「金庫の五百万がない。お前の仕業だな。この泥棒女が」。夫の怒号と同時に皿が顔の横をかすめ、壁で粉々に砕け散った。専業主婦になって半年、私は毎日のように夫の機嫌をうかがいながら生きてきた。生活費を止められ、パートと在宅ワークで眠る時間を削って耐えてきた。それでも「お前の家族は全部俺の所有物だろう」と妹にまで手を出そうとした夫を、私は許せなかった。警察が来た時、夫は勝ち誇った顔で私を指差した。「…
「金庫の五百万がない。お前の仕業だな。この泥棒女が」 健一の怒号が家中に響き渡り、投げつけられた皿が私の顔をかすめて背後で粉々に砕けた。破片が床に散らばるのを見下ろしながら、私は思わず息を呑んだ。夫の声はこれまでにない狂気を帯びていた。 「ま、待って。そんなの私、知らないわ」 「黙れ」 そう言うと健一はスマホを取り出し、躊躇なく一一〇番通報した。電話越しに機械的で冷淡な言葉が流れる。 「はい。嫁が金を盗みました。今すぐ来てください」 やがてサイレンの音が近づいてくる。警察官が家に上がり込み、事情を確認すると、私に向かってこう言った。 「奥さん、署までご同行をお願いします」 このままでは本当に泥棒にされてしまう。胸が締めつけられるような恐怖の中、私は静かに口を開いた。 「じゃあ、証拠動画を提出しますね」 健一がぎょっとしたように振り向く。 「は? 動画? 何のことだよ」 先ほどまでの自信満々な様子はどこへやら、夫は突然たじろぎ始める。その情けない声を聞いた瞬間、私の中で感情が切り替わった。逃げる側から、事実を突きつける側へ。 「あなたが何をしたか、全部知ってるから」 健一の顔色がみるみる青ざめていく。私はゆっくりとスマホを操作し、警察と夫が見守る中、クラウドに保存された真実へとアクセスした。 私が健一と出会ったのは、友人に半ば強引に連れて行かれた婚活パーティーだった。「せっかくだから私もいい人と出会いたいな」と思いながら会場を楽しんでいた。休憩がてら片隅で静かに飲み物を飲んでいた私に、スーツ姿の男性が近づいてきた。 「よろしければ、少しお話ししませんか?」 その一言をきっかけに、私たちの距離は一気に縮まった。彼の名は木村健一。亡き父から大企業を継いだ二代目社長だ。それから約一年の交際を経て結婚した。 結婚後、健一は私に専業主婦となるよう望んだ。私は悩んだが、彼を支えることに決めた。会社員として築いてきたキャリアを手放し、専業主婦の道を選んだのだ。 一方、私の実家では深刻な問題が起きていた。父和吉が営む町工場が、取引先の倒産で資金繰りに行き詰まってしまったのだ。廃業寸前に追い込まれたそのとき、健一の会社が工場の技術に目を止め、新規取引が決まった。おかげで安定した受注が入り、父の町工場は奇跡的に息を吹き返す。 父は胸を撫で下ろし、私は健一への感謝の気持ちを深めていった。さらに妹の望美も健一の会社に採用され、若くして責任ある仕事を任されるようになる。こうして実家は丸ごと健一に支えられているような形になり、私にとって夫はますます逆らえない存在となっていった。 しかし結婚から半年が過ぎた頃、かつては優しかった健一は、いつしか私を女性として見なくなってしまった。話しかければ鬱陶しそうに視線をそらされ、触れようとしても冷たく手を跳ねのけられる。夫婦としての関係は日に日に冷えていく。唯一変わらず私に要求されるのは、完璧な家事と従順さだけだった。 義母の富佐子からは毎日のように電話やLINEで同じ言葉が飛んでくる。 「早く健一の後継を生みなさいよ。子供も生まずに専業主婦を気取らないで。息子の足を引っ張るんじゃありません」 繰り返される苦言を聞かされ続けたが、子供作りに消極的なのは私ではない。私を拒んでいるのは健一だ。こんな冷え切った夫婦関係で子供などできるはずがない。しかし義母は私が反論するたび、言い訳するなと一蹴した。 健一にとって私は、身の回りの世話を無償でやってくれる便利な使用人という考えのようだった。逆らえば手を上げられることもあった。 「もういい。私が我慢すればいいんだよね。そうすれば全てが丸く収まる」 そう自分に言い聞かせ、私は毎日をやり過ごした。夫に嫌われさえしなければ、父の工場にも妹の仕事にも悪影響が出ない。それだけを支えに過ごした。 だが、そんな思いは夫には届かなかった。健一は次第に私への関心そのものを失い、生活費の振り込みも突然止めてしまった。 「あのね、今月の生活費が入っていないんだけど」 「もういいだろ、そんなもん」 「はぁ? 私は専業主婦だろ。一体何に金を使ってるんだ? そんなに困るほど金がないのか」 「必要よ。だって私、あなたの生活を支えているんだから」 「はあ? それが専業主婦だろ。俺が働いて稼いで、お前は家でのんびり家事してりゃいいじゃん。なんで金がいるんだよ」 「のんびりなんてしてないわよ。毎日あなたの帰りを待って、食事も掃除も全部やってるのに」 「飯作って掃除したくらいで偉そうにすんなよ。ふざけるな」 健一は怒り始めた。怒りを買えば何をされるかわからない。私は仕方なくパートと在宅ワークを掛け持ちし、睡眠時間を削って稼ぐようになった。それでも少しでも家事がおろそかになると、容赦なく罵声が飛んでくる。私は謝ることしかできなかった。夫を怒らせると、夫の元で働く妹や父の会社にまで影響が出るかもしれない。そのため、ひたすら機嫌を損ねないよう耐えるしかなかったのだ。 ある日、事件が起きた。夫が接待ゴルフで不在のときだった。掃除をしていた私は、祖母の形見である高価な指輪がなくなっていることに気づいた。大切に保管していたはずの場所から忽然と消えていたのだ。 「もしかして、泥棒? この前まで間違いなくここにあったはずなのに」 しかし、嫌な考えが頭をよぎる。まさか健一の仕業ではないか。胸がざわついた。だが証拠はない。問い詰めれば逆上されることがわかっている。そのため私は夫に内緒で、リビングと寝室に防犯カメラを設置した。カメラは防犯対策という名目で購入したが、本当の目的は夫の行動監視だった。 「夫婦なのに夫を疑うようなことはしたくないけどね」 カメラ設置から数日後の夜、私のスマホが鳴り響いた。妹の望美からだった。声は震えている。 「お姉ちゃん、助けて」 「望美? どうしたの?」 「健一さんに、無理やり……何ですって?」 望美は涙ながらに、健一から無理やり関係を迫られたことを打ち明けた。仕事の相談に乗るという名目で個室に呼び出され、二人きりになったところで迫られたらしい。当然拒否する望美だったが、怒鳴られ、髪を掴まれ、強引に引き寄せられた。なんとか振り切って逃げ帰るのがやっとだったという。 「ごめんね、望美」 電話を切り、私は震える足でリビングへ向かった。当の本人である健一はソファにもたれかかり、呑気にビールを飲んでいる。 … Read more