会議室の扉が開いた瞬間、課長が満面の笑みで「プレゼンは私の部下が英語で行います」と言い放った。頭が真っ白になった。この人は普段、俺を「中卒ニート」と呼んで蔑んでいるはずなのに、なぜこんなことを。しかも今日は会社の命運を左右する海外企業との商談だ。壇上に上がった俺を見て、課長は口元を吊り上げていた。ああ、そういうことか。俺に恥をかかせるつもりなんだな。怒りで手が震えたが、俺は深呼吸して一礼した…

プレゼンは私の部下が英語で行わせていただきます。彼は英語が堪能で、我が社期待のホープであります。 会社の今後を左右するプレゼンの場で、課長が突然そんなことを言い出した。普段は中卒ニートと見下しているのに、これはどういうことなのか。驚いていると、課長がニヤニヤと笑みを浮かべて俺を見た。 ああ、なるほど。俺に恥をかかせる気なのか。俺なんかが英語を話せるわけがないと思っているのだろう。こんな子供じみた嫌がらせのために大事なプレゼンを利用する課長に、ふつふつと怒りが湧き上がる。だが俺はその怒りをぐっとこらえ、壇上に上がって一礼した。 まあいいさ。その浅はかな考えのせいで、全てを失うことになるのだから。 俺の名前はいばらき。現在営業部に所属して働いている。俺は中学生の時に父をなくし、それからは残された母と二人で生活していた。母は元々体の弱い人で、俺が生まれてからも一年に何回かは風邪をこじらせて床に着くほどだった。父の遺産はわずかにあったが、それでも俺の将来のためを思い、母はそんな体を押して仕事を探し始めた。けれど、いざ働こうと思ってもなかなか体力が追いつかず、仕事も休みがちとなり、生活は苦しくなるばかりだった。 俺も新聞配達などで家計を助けてはいたが、それでも十分な暮らしとはいかなかった。 そんな中、海外に居住していた母の兄が日本へ帰国。そして俺たちの生活を見かねた叔父は、自分と一緒に暮らすことを勧めてくれたのである。俺は母とも話し合い、中学卒業と同時に二人して叔父の家へ引っ越すこととなった。 それからは自営をしている叔父の仕事を手伝いながら、三人で肩を寄せ合い、穏やかな生活を送った。そして俺は叔父の元で十年ほど過ごした後、叔父の仕事での付き合いがあった人の紹介で今の会社に就職したのだ。営業部の仕事は大変だったが、やりがいもあり毎日が新鮮だった。 だが一つ、俺には悩みがある。上司である長谷川課長のことだ。彼は中卒で就職歴もない俺のことを、引きこもりのニートだったと思い込んでいるようで、ことあるごとに俺を馬鹿にし見下してくるのである。 「ちょっといばらき君、今日も来てるか」 朝から長谷川課長が大声で俺を呼ぶ。本日中に提出しなければならない書類があり、本当はそちらにかかりきりになりたいのだが、上司の言葉を無視するわけにもいかない。ため息をこらえて課長席へと足を運ぶ。 「来るのが遅い。なんだ、中卒のニート君は頭だけでなく耳も悪いのか」 最初っから嫌みを口にし、それから俺の方をじろりとひと睨みしてきた。 「今日までの書類どうなってんの? 出してないの君だけだよ」 案の定、あの書類のことを突っ込まれ、俺はひとまず頭を下げる。 「すみません。今しばらくしたら提出しますので」 だが長谷川課長は獲物を見つけたとばかりに、いやらしい嫌みを連発してきた。 「今って夏休みの最終日に焦る子供じゃないんだからさ。こういうのはできるだけ余裕を持って出して欲しいんだよね。だって君大人でしょ。分かってるのかな? そこんとこ」 はっきり言うが、一週間前、俺は部内で誰よりも早くあの書類を提出していたのだ。けれど締め切り直前になって、書類の不備を理由に長谷川課長がそれを俺に突き返してきた。不備の箇所を尋ねてみても、そんなの自分で考えろと取り付く島もない態度を見せるばかりの相手に、俺は理不尽を感じずにはいられなかった。それでも仕事は仕事。幸い他の仕事は前倒しで終わらせていたため、絶対今日中に再提出してやると、俺は先ほどから書類と格闘していたのである。 だが目の前の長谷川課長は、そんなことなど忘れたとばかり口元をニヤニヤと引きつらせながら、嫌味を吐くこと自体を楽しむようにして先を続ける。 「まあ中卒ニート君にはちょっと難しいかな。いばらき君はもうちょっと大人にならないといけないね。だってこれは仕事なんだから」 そう言うなら、こんな嫌みを吐くために貴重な時間を費やしている長谷川課長も大概子供だろう。そうは思うものの、ここで言い返してもさらに粘着されるばかりなのは目に見えているため、俺はぐっと我慢してもう一度頭を下げた。 「書類は必ず本日中に提出します」 そして未だ嫌味を言い足りない顔をしている相手には気づかないふりをして、俺はさっさと自席へ戻り仕事を再開した。 長谷川課長の俺に対するこういった嫌がらせは、もはや日常茶飯事である。もちろん言いたいことはいっぱいあるが、不毛な言い合いをする暇があったら、少しでも目の前のやるべきことに時間を費やしたい。そもそもこちらの話を一切聞かないことは、入社当初ニートの勘違いを解こうとした際に体験して分かっている。諦めて、俺は今日も仕事に励むのであった。 そんなある日。 「この度、海外の企業との商談が決定した」 朝礼の場での部長の一言に、部内はにわかに湧き上がる。その企業とは、関連会社を国内外に展開しているグローバル企業で、話がまとまれば弊社にとってもこれ以上ない大きな取引となる。営業部からチームに加われるのは二人。もしそのメンバーに選ばれれば将来も明るいとのことで、部内の誰もが息を飲んで部長の次の言葉を待つ。 「部からは課長の長谷川君、そして、いばらき君」 え? みんなのざわめきと、ぽかんとした俺の声が重なった。目を見開いて突っ立っている俺の横に部長が近づいてくる。そして部長は俺の肩を軽く叩きながらこう言った。 「特にいばらき君は社長の推薦だ。まだ若いが、貴重な勉強の場だと思って大いに頑張ってほしい」 その言葉に同僚たちは「社長の推薦だって」と目を丸くしながらも、頑張れよなどと温かく受け入れてくれる。 「では長谷川君、いばらき君、よろしく頼むな」 「はい」 「あ、はい」 俺にとって初めての大きな仕事だ。緊張で足が震えながらもやる気を見せるところ、そんな俺に部長が目線を外した隙をついて、長谷川課長が睨みつけてきた。 「なんでお前みたいな中卒ニートが選ばれるんだよ。いいか? 俺の足を引っ張ったら承知しないからな」 周りには聞こえない小声で彼はそれだけ言い捨てると、また前を向き愛想のいい顔で部長を取り入り始める。そんな裏表の激しい彼と同じチームになることへの不安を覚えつつ、それでもせっかく恵まれた大きな機会を無駄にしないよう、俺は改めて気合いを入れるのであった。 一ヶ月後の商談当日は、あっという間にやってきた。その間はまさしく目が回るほどの忙しさではあったが、なんとか事前準備を終えて、あとは長谷川課長のプレゼンを待つばかりである。プレゼンのための資料を作っている時も何かと子供じみた嫌がらせはされていたが、それでもこの大きな商談を前にして長谷川課長も緊張しているのか、今日はすっかり大人しい。 そしていよいよ本番のプレゼンの時間が回ってきた。俺は長谷川課長のフォローをすべく前に出た彼の横に立ち、手元のパソコンを操作して映し出されるモニター画面の調整を行う予定である。 だが突如、長谷川課長が大げさな動作で一礼すると、全くもって寝耳に水なことを言い出したのだ。 「では、ここからのプレゼンは、ここにいる私の部下、いばらきが行います」 「え? 課長?」 戸惑う俺をよそに、長谷川課長が大きな声で説明する。 「彼は英語が堪能であり、我が社期待のホープでもあります。グローバル企業である先方へのプレゼンには彼より他いないと判断しました」 この人は何を言っているんだ? 降って湧いたようなその紹介に、俺は思わず目を向けて長谷川課長を見た。すると彼は、俺の驚く顔を見てこらえきれないとばかりに口元を吊り上げる。 「それでは、いばらき君。しっかり伝えなさい」 そんなことなど誰も思っていないのは明らかな目をしながら、表面上はニコニコ笑うと、彼は俺を一人壇上に残してさっさと会議室の隅へ引いていく。その迷いのない足取りに俺は悟った。彼は初めから俺に恥をかかせるつもりだったのだと。 あれだけ俺に仕事なんだからと嫌みを言っておいて、小さな自己満足のためならその仕事でさえも簡単に放り出す長谷川課長に、俺はふつふつと怒りが湧いてきた。けれど、今は自分の感情に振り回されるわけにはいかない。 … Read more

