兄の代わりに、あの地味な女との見合いを適当に断ってこい。天下の銀行幹部である俺が、農家の娘なんかにこれ以上時間を割けるか。お前みたいな底辺の泥作業員なら、土臭い相手とお似合いだろう。
重厚な扉の向こうのリビングで、高級スーツを着崩した兄が氷のように冷たい声で笑い飛ばした。かつて巨大銀行のトップに君臨した父も、日やかな視線でそれに同調する。彼らは何十億という金を動かし、権力の中枢に座る選ばれたエリート。一方の俺は、毎日泥水と油にまみれて働く、しがない水道工事の作業員だ。
病に倒れた母のそばにいるため、自ら華やかな世界から身を引いた俺のこと。彼らは家の恥、出来損ないと見下している。だからこそ、自分の体面を保ちつつ面倒を押し付けるための身代わりとして、俺をこの屈辱的な断りの場へと向かわせたのだ。
命令されるがままに向かった古びた喫茶店。そこで身を縮めて座っていたのは、エリートの兄が無価値で退屈だと鼻で笑い、無慈悲に切り捨てた女性だった。怯えたように震える小さな肩、自信なさげに伏せられた瞳。そして、テーブルの影に隠そうとしている、土仕事で荒れた不器用な指先。
彼女の外見や職業だけを見て、誰もがその声を聞こうともせずに立ち去っていったのだろう。だが、俺の目には全く違って見えた。彼女のその傷だらけの手は、誰よりも尊く、ひたむきに命を育ててきた何よりの証だった。胸の奥で、静かにだが確かな怒りと熱い炎が燃え上がるのを感じた。
権力と金にふんぞり返る家族は知らない。俺のこの分厚く不格好な手が、かつて世界中の巨大インフラを設計し、絶望の淵にあった命を救ってきた魔法の手であることを。
俺は怯える彼女の前に静かに腰を下ろし、その瞳をまっすぐに見据えた。
「俺でよければ、あなたの本当の話を聞かせてくれませんか?」
ただの身代わりとして片付けられるはずだった。泥臭くてちっぽけな出会いだが、傲慢なエリートたちはまだ気づいていない。この瞬間から、彼らが支配する冷たい世界を根底から覆す痛快な逆襲が始まるということを。
俺の名前は柏木翔太。ひんやりとした泥水が安全靴の隙間からじわじわと染み込んでくる。1月の凍えるような寒さの中、俺は深さ1メートルほどの溝の底に立っていた。両手にはずっしりと重いモンキーレンチ。ひび割れた古い配管から吹き出す水に打たれながら、俺は必死にボルトを締め上げていた。
「よし、止まった。」
泥と錆が混じった赤茶色の水滴が、ヘルメットの縁からポタポタと落ちる。凍りついた指先を息で温めながら、俺はゆっくりと立ち上がった。溝の上から見下ろす灰色の空は、どこまでも冷たく、鉛のように重かった。
「おい、翔太。終わったか?悪いな、一番きつい現場任せちまって。」
地上の安全柵の向こうから、親方のガラガラ声が降ってくる。
「ええ、大丈夫です。水漏れ、完全に止まりました。」
わざと明るい声を張り上げ、俺は泥だらけの軍手で顔の汗を拭った。ざらりとした泥の感触が頬を撫でる。その瞬間、脳裏に全く別の光景がフラッシュバックした。
肌を焦がすような強烈な太陽。乾き切った赤土の匂い。数千人の命を左右する巨大なダムの設計図面。飛び交う英語、フランス語、アラビア語。俺のペン先一つで地図上の川の流れが変わり、地図にない村に水が届く。あのヒリヒリするようなプレッシャーと、世界を動かしているという途方もない熱狂。
俺は小さくかぶりを振り、その記憶を泥水ごと溝の底に沈めた。今の俺はただのしがない水道工事の作業員だ。それでいい。俺が選んだ道なのだから。
泥を洗い流し、冷え切った体を軽トラックのヒーターで温めながら、俺はハンドルを握った。向かう先は自宅ではなく、私立病院だ。消毒液のツンとした匂いと、リノリウムの床を歩くスリッパの擦れる音。静まり返った4人部屋の窓際で、母かず子は静かに眠っていた。3年前、脳梗塞で倒れて以来、母の体の右半分は動かない。
「母さん、来たよ。」
俺が声をかけると、母はゆっくりと目を開け、わずかに動く左手を伸ばしてきた。俺はその細く、枯れ枝のように軽くなってしまった手を両手で包み込んだ。
「そう、今日もお仕事お疲れ様。」
言葉がうまく回らない口で、母はふわりと笑った。
「ああ、今日は水漏れの修理だったよ。母さん、痛いところはないか?」
「大丈夫。翔太の手は温かいね。」
母のその言葉を聞く度、俺の胸の奥がぎゅっと締めつけられる。俺の人生の歯車が動き出したのは、あの3年前の夜だった。
当時、俺は実家から遠く離れた場所で、ただひたすらに仕事に没頭していた。そんなある夜、部屋に鳴り響いた深夜の電話。
「翔太君、お母さんがね、倒れたの。今すぐ来てちょうだい。」
親戚からの切羽詰まった声に、俺は頭が真っ白になった。すぐに、国内最大手のメガバンクで当時支店長を務めていた父と、同じく同期の法人営業部で出世街道を爆進していた兄に電話をかけたが、電話の向こうから返ってきたのは信じられない言葉だった。
「こっちは視察の期末決算で忙しいんだ。何百人もの部下を抱えるトップが、個人の事情で現場に穴を開けられるか。命に別状がないなら、週末にでも顔を出す。」
「これ、明日大事な夕食の接待があるから無理。本部から何十億も動く案件任されてるんだよ。お袋なら病院が何とかするだろう。ああ、でもご飯と洗濯は誰がやるんだ?ま、いいか。家政婦でも雇えば。」
彼らにとって母は家族ではなく、家にいる便利な存在でしかなかったのだ。日本を代表するメガバンクという巨大な組織で金と地位を動かすエリートの自分たちに比べれば、ただの専業主婦の命は後回しでいいと、そう言い放ったのだ。
あの日、手掛けていた大きな仕事の山場を目前にしながら、俺の心は恐ろしいほど冷え切っていた。これだけ評価されようと、どれだけ大きな仕事を成し遂げようと、たった一人の母親の手を握ってやれないのなら、そんなものに何の意味がある?
俺は翌日、積み上げてきたものを全て手放してこの町に帰ってきた。引き止める声も、将来への未練も何も耳に入らなかった。ただ母のそばにいたかった。毎日顔を見せ、こうして手を握るためだけに、病院から一番近くにあった小さな水道工事会社に就職した。
「そういえば翔太、今日は兄さんの昇進祝いだろ。これから実家に顔を出すよ。」
「ごめんね。翔太が一番大変なのに。」
「何言ってんだよ。俺は好きでやってるんだ。じゃあまた明日来るからな。」
俺は母のしわだらけの額にそっと触れ、病室を後にした。
静かにスライドドアを閉めると、カチャリという無機質な音が一気のない廊下に響いた。壁際の窓から外に目をやると、2月の短い日がすっかり落ちかけ、街の輪郭が燃えるような茜色から深い紺色へと沈んでいくところだった。冷たい窓ガラスにこつんと額を押し当てると、外の凍えるような寒さがじと肌を刺す。ポケットの中で、泥で固くゴワゴワになった軍手をぎゅっと握りしめた。
手のひらには、ひんやりとした土の匂いと、重いレンチを一日中握り続けた鈍い痛みが残っている。華やかなメガバンクの世界で何十億という金を動かす父や兄には、この爪の間に染みついた泥の匂いなど一生理解できないだろう。いや、理解して欲しくもない。
俺は小さく息を吐き出し、ガラスに白く曇った自分の顔を見つめた。これでいいんだ。俺は俺の守りたいものを守る。胸の奥で静かにそう反芻を返す。リノリウムの床を踏みしめる安全靴の硬い足音が、こつこつと夕暮れの静寂の底へ吸い込まれていった。
実家の重厚な玄関ドアを開けると、高級な醤油と砂糖が焦げる甘い匂いが鼻をついた。すき焼きだ。リビングからは父と兄の大きな笑い声が聞こえてくる。
「課長、おめでとう。34歳でメガバンクの法人営業部課長とは、さすが俺の息子だ。我が家の誇りだよ。」
「父さんの背中を見て育ちましたからね。いや、でも同期で一番乗りは気分がいいですよ。」
俺がリビングに入ると、その笑い声がぴたりと止まった。
「翔太、またその汚い格好で来たのか?」
父は手にしたビールのグラスをテーブルに置き、眉間を深く寄せた。定年退職した今でも、父の目は鋭く、その視線は人を睨みつける元銀行員特有のものだった。
「すみません。現場が長引いて、着替える時間がなくて。」
俺は頭を下げ、部屋の隅のパイプ椅子に腰を下ろした。俺の席には、すき焼きの小鉢がぽつんと置かれているだけだった。
「ふん。臭い仕事ばかりしているから、時間も守れんのだ。」
父が鼻を鳴らす。
「ああ、まあ、父さん、怒らないでやってよ。こいつには俺たちみたいな分刻みのスケジュールなんて縁のない世界なんだから。」
仕立てのいいブランドのスーツを着崩した兄、悠一が薄笑いを浮かべながら俺を見た。
「ああ、そうだ。翔太、俺の課長の年収知ってる?お前の倍?いや、3倍はあるかもな。年収1500万は想定内だな。」
「兄貴、昇進おめでとう。これ、大したもんじゃないけど。」
俺はズボンのポケットから小さな紙袋を取り出し、テーブルの端に置いた。ショッピングモールで買った1000円ほどのネクタイピンだ。今の俺の給料ではこれが精一杯だった。
兄は袋を乱暴に開け、中身を一瞥した。
「うわ、お前趣味悪いな。俺がこんな安っぽいものつけるわけねえだろうが。」
カツンと冷たい音を立てて、ネクタイピンは箱ごとテーブルの端に放り投げられた。まるでゴミを扱うような手つきだった。俺は膝の上で拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込む。だが、言い返すことはしなかった。俺がここで波風を立てれば、悲しむのは病院にいる母だからだ。
「そういえば、悠一。例の見合いの話はどうなったんだ?」
父が上機嫌で日本酒の徳利を傾けながら聞いた。
「ああ、あれね。先週会ってきたんだけど、無理だね。」
兄はあからさまに顔をしかめ、すき焼きの肉を口に放り込んだ。
「父さんの知り合いからの紹介だから一応行ったけど、冗談きついって。あんな地味でブスで、おまけに話も全くつまらない。ずっと下を向いてボソボソ喋ってて、なんか実家が農家らしいんだよね。」
「農家か?それは確かにお前には合わんな。銀行の課長が農家の嫁をもらうなんて、同期に笑われるよ。俺の隣を歩かせるわけにはいかない。」
父が同調するように頷く。兄はビールを一気に飲み干すと、不意に俺の方に視線を向けた。その目に悪意のある光が宿る。
「なあ、翔太。あの見合い、俺の代わりに行ってきてくれない?」
「え?俺が?」
俺は思わず顔を上げた。
「俺から断るのも角が立つからさ。お前が適当にお茶でも飲んで、相手から断られるように仕向けてこいよ。お前、水道屋だろ?農家の娘ならお似合いじゃないか。ドブと泥で話が合うんじゃないの?」
兄の甲高い笑い声がリビングに響き渡る。
「悠一の言う通りだ。翔太、お前が行ってこい。兄さんにこれ以上無駄な時間を使わせるな。お前にもそのくらいしかこの家に貢献できることはないだろう。」
父も冷たく言い放った。喉の奥からどす黒い怒りが込み上げてきた。この男たちは、どこまで人を見下せば気が済むのか。女性の容姿を笑い、職業で人を判断し、自分たちの都合で他人の人生を弄んで遊ぶ。
俺はゆっくりと息を吐き出し、立ち上がった。もうこの場所に一秒もいたくなかった。
「分かった。行ってくるよ。断りの挨拶だけでいいんだな。」
「お、頼んだぞ。出来損ないの弟君。」
背後で嗤う兄の声を無視して、俺は逃げるように実家を後にした。パタンと重厚な玄関ドアを閉めると、先ほどまでのすき焼きの甘い匂いや耳障りな笑い声は、分厚い扉の向こう側に完全に遮断された。外の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んでも、胸の奥にこびりついたコールタールのような澱みは取れなかった。
街灯の青白い光が、俺の深く吐き出す息を真っ白に染め上げる。駐車場に止めた、会社名が薄れかけた軽トラックに向かって歩き出すと、アスファルトを踏みしめる安全靴の硬い足音が、静まり返った高級住宅街にこつこつと虚しく響いた。
ジャンパーのポケットに突っ込んだ両手には、工業用石鹸で何度洗っても落ちない土と錆の匂いが染みついている。指先を擦り合わせると、レンチを握り続けたことでできた無数の豆、寒さでひび割れた皮膚のざらつきがあった。ふと見上げた夜空には星一つ見えない。重く垂れ込めた冬の雲が、町の街灯を鈍く反射して赤茶色に濁っていた。
「出来損ないの弟君。」
耳の奥に残る兄の甲高い声が、ちりちりと脳髄を撫でる。俺はポケットの中で、そのゴツゴツとした不格好な手をぎゅっと硬く握り込んだ。ひび割れた傷口がかすかに痛み、その痛みが今の俺の輪郭を確かめる唯一の手段だった。
