十年前、妻に「二度と俺の前に顔を見せるな」と怒鳴った翌日、彼女は交通事故で亡くなった。遺体は焼け焦げて顔も分からず、私は恐怖のあまり骨壺だけを受け取った。あれから毎年、精月寺に通い、妻の骨に詫び続けてきた。ところが先日、法要の最中、回廊を歩く尼僧の背中を見た瞬間、全身の血が凍った。左肩が下がった、あの立ち姿。妻の癖そのものだった。そして今朝、寺の庭でその尼僧と向き合った時、彼女は震える声で言…
その年も剣一は杖をつきながら、苔むした石段を一段ずつ踏みしめていた。息が切れる。心臓が早鐘を打つ。六十八歳という年齢のせいだけではない。この精月寺へと続く参道は、彼にとってただの道ではなく、過去の罪を背負って歩く終わりなき贖罪の道だった。晩秋の冷たい風が山肌を滑り降りてくる。彼の吐く白い息に混じって、ふと甘く重たい香りが鼻先をくすぐった。金木犀。金木犀だ。剣一は思わず足を止め、胸元を強く掴んだ。この季節にはもう散っているはずの花の香りが、なぜか今、強烈に漂ってきたのだ。 「まさ子、お前、今年も俺を呼ぶのか。」 喉の奥で押し殺した声は、誰に届くわけでもなく虚空へ消えた。十年前のあの日も、庭には金木犀が満開だった。そしてあの日、彼が妻であるまさ子に浴びせた言葉は、今も鋭い刃物となって剣一の心臓に刺さったままだ。 「いい加減にしろ。二度と俺の前に顔を見せるな。」 それが最後の会話になった。その日のまさ子は交通事故にあった。警察からは損傷が激しく、顔での判別は不可能と言われた。剣一は恐怖と罪悪感から遺体と対面することさえ拒絶し、震える手でただ骨壺だけを受け取ったのだ。 「俺が殺したんだ。あの一言があいつを死へと追いやったんだ。」 剣一は重い足取りで山門をくぐり、本堂へと向かった。本堂にはすでに多くの参拝者が座り、低い読経の声が響いていた。線香の煙が白く立ち込め、視界をぼんやりと霞ませている。彼はいつもの場所、本堂の右端にある太い柱の影に膝を下ろした。ポケットから数珠を取り出す。国端の冷たい感触が指先から全身へと伝わった。目を閉じ、手を合わせる。 「まさ子、すまない。今年も来たよ。許してくれとは言わない。ただ……」 その時だった。閉じた瞼の裏を一筋の風が通り抜けた気がした。堂内の空気がふっと変わったのだ。線香の匂いに混じって、先ほどの金木犀の香りがまた鼻先をかすめた。剣一は引かれたように顔を上げた。視線の先、本堂の奥にある長い回廊を、一人の尼僧が静かに歩いていくところだった。灰色の衣をまとい、白い足袋を履いた足取りは音もなく滑るようだ。顔は見えない。だが剣一の目はその背中に釘付けになった。少し左に傾いた華奢な肩のライン。そして、数珠を握りしめた右手の親指で人差し指の付け根を落ち着きなく何度も擦る、その仕草。 どくん、と心臓が痛いほど跳ねた。全身の血液が逆流し、指先の感覚が一瞬で消え去る。 「まさか……そんなはずはない。あいつは死んだんだ。十年前に俺が葬式を出したんだ。これは幻覚だ。罪悪感が見せる悪い夢に違いない。」 だが剣一の体は意思とは裏腹に動いていた。痺れた膝を無理やり立たせ、よろめく足取りで柱の影から身を乗り出した。声にならなかった。しかし、その視線を感じ取ったのか、回廊を行く尼僧の足がぴたりと止まった。ゆっくりと、あまりにもゆっくりと、尼僧が首を巡らせる。堂内の読経の声が剣一の耳から遠ざかった。時が止まるとはこういうことか。 尼僧の顔が半ば影になりながらも、剣一の方を向いた。深い皺が刻まれている。眉は剃り上げられ、青白い。だがその目。大きく見開かれ、潤んだ瞳。悲しみを湛えたその目は、十年前、彼が怒鳴りつけた時にまさ子が見せた目、そのものだった。剣一と尼僧の視線が線香の煙越しに絡み合う。間違いようがない。