14 September 2026

Ho aperto il telefono per cercare una foto e ho trovato la sua galleria. Erano loro. Davide e Valentina, mia sorella, che si baciavano e ridevano in ogni scatto, da tre anni. “Vieni a casa nostra,…

Ho tirato fuori il telefono dalla borsa e ho cominciato a scorrere le foto. Le ho guardate una per una, mentre il cuore mi batteva così forte che sentivo il sangue nelle orecchie. Erano loro, sempre loro, in ogni scatto. Davide e Valentina che ridevano insieme, che si baciavano, che si toccavano con un’intimità che … Read more

14 September 2026

What Does It Actually Feel Like to Die From Obesity?

Severe obesity does not typically kill through a single dramatic event. Medical evidence describes the process as a slow, multi-system unraveling that can unfold over years or decades, with nearly every major organ system failing in sequence before death occurs. Cardiovascular disease is the leading cause of death in people with severe obesity. The process … Read more

14 September 2026

LeBron James’ Sixers Face Brutal Warning — Superteam Could COLLAPSE If They Miss The Title

A staggering prediction has emerged about the Philadelphia 76ers’ new-look super team, and it directly challenges the championship-or-bust expectations surrounding the franchise. With LeBron James, Joel Embiid, Jaylen Brown, and Tyrese Maxey now sharing a roster, the pressure in Philadelphia has reached an all-time high, but one prominent analyst has already cast doubt on just … Read more

14 September 2026

How did Ancient Humans Build Giant Stone Structures?

