「お前は今日の商談、欠席しろ。」
大切な当日、部長がとんでもないことを言い出した。それに慌てる俺をよそに、部長は調子に乗ってさらに言い募る。
「大人しく留守番でもしてろ。今日の商談に行くつもりだったなんて笑わせるよ。やはり学歴のないやつは浅ましいな。」
「部長、ここはアメリカ帰りの私にお任せください。必ず商談を成功させて見せますよ。」
「俺も久しぶりにニューヨーク仕込みの英語を披露するか。」
高学歴を鼻にかけ、俺を見下す上司と部下が、高笑いを響かせながら息巻いて商談へ向かう。果たして真実を知った時、二人はどんな言葉を発するのだろうか。
俺の名前は中村賢介。四十二歳で電子部品メーカーに勤務している。入社以来、営業部一筋で働いて二十年以上が経ち、ベテラン社員として現在は係長を任されている。そんな中、営業部長が人事異動になり、新しい部長がやってきたのは数日前のことだ。
俺は前任の部長から頼まれていた業務についての申し送りを、新任の江野木田部長に行った。
「お前は偉そうに何なんだ?中卒で低学歴の人間が係長だなんてありえない。全く、この会社はどうかしているな。」
江野木田部長にいきなりなじられた。俺は一瞬自分の耳を疑い、他の社員たちも急に黙り込んでしまった。
「偉そうに説明するんじゃないよ。お前ごときにいちいち言われたくもない。クズは引っ込んでろ。」
「江野木田部長、それでは申し送りはこの私が。」
江野木田部長が俺を睨みつけ、追い払うような仕草をするといきなり部下の片山が飛び出してきて、俺をぐいっと押しのけた。
「おお、片山か。お前なら安心だ。頼むよ。」
片山の顔を見ると、江野木田部長は急に機嫌が良くなる。俺はどうにも気まずくて、黙って自分のデスクに戻るしかなかった。江野木田部長は片山に小声で何か耳打ちをしながら、ニヤニヤと笑っている。
「まあ、無能で甲斐性のないやつがいても、一流の俺が来たからにはこの会社も安泰だ。これからはレベルの高い大きな仕事をやっていくぞ。俺に任せておけ。」
江野木田部長がいきなりわざとらしい大声を出すと、その傍らで片山が満面の笑みを浮かべ、大きく頷いている。
「部長、そういえばバタバタしていて、まだ社内をご覧になっていないのでは?私が案内いたしますので、申し送りなんか後にして行きましょう。」
「ああ、申し送りなんか俺には必要ない。仕事はこの俺が決めていく。俺に全て任せておけ。」
片山は江野木田部長のご機嫌を取ろうとあの手この手でごまをすり続け、江野木田部長がハイテンションで喋り続けるという妙な雰囲気に、みんな圧倒されてしまった。
「うわあ、江野木田部長はプライドが高いな。さすが東大卒って感じだ。捕まったら面倒だぞ。係長も気の毒だな。」
「ああ、気をつけないとな。」
「しかし江野木田部長は中途採用とはいえハイキャリア転職で、英語もペラペラらしいじゃないか。社長もすごい人を送り込んできたな。」
「片山もいきなり態度を変えやがって。自分も東大だからと言っていい気なもんだよ。」
江野木田部長と片山が部屋を出ていくとは、社員たちがこそこそと喋り出し、俺はそれに聞き耳を立てた。江野木田部長はこの営業部にやってきて早々、自分の経歴を誇示し、圧力をかけるような言動が見受けられ、恐ろしくて目の前で迂闊な話などできないようだ。社員たちも、威圧的な部長がやってきて落ち着かない様子だった。
そしてどこで調べてきたのか、江野木田部長は俺が中卒だと知り、それをネタに露骨に見下すようなことを言ってくる。
実は俺が中卒なのにはちょっとしたわけがある。俺は子供の頃、親の都合で引っ越しが多く、海外でも長く暮らしていた。高校進学にあたって帰国をしたが、日本の学校というものになんとなく馴染めず、せっかく入った高校を中退してしまった。つまり俺の学歴は高校中退の中卒ということになる。
そんな俺だったが、小学生の頃から電子製品が好きで、ラジオを分解してその仕組みを調べていた。挙句の果てに勝手に家のテレビや家中の家電を分解して父親に大目玉を食らったこともあったが、電子部品や半導体に興味を持つようになったのは、そんなことがきっかけだったと思う。