冷え切った軽トラックの運転席に乗り込み、キーを回す。ブルンとエンジンが唸り、安っぽい振動がシート越しに体を揺らした。フロントガラスの曇りをワイパーで拭い去り、俺は暗い夜道へと車を発進させた。サイドミラーに映る、高級そうな明りのともる立派な実家は、やがてカーブの向こう側へと消えていく。その光は俺にとってはひどく冷たく、そしてもう二度と戻ることのない遠い世界のものに思えた。生ぬるいヒーターの風だけが、静かに車内を満たしていた。
次の日曜日、午後2時。指定されたのは、駅の裏手にある昭和の香りが色濃く残る小さな喫茶店だった。カランコロンとベルの音を鳴らして中に入ると、深く焙煎されたコーヒー豆の香りと、古いソファーの革の匂いが漂ってきた。
「いらっしゃいませ。」
マスターの低い声に会釈し、俺は店内を見渡した。奥のボックス席、そこに一人の女性が小さくなって座っていた。地味な服装。化粧の気配は薄く、黒縁の眼鏡の奥の瞳は伏せられている。髪は後ろで無造作に一つに結ばれており、華やかさとは無縁の姿だった。テーブルの上には、すっかり冷め切って結露の跡がついたアイスカフェオレがぽつんと置かれている。
俺が近づくと、彼女はびくっと肩を震わせ、慌てて立ち上がった。
「あ、あの、こんにちは。柏木です。遅くなってすみません。」
俺は頭を下げ、向かいの席に腰を下ろした。俺の服装も、ユニクロの白いシャツにジーンズという、およそ見合いにはふさわしくない格好だった。
「こんにちは。白石です。」
彼女、白石花は消え入りそうな声で言い、再び視線をテーブルの木目に落とした。彼女の指先は、カフェオレのグラスの結露を意味もなくなぞっている。極度の緊張が、その小さな肩から伝わってきた。
沈黙。店内に流れるくぐもったサックスのBGMと、壁掛け時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。早く真実を告げて、彼女をこの窮屈な時間から解放してあげよう。俺は小さく息を吸い込み、姿勢を正した。
「あの、実は俺、あ、あの…」
俺の声を遮るように、花が弾かれたように顔を上げた。眼鏡の奥の瞳がせわしなく揺れ、膝の上で合わせられた両手が、スカートの布地を白くなるほど握りしめている。
「今日、今日はお仕事はお休みなんですか?」
絞り出すような、ひどく震える声だった。俺は面食らって、開いた口を閉じた。待て。もしかしてこの人、俺が先週会った兄貴とは別人だってことに気づいていないのか?確かに兄弟だから顔立ちは似ている。だが、仕立てのいいブランドスーツを着こなすエリートの兄貴と、量販店の安いシャツに身を包み、洗いきれない錆の匂いを漂わせた俺とでは、まとっている空気も、テーブルに置いた手のゴツゴツとした厚みも全く違うはずだ。
しかし、彼女の必死な様子を見るに、どうやら極度の緊張のあまり、相手の顔すらまともに見えていないらしい。兄は話がつまらないと切り捨てたが、彼女は彼女なりに、不器用ながらも懸命に沈黙を破ろうと努力しているのだ。ここでいきなり「俺は弟です。断りに来ました」なんて冷たく突き放したら、彼女が振り絞ったこの小さな勇気を根元からへし折ってしまう。胸の奥がちくりと痛んだ。
真実を告げるのは、せめて彼女のこの痛々しいほどの緊張を少しほぐしてからにしよう。俺はとっさに話を合わせることにした。
「はい。今日は休みです。大抵、外で体を動かしてるか、仕事柄泥だらけになることが多いので、道具の手入れなんかをしてますね。」
わざと明るいトーンでそう答えると、花は不思議そうに小首をかしげた。
「仕事で泥ですか?」
銀行の課長の口から出るはずのない単語に、彼女の瞬きが増える。
「ああ。いや、えっと、白石さんは普段どんなことをされているんですか?」
俺が慌ててごまかすように問い返すと、花はまた少しうつむいて、ぽつりとこぼした。
「私は農家なので、はっきりとしたお休みという日はなくて。おじいちゃんの代から続いている小さな畑をやっているんです。」
「いいですね。土に触れる仕事は素晴らしいと思います。何を作られているんですか?」
俺の予想外に食いついた反応に、花は目を丸くした。
「お米と、あとは野菜を少し。それから裏の畑で果物を。」
「すごいな。あ、僕、水道の工事現場で働いているんですけど、農業用水路の仕事もたまに手伝うことがあるんです。田んぼの水路って、実はものすごく奥が深いですよね。」
その瞬間、花の瞳の奥にちろりと小さな火が灯ったのを見逃さなかった。
「水路のこと、分かるんですか?」
「はい。去年、町の用水路を全部やり直す現場に入ったんです。あれ、表面の補修だけじゃなくて、勾配が0. 5%ずれるだけで水の流れが全く変わってしまうんですよ。流体力学の観点から見ても、あれは完璧な計算が必要な精密なシステムです。」
しまった。俺は心の中で舌打ちをした。つい昔の癖が出て、専門的な言葉を並べてしまった。ただの水道屋の口から出る言葉ではない。引かれるかもしれない。
しかし、花の反応は俺の予想を裏切るものだった。彼女は身を乗り出し、眼鏡の奥の瞳をキラキラと輝かせていた。
「すごい。私、そんな風に言ってくれる人に初めて会いました。実はうちの水路、ここ数年ずっと水はけが悪くて、雨が降ると畑が水浸しになってしまって困っていたんです。」
「本当ですか?それ、多分、補修箇所の目地が劣化して水が逃げているか、もしかしたら排水溝の設計自体が古いのかもしれません。あの辺りの流域の傾斜を考えると、水口の位置を30センチ上げるだけで流量は1. 5倍になるはずです。まあ、実際に測量してみないと確かなことは言えませんが。」
俺はテーブルの上にあった紙ナプキンを裏返し、ボールペンで即席の図面を描き始めた。水の流れ、土壌の浸透圧、重力のベクトル。俺にとっては呼吸をするように当たり前の知識だった。
「ここの角度をこう変えれば、水は自然と畑全体に行き渡ります。ポンプに頼らなくても、地形の力だけで解決できるんです。」
俺のペンの動きを、花は食い入るように見つめていた。
「魔法みたい。」
彼女がぽつりとこぼしたその言葉に、俺ははっとして顔を上げた。彼女は小さく感嘆の息をもらし、それからテーブルに身を乗り出すようにして、紙ナプキンの図面を指さした。
「でも、本当に水が流れるようになるんでしょうか?おじいちゃんが残してくれた大切な畑なんです。でも最近は水が淀んでしまって、雨の後は土がなんだかすっぱく匂うようになって、少し怖くて。」
俺は自分の専門知識の引き出しを開けた。
「土が酸っぱい匂いになるのは、水はけが悪くて地中で嫌気性発酵が起きている証拠です。そのまま放置すると根腐れを起こしてしまいますよ。でも、この図面通りに水の通り道を作って酸素を入れてやれば、土の匂いは必ず変わります。」
「匂いが変わる?」
「ええ、健康な土は、雨上がりにほんのりと甘い、落ち葉のような匂いがするはずです。」
俺の言葉に、花の眼鏡の奥の瞳がぱっと明るく見開かれた。
「甘い匂い。分かります。昔の畑は、まさしくその匂いがしました。ふかふかの土で、そこでおじいちゃんと一緒に育てたフルーツトマトは、皮が薄くて、噛むと口の中で弾けるみたいに甘くて。私、あのトマトの味が忘れられなくて。だから、どうしてもあの畑を元に戻したくて。」
少し早口になって熱弁を振るう花の頬は、ほんのりと桜色に染まっていた。俺はふと、テーブルの上に置かれた彼女の手に目を止めた。短く切り揃えられた爪。細い指先には、洗っても落ち切らない土の色がうっすらと沈着し、手のひらには重い農具を握り続けたであろう小さな豆の跡がある。都会のオフィスでパソコンを叩く女性たちのような、滑らかで白い手ではない。
俺は相手の心に踏み込むように、少しだけ声を低くした。
「白石さん、その畑。あなた一人で、毎日泥まみれになって守り続けているんですか?」
はっとして、花は自分の手が見られていることに気づいた。
「あっ…」
彼女は慌てて両手をテーブルの下へ隠そうとし、恥ずかしそうに視線を泳がせた。
「す、すみません。お見合いの席なのに、こんな泥臭くてガサガサの手で。」
「隠さないでください。」
俺は思わず強い言葉を発し、自分の分厚い手をテーブルの上に広げた。寒さでひび割れ、工業用石鹸で洗っても落ちない錆の匂いが染みついた、ゴツゴツとした不格好な手。
「俺の手も、毎日泥と油にまみれています。でも、土に触れて何かを必死に育てたり直したりする手は、決して恥じるものじゃない。俺はそういう手が一番綺麗だと思います。」
俺の言葉に、花は息を飲み、テーブルの上の俺の手と自分の手を交互に見比べた。やがて、彼女の口元につぼみが開くような柔らかい笑みが浮かんだ。
「え、どうかしましたか?」
「なんだか、お見合いの席で土の匂いとか根腐れのお話で盛り上がるなんて変ですね。でも、すごく嬉しいです。」
彼女の声には、もう先ほどまでの怯えたような震えはなかった。それから俺たちは、今年の夏野菜の苗のこと、水路の泥上げの大変さ、朝露に濡れたナスの紫色の美しさについて、まるで古くからの同志のように語り合った。サックスの重いBGMも、周囲の客の話し声も、いつの間にか俺たちの耳には届かなくなっていた。
ふと我に返り、周囲の音が再び耳に入ってくる。気づけば40分近くが経過していた。彼女のグラスの氷は完全に溶け切り、俺の前に運ばれてきたブレンドコーヒーもすっかり冷め切っている。
「すみません。つい時間を忘れて話し込んでしまいましたね。」
俺は小さく笑いながらペンを置き、図面を描いた紙からそっと手を離した。
「あ、いえ、私の方こそごめんなさい。自分の畑のことばかり。でも、こんなに楽しくお話できたの、本当に久しぶりで。」
花もはっとしたように我に返り、恥ずかしそうに、けれどとても嬉しそうに微笑んだ。楽しい時間だった。泥にまみれた毎日の中ですっかり蓋をしていた、水を設計する喜び。そして、土と真剣に向き合う彼女の真っすぐな熱量。こんなに心地よい会話を交わしたのは、帰国して以来初めてかもしれない。
だが、この心地よい時間を俺の手で終わらせなければならない。俺の本来の目的を果たすために、俺は深く息を吸い込み、姿勢を正した。
「あの、白石さん。単刀直入に言います。俺、今日、本当のことを言わなきゃいけないんです。」
花の表情から、ふっと熱が引いていくのが分かった。彼女は再び視線を落とし、膝の上で両手をきつく握りしめた。
「はい。」
「俺、兄の代わりに来たんです。先週あなたとお見合いをした、メガバンクの課長の弟です。俺はしがない水道工事の作業員で、全然お見合い相手としてふさわしい人間じゃなくて、本当にすみませんでした。」
俺はテーブルに額がつくほど深く頭を下げた。自分が情けなかった。家族の命令に従い、こんな純粋な女性の時間を無駄にし、心を弄んで遊んだ自分が許せなかった。怒って帰ってくれていい。軽蔑してくれていい。
「知ってますよ。それくらい。」
頭の上から降ってきた声は、怒りでも落胆でもなく、春風のように柔らかいものだった。俺は驚いて顔を上げた。花はふわりと微笑んでいた。初めて見る、彼女の本当の笑顔だった。
「お兄さんとは先週会いました。顔も名前も覚えています。だから、今日お店に入ってこられたのが別の方だということは、最初から分かっていました。」
「じゃあ、なんで…」
俺は言葉を失った。分かっていたのに、なぜ逃げずに座っていたのか。なぜあんなに楽しそうに水路の話を聞いていたのか。
「だって…」
花は両手で冷たくなったグラスを包み込むように持ち上げた。
「代わりに来たのに、ちゃんと座ってくれたから。私の目を見て、ちゃんと話を聞いてくれたから。」
彼女の言葉の裏にある深い孤独の影。
「私、いつも断られるんです。お見合いしても、みんな最初の5分で時計を見始めて、適当な理由をつけて帰っちゃう。『農家はちょっと』とか『地味すぎる』って。私の言葉なんて、誰も聞いてくれなかった。」
彼女の声がかすかに震え、眼鏡の奥で涙が光った。
「でも、今日はすごく話しやすかったです。水路の話が楽しかったの、初めてです。私のおじいちゃんが大切にしてきた畑のことを、真剣に考えてくれて、嬉しかった。」
花が深く頭を下げる。
「ありがとうございました。今日来てくれて。代わりでも、あなたに会えて良かったです。」
花はふわりと微笑み、それから少しだけ真面目な顔つきになって付け加えた。
「お見合いの件は、私の方からお断りしたと、紹介してくださった方にお伝えしておきますね。そうすれば、お兄さんや翔太さんのお父様の顔を潰すこともないと思いますから。」
その言葉に、俺は息を飲んだ。どこまでも人がいい。自分がブスでつまらないと理不尽な理由で断られた立場なのに、彼女は自分を貶めた俺の家族の体面まで気遣ってくれているのだ。胸の奥を熱い塊が突き上げてきた。俺はテーブルの上で硬く握られた彼女の小さな手を見つめた。この手を、俺は…
「白石さん。」
「はい。」
花が顔を上げる。その頬には一筋の涙の跡があった。俺は彼女の目をまっすぐに見据えていった。
「俺でよければ、また会えませんか?」
