母上がこのまま田植えをすれば、一ヶ月と経たぬうちにこの田は死にまする。どうかその前に土鰍を放たせてくださいませ。
嫁の思いもよらぬ言葉に、姑のシトは耳を疑った。大切な田に土鰍を放つなど正気の沙汰とは思えない。長男の徳次郎も、書物で米を育てるつもりかと鼻で笑った。それでも嫁は引こうとはしなかった。やがて桶を大きく傾け、濁った泥田へ一気に流し込んだのである。泥水が着物に跳ねても、嫁の目は水面から離れなかった。皆が呆れ、あざけり、田が潰れると決めつける中、嫁だけは何かを待っていた。やがてこの一件が誰も予想しなかった騒ぎの始まりになるとは、その時はまだ誰も知らなかった。
その娘の名はさ苗えと申した。田植えの季節に差しかかると、父である郷の早川半兵衛は決まって土を一握りすくい、娘の手のひらにそっと乗せてやるのであった。父によれば、土にも水にもそれぞれ言葉があるのだという。乾いた土は喉を鳴らして水を欲しがり、水を含みすぎた土は息をつまらせて根を腐らせる。その声を聞き分けられる者だけが田を守れるのだと、半兵衛はいつもそう語って聞かせた。
さ苗えは目を閉じ、その匂いを鼻の奥深くまで吸い込んだ。香ばしくもどこか生臭い土の匂いが、幼い胸のうちに一つ一つ積もっていった。乾いた土は埃っぽく、水を含んだ土はねっとりと甘やかな匂いを放つ。幼いさ苗えはその微妙な違いを、不思議なほど正しく嗅ぎ分けた。
半兵衛が娘にこれほど深く農の術を仕込むのには訳があった。自らの田を自らの手で耕すことは、郷の身にとって何ら恥ずべきことではない。しかし幼い娘がこれほどまでに土の道理を見抜き、病害まで言い当てる才を持っていると知れ渡れば、心ない者どもがその才を我が者顔で利用しようと近づいてくるやもしれぬ。あるいは女子の身でありながら人ならぬ力を持つ者だと、あらぬ噂を立てられるやもしれぬ。半兵衛はそれを恐れておった。ゆえに稽古は常に夜の訪れとともに始まり、灯し火の下でひそやかに行われるのであった。
夜が更けると、半兵衛は安頭の灯りを書き立て、手垢に染まった書物をそっと開くのである。さ苗えはその傍らに座り、水路の別れ目を指先でなぞりながら、父の言葉を一言も聞き逃すまいとした。半兵衛はまた、算の使い方も教えた。数を並べ、数を組み立ててまた崩す。その手つきを行く度も繰り返させながら、半兵衛はこう申した。
「数というものは、正直な者の手にあれば道具となり、横道な者の手にあれば刃となる。だからこそ、その刃を見分ける目を持たねばならぬ。」
米高を記す帳面の読み方、倉に預けた米の受け取り書の見分け方、家の判と村方の判との違いまで、半兵衛は一つ一つ丁寧に仕込んでまいった。判というものは、主の色も押す力の強さも、彫った職人の癖によって微妙に違いが出るものだ。それを見分けるには、いくつも見比べる他に道はない。半兵衛はそうして村に伝わる古い証文をいくつも娘に見せ、どれが同じ手によるものかを言い当てさせる稽古も繰り返させたのである。
ある年、隣の村の百姓が涙ながらに半兵衛の元を訪れ、米問屋から突きつけられた証文を見てくれと頼んだことがあった。半兵衛はその証文を隅々まで改め、書き足された数と後から押し直された判の跡を見つけ出し、六百石の難を救ってやったのである。さ苗えはその一部始終を部屋の隅から息を殺して見ておった。「父上のようになりたい」と、幼心にそう思ったのである。
半兵衛にはまた、村の困窮を見過ごせぬ性分があった。不作の兆しが見えた年には己の倉を早々に開き、貧しい百姓たちへ米を分けてやるのが常であった。ある年の深い雪の朝、まだ幼かった遺の家もその恩恵に預かった一家であった。いさじの父は当時病を患い、田を守る手が足りずに難儀しておった。半兵衛は自ら倉の鍵を開け、五斗の米を運ばせ、何も申さずただ黙って差し出したのである。
「ご恩は忘れませぬ」と繰り返す遺の父に、半兵衛はこう申した。
「恩に着るには及ばぬ。余力のあるものが困っているものを助けるのは、当たり前のことに過ぎぬ。」
幼いさじはその時の半兵衛の背中を、今も忘れずに覚えておった。その人柄の良さが後に己の身を滅ぼす種になろうとは、半兵衛自身も知るよしもなかった。
米問屋の大海や、相衛え門は、半兵衛が倉を開けるたびに一俵の米の儲けが崩れ、己のもうけが減ることを苦々しく思っておった。「あの郷さえ黙らせれば、この村の米は全て己の手に落ちる」と、そう衛門は腹のうちで呑んでおった。
その年から、市場の米の値は不自然に跳ね上がるようになった。秋になると大海の下男が近隣の村を回り、米を密かに買い集めているという噂も流れておった。表向きの倉は閉ざされたまま、値ばかりが釣り上がってまいった。半兵衛はその不審に気づき、村の名主と共にそう衛門の元へ行く度に駆け合いに参ったが、その度にそう衛門は愛想笑いを浮かべ、言葉を濁すばかりであった。「半兵衛様に立つきなどございませぬ」と申しながら、その目の奥には冷ややかな光が宿っておった。
ある日、半兵衛は倉の裏手で見慣れぬ荷が大海の下男たちによって密かに動かされているのを目にした。荷の中身を改めようとした半兵衛に、下男たちは「ただの塩でございます」と言い張り、そそくさとその場を立ち去っていった。半兵衛の胸には拭いきれぬ疑念が残った。名主へ改めて調べを頼んだが、大海は巧妙に証拠を隠し、確かな手がかりを得ることはできなかった。
