正月の食卓で、息子の嫁が私の作った黒豆を指さしてこう言ったんです。「和食は嫌いだって何度も言いましたよね。てか何?この真っ黒で虫みたいなやつ。せっかくのお正月なのに、また嫌がらせですか?」五年ぶりに重箱を出して、前夜から冷たい水に手をさらして作ったおせちを、息子も鼻で笑いました。夫を亡くしてから一人で暮らしてきた私の家に、同居したいと戻ってきた息子一家。でも数ヶ月経つと、嫁は私を「ボケてる」…

正月の食卓で、息子の嫁が私の作った黒豆を指さしてこう言ったんです。「和食は嫌いだって何度も言いましたよね。てか何?この真っ黒で虫みたいなやつ。せっかくのお正月なのに、また嫌がらせですか?」五年ぶりに重箱を出して、前夜から冷たい水に手をさらして作ったおせちを、息子も鼻で笑いました。夫を亡くしてから一人で暮らしてきた私の家に、同居したいと戻ってきた息子一家。でも数ヶ月経つと、嫁は私を「ボケてる」...

「和食は嫌いだって何度も言いましたよね。てか何?この真っ黒で虫みたいなやつ。せっかくのお正月なのに、また嫌がらせですか?」

あやが食卓の黒豆を指さして、鋭い声を張り上げた。真新しい重箱には、私が昨夜から冷たい水に手をさらして作り上げた色とりどりのおせち料理が並んでいる。夫を亡くしてから久しく出していなかった三段重を、五年ぶりに引っ張り出したのだ。

「今どき黒豆なんて食べる日本人なんていねえよ。古臭いんだよ。年寄りの自己満足に付き合わされる身にもなれよな」

息子の直樹も、あやに続いて鼻で笑う。私は必死に笑顔を作った。新年早々、喧嘩なんてしたくなかった。しかし二人の罵声は止まらない。大掃除のやり直しを命じられ、私は逃げるように二階へ上がった。

あの日から、この家は静かに変わっていった。

私は高田ひさ子。長年連れ添った夫を病気でなくし、住み慣れたこの家で静かに一人暮らしを続けてきた。昔は程よい田舎だったが、開発が進んで今は都会的な町になっている。古くて大きな我が家を囲むように新しい住宅街ができ、若い世代が増えて、元気に遊ぶ子供たちの姿にいつも癒されていた。

私の一人息子の直樹は、九年前に結婚し、遠方の地で家庭を築いている。孫の優生とは、この六年間一度も会えていなかった。世界中を襲った感染症の騒ぎで、自由に旅行もできなくなってしまったからだ。その間に、私は自分でも気づかないうちに孤独を心の奥底に閉じ込めていた。仕方のないことだと自分に言い聞かせ、寂しさを飲み込んできた。

ところが久しぶりに直樹から電話があり、唐突にこんな提案をされた。もうすぐこっちに帰ろうと思ってるんだ。母さん、一緒に暮らさない?親孝行がしたいんだよね。ゆうともバーバに会いたがってるし。

嬉しかった。心の底から喜びが込み上げてきた。やっと息子夫婦と孫に会える。夢のように賑やかな日々が始まった。

「お母さん、これすごく美味しいです。さすがベテラン主婦ですね」

あやは屈託のない笑顔で私の手料理を褒めてくれた。直樹も「結構行けるじゃん。和食も悪くないね」とたくさん食べてくれた。八歳になった優生は無口だったが、私が手作りのプリンを出すと、目を丸くして驚いてくれた。その様子がたまらなく可愛かった。

三人分の家事が増えて、休む暇もなくなった。しかし、私はそれすらも楽しかった。誰かのために動ける喜びを噛みしめていた。

だが数ヶ月が経ち、彼らが我が家の生活に完全に馴染んだ頃。温かな家庭は凍り付き始めていた。

「お母さん、これ何ですか?」

あやは食卓にある小皿の盛り物をじっと睨みつけた。

「ほうれん草のごま和えよ。今日ご近所さんからほうれん草を頂いたから」

「私こういうの嫌いなんですけど。なんか年寄りのご飯って感じでキモいです。ていうかこういうの嫌って私言いましたよね?忘れたんですか?」

最初は遠慮がちだったあやも、今はとにかく批判の嵐だ。せっかくハンバーグをこねても中にチーズが入ってないとすねる。醤油味の和風パスタは和食扱いか。ミートソースにピーマンを入れたら怒られるかもしれない。色々考えすぎてしまい、好きだった料理が苦痛になっていた。

「お母さん、最近ちょっとおかしくないですか?私が嫌いだって分かってるのに、あえて作るのは変なの。これが私に対する嫌がらせじゃないなら、ボケてるってことですね」

あやの口元がわずかに釣り上がる。笑顔のように見えて、そうではない。明らかな毒が込められていた。

食事以外の場面でも、あやから指摘されるようになった。洗濯物の仕分けを間違えたと言われ、私は「あれは勝手に動かして、わざと私のだけ残したんじゃないか」と疑われた。リビングのソファーをあやが占領し、私はキッチンの隅で息を潜めるしかなかった。家は日に日に重くなっていく。

「ちょっとお母さん、ここ匂うんですけど」

呼ばれて駆けつけると、あやは鼻をつまみ、トイレのドアを指さした。

「掃除とかの問題じゃないんですよね。独特のお年寄りっぽい匂いって言うんですか?むわっとした匂いがこびりついてて気持ち悪いんです」

長年住んできた家だ。私の匂いが染みついているらしい。悔しさで涙が込み上げてきたが、傷ついていることを悟られたくなくて、あえて薄く微笑んだ。

「ごめんね。消臭剤も置いてみてるんだけど」

「消臭剤でごまかせるような匂いじゃないんでもっと徹底的に磨き上げてくれます?同居してもらってるんだから気をつけてくださいよ」

同居してもらってる。その言葉が心に刺さった。ここは私の家なのに。しかし、私は何も言えなかった。やがてリビングでくつろぐ自由は失われ、一階の和室に引っ込んでいることが増えた。薄い襖一枚隔てた向こうで、あやと直樹の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。とても賑やかで、虚しかった。