「え?」
花が息を飲む。
「農家の仕事のこともっと聞きたいです。それに、白石さんの畑の水路、俺に一回見せてくれませんか?俺が必ず直して見せます。」
沈黙が落ちた。喫茶店の古い柱時計が、カチカチと時を刻む。花の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は慌てて手の甲で涙を拭い、何度も何度も強く頷いた。
「はい。是非、お願いします。」
ただの水道屋の俺が、生涯をかけて守りたい伴侶を見つけた瞬間だった。
あの日から、俺と花の時間はゆっくりと、けれど確実に重なり合っていった。休日の度に、俺は軽トラックを走らせて花の住む町へと向かった。駅から車で20分ほど走ると、アスファルトの景色は青々とした田園風景へと変わり、窓を開ければ、風が運んでくる湿った土と青草の匂いが車内を満たす。
その日、俺は作業着と長靴という完全装備で、花の祖父が代々守ってきたという畑の前に立っていた。
「翔太さん、本当にいいんですか?せっかくのお休みなのに、こんな汚れ仕事ばかり。」
麦わら帽子をかぶり、首にタオルを巻いた花が、申し訳なさそうに眉を下げた。彼女の頬には、すでにうっすらと土埃がついている。
「いいんだよ。俺がやりたいって言ったんだから。それに…」
俺は足元の水路を覗き込んだ。コンクリートの補修箇所には黒く濁った水が淀み、腐敗した落ち葉がヘドロのように堆積している。そこから立ち上る酸っぱい匂いが鼻をついた。
「このままじゃ、本当に土が死んでしまう。白石さんの大事な畑を、ほっておけないよ。」
俺は軽トラックの荷台からスコップと測量用の水平器を下ろした。
「いいかい?水っていうのは正直なんだ。重力と摩擦の法則に、絶対に逆らわない。」
俺は泥の中に長靴で踏み込み、レーザーの赤い光を水路の先へと当てた。
「ほら、見てごらん。あそこの曲がり角の手前、コンクリートが不同沈下で3センチほど下がっている。水は低い方に集まるから、ここで流速が落ちて、落ち葉や泥が堆積する。ボトルネックになってるんだ。ベルヌーイの定理って知ってるかな?流体の速度が落ちると、そこの圧力が高まって、水が滞留する。これを解消するには、ただ泥を掻き出すだけじゃだめだ。勾配そのものを設計し直してやる必要がある。」
「ベルヌーイ…なんだか難しいですね。でも、翔太さんの目は、お医者さんみたいです。」
花が水筒を胸に抱きしめながら、感心したように俺を見つめた。
「大げさだよ。さ、まずはこのヘドロを全部掻き出そう。」
それから数時間、俺と花は無言で泥と格闘した。重いスコップを振るうたびに、肩の筋肉が悲鳴をあげる。春先とはいえ、日差しは容赦なく首筋をじりじりと焼き、背中には汗がびっしりと張り付いていた。俺は法面の目地をモルタルで補修し、水が滑らかに流れるように微妙な角度をつけてコテを鳴らしていった。かつて中東の砂漠で巨大ダムの放水路をコンマ1ミリの精度で計算していた頃の感覚が、俺の指先に蘇ってくる。数千億円の国家プロジェクトも、この小さな畑の水路も、水と向き合う真剣さに変わりはない。
「よし、水門を開けてみてくれ。」
俺が声を張り上げると、上流にいた花が錆びついた水門のハンドルを力いっぱい回した。ゴボゴボとゆっくりとした音の後、淀んだ水が法面を勢いよく滑り降りてきた。水は俺が計算して補修したカーブを美しくトレースし、淀むことなく本流へと真っすぐに流れていく。ヘドロの匂いは消え去り、代わりに冷たい水が土を潤す。あの甘い、落ち葉のような匂いがふわりと立ち上った。
「流れた!翔太さん、すごいです!水が走ってます!」
花が泥だらけの手を叩き、満面の笑顔で駆け寄ってきた。その笑顔は太陽の光を反射して、キラキラと輝いている。
「お見事じゃな、兄ちゃん。」
ふと背後からしわがれた声がした。振り返ると、杖をついた小柄な老人が目を細めて水路を見下ろしていた。花の祖父、元吉さんだ。
「おじいちゃん!」
「いやあ、大したもんじゃ。ここは数年、何をやってもダメだった水路が、まるで生き返ったみたいじゃ。兄ちゃん、水道屋と聞いたが、まるで一級の土木師みたいな腕前じゃの。」
元吉さんは節くれだったしわだらけの手で、俺の泥だらけの肩をぽんと叩いた。
「こんな立派な人がうちの畑の婿に来てくれたらな、わしも安心してあの世に行けるんじゃがな。」
「お、おじいちゃん、何言ってるの?翔太さんに失礼でしょ!」
花が顔を真っ赤にして、慌てて祖父の背中を押した。
「冗談じゃ、冗談さ。冷たいお茶でも飲んで休んでくれ。」
元吉さんが笑いながら家の方へ歩いていく背中を見送りながら、俺は手についた泥をズボンで拭い、小さく息を吸い込んだ。
「そのつもりです。」
俺の低い声に、花がはっとして振り返る。
「へ?そのつもり…?」
「そのつもりで、通ってます。」
俺はまっすぐに花の目を見た。彼女の眼鏡の奥の瞳が、驚きで大きく見開かれている。
夕暮れ時、西日が田んぼの水面をオレンジ色に染め上げ、遠くでカエルの鳴き声が響き始めていた。作業を終え、駅まで続くあぜ道を、俺と花は並んで歩いていた。涼しい夕風が、ほてった頬を心地よく撫でていく。
「翔太さん、さっきおじいちゃんが変なこと言って、ごめんなさい。」
花が足元の小石を蹴りながら、消え入りそうな声で口を開いた。
「私、あんなこと言われると、翔太さんが困っちゃうって分かってるのに。私なんかが釣り合うわけないのに。」
彼女の声には、長年選ばれなかったことへの深い諦めとコンプレックスが滲んでいた。俺は立ち止まり、彼女の方に向き直った。
「白石さんは、俺と一緒にいると嫌か?」
俺の強い口調に、花はびくっと肩を震わせて首を横に振った。
「い、嫌なわけないです。翔太さんといると、すごく楽しくて。泥だらけになっても全然苦じゃなくて。私、ずっとこの時間が続けばいいのにって。」
そこまで言って、花ははっとして口を手で覆った。俺は一歩彼女に近づき、その小さな泥だらけの両手を、自分のゴツゴツした手で包み込んだ。
「俺はエリートでも何でもない。兄貴みたいな立派なスーツも着ていないし、毎日泥と錆の匂いをさせてる、しがない水道屋だ。そんなことでもな、俺は君の手が好きなんだ。」
俺は彼女の手のひらにある小さな豆を、親指でそっと撫でた。
「俺は昔、仕事の都合で、母親が倒れた時にそばにいてやれなかった。どれだけ大きな仕事をして、どれだけのお金を動かしても、大切な人の手を握ってやれないなら、そんな人生に意味はないって気づいたんだ。」
俺の脳裏に、あの冷たい病院のリノリウムの床と、枯れ枝のようになった母の右手がフラッシュバックする。
「だから俺は、目に見えるもの、目の前で困っている人を、自分の手で直せる生き方を選んだ。君も同じだ。この小さな畑を、毎日泥だらけになって守り続けている。俺は君のその不器用で真っすぐな生き方が、どうしようもなく好きだ。」
花の瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「兄貴の代わりなんかじゃない。柏木翔太として、君と結婚を前提に付き合ってほしい。」
夕風が吹き抜ける。花は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、何度も何度も強く頷いた。
「はい。私でよければ、よろしくお願いします。」
彼女の手のひらから伝わるぬくもりが、俺の心の奥底にあった冷たい氷を、ゆっくりと溶かしていくのを感じた。
それから半年後、俺たちは結婚を決めた。報告のために訪れた実家のリビングは、相変わらず高級な家具の匂いと日やかな空気に満ちていた。
「はあ?結婚?」
革張りソファーに深く腰かけた兄、悠一が鼻で笑った。
「お前、あの見合い相手のブスの農家と結婚するのか?」
「だな。さすが底辺の水道屋に、お似合いのカップルだ。お前もとうとう泥臭い世界に完全に染まったか。」
父も渋い顔でウイスキーのグラスを傾けた。
「まあいい。お前はお前の身の丈にあった相手を選んだということだ。で、結婚式はどうするんだ?あまり安っぽい真似をして、我が家の名前を汚すなよ。」
俺は膝の上で拳を硬く握りしめたが、声の調子は冷静さを保った。
「花の祖父母が高齢で、長距離の移動が難しいんです。だから式は、向こうの田舎の小さな公民館か神社で、身内だけでひっそりとあげようと思っています。」
「田舎の公民館だと?」
兄が露骨に顔をしかめた。
「冗談じゃない?俺たちみたいなメガバンクの幹部が、そんな田舎の宴会みたいな真似事に出られるか。同期に知られたら笑い者だぞ。」
「俺も同意見だ。そんな田舎の泥臭い式に出席する気はない。勝手に二人でやれ。」
父が冷たく言い放つ。俺は静かに頭を下げた。
「分かりました。ご報告だけさせておきます。」
怒りはなかった。ただ、彼らとの間にある決定的な溝を、改めて突きつけられただけだ。
翌日、俺は花を連れて、母のいる私立病院を訪れた。消毒液の匂いが漂う病室で、母は花の泥で少し荒れた手を、愛おしそうになでた。
「いいお嬢さんを見つけたわね。すごく優しい、温かい手をしてる。」
「お母さん、ありがとうございます。私、翔太さんを一生懸命支えます。」
花が涙ぐみながら言うと、母も目に涙を浮かべて微笑んだ。
「翔太のこと、どうかよろしくお願いしますね。」
その光景を見て、俺は心から誓った。この温かい時間を、命に変えても守り抜くと。
結婚の手続きや新居の準備が進む中、生活費の管理についての話になった。
「翔太さん、結婚を機に、二人の共同口座を作りたいなって思うんです。」
アパートのキッチンで、花が夕食の支度をしながら言った。
「ああ、いいよ。どこか使いやすい銀行にするか。」
「あの、お兄さんが働いているメガバンクで作った方がいいかしら。その方がお兄さんの成績にもなるのかなって。私、少しでもご家族の役に立ちたくて。」
花はまな板の上の野菜を見つめながら、少し遠慮がちに言った。彼女なりに、俺と家族の冷えきった関係を心配し、気を使ってくれているのだ。
「そうだな。一応聞いてみるよ。」
俺は彼女の優しさを無碍にできず、頷いた。
数日後、俺と花は都内の一等地にそびえ立つ、メガバンクの本店営業部に足を運んだ。天井が高く、豪華な大理石が敷き詰められたロビー。空調は完璧に管理され、土の匂いなど微塵もしない、無菌室のような空間だ。窓口で事情を話し、奥から出てきた兄は、俺たちの姿を見るなり、露骨に顔をしかめた。パリッとした高級スーツに身を包んだ彼は、作業着姿の俺と地味なワンピース姿の花を、まるで害虫でも見るような目で、上から下まで舐め回した。
「お前ら、何しに来たんだよ。ここは貧乏人が冷やかしに来る場所じゃないんだぞ。」
周囲の客や行員の目があるにも関わらず、兄は声を潜めることもしない。仕立てのいいブランドスーツの胸元で、例のネクタイピンが冷たく光っている。
「共同口座を作りたいんだ。花の希望で、少しでも兄貴の成績の足しになればと思って。」
俺が冷静に伝えると、兄は呆れたように鼻で笑い、大げさに肩をすくめた。
「貧乏水道屋と農家が、いくら預けるって?毎月数万の小銭を出し入れするだけの口座なんか、俺の成績になるわけないだろう。うちは何億、何十億っていう法人相手に商売してんだよ。お前らみたいな小汚い連中がうろうろされると、銀行の品位が落ちる。さっさと帰れ。」
「兄貴。いくら何でも言いすぎだ。花は純粋に兄貴の昇進を祝おうと…」
俺の言葉を遮り、兄はさらに声を張り上げた。大理石のフロアに、その甲高い声がびりびりと反響する。待合席に座っていた数人の客が、何事かとこちらに好奇の視線を向けてきた。
「笑わせるなよ。泥にまみれて稼いだしわの数万円札を窓口に持ってくるなんて、大迷惑なんだよ。小銭を数える行員の人件費の方が高くつくわ。そういうのはな、そこら辺のコンビニのATMでやってくれや。」
兄の鋭い視線が、俺の隣で小さくなっている花へと向けられた。
「おい、農家の娘さんよ。俺がお前との見合いを断った腹いせに、わざとこんな嫌がらせをしに来たのか。自分の身の程をわきまえろよ。メガバンクの課長である俺に、その土臭い手を近づけるな。」
「はあ…」
花がびくっと肩を震わせ、俺の腕の服の袖をぎゅっと掴んだ。彼女の顔は蒼白になり、小さな手は小刻みに震えている。
「やめろ。」
俺は思わず一歩前に踏み出し、血が沸騰するような低い声で鋭く言い放った。ジャンパーのポケットの中で拳をきつく握りしめ、爪が手のひらに食い込む。
「俺を馬鹿にするのは勝手だが、花を侮辱することは絶対に許さない。彼女が毎日どれだけ真剣に土と向き合っているか。エアコンの効いた部屋で数字だけ見てるお前には、一生分からない。」
「へえ。言うようになったじゃねえか、出来損ないが。土と向き合う。素晴らしいね。」
兄はわざとらしくパチパチと手を叩いてみせた。その顔には底意地の悪い嘲笑が張り付いている。