数年後、大きな凶作が村を襲った。田の底が亀の甲羅のようにひびわれたその年、そう衛門は分厚い証文を携えて半兵衛の屋敷の庭先へと乗り込んでまいった。それはかつて半兵衛が凶作の百姓へ米を回すために大海へ預けた米の受け取り書であった。しかしそう衛門はその受け取り書を、五斗の借用証文へと巧妙に書き換えていたのである。名主の奥印までそれらしく似せてあり、証人として名を連ねていた百姓はその頃すでにこの世にいなかった。
「半兵衛様がお借りになった米はこれだけ。お返しいただけぬのであれば、田畑を持ってお償みせ願いましょう。」
そう衛門は証文を突きつけ、半兵衛に詰め寄った。
「この証文は偽りである。これは我が家の判ではない。」
半兵衛は声を荒げ、家に伝わる古い証文を取り出して見比べようとした。しかしそう衛門は素早く書付をしまい込み、「御奉行にてじっくりと吟味なされませ」としれっと言い放った。ところがそう衛門は当時の奉行所に務める役人の一人をすでに金で抱き込んでおった。吟味の場では偽りの奥印も判も正式なものとして扱われ、証人もすでに亡くなっていたため、半兵衛の訴えは退けられてしまったのである。
ほどなく田畑は借財の形として取り上げられ、人の出入りで賑わっていた座敷には冷たい静けさだけが降り積もった。その書き役は数年後に病で世を去り、そう衛門とのつながりを示すものは、僅かに残された裏帳だけとなったのである。その衝撃を、半兵衛夫婦はついに乗り越えることができなかった。父は几帳面に食を断ち、空になった田をただ見つめておった。母はそんな父の傍らで乾いた咳を繰り返しこぼしておった。衰えた二人は病から立ち直ることなく、その年の冬から翌年の春にかけて相次いでこの世を去った。広い屋敷にさ苗えただ一人が残されたのである。
喪服に身を包んださ苗えの懐には、種もみの袋と父の書物だけが残された。他のものは何もかも奪われても、その二つだけは胸にしかと抱きしめておった。さ苗えは空になった田を長い間見つめておった。唇を固く結び、小さな拳の中に種もみの袋を強く握りしめた。指先が白くなるほどに握りしめても、涙一粒こぼしはしなかった。
「父上、この田を必ず取り戻して見せます。」
風が空の田を吹き抜けてまいった。幼い決意の目がその野原にひっそりと根を下ろした夜のことであった。
その後、身寄りの亡くなったさ苗えは、仮受けした小さな水田の一角を耕しながら細々と暮らしを立てておった。父の残した種もみをただ袋にしまい込んでいたわけではなかった。古い種を絶やさぬためには、毎年土へ返してやらねばならぬと父から教わっておった。ゆえに一反にも満たぬ小さな種田に一握りずつ蒔いては、実った種をまた翌年へ取り継いでおった。誰に見せるでもない、一人の娘の仕事であった。そうしていく年も、父の種を絶やすことなく守り続けてきたのである。
かつて半兵衛が凶作の時に米を分けてやった百姓の中に、いさじの一家もあった。身寄りを失った娘の行末を案じた名主は、その恩を忘れずにいたいさじの一家へ、ある日縁談を持ちかけたのである。いさじは以前、仮水田で黙々と働くさ苗えの姿を見かけたことがあった。「あれで土を扱いながらも、その目だけはどこまでも澄んでいる」と、いさじはその姿が忘れられず、名主の話に異を申さなかった。「あの郷様のご恩をこういう形で返せるならば」と、いさじは静かにそう思ったのである。
姑となるおつは木の根のままの嫁を迎えることに難色を示したが、亡き半兵衛の恩義を無にはできず、しぶしぶながらもこれを承知した。輿入れの日、いさじはさ苗えの手を取りながら、幼い日に見た半兵衛の背中を思い出しておった。「あの恩をこの人と共に返していこう」と、いさじは胸のうちでそう誓っておった。
「その手に持っているものは何じゃ?潰れた家から持ってきたものに、ろくなものがあろうはずもない。」
姑おつの最初の言葉はそのようなものであった。さ苗えが輿入れしたその日、花嫁が懐にしていたものは古びた書物一冊と、種もみの袋一つきりであった。田んぼ一つ、農機具の一つとてない。おつは嫁の荷物を一つ一つ改め、そこに何の値打ちもないと知るや、冷たく手を離した。袋は土間から転がり落ちた。いさじの家は五反ほどの田を守る、決して豊かではない家であった。おつはその家計を長年切り盛りしてきた人である。故に木の根のままで輿入れしてきた嫁が、何とも気に入らなかった。
おつの胸には、娘を嫁に出した過去があった。その娘は出戻り先で身に覚えのない疑いをかけられ、何も弁解もできないまま追い出され、この家へ戻ってきたことがあった。しかしおつは世間の目を恐れ、門前で泣く娘を家に入れることができず、そのまま立ち去らせてしまったのである。それ以来、おつの胸には「嫁な子というものは、他人の家に足を踏み入れたが最後、禍を持ち込む器にもなりかねぬ」という拭いがたい恐れが凍りついておった。その恐れはいつしか歪んだ知恵を先立て、「嫁を責めつけ、嫁の目を潰してしまわねばならぬ」という荒々しい思い込みへと変わっていった。
「潰れた家の娘を迎えたばかりに、残っていた服まで食いつぶすのではあるまいか。」
おつは村の者たちに聞こえるよう、低く吐き捨てた。さ苗えは俯いて唇を噛みしめるばかりで、一言も言い返しはしなかった。その日から、さ苗えの居場所はいつも台所の片隅であった。家族が卓を囲む温かい膳に籤は割れず、冷えた土間にうずくまって飯を口へ運ぶのであった。おつは村の者たちの前でもはばかることなく、さ苗えを「薬師の嫁」と呼び、けなしてはばからなかった。
