夫の手首には古い傷跡があった。妻はその傷から目を離せずにいた。どこで、いつ、何によってできた傷なのか。夫は一度も語ったことがなかった。
夫が床に伏せてから三年。妻は毎日薬を煎じ、汗を拭い、夫の顔色をうかがってきた。しかし、夫の心の奥に何が隠されているのか、ついに知ることはできなかった。
ある日、夫は妻の手を握りしめ、震える声で言った。
「わしの種でなくても良い。こう一人だけ産んでくれ。それでこの家の後継ぎとする」
妻は黙り込んだ。そして、思いもよらぬ条件を差し出した。
「私がこう生むその日までに、大旦那様がどうして川に落ちてお亡くなりになったのか、その真実を明らかにしてくださいませ」
夫の顔色がさっと白くなった。
「あれは……あれは事故であった。足を滑らせて」
妻の声は低かったが、揺るがなかった。
「それが私の条件でございます」
夫は何も答えられなかった。
その夜、妻は庭に立った。月明かりの下、梅の木の根元に見慣れぬ足跡を見つけた。小さく細い足跡。この家の男たちのものではない。
数日後、井戸端で見知らぬ女の後ろ姿を目にした。粗末な着物に、白髪の混じった丸まげ。女は妻と目が合うと、慌てて闇の中へ消えた。その場に古びた草履が一足落ちていた。大きさは、あの足跡とぴたりと合った。
村の辻で出会った老婆が言った。「あの晩、川辺の近くに住んでいた女中が、その騒ぎを目にしたという噂があった。以前この屋敷で女中をしておった女子で、大旦那様が亡くなられてから急に糸間を取り、村外れで一人暮らしておるそうな」
妻の脳裏に、あの丸まげの女が浮かんだ。
その夜、門の外に老女が立っていた。妻が声をかけると、老女は震える声で言った。「奥様、私目が今日参りましたのは、お伝えしたいことがあってのことでございます。ですが、今日はまだその時ではないようでございます」
そう言い残すと、老女は闇の中へ消えた。
夫はその老女の名を「おとく」だと教えた。幼い頃から兄弟の世話をしてくれた女中頭だという。夫は言った。「あのものを見るたびに、幼き日の兄上の姿が思い出されてならぬのだ」
妻は確信した。おとくこそ、三年前の真実を知る唯一の人物だと。
夫の病は、兄の命日が近づくにつれて重くなっていった。命日の法要の最中、夫は突然胸を押さえ、意識を失った。医者は言った。「身体には特に病いはございませぬ。ただ心の病が、今や身体まで蝕んでおるようです。このままでは危ない」
妻は決心した。もはや待ってはおれぬ。
翌朝、妻は一人、村外れへ向かった。おとくの小屋を見つけ出し、扉を叩いた。
「私は真実を知らねばなりませぬ。三年前、一体何があったのでございますか?」
おとくの顔が真っ青になった。長い沈黙の後、おとくは古びた文を取り出した。
「これは大旦那様が亡くなる少し前に、私目に託されたものでございます」
おとくは語り始めた。
「大旦那様は、叔父のべ様が寝台を横領していることに気づかれました。そして、訴え出るご決心をなさいました。ところが、おじ様は若旦那様の元へ参り、『このことが表沙汰になれば家中がめちゃくちゃになる』と言い含められました。若旦那様は家のためを思うあまり、それを真に受けてしまわれたのでございます」
「あの晩、若旦那様は大旦那様を止めに行かれました。もみ合いの中で、若旦那様は足を滑らせ川へ落ちてしまわれました。大旦那様はためらうことなく川へ飛び込み、若旦那様を岸へ押し上げられました。ですが、その時、水辺の岩に若旦那様の手首が強くすれ、深い傷ができたのでございます」
妻は息を飲んだ。夫の手首のあの傷跡。
「大旦那様は、若旦那様を岸へ押し上げた直後、力尽きて激しい流れに飲まれ、そのままお戻りになりませんでした」
妻の目から涙がこぼれ落ちた。
「ならば、旦那様に罪はございませぬ」
おとくは続けた。「おじ様は、私目を脅されました。『このことを公にすれば、私目を盗人にして御上に突き出す』と。私は怖くて、この三年、村外れの小屋で息を潜めて暮らしてまいりました」
妻はおとくの手を握った。「これからは私と旦那様が共におります。もう一人で怯えることはございませぬ」
妻はその文を夫に見せた。夫は震える手でそれを受け取り、涙を溢れさせた。