「だがな、世の中は金なんだよ。お前らが一生かかって泥水すすって稼ぐ額を、俺は電話一本、数秒で動かせる。それが人間の価値の違いだ。負け犬の遠吠えは、ドブの中でだけにしてくれよな。」
周囲の行員たちは、課長である兄に逆らうこともできず、ただ気まずそうに目を伏せている。誰も俺たちを助けようとはしない。これが権力と金が支配するこの空間の絶対的なルールだった。
「兄さんの言うことは、よく分かりました。」
俯いていた花から紡がれた声は、かすかに震えていた。それは決して恐怖からではなく、明確な怒りと強い決意を孕んだものだった。俺は驚いて花の横顔を見つめた。いつも控えめで、泥にまみれた自分の手をひたすら気にしていた彼女が、この冷え切った大理石の空間で、自分たちを鼻で笑うエリート銀行員に対して、まっすぐに向き合おうとしている。
「この銀行は、私のような泥にまみれて土と向き合っている農家の人を、お客様として相手にはしない。そういうことですね。」
「ああ、その通りだ。やっと身の程を理解したか。察しが良くて助かるよ。」
兄は鼻先で嘲笑うように顎をしゃくった。
「分かりました。」
花は両手を体の横でぎゅっと握りしめ、凛とした声で言い放った。
「実は私、亡くなった祖父の代から、このメガバンクさんにずっと口座を持っていたんです。私たちの存在がそんなに銀行の品位を落とし、ご迷惑になるのなら、今すぐ解約させていただきます。」
その言葉に一瞬の静寂が落ちた後、兄が腹を抱えて甲高い笑い声をロビーに響き渡らせた。
「解約?おお、どうぞご自由に。是非今すぐ勝手にしろ。お前らみたいな貧乏農家の口座に、一体いくら入ってんだ?数万か。いやあ、怖い怖い。そんな泣けなしの小銭が引き上げられたところでな、天下のメガバンクは痛くも痒くもねえんだよ。むしろ不良債権が減って清々するわ。」
兄の容赦ない言葉が、鋭い刃のように花の尊厳を切り裂いていく。だが、花はもう俯かなかった。悔しさに唇をぎゅっと噛みしめながらも、その視線を兄から外すことはなかった。彼女の背中は決して大きくはないが、俺の目には誰よりも誇り高く見えた。
「行きましょう、翔太さん。こんな冷たい場所で、大事なお金を預かってもらう必要なんてありません。」
花は振り返り、俺の手をしっかりと握った。彼女の小さな手のひらからは、静かな怒りと、俺を守ろうとする温かい熱が伝わってきた。
「ああ、そうだな。行くぞ。」
俺は兄から視線を外し、花の手を握り返して銀行の自動ドアへと向かった。
「おい、二度と敷居をまたぐなよ、底辺ども。泥は外で落としてから歩けよな。」
背後から追いかけてくる兄の汚い罵声は、今の俺たちの耳には届かなかった。大理石の床を踏みしめる俺の安全靴の音と、花の靴音だけが、揃ったリズムを刻んでいた。
銀行の外に出ると、春の冷たい風が張り詰めていた俺たちの頬を撫でた。花が立ち止まり、名前を呼ぶと、花ははっとしたように緊張の糸を解き、ふっと長く息を吐き出した。その目には、先ほど堪えていた涙がじわりと滲んでいた。
「ごめんなさい、翔太さん。私、ついカッとなって、お兄さんにあんな生意気なことを…」
「謝るな。すごくかっこよかったよ。」
俺は彼女の泥仕事で少し荒れたその手を、両手で包み込んだ。
「君の誇り高い姿を見て、俺は自分の無力さが恥ずかしくなった。君を守るはずが、君に守られちまったな。」
「そんなことないです。翔太さんが隣にいてくれたから、言えたんです。でも、悔しいです。一生懸命働いているだけなのに、どうしてあんな風に笑われなきゃいけないの?」
花が袖口で涙を拭うのを見て、俺は胸の奥で静かに、しかし確かな炎が燃え上がるのを感じた。もういい。許さない。俺の大切な人を、これ以上誰にも踏みにじらせはしない。
その日の午後、俺と花はアパートの近くにある、桜新信用金庫の古びた自動ドアをくぐった。メガバンク本店のあの威圧的な大理石のフロアとは対照的な、少し色あせたタイルが敷かれた、こぢんまりとしたロビー。壁には手作りの地域の行事ポスターが貼られ、どこからか焙煎されたコーヒーの香りが漂ってくる。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご要件でしょうか?」
カウンターの奥から、小柄な女性行員が満面の笑顔で立ち上がった。彼女の胸元の名札には、手書きの可愛いイラストが添えられており、親しみやすさが滲み出ている。
「あの、夫婦の共同口座を作りたいんですが。」
花が少し緊張した面持ちで尋ねると、女性行員は「まあ、ご結婚おめでとうございます!」とぱっと顔を輝かせた。
「もちろん大歓迎ですよ。こちらのテーブルへどうぞ。温かいお茶をお持ちしますね。あ、そちらの旦那様、お仕事帰りですか?お疲れ様です。どうぞおかけになってください。」
彼女は俺の作業着姿や花の地味なワンピースを、侮蔑することなど一切なかった。出されたコーヒーの湯気を顔に受けながら、俺は張り詰めていた力がゆっくりと抜けていくのを感じた。ああ、ここは血の通った人間のいる場所だ。
手続きは滞りなく進んだ。
「暗証番号は、お二人の記念日なんかにされる方が多いですよ。」
と笑う行員に、花は頬を赤らめて俺の顔を見た。俺が小さく頷くと、彼女はきゅっと唇を結んで、申込書に丁寧に数字を書き込んでいった。出来上がった真新しい通帳を受け取ると、花はそれを胸の前に大切そうに抱きしめた。
「ありがとうございます。大した金額じゃなくて、申し訳ないんですけど。」
「いいえ。」
女性行員は首を横に振った。
「一円からでも、私たちが大切にお預かりします。地域の皆様の生活を支えるのが、私たちの仕事ですから。また何でもご相談にいらしてくださいね。」
帰り道、夕日に照らされた商店街を歩きながら、花は何度も通帳の表紙を撫でていた。
「翔太さん、私、あの信用金庫さんにお願いして、本当に良かった。なんだか、すごく温かい気持ちになりました。」
「そうだな。あそこはちゃんと血が通ってた。あんな風に人と向き合える場所にお金を預けるのが、一番正しい選択だと思うよ。」
俺の言葉に、花は目を細めてこくりと頷いた。
その数日後、俺は休日の合間を利用して、アパートの近くのスーパーへ買い出しに出ていた。レジで支払いを済ませようと財布を開くと、手持ちの現金が心もとない。ふと、スーパーの入り口に設置されている信用金庫のATMが目に入った。そういえば、花が結婚式の資金を少し預けおきましたって言ってたな。どれくらい預けてくれたんだろう。
俺は財布から、先日作ったばかりの真新しい共同口座のキャッシュカードを取り出し、ATMに滑り込ませた。残高照会のボタンを押す。カタカタという機械音と共に、画面に数字が表示された。
「え?」
俺は自分の目を疑った。画面に表示された数字の列。残高、800億円。ゼロの数がおかしい。100、1000万、10万、100万、1000万、1億、10億、100億、800億。800億円。
スーパーの入り口の自動ドアが開くたびに吹き込んでくる冷風が、俺の首筋の汗を冷たく撫でていく。ATMの画面がチカチカと点滅している。俺は慌てて目をこすり、もう一度画面を凝視した。間違いない。800億だ。
機械のバグか。いや、日本の金融システム、特に前銀システムの堅牢性を考えれば、こんな天文学的な数字の誤表示など起こりえない。もし起きたとすれば、それは国家的なサイバーテロのレベルだ。
俺は震える手で取り消しボタンを押し、カードを抜き取ると、逃げるようにアパートへと急いだ。買い物袋のビニールが俺の足に当たって、カサカサと乾いた音を立てる。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、息が荒くなる。
「花、ただいま。ちょっと聞いてくれ。ATMが壊れてるのか、口座に…」
アパートのドアを勢いよく開け、俺は言葉を失った。玄関のたたきには、見慣れない高級な黒のピンヒールが揃えられていた。そして、リビングから静かに歩み出てきた女性を見て、俺は持っていた買い物袋を取り落としそうになった。
「お帰りなさい、翔太さん。」
その声は確かに花のものだった。しかし、目の前にいる女性は、俺の知っている白石花の輪郭を保ちながらも、全く別のオーラを放っていた。吸いつくような艶やかな漆黒のワンピース。首元には一粒だけ、上品に最高級の輝きを放つ真珠のネックレス。いつも無造作に一つ結びにしていた髪は、都内の一流サロンで仕上げられたように艶やかなシニヨンにまとめられている。そして何より、メイクだ。地味な黒縁メガネは外され、ほんのりと引かれたアイラインと、肌の透き通るような白さを際立たせる薄紅色のリップが、彼女の本来持っていた造形の美しさを極限まで引き出していた。
結婚式の時に見せてくれた可憐な白無垢姿とも違う。これは人を引きつけ、同時に圧倒する、貴族の権力者が纏う類の美しさだった。かすかに甘く、高貴な香水の香りが漂ってくる。
「は、花、なのか?」
俺が呆然と立ち尽くしていると、その後ろから見覚えのある小柄な老人が姿を表した。
「やあ、翔太君。突然お邪魔してすまんのう。」
上品な大島紬の着物を羽織った、元吉おじいちゃんだ。いつも畑で麦わら帽子をかぶり、泥だらけの長靴を履いていた姿はそこにはない。背筋はぴんと伸び、その眼光は鋭く、底知れない威厳に満ちていた。
「おじいさん、一体、これは…」
俺が混乱の極みにある中、花は申し訳なさそうにうつむき、いつものように俺の袖口をきゅっと掴んだ。その仕草だけは、俺の愛した不器用な彼女のままだった。
「翔太さん、驚かせてしまって、本当にごめんなさい。お話しなければならないことが、あるんです。」
俺たちは狭いリビングのちゃぶ台に向かい合って座った。出された麦茶のグラスについた水滴が、つーっと滑り落ちる。元吉おじいちゃんが静かに口を開いた。
「翔太君、まずは黙っていたことを詫びさせてくれ。わしら白石はな、江戸の昔から続く大地主なんじゃ。」
「地主?」
「ああ。東京の東側を中心に、かなりの土地を持っておる。それだけではない。君の兄上がお勤めのあのメガバンク本店。あの巨大なビルが立っている丸の内の土地もな、実はわしら白石の持ち物なんじゃよ。」
俺は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。メガバンク本店の地主。それは日本の金融界において、不沈の特権階級を意味する。メガバンクにとって、本店という玉座の土地を握られているということは、その地主に対して絶対に頭が上がらないということだ。
「そして、あのメガバンクには、代々の地代や配当金、売却益など、約800億円の現金を当座預金として預けておったんじゃ。」
「800億…」
ATMで見たあの数字は、幻ではなかったのだ。
「そんな、それほどの資産家なら、どうして花はあんな小さな畑で毎日泥だらけになって…」
俺が言葉を濁すと、花はぎゅっと膝の上で拳を握りしめ、長いまつ毛を伏せた。
「怖かったんです。」
彼女の声はかすかに震えていた。
「私が白石家の令嬢だと分かると、やってくる男の人は、みんな私の目の奥にあるお金や土地しか見ていませんでした。どれだけ綺麗に聞こえても、彼らが褒めるのは私の容姿じゃなくて、私の後ろにある財産なんです。私の話なんて、誰も聞いてくれなかった。」
彼女の脳裏に、何度となく繰り返されたであろう絶望の光景がフラッシュバックしているのが分かった。作り笑いを浮かべる男の、欲にまみれた目。だから彼女は、地味な服を着て、眼鏡をかけ、土の匂いをまとうことで、自分を守ろうとしていたのだ。
「でも、翔太さんは違った。」
花が顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「あなたは泥だらけの私の手を、綺麗だと言ってくれた。私の畑の水路を、汗だくになって直してくれた。お金の匂いなんて一切しない。ただの農家の娘としての私を、心から愛してくれた。私、それが嬉しくて。だから、言い出すタイミングを失ってしまって。」
花はつーっと頬を伝う涙を、丁寧に施されたメイクを崩さないように、指先でそっと抑えた。
「花…すまんかったな、翔太君。花が金目当ての輩に傷つけられるのを見るのが忍びなくて、わしも口止めしておったんじゃ。」
元吉おじいちゃんが深く頭を下げる。
「だがな、この前の銀行での一件を花から聞いて、わしも決断した。花を侮辱するような銀行に、これ以上わしらの大切な資産を置いておくわけにはいかんと。」
「まさか…」
俺は息を飲んだ。
「ああ。今日、花と一緒にメガバンクの本店へ乗り込んでな。800億の預金、全額解約してきた。振り込み先は、君たちが作ったあの桜新信用金庫の口座じゃ。」
「あそこなら、泥のついた1万円札でも、笑顔で受け取ってくれるからのう。」