さ苗えは愚痴もこぼさず働いた。夜明け前に起き出しては井戸から水を汲み、田に終わりの雑草さえも自らの手で抜いてまいった。手のひらがひび割れ、爪の間に土が黒く入り込んでも、決して休もうとはしなかった。それでも仕事が少しでも遅れれば、おつの雷が落ちるのである。井戸端や隣近所の陰口も耐える気配がなかった。
さ苗えは、いさじにだけこっそりと明かし、屋敷の裏の一角に小さな種田を設けておった。皆が寝静まった深夜になると、そっとその様子を確かめに出るのである。父より受け継いだ種を絶やさぬための、夫婦二人だけの秘事であった。その足で戻ると、種もみの袋を手のひらの上に静かに乗せてみた。硬い種の手触りが指先に伝わるたび、父の声が耳元に蘇ってまいった。
「良い種は、凶作の時にも生き延びる。」
さ苗えはその言葉を噛みしめながら、書物を開こうとした。しかし常に姑の足音に耳を済ませておかねばならなかった。ある日、悪いことにその書物をおつに見つかってしまった。
「その潰れた家のものを、まだ後生大事に抱えておるのか。何度捨てても、見るだけで気色が悪い。」
さ苗えは何も言わず、書物を懐に抱えて縁の下へと下がった。冷え切った土間に座り込み、火も焚かぬまま指先だけで書のページをめくった。闇の中でも、父の差し示してくれた水路の別れ道、父の言葉がはっきりと浮かんでまいった。さ苗えはそうして、白状のうちにあっても自らの内なる知恵を静かに守り続けておった。
夫のいさじは、もともと口数の少ない男である。優しい言葉の一つとかけてはくれなかったが、さ苗えが思いに沈む時には、いつの間にか傍らにより、その重荷をそっと引き受けてくれるのであった。さ苗えの手の甲がひび割れて血が滲めば、夜遅くに摘んできた薬草を練り、黙って塗ってくれるのである。
「沁みるぞ。少しの辛抱じゃ。」
いさじの短い一言に、さ苗えは肌に染み込む草の匂いをかぎながら、ようやく息をつくのであった。さ苗えが田んぼにしゃがみ込み、父の言葉を思い出しながら土をいじっている時、いさじはその目が普通の農婦のそれとはまるで違うと気づいておった。言葉には出せずとも、いさじは妻のうちに何か並々ならぬものが宿っていることを、ぼんやりと感じ取っておった。
ある静かな夜のことであった。いさじが珍しく縁側に腰を下ろし、さ苗えに低く語りかけた。
「さ苗え、もしこの田を思うように任されたなら、どのような田にしたい?」
さ苗えはしばし、月明かりに照らされた田をじっと見つめた。
「この田で取れた米を、貧しいものにも隔てなく施したいのでございます。父がそうであったように。」
いさじは小さく頷いた。
「ならば、いつか必ずそのような田にしよう。」
もう一人、長の妻であるお滝がいた。お滝は年下の嫁であるさ苗えへの扱いを、常々歯がゆく思っておった。姑の目を盗んでは温かい飯を一杯、台所へそっと差し入れ、力仕事いついての仕事も密かに手伝ってくれるのであった。ある夕暮れ、二人並んで鍬を振っていた折のことである。さ苗えは懐から種もみの袋を取り出し、お滝に見せた。
「これは亡き父が私に残してくれたものでございます。凶作の時にも生き延びる種だと申しておりました。」
お滝はその小さな袋をじっと見つめると、さ苗えの手の甲に自らの手をそっと重ねた。
「何があろうと、これだけは必ずお守りなされ。人にとって命のようなものでございますから。」
二人の嫁の手の上に、夕焼けの光が優しく降り注いでおった。
しかし、家のうちに綻びばかりがあったわけではなかった。長の徳次郎は、幼い頃から土だけを触ってきたという仕事の腕を何よりの誇りとする人であった。さ苗えがうっかり田のことを一言でも口にしようものなら、徳次郎はまず鼻先で笑うのである。
「書物を数行読んだくらいで、稲が勝手に育つとでも思うておるのか。」
徳次郎は、綿の水は何としても深く張るべきだという自らのやり方だけを信じておった。おつはそんな徳次郎の言葉ばかりを鵜呑みにした。「田のことには一切口を挟むでない」と、さ苗えは言い返さなかった。それでもさ苗えは田の様子だけは一日も欠かさず見続けておった。水の色、泥の匂い、苗の葉に残る小さな斑点。その全てを胸のうちに刻みながら、誰にも気づかれぬ異変の兆しを探していたのである。
ある時、さ苗えは濁って淀みかけた水と、縄張りに残る稲の葉に浮いた小さな斑点を静かに見つめた。葉の裏に、泡粒ほどの卵が隙間なく張り付いておった。父が安頭の下で教えてくれた言葉が蘇ってまいった。
「このような卵がつけば、温かい風が一度吹く度に虫が倍に増える。」
さ苗えは田んぼの様水路の底に目をやった。土鰍の多い場所では、固くしまった泥が絶えずかき起こされ、水の底に住む害虫も卵も少ない。水の流れる場所ほど淀まず、土には細かな空気の道が通っておった。さ苗えは父の書物を開き、「土鰍が泥を起こし、水中の虫を食う」と記された一文をその光景と重ね合わせた。
「この田の水と土ならば、土鰍に泥を起こさせ、私が卵のついた葉を摘み取れば、稲を守れるやもしれませぬ。」
さ苗えはそう思った。田植えを数日後に控えたある日のことであった。さ苗えはお滝と共に、こっそりと田の脇の浅瀬で土鰍を掬い集めた。冷たい水に手を浸し、泥の中に潜む黒い影を素早く両手で掬い上げるさ苗えの手つきを見て、お滝は驚きながらも声を立てずに笑った。
「子供の頃、隣村の川でよくこうして遊んだものでございます。」
さ苗えは懐かしそうにそう申した。いさじもまた田へ出向き、蛍木の一束と引き換えに土鰍を分けてもらって参った。姑が気づけばまた騒ぎになると知っていた三人は、皆が寝静まった後に密かに桶へ移し、板で蓋をして縁の隅に隠しておいた。田植えの朝を待つ間、桶の中でピチピチと跳ねる音が、三人だけの秘めた約束のように静かに響いておった。