骨格も、眉の形も、そして何より、自分を見て明らかに動揺し、唇を震わせているその表情。 「まさ子、なのか。」 剣一の唇が動いた瞬間、尼僧ははっとしたように表情を固くし、まるで何か恐ろしいものから逃げるように素早く袖で顔を隠した。そして逃げるように回廊の奥へと早足で消えていった。 「待ってくれ、まさ子!」 剣一は叫ぼうとしたが、喉が張り付いて音が出ない。その場に崩れ落ちるように膝をついた。彼の手のひらには、知らず知らずのうちに力が入りすぎて、引きちぎれた数珠がばらばらと床に散らばっていた。乾いた音が、静寂を取り戻した本堂に虚しく響き渡る。死んだはずの妻が今、目の前にいた。十年前の骨壺の中身は、一体誰だったというのか。剣一の目から、血よりも濃い涙が溢れ出した。 玄関のドアを閉めた途端、剣一は膝から崩れ落ちた。三和土の冷たさがズボンの生地を通して膝頭に染みてくるが、立ち上がる気力もない。静まり返った家の中、古びた柱時計が時を刻む。ボーン、ボーンという重い音だけが耳鳴りのように響いている。 「俺は、とぼけたのか。」 震える手で靴を脱ぎ、這うようにして居間へ入る。薄暗い部屋の空気がじっとりと肌にまとわりつく。精月寺で見たあの尼僧の残像が、瞼の裏に焼きついて離れない。あの目。あの右手の指を擦る癖。だが、そんな馬鹿な話があるものか。剣一は自分の頬を両手で強く叩いた。痛みで正気を取り戻そうとした。 「あいつは死んだんだ。十年前に俺がこの手で骨を抱いたんだ。」 しかし否定すればするほど、記憶の蓋がこじ開けられていく。脳裏に蘇えるのは、十年前のあの日、九月三日の朝の光景だ。あの朝、まさ子はいつものように台所に立っていた。だがどこか手際が悪かった。弁当のおかずを詰める手が震え、味噌汁が少し鍋にこぼれていた。当時の剣一は、会社での重圧と人間関係のストレスで神経が擦り切れていた。些細なことが許せなかった。 「おい、何をもたもたしてるんだ。俺を遅刻させる気か。」 怒鳴り声に、まさ子はびくっと肩を震わせ、小さく謝った。 「ごめんなさい、あなた。少し体が重くて……」 「言い訳なんて聞きたくない。お前は家にいるだけでいい、気楽な身分だから。そうやって甘えてるんだ。」 言葉はエスカレートした。止まらなかった。剣一はスーツの上着をひったくり、玄関へ向かった。追いかけてきたまさ子が背中に向かって何かを言おうとした、その時。彼は振り返りもせずに吐き捨てたのだ。 「うるさい。もううんざりだ。二度と俺の前に顔を見せるな。」 バタンと乱暴にドアを閉めた音が、二人の別れの合図となった。その数時間後、警察から電話が鳴った。 「奥様と思われる女性が交通事故に巻き込まれました。身元確認を……」 警察署の暗い廊下。消毒液と土の匂いが混じった。若い警察官は言った。 「遺体はその車の火災に巻き込まれておりまして、損傷が激しく、お顔を見ての確認は難しいかと。」 剣一はその言葉に頷いてしまったのだ。直前に浴びせた暴言。もしまさ子の亡骸が自分を恨むような顔をしていたら。その恐怖に耐えられなかった。彼は白い布をめくる勇気を持てず、震える声でただ答えた。 「妻のコートです。間違いありません。」 DNA鑑定も待たず、状況証拠だけで全てを終わらせた。早く何もかもを忘れて、罪の意識から逃れたかったからだ。 「俺が殺したんだ。」 剣一はソファーに顔を埋めた。顔を見せるなと言った俺の呪いを叶えるためにお前は顔のない遺体になって帰ってきた。そうだろう、まさ子。夕闇が濃くなる中、剣一はふらりと立ち上がり、仏壇の引き出しを開けた。そこには生前のまさ子が微笑む写真がしまってある。家族旅行で撮った一枚だ。震える指で写真を取り出し、ガラス越しに妻の顔を見つめる。優しく垂れた目尻。控えめな口元。やはり今日見たあの尼僧と重なる。