そんな中、一番堪えたのは優生の態度だった。

「ゆう君、今日はおばあちゃんと一緒にプリンを作らない?」

家族みんな時間のある日曜日。精一杯の笑顔を作って優生に誘いかけた。しかし、ダイニングテーブルでスマホゲームをしていた彼は、顔すら上げなかった。

「いい。バーバは出かけてくれば」

「でもゆう君プリン好きでしょ?じゃあバーバが作るから食べてくれるかな?」

「いらないよ。バーバ、出かけてくれば」

冷たく突き放された。二回も「出かけてくれば」と言われてしまったら、本当は「邪魔」と伝えたいのだと分かる。可愛い孫にまで拒絶され、私の足元は音を立てて崩れていくようだった。

気がつけば、私の世界はこの狭い家の中だけになっていた。以前は絵本の読み聞かせボランティアや手芸サークルに参加し、月に二、三度は友人たちとランチをしていた。しかし同居が始まってからは、家族のために尽くしたいという一心で誘いを断り続けてきた。あやの機嫌を伺ううちに、私はすっかり孤独に押しつぶされそうになっていた。

久しぶりに手芸サークルの集まりに顔を出してみよう。友人たちの顔を見れば、このモヤモヤも少しは晴れるかもしれない。

公民館の扉を開けると、いつもの顔ぶれが揃っていた。しかし、皆どこか落ち着かない様子だ。挨拶以上の言葉がなかなか出てこない。

「えっと、ひさ子さん、体調の方は大丈夫なの?」

友人の一人が私の手をそっと握り、覗き込むように聞いてきた。

「ええ、大丈夫よ。息子が帰ってきてくれたから、最近は何かと忙しくてね」

「あ、そう。でも無理しちゃだめよ」

あまりに深刻な顔をされるから、思わず吹き出してしまった。すると、輪の中から鋭い声が飛んだ。

「ちょっとひさ子さん。あんまりお嫁さんに苦労させちゃだめよ。家事を全部自分がやってるみたいな言い方、よそでしたらお嫁さんに失礼だと思うわ」

サークル一の毒舌家、まち子だ。彼女は腕を組み、私をまっすぐに見据える。

「え、でも実際に私が全部してるのよ」

「ああ、それがお嫁さんを困らせてる原因かもしれないね。ひさ子さんはよかれと思ってやってるんでしょうけど。失敗した後の後始末を誰がしてると思ってるの?少しは考えなさいよ。勝手に料理をしようとしてコンロの火をつけっぱなしにして忘れること、よくあるんでしょ?お嫁さんに何回も注意されるの覚えてる?火事になったらどうするのよ?」

私は目を丸くした。誰の話をされているのだろうか。

「掃除だって適当にやるから二度拭きだし、洗濯も色落ちするものと一緒に洗っちゃうって」

身に覚えのない罪を並べ立てられ、心臓が早鐘を打った。

「そんなことない。私、掃除は抜かりなくやってるし、おしゃれ着は手洗いしてるんだから。コンロの火だって消し忘れたことなんて絶対にない」

「そうやって認められないのが一番危ないの。お嫁さんの手厚いサポートがあるから、ひさ子さんは今普通に生活できてるんでしょ?」

必死に反論したが、まち子の視線は鋭い。聞く耳を持たない。

「私が一番ひどいと思うのは、息子さんのお弁当のおかずやお孫さんのおやつまで勝手に食べちゃうことね。後でお孫さんが泣いて大変だったって、お嫁さんが困り果ててたわよ」

違う。言いかけて言葉を飲み込んだ。この場で「それは全部お嫁さんの嘘。私の扱いがひどいんだよ」と叫ぶことは簡単だ。しかし、それではあやを悪者にしてしまう。何より、強く否定すればするほど、認知症のせいで感情的になっていると彼女の嘘の信憑性を高めてしまうだけだ。

私は口を硬く結んだ。まち子は気の毒そうに私を見つめ、肩をポンと叩いてきた。

「本当、無理しないでね。早めに専門の先生に見てもらった方がいいよ」

改めて周りを見れば、他の友人たちも皆、哀れみに満ちた目をしていた。可哀そうな人を見る目だ。私は逃げるようにその場を後にした。

外に出た私の足は鉛のように重かった。かつてのあの姿を思い出す。同居を始めてすぐの頃、あやは本当に可愛らしかった。「お母さんのご飯って何でも美味しい。お母さんすごい、最高です」と屈託のない笑顔で懐いてきた。あの笑顔はよそ行きの作り物だ。優しくて健気な嫁を演じるための仮面である。彼女はその仮面をつけて、認知症の姑を支えていると触れ回っていたらしい。

「ただいま」も言わずに帰宅し、リビングの隣にある和室の襖を開けた。そこが私の部屋。ひっそりと呼吸ができる場所だ。

あれ?

ふと室内の様子に違和感を覚えた。背の低いタンスの上に置いていた、古いクッキーの缶がないのだ。色も派手でだいぶ大きいので、存在感がある。それがいつもの場所から消えていた。中身はクッキーではなく、何年も前から夫が生きていた頃にコツコツと貯めてきたお金だ。

部屋中をひっくり返して探しても見当たらない。泥棒が入ったのかもしれないと考えたが、すぐそばにあるジュエリーボックスは無事だ。普通の泥棒なら、どちらを手に取るかは明らかだ。

私は深く息を吐いた。違う違う。掃除の時にでも動かして、うっかり押入れの奥にでも入れちゃったのよ。探すのをやめたら急に出てくるんだから。私は軽く笑って、深刻に考え込むのをやめることにした。認知症の典型的な症状に物取られ妄想というのがあるのを、以前テレビで見た。今お金がなくなったと騒いだら、「やっぱりボケてる」と周囲に確信されてしまう。

それから私は、何もなかったふりをして夕食の準備に取りかかった。もちろん、クッキー缶について家族にそれとなく訪ねることもしない。

翌日は燃えるゴミの日だ。朝から家中のゴミを回収して回る。二階にある優生の部屋の前に立ち、小さくノックをしてドアを開けた。

「ゆう君、ゴミもらうね」

スマホを握りしめた優生は返事もしない。ゲームをしているのか、動画を見ているのか分からないが、彼の目はいつも小さな画面に向けられている。祖母と孫としての信頼関係もできていないのに、いきなり厳しいことを言っては嫌われてしまいそうだ。

「ゆう君、スマホで何してるの?別にバーバもスマホでたまにゲームするし、動画も見るのよ」

「別に」

会話にならない。あまりしつこくせず、目的のゴミを回収する。ゴミ箱の脇に丸まった紙屑が一つ落ちていた。それを拾おうと腰をかがめた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。ベッドの奥に見覚えのあるものが見えた。色が少しはげた、古いクッキーの缶だ。間違いない。貯金箱として使っていたクッキー缶である。