「兄上……わしが、あの晩、おじ上の言葉を真に受けて兄上を止めに行かなければ、兄上はあのように命を落とされることはなかったのだ」
妻は夫の背を撫でながら言った。「旦那様、大旦那様は旦那様を助けようとして、ご自分の命をかけられたのでございます。旦那様が生きて、堂々と生きて、大旦那様の義に示すこと、それこそが何よりのつぐないでございましょう」
夫は長い沈黙の後、頷いた。「お前の言う通りだ。もう逃げはせぬ」
しかし、その時、叔父のべが乱暴に扉を開けて現れた。
「何をそのように深刻な話をしておるのだ」
叔父は夫の手から文をひったくり、読み終えると怒りに燃え上がった。「この文をどこで手に入れた? 誰の差し金だ? 今すぐその文を捨て、大人しくしておれば悪いようにはせぬ。だが、もし妙な真似をすれば、そなたたちの身の上ただではすまぬぞ」
夫はきっぱりと言い返した。「おじ上、私はもう子供ではございませぬ。もうこれ以上、あなたの言葉に従うつもりはございませぬ」
叔父は怒り狂い、部屋を出ていった。
妻は言った。「旦那様、この文だけでは足りませぬ。おじ様が実際に寝台を横領された証を見つけねばなりませぬ」
二人は蔵を探し、大旦那様の筆跡で書かれた帳面を見つけ出した。そこには、叔父が三年にわたって着服してきた額と方法が詳しく記されていた。
「兄上は、いつかこの日が来ることを見越して、全ての証をここに残しておいてくださったのだ」
夫はその帳面を胸に抱きしめた。
帰り道、夫は妻に尋ねた。「お前はどうして、あれほどまでに兄上の死の真実にこだわるのだ」
妻は静かに答えた。「旦那様、実はとつぐ前、両家の間で密かに私と大旦那様との縁組の話が進められておりました。幼い頃、私の父と大旦那様のお父上とが酒の席で、いずれ二人を添わせようと語り合ったことがあったそうでございます。正式な約束を交わす前に、大旦那様はあのようなことになってしまわれましたが、私は幼い頃一度だけ遠目にそのお姿を見かけたことがございます。実直で義理堅いお方だったという話は、幼い頃より常々耳にしておりました。そのような方が、どうしてあのように無念に川に落ちてお亡くなりになったのか、私にはどうしても信じられなかったのでございます」
夫は黙り込み、やがて言った。「そなたがそのような事情を抱えておられたとは、知らなんだ。今ようやく、そなたの心を全て汲み取ることができた」
妻は言った。「ですが旦那様、今の私はもう大旦那様のおかげを追う女ではございませぬ。この家の嫁として、そして旦那様の妻として生きる道を心より選んでおります」
翌朝、村には奇妙な噂が広まっていた。叔父が密かに人を使い、夫が兄の死を利用して寝台を独り占めしようとしているという根も葉もない噂を流していたのだ。妻が井戸に出ると、近所の女たちの目つきが明らかに変わっていた。
妻は夫に伝えた。夫は言った。「叔父上が手を打たれたのだな。だが、ここでひるんでいては兄上の無念はいつまでも晴れぬままだ」
その日のうちに、二人はおとくを伴い、御代官の元へ向かった。道すがら、叔父の家来が立ちはだかった。「お待ちください。どちらへ参られるのですか? 御様が今ならまだ間に合う、思いとまるようにと」
夫はきっぱりと首を振った。「どきなさい。我らは御代官に用があるのだ。もう遅い」
役所の庭には、噂を聞きつけた村人たちが大勢詰めかけていた。夫は進み出て膝をつき、深く頭を下げた。
「なお城、三年前の兄一郎の死にまつわる真実を申し上げたく存じます」
夫は懐から文と帳面を取り出して差し出した。「これは兄が最後に残した文でございます。そして、これはおじ十米による寝台横領の証でございます」
夫は続けて、震える声で語り始めた。「あの夜、兄が川に落ちたのは、私を助けようとしてのことでございました。私は叔父の言葉を真に受け、兄が寝台の不正を訴え出るのを止めようとし、それがもみ合いとなり、川へ落ちたのは私の落ち度でございました。兄はすぐさま飛び込み、私を岸へと押し上げてくれましたが、そのまま力尽き、流れに飲まれてしまったのでございます」
夫は袖をまくり、古い傷跡を見せた。「この手首の傷があの夜の証でございます」
庭に詰めかけた村人たちがどよめいた。