In the Beqaa Valley of modern Lebanon, three limestone blocks sit stacked inside a wall that has stood for nearly 2,000 years. Each weighs about 800 tons, heavier than a fully loaded jumbo jet, heavier than a blue whale, heavier than 130 adult elephants standing nose to tail. A few hundred meters away in the … Read more

14 September 2026

「わかんないかな?俺は部長の息子だぞ。無能の窓際社員は一人で食ってればいいんだよ」——電話の向こうで内藤がそう笑った瞬間、私はスマホを握ったまま、全身の血が凍る思いだった。あの日、入社式を終えた私は、予約した店で新入社員五人を待っていた。約束の時間を過ぎても誰も来ない。ようやく鳴った電話に出ると、内藤はこう言い放ったのだ。私は平社員だ。だが、彼らは知らなかった。私がかつて最年少で課長になり、…

電話の向こうから、内藤の笑いを混じえた声が聞こえてきた。俺はスマートフォンを耳に当てたまま、一瞬言葉を失った。 「内藤、どうしたんだ?もう予約の時間を過ぎているぞ。何かあったのか?」 「ああ、佐々木さん。実はさ、今日の歓迎会だけど、俺たち行かないことにしたから」 「全員来ないってことか。何か急な予定でも入ったのか?」 俺が問いかけると、電話の向こうから内藤が軽い調子で返してきた。 「わかんないかな?俺は部長の息子だぞ。無能の窓際社員は一人で食ってればいいんだよ」 その言葉に一瞬怒りが込み上げたが、俺は冷静を保って言った。 「なら、君たちの内定は今日で取り消しだ」 俺の名は佐々木俊一、四十八歳。妻と子供二人の四人家族だ。人事部に所属し、定時で帰れる日も多く、家族との時間を大切にできる日々は穏やかで幸せだった。もちろん仕事にもやりがいを感じている。特に新入社員の教育には力を入れており、彼らの相談に乗ることも多い。 うちの会社では入社式の前に新入社員の研修が行われる。俺はここ数年、その研修の担当を任されていた。毎年楽しみにしている役割だったが、今年はただ楽しむだけでは済まないだろうと感じていた。その理由は、内藤正という一人の新入社員の存在だ。内藤は東大卒で、うちの会社の営業部長の息子だった。彼の履歴書を見た瞬間、扱いづらそうだなと正直思った。だが指導する立場の人間がそんな先入観を持ってはいけない。俺は自分自身に言い聞かせ、研修の準備を進めた。 研修初日、俺は新入社員五人を迎えた。緊張しながらも熱心に話を聞き、積極的に取り組む四人とは対照的に、内藤だけは違った。彼は研修中もスマートフォンをいじり、他の四人に対して高圧的な態度を取っていた。 「こんな研修を受ける必要が本当にあるんですか。部長の息子で東大卒の俺が、こんな低レベルな内容で何を学べというんですか」 俺がやんわり注意すると、そんな答えが返ってきた。その言葉に他の四人は戸惑いの表情を浮かべていた。 「内藤君、どんなに高学歴でも、父親がうちの部長であっても、今は新人だ。会社で成功するためには基礎をしっかり身につけることが重要だ。研修はそのための場なんだよ」 「あの、佐々木さんって、平社員ですよね」 内藤は俺の注意を無視して、そんなことを聞いてきた。 「ああ、そうだが。それが何か?」 あまりに脈絡のない唐突な質問に、俺は面食らいながら答えた。 「いや、その年で平社員で、しかもこんな入社前の研修の担当をやらされてるとかって、完全に出世ルートから外れた窓際社員ってことでしょ。こんな人に何言われても響かないっていうか」 内藤が馬鹿にした口調で言った。あまりにひどい発言に反論しそうになったが、俺はぐっとこらえた。ここで言い返しては相手と同じ土俵に立つことになる。とにかく研修を無事に終わらせることだけを考え、俺は淡々と進めた。 しかし、研修が進むにつれて内藤の態度はますます悪化していった。彼は機会があるごとに自分が部長の息子であることをちらつかせ、他の四人を威圧し、自分が特別な存在であることを強調し続けた。部長の息子である内藤に迎合していた方が会社での立場が良くなるとでも思ったのか、四人は徐々に内藤に合わせるように、俺への態度もひどくなっていった。 半月後、研修期間が終わりを迎えた。研修が終わった後、俺は内藤に再度注意を促した。 「内藤君、研修はチームワークを学ぶ場でもある。君の態度は周りの人たちに悪影響を与えているよ。今のうちに直さないと、社会に出てから苦労することになるぞ」 しかし内藤は俺の言葉を聞き流すかのように笑った。 「佐々木さん、あんたは何にも分かってない。俺には俺のやり方があるんだ。そもそも俺とあんたじゃ立場が違う。俺にあんたの指導なんて必要ないんだよ」 内藤は吐き捨てるように言った。俺は深く息をついた。 そして入社式当日。