高校中退後も俺はこの分野について独学で勉強して、今の会社に就職した。当時の社長が俺の電子部品についての知識の豊富さを認めてくれ、高校を中退したことも承知の上で雇ってくれたのだ。前任の部長も学歴など気にするような人ではなく、俺は入社以来順調だった。
だが、今日の言動からしても江野木田部長は明らかに学歴を理由に俺を見下している。そしてその影響で一部の社員に肩入れするような言動は、俺だけではなく他の社員たちにも不安を与えていた。
部長が来て以来、営業部には不穏な空気が漂いっぱなしだ。
江野木田部長の威圧的な言動は相変わらずで、今日もフロア中に響き渡る大声を出し、さっきから長々と電話をしている。
「おい、新しい仕事が入ったぞ。東大の先輩の大手企業からの医療用部品の大口注文だ。相手は一流企業だからな。」
通話を終わらせてからも江野木田部長は喋り続け、ドヤ顔を見せつけてくる。しかし江野木田部長は入社以来、自らでいくつもの案件を取り付けていて、その中には大口のものもあり、前職の一流企業でやり手だったという力を示していた。
しかし俺にとってこの一ヶ月は怒涛の日々でもあった。江野木田部長は仕事の効率化と称して、契約金額が高いものや大企業からの仕事などは全て高学歴の大卒の社員に振り分け、作業量が多い割に単価の安い仕事を高卒の社員の担当へと入れ替えた。その上、仕事の引き継ぎ作業が終わると、俺たち高卒の社員には大卒社員の補助的な業務や雑用が押し付けられた。
高学歴の社員たちも自分にいい仕事を回してもらおうと、江野木田部長にすり寄って媚びを売るのに必死で、仕事はそっちのけといった状態だ。しかし江野木田部長は思い通りにことが運び、気分がいいようで、最近は日ごとに傲慢な態度に拍車がかかっている。
「ああ、困ったな。この仕事は中卒のやつには任せられない。東大の先輩に顔が立たないからな。それにしても、この取引には英語の説明書が必要だからな。学歴のない無能のやつにはどうせ無理だ。」
江野木田部長が独り言のようなもったいぶったことを言っている。しかしそれは明らかに俺のことを指していて、高校中退の俺に対する嫌味でしかない。
「おい、片山、新しい案件はお前に任せよう。ちょっと来てくれ。」
江野木田部長は手招きをして片山を呼んでいるが、またしても新しい仕事を片山に任せるつもりだ。
「中村、お前はそこにある書類を資料室に運んでおいてくれ。」
「え、これは片山が使っていた。」
「片山は新しい仕事で忙しいんだ。お前はついでに資料室の掃除もやっておけ。この前見たらほこりが溜まっていたからな。仕事のできないやつには何でもやってもらう。早く行け、この中卒。」
俺は係長だというのに、部下の片山が使っていた資料を片付けることになった。俺の担当していた主だった仕事は片山を始め大卒社員たちなどに引き渡してしまい、今は手が空いている。悔しいが、江野木田部長の指示に従うしかない。
上意下士とも言える江野木田部長は、最近俺たち高卒の社員に営業部の仕事でもない雑用や、自分の使うものの買い物までさせる始末だ。中でも中卒の俺に対する態度はとりわけひどいもので、俺はすっかり嫌がらせのターゲットにされていて、何とも肩身が狭く、次第に会社に行くことも憂鬱になっていった。
だがそんな中、俺にいい知らせが入る。それは以前から取引があるシンガポールの家電メーカーからのもので、俺が長く担当しているクライアントだ。新しい半導体部品についての注文で、かなり大口の商談でもあり、俺はすぐに承諾をした。そして商談に向けて先方からの要望の詳細について、商品部や工場とも連絡を取り、資料作りに取りかかる。
「おい、お前、新しい仕事が入ったらしいな。」
雑用ばかりさせられ、久しぶりに仕事らしいことをして俺は張り切っていたが、すぐに話を聞きつけた江野木田部長が俺のところにやってきた。
「俺に何の許可もなく勝手に仕事を引き受けるなんていい度胸だ。低学歴のくせにいい気になるなよ。」
「いえ、許可ではありません。このクライアントは社長の紹介で以前から取引のある企業です。」