おとくも進み出て証言した。「私メガーの番を初めから終わりまで見届けた証人でございます」
おとくは震える声で、三年前のあの夜の出来事を包み隠さず語った。叔父が寝台を横領していたこと、大旦那様がそれを訴え出ようとなさったこと、若旦那様が止めに入り川に落ちたこと、大旦那様が飛び込んで若旦那様を助けたこと、そして最後に力尽きて流されてしまわれたことまで。
御代官はおとくに向き直った。「そなたは何故、これまで三年もの間黙っておったのだ」
おとくは深く頭を下げた。「恐れながら、その晩のうちにべ様より、公にすれば盗人に仕立て上げて御上に突き出すと脅されましてございます。身分の低い私目には逆らう術がございませんでした。この三年、大旦那様の文だけを胸に、村外れの小屋でひっそりと暮らしてまいりました。いつか正しくこの真実を語れる日が来ることだけを支えにしてまいりました」
御代官はしばし目を閉じ、静かに頷いた。「そなたの証言、確かに受け取った。そなたの三年の忍苦、誠に主相である」
御代官は叔父を直ちに連れて来るよう命じた。叔父は縄を打たれながらも、初めは強気な態度を崩さなかった。「何の証があってこの私を捉えるのだ。言いがかりも大概にせよ」
御代官は静かに帳面を突きつけた。「この帳面の筆跡、そしてそなたが横領した額、方法まで全てここに記されておる。もし開きがあるなら聞こう」
叔父はその帳面に目を落とした瞬間、顔から血の気が引いていった。それでもなお言い逃れようとしたが、言葉にならなかった。御代官は重く続けた。「この帳面を鑑定させれば、字のある字が誰であるかはすぐに知れよう。それでもなお白を切り通すつもりか」
叔父の額には玉のような汗が浮かんでいた。もはや言い逃れができぬと悟ると、がっくりと肩を落とした。「全て私が仕組んだことでございます。寝台を横領したこと、それを隠すため大旦那様を問い詰めたこと、そして若旦那様を脅して黙らせようとしたこと。あいざいも仕上げます」
御代官は直野城に問いかけた。「直野城、そなた自身にも問いたきことがある。あの夜、そなたは兄の訴えを止めに行ったと申したが、それはそなた自身の考えであったか、それとも他人にそのかされてのことか」
夫は深く頭を下げたまま答えた。「恐れながら、叔父十米にそのかされてのことでした。それを見抜けなかった私の弱さが全ての始まりでございました」
御代官はしばし目を閉じ、静かに言った。「人は弱きものよ。だが、その弱さを認め、自ら進み出て申し出たこと、それもまた一つの強さであろう」
御代官は叔父に言い渡した。「十べ、そなたの罪は重い。御代官にて相応のさばきを受けるが良い」
叔父は縄を打たれたまま、がっくりと膝を折った。
御代官は続けて夫に向き直った。「そなたの兄、総一郎は弟の命を救うために自らの命を落とした。誠に義人であった。その名誉はこれにて完全に回復されたぞ」
庭に集まった村人たちの間から、静かなどよめきが広がった。
御代官はさらに続けた。「直野城、そなたにも兄の訴えを止めようとした落ち度はあるが、自ら進み出て真実を明らかにしたこともまた主相なことである。これよりはこの家を正しく導いていくが良い」
夫は深く頭を下げた。「ありがたき幸せに存じます。この三年逃げ続けてきた己の弱さを、これからの生き方で償ってまいる所存でございます」
叔父は取り方に連れられ、後日、重い罪により相応のさばきを受けることとなった。もはやこの家に立ち入ることは二度と叶わなかった。
夫と妻は役所を出ながら、互いに顔を見合わせた。三年の闇がついに晴れたのであった。
村人たちは、これまでの陰口を詫びるように、一人また一人と静かに頭を下げていった。先ほど陰口を叩いていた女たちも、決まり悪そうに目を伏せた。「若旦那様、存じませんだとはいえ、無礼なもの言いをいたしました。どうかお許しくださいませ」
妻は穏やかに笑って答えた。「皆様が真実をご存知なかっただけのこと。今こうして大旦那様のお心が伝わりました。故え、それでようございます」
おとくもまた、村人たちの変わったまなざしを受けながら静かに頭を下げていた。「そういう様のことをこれからは正しく語り継いでいただければ、それで十分でございます」