「ゆう君……」

喉が詰まった。可愛い孫がお金を盗んだ犯人だとしても、厳しく叱る勇気がない。

「うんうん。なんでもない」

結局、気づかなかったふりをした。ゴミをさっさと回収し、逃げるように部屋を出た。その晩、布団に入っても目は冴え渡るばかりだった。思い返してみれば、財布にあるはずのお札が少ないことがあった。でも勘違いだろうと、さほど気にしていなかったのだ。もしも私の財布からお札を抜いていた人がいるとすれば、それは優生か、それとも……。

そうこうしているうちに、新年を迎えた。私は眠れぬ夜を過ごしながら、精一杯の心を込めておせち料理を用意した。しかし、あやと直樹は私の努力を嘲笑った。そして優生に促されて簡易階段に隠れた時、私は彼らの本当の姿を目撃することになる。

薄暗い中で、私は優生の小さな肩を抱き寄せていた。下からは酒の入った直樹とあやの下品な笑い声が響いてくる。

「ねえ、私今度は女の子が欲しいな。私とお揃いの服着せたら可愛いでしょ」

「俺も男の子が欲しい。ゆうみたいに人見知りなのじゃなくてさ、一緒にサッカーできる奴」

「もう二人三人子供作っちゃうか」

「もう直樹、三人は無理だよ」

小学生の子に聞かせる話ではない。それも優生の悪口まで含まれていた。

「いいじゃん。あと三人くらい。お金の心配もいらないし」

「まあいいけどさ。てかこのお酒高そうじゃない?バーバの貯金、結構あるもんね」

急に会話の流れが変わる。バーバとは私のことだろう。

「このローストビーフも最高なんだけど。早く作ってくれたらよかったのに。そしたらバーバがいなくなる前にもっとたくさん食べられたのにな」

あやがおせちをつまみながらビールを煽る。

「黒豆なんか一生食べられなくてもいいけど。ローストビーフは別だわ。ちょっと惜しいね」

「え、じゃあやめとく?」

「あ、やめない」

二人揃ってゲラゲラと笑った。彼らが何を企らんでいるのか、次の会話ですぐに明らかとなる。

「やっぱやるなら正月でしょ。年寄りの事故がめちゃくちゃ多い時だもんね」

酔っ払いはやたら声が大きい。

「本日、高田ひさ子さんが喉に詰まらせてお亡くなりになりました」

調子に乗った直樹は、テレビのリポーターの真似をした。ビールの缶をマイクに見立てて握り、真面目な顔で私の訃報を伝える。

「年寄りが喉に詰まらせるのはお正月の風物詩です。ぐったりもちゃんと息の根が止まったことを確認してから救急車を呼んでください。現場からは以上です」

薄暗い中で、私の指先が硬直した。全身の血が一瞬にして氷る。浮かれて喋っているのは、紛れもなく私が腹を痛めて産んだ息子だ。実の親の事故死で、私が死ぬことを望んでいる。あれが血の繋がった息子だとは思えない。悪魔だ。

「認知症の母親が箸を落とした隙に餅を詰まらせた。よくある事故だよね。で、俺たちはテレビを見ていて気づかなかったと。完璧なシナリオだろう。保険金も入るし、この家も売れるし、最高じゃん」

普通なら腰を抜かして泣き崩れるところだろう。けれど私の心に宿ったのは、氷のように冷たい怒りだった。優生の小さな肩を抱き寄せ、私は決意した。この子を守るためにも、私は最高に厄介な獲物になってやる。

それから一時間もしないうちに日が傾き始める。あやらに命じられた大掃除のやり直しを終え、匂いの取れたリビングに戻った。上機嫌の直樹とあやがニヤニヤしながら私を手招きした。

「母さん、大掃除お疲れ。お腹空いただろ?ほら、焼いたから食べなよ」

普段料理なんてしない直樹が、塗り箸のお椀を差し出してくる。お椀の中には二つ分の角餅がドロリと溶けて一つになり、塊になった状態で入っていた。一口で食べれば確実に喉を塞ぐであろう、凶器のような餅である。

「さあ、お母さん。喉に詰まらせないように、かぶりついてくださいね」

あやがクスクスと笑いながら、スマホをさりげなくこちらに向ける。動画撮影を始める音がした。事故の瞬間を撮影するつもりなのだろう。私は無言で席に着くと、チキッと鋭い音を立ててキッチンバサミを取り出した。

「何してんの?」

「ゆう君と半分にしようと思って。ついでに一口サイズにしておけば食べやすいでしょ」

二人の目の前で、餅を一センチほどのサイコロ状に切り刻んでいく。これで子供でもお年寄りでも安心して食べられる。

「こうすれば喉に詰まる心配もないわ。ゆう君も召し上がれ。直樹とあやさんも、もうそんなに若くないんだから気をつけなさいね」

優雅に一口ずつ餅を口に運ぶ私を、直樹とあやは呆然と見つめている。私はチラリと二人を見やり、ほほ笑んだ。

翌朝、休みとなれば普段は昼近くまで寝ているのに、今日の直樹は妙に早起きだ。

「母さん」

呼ばれて二階に上がる。用事は洗濯物の回収だった。両手で抱えるほどの洗濯物を渡され、「早めによろしく」と一言。ベッドの上に座っていたあやは、妙にニヤニヤと笑っている。これから何か面白いことでも起きるのだろうか。

洗濯物を落とさないように抱え、私は廊下に出た。その先にはすぐに階段がある。おっと、ズボンが落ちそう。階段の手前で私は立ち止まった。すると、背後から忍び寄る気配がする。階段の上から突き落とすには絶好の場所だ。背中に殺意を感じた瞬間、私はわざとらしく声を上げた。

「あら、大変。落ちちゃった」

誰かの両手が背中に触れる寸前、私はひょいっと膝を折って床に丸まった。勢い余った直樹は、私の背中の上を泳ぐようにして空を切り、そのまま階段を転げ落ちる。右の壁にぶつかり、左に弾き飛ばされて、また右に戻る。人はこんなにもスーパーボールのように跳ねるものなのか。彼が落ちていく様は、スローモーションで見えたいった。