うちの会社では、毎年、入社式が終わった後に新入社員を集めて歓迎会を催すことになっている。入社式は滞りなく終わり、俺は予約した店で新入社員たちを待っていた。時刻は約束の時間を少し過ぎていたが、まだ誰も来ない。すると俺のスマートフォンの着信音が鳴り響いた。ディスプレイには内藤の名前が表示されていた。 内藤が一方的に電話を切った後、俺は大きく一つ息をつくと、あるところに電話をかけた。 その翌日、社長室の扉を開けた内藤は、待ち受けていた俺と社長を前に、軽んじた表情でつぶやき、動きを止めた。内藤はなぜ呼び出されたのか、全く見当がついていない様子だった。社長は厳しい表情で内藤を見つめている。 「内藤君、どうぞ座ってください」 社長が静かに言った。内藤は軽んじた表情のまま、俺と社長の向かいにゆっくりと腰を下ろした。 「今日は何の用ですか?」 さすがの内藤も社長を前にして緊張しているようだ。 「昨日の歓迎会、なぜ欠席したのか説明してもらおうか」 社長は内藤をまっすぐ見据え、厳しい口調で言った。その言葉を聞き、内藤は一瞬目を見開き、俺に怒りのこもった視線を向けてきた。俺が社長に告げ口をしたとでも思っているのだろう。俺はその視線を真っ向から受け止めた。 「内藤君、私は君に質問をしているんだが」 俺を睨みつけ、黙ったままの内藤に、社長はさらに厳しい口調で問いかけた。 「えっと、歓迎会ですか?佐々木さんが何をどう言ったか知りませんが、正直あんな集まりに参加する意味がないと思ったんです。社長や役員の方たちがいらっしゃる食事会ならもちろん喜んで参加させていただきましたが、佐々木さんとでは特別有意義な時間が過ごせると思えませんでしたから」 内藤は馬鹿にするように薄笑いを浮かべながら言った。その言葉を聞いた瞬間、社長の表情がさらに険しくなる。 「佐々木君は、うちの会社でもう二十年以上働いてくれている優秀な社員だ。その彼との食事が有意義じゃないとは、どういうことかな?」 「お言葉ですが社長。佐々木さんの年齢でただの平社員だということは、優秀ではないということじゃないんですか?だって窓際社員ってことでしょ。確か私の父は四十歳の時にはすでに営業部で課長になっていたと思います。優秀というのは、私の父親や俺のような東大卒のことを言うのではありませんか?」 内藤は勢いよく言った。 「内藤君は何にも分かってないな」 俺は以前、内藤に言われた言葉をそっくりそのまま返した。内藤は怒りのこもった目で俺を睨む。 「内藤君、君は大きな勘違いをしている」 社長の低く力強い声が部屋に響いた。 「勘違い?」 内藤は眉間にしわを寄せながら社長の言葉を繰り返した。 「佐々木君は窓際社員なんかではない。役職のことを言うなら、彼は最年少で営業部の課長になった人物だよ。確か君の父親の後に課長になったのが佐々木君だ。それに彼は我が社の危機を何度となく救った、私が最も信頼している極めて優秀な社員だ」 「は?最年少で課長?会社の危機を救った?いやいやいや、そんなのおかしいだろう。じゃあなんで今、人事部で平社員なんてやってるんだよ」 あまりにも信じられなかったのか、内藤は動揺しすぎて敬語で話すことを忘れてしまったようだ。俺は今の自分の立場について、そして事情について内藤に説明することにした。 「俺は十年ほど前まで営業部に所属していた。自分で言うのもなんだが、営業成績は常にトップクラスだった。大変なことも多かったが、それを上回るやりがいがあった。会社の経営が傾きかけた時、大口の契約を取って救世主なんて呼ばれたこともある。出世街道まっしぐらで、三十四歳で課長になった。年功序列の風潮が根強く残っていたうちの会社では、かなり早い出世だった」 課長になってから仕事はさらに忙しくなり、残業や休日出勤は当たり前になった。自分なりに家族も大切にしているつもりだったが、家のことや子供のことはほとんど妻に任せっきりになっていた。 そんなある日、妻が突然倒れた。俺は仕事にかまけて妻の異変に気づけなかった自分を責めた。幸い妻は命に関わる状況ではなかったものの、このままではいけないと思った俺はすぐに異動願いを出した。事情を説明し、すぐに人事部への移動が決まったのだった。 「佐々木君を役職にという声は多いんだが、本人がそれを望んでいないから、表面上は平社員ということになっている。だが、これだけ優秀な社員をただの平社員にしておくのはもったいない。彼の実力を見込んで、今は社長直下の特別顧問として、人事の最重要案件に関わってもらっているんだよ。新入社員の研修もその一環というわけだ」 … Read more

14 September 2026

畑の真ん中で、男がうちの野菜を根こそぎ引き抜き始めた。「下請けの農家が調子に乗るからだ。こんな畑、めちゃくちゃにしてやる」私は地面に尻餅をついたまま、声も出なかった。数日前、父の代理で契約更新に行ったはずが、担当の田口という男に「農家のゴミが意見するな」と怒鳴られ、あまりの横暴さに母と二人でその場を後にした。それだけでは終わらず、彼はわざわざうちの畑まで乗り込んできたのだ。土の上で笑う田口の…