豪快に笑う元吉おじいちゃんの横で、花が恥ずかしそうに付け加えた。
「超大口の解約となると、どうしても支店長や行員の方々と直接面談しなければならなくて。だから、おじいちゃんが『今日は戦だ。白石家の当主としての正装で行け』って。それで、こんな格好。変じゃないですか?」
「変なもんか。すごく綺麗だよ。息が止まるかと思った。」
俺の素直な言葉に、花はぱっと顔を赤らめ、嬉しそうに微笑んだ。その時だった。俺のジャンパーのポケットの中で、スマートフォンがけたたましいバイブレーションを響かせた。画面を見ると、着信表示には「悠一」の文字。俺と花、そして元吉おじいちゃんは顔を見合わせた。
「翔太君、スピーカーにするんじゃ。」
元吉おじいちゃんの静かな、しかし有無を言わさぬ指示に従い、俺は通話ボタンを押し、スマートフォンをちゃぶ台の真ん中に置いた。
「おい、翔太!お前、今どこにいる?」
スピーカーから飛び出してきた兄の声は、かつての余裕など微塵もなく、ヒステリックに裏返っていた。背後からは、何十人もの人間が走り回り、怒号が飛び交う、パニック映画のような騒音が聞こえてくる。
「家にいるけど、どうしたんだ、そんな大声出して。」
俺がわざと平静な声で答えると、兄は絶叫に近い声で叫んだ。
「どうしたじゃねえよ、お前!あの農家の女、白石花って何者なんだ?さっき本店に乗り込んできて、800億の預金を全額解約しやがった!おかげで銀行の資金繰りが破綻寸前だ!日銀に泣きついて緊急融資を頼んでる騒ぎなんだぞ!」
「へえ。それは大変だな。」
「人ごとみたいに言ってんじゃねえ!それだけじゃない。彼女、うちの本店ビルの地主だったんだよ!支店長から直々に呼び出されて、俺、土下座させられたんだぞ!『お前が白石様を怒らせたのか』って、灰皿投げつけられた!」
「頼む。お前からも奥さんに行ってくれ。解約を取り消してくれって。」
兄の哀れな悲鳴を聞きながら、俺は日やかに目を細めた。
「断る。」
「なあ!お前、俺が首になってもいいのか?家族だろ!」
「家族?笑わせるな。」
俺の低い声がアパートの部屋に静かに響いた。
「母さんが倒れた時、お前はなんて言った?『俺の仕事の邪魔をするな』って言ったよな。俺たちが口座を作りに行った時、お前は花になんて言った?『泥は外で落としてから歩け』って言ったよな。」
「そ、それは悪かった。俺が間違ってた。だから頼む!」
「お前が頭を下げているのは、俺や花じゃない。花の金と土地に対してだろう。そういう浅ましい根性が透けて見えるから、花はお前たちを見切ったんだよ。」
俺の言葉に、兄は絶句した。その沈黙を破るように、花が静かにスマートフォンに近づいた。
「白石です。いえ、柏木花です。」
彼女の声は冷たく澄み切っていた。冬の夜空のように感情を排した、絶対零度の響きを持っていた。
「あ、ああ、白石様。いえいえ、奥様。先日は本当に失礼を…」
「お兄様。私はあなたに『身の程をわきまえろ』と言われましたので、身の程をわきまえて、自分の大切なお金と土地を、信頼できる場所に移しただけです。何か問題でも?」
「問題終わりですよ。このままだと俺は懲戒解雇や、損害賠償を請求されて破産してしまいます。どうか、どうかご慈悲を!」
「慈悲ですか?」
花はふっと冷酷な笑みを浮かべた。
「では、一つだけ教えて差し上げます。あなたが法人営業部で担当している、東西重工の融資案件。あれ、粉飾決算の疑いがあるのを見逃していますよね。」
兄の声が間の抜けた音を立てた。俺も驚いて花を見たが、彼女は平然と続けた。
「昨日、解約の手続きで支店長室にお邪魔した際、机の上に置かれていた決算書のコピーが偶然目に入りまして。在庫回転率の異常な低下と、売掛金の不自然な増加。あれはどう見ても架空売上を計上して、利益を水増ししています。あなたが何十億も動かすと豪語していたあの案件、実は不良債権の塊ですよ。」
「なぜ、花がそんなことを…」
俺が口を挟むと、元吉おじいちゃんがにやりと笑った。
「花はな、ただの農家の娘じゃない。一橋の経済を出て、わしの右腕として白石の資産運用を全て仕切っておるんじゃ。数字の裏を読む目なら、その辺のポンコツ銀行員よりよっぽど鋭いぞ。」
電話の向こうで、兄の絶望的な息を飲む音が聞こえた。
「お兄様。」
花はとどめを刺すように、静かに宣告した。
「あなたは人を見下し、数字の表面だけを見て、本当に大切な現場の真実から目を背け続けた。その結果が、今のあなたです。泥まみれになって現場を歩く翔太さんを嘲ったあなたには、一生理解できないでしょうね。さようなら。二度と私たちに関わらないでください。」
花が通話終了ボタンを押す。プツッという無機質な音が、兄という存在との永遠の決別を告げていた。
元吉おじいちゃんが「若い二人でゆっくり話すがいい」と気を利かせて帰り、古びたアパートの狭いリビングには、俺と花の二人だけが残された。窓の外では春の夜風が電線をゴーゴーと揺らしている。部屋の中に満ちていた高貴な甘い香りが、少しだけ薄れたような気がした。
ちゃぶ台を挟んで向かい合って座った花は、漆黒のジャケットをそっと脱ぎ、膝の上に畳んでおいた。艶やかにまとめられていたシニヨンをほどくと、ふわりとした黒髪が肩に落ち、いつもの見慣れた彼女の輪郭が戻ってくる。しかし、その伏せられた長いまつ毛は小刻みに震え、膝の上で組まれた両手は、血の気が引くほど硬く握りしめられていた。
「翔太さん。」
静寂を破ったのは、花の方だった。彼女の声は、先ほど電話口で兄を冷酷に切り捨てた時の絶対零度の響きとは打って変わり、今にも泣き出しそうなほどか細く、潤みを帯びていた。
「私、隠していて、本当にごめんなさい。騙すつもりはなかったんです。でも、言い出せなくて。」
彼女はゆっくりと顔を上げた。薄紅色のリップが引かれた唇が、かすかに震えている。
「私のお金のこと、土地のこと。そして、あんな冷たい言葉であなたのお兄様を追い詰めてしまったこと。私のこと、嫌いになりましたか?」
すがるような、怯えるような瞳。彼女の脳裏には、過去に彼女の素性を知って態度を豹変させた男たちの欲と打算にまみれた目や、あるいは気まずそうに去っていった背中が焼きついているのだろう。
俺は小さく息を吐き出し、ちゃぶ台越しに手を伸ばして、彼女の固く握られた両手を包み込んだ。漆黒のスーツや真珠のネックレスを身にまとっていても、その手のひらには、俺が愛した小さな豆の跡と、土と向き合ってきた証であるかすかなざらつきが、確かに残っていた。
「嫌いになるわけないだろう。まさか。」
俺の低い声に、花がびくっと肩を震わせる。
「君が白石家の令嬢だろうと、800億の資産を持っていようと。俺にとっては、あの水路の中で泥だらけになって笑っていた白石花に変わりはない。それに、兄貴の件も、君は俺と俺たちの尊厳を守るために戦ってくれたんだ。感謝こそすれ、軽蔑なんてするはずがない。」
俺の親指が彼女の手の甲を優しく撫でると、花の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ち、ちゃぶ台の木目を濡らした。
「でも、それにな、俺は…」
彼女の言葉を遮り、俺は姿勢を正した。俺の胸の奥でずっと燻っていた思いを、今こそ開ける時だ。
「隠し事をしていたのは、お互い様だ。俺も君に話さなきゃいけないことがある。」
「え?」
花が涙で濡れた瞳をまたたかせる。俺は窓の外の暗闇を見つめた。そこには東京のネオンではなく、かつて俺が見ていた全く別の景色が広がっている気がした。
「俺は、ただの水道工事の作業員じゃない。いや、今はそうだが、3年前までは違ったんだ。」
俺の脳裏に、乾燥した赤土の匂いと、焼け焦げるような太陽の熱が蘇る。
「俺は昔、国連の水資源機関、UNウォーターのトップエンジニアとして働いていた。MITで土木工学の修士を取ってから、世界60カ国の水インフラを設計して回っていたんだ。」
花が小さく息を飲む音が聞こえた。俺の脳裏に強烈な体験がフラッシュバックする。アフリカのサヘル地域。乾いた大地。泥水をすすってしか生きられず、感染症で命を落としていく幼い子供たちのうめき。俺はそこで、来る日も来る日も現地の男たちと泥にまみれ、地下何百メートルという深く硬い岩盤を掘り続けた。そして、轟音と共に吹き出した地下水が天高く噴き出した瞬間、飛び散る水しぶきを全身に浴びながら、村の女や子供たちが歓喜の悲鳴をあげ、泥だらけの俺に抱きついてきた。あの感触。あの水の、喉を潤すほどの冷たさと甘さ。
「向こうのメディアや同僚からは、『水の魔術師』なんて仰々しい二つ名で呼ばれていた。俺が書いた水理工学の論文は、世界で最も引用されたトップ5に入っているらしくてな。国連からは、今でも毎年『戻ってきてくれ』と分厚いオファーの手紙が届く。」
俺は自嘲気味に笑い、自分のゴツゴツとした不格好な手を見下ろした。
「アフリカで300万人の飲料水を確保したこの手は、世界中から賞賛された。だが、母が倒れたあの夜、この手は何の役にも立たなかった。どんなに世界中で魔術師と持ち上げられても、母さんが脳梗塞で倒れた時、俺はそばにいなかった。何千キロも離れた場所で、図面と睨めっこしていたんだ。世界中の何百万人を救えても、たった一人の母親の手を握ってやれないなら、俺のやってきたことに何の意味があるんだって。そう思った。」
俺は花に向き直った。彼女の瞳をまっすぐに見据える。
「だから俺は、地位も名誉も全て捨てて、日本に帰ってきた。そして、誰も俺の過去を知らないこの町の、小さな水道屋になったんだ。兄貴たちが俺を出来損ないと見下すのも、当然なんだよ。俺は自分からエリートのレールを降りた負け犬なんだから。」
沈黙が落ちた。遠くで夜の国道を走るトラックの低いエンジン音が響く。俺は花が驚愕し、あるいは戸惑うのを待った。しかし、彼女の口からこぼれたのは、全く予想外の言葉だった。
「知っていましたよ。」
「え?」
花はふわりと、春風のような優しい笑みを浮かべた。
「知っていました。翔太さんがあの『水の魔術師』だということ。結婚を決めた時、おじいちゃんがこっそり探偵事務所を使って、あなたの過去を徹底的に調べ上げたんです。」
俺は絶句した。
「じゃあ、君も、元吉おじいちゃんも、俺の過去を…」
「はい。」
花はこくりと頷き、俺の大きな手を彼女の小さな両手でそっと包み込んだ。その手はとても温かかった。
「おじいちゃん、調査報告書を見て腰を抜かしてました。『この男、ただの水道屋じゃない。国連のトップエンジニアじゃないか』って。でも、私は過去の肩書きなんて、どうでも良かった。」
花の視線が、俺の手のひらの豆とひび割れた傷跡に注がれる。
「私が好きになったのは、私の畑の水路を泥だらけになって直してくれた翔太さんです。世界的なエンジニアという誰もが羨む地位を隠して、ただお母様を大切にするために、毎朝早くから作業着を着て、泥と錆の匂いをさせて帰ってくる。そんな不器用で優しすぎるあなたが、私はどうしようもなく好きなんです。」
彼女の親指が、俺の傷だらけの手の甲を優しくなぞる。その温かな感触が、俺の心の奥底にこびりついていた3年前の後悔と罪悪感の氷を、ゆっくりと溶かしていくのを感じた。
「翔太さん。」
花がいたずらっぽく目を細めて笑った。
「私たち、おかしいですね。お互いに世間から見たら羨まれるような地位や財産を持っているのに、それを隠して、わざわざ泥まみれになって、小さなアパートでこうして麦茶を飲んでいるなんて。」
俺もふっと吹き出してしまった。
「ああ、本当に変な夫婦だ。兄貴たちから見れば、到底理解できないだろうな。」
「ええ。でも、私はこの土の匂いがする暮らしが、世界で一番好きです。」
花は身を乗り出し、俺の胸にそっと額を押し当てた。彼女の髪から漂う高貴な香りと、俺のシャツに染みついた工業用石鹸の匂いが混じり合う。それは、俺たち二人にしか分からない、掛け替えのない幸福の匂いだった。俺は彼女の華奢な背中に腕を回し、強く抱きしめた。俺の居場所はここだ。このぬくもりを、俺の持てる全ての力で守り抜く。
だが、俺たちのささやかな幸福の裏側で、歯車はすでに不気味な音を立てて、崩壊へと向かっていた。
同じ頃、東京・丸の内。日本の金融の中心地であるメガバンク本店、法人営業部フロアは、深夜であるにも関わらず戦場のような阿鼻叫喚に包まれていた。
「おい、資金繰りどうなってる?コール市場から引っ張れないのか?」
「だめです。白石家からの800億の引き上げの噂がすでに広がっていて、他行も警戒して金を出そうとしません。」
鳴り止まない電話のベル。床に散乱する書類。飛び交う怒号。そのフロアの片隅で、兄・悠一は自身のデスクの椅子に崩れ落ちるように座っていた。
「どうして、こんなことに…」