家をたどる道すがら、夕暮れの空が茜色に染まっていた。夫はふと足を止め、川の方を眺めた。三年の間、決して近づこうとしなかったその方を、今はまっすぐに見つめることができた。
「兄上、ようやく肩の荷がおりました」
妻はその横顔を見つめながら静かに寄り添った。かつては恐怖と罪の色しか浮かばなかった夫の瞳に、今は穏やかな光が宿っているのを見て、妻の胸にも温かいものが広がっていった。
その日から、夫の病はみるみる快方に向かった。三年間彼を蝕んでいたものが洗い流されたように消え去り、日ごとに活力を取り戻していった。医者も驚いた顔で「まるで別人のようですな」と言うほどだった。
妻はおとくを屋敷に迎え入れ、共に暮らせるよう計らった。日当たりの良い部屋を用意し、身の回りの品も新しく整えた。おとくは涙を浮かべ、深く頭を下げた。「奥様、若旦那様、このようなご恩は生涯忘れはいたしませぬ。私目もこれからはお二人の御手で見守らせていただきます」
屋敷の女中たちも、長年の女中頭であったおとくの帰りを喜び、あれこれと世話を焼いた。おとくは台所仕事に加わるようになり、若い下女たちに味噌の仕込み方や張り仕事の要領を教えては、久方ぶりに屋敷の中に明るい声を響かせた。
夕餉の後には、夫と妻とおとくの三人で縁側に座り、他愛もない話をして過ごす日も増えていった。かつては口にすることさえ憚られていた兄の名が、今では自然と交わされる何気ない会話の中に溶け込んでいた。屋敷全体を包んでいた重苦しい沈黙は、いつしかすっかり姿を消していた。
それからいくつかの月日が過ぎた。ある朝、妻は元気な男の子を産んだ。屋敷中が慌ただしくなり、夫は部屋の外で落ち着かずに行き来しながら、中から聞こえる声に耳を済ませていた。おとくがいく度も湯を運び、産場に差しずしながら自らも汗だくで立ち働いていた。
夫は両手を合わせて祈った。「兄上、どうか見守っていてください。この子が無事に生まれてまいりますように」
庭では朝の光を浴びて、梅のつぼみが今にもほころびそうに膨らんでいた。
しばらくの時が経った後、ついに元気な赤子の鳴き声が響き渡った。夫は胸を高鳴らせながら戸を押し開けて中に入った。妻は汗にまみれた顔に、しかし晴れやかな笑みを浮かべ、生まれたばかりの赤子を抱いていた。
「旦那様、男の子でございます」
夫は震える手で赤子を受け取った。小さく赤い顔が、固く閉じた目をしていた。その瞬間、夫の目から熱い涙がこぼれ落ちた。
「兄上、ご覧になっておられますか? この子がこの家の新しい後継ぎでございます」
妻もまた涙をうるませながら、夫の肩に寄り添った。庭では、三年の間痩せ細っていた梅の木に、いつしか見事な花が満開に咲いていた。
夫は赤子を抱いたまま、その梅の木の下に立った。初めてこの家に嫁いだ日に見たあの梅の木と、この前の光景とが重なり合い、妻の心に静かな感動が押し寄せてきた。
夫は言った。「わしはかつて、己の血筋でなくとも良いから後継ぎをと願った。あの時のわしは、己はもうすぐ死ぬのだと、それだけしか考えられずにいた。だが、この家を本当に救ったのは、血筋を偽ることではなく、お前とおとくが隠されていた過去を共に開いて見せたことであったのだ」
妻は夫の傍らに立ち、赤子と共に梅の花を見上げた。「旦那様、これからは隠すのではなく、明かしながら生きてまいりましょう。それこそがこの家を守る道でございます。この子には、おじ上のことも、旦那様が乗り越えて来られた道のことも、包み隠さずお伝えしてまいります」
夫は妻の言葉に深く頷いた。「そうしよう。この子には決して罪を隠して生きる道を歩ませはせぬ。兄上が命をかけて守ってくださったこの家を、今度は我らがこの子と共に繋いでいくのだ」
春風が吹き、梅の花びらが二人と赤子の上に静かに舞い落ちた。遠くで鶯が鳴き、庭の土からは若草の匂いが立ちのぼっていた。おとくもまた、少し離れた縁側に腰かけ、その光景を目を細めて見守っていた。
「奥様、旦那様、誠におめでとうございます。大旦那様もきっとどこかでこの日をご覧になっておられましょう」
三年間この屋敷に垂れ込めていた重苦しい空気は、もうどこにも残っていなかった。長い闇を超えたこの家に、ようやく本当の春が訪れたのであった。
赤子の小さな寝息だけが、穏やかにその場に響いていた。