「何が社長の紹介だよ。生意気だな。そのクライアントはシンガポールの企業だそうだな。だったら英語のできる人間が必要だろう。中卒のお前一人では務まらないよな。」
「英語ですか?ええ、まあ多少は使いますが。」
答えながら、これは面倒なことになりそうだと考える。江野木田部長はいつもの上から物を言うような口調だし、その背後にはあのお気に入りの片山が控えていた。
「なあ、中村。お前のその商談のパートナーとして、この片山をつけてやるよ。片山はアメリカの留学経験もあるしな。」
江野木田部長は長々と片山の経歴について喋り続け、またしてもご機嫌取りを始める。
「はあ。江野木田部長がそうおっしゃるのでしたら、私もこの商談に一役買いましょう。私の頭脳と英語力があれば話は簡単ですよ。」
俺が返事を濁していると、片山がしゃしゃり出てくるが、その様はすっかり江野木田部長の腰ぎんちゃくだ。片山は元々プライドが高く扱いづらい部下ではあったが、江野木田部長がやってきて以来、媚を売る度に態度が大きくなっている。
しかし、その傲慢な態度を抜きにしても、俺は片山が今回の商談に向いているとは思えなかった。だが江野木田部長が引き下がるはずもない。
「ええ、まあ、営業部の今後のためにも、片山も一緒にやっておく方がいいかもしれませんね。」
「今後ためだと?強がりですか?一人では無理だと本当のことを言ってくださいよ、中村係長。」
「何を言っている?君もこの仕事を一緒にやっておけば勉強になるはずだ。」
「あの、パートナーとして一緒に働くと言っても、私はいちいち細かい説明など必要ありませんから。」
部下の育成にもなるかと思い、俺は仕方なく片山をパートナーとして受け入れることにしたというのに、片山は釘を刺すとも言える言葉を残し、江野木田部長と意味ありげに笑いながらどこかに行ってしまった。
その後も片山は、俺が忙しく資料作りをしているというのに何もしようとはしなかった。手伝いを頼んでも、
「はあ?私がそんな地味で簡単な仕事を?私は選ばれた人間でエリートなんです。何か頼む時にはよく考えてくださいよ。私にそんな雑用をやらせるなんて。私は忙しいんですから、そういうのは勘弁してくださいよ。」
などと言って、片山はふてくされていた。
「やっぱり学歴のない奴にはこの商談は無理なんじゃないか。なんなら最初から全部片山に任せてしまったらいいじゃないか。」
片山は全く役に立たないし、江野木田部長は相変わらず俺に嫌味ばかり言っている。江野木田部長は片山をわざわざ俺のパートナーにつけておいて、何か意味があるのだろうか。片山に何もしないように指示を出し、嫌がらせをして仕事を遅らせようとでもしているのだろうか。
変にプライドが高くて文句ばかり言っている片山などいない方が仕事ははかどる。俺は一人で資料作りを進めて、商談に備えることにした。
それから一ヶ月後の商談当日。俺は取引先に向かおうと片山を探していた。
「中村、お前どうした?うろうろとして。」
俺の目の前に江野木田部長が立ちはだかり、その背後には片山が立っている。
「こんなところにいたのか。片山、探したんだぞ。もう出かける時間だ。」
「なんだ中村。お前、一体どこに行くんだ?」
「江野木田部長、何をおっしゃっているんですか?今日は商談の日ですよ。片山、間に合わないからもう行くぞ。」
おかしなことを言う江野木田部長をよそに、俺は片山の肩をついた。
「呆れたやつだ。お前は英語もできないくせに、今日の商談に行くつもりだったなんて笑わせるよ。やはり学歴のないやつは浅ましいな。」
「英語ですか?ですから、ほとんど使いませんから問題ありません。通訳できる人もいますし。」
「はあ、そんな他人任せでどうするつもりだ?やはり中卒のお前は今日の商談は欠席しろ。低学歴の係長さんは、ここで留守番でもしていろ。」
「私が商談を欠席?そんなことできるはずありません。江野木田部長、さっきから何を変なことばかりおっしゃっているんですか。」
「やはり頭の悪いやつは、何を言っても飲み込みが悪くて困るな。俺の言っていることが分からないのか?英語もできない役立たずのお前が、今日の商談に行って何になる?」
