夕食の後片付けをしていた時、リビングから嫁の声が聞こえてきた。「死ぬまで施設で暮らしてもらいましょう」――その言葉で、手に持っていた茶碗が床に落ちて割れた。5年前、夫を亡くした私を「一緒に暮らそう」と迎え入れてくれたはずの息子夫婦。でも今、私は「お荷物」で「人間として終わっている」らしい。毎朝5時に起きて家族のために尽くし、年金15万円も全部渡してきたのに。気づけば、私の部屋はなくなる予定で…
「死ぬまで施設で暮らしてもらいましょう。」 その言葉が聞こえてきた瞬間、私の手から茶碗が滑り落ち、床に響く音が静寂を破りました。 私は天野ミズエ、67歳になる元書店経営者です。 あの日の夕食後、いつものように台所で片付けをしていた私の耳に、隣のリビングから漏れてくる会話が聞こえてきたのです。 「もう限界よ。お母さんの面倒を見るのは。」 嫁のアヤの声でした。 続いて、息子のタカヤのため息が聞こえます。 「やっぱり施設しかないな。」 「当たり前よ。死ぬまで施設で暮らしてもらうのが一番いいわ。」 その瞬間、私の膝から力が抜けました。 長年大切に使ってきた茶碗が、ガシャンという音を立てて割れました。 リビングが一瞬静まり、そして何事もなかったかのように会話が続きます。 私はゆっくりと割れた茶碗を拾い上げながら、涙が頬を伝うのを感じました。 私が息子夫婦と暮らすようになったのは、5年前のことでした。 夫が他界し、一人になった私を心配したタカヤが「母さん、一緒に暮らそう」と言ってくれたのです。 40年間、私は地元で小さな書店を営んでおりました。 朝から晩まで本に囲まれ、地域の方々に愛されながら、年商3000万円ほどの店を夫と二人で切り盛りしていたのです。 タカヤを大学まで行かせることができたのも、この書店のおかげでした。 「お母さんがいてくれて助かります。」 同居当初、アヤはそう言って微笑んでくれました。 私も張り切って家事を引き受け、孫の世話も喜んでさせていただきました。 現在、私は毎朝5時に起きて家族4人分の朝食を準備し、洗濯、掃除、買い物、夕食の支度と、1日6時間以上を家事に費やしています。 月15万円の年金は全て生活費として息子夫婦に渡しておりました。 アヤは保育士として働いており、私は家事をすることで少しでも役に立てればと思っていたのです。 しかし、いつからでしょうか。アヤの態度が変わり始めたのは。 最初は些細なことでした。料理の味付けが濃いとか、掃除が行き届いていないとか。 それが次第にエスカレートしていったのです。 あの優しかった嫁が、今では私を「お荷物」と呼ぶようになりました。 長年築いてきた信頼関係が音を立てて崩れていくのを感じながら、私はただ耐えるしかありませんでした。 思い返すと、アヤの私に対する態度が明らかに変わり始めたのは3年前の春でした。 「お母さん、また鍵の場所を忘れたんですか?」 玄関で鍵を探していた私に、アヤは冷たい視線を向けました。 実際はアヤが普段と違う場所に置いていただけでしたが、彼女は聞く耳を持ちませんでした。 「最近物忘れが多いですよね。認知症の検査受けた方がいいんじゃないですか。」 その言葉に私は深く傷つきました。 確かに年齢なりのもの忘れはありますが、日常生活に支障はありません。 しかしアヤは、私が断るごとに些細なミスを大げさに取り上げるようになったのです。 「お母さんの料理、味が濃すぎて健康に悪いです。」 「洗濯物の畳み方が雑ですね。」 「掃除機のかけ方が適当すぎます。」 毎日のように小言を言われ、私はだんだんと自信を失っていきました。 40年間家事をこなしてきましたが、アヤの前では何をやってもダメな人間のように感じられたのです。 ある日、孫のユイが学校から帰ってきて、私に算数の宿題を聞いてきました。 「おばあちゃん、これ教えて。」 「いいわよ、どれどれ。」 私が教えていると、アヤが顔色を変えて飛んできました。 「お母さん、やめてください。今の教え方と違うんです。ユイが混乱するじゃないですか。」 「でも、基本的な考え方は同じですし…」 「同じじゃありません。お母さんの古い考えは、子供の教育に悪影響なんです。」 アヤはユイの手を引いて、私から引き離しました。 それ以来、孫と接する機会も制限されるようになりました。 「おばあちゃんと遊びたい。」 ユイがそう言っても、アヤは「おばあちゃんは疲れているから」と言って、私たちを合わせようとしません。 唯一の楽しみだった孫との時間まで奪われ、私の心は日に日に沈んでいきました。 そして、金銭的な要求も激しくなっていきました。 … Read more