縄張りのそばに家族が集まり、苗を開けていた朝、さ苗えはおずおずと口を開いた。
「今年はあちらの一画の田に限り、苗を植える前に土鰍を放ってみてはいかがでございましょう。虫を抑え、土を柔らげる助けになろうかと存じます。」
その瞬間、家族の手がぴたりと止まった。おつが真っ先に飛び上がった。
「これは本当にこの田を潰す気か。」
徳次郎も人々の前で声を張り上げ、仕事を書物で覚えようとする娘をあげつらった。近隣に住む老農の余平も、袖で口元を隠しながら首を振った。
「潰れた家の娘とは聞いていたが、随分と珍妙な真似をするものよの。」
さ苗えの顔がかっと熱くなったが、唇を噛みしめて耐えた。その時、傍らにいたいさじが静かながらもはっきりと申した。
「家の田全てをかけるのではございませぬ。この一画は私の取り分として、さ苗えに任せていただきたい。」
家族がしばし黙っている間にお滝が、黙って土鰍の入った桶をさ苗えの足元へそっと押し出してくれた。さ苗えは二人の心遣いに静かに頷いた。そうして田の片隅、水が最も遅く抜け澱みやすい場所へ桶を傾け、土鰍を放った。小さな体が慌てふためきながら泥の中へ素早く潜り込み、姿を消してまいった。
数日を置いて、家族はようやく田植えを終えた。さ苗えはその後も毎朝、卵のついた葉を一枚一枚摘み取り、水の色を確かめて回った。しかし、しばらくの間、田には目立った変化は見られなかった。むしろ土鰍がかき回した泥水は、ますます濁ってまいった。それを見た村の者たちはさ苗えのやり方を嘲笑し、おつと徳次郎も口を極めて責め立てた。それでもさ苗えは何も申さなかった。人々がいなくなった後、一人田の縁にうずくまり、田の底へと手を深く差し入れた。土鰍の通った後の土を指先で確かめてみると、餅のように固まっていた泥が、いつの間にかふっくらと柔らかくほぐれておった。
その様子を遠くから見守っていたいさじだけが、幾日か後に何かに気づいた。土鰍を放った田の土が格段に柔らかくなっており、幼い苗の根が力強く土を掴んでいたのである。いさじは誰にもそのことを口にはしなかった。ただ、遠ざかっていく妻の後ろ姿を、長い間見つめておった。
春が過ぎ、いつしか初夏に差しかかった。厚い風に水の生臭さが濃くなっていくのは、間もなく梅雨が押し寄せてくる兆しであった。さ苗えは空の色と風の匂いを静かに確かめると、徳次郎の元へおずおずと近づいてまいった。
「兄上、大雨が来る前に田の水を少し落とされてはよろしいかと存じます。」
徳次郎は呆れたように鼻を鳴らした。
「幼い頃から土ばかり触って生きてきたこの私に、教えようというのか。田の水は深く張るからこそ、稲が太るのだ。」
さ苗えはそれ以上進めなかった。ただ自らの受け持ちの畦の一角を静かに切り崩し、水の逃げ道を開いておいた。田はゆっくりと水を落とし、重くよどんでいた土がようやく息を取り戻してまいった。
そしていく日か後のことであった。黒雲が空を覆い、滝のような雨が昼夜を問わず降り注ぎ始めた。田畑が溢れ、畦が崩れ、村の田が濁流に飲み込まれてまいった。さ苗えはその夜、蓑をまとって田へと駆け出した。雨が容赦なく頬を打ち、足元はぬかるみに沈んで思うように進めなかったが、さ苗えは田に流れ込む水草や折れた枝を必死にかき分け、水の逃げ道を確かめて回った。冷たい泥水が袖の内側まで染み込み、指先の感覚が失われていくほどであったが、彼女の手は止まらなかった。低くなった畦の一角には、藁束と土を積み上げ、崩れを防ごうとした。いさじもまた足を滑らせ、石に打ち付けて痛めながらも、明りを片手に妻の背を覆い、黙々と手を貸してくれた。
「さ苗え、無理をするな。」
いさじがそう声をかけても、さ苗えは首を横に振るばかりで、雨が立ちこめる中を這うようにして水路を切り続けた。お滝は松明を掲げ、二人の足元を照らし続けた。徳次郎はその様子を遠くから見ておったが、「女房が書物で覚えたものに何ができようか」と、結局は手を貸さずに立ち去ってしまった。
その夜、徳次郎はどこにいても眠ることができず、何度も寝返りを打った。雨の音が止まぬ間、自分の田と弟嫁の田のどちらが本当に生き残るのかと考え続け、胸のうちには初めて淡い迷いが差し込んでおった。
夜が明け、泥水が落ち着いてまいりますと、村人たちの顔つきが一人また一人と変わってまいった。徳次郎の田は、深く張っていた水が抜けきれず、そのまま淀んで腐り始めておった。青々としていた稲の葉は、根元から腐ってまいった。一方、さ苗えの田はどうであったか。あらかじめ開いておいた水路を伝って雨がすっと流れ出て、稲が何事もなく立ち尽くしておった。それどころか、根が土の中へさらに深く食い込み、雨風にもびくともせずに耐え抜いておった。田の周りに集まった百姓たちは、初めは言葉もなく、自分の田と青々とした田を見比べておった。ある者は自分の田の惨状を見込み、頭を抱えて動けなくなっておった。ある者はさ苗えの田に近寄り、恐る恐る稲の茎に触れては、まるで熱いものにでも触れたかのように手を引っ込めるのであった。