仕立ての良かったブランドのスーツは冷や汗と脂で汚れ、ネクタイは無惨に引き緩められている。彼が誇りにしていた例のネクタイピンはどこかに飛んでいき、胸元はしわくちゃになっていた。彼の前には、分厚いファイルの山が置かれている。「東西重工 特別監査報告書」。あの電話の後、支店長の激怒に触れた悠一は、直ちに担当していた融資案件の全面的な見直しを命じられた。そして、花の指摘通り、東西重工の巧妙な粉飾決算が次々と明るみに出たのだ。架空の在庫、ダミー会社を使った売上の水増し。悠一が俺の手柄だと豪語し、何十億という融資を実行したその中身は、スカスカの不良債権の塊だった。
「貴様、現場も見ずに、支店長の席の口約束だけで、こんな巨額の融資を通したのか!」
専務からの容赦ない叱責が、耳の奥で何度もリフレインする。違う。俺は悪くない。あいつらが巧妙に騙したんだ。俺はメガバンクのトップエリートだぞ。悠一はうつむきながら、震える手でパソコンのマウスを握った。しかし、画面に映し出される数字は、どれも彼を奈落の底へ突き落とすものばかりだった。
これまで彼は、数字だけを見て生きてきた。現場の泥臭い工場に足を運ぶこともなく、ただエアコンの効いた会議室で、書類上の見栄えだけで人を判断してきた。その結果がこれだ。
「おい、柏木。」
ふと背後から冷たい声がした。振り返ると、同期であり、彼が常に見下していたはずの人事次長の姿があった。その目には、はっきりとした軽蔑と、切り捨てる決意の光が宿っている。
「なんだ、支店長からの内示だ。お前、関連の清掃会社へ出向だ。事実上の左遷。いや、この粉飾の責任を取らされての懲戒解雇の手続きに入る前の、一時的な隔離だと思え。」
悠一は弾かれたように立ち上がった。椅子がガタンと音を立てて倒れる。
「ふざけるな!俺は課長だぞ!将来の役員候補だ!清掃会社だと?あの泥水すすってるような底辺の仕事に、俺が行けっていうのか!」
次長は呆れたように鼻で笑った。
「底辺?お前がその底辺を作ったんだろう。白石様といううちの最大の地主様を怒らせて、おまけに巨額の不良債権まで抱え込んだ。お前はもう、この銀行の厄介者なんだよ。さっさと荷物をまとめろ。」
次長がきびすを返して去っていく。周囲の部下たちも、誰一人として悠一に同調するものはいない。彼がこれまで弱者を切り捨て、上に媚び諂ってきた報いだ。視線が針のように悠一の全身に突き刺さる。
「くそっ、くそっ!」
悠一はデスクの上のファイルを力任せに払い落とし、夜の丸の内へと逃げるように飛び出した。春の夜風は冷たく、彼を慰めるものは何もない。見上げるメガバンクの巨大なビルは、まるで彼を押し潰す墓標のように黒くそびえ立っていた。
タクシーに飛び乗り、彼が向かったのは実家だった。もはや彼がすがりつけるのは、かつてこの銀行で支店長まで務め上げた父しかいない。
「父さん!父さん!助けてくれ!」
実家の重厚な扉を乱暴に開け、悠一はリビングへと転がり込んだ。高級なペルシャ絨毯の上に這いつくばるようにして、彼はソファーに座る父にすがりついた。
「どうした、悠一。夜中にそんな格好で。」
父はウイスキーのグラスを傾けながら、冷ややかに息子を見下ろした。
「左遷だ!いや、首になる!俺が担当してた企業が粉飾してて、しかもあの翔太の嫁、白石花がうちの地主で、800億引き上げやがったんだ!親父の力で支店長に口利きしてくれ!頼む!」
悠一は必死にまくし立てた。しかし、父の顔に浮かんだのは、父親としての慈愛ではなく、自身の保身を計算する冷酷な経営者のそれだった。
「なるほど。翔太の嫁があの白石家の令嬢だったとはな。それは私の調査不足だった。」
正はグラスをテーブルに置き、おもむろに立ち上がった。
「父さん!なんとかしてくれ!俺の人生が終わっちまう!」
「黙れ。」
父の一喝がリビングに響き渡る。悠一はびくっと肩を震わせた。
「お前がヘマをした尻拭いを、私がなぜやらねばならん?退職したとはいえ、私には私の名誉と立場があるのだ。」
「そんな!見捨てるのか?家族だろ!」
「数字を残せない人間に、家族も何もない。それは私が銀行員としてお前たちに教えてきたことだろう。」
父の言葉は氷のように冷たかった。かつて倒れた母を見捨てた時の、あの全く同じ温度の言葉だ。絶望に染まる悠一を見下ろし、正は目を細めた。
「だが、このままでは我が家の名前に傷がつく。こうなったら、あの方に頼るしかないだろう。」
「あの方?」
悠一が顔を上げる。正は部屋の隅にある重厚な金庫に向かい、ダイヤルを回した。中から取り出したのは、古びた分厚い手帳だった。
「メガバンクグループの裏を牛耳り、政財界にも太いパイプを持つフィクサー。かつて私が支店長時代、彼の汚れ仕事を引き受けた恩がある。あの男の力を使えば、白石の土地の権利ごとひっくり返すことができるかもしれん。」
正の声には、底知れない暗い欲望が滲んでいた。彼は手帳のページを送り、一つの番号に指を止めた。
「翔太の出来損ないの分際で、白石の財産を独り占めしようとは許せん。この私が、奴らを地の底へ引きずり下ろしてやる。」
正がダイヤルを回す音が、深夜のリビングに不気味に響き渡る。受話器の向こうから聞こえてきたのは、葉巻の煙で濁されたような、重く、唸るような低音の声だった。
「正か。久しいな。」
巨大な悪意が、俺と花の小さな幸福を飲み込もうと、今まさに動き出そうとしていた。
正が深夜のリビングで黒電話の受話器を置いてから、事態は静かに、しかし暴力的な速度で進行し始めていた。春の冷たい雨がとしとしとアスファルトを叩く、ある夜のことだった。俺と花が住むアパートの玄関のチャイムが、控えめに鳴った。
「こんな時間に、誰だろう?」
俺が警戒しながらドアを開けると、そこにはずぶ濡れの作業着を着た初老の男が立っていた。俺が以前別の現場で何度か世話になった、小さな土木会社の社長、神田さんだった。
「翔太、夜遅くにすまねえ。どうしてもお前に話しておかなきゃならねえことがあってな。」
神田さんの顔には深い疲労が刻まれ、その目は怯えたように泳いでいた。リビングのちゃぶ台に案内し、花が温かい焙じ茶を出すと、神田さんは泥で汚れたひび割れた両手で湯呑みを包み込み、ぽつりぽつりと語り始めた。
「俺の会社は、実は先月、不渡りを出して倒産したんだ。お前の兄貴、柏木課長のせいでな。」
「兄貴が?」
俺が前のめりになると、神田さんは悔しそうに唇を噛みしめた。
「ああ。メガバンクに会社の命綱だった融資を頼みに行ったんだ。だが、お前の兄貴は俺の顔を見るなり鼻で笑って、こう言った。『我々メガバンクは、東西重工のようなビッグビジネスにしか投資しない。泥水すすってるような底辺の土建屋に貸す金はない』ってな。」
神田さんの声がかすかに震える。
「それで会社は潰れ、俺は多額の借金を背負った。娘の学費も払えなくなって、藁にもすがる思いで、裏のブローカーから紹介された訳ありの深夜作業の仕事を受けたんだ。それが、お前の兄貴が融資してる東西重工のダミー会社が仕切ってる、丸の内の地下工事だった。」
その言葉に、奥で茶器を片付けていた花の肩がびくっと跳ねた。
「丸の内の地下…メガバンク本店の直下ですか?」
花が歩み寄り、真剣な面持ちで問いかけると、神田さんは重々しく頷いた。
「ああ。あそこには、江戸時代から続く巨大な地下水脈がある。奴らは俺たちみたいな借金持ちの作業員を使って、その水脈の壁面に細工してるんだ。意図的に地下水を暴走させて、地盤沈下を起こす気だ。」
「なんだって!」
俺は思わず立ち上がった。
「都市インフラを破壊する気か!そんなことをすれば、上に立っているビルごと傾くぞ!」
「それが狙いらしい。」
神田さんはぎりっと拳を握りしめた。
「地盤が緩んで危険区域になれば、地主は手放さざるを得なくなる。そこを、裏のフィクサーの息がかかった東西重工が、二束三文で買い叩くって寸法だ。俺は、自分の保身のために、その恐ろしい計画の片棒を担がされそうになってる。翔太、俺は自分が情けねえよ。」
大粒の涙が、神田さんの深いしわを伝って、ちゃぶ台の木目にこぼれ落ちた。エリートたちに誇りを踏みにじられ、悪事に加担させられそうになっている職人の絶望。
「神田さん。」
ふと、花が静かに口を開いた。彼女はちゃぶ台越しに手を伸ばし、神田さんの泥と油が染みついたゴツゴツとした手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「大丈夫です。あなたのその手は、長年、見えないところで町を守ってきた、立派で誇り高い手です。私たちが、絶対にあなたを犯罪者になんてさせません。」
花の眼鏡の奥の瞳には、かつてないほどの静かで強い怒りが燃えていた。自分の土地が狙われていることへの怒りではない。真面目に土と向き合ってきた人間の尊厳を弄ぶ悪党たちへの怒りだった。
「翔太さん。」
花が俺を見る。その視線で、俺は彼女の決意を悟った。
「ああ。神田さん、その工事の図面、俺に見せてくれないか?俺がなんとかする。」
だが、俺が翌朝、少し離れた現場に一時的に仕事の引き継ぎに出ている間だった。アパートに戻った俺が見たものは、テーブルの上に残された一枚のメモと、丸の内の地下水位異常を示すノートパソコンの画面だった。
「翔太さんへ。あの後調べたら、地下水の異常がすでに始まっていました。神田さんたちを犯罪者にする前に、私が証拠を掴んで工事を止めます。当主としての私の責任だから。心配しないで。」
「バカ野郎!」
物理的な水の恐ろしさを知らない彼女が、一人で乗り込めばどうなるか。俺は作業着のジャンパーを引っ掴み、軽トラックで丸の内の裏路地へと急行した。
「翔太!」
搬入口のバリケードの影に、ヘルメットをかぶった神田さんが立っていた。彼はひどく怯えた顔で俺の腕を掴んだ。
「奥さんが、一人で地下に入っちまった!止めようとしたんだが、黒服の連中に見つかって、今一番深い第一調整池に閉じ込められてる!あと数分で、水脈が意図的に決壊させられるぞ!」
「案内してくれ!」
俺の怒号に、神田さんは一瞬ひるんだが、すぐにその濁った瞳に確かな炎を宿した。
「おお!もう、あんなエリートどもの奴隷になるのはごめんだ!俺の現場の意地を見せてやる!」
花は一橋大学で経済を修めた優秀な資産管理者だ。数字の裏を読む天才と言っていい。だが、物理的な水の恐ろしさ、その暴力的な質量と圧力を、彼女は机上のデータとしてしか知らないのだ。
メガバンク本店ビルの裏手、搬入口に続く薄暗い路地。そこに見慣れない「地下再開発配管緊急点検」と書かれた真新しいバリケードが組まれていた。周囲には建設会社の名前すらない。黒塗りの車が数台止まり、屈強な体格の男たちが周囲を警戒している。普通の工事現場ではない。ヘルメットも被らず、耳にインカムをつけた彼らの醸し出す空気は、裏社会のそれだった。
俺は軽トラックを少し離れた路地に乗り捨て、荷台から使い込まれた重いモンキーレンチを一本だけ抜き取った。冷たい鉄の感触が、手のひらの豆にぴたりと吸いつく。
「父さん、あんた、自分のプライドを守るために、こんな連中まで動かしたのか。」
男たちの隙を見つけ、俺は通気口のルーバーをレンチの柄でこじ開け、暗い地下空間へと身を滑り込ませた。カビと湿ったコンクリートの強烈な匂いが鼻をつく。地下20メートル。ヘッドライトの光を頼りに、巨大な配管が腸のように這い回るメンテナンス通路を、息を殺して進む。はるか上方から、大地の底が唸るような重低音が響いてきた。
「おい、例の娘の様子はどうだ?」
「第一調整池の底に放り込んである。あと10分もすれば、水脈からの逆流で完全に水没するさ。」
「ひでえ話だぜ。地主の娘を事故に見せかけて消し、地盤沈下を起こしてあの土地を二束三文で買い叩く。上が考えることはえぐいね。」
通路の角で、見回りの男たちの会話が耳に飛び込んできた。俺の頭の中で張り詰めていた理性の糸が、ぷつんと切れた。男がライターでタバコに火をつけようとした瞬間、俺は暗闇から飛び出した。
「ぐわっ!」
一人の男の顎をレンチの柄で的確に打ち抜き、もう一人の男の鳩尾に安全靴の爪先を深く沈め込む。鈍い音が地下道に反響し、二人の男は声も出せずにコンクリートの床に崩れ落ちた。俺は倒れた男の胸ぐらを掴み上げ、血が沸騰するような声で詰め寄った。
「第一調整池はどこだ?3秒で答えろ!」
男が震える指で示した方向へ、俺は全速力で駆け出した。肺に吸い込む空気が急速に湿り気を帯びていく。水の匂いが濃くなる。重い鉄扉を蹴り開けると、そこは巨大な地下神殿のような空間だった。延々と続く巨大なコンクリートの水槽。その底深く、錆びついた鉄格子の向こう側に、花の姿があった。
「花!」
俺の叫びに、花がびくっと肩を震わせて顔を上げた。彼女の美しい黒髪は泥水に濡れて肌に張り付き、水位はすでに彼女の腰の高さまで迫っていた。
「翔太さん!だめ!ここに来ちゃだめ!」