一階の廊下で腰を強く打って悶絶する直樹を、私は階段の上から冷ややかに見下ろす。

「まあ直樹、大丈夫?落ち着きがないわね。お正月早々怪我なんて、縁起が悪いわよ」

大きな音に驚いたのか、部屋から様子を伺っていたあやも飛び出してきた。

「なんであんたが落ちてんのよ」

「痛いよ。うるさい。この役立たず」

怪我をしているかもしれない直樹に、あやは容赦ない言葉を浴びせる。確認してみると、体中痛むらしいが幸い骨折まではしていなかった。

「あ、お正月に病院なんかやってないよ。絆創膏でも貼っておけば」

冷たく突き放されている。私は数十年ぶりに涙を滲ませる息子を見た。可哀想なので、絆創膏を一枚差し出してやった。

その日の深夜、あやはついにしびれを切らしたようだ。寝静まった頃を見計らい、彼女は私の寝室にそっと近づいてきた。床がわずかにミシッと鳴る。部屋にあるはずの通帳を奪うか、あるいは寝ている私に何かを仕掛けるつもりだったのだろう。だが、私の部屋への侵入は許さない。

彼女が襖の前に足を踏み出した瞬間、静まり返った暗闇に絶叫が響いた。

「痛い!」

待ってましたとばかりに私が襖を開けると、あやはその場で飛び上がり、自分の足を抑えて転げ回っている。襖の隙間に巻いておいた小石が、彼女の足裏に深く食い込んだのだ。片足でぴょんぴょん跳ねて尻餅をつく。今度は尻に小石がめり込んだらしい。真夜中だというのに賑やかなものだ。

「あやさん、どうしたの?こんな夜中にお手洗い?」

涙を流して足裏をさする彼女を、私は暗闇の中でじっと見下ろした。電気をつけると、足元に落ちたいくつかの石がキラリと光る。

「あら、また石が落ちていたのね。ちゃんと掃除したつもりだったんだけど。おかしいね。一体どこから出てくるのかしら。いたずらリスさんでも住みついていたりして」

笑って見せたが、私の声に含まれた底知れない冷たさに、あやは身を震わせた。涙を拭いながら、逃げるように二階の部屋へ戻っていく。昨日京都、なんとなく命を狙われているようだったけれど、私はあえて彼らを攻めなかった。でも、お遊びはここまでだ。この二日間で準備は整った。明日、この家の本当の主(あるじ)が誰なのか思い知らせてやる。

翌朝、直樹とあやの顔には焦りと苛立ちが色濃く浮かんでいる。リビングで二人は遅い朝食を取っていた。

「ああ、福袋でも買いに行こうかな。金あるし」

「うざいなあ。ていうか、この家に泥棒いるかもですよね。お母さん」

急にあやに話を振られ、キッチンで洗い物をしていた私は手を止める。

「お金がなくなったりしませんか?あと貯金箱的なものがなくなったりとか。私も最近気になってるんですけど、もしかして盗まれてたりして」

「母さん、自分の部屋の貯金箱どこにやったか覚えてないんでしょう?どっかしまい込んだんですか?言っとくけど、私たち盗んでませんからね」

「そうだよ母さん。ボケて物をなくすのは勝手だけど、お金の管理はちゃんとしてほしいね。せっかくの正月に福袋を買いに行く金もないらしい」

二人は突然、敵意を剥き出しにして私に迫ってきた。確かに私は貯金箱にしていたクッキー缶をなくしたが、彼らには関係ない話のはずだ。テレビは正月のお笑い番組を映している。でも二人は全く笑わない。

「ああ、つまらない正月だな」

私は手に残っていた泡を洗い流して、タオルで拭った。

「つまらないの?じゃあ面白いもの見せてあげようか」

「は?何?」

訝しげに眉を潜めながら、直樹はあくびをする。私は優生にお願いした。

「ゆう君、例のあれテレビに映してくれる?」

小さく頷いた優生が持っていたスマホを操作する。すると、テレビ画面に私の部屋が映し出された。

「え、これって」

あやの顔から血の気が引く。画面の中に忍び込む影があった。映像に映るあやは、慣れた手付きで私の部屋の引き出しを開け、中を確認していく。

「やっぱないんだけど」

「ないわけないじゃん。くそ。あのババア、どこに銀行の通帳とか隠してんだよ」

画面の隅にいた直樹も、あや同様に部屋を漁っていた。開けた引き出しを元に戻すと、二人はタンスの上のクッキー缶を開ける。中からお札を二、三枚取り出して、自分のポケットにねじ込んでいた。

「ま、これで明日も遊べるな」

「お母さん、お小遣いどうもです」

二人はカメラがあることに気がつかず、下品な笑みを浮かべた。そこで映像は止まる。

「なんだよこれ。盗撮かよ」

直樹がソファーを蹴り飛ばすような勢いで立ち上がり、私に人差し指を突きつけた。

「マジで気持ち悪い。最悪。家族を隠し撮りするなんて、やっぱりボケて頭がおかしくなってるんじゃないですか」

自分の非を棚に上げて、二人は鼻息荒く私に迫ってくる。本気で泥棒が良くないと思っているのか、私を悪者にして自身の悪事を隠したいのか分からない。その時、私の隣で俯いていた優生が顔を上げた。

「僕だよ。僕が撮ったんだ」

小さな体は小刻みに震えていたが、彼の瞳には今まで見たことがないほど強い意志が宿っていた。

「お前が」

直樹が絶句する。

「バーバは何もしてない。お父さんとお母さんがバーバの部屋に何度も入ってお金を盗むから、証拠を残さなきゃって思ったんだ。僕はずっとスマホでゲームをしてたんじゃない?全部、見てたんだ」

優生は手に持っていたスマホを二人に向けて、一歩前に出た。カメラのレンズがキラリと光る。

「こ、このクソガキ」

あやが優生の方を弾こうと手を伸ばす。私は瞬時にその手を振り払い、優生を背中の後ろに隠した。敵意剥き出しのあやに向かって、それでも優生は果敢に挑む。

「バーバの部屋の前に小石を置いたのも僕だよ。バーバの留守中にお母さんたちが部屋に入れないようにしたんだ。僕はバーバを守りたかった」

「あ、お前の仕業か。めちゃくちゃ痛くて地味にむかつくやつ」

直樹が思わず口を滑らせる。まんまと罠にかかったことを、自ら認めたようなものだ。

「ゆう君、もういいのよ。バーバを守ってくれてありがとう」

私は優生の震える肩を抱きしめ、息子夫婦を睨みつけた。最近は貯金をしていなかったから、頻繁にクッキー缶の中を覗いていなかった。貯金のお金が減っているような気がしたのも、勘違いだと思っていた。でも優生がこうして証拠を押さえていてくれたおかげで、真実が明らかとなった。多分あやたちは私がお金がなくなったと気づくのを恐れていた。だからこそ先回りして周囲に私がボケたと言いふらしていたのだろう。お金を盗みやすくするため、そして私を社会的に孤立させるためにな。