追い打ちをかけるように、村には病虫害が広がった。根元から腐り折れた稲の葉に、虫が真っ黒にたかり、百姓たちは足を踏み鳴らすばかりであった。ところがさ苗えの田は様子が違っておった。土鰍が水の中の幼虫や落ちた虫を食べ、さ苗えは毎朝卵のついた葉を摘み取っておった。そのため被害は皆無とはいかないまでも、他よりは格段に少なく済んだのである。噂を聞きつけた百姓たちが、一人また一人とさ苗えの田へ集まってまいった。かつて田植えの朝に袖で口を隠して笑っていた余兵衛が、震える手で稲の株をそっと触ってみた。太く逞しい稲の茎が手のひらの中でびくともせず、余兵衛は思わず息を飲んだ。さ苗えはその傍らで、ただ淡々と田の水を見つめておった。
「水路が生きれば、田も生きまする。」
誰もすぐには言葉を継ぐことができなかった。その光景を遠くから見守っていたいさじの目にも、その時ようやく確かな手応えが宿った。
噂は足のない言葉となって、村の外まで広がってまいった。
「あの家の嫁が土鰍で凶作を防いだそうな。」
「あの嫁とは、かの潰れた郷様のご息女だそうではないか。」
米問屋の大海、そう衛門がその名を耳にしたのは、まさにその頃でありました。算盤の駆け引きをしていたそう衛門の手が、ぴたりと止まった。顔つきが陰のように沈んでまいった。
「早川殿の娘がまだ生きておったとは。」
そう衛門は低く呟くと、すぐに傍らの下男を手招きいたした。そして誰にも聞かれぬよう、何事かを密かに命じたのである。
数日後、田で働く徳次郎は、見知らぬ商人風の男に呼び止められた。
「いさじ殿の嫁は、なかなかの田作りの腕前だとか。村中が褒めそやしておりますぞ。」
男はそう持ちかけた。徳次郎は思わず色めき立った。
「あの田をよくしたのは、あの嫁一人の手柄ではない。田植えのやり方も水の見張りも、この私が仕込んだようなものだ。」
徳次郎は胸を張ってそう言い放った。男はさらに水を向けた。
「ほう。して、あの家に伝わるという種もみは、今もあの弟の嫁が肌身離さず持ち歩いておられるのか。」
徳次郎は己の手柄を誇りたい一心で、「いや、種は屋敷裏の田で密かに増やし、取れたものは納屋の奥にしまっておる」と、問われるままに語ってしまった。それが大海そう衛門の差し金であったとは、徳次郎はその時、夢ほども気づかずにいた。
その日、田でさ苗えもそう衛門の姿を見かけた。米表の向こうにぼんやりと見えたその顔を、さ苗えは一目で見分けた。かつて証文を振りかざして父を追い詰めた、あの男であった。あの日庭で声を荒げていた父の背中、そして力なく崩れ落ちていった父の姿が、まざまざと胸に蘇ってまいった。胸のうちから何か熱いものが込み上げてまいった。さ苗えは懐の種もみの袋をそっと握りしめた。指の節が白くなるほど握りしめ、奥歯を強く噛みしめたけれども、まだ時ではなかった。そう衛門の罪を明らかにする証は、さ苗えの手には一片もなかったからである。
「父上、今しばらくお待ちくださりませ。」
さ苗えは心のうちでそう呟くと、込み上げる思いを静かに飲み込み、物も言わずに踵を返した。
そうしていく日かが過ぎた。最初に訪ねてきたのは、古びた証文を抱えた隣村の老農であった。三年前に大海から借りた米は返し終えたはずなのに、倍の借財が残ると言われ、田の半分を奪われたと申すのである。さ苗えが証文を改めると、書き足された文字の墨色も、後から押し直された判の歪みも、父を落とし入れた証文と同じであった。
「必ず無駄にはいたしませぬ。」
さ苗えはそう約束し、控えを取り置いた。その翌日には、隣村の若い百姓が土鰍を用いた田作りを教わりに訪れた。さ苗えは金の一文も取らず、水の見方と土鰍を放つ時期を丁寧に教えた。その恩が隣村へ伝わると、田作りを学びたい者だけでなく、古い証文を確かめて欲しいという百姓まで、次々にさ苗えの元へ集まるようになった。さ苗えがいくつもの証文に同じ書き足しと判の偽りを見つけると、人々は己の証文を持ち寄り、大海に奪われた田のことを囁き合い始めた。
その噂が村の外にまで届いた時、そう衛門はようやくことの重さに気づいた。「あの女が村中の古い証文を解き明かせば、十数年の所業が白日のもとにさらされる」と、そう衛門の顔つきは冷たく強張ってまいった。捨て置いてはならぬことであった。そう衛門は動き始めた。下男たちを放ち、たちの悪い噂を流させた。
「あの嫁は怪しげな術で田を作っておる。」
そう衛門はそれだけでは終わらなかった。自ら足を運び、おつの元を訪ねたのである。
「お姑さん、これは老婆心から申し上げることでございますが、あの早川の娘の言うことばかりを信じて従い、あれほどの家を一夜にして潰したのでございますよ。」
滑らかな嘘が、おつの耳に染み入ってまいった。それまでおつの胸にも、小さな迷いが芽生えかけておった。大雨の翌朝、青々と立つさ苗えの田を見て、思わず膳に一番多く飯を盛ってしまったことがあった。誰のためとも言わず、それをそっと台所の隅に置いたのである。家族がそれを見つけ、驚いて礼を申し上げようとすると、おつは慌てて背を向け「たまたま多く盛っただけじゃ」と棒に言い放って、奥へと引っ込んでしまった。また別の日、井戸端で誰かがさ苗えを「薬師の嫁」と呼んだ時には、おつは思わず「いい加減にしなさい」とその者を睨みつけたこともあった。睨みつけたおつ自身も、己の口から出た言葉に驚いたような顔をしておった。しかし、そう衛門の一言がその芽生えかけた迷いを、再び冷たく凍りつかせてしまったのである。