「江野木田部長、ここはアメリカ帰りの私にお任せください。この私が必ず商談を成功させて見せますよ。」
ここぞばかりに自分をアピールする片山は、目がギラギラと輝き、なんとも奇妙としか言いようがない。
「待ってください。本当に英語は。」
「無能の中卒は黙ってろ。俺も久しぶりにニューヨーク仕込みの英語を披露するか。ははは。」
俺は二人に説明を試みるも、江野木田部長は今日の商談に行く気満々で、テンションが上がり人の話など聞くつもりはないようで、俺の言葉を遮り切って高笑いを響かせた。
しかし俺は、この二人が重要なことを忘れていることがさっきから引っかかり、気がかりだった。そのことを考えると、俺が外れるとなればきっとこの商談は失敗に終わってしまうだろうと予想される。そうは言っても江野木田部長のことだから、俺がこれ以上何を言おうが強引に事を運ぶだろう。悔しいが、諦めて江野木田部長の言うことを受け入れるしかないのかもしれない。
「これが商談の資料か。ご苦労だったな。さあ、もう時間がない。片山、急いで行くぞ。」
俺が考え込んでいると、江野木田部長は俺の持っていた封筒を奪い取り、片山と部屋を出て行ってしまった。
さて、その一時間後のことだ。俺の携帯に江野木田部長からの着信が入った。
「中村、お前、なぜ黙っていたんだ?商談が台無しになってしまったぞ。」
俺が通話ボタンを押すと、いきなり江野木田部長の怒声が聞こえてきた。
「何のことでしょうか?」
「とぼけるな。クライアントは中国語ができないのかと逆上していたぞ。この大嘘つきが。そんなこと一言も言ってなかったじゃないか。お前、中国語ができるのか?」
「別に私は嘘なんか。江野木田部長がお忘れになっていたのではありませんか?」
電話の向こうで逆切れする江野木田部長に、俺は冷静に対応した。
この商談では英語よりも中国語が必要とされていることを、二人は忘れていた。というよりも、正確に言えば忘れていたのではなく、何も知らない不勉強のせいだけなのかもしれない。今回の商談の資料は俺が作成したが、全て中国語で仕上げている。だが江野木田部長と片山は、英語ができれば何とかなると高をくくり、商談に出席するというのに下調べもなく、事前に資料に目を通すことさえなかったのだから、気がつくはずもない。今日、商談先で封筒を開け、中国語の資料を見て初めて気がつき、二人とも驚いたことだろう。
ちなみに俺は、その資料を作れるだけあって中国語が得意なのである。俺の父親の転勤先は中国が多く、滞在期間も長かったので、俺は英語は苦手だが中国語は現地で身につけたもので、流暢なものだ。今回のシンガポールのクライアントは中国で組み立て作業を行っていて、最終段階で設計の修正などの詳細な調整を現地スタッフとする必要があり、中国語が必要不可欠だった。クライアント側の社員たちはみんな英語と中国語の両方使えるので、便宜上クライアントとは中国語で仕事を進めている。先方も、俺が現地スタッフと遜色なく中国語を話せる能力を買ってくれた上で、取引を依頼してくれていたものだ。
「馬鹿にするな。お前、俺に恥を欠かせようとして、わざと何も言わなかっただろう。」
落ち度を指摘した俺に、江野木田部長がなおも声を張り上げた。
「馬鹿にだなんて。私が説明しようとしているのに、江野木田部長は話も聞こうともしないでさっさと行ってしまったじゃありませんか。」
「言い訳をするなお前。自分に学歴がないから、高学歴の俺と片山を妬んでいて、騙したんだ。そうに決まっている。」
「そんなの言いがかりですよ。」
「ふん、お前を勝手に商談から外したからと言って、先方はこの契約はなかったことにすると言っている。一体どうするつもりだ?」
「それはそうでしょうね。この取引は中国語ができないとどうにもなりませんから。」
さらにクライアント側は、勝手にこのようなことをする企業は信用できないとして、その他今までの全契約の解除まで言い出してきたそうだ。その損失の累計は、ざっと計算しても五十億という額になるだろう。