田口が机を拳で叩きながら怒鳴った。 「俺らのおかげで飯が食えてんだろうが。農家のゴミが意見するな。お前らの損なんか知らねえし。黙ってうちに言われた通りに野菜を納品してりゃいいんだよ」 飲食を扱う会社の社員にあるまじき発言に、私は心底うんざりした。隣に座る母と頷き合い、立ち上がる。 「なるほど。これが御社の回答ですか。よくわかりました」 にっこり微笑んで、母と一緒にその場を後にした。 私の名前は風華。農家生まれの三十歳だ。子供の頃から両親の畑を継いで野菜を作りたいと思っていた。その夢は今も変わっていない。大学卒業後は両親の後継者として毎日畑に出ていた。 そんなある日、父が腰を痛めて寝込んだ。肥料の袋を一度に二つ持ち上げようとして、ぎっくり腰をやってしまったらしい。いつも元気に畑を動き回っている父が布団に横たわっているのを見ると、なんだか切ない気持ちになる。 「こうしてみると、お父さんも年を取ったわよね」 その気持ちを打ち消そうと明るく尋ねた。 「そういえばお父さん、そろそろ契約更新の時期でしょ? あの外食チェーン店の担当の人と会うんじゃなかった? 」 父が契約して野菜を納品している会社の中に、大手の外食企業がある。いくつもチェーン店を展開していて、うちの契約先の中でも大きな会社だ。長年お世話になっている。 私の疑問に父が頷いた。 「ああ。あ、それなんだがな。お前、代理で行ってきてくれないか? 先方には俺の方から事情を電話しておくから」 「え、私でいいの? 」 思いがけない頼み事に驚くと、父が小さく笑った。 「ああ、何を今更。風華は俺の後継だし、問題ないだろ。そのうちお前を後継として色んなところへ連れて紹介に行かないとも思っていたんだ」 「私もついていくし、担当の瀬沢さんはとてもいい人だから大丈夫よ」 母の申し出に少しほっとする。うちの代表は父だが、母も昔から父を支えてきた。 「それなら心強いわ。私、土いじりばっかりだったから。失礼のないようにビジネスマナーの本も読もうかしら」 私が言うと、両親は揃って笑った。 約束の日の当日。私と母が通された部屋で待っていると、若い男性が入ってきて、私たちは立ち上がった。 「田口です。今日はよろしくお願いします」 あれ、確か担当の人の名前は瀬沢って言ったはず。困惑しながら私と母は揃って頭を下げて挨拶した。母を見ると、小さく首を振っている。え、じゃあこの人は誰なの? 「はあ。今回から僕が担当に変わったんすよ」 田口は立ったままの私たちなどお構いなしに、どかっと椅子に座りながら机に名刺を滑らせた。その様子に内心むっとしながら、私は名刺を手に取る。 「僕は今年入った同期の中でも一番期待されてるエリートですから。農家の担当なんか余裕っすわ」 田口がふんと笑った。 今年入ったって、新入社員? そんな新人さんが長年契約してきたうちの担当になるなんて、ありえないんじゃないかしら。しかも言葉遣いも態度もなってないわね。そう思いながらも、私は改めて説明した。 「すみません。先日連絡させていただいたのですが、父は体調が悪く、娘の私と母が代理で参りました」 「ああ、はい。うん。聞いてますよ。それなら仕方ないっすよ。風花さんでしたっけ? いや、意外と可愛い顔してますね。もっと芋っぽい子だと思ってました。農家だけに」 は、思わず変な声が出てしまう。人を馬鹿にしているのかしら。というか、上手いこと言ったつもり? いくら契約先の社員だからって、初対面なのに馴れ馴れしいわね。心の中で暴れる私を必死に抑え込み、なんとか笑おうと表情筋をフル稼働させた。 「あ、それで契約更新のお話なんですが」 黙って見守っていた母が私の代わりに話を逸らしてくれた。私もはっとして背筋を伸ばす。私ったらお父さんの代理で来てるんだもの。もっとしっかりしなきゃ。 「ああ、その話。はい。はい。契約更新についてね。まあ、野菜なんてどれも一緒だし。お宅のところで今まで問題なかったようなんで、継続でいいっすよ」 田口の言葉に、私は無意識のうちに前のめりになった。そんな私に気づく様子もなく、田口は言葉を続ける。 「ああ、そうだ。今までの契約の記録見たんすけど、ちょっとお宅のとこの単価高くありません? 特にブランド力もない平凡な野菜なんだから、もっと安くして欲しいんすけど。今の単価の半額とかどう? それか今の単価のまま納品数増やすとか」 私と母は開いた口が塞がらなかった。特に母はショックが強かったのか、肩を震わせて膝の上でスマホを握りしめている。 「さっきからずっと思っていたんですけど、失礼すぎませんか? 確かにブランドって言うのは今はないですけど、うちの野菜は艶もいいし、水々しいって評判なんですよ。それにそんな無理な要求は飲めません。今日ここにいるのが父だとしても、認めないはずです」 私が言い放つと、田口は途端に不機嫌そうに鼻を鳴らした。その雰囲気が冷たく乱暴なものに変わっていく。 「は? 何? 下請けの農家の分際で俺に意見するわけ? お宅のまずい野菜を契約してやってるうちに感謝しなよ。担当者の俺に意見するって、会社自体に意見するってことだけど、そこんとこ分かってんの? 」 カチンを通り越して、ブチンと頭の中で何かが切れる音が聞こえた気がした。私が父の代理でここに来たのは忘れていない。父や母に恥をかかせないよう、失礼のないようにとずっと自分に言い聞かせてきた。 … Read more

14 September 2026

How Did Ancient Women Manage Their Periods?

