「お母さんなんていりません」――73歳の誕生日が近いある朝、嫁が珍しく優しく微笑んで言った。「お母さん、今日はドライブに行きませんか?」息子も頷く。最近冷たかった二人の態度が変わると思い、私は喜んで車に乗った。でも、着いた先は人気のない貯水池。二人は車に乗ったまま、窓を開けて言った。「もう面倒は見られません。ここでゆっくりしていてください」エンジン音が遠ざかり、私は誰も知らない場所に一人取り…
「お母さんなんていりません」 その冷たい言葉が、人気のない貯水池のほとりに響き渡った。私、中野しずえは73歳。まさか息子の嫁である千夏から、こんな言葉を聞くことになるとは思いもしなかった。 今朝、千夏は珍しく笑顔で私に声をかけてきた。 「お母さん、今日は天気もいいし、ちょっとドライブでも行きませんか?」 息子の翔太も隣で頷いていた。最近、二人の態度が冷たくなっていたので、関係を改善したいのかもしれないと、私は素直に喜んで車に乗り込んだ。 しかし車はどんどん人里離れた場所へと向かっていく。やがて着いたのは、周囲に民家も見当たらない寂しい貯水池だった。 「ここで少し休憩しましょう」 千夏に促されて車から降りた私だったが、振り返ると二人は車に乗ったままだった。そして千夏が窓を開けて放った言葉が、さっきの一言だった。 「もう面倒は見られません。ここでゆっくりしていてください」 エンジン音が遠ざかり、私は一人、見知らぬ水辺のほとりに取り残された。携帯電話を取り出すが、「圏外」の文字が虚しく表示されるばかりだった。貯水池の冷たい風が頬を撫でる中、私はただ呆然と立ち尽くしていた。 本当に翔太は私を捨てたのか。あの優しかった息子が。 思い返せば38年前、夫が病気で働けなくなった時、私は必死で翔太を育てた。朝は4時に起きて弁当を作り、昼は近所のスーパーでレジ打ち、夜は家庭教師のアルバイト。翔太の大学進学のために、なんとか500万円の教育費を貯めた。 「母さん、俺絶対に恩返しするから」 大学の合格通知を手にした翔太は、涙を流しながらそう言ってくれた。その言葉を信じて、私はさらに頑張れた。 10年前に夫が他界してからは、息子夫婦のために尽くしてきた。孫の世話は朝から晩まで。千夏が仕事に復帰できたのも、私が家事の全てを引き受けたからだ。掃除、洗濯、料理、全て私がこなしていた。 それなのに、最近の二人の態度は日増しに冷たくなっていった。 「お母さん、動作が遅くて見ていてイライラするんです。もう少し気を利かせてもらえませんか?」 そんな言葉に傷つきながらも、家族のためだと思い我慢を重ねてきた。 足元の水面を見つめながら、私は涙を拭った。こんな場所で一人、どうすればいいのか。でも、泣いている場合ではない。まずはこの場所から脱出する方法を考えなければ。 私は震える足で貯水池の周囲を見回した。どこまでも続く水面と、うっそうとした森。人の気配は全くない。73歳の体には、この状況は過酷すぎた。 絶対に生きて帰る。自分に言い聞かせながら、私は歩き始めた。道路まで出れば、きっと誰かが通るはずだ。 しかし足元は不安定で、何度もよろけそうになる。長年の家事で痛めた膝が悲鳴をあげていた。それでも私は歩き続けた。ここで諦めたら、本当に翔太と千夏の思う通りになってしまう。 30分ほど歩いただろうか。ようやく舗装された道路が見えてきた。しかし車は一台も通らない。私は道路脇の草むらに腰を下ろし、体力の回復を待った。 「おばあさん、大丈夫ですか?」 どれくらい時間が経っただろうか。釣り竿を持った中年の男性が、心配そうに私を見下ろしていた。 「あ、ありがとうございます」 事情を説明しようとしたが、うまく言葉が出てこない。男性は私の様子を見て、すぐに携帯電話を取り出した。 「とにかく警察を呼びましょう。顔色が真っ青ですよ」 パトカーが到着し、私は保護された。警察署に着くと、若い女性警察官が温かいお茶を出してくれた。 「落ち着いて、ゆっくりお話しください」 私は震える声で、今朝からの出来事を説明した。息子夫婦に貯水池へ連れて行かれ、置き去りにされたこと。携帯電話も圏外で、助けを呼べなかったこと。 話を聞いていた刑事の表情が、見る見る厳しくなっていった。 「中野さん、それは明らかな保護責任者遺棄です。息子さんには扶養義務がありますし、ましてや人里離れた場所に置き去りにするなど…」 刑事は怒りを抑えるように深く息を吐いた。 「すぐに息子さんに連絡を取ります。住所を教えていただけますか?」 私は翔太の住所と電話番号を伝えた。心の中では、まだ何かの間違いであってほしいという思いもあった。しかし現実は厳しいものだった。別室から刑事が電話をする声が聞こえてくる。 「中野翔太さんですね。お母様の件でお電話しています。実は…」 しばらくして、刑事が深刻な表情で戻ってきた。 「息子さんは、『母は自分で出かけたはずだ』と言っています。しかし防犯カメラの確認をしたところ、確かに息子さんの車で貯水池方面に向かったことが確認されました」 私の胸が締め付けられるように痛んだ。翔太は嘘をついているのだ。 「中野さん、失礼ですが、最近息子さん夫婦との間で何かトラブルはありませんでしたか?」 刑事の質問に、私は少し考えてから答えた。 「実は…最近、私への態度が冷たくなっていました。食事も別々にされることが多くなり、孫にも合わせてもらえなくなりました」 「暴力や暴言はありましたか?」 「暴力はありませんが、千夏は私のことを『役立たず』『認知症』と言うことがありました。でも、嫁と姑の関係ですから、他のことは我慢するものだと…」 刑事は真剣な表情で私を見つめた。 「中野さん、これは立派な虐待です。そして今回の遺棄は犯罪行為です。息子さん夫婦を告訴する意思はありますか?」 告訴。その言葉に私は戸惑った。実の息子を犯罪者にすることになるのだ。しかし、このまま黙っていたら、私の命は危なかったかもしれない。 「少し考えさせてください」 刑事は優しく頷いた。 「もちろんです。ただ、中野さんの安全が第一です。今夜は安全な場所に泊まれるようにしましょう」 警察署を出る時、空はすでに夕焼けに染まっていた。私は保護された施設のベッドで、これからのことを考えた。翔太を告訴すべきか。でも、あの子も昔は優しい子だった。何が彼を変えてしまったのか。いや、変わったのは千夏と結婚してからかもしれない。 その夜、私は一つの決意をした。もう我慢はしない。私にも生きる権利がある。そして、このような仕打ちを受けて黙っているわけにはいかない。 翌朝、私は刑事に告げた。 「告訴します。息子夫婦を」 … Read more