「中卒の出来損ないのせいで。お前はどこでどうやってこの商談をねじ込んだんだ?おかしいだろう。大体、中国語なんて。」
江野木田部長はあまりの事態に混乱しているのか、言っていることが支離滅裂だ。
「全てはお前が俺に嘘をついたから悪いんだ。責任を取ってなんとかしろ。」
「何をおっしゃっているんですか?俺をこの商談から無理やり外したのは、江野木田部長、あなたですよ。私は関係ありません。」
大声で俺を怒鳴りつける江野木田部長に対して、俺は全責任を否定して通話を終わらせた。俺を落とし入れようと片山を強引にパートナーに押し付け、俺を無理やり商談から外し、横取りをしようとした江野木田部長の責任だ。
その後、江野木田部長が会社に戻ると、俺たちはすぐに社長室に呼び出された。
「社長、聞いてください。今日は本当に大変でした。商談中にこの中村がクライアントに失礼なことを言って、相手を怒らせてしまったんです。」
社長室に入るや、江野木田部長が猛然と喋り出す。怒ったクライアントが俺を取引から外すと言い出し、それに俺が逆切れ。そして俺が商談を勝手に壊し、その上今までの契約もなかったことにすると脅した。そんな馬鹿げた報告を江野木田部長は堂々と言ってのけ、俺に責任をなすりつけようとする。
社長は最後まで黙って聞いた後、重々しく口を開いた。
「江野木君、君の言っていることは事実なのか?」
「はい、社長、もちろんです。このエリートの私が社長に嘘をつくなんてありえません。」
江野木田部長の返答に、社長が大きなため息をつく。
「もうやめないか。自分の落ち度を部下になすりつけようだなんて。君には失望した。」
これ以上ないといった作り笑顔でへこへこしている江野木田部長。社長は目を釣り上げてまくし立てた。
実は、江野木田部長からの逆切れの電話の後、俺はすぐに社長にこの件について報告を入れていた。事態を重く見た社長は、すぐにクライアント側に連絡を入れてくれ、事実確認を済ませていたのだ。
係長の俺が他の役職者を飛び越え、いきなり社長に報告できたのは、個人的な繋がりのおかげでもある。俺は父親の赴任先から帰国してからも、時々どうしても中国が懐かしくなり、よく中国に行って色々なところをぶらぶらと見て回ったりしていた。そんなある時、言葉が通じずに困っていた日本人旅行者を助けたことがあり、その人が社長で、それが縁でこの会社に就職したのだ。社長とはそれ以来いい関係を築いている。中国語が堪能な俺に、その語学を生かせるような様々な仕事を任せてもらえたのも社長の計らいだ。
「江野木君、君のしたことは、すでに先方にも連絡を入れて確認済みだ。君は素晴らしい経歴を持っているが、それをいいことに部下を落とし入れ、会社に損害を与えた。言い逃れはできないぞ。」
社長が事実を全て知っていると分かり、江野木田部長は顔面蒼白になった。
「社長、これにはわけが。」
「君の処分については追って連絡するから、それまで自宅待機とする。いいな。」
なおも言い訳をしようとする江野木田部長の言葉を遮り切り、社長が最後に落ち着いた声で告げる。江野木田部長はよろよろと社長室を出ていった。その情けない姿は、傲慢で大声を張り上げていた江野木田部長とは全く別人だった。
その後、どうなったのか。社長がもう一度クライアントへ連絡を取り、謝罪をしてみた。すると、俺が商談の担当者として復帰するなら、改めて契約を結びたいという話をもらうことができた。社長からの依頼もあって、俺が引き続き担当することになり、損害賠償を免がれた。それは先方側が、うちの会社との長年の付き合いを持っての音でもあるだろう。
江野木田部長と片山に関しても、その後すぐさま営業部への聞き取り調査が行われ、部長は学歴差別のこともあり解雇された。片山も日頃からの態度に問題ありとして、倉庫の管理業務に左遷扱いで移動になった。
江野木田部長がいなくなり、また元の環境でのびのびと働くことができるようになって、いかに恵まれた環境であったかを実感している。そしてその充実した毎日に、改めて自分にはこの仕事しかないと感じ、今後も努力を怠ることなく、この好きな仕事を続けていこうと、気持ち新たに決心している。