For most of recorded history, menstruation has been framed as dangerous, shameful, or sacred—often all at once. The reality of how ancient women managed their periods looks very different from what modern assumptions might suggest. One crucial fact reframes the entire subject: women in the ancient world dealt with menstruation far less often than women … Read more

14 September 2026

お正月に夫の実家で、義母が私の顔を見るなりこう言った。「あき子さん、おせち料理なんて食べたことないでしょ。貧乏だったんだから、かわいそうに」。私はただ笑ってやり過ごした。夫の勇気は毎回かばってくれるけど、義家族は誰も信じない。実家と絶縁していることしか知らないくせに、借金や貧乏だと勝手に決めつけてくる。本当は父が大手企業の社長で、私もその一人娘だ。でもそれを言えない理由があった。三年前、トリ…

私の名前はあき子、二十八歳。昔から犬が大好きで、今はトリマーとして働いている。夫の名前は勇気、同じ二十八歳で、結婚して三年になる。夫は出会った頃から今も変わらず私を大事にしてくれている。毎日楽しく幸せに暮らしていて、夫に対する不満は何ひとつない。ただ、一つだけ問題がある。夫の実家の人たちのことだ。 お正月やお盆には、夫の実家に必ず顔を出すようにしている。ところが、夫の実家の人たちはいつも私を馬鹿にしてくるのだ。 「あき子さんは、お正月におせち料理を食べたことあるのかしら。昔から貧乏だったのね。かわいそうだから、食べていいわよ」 そんなふうに、まるで私が貧乏な人間であるかのように扱ってくる。勇気と結婚した時、私はすでに実家と絶縁状態にあり、親族での顔合わせもしていなかった。絶縁していることしか知らないのに、なぜか夫の実家の人たちは私を貧乏人扱いするのだ。 「実家と絶縁したのも、親の借金とかそういうのでしょ。きっとそうよ。かわいそうにね」 姑と義姉は勝手に想像した話をしている。酒が入っている舅は「借金をする親なんていい親じゃないぞ。絶縁して正解だ」と言って私の肩を叩いてくる。私はただ笑うしかなかった。こういう人たちに絶縁の理由を話しても意味がないと思っていたからだ。 「ちょっとやめろよ。あき子の家はすごいんだぞ。何か言えば分かるんだよ。あの大手企業の娘なんだってば」 私を馬鹿にする家族を見て、夫が声を荒げてそう言った。このやり取りは毎回のことだ。夫が毎回かばってくれるのだが、夫の実家の人は誰も信じようとしない。 「そんなわけないでしょ。大手企業の娘さんがこんな子なわけないじゃない。絶縁してることをいいことに、嘘ついてるだけよ」 姑は馬鹿にしたように笑いながら、夫にそう言う。 「だから馬鹿にするのやめろって。いい加減にしろ」 お母さんと義姉に怒る夫を見て、「勇気、大丈夫よ。いつもかばってくれてありがとうね」と私がなだめる。「本当にごめんよ」と、毎回夫が私に謝ってくる。夫は何も悪くないのに。 夫の実家も私を馬鹿にしたいだけかもしれないが、毎回一緒に呼んではくれるし、食事も用意してくれている。だから私はあまり気にしないようにしていた。また始まったなと流すのが一番だ。なんせ夫が自分のことのように怒ってくれている。それだけで十分だった。私は嬉しかった。 大手企業の娘であることは事実だが、それがゆえに絶縁状態になったから、私はそのことを口にしたくなかった。私と両親が絶縁状態になった理由、それはこういう経緯である。 私は高校を卒業した後、すぐに父の会社を手伝っていた。しかし、昔から犬が好きで、トリマーになる夢があった。その夢を諦めることができず、父に相談した。 「私はトリマーになりたいの」 「俺は一人娘のお前に会社をついでほしい。それで困るんだ。高がトリマーだろう。会社を継いだ方が稼げるぞ。親孝行だと思ってくれよ」 お金のことしか頭にない父の考えが、私には理解できなかった。それ以降、父とはあまり話さなくなった。父も私も頑固なため、どちらも歩み寄ろうとはせず、ずっと仲直りできないまま、私はトリマーになる夢を追いかけることを決意した。そして半ば強引に家を出たのだ。 「勝手にしろ。二度と家に帰ってくるな」 それが父に言われた最後の言葉だった。それ以降、私は実家に帰れず、父には会っていない。母ともあまり連絡を取ることはなかった。