「何よ。ちょっとお金を借りただけじゃない。そもそも私たちは同居してやってるんだから、これくらいのお小遣いもらって当然でしょ。もっと感謝されたいくらいだわ」

あやがヒステリックに叫ぶ。だがその声はひっくり返っていて、リビングに虚しく響いた。

「同居してやってる。どの口がそんなこと言うの?同居が嫌なら、出ていってもらって構わないけど」

私はテーブルの上に一通のメモを置いた。そこには電話番号が記されている。彼らがなぜいきなり私のところに転がり込んできたのか、その本当の理由を私はもう知っていた。

「あやさんのご実家のお母さんとお話しさせてもらったよ」

紙に記されているのは、あやの実家の電話番号だ。あやの顔からさっと血の気が引いていく。唇がわずかに震え、言葉が消えた。彼女の瞳に動揺が走る。けれどあやはすぐに鼻で笑い、前髪を乱暴にかき上げた。これまで被っていた優しいお嫁さんの仮面を、自ら地面に叩きつけて、醜い笑みを浮かべる。

「ああ、もうマジでうざい。私の実家からも、ちょっとだけお金をもらったよ。でもそれ当然の権利じゃない。ボケかかった親の面倒を見てあげてるんだから、介護料を払ってもらっただけだし」

「あやの言う通りだ。俺たちは悪くない。母さん、感謝して欲しいくらいなんだけど。俺たちが来なきゃ、一人で寂しい老後だったんだから。親孝行な息子夫婦を持って幸せだって思えよ」

親孝行という言葉が、これほど毛嫌わしく聞こえたことはない。よくそんな言葉が吐けるね。

「あやさんのお母さん、電話口で泣いていたらしいわよ。あの子たちは人の心がない悪魔だって」

私は背後で震える優生をダイニングの椅子に座らせた。

「あやさん、あなた向こうの実家でも同じことをしていたんですってね。父親の退職金を勝手に使い込んで、それがバレそうになると、今度はご両親を認知症だと周囲に触れ回ったそうだ。挙句の果てには、問い詰める父親を道路に突き飛ばして、怪我を負わせたらしい。人のお金も命も、随分軽く見てるのね」

リビングが凍り付いたような静寂に包まれた。あやは唇を噛みしめ、直樹は気まずそうに視線をそらした。実の親から絶縁され、住む場所も頼る相手もいなくなった。だから何も知らない私のところに逃げ込んできたのだ。

「親のお金を使い込むことが親孝行なの?」

「うるさい!!たかれ!!」

あやが発狂し、テーブルの上にあった皿を薙ぎ払う。ガシャンと皿の割れる高い音がリビングに響き渡った。

「あのじじいがいつまでも金を出し惜しむのが悪いのよ。私たちは若いの。お金が必要なのよ。あんただってこんな広い家に一人で住んでお金抱え込んでさ、今すぐ私たちに全部よこしなさいよ」

彼女の仮面は皿と一緒に砕け散った。他人の人生を食いつぶすことしか考えられない。飢えた寄生生物が姿を現した。

「恥を知りなさい」

私の一喝に、あやは肩を激しく上下させて立ち尽くした。

「実の親に手をかけようとしたあなたたちを、それでも大切な子供だからと許すと思ってるの?」

呼吸が乱れている。あやは膝から崩れ落ち、獣のような声をあげて泣き出した。それは反省の涙ではなく、思い通りにならなかった悔しさと、完全に逃げ場を失った絶望の悲鳴に思えた。泣いてしまったら可哀そうだねと許してやる気は、万に一つもない。泣き喚くあやを慰めることもできない直樹は、口を半開きにして立ち尽くす。そんな情けない息子を、私は静かに見据えた。

「あ、あの、母さん、ごめん。俺が悪かった。あやに感化されてどうかしてたんだ」

泣き崩れるあやを一瞥し、自分だけは助かろうとするとは浅ましい。彼の反省の色などないことは、私にもそして背後の優生にすらバレていた。

「いいのよ直樹。もういい」

私が静かに微笑むと、直樹はほっとした表情を浮かべた。許された。これでまだこの家に居座れる。そんな打算が顔に滲み出ていた。

「じゃあ、私は少し喉が渇いたわ。お茶でも入れようかしら」

私はキッチンのポットを手に取る。背後で聞こえていたあやの泣き声が、ぴたりと止まった。彼女と直樹の呼吸音すら聞こえなくなり、奇妙なほど静かになる。私は急須に茶葉を入れ、湯を注いだ。湯呑みからお茶の香りが立ち上る。しかし、私はそれを口に運ばず、ただテーブルに置いた。

「あの、母さん、飲まないの?喉乾いたんでしょ?温かいうちに飲みなよ」

半笑いの直樹がせかしてくる。目が合わない。彼は湯呑みだけをじっと凝視していた。そこへ、ピンポンと来訪を知らせるインターホンが鳴る。優生が真っ先に玄関へ走り、すぐに二人の来客をリビングへと連れてきた。

「え、警察?」

来客は制服に身を包んだ警察官だった。直樹が思わず声を上げ、あやも顔をこわばらせ後ずさりした。

「来てくれてありがとうございます。僕が通報しました」

大人よりも毅然とした態度で、優生が言った。

「おいおいゆう、いたずらで警察呼んじゃだめだよ。すみません、うちは大丈夫なんで」

どもりながらも直樹は言い訳する。あやも必死に取り繕った。

「もうやだ。うちの子、反抗期でご迷惑をおかけしてすみません。いたずら電話した息子は叱っておきますので」

警察官が困惑したように私を見る。私はテーブルの上の湯呑みを指先で押し、直樹の方へと差し出した。

「ちょっと待ってください。警察の方の前で、このお茶、直樹が飲んでみて」

「え?いや、俺は喉乾いてないし」

こういう時の直樹の唇は、カサカサに乾いていて、縦じわに沿ってパリッと割れていた。唇が真っ白だよ。一口くらい飲んだら。しかし、あえて拒否するものだから、警察官の鋭い視線が直樹に向けられる。