その日からおつは、さ苗えを一層厳しく扱うようになった。村の者たちの間にも、目に見えて変化が現れてまいった。井戸端でさ苗えが近づくと、それまで話し込んでいた女たちが、不意に口を噤むようになった。かつて田のやり方を教わりに来ていた者の一人が、ある朝、死んだ土鰍を一匹、さ苗えの家の戸口にそっと置いていったこともあった。村の米屋の中には、「あの女の田で取れた米など、秋になっても決して買い取らぬ」と触れ回る者まで現れた。ある日、井戸端で幼子を連れた母親がさ苗えの姿を見るなり、慌てて我が子の手を引き、遠回りをして立ち去っていくこともあった。かつて震える手で稲の株に触れ、素直に驚いていたはずの余兵衛でさえ、道の向こうにさ苗えの姿を認めると、気まずそうに顔を背けて道を折れてしまうのであった。噂と疑いが、一人の娘の頭に同時に降り注いでおった。
それでもさ苗えは、頭を垂れることはなかった。
ある夜、月も雲に隠れた暗がりの中、徳次郎は胸騒ぎを覚え、一人田の様子を見に出かけた。あぜ道の暗がりに差しかかった時、徳次郎は太い人影に気づいた。田の際に蹲み、何かを探るように見回す、三人の男たちがいた。徳次郎が息を殺して物陰に身を潜めると、男たちはひそひそと低く言葉を交わしながら、立ち去っていった。
「あれは大海の下男ではなかったか。」
徳次郎の背筋に冷たいものが走ったが、弟の嫁の田を害する下調べであったとは、その時にはまだ思い至らず、誰にもこのことを語らなかった。
いさじは気づいておった。「そう衛門はさ苗えを単に狙っているのではございません。恐れておるのでございます。恐れに取り憑かれたものは、何をしでかすか知れたものではございません。」ある夜、いさじが静かに口を開いた。
「さ苗え、どうやらそう衛門はこのまま黙っておらぬぞ。」
さ苗えは安頭の下で種もみの袋を撫でながら、静かに顔を上げた。
「焦るものほど、大きな足跡を残すものでございます。そう衛門も急げば急ぐほど、己の足跡をさらに深く残すことになりましょう。」
ついに、ことが起こってしまった。おつが縁側に踏み込み、さ苗えが大切に抱えてきた書物を引ったくった。
「この忌々しい書物が、我が家に禍を呼び込んでおるのじゃ。」
そのまま台所へ向かい、赤々と燃える竈の火の中へ、書物を投げ込んだ。書物はたちまち炎に包まれてまいった。さ苗えが我が知らず竈へ駆け寄ろうとした、まさにその瞬間である。先に身を投げたのは、いさじであった。
「なりませぬ母上!」
いさじは素手を炎の中へぐっと差し入れ、焼けかけた書物を引きずり出した。手の甲が赤く爛れ、水膨れが浮き上がってまいったが、いさじは書物を胸に抱え込んだまま、一歩も動かなかった。
「この書物は、我が妻の亡き父上が残されたものでございます。」
焦げた表紙の煙が、部屋中に立ち込めてまいった。さ苗えは震える手で、いさじの爛れた手の甲を支えた。その時、思いもよらぬ人が声をあげた。かつて一度も姑の前で口を挟むことのなかったお滝が、この時初めてさ苗えの前へと立ち塞がったのである。
「母上様、どうかお心をお沈めくださりませ。さ苗えが何の悪いことをしたと申されます。ご覧くださりませ。村中が凶作に苦しんだ時、我が家の田だけが生き残ったではございませぬか。」
声を発しながら、お滝の膝はかすかに震えておった。この一言で己が姑からどれほどの咎めを受けるか、覚悟の上での物言いであった。おつは一瞬言葉を失ったが、持ち前の意地からさらに声を荒げ、裾を捌き返して奥の間に上がり、ぴしゃりと戸を閉めてしまった。その夜、お滝は誰にも気づかれぬよう、いさじの焼けた手に効くという膏薬を、こっそりと部屋の外に置いておいた。
その一方で、徳次郎は密かにさ苗えの田を見て回っておった。足の裏に触れる土は、己の田の固い土とは違い、しっとりと生き生きとしておった。徳次郎はしばし言葉を失った。あの夜、田に見た怪しい人影の記憶が、また胸をよぎった。「もしやあれは、この田を狙った者どもではなかったか。」徳次郎の胸に、初めて言い知れぬ不安がよぎった。それでも人が通りかかると、徳次郎はすぐさま顔を背け、「たまたま運が良かっただけよ」と呟くのであった。
その頃、そう衛門は動いておった。そう衛門は最も親しい下男たちを、暗い部屋へと呼び集めた。そして石灰と小石を混ぜた白い水を詰めた壺と、腐らせた油粕の袋をそっと差し出した。
「田を潰すだけでは足りぬ。あの女の心根まで、踏みにじってやらねばならぬ。」
下男たちは頷き、闇の中へと散っていった。
その夜のことであった。月は厚い雲に隠れ、辺りは指先も見えぬほど暗かった。黒い影がいくつも田の畔に忍び込み、覆いをかけた松明の明りを足元だけに落としながら、石灰と小石を混ぜた白い水を絶え間なく注ぎ、腐らせた油粕を撒いてまいった。壺を傾けるたび、石灰混じりの白い汁が田に散り、水の底を汚した。田の水は次第に白く濁り、土鰍たちは逃げ惑うように水面へ浮かび上がってまいった。
隣村で病後見の世話をして戻る途中であったお滝が、その光景を目撃してしまったのである。お滝が茂みに身を伏せた時、一人の男が松明の覆いをわずかに上げた。その光が横顔を照らし、頬に走る古い傷跡が一瞬だけ浮かび上がった。お滝は息を殺して後ずさると、身を翻して家へ駆け戻った。真夜中、息も絶え絶えに、傷跡のある男の子と、田に白い水を流し込んでいたこと、石灰混じりの白い汁が跳ねたことを、震える声で語ったのである。
さ苗えの顔が強張った。いさじとさ苗えはすぐさま松明を手に、田へと駆けつけた。田は無惨なあり様であった。湛えていた水は白く濁り、丸々と太っていた土鰍たちが白い腹を見せて浮いておった。さ苗えは田の縁に膝まづき、濁った水に指先を浸してみた。
「誰かが石灰を撒いたのでございます。」