花が鉄格子にすがりつき、悲痛な声で叫んだ。俺は鉄格子に駆け寄り、モンキーレンチを鍵穴に叩きつけた。ガキンと火花が散るが、特殊合金の巨大な南京錠は傷一つつかない。
「くそっ!」
「無駄だぜ、兄ちゃん。」
ふと頭上、キャットウォークから、無線機を通したような歪んだ声が降ってきた。見上げると、黒いコートを着た隻眼の男が、数人の部下を従えてこちらを見下ろしている。
「お前が、例の出来損ないの息子か。残念だったな。ここの地下の水脈のバイパス管は、すでに俺たちが破壊した。あと5分で、この調整池には数万トンの水が流れ込み、丸の内の地盤は豆腐のように崩れ落ちる。お前の可愛い嫁さんごと、な。」
男が下劣な笑い声をあげる。俺は鉄格子から離れ、壁際に設置された巨大な制御盤に目を走らせた。太い配管に接続されたいくつもの巨大なバルブと、真っ赤な警告ランプが点滅するアナログの圧力計。圧力計の針は、すでにレッドゾーンの限界値を振り切ろうとしていた。配管の内部で、想像を絶する水圧が暴れ狂っているのが、配管の軋む音で分かる。このままでは、花も、丸の内のインフラも、完全に崩壊する。
俺は一番巨大なメインバルブのハンドルに両手をかけた。これを力任せに閉めれば、水流を一時的に止められるかもしれない。そう思い、手に力を込めようとしたその瞬間だった。ぐらりと視界が歪んだ。
「おい、ダムの決壊が始まるぞ!避難指示は出たのか?」
「だめだ!水圧が計算の3倍を超えている!このままでは本流の村が丸ごと飲み込まれる!」
俺の脳裏に、数年前、アフリカのサヘル地域で直面した、あの最悪の夜の記憶がフラッシュバックした。肌を焦がすような灼熱の熱風と、巻き上がる乾いた赤土の匂い。飛び交う他国語の怒号と、鼓膜を劈くような耳障りな警告サイレンの音。泥水にまみれた図面をヘッドライトの頼りない光で照らし、俺が絶望的な流体力学の計算式と格闘していた。まさにその時、泥だらけの作業着のポケットの中で、衛星電話が無機質な振動を始めた。
「翔太君、お母さんがね、倒れたの。今すぐ来てちょうだい。」
ノイズ混じりの親戚の悲痛な叫び。一瞬、周囲の騒音が完全に遠のいた。俺は手元の図面にぽたりと落ちた泥水の滴を、ただ呆然と見つめた。帰らなきゃ。今すぐ飛行機に乗って、母さんの手を握ってやらなきゃ。だが、顔を上げれば、目の前には巨大なコンクリートの壁に走る無数のひび割れがあった。そこから吹き出す凄まじい水圧のしぶきが、容赦なく俺の頬を打つ。今、この現場で構造を完全に把握しているのは、俺しかいない。俺がこの場を放棄すれば、あるいは恐怖で計算を一つでも間違えれば、数分後には数万トンの濁流が本流の村を飲み込み、地図から全ての人々の営みを消し去ってしまう。
俺の頭脳とこの両手に、数万の呼吸がかかっていた。数万人の命か、たった一人の母さんか。究極の天秤が、俺の心を八裂きにしようとしていた。俺は血が滲むほど強く唇を噛みしめ、衛星電話をコンクリートの床に叩きつけるように置いた。そして、泥と油にまみれた両手で、決壊を防ぐための緊急バイパス管の巨大なバルブに飛びついたのだ。手のひらの皮が破れ、鉄の錆が肉に食い込む痛みを感じながら、俺はただ無我夢中で、数万人の命をつなぎ止めるためのハンドルを、ただひたすら回し続けた。
結果として、俺の計算は完璧だった。ダムは持ちこたえ、数万人の命は濁流から救われた。そして、遠く離れた日本でも、母は奇跡的に一命を取り止め、右半身に麻痺を残しながらも、再び俺の名前を呼んでくれた。だが、あの夜、冷たい鉄のバルブに全体重をかけながら、俺の胸を支配していたのは、英雄的な達成感などでは決してなかった。凄まじいまでの自己嫌悪と恐怖だった。もしあの夜、俺が数万人を救い、現地で英雄と称えられているその裏で、母が二度と目を覚まさなかったとしたら。俺が何日もかけて日本へ帰り着いた時、すでにぬくもりを失い、枯れ枝のように冷たくなってしまった母の手を握ることになっていたとしたら。俺は一生、自分を許せなかっただろう。
数万人の命を救い、世界中から「水の魔術師」と持ち上げられたこの両手は、世界で一番大切な、たった一人の家族を切り捨てた手だ。そんな栄光に、一体何の意味があるのか。その圧倒的な恐怖と、遠く離れた場所で何もできなかった無力感が、3年経った今、再び呪いのように俺の両腕に巻きついてきた。
「ああ…」
バルブを握る俺のゴツゴツとした手が、信じられないほど激しく震え始めた。歯の根が合わず、カチカチと乾いた音を立てる。冷たい汗が背中を滝のように流れ落ちる。怖い。俺の計算が間違っていれば、俺の判断が一つでも遅れれば、都市が沈む。そして何より、今度こそ、目の前にいる大切な女性の手も、永遠に離してしまうんじゃないのか。過去の強烈なトラウマが、俺の思考回路を完全にショートさせていく。膝から力が抜け、俺は冷たいコンクリートの床に崩れ落ちそうになった。
「翔太さん!」
不意に、鉄格子の向こうから、鋭く澄み切った声が響いた。はっとして顔を上げると、花が水が胸まで迫る中で、両手を鉄格子に強く押し当てていた。その手は泥水にまみれ、傷だらけだった。あの、俺が愛した畑の土の匂いがする、不器用な手だ。
「翔太さん、聞いて。世界を背負おうとしないで。」
花の眼鏡の奥の瞳が、暗闇の中で燃えるような強い光を放っていた。
「あなたは国連のトップエンジニアかもしれない。でも、今のあなたは、私の小さな畑の水路を直してくれた、私の大好きな翔太さんです。私の土の匂いを綺麗だと言ってくれた人です。」
配管が限界の悲鳴を上げ、足元のコンクリートが激しく振動し始める。それでも、花の言葉は俺の耳に、魂の奥底にはっきりと届いていた。
「私はあなたを信じてる。不器用で真っすぐで、どんな泥水の中でも絶対に手を離さない。あなたの手を、私は信じています。だから、顔を上げて。」
その言葉が、俺の脳裏にこびりついていたアフリカの幻影を、一瞬にして吹き飛ばした。そうだ。俺はもう、何千キロも離れた場所から図面を見ているだけの男じゃない。今、俺の目の前には、俺を信じて泥まみれの手を伸ばしてくれる人がいる。
「ああ、そうだな。俺の手は、君を守るためにあるんだ。」
俺は深く、長く息を吸い込んだ。震えは完全に止まっていた。トラウマの呪縛から解き放たれた俺の脳内に、「水の魔術師」と呼ばれたかつての絶対的な演算能力が蘇ってくる。
「神田さん!」
俺は背後に控えていた神田さんを振り返った。
「敵は水圧を限界まで高めている。俺はこれから、ベルヌーイの定理を利用して、あの細いバイパス管で人為的なウォーターハンマーを起こす。」
俺の言葉に、神田さんは30年の現場の勘で即座にその意図を理解し、目を見開いた。
「水圧のベクトルを反転させて、濁流を奴らの制御室へ押し返す気か!だが翔太、それにはこっちのメインバルブと、あっちのサブバルブを、今、1秒の狂いもなく同時に開閉しなきゃならねえ。お前一人じゃ、絶対に無理だ!」
「だから、あんたがいるんだろう。」
俺はモンキーレンチを力強く握りしめ、神田さんの目をまっすぐに見据えた。
「長年現場で泥水すすってきた職人の意地、ここで俺に貸してくれ。」
「ああ!」
神田さんの顔がぐしゃりと歪み、彼は涙と汗にまみれた顔で深く頷いた。
「およ、なめるな。俺はこの現場のプロだぞ!」
「おいおい、発狂したか?潰れた土建屋のじじいと水道屋が、二人揃って何ができるってんだ?」
頭上、キャットウォークから黒服の男が嘲笑する。
「素人は黙ってろ!」
俺はメインバルブにレンチをかませ、神田さんは10メートル離れたサブバルブに鉄パイプを差し込んで体重をかけた。空間に響く、配管が軋む悲鳴。限界を超えた水圧が、巨大な鉄の壁を突き破ろうとしている。俺は神田さんと視線を交わした。言葉はいらなかった。泥と油にまみれて生きてきた、現場の職人同士にしか分からない呼吸。
「今だ!」
俺の号令と共に、俺と神田さんは全身の筋肉を爆発させ、全く同時にバルブを急反転させた。ドゴンッ!凄まじい水圧のベクトルが反転し、暴力的な水のエネルギーの矛先は、配管の最も脆弱な部分、黒服の男たちが潜んでいた不正制御室へと、ピンポイントで向かった。
「メキメキメキ…ドッパーン!」
「うわあああ!」
制御室の壁が水圧で紙のように吹き飛び、男たちの陰謀の全てを飲み込んでいった。命に別状はないだろうが、あの水圧をまともに食らえば、骨の数本は折れ、当分は動けないはずだ。
静寂が戻ってきた地下空間で、俺と神田さんは息を切らしながら、固く拳を突き合わせた。それは、エリートたちの歪んだ野望を、泥だらけの現場の手が打ち砕いた瞬間だった。配管からは、ちょろちょろと残った水が滴り落ちる音だけが響いている。圧力計の針は、安全域の緑色のゾーンでぴたりと安定していた。
俺は足場から飛び降り、鉄格子の前に立った。水が完全に引いたコンクリートの底で、花がへたり込んでいる。俺はレンチを振り上げ、すでに水圧の衝撃で歪んでいた南京錠のジョイント部分を、渾身の力で叩き割った。ガシャンと重い鉄の扉が開く。
「花!」
俺は泥まみれの床に膝をつき、震える花を力強く抱きしめた。漆黒のスーツは泥水で重く冷たくなっていたが、その奥にある彼女の体温は、確かに力強く脈っていた。
「翔太さん、翔太さん!」
花は俺の作業着の背中にしがみつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。俺は彼女の泥にまみれた髪を、何度も何度も撫でた。
「ごめん。怖かったよな。もう大丈夫だ。俺が君を、絶対に見失わないから。」
地下の冷たい空気の中、俺たちの間に漂うのは、ちぐはぐな陰謀の匂いではなく、いつか二人で嗅いだあの雨上がりの畑の、甘く優しい土の匂いだった。
数日後、春の陽ざしが降り注ぐ穏やかな休日の午後。丸の内の地下で起きたウォーターハンマー現象は、フィクサーたちの不正制御室だけをピンポイントで水没させ、彼らの陰謀を物理的に完全に粉砕した。濁流に飲まれ、骨折や打撲で身動きが取れなくなった隻眼の男たちは、駆けつけた警察とレスキュー隊によって泥水の中から次々と引き上げられ、一網打尽にされた。彼らが残した防水仕様のハードディスクからは、計画の全貌を示すデータや、裏で糸を引いていた元銀行員・柏木正への多額の資金移動の記録が、生々しいデジタルタトゥーとして発見されたのだ。
それから3日後の、どんよりと曇った肌寒い朝だった。俺は花の運転する車で、かつて自分が育った高級住宅街の一角に止まっていた。フロントガラス越しに見える柏家の重厚な門。その前に、数台のパトカーと黒塗りの覆面パトカーがものものしく並んでいる。
「行くの?」
運転席の花が、心配そうに俺を見た。
「ああ。俺の家族が終わる瞬間だ。この目で見届けておかなきゃならない。」
俺は小さく息を吐き、冷たいアスファルトの上へ降り立った。開け放たれた玄関から中に入ると、かつて高級な家具の匂いと日やかな空気に満ちていたリビングは、捜査員たちの靴音と無機質な声で溢れ返っていた。ペルシャ絨毯の上には、書類の束が散乱している。
「話せ!俺は関係ない!親父が勝手にやったことだ!」
奥の部屋から、ヒステリックな絶叫が響いた。悠一は、しわだらけのパジャマ姿で、二人の捜査員に両脇を抱えられ、床に這いつくばるようにして抵抗していた。
「俺はメガバンクのトップエリートだぞ!役員になる男だ!こんなところで終わってたまるか!翔太!お前、なんとか言え!お前の嫁の土地だろうが!」
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにし、醜く泣き喚く兄の姿。かつて俺たちを「泥水すすってる底辺」と嘲笑った、仕立てのいいスーツを着こなした男のプライドは、見るも無惨に砕け散った。東西重工の粉飾決算への関与。特別背任。彼の犯した罪は、彼自身が進言していた数字によって、完全に立証されていたのだ。
そして、ビリヤードルームの奥には、父が乱れのない髪を完璧に整えた姿で、静かに座っていた。捜査員に囲まれながらも、その背筋はぴんと伸びている。だが、その顔にはかつての絶対的な威厳はなく、どこか憑き物が落ちたような空虚な影が差していた。
「翔太か。」
父はゆっくりと俺に視線を向けた。
「ああ。あんたの野望は、全部、泥の底に沈んだよ。」
俺が低い声で告げると、父はかすかに、本当にかすかに、自嘲するような笑みをもらした。
「あの地下水脈の暴走を止めたのは、お前と、そしてあの設備屋の男だと聞いた。エリートの計画を、泥だらけの底辺が打ち砕いたというわけだ。」
「あんたが底辺と呼ぶ人たちの手には、町を守る誇りがあった。あんたには、それが一生見えなかったんだ。」
俺の言葉に、父は視線を外し、自分の膝の上に置かれた、しわ一つない綺麗な両手を見つめた。
「見えなかったのではない。」