「そんなの飲めないよね。だってさっき僕見てたもん」

優生がポットを指さした。

「お父さんたちがそのポットの蓋を開けて、何か粉みたいなのを入れるところ。動画も撮ってあるよ」

その瞬間、あやがポットへ飛びかかった。

「だめ、やめて!!」

証拠隠滅のため中身をシンクにぶち撒けようとした彼女の手を、警察官が素早く取り押える。

「動かないでください。奥さん、これに何か入れたんですか?」

「違う!ただの睡眠薬よ。眠くなるだけ。お母さんお疲れだから、少し休んでもらおうと思っただけだもん。何も悪くないでしょ!」

あやは狂ったように叫んだ。だが、優生がスマホの動画を再生させると、その叫び声はぴたりと止まる。

「睡眠薬飲んでお母さんが寝たらどうする?包丁で刺しちゃう?」

スマホからあやと直樹の楽しげな会話が流れ出す。

「いや、そんなのすぐバレるだろ。やっぱ正月らしくお餅でいいんじゃない?眠ってる間に喉に詰め込んでおけば、完全に事故だ。俺たち悪くないし」

「あ、なんなら餅のメーカーを訴えようか。ナイスアイデア。慰謝料、賠償金。何かお金もらえるんだよね。お母さんの命、無駄にはしません」

録音されたあやらの笑い声は、非常に聞き苦しかった。警察官の前でこれ以上の証拠はない。

「最低ね。お餅のメーカーにも迷惑だわ」

私が冷たく放つと、直樹はガタガタと震え出し、あやは呆然と口を開けたまま固まった。

「事情を詳しくお聞かせください」

いつの間にか警察官はあやらの腕を掴み、連行モードに入っていた。

「冗談!冗談です!違うんです!」

わめき散らす直樹と、魂が抜けたようなあや。二人のみっともない姿が我が家の玄関から消えていくのを、私はただ静かに見送った。パトカーのサイレンが遠ざかり、家の中に静寂が戻ってくる。私は力なくソファーに腰を下ろした。緊張が解かれ、全身が小さく震えている。

「ゆう君、大丈夫?」

私の不安は表に出さず、優生の顔を覗き込む。まだ八歳の子供には、あまりに過酷な出来事だったはずだ。けれど優生は涙を一粒もこぼさず、私の手をぎゅっと握り返してくれた。

「大丈夫だよ。バーバを守れて本当に良かった」

優生は自分の部屋へ駆け上がり、古いクッキー缶を持って戻ってくる。

「これ、勝手に持っていってごめんね。お母さんたちがバーバの部屋からお金を盗むのを見たから、隠しておいたんだ」

久しぶりに缶の蓋を開けると、中身は随分寂しくなっていた。亡くなった夫との旅行資金にしようと貯めてきた私のヘソクリ。千円札から一万円札までたっぷり詰まっていたはずだが、パッと見ただけでも一万円札はだいぶ少ない。でも、優生が守ってくれたから、全てを失わずに済んだ。

私は目頭が熱くなる。部屋の前に石を巻いたのも、このクッキー缶を持ち出したのも、優しさからの行動だった。不器用だけど、まっすぐな優しさだ。同時に、私の背筋はひんやりと冷える。皮肉にも、優生がこの缶を隠したことで、あやたちの殺意は加速したのかもしれない。いつでも自由に盗めるお金が消えたことで、彼らは焦り、私を亡き者にして全てを奪おうという暴挙に出たのだ。もし同居生活が長く続いていたら、私は「優しいお母さん」を演じ続け、やがて自我を奪われていた。彼らにとって都合のいい飯炊き女になっていたに違いない。

「ありがとう、ゆう君。あなたのおかげで、バーバは強くなれたのよ」

私はソファーに深く腰かける。そばのクッションを抱きしめて、カバーのファスナーを開けた。中から銀行の通帳と印鑑を取り出す。

「あ、バーバ、それ」

私は頷いた。これこそ直樹とあやが探し求めていた通帳だ。実は彼らの一番近くに隠していた。まさか自分たちのお尻の下にあるなんて、夢にも思わなかっただろう。通帳入りのクッションを枕にして昼寝をしたり、イライラしてそれを殴ったこともある。灯台下暗しとはよく言ったものだ。

「バーバはこれでもしっかりよ。これから力を合わせて生きていこうね」

優生が守ってくれたクッキー缶のお金を使い、二人で旅行でもしようか。夫との約束だった旅行を、亡き夫も見守ってくれるだろう。私の心は久しぶりにウキウキしていた。

楽しみの前に、まずは後始末だ。私と優生は駅前の騒がしいファミリーレストランのボックス席に座っていた。向かいには警察から事情聴取をされたばかりの直樹とあやがいる。証拠は十分あったものの、幸い実害が出る前だったこと。そして家族間の揉め事ということで、今回は微罪処分となった。だが二人の顔はすっかりやつれ、以前のような豪さはない。

「もう家には一歩も入れないから、そのつもりで。荷物は全部トランクルームに送ってあるよ。勝手に持っていきなさい」

私の宣言に、直樹が泣きそうな顔で身を乗り出してくる。

「そんな母さん、俺たち本当に行き場がないんだよ」

周囲を気にするように声を潜めて、彼は秘密を打ち明けた。

「俺たち仕事してなくて、借金が山ほどあるんだよ。ほら、母さんって結構余裕ありそうだから、母さんを当てにして消費者金融から借りまくっちゃって」

あやも体裁を繕う余裕がなく、青ざめた顔で頷く。

「お母さん、反省してます。もう一度心を入れ替えて尽くしますから。お母さんの家売れば大金になるでしょ。そのお金があれば借金なんてすぐ返せるんです」

「う、その後はもっと安いアパートにでも引っ越して、みんなで仲良く暮らせばいいじゃん。だから助けてよ。家族じゃん」

この家で暮らしてきた直樹にとって、「家」は思い出の場所ではなく、お金に見えていたようだ。私という存在だって、単なる動くATMくらいに思っていただろう。運ばれてきたコーヒーの湯気を、私は静かに見つめた。

「いいえ、助けません。二度とあなたたちの顔は見たくない。あなたたちがこれまでに盗んだお金は餞別金としてあげるわ。返せとは言わない。その代わり、今後一切私と優生に関わらないと誓いなさい」