父が「お前も絶対に連絡を取るな」と母を止めていたそうだ。その後、私は無事にトリマーの資格を取得し、念願のトリマーになることができた。引っかかれたり噛まれたりすることも多く、腕は傷だらけになって大変だが、大好きな犬と触れ合い、夢だった仕事に就けて、すごく楽しい。毎日充実して過ごしていた。 夫の勇気はペットショップに勤務しており、私は併設されているトリミングサロンで働いていた。休憩室でお昼ご飯を食べていると、ちょうど勇気も休憩のようで入ってきたのだ。最初は他愛ない会話をしていたのだが、休憩時間に会うことが多くなり、話す機会が増えた。お互いが犬好きなこと、考えや趣味も似ていて、自然と付き合うことになる。交際二年の記念日に勇気からプロポーズをされ、結婚した。 父には、月日が経つにつれてどんどん謝りづらくなってしまった。きっと父も同じ気持ちだったのだろう。そのままどんどん家族の溝は深くなってしまい、今に至る。結婚の報告もまだできていなかった。 するとある日、母から珍しく電話があった。仕事中だったためすぐに出ることができず、私は仕事が終わってから電話を折り返した。 「お父さんが事故に遭って、今、緊急手術中なの」 震える声で母が話した。突然のことで戸惑う私。そんな時、頭によぎったのは、なぜだか父との楽しい思い出だった。休みの日にはいつも好きなところに連れて行ってくれたこと、母に内緒で焼肉に行ったこと。父のことが好きだったなと、私は思う。すぐに家を出ようと玄関まで行ったが、足が止まった。本当に私が行っていいのだろうか。父は今でも私を許していないのかもしれない。私のことを親不孝だと思っているのではないか。でも、もしこのまま死んでしまったら。頭の中がぐちゃぐちゃになり、私は動けないままでいた。 その様子を見た夫がこう言った。 「一生会えなくなってもいいのか? 俺も一緒に行くから、早く」 背中を押され、病院へ急いだ。病院へ着くと、母が泣きながら座っている。まだ手術は終わっていないようだ。母は私に気づくと、 「来てくれてよかった。久しぶりに顔が見れたわ」 と涙ながらに言った。私も思わず泣いてしまい、「心配かけてごめんなさい」と母に抱きついた。夫のことも紹介し、しばらくすると父の手術が終わった。医師に無事に成功したと言われ、皆でひと安心。母と夫と一緒に、父が目覚めるのを待つことにした。 しばらくすると、父が目を覚ました。 「あき子か。来てくれたのか」 「お父さん、よかった。無事で」 私は嬉しさのあまり、父の手を握った。それを見ていた夫の目にも涙が浮かんでいる。父は泣いている夫を見て、 「君は旦那さんか?」 「はい。夫の勇気と申します」 「こんな頑固な娘をもらってくれてありがとう」 「ちょっと」 こんな状況の中でもそんなことを言い、その場が和んだ。その後、容態も安定し、二週間ほどで退院できるそうだ。 「お父さん、今までごめんなさい。意地になってしまって、なかなか謝ることができなくて」 「お父さんこそごめんな。意地を張りすぎてしまった。やはり親子だな。ははは。ずっと後悔してたんだ。あき子がやりたいことを応援できないなんて、親らしくなかったな。本当に申し訳ない」 「私こそだよ。もっと方法はいくらでもあったのに」 こうして私と父は仲直りし、絶縁状態ではなくなったのだ。それから時間がある度に病院へ行き、父と会っていなかった時間を取り戻すかのように、色々と話すようになった。それからしばらくして、父は後遺症などもなくすっかり元気になり、すぐに仕事にも復帰した。 そして、結婚した時にできなかったからと、父は勇気の両親に挨拶をしたいと言い、皆で夫の実家へ向かった。夫の実家まで距離もあったので、父の車で向かったのだが、乗っているのは日本に数台しかない高級車だ。 「気合入れて洗車までしちゃったよ」 父は笑顔で嬉しそうだ。車を走らせて一時間後、夫の実家へ到着した。高級車を見て、夫の実家の人は目をまん丸にしている。 「これって高級車じゃない? 最近日本に数台しかないってテレビで見た気がするけど」 「え? 誰の車?」 とこそこそ話している声が聞こえた。 「お父さん、お母さん、こんにちは。お邪魔します」 私は笑顔で挨拶をした。 「初めまして。あき子の父です。ご挨拶が遅くなり、本当に申し訳ありませんでした」 … Read more

14 September 2026

研修医が患者の手を握り「一緒に頑張りましょう」と声をかけたあの日から四年、俺はオペ室に立つ資格を失っていた。「慎重と臆病は違う」。そう言い放った部長の一言で、俺の執刀は奪われた。後輩の助手として無影灯の下に立つだけの日々。看護師の美生だけが、俺の言葉にならない判断を拾ってくれた。彼女のロッカーに「白川」と書かれた古い名札があることを知った夜、すべてが繋がった。俺は自分が誰かを救っていたことす…