藁の跡には見慣れぬ足跡がいくつも入り乱れておった。それも一人や二人ではなく、少なくとも三、四人は入り込んだ後でござった。さらにその泥には、小さな木の札が半ば埋もれておった。さ苗えが泥を拭うと、大海の屋号が夜目で刻まれておった。足跡とお滝の証言、そしてこの木札だけでは、そう衛門本人の指図まで明らかにすることはできませぬ。それでも、大海の手がこの田に伸びていることだけは間違いないと、静かに言い切った。
いさじが拳を固く握りしめた。
「すぐさま奉行所へ参ろう。」
しかし、さ苗えは首を横に振った。
「まだ時は未熟でございます。あのものが自ら、もっと深い足跡を残すように向けねばなりませぬ。」
翌日から、さ苗えはわざと田がすっかり潰れたかのように振る舞った。お滝も井戸端で慎重にその噂を漏らした。足のない言葉は、またたく間に村中へと広がってまいった。その噂は徳次郎の耳にも入った。「あれほど生き生きとしていた田が、一夜でダメになるとは。」どうにも信じがたく、ふとあの夜見た怪しい人影のことが再び頭をよぎった。徳次郎は我慢ならず、こっそりと町へ出て、あの時声をかけてきた商人風の男の姿を探した。すると案の定、その男の姿は大海の店先で下男たちに指図しておった。徳次郎の背筋が凍りついた。
徳次郎はその夜、いさじとさ苗えの前で洗いざらいを打ち明けた。あの日、商人風の男に持ち上げられ、何気ない世間話のつもりで、屋敷裏の種を増やし、取れたものを納屋の奥にしまっていることまで口にしてしまった、と。
「まさか弟の田を、いやその命までこれほど危うくするとは思いもよらなんだ。」
徳次郎が深く頭を下げると、さ苗えはしばらく黙ってから顔を上げた。
「この男が種のありかまで訪ねたのであれば、次に狙うものは一つしかございません。父の種でございます。」
いさじは何も言わず、徳次郎の方を一度だけ強く見据えた。
翌朝、いさじは名主と徳次郎を伴い、奉行所へ訴え出た。御領下では奉行が代わり、新たに着任した奉行が前任者の頃に退けられた古い訴えを、改めて調べ始めていた時期であった。いさじは田に残された足跡と、お滝が見た人影、徳次郎が種のありかを漏らしてしまった経緯を詳しく述べた。徳次郎も、町で接触してきた男の顔を自ら証言した。奉行はしばし顎髭を撫でると、「次に狙われるという種を取り上げて、下調べの者を抑えるよう」と、役人へ密かに命じたのである。
かくして、役人たちは種もみを納めた納屋の周囲へ身を潜めた。さ苗えが行く年もかけて取り継いできた種は、納屋の奥に置かれたいくつかの袋に過ぎなかったが、それこそが父より受け継いだ何より大切な宝であった。本物の種はあらかじめ安全な場所へ移し、納屋には種もみに見せかけて詰めらせた砂を入れた俵を積んだ。さらに納屋の床には濡らした砂を敷き詰め、周囲には水桶をいくつも用意し、役人たちは火の始末にも備えた。全ての罠は仕掛けられた。あとは、そう衛門の最後の一手を待つばかりであった。
その夜、闇に紛れて黒い人影が再び動き始めた。そう衛門の下男たちが松明を低く掲げ、種もみを収めた納屋へと密かに忍び込んでまいった。
「これさえ焼き払えば、終わりじゃ。」
一人の男が松明を藁へと近づけようとした、まさにその瞬間である。
「動くな。」
暗がりから役人たちがずらりと出てまいった。驚いた下男の手から松明がぽとりと落ち、湿った砂の上でじっと音を立てて消えていった。控えていた役人が素早く水を浴びせ、火の粉はまたたく間に消し止められた。下男たちはもがいだが、すでに四方はすっかり取り囲まれており、その場で一人残らず捕らえられてしまった。初めのうち、下男たちは互いに罪をなすり付け合い、なかなか口を割らなかった。しかし徳次郎が進み出て、「この者は町で己に近づいて参った男でございます」と、頬の傷跡を指し示した。言い逃れのできない証言に、若い下男の一人がわなわなと震え出した。
「お許しくださいませ。全ては米問屋、大海そう衛門様のお指図でございました。」
奉行所は直ちに命を下した。
「すぐさま、そう衛門の屋敷を隅々まで改めよ。」
かくして、役人たちがそう衛門の屋敷を改めると、表向きの帳面とは別に、長持の底から裏帳と偽りの判、証文を書き換えるための道具が見つかった。裏帳には、実際に渡した米の量、田を取り上げた家の名、金を渡した書き役の名が、一つ残らず記されておった。さらに調べを進めるうち、かつて大海で帳面をつけていた手代の所在も明らかとなり、奉行所はその者を召し出した。貸付けの日付は村の米受け払い帳と大海の表帳を照らし合わせて確かめられ、証人の死亡は寺の過去帳で確認された。真の早川の判は、早川がかつて名主へ差し出した古い証文に残る判と比較され、偽の判にだけ同じ疵があることも判明した。幾つにも重なった小さな疵は、もはや誤りを押し通せるものではなかった。
さきの日、名主はさ苗えの調べ上げた証文を奉行へ差し出した。
「この証文の偽りを見抜いたのは、後ろに控える者にございます。」
奉行が謁見を許すと、そう衛門は「女子の申すことなど、戯言に過ぎぬ」と鼻で笑った。奉行は「ならば、その戯言とやらをこの場で確かめよう」と命じた。さ苗えは膝をついたまま、五斗の受け取り書が五石の借用証文へ書き換えられていること、偽の判に同じ疵が残っていること、記された貸付けの日が米受け払い帳の日付より前であること、証人がその日にはすでに亡くなっていたことを、一つ一つ言葉を尽くして示してまいった。名主は真の早川の判が残る古い証文を、寺の住職は過去帳を、手代は裏帳と偽りの判を差し出した。そこへ召し出された手代が、そう衛門の命で数字を書き足し、当時の書き役へ金を渡したことを、震える声で白状した。さらに田を奪われた百姓たちが次々と進み出ると、そう衛門は「これは己を落とし入れる計略だ」と言い張ったが、その声はもはや誰の耳にも届かなかった。