隣で縮こまっていた優生が頷く。それからはっきりと言い切った。

「僕もバーバと一緒にいたい。バーバはちゃんと優しくしてくれたし。人見知りな僕のことなんて、お父さんたちは嫌いでしょ」

彼の感情はいつも見て取れなかったが、やはり傷ついていたのだろう。初めから親が嫌いな子供はいない。好きなのに愛されたいのに、うまくいかなくて気持ちが離れる。優生の心も、すでに親を拒絶していた。

「文句があるなら、警察に被害届を正式に出すわよ。証拠ビデオも添えてね。そうなれば次は確実に刑務所行きね。どうする?」

低い声で脅すと、あやと直樹は息を飲み、互いの顔を見合わせた。やがて直樹は力なく項垂れる。

「分かったよ。二度と近寄らない。ゆうは……あげます」

財布から千円札を一枚取り出し、私と優生の飲み物代として置いた。

「じゃ、さようなら。二度と会うことはないね」

優生の手を引き立ち上がる。私たちは振り返ることなく店を出た。ファミリーレストランでのドリンク一杯。これが彼らの最後の贅沢になるのだろうか。借金という底なし沼に沈んでいく人に、手を差し伸べてやる義理はない。先に私を突き離したのは、彼らなのだから。

直樹とあやの姿が家から消え、快適だ。もう自分の家で片身の狭い思いをしなくていい。彼らは仕事もせず、私から盗んだお金でその日暮らしをしていた。ツケが回り、追い出された瞬間に住所不定となる。

ある日の午後、私が優生と買い物に出かけていると、手芸サークルで一緒の友人に呼び止められた。

「ひさ子さん、ちょっと大変なもの見ちゃったわよ」

友人は顔をこわばらせ、駅前の古い公園の方を指した。声を潜めて耳打ちしてくる。

「あっちの公園に直樹君とあやさんがいたの。ボロボロの格好でベンチに座り込み、パンの耳をかじってたらしいわ。声をかけようとしたら、あやさんにすごい剣幕で睨まれて、私怖くなって逃げてきちゃった」

少し前なら友人の反応も違っただろう。「認知症の私の世話で疲れちゃったのかしら」と、心配していたはずだ。同居してから始まった理不尽ないびり。私を認知症に仕立て上げようとした工作。私を「ババア」と呼んで嘲笑っていたこと。そしてあの正月に実行された恐ろしい計画。サークルメンバーの誤解を解くために、先日それらを丁寧に説明した。決して直樹やあやを悪者にしたいのではない。ただ、私の大切な居場所を取り戻したかったのだ。偶然息子夫婦を目撃した友人の顔からは血の気が引き、手に持っていた買い物袋が小刻みに震えている。

「信じてなかったわけじゃないけど、何か信じられない話じゃない。も……、あやさん可愛らしかったもの。お嫁さんのあんよを見たらねえ……。私たち、ひさ子さんになんてひどいことをしちゃったのかしら」

数日後、私が久しぶりにサークルの集会所に顔を出すと、室内が一瞬で静まり返った。私があまりにも必死に話をしてしまったせいか、皆半信半疑だったらしい。しかし息子夫婦を見かけたという友人が何人も現れた。公園など外を当てもなくぶらついているのだから、目について当然だ。

真っ先に歩み寄ってきたのは、リーダー格のまち子だった。彼女は唇を噛み、私の両手をぎゅっと握りしめた。

「ひさ子さん、本当にごめんなさい。私、お嫁さんの口車に乗せられて、あなたに冷たくしてしまった。認知症なんて嘘だったのね。こんなに理性的にしっかりしているあなたを、どうして信じられなかったんだろう」

まち子は周囲を見渡す。他のメンバーにも聞こえるよう、大きな声で宣言した。

「いいみんな!あんな親の命を狙うような連中、同情する必要なんて一ミリもないわ。四面楚歌よ。ひさ子さんは私たちの誇りなんだから。これからは私たちもひさ子さんを守るわよ」

友人たちの「可哀そうな病人を見る目」は、いつの間にか信頼の目に戻っていた。あやらに振り回されることなく、自分のペースで好きに過ごせる。サークルにも以前と変わらず活発に参加できるようになった。私は奪われかけていた自尊心と、長年築き上げてきた居場所をようやく取り戻したのだ。

一方、私と優生に見放され路頭に迷った直樹とあやが、最後にすがったのはやはりあの実家だった。彼らは泣けなしの小銭をかき集め、どうにか地方の空港へと向かったらしい。長年離れて暮らしていた私は親としての絆が薄れていた。けれど、二人の結婚や優生の誕生をそばで支えてくれていたあやの親なら、何だかんだ言っても見捨てはしないだろう。そんな甘い考えを持っていたに違いない。確かにあやの両親には、ある意味愛が残っていたようだ。

数日後、私の元にあやの母親から電話があり、二人の現状を教えてくれた。

「ひさ子さん、あの子たちが恥知らずにも戻ってきました。そちらでもご迷惑をおかけしたと聞いております。本当に申し訳ございませんでした」

震える声で謝罪する彼女に、私も謝罪を返す。

「いえ、私の直樹も同類です。長く直樹がお世話になりました。こちらこそ、あやさんのご実家を掻き回してしまって申し訳ありません」

そこで、寂しそうにあやの母親は口を開いた。

「実はあの子たち、今、自宅に閉じ込めています。警察には突き出しませんでしたが、このまま野に放てば、また誰かの土地に迷惑をかけるでしょう。親として罰を与えているんですよ」

同じ親ではあるが、私よりも覚悟が決まっていた。ただ単に突き離しただけの自分が恥ずかしい。彼女は私のそんな思いも汲み取ってくれる。

「やっぱり一度全ての人に見放されたっていう経験は大きかったようですよ。あの子たちは甘やかされすぎましたから。お金も雨風も凌げるところもないっていう極限の環境が、いい薬になったでしょう」

さらに彼女は二人の今後のことまで考えてくれていた。

「本家の家業である農業が極度の人手不足でして。あそこは周囲を山に囲まれ、携帯の電波も届かないような場所です。直樹君も一緒にそちらへ送り込んでしまってよろしいでしょうか?」

「はい。もちろん構いません。私にあの子たちを止める権利はありません」

「ありがとうございます。あの子たちはもう人ではありません。ただ使い潰していい家畜だと思っております。しっかり働かせてもらいますからね。存分に」

優しいようで、笑い声の後ろに怒りが宿っている。このように心の底から怒ってくれるのも、また親の愛かもしれない。愛されて育ったであろうあやや直樹にも、人並みの生活をさせてきたと思うが、どこで狂ってしまったのか。これから待ち受ける過酷な生活の中で、二人が更生することをわずかに祈った。