朝の会議室の空気は重かった。長机の上に並んだカルテと白く光るモニター。俺は一番奥の席で配られた資料に目を落としていた。正面に座る黒崎外科部長がゆっくりとページをめくる音だけが響く。 「先週の症例だが」 名前を呼ばれて、俺は背筋を伸ばした。 「術中判断に二度迷ったな。出血の処置、それと剥離の手順。なぜすぐに動かなかった?」 「薄い部分の血管走行が術前画像と少し違っていたので、慎重を期したつもりです」 「慎重と臆病は違う」 短い言葉だった。だが、その一言で会議室の全員が黙った。俺は資料を握る指に無意識に力を込めていた。 「次の症例だが、これは神谷で行く。高代は第二助手だ」 「了解しました」 短く返事をする。それ以外にできることがなかった。斜め向かいの席に座る神谷が申し訳なさそうに俺をちらりと見た。こいつは悪い男じゃない。だが、その目に浮かぶ哀れみが、俺には何より堪えた。 俺の名前は高代誠。四十三歳。地方総合病院の外科医だ。医師になって十六年。この病院に来てからは八年になる。かつてはそれなりに手術を任されていた。ところが二年ほど前から、俺は手術中に判断を迷うことが増えた。ほんの数秒の迷いが、ベテラン医師には致命的だった。気づけば、俺は「決断が遅い男」と呼ばれていた。 カンファレンスが終わり、医師たちが立ち上がる。俺はノートを閉じ、最後に部屋を出た。廊下に出ると、神谷が後ろから追いかけてきた。 「高先生、すみません。次の症例、俺が」 「気にするな。お前の腕なら問題ない」 「いや、でも前回の手術は先生が」 俺は足を止めて、できるだけ穏やかに笑った。 「お前はもう一人前だ。胸を張れ」 神谷は何か言いかけて、結局口を閉じた。俺は先に廊下を歩き出した。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。振り返れば、自分の弱さが顔に出そうだった。 午後、神谷の執刀での手術が始まった。俺は第二助手。要するに術野を広げ、邪魔にならないように立っているだけの役割だ。無影灯の下、神谷の手は確かだった。若いが、迷いがない。俺はその手元を見ながら、自分の指先が動かないことに気づいていた。 神谷が剥離の手順で一瞬迷った。 「ここ、もう少し奥でいいですか?」 「いや、その手前で止めた方が」 言いかけて、俺は口を噤んだ。意見を言える立場ではない。そう思った瞬間、隣の器械出しがすっと別の鉗子を差し出した。朝倉美生。この病院で一番優秀と言われる看護師だ。彼女は俺の言いかけた言葉を察したのか、神谷の手元にちょうどいい位置で器具を置いた。 「先生、こちらの方が動きやすいかと」 「ああ、助かる」 神谷は気づいていない。だが、彼女が今、俺の判断を拾ってくれたのが、俺には分かった。手術は無事に終わった。患者がストレッチャーで運ばれていく時、麻酔が浅くなった患者がうっすら目を開けた。不安そうな目だった。俺は思わずその手に軽く触れた。 「もう終わりましたよ。大丈夫です」 患者が小さく頷く。その横で美生が患者の肩にそっと手を添えた。 「高代先生がついていてくださいましたから、安心してくださいね」 患者はほっとしたように目を閉じた。俺は何も言えなかった。俺がついていたと彼女は言った。本当はただ立っていただけなのに。 手術室を出て休憩室に向かった。缶コーヒーを買い、ソファに腰を下ろす。脱いだ上着を膝に置いた時、ふと隣の棚に置かれた小さな布袋が目に入った。美生のものだ。口が少し開いている。中から古びた札のようなものが覗いていた。「白川」と書かれた変色した札。誰のものだろうか。俺はそれをぼんやりと眺めていた。 ドアが開いて、美生が入ってきた。俺の視線に気づいた彼女は、一瞬だけ表情を固くして、すぐに袋の口を閉じた。 「あ、見るつもりじゃ」 「いえ、古いものなので」 それだけ言って、彼女は袋を引き出しの奥にしまった。 「先生、お疲れ様でした」 「ああ、お前もな」 彼女は短く頭を下げて出ていった。 その日の夜、俺は当直明けの神谷と入れ替わりで病棟の見回りをしていた。廊下は静かで、ナースステーションの蛍光灯だけが白く光っていた。午後、手術した患者の病室を覗く。患者は目を開けて天井を見つめていた。俺に気づくと、小さく手を上げた。 「先生、あの、明日からもよろしくお願いします」 「ええ、しっかり見させていただきます」 「先生に見てもらえると安心します」 その言葉が胸に刺さった。安心。俺にその資格があるのか? 迷い続け、手術すら任されない。 俺は病室を出て、廊下の窓際に立った。外は雨が降り始めていた。ガラスに自分の顔が映っている。疲れた中年の男の顔だ。 医師をやめようか。そんな考えが、最近よく頭をよぎる。やめて何か別の道を探した方が、患者のためかもしれない。俺の迷いが、いつか誰かを死なせるかもしれない。そう思うと、メスを握る手が震えそうになる。 足音が近づいてきた。振り返ると、白い制服の上にカーディガンを羽織った美生が立っていた。 「先生、まだお帰りじゃなかったんですね」 「ああ、少し見回りを」 美生は俺の隣に並んで、同じように窓の外を見た。しばらく二人とも黙っていた。雨音だけが廊下に届いていた。 「先生、今日の手術中、本当はおっしゃりたいことがあったんじゃないですか?」 「いや、特にはない」 「私、見ていて分かりました。先生の判断、合ってましたよ」 俺は窓ガラスを見たまま答えなかった。俺は決断が遅い。黒崎先生にも言われている通りだ。 「決断が遅いんじゃありません。先生は優しすぎるだけです」 … Read more

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