父の声がかすかに震えた。
「私は、お前たちのような泥まみれの手を見たくなかったのだ。思い出したくもなかった。」
俺は息を潜めた。
「どういう意味だ?」
父は小さく息を吸い込み、どこか遠くを見るような、うつろな目をした。
「私の父、お前の祖父はな、小さな町工場を営んでいた。油と鉄の匂いが染みついた、狭くて薄暗い工場だ。父の手はいつも油まみれで、深いしわには黒い鉄粉が入り込んで、洗っても落ちなかった。私は、その手が大好きだった。」
父の口から出た意外な言葉に、俺は息を飲んだ。冷酷な数字の王者だった父の脳裏に、かつてそんな温かい情景があったとは。
「だがな。」
父の顔がぎりっと苦痛に歪む。
「私が中学生の時だ。工場が資金繰りに行き詰まった。父は油まみれの手をすり合わせて、メインバンクだったメガバンクの前身に融資を頼み込んだ。だが、当時の支店長は、父の泥臭い技術など見もしなかった。ただ冷酷に『数字が足りない』と、融資を打ち切ったのだ。」
父の声のトーンが、一段低く、冷たくなる。
「その時、私は骨の髄まで思い知らされたのだ。どれだけ素晴らしい技術があろうと、どれだけ泥水すすって努力しようと。この世界は、金と数字を握るものが、生存の剣を握るのだと。だから私は、全てを捨てて銀行のトップを目指した。弱者になることが、何よりも恐ろしかったからだ。」
父の告白に、リビングの空気は重く沈み込んでいた。母が倒れたあの夜、父が「現場に穴は開けられない」と見捨てたのも、ただ家族を愛していなかったからではない。一度でも立ち止まり、流れに逆らって数字を落とせば、自分が再びあの父親と同じ敗者に転落してしまうという、脅迫観念のような恐怖に支配されていたのだ。
「翔太、私はお前が憎かった。」
父が静かに俺を見上げた。
「お前は素晴らしい頭脳を持ちながら、私が見捨てた泥まみれの世界へ、自ら降りていった。そのゴツゴツとした不格好な手が、あの日の私の父の手に重なって、私は無性に腹が立ったのだ。私の生き方を否定されているようでな。」
俺はジャンパーのポケットの中で、自分の分厚い手を固く握りしめた。父の悲しみは、痛いほど理解できた。父もまた、絶望的なトラウマに人生を狂わされた、一人の弱い人間だったのだ。
「だが、父さん。あんたの痛みは分かった。」
俺はまっすぐに父の目を見据えていった。
「でも、だからと言って、他人の尊厳を踏みにじり、花や神田さんたちから奪っていい理由にはならない。母さんだって、ずっと寂しかったはずだ。」
俺はポケットから自分の手を取り出し、父の前に見せた。レンチを握り続け、ひび割れ、錆の匂いが染みついた手。
「俺はじいさんの手を見たことはない。だけど、一つだけ確かなことがある。じいさんの手は、あんたを守るために、必死に油にまみれていたはずだ。そのぬくもりを弱者の証だと切り捨てた時点で、あんたは本当の意味で、大切なものを全て失っていたんだよ。」
父の目が大きく見開かれた。その瞳の奥で、三十数年間固く閉ざされていた何かが、音を立てて崩れ落ちるのが分かった。
「どうか…」
父はぽろりと、一粒の涙をこぼした。完璧に手入れされたスーツの膝に、その滴が落ちる。
「私は、間違えていたのだな。ずっと、間違えたまま。」
「柏木正さん、同行をお願いします。」
捜査員が静かに声をかけ、父の前に立った。父は何も抵抗せず、ゆっくりと両手を差し出した。カチリと無機質な音が響き、かつて何百億という金を動かしたその手に、冷たい鋼の手錠がかけられる。父が捜査員に促され、リビングを出ていく。すれ違い様、立ち止まり、俺に背を向けたまま、ぽつりとこぼした。
「翔太。かず子、母さんのこと、頼む。」
それは、俺が物心ついてから初めて聞いた、一人の父親としての、そして夫としての、弱々しくも人間らしい声だった。
「ああ、分かってる。」
俺が短く答えると、父は小さく頷き、そのままパトカーが待つ外の光の中へ、静かに歩み去っていった。
俺は誰もいなくなった実家のリビングに一人立ち尽くし、深く息を吐き出した。一つの時代が、一つの呪いが、完全に終わったのだ。
「翔太さん。」
ふと背中から温かい声がして、振り返ると、花が玄関のかまちに立っていた。彼女は俺のそばに歩み寄ると、俺の荒れた大きな手を、両手でそっと包み込んでくれた。
「終わったんですね。」
「ああ。少しだけ、悲しいけどな。」
俺が苦笑すると、花は俺の胸にそっと顔を押し当てた。
「翔太さんの手は、温かいです。お母様も、きっとそう思ってますよ。」
彼女の髪から香る柔らかな匂いと、俺の手から伝わる土の匂い。冷え切っていた実家のリビングに、ようやく本当の意味での春が訪れようとしていた。
あの嵐のような日々から、半年が過ぎた。抜けるような青空からじりじりと照り付ける夏の太陽。蒸せ返るような夏草の匂いと、遠くで響くけたたましい蝉時雨が、白石家の古い日本家屋を包み込んでいる。俺は開け放たれた縁側に腰を下ろし、膝の上のノートパソコンのキーボードを叩いていた。カタカタという乾いたタイピング音が、風鈴の涼やかな音に混じる。
「ミスター柏木、あなたの指示通りにバイパスの角度を3度修正したら、水圧が完璧に安定しました。現地の村人たちも大喜びです。」
画面の向こう側、アフリカ・ケニアの乾いた赤土を背景に、ヘルメット姿の現地エンジニアが白い歯を見せてサムズアップしている。
「よかった。だが、雨季に入ると表層の土砂が流れ込む危険がある。沈砂池フィルターの清掃だけは、週に一度必ず行うように現場に徹底してくれ。」
俺がマイク越しに英語で答えると、画面の向こうの数十人の作業員たちが一斉に歓声を上げて手を振った。「マジシャン!」という愛称の声を最後に通信を切り、俺はふっと息を吐いてノートパソコンを閉じた。日焼けするようなギリギリの流体力学の計算も、こののどかな縁側でやると、どこか心地よい疲労感に変わるから不思議だ。
今の俺は、この町で「柏木水道設備」という小さな看板を掲げながら、週に数回、国連水資源機関の特別技術顧問として、オンラインで世界中の水インフラ設計をサポートしている。現場の泥水を直接被ることは少なくなったが、俺の頭脳と経験は、今も国境を超えて、何十万人もの喉を潤しているのだ。そして何より、今の俺は、もう大切な家族の手を離すことなく、世界と繋がることができている。
「お母さん、そっちの赤いトマト、もう食べ頃ですよ。」
庭の奥から、花の明るい声が響いた。視線を上げると、青々とした夏野菜が茂る畑の真ん中で、麦わら帽子をかぶった花と、そして母の姿があった。
「本当ね。すごくいい匂いがするわ。」
母は花の支えを受けながら、自分の足でしっかりと土の上に立っていた。そして、麻痺が残っていたはずの右手を、ゆっくりと震わせながら伸ばし、太陽の光をたっぷり浴びて真っ赤に実ったトマトに、そっと触れた。
「翔太が作ってくれた、この水路のおかげね。土がふかふかで、温かいわ。」
母がトマトを収穫して胸に抱きしめ、ふわりと微笑む。病院の無機質なベッドの上で、枯れ枝のように細っていたあの日のおかげは、もうない。太陽の光を浴び、土に触れ、花と一緒に畑に出るようになってから、母の表情は見違えるほど生き生きとし、右手の機能も驚くべきスピードで回復していった。土の力と水の力、そして何より花の持つ底抜けの優しさが、母の止まっていた時間を、再び動かしてくれたのだ。
「翔太さん、お母さんが一番大きいの、取りましたよ。」
花が泥だらけの手を大きく振って、縁側の俺に笑いかける。
「ああ。後で冷やして、丸かじりしよう。」
俺が手を振り返したその時、砂利道をタイヤで鳴らしながら、一台の軽トラックが庭先に入ってきた。
「おう、翔太。頼まれてた資材、持ってきたぞ。」
運転席から飛び出してきたのは、首にタオルを巻いた神田さんだった。彼の着ている真新しい作業着の胸元には、「神田設備工業」というロゴが誇らしげに刺繍されている。
「神田さん、お疲れ様です。わざわざすみません。」
俺が縁側から立ち上がって歩み寄ると、神田さんはにかりと白い歯を見せて笑い、荷台から重い資材を軽々と下ろした。
「これ、社長直々の納品だからな。お前と奥さんが出資してくれたおかげで、またこうして自分の城を持てたんだ。一生かけても返しきれねえよ。」
神田さんは照れ臭そうに鼻の頭を擦った。あの事件の後、俺と花は白石家の資産からほんの一部だけを使って、神田さんの会社再建をサポートした。今では、俺の水道工事の現場で一番頼りになるパートナーだ。エリートたちに踏みにじられ、一度は下を向いてしまった彼の職人としての誇りは、今やあの新しいロゴと共に、輝きを取り戻していた。
「神田さん、冷たい麦茶、入れましたよ。」
縁側に上がってきた花が、結露で水滴のついたガラスのコップをお盆に乗せて運んできた。
「お、奥さん、ありがたくいただくよ。」
神田さんは泥のついた軍手を外し、ごくごくと喉を鳴らして麦茶を飲み干した。
「わあ。畑のそばで飲む麦茶は、世界一うまいな。」
「神田さんも、少しトマト持っていきますか?」
「お、いいのかい?うちの娘が、奥さんの作った野菜の大ファンでな。」
縁側では弾ける笑い声、ひぐらしの鳴き声、風に揺れるトマトの青臭い匂い。かつてメガバンク本店の大理石のフロアで、兄が「底辺」と嘲った泥臭い人間たちが、今ここで、誰よりも豊かな笑顔で笑い合っている。
父と兄は、今、冷たい塀の中で、自分たちが進歩していた数字の代償を払っているはずだ。時折、面会に行くと、父はひどくやつれ、あの威圧的な態度はすっかり影を潜めていた。「かず子は元気か?」アクリル板越しに父が絞り出すように聞いた、あの声の震えを、俺は忘れない。彼らもまた、数字という幻に囚われた、哀れな人間だったのだ。いつか彼らが罪を償い、その手に残された本当のぬくもりに気づける日が来ること。俺は心の片隅で願っている。
夕暮れ時、神田さんが帰り、母も奥の部屋で休んでいる頃、俺と花は庭の隅にある外の立ち水栓で、並んで泥だらけの手を洗っていた。冷たい井戸水が、日焼けした肌を心地よく覚ましていく。石鹸の泡が、爪の間に食い込んだ黒い土を洗い流していく。
「今日は、ケニアの仕事だったんですか?」
花が隣でごしごしと手を洗いながら、少し上目遣いに俺を見た。
「ああ。現地の水路の設計変更だ。花が毎日手入れしている、この畑の仕組みを少し応用させてもらったよ。」
俺が笑うと、花は嬉しそうに目を細めた。
「私の畑が、アフリカの村の役に立ってるなんて、なんだか不思議な気分です。」
「不思議じゃないさ。水も土も、世界中どこへ行っても同じだ。嘘をつかない。」
俺は蛇口をきゅっと閉めて水を止め、タオルの端で手を拭いた。そして、隣で手を拭き終えた花の小さな手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「翔太さん?」
花が不思議そうに小首をかしげる。俺の大きな手のひらの中で、花の小さな手は、夏の夕暮れのように温かかった。かつて彼女がコンプレックスに感じていた、農作業でできた無数の小さな豆。俺の手にも、レンチを握り続けてできた硬いタコがある。不格好で、泥臭くて、決してスマートとは言えない。だが、俺はこの物語を通して、はっきりと学んだのだ。地位、名誉、銀行の口座にある何百億という数字の列。そんなものは、時代が変わり、風が吹けば、一瞬で吹き飛んでしまう幻影に過ぎない。人間を本当に豊かにし、絶望の縁から救い出してくれるものは、決して数字なんかじゃない。目の前で泣いている人のために、泥水に飛び込めること。絶望している人の背中を、不器用でも力強く叩いてやれること。そして、愛する人の手を、絶対に離さないと誓い、強く握りしめ続けること。真実の価値は、この泥まみれの手が作り出す、ぬくもりの中にしかないのだと。
「なあ。」
俺は夕日に照らされた彼女の真っすぐな瞳を見つめた。
「君のこの手が、俺の止まっていた時間を動かしてくれたんだ。俺を見つけてくれて、信じてくれて、本当にありがとう。」
単刀直入な俺の言葉に、花は一瞬驚いたように目を丸くし、それからふわりと、花が咲くように笑った。その頬は、夕焼けの空よりも赤く染まっている。
「私の方こそ。翔太さんのこの手が、私の世界をこんなに温かくしてくれたんです。これからも、ずっと離さないでくださいね。」
花は俺のゴツゴツとした指に、自分の指をゆっくりと絡ませ、ぎゅっと握り返してくれた。
「ああ。命に変えても。」
涼しい夕風が畑を吹き抜けていく。遠くで鳴き始めた秋の虫たちの声が、静かな夏の終わりを告げていた。俺は花の肩を引き寄せ、ゆっくりと夜のとばりが降りていく、美しい故郷の空を、いつまでも見上げていた。泥と錆の匂いが染みついた、ただの水道屋の俺だが、この不器用な両手がつないでいる確かなぬくもりこそが、俺が一生をかけて守り抜く、世界で一番尊い宝物なのだ。