一ヶ月後、私の元にあやの母親から一通の手紙が届いた。便箋には見事な筆でこう記されている。

「彩と直樹君は無事、本家の農場に送り込みました。元気に頑張っておりますのでご心配なく。とはいえ、何度か夜中に脱走を企てたそうだ。懐中電灯もない山道を、スマホのライトを手がかりに必死に走ったらしい。その度に道に迷って、結局パトロール中の地元の若者にたまたま見つけてもらう始末だった」

「離せ!こんな田舎にいられるかよ!ほっといてくれ!」

直樹は泣きながら抵抗していたが、若者に「本当にいいのか?ここら辺は夜になると腹を空かせたクマが出るぞ」と言われた途端、真っ青になって震えたという。素直にトラックの荷台に乗せられて戻っていく二人は、とことん間抜けだっただろう。手紙は何枚にもなり、まだ続く。

「最初は鍬の持ち方さえ分からず、ただの足手まといでしたが、最近はようやく使えるようになってきました。今は根性を叩き直している最中です。私に心配させまいと、直樹の様子を丁寧に綴ってくれたようだ。二人とも親に悪いことをしたと、ようやく口にするようになりました。それが本心かどうかは、これから時間をかけて証明させようと思います」

長い手紙を読み終え、私は添えられた写真に目を落とした。そこにはかつての華やかな姿など微塵もない、あやと直樹の姿がある。都会では派手な色を好んでいたあやが、ひび割れたゴム靴を履き、華やかなネイルも剥がれ落ちて指先は真っ黒だ。ひたすら土と虫と野菜に向き合う彼女の顔は、あまりの疲労で歪んでいる。直樹もまた国形だ。ジムに通って鍛えていると聞いたことがあったけれど、自慢の筋肉は役立たず。八十歳を超えたお年寄りの方が働き者で、なおかつ力持ちだった。「さっさと動け!」と本家の頑固じじいに叱られる。かつての余裕はどこへやら。文句も言えず、黙々と作業を続ける。彼らが夢見た「親の金を奪って遊んで暮らす人生」は、幻と消えた。周囲にはコンビニ一つなく、バスも一日に二本。そのバス停に行くのも車で十五分はかかる。逃げ出そうにも、手段もお金もない。さらには事情を知られている地元の人々の、鋭い監視の目もあった。

「救われたのかしらね、あの子たちは」

私は写真をそっと伏せて、仏壇に備えた。盗って奪うことしか知らなかった二人が、初めて汗を流して生きている。この暮らしがあの子たちにとって救済となったのか、刑務所に入った方がマシだったのか。あるいは、お金を返せずに怖い人に連れ去られる道もあったのかもしれない。どの道に進んだとしても過酷だ。

季節が巡り、夏がやってきた。リビングに置かれた固定電話が鳴る。知らない番号からの着信だ。少し警戒して受話器を取る。

「はい」

「もしもし。母さん、俺だよ。俺」

聞こえたのは、かれた情けない声。直樹だ。背後では「あやのねえ、代わってよ」という焦った声も聞こえる。

「頼むよ。助けて。もう限界なんだ。母さん、お願い。そっちに帰りたいよ」

哀れしく懇願しているが、醜悪極まりない。私は一言も発さない。可哀そうにと心は揺れない。隣で宿題をしていた優生が私の異変に気づいて顔を上げた。

「バーバ、どうしたの?」

その優生の声を、受話器の向こうのあやが聞き逃さない。

「ゆうとなの?お母さんだよ」

奪い取るように受話器を変わったあやが、声を震わせた。

「ゆう、元気してた?お母さんね、毎日辛くて。ゆうとも、またお母さんと暮らしたいよね?ねえ、バーバにお母さんと一緒がいいって言って?」

あやの一方的な必死の訴えを、優生は無表情で聞き流す。そして深呼吸を一つすると、はっきり告げた。

「僕のお母さんとお父さんはもういません。迷惑なので、二度と連絡してこないでください」

受話器の向こうで、あやの息が止まる音がした。私からも訣別を突きつける。

「最後の約束を忘れたの?これ以上私たちに関わるなら、警察に被害届を正式に出すわよ。いつでも訴えられるんだからね」

強い態度で言うと、哀れしくしていた二人の様子が急変した。

「なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないの!?」

「ゆうと、あんたお母さんを見捨てる気!?」

「この役立たずのバカ息子!!」

「母さん金あるだろ?あの世に金を持っていく気か?母さんが借金を返してくれれば、俺たちは自由になれるんだ!親ならそれくらいしろよ!」

結局、彼らは何一つ変わっていなかった。自分がなぜ厳しい環境へ送り込まれたのかを理解せず、金と自由を求めてわめく。その姿は救いのないほど、醜くて哀れだった。

「こんなのが親だなんて、本当に恥ずかしいよ」

冷ややかな優生の一言に、私は頷く。

「そうね。親子の縁は絶対じゃない。切ってもいいのよ」

「ああ、じゃあ、もう一生さようなら」

優生がそう言った直後、電話の向こうで怒号が響いた。

「お前ら!誰に断って電話使ってんだ!勝手な真似すんじゃねえ!」

直樹やあやではない。裏方のような、太い男性の怒鳴り声だ。

「す、すみません!ごめんなさい!」

「すいません!でも直樹が!」

二人の悲鳴に近い謝罪を最後に、電話は切れた。彼らもいつか自由を手にできるのだろうか。もしその時が来ても、私との未来にもう彼らの居場所はない。

時は流れ、再び新しい年がやってきた。食卓にはおせち料理が並ぶ。今年の重箱に入っている蓮根や人参は、少しだけ形が不揃いだ。

「飾り切りって難しいんだね」

照れ臭そうに笑う優生。一生懸命に包丁を握って手伝ってくれたのだ。食後にはクリスマスにプレゼントした最新のゲーム機を取り出す。ずっと欲しかったんだと飛び上がって喜んでいた優生に教わりながら、私も慣れない手つきでコントローラーを握った。

「え、またバーバの勝ち?強すぎだよ」

「伊達に長く生きていないのよ。もう一回勝負だ」

賑やかな笑い声がリビングに響く。のんびり、まったりとした正月だ。

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