうさまも、ありがとうまで言ってくれるのね」
兄夫婦は、母が食事を用意するのが当然で、感謝もなければ感想もなかったらしい。しかも食べずにそのまま出ていくこともあり、態度もひどかったという。元々明るい性格の母だったが、昨日ここへ来た時は少し暗い顔をしていて心配した。しかし、日が経つにつれて、どんどん以前の明るい母に戻っていく。
母が来てから、家の中がどんどん綺麗になっていく。「新築だからって手を抜いていたら、すぐに汚くなるわよ」と言って、私が仕事から帰るたびに、必ずどこかがピカピカになっていた。すると家族みんなが今まで以上に気を使うようになり、汚れなくなっていく。母が来てくれたことで、我が家は今までよりも快適になった。
そんな生活が一ヶ月ほど続いた、ある日曜日のこと。兄夫婦が突然、家に来た。
仕方なくリビングに通すと、家の綺麗さに驚いている。そして、とんでもないことを言い出した。
「やっぱ、母さん返してくれ」
兄によると、母がいなくなったことで、家の掃除をする人がいなくなり、料理もしないから外食ばかりだという。隣でスマホをいじっていた兄嫁も文句を言い出す。
「ゴミの日もよくわかんないし、コンビニ弁当が多いから前よりも太ったんだよね。肌荒れもするし。だから、母さん返してもらおうと思って迎えに来たんだ」
私は兄夫婦の態度に、ついに怒りが抑えられなくなった。
「あんたたちね、お母さんは物じゃないの。返すとか返さないの問題じゃないの?」
私の様子に、兄嫁が笑った。「何怒ってんの? 別にそんなこと言ってないじゃない。私たちはお母さんを迎えに来たのよ」
「勝手なこと言わないで。お母さんはうちで暮らしているんだから、戻らないわ。それにあんたたち、勝手にお母さんの家に住んでるんだから、いい加減に家賃を払いなさいよ」
「なんで家賃なんて必要なの? 長男夫婦なんだから、私たちが住んでても問題ないでしょ。あなた、妹なのに長男の嫁の私に説教するの?」
兄嫁の態度に、私はさらに頭に来た。
「長男の嫁って何が偉いの? あの家は私の実家でもあるの。あんたみたいな女に住んでほしくないんだけど」
「私はあんたの兄と結婚してやったのよ。私が結婚しなかったら、この人一生独身でしょ」
ヒートアップした兄嫁は、さらに爆弾発言をする。
「実家がお金持ちっぽいし、私にベタ惚れだから、お金には困らないと思ったのよね。男遊びなんて他でいくらでもしてるしさ。私、男には困らないし」
私は耳を疑った。今のは、浮気をしているということか。
すると当然、兄が怒り出した。「お前、浮気してるってことか!」
兄嫁は一瞬「しまった」という顔をしたが、すぐに開き直る。
「浮気くらいしないと、あんたと生活なんてできないわよ。何の取り柄もないじゃない」
私の実家は、父のおかげでそれなりに裕福な生活をしてきた。父が遺産を残してくれたから、母も余裕のある暮らしをすることができている。兄は兄嫁のお店で、実家が裕福だと自慢していたらしく、それに目をつけたのが兄嫁だったというわけだ。兄嫁は実家のお金と、なぜか嫁という肩書きが欲しかったらしい。そして母と同居したのは、家事や金銭的な負担を母に丸投げすることが前提だったという。
このどうしようもない二人は、まだ私たちの目の前で夫婦喧嘩をしている。
すると母が一喝した。
「いい加減にしなさい!」
兄は、母が自分に反論することなんてないだろうと思っていたのか、その剣幕に押されて思わず謝っている。
「ごめん、母さん。でも俺、こいつとは離婚するから」
「はあ? 今さら何言ってんの?」
また夫婦喧嘩が始まった。私はもう我慢ができなかった。
「バカみたいな喧嘩は外でやって。あんたたちが離婚しようとどうでもいいから。ただし、一週間後にまだあの家にいるなら、ちゃんと賃貸契約を結んで、今後はお母さんに家賃を払ってもらうから」
そう言って、私は二人を家から追い出した。
それから一週間後、今度は兄が一人でうちに来た。私たちと母に頭を下げ、「申し訳なかった」と謝罪した。兄嫁は実家から出ていき、兄は弁護士を通して慰謝料の請求をしたそうだ。
私たちは話し合って、実家を整理して売りに出すことにした。母は「あの広い家に一人は寂しい」と言い、兄も「移動がありそうだから」と出ていくという。実家がなくなるのは少し寂しいが、母がここを居心地のいい家だと思ってくれているのが嬉しかった。
半年後、兄は新天地で一人で頑張っているらしい。「母さんの様子はどうだ?」と、たまに連絡が来る。ちなみに兄嫁からは慰謝料を一括で支払ってもらい離婚したそうで、今まで母に迷惑をかけたからと、毎月母に仕送りをしている。
兄が改心したことに驚いたし、何よりあの元兄嫁と縁が切れてすっきりした。
我が家はと言うと、母のおかげで相変わらず快適な暮らしができている。最近では淳が母の影響で料理に目覚め、母からレシピを教わって料理を作ってくれることが増えてきた。一家の大黒柱である高史も、「とてもいい環境だ」と言ってくれている。
母との同居を選んでくれたことに、私は感謝してもしきれない。この暮らしに落ち着くことができて、本当に良かった。