重なりすぎて恐ろしい。 「お前なのか。本当にそこにいたのか。」 剣一は衝動的に写真の裏板を外した。写真を直接手に取り、その感触を確かめようとした時だった。写真と裏板の隙間に挟まっていた、変色した四つ折りの便箋がひらりと床に落ちた。 「え……十年、一度も気づかなかった紙片。」 心臓が嫌な音を立てる。剣一は床に膝をつき、その紙を拾い上げた。指先が震えてなかなか開けない。がさりと乾いた音を立てて開かれた紙には、見慣れた、しかし乱れたまさ子の筆跡で、短い一文だけが記されていた。 「あなたが望む通り、私は消えます。さよなら。」 息が止まった。これは遺書か? それともあの日の朝、家を出る前に書いたものなのか? 「あなたが望む通り」、それはつまり「顔を見せるな」という俺の言葉への返事なのか。だとしたら、あの遺体は……もしまさ子が死んでおらず、自らの意志で消えたのだとしたら…… 「うわあああ!」 剣一の絶叫が、誰もいない家にこだました。手の中のメモが、まるで焼けつくように熱く感じられた。 父の家の重い玄関扉が閉まる音が、背中で鈍く響いた。歩みはしばらく、ドアの把手に手をかけたまま動けなかった。剣一の様子があまりにも異常だったからだ。十回忌の法要を終えて帰宅した後、父はまるで何かに取り憑かれたかのように青ざめ、歩みとお茶を飲むことさえ拒んで自室にこもってしまった。 「疲れたから寝る。帰ってくれ。」 追い立てるその声は震えていた。 「お父さん、一体どうしちゃったの?」 車のシートに身を沈め、歩みは大きくため息をついた。エンジンをかけても、すぐにはアクセルを踏めない。ワイパーが小雨を払う規則的な音だけが車内を満たす中、彼女の脳裏にもまた、法要ですれ違った一人の尼僧の姿がこびりついていた。法要の最中、父が突然立ち上がりかけた、あの瞬間。歩みは父の視線を追った。そこにいたのは、灰色の衣をまとい、足早に回廊を去っていく小柄な背中だった。一瞬だった。顔など見ていない。だが、その尼僧が角を曲がる寸前、ふと立ち止まり、こちらを振り返るような素振りを見せた時のことだ。歩みの胸の奥で、言語化できない強烈な既視感がざわざわと波打った。あの立ち姿。少し猫背気味で、左肩が右肩よりわずかに下がっている。それは母、まさ子の特徴だった。長年家族のために重い買い物袋を左手で持ち続けたせいでついた、母の生活の証とも言える身体の癖だ。 「まさか。お母さんは十年前に死んだから。」 歩みは自分に言い聞かせ、アクセルを踏み込んだ。母が亡くなったあの事故。警察からは遺体の損傷が激しいと聞かされ、棺の蓋は釘打ちされていた。歩み自身も、まだ幼い悲しみと混乱の中で、父が言うままに現実を受け入れるしかなかった。骨になって帰ってきた母。その事実だけが揺るぎない真実のはずだ。しかし自宅マンションに戻っても、あの左肩の下がった背中が頭から離れない。父のあの慌てぶり。ただの幻覚を見たにしては、反応が生々しすぎた。 夜中の一時過ぎ、眠れなくなった歩みはベッドサイドのスマートフォンを手に取った。画面の明かりが暗い部屋の中で彼女の深刻な表情を青白く照らし出す。検索窓に「精月寺」と打ち込む。古くから有名な寺だが、最近は若手の僧侶がブログやSNSで修行の様子を発信していることでも知られていた。画面をスクロールする指が、ある記事で止まった。タイトルは「秋の特別法要のご報告」。数日前にアップされたばかりの記事だ。本堂の写真、住職の説法、色づき始めた紅葉の写真が並ぶ。歩みはさらに過去の記事へと遡った。何を探しているのか自分でも分からないまま、ただ胸騒ぎに従って指を動かし続ける。そして、半年前の「境内の清掃」というタイトルの記事を見つけた時、彼女の指が凍りついた。 … Read more