数日に渡る吟味の末、奉行は裁きを下した。
「不正に得た米と財産の全てを没収し、偽りの証文を改めた上で、元の持ち主へ返してやれ。」
そう衛門はそれでもなお言い逃れを試みたが、その声は百姓たちの怒りのうねりの中に埋もれてしまった。そう衛門はついに役人に両腕を抑えられ、見守る者たちが見守る中、牢へと引き立てられていった。あの傲慢であった背中が、初めてがっくりと落ちておった。
裁きの後、奉行所から早川の田畑を返付する旨の証文が下され、名主はそれをさ苗えに手渡した。さ苗えは、いさじと共にかつて父の田であった場所へ足を運んだ。あぜの隅には、幼い日に父が印を刻んだ古い杭が、今もひっそりと立っておった。その田は、大海の小作人によって耕やされていたものの、水路は荒れ、土は固く痩せておった。さ苗えが指を深く差し入れると、その奥にわずかな湿りと、幼い日に嗅いだ懐かしい土の匂いが残っておった。さ苗えは土を手のひらに乗せ、静かに目を閉じた。
「まず、水路を立て直しましょう。この田は必ず、もう一度実りを迎えさせます。」
そう言うといさじと共に、固く痩せた土へ鍬を入れ始めたのである。
そう衛門が引き立てられていく数日後のことであった。おつが静かに縁側に入ってきた。そしてさ苗えの両の手を引き寄せ、自らの手のうちにそっと包み込んだ。
「私が……私が人を見誤っておった。」
おつの両の目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちてまいった。
「私はお前を守ろうとしたのではない。娘を救えなかった恐れを、お前にぶつけておったのじゃ。あの子が出戻り先を追い出され、この家へ戻ってきた日、私は何もしてやれなんだ。門の前で泣き崩れる娘を家に入れることもできず、立ち去る姿をただ見送ることしかできなんだ。それが恐ろしくて、恐ろしくて、二度と同じ思いはすまいと、気づけばお前を真っ先に抑えつけておった。」
さ苗えは何も言うことができなかった。ただ、おつの震える手をそっと握り返すばかりであった。
徳次郎も、もはや異を張ろうとはしなかった。村の者たちが見守る中、徳次郎は深々と頭を下げた。
「私が間違っておった。それに、あの日、余計なことを口にしてしまったのも、この私じゃ。お前の田も命も危うくするところであった。すまなんだ。」
いさじはそんなさ苗えの傍らに、ただ黙って寄り添っておった。あの火傷の痕を追う手で、妻の手をしっかりと握っておった。
お滝は、さ苗えの肩をそっと叩いた。
「『人には根というものがある』と申したではないか。お前の根がついにこうして実を結んだと、私は最初から存じておったぞ。」
二人の嫁は互いを見つめ合い、目に涙を溜めた。姑に疎まれていた頃、姑の目を盗んで温かい飯を一杯差し入れてくれた手が、今や連れ立って豊作の秋を迎えようとしておった。
田を取り戻してから最初の年、二人は固くなった田を起こし、荒れた水路を直し、傷んだ家の屋根を葺き替えることに力を尽くした。そして翌年の秋、早川の田の一面が、羨むほどの実りを迎えた。頭を垂れた稲が風になびき、黄金の波のように揺らめいておった。さ苗えは手元に残った米の中から、食に困る家を選んで施してやった。二年目、三年目と実りが続くうちに、土鰍を用いた田作りを学びたい者も増え、さ苗えは種もみや土鰍を分けるようになった。裕福な家からは謝礼を受け取り、貧しい家には無理に求めぬというやり方は、次第に村の外へも知れわたってまいった。
五年、七年と歳月が過ぎる頃には、いさじの家は村でも人に頼られる家となり、荷がいくつも積み上がるようになっておった。しかし、さ苗えはその豊かさを誇ることは一度もなかった。さ苗えはやがて村に小さな種倉を建てることを思い立った。豊かな年に実った種を倉に収め、凶作の年には困った家から順にこれを貸し与える。実りのあった年には少しばかりを返してもらうが、不作の家には無理には求めぬという定めであった。お滝がその倉の帳面を預かり、徳次郎は水路の見回りを引き受け、いさじは町での交渉を担った。さ苗えはというと、毎年届く種の粒を一つ一つ改め、良し悪しだけを選り分けるのであった。かつて教えを乞いに来た千吉も、隣村から種倉の手伝いに通うようになっておった。かつてさ苗えを嘲笑っていた百姓たちも、今では自ら進んでこの種倉の仕事を手伝うようになっておった。
かつての朝に嘲笑い、豊作の田に驚き、そして疑いの噂が広まった時には気まずそうに顔を背けていたあの余兵衛も、ある日、種倉の手伝いに来てくれた。
「さ苗え様、あの時はすまなんだ。人を見る目がなかったのは、この年寄りの恥でございました。」
余兵衛はそう言って、深々と頭を下げた。それからというもの、誰よりも熱心に種倉の仕事に励むようになったのである。
ある日、おつは種倉の鍵を自らの手で手渡した。
「この鍵は、これよりお前が預かるが良い。この家の……いや、この村の宝じゃ。」
そう申した後、おつはもう一つ、布に包んだものを差し出した。それは、焼け焦げたページを一枚ずつ綴じ直した、半兵衛の書物であった。読めなくなった箇所は、残るページとさ苗えの記憶をもとに、村の書き役へ頼んで書き移させたのである。さ苗えは表紙に残る黒い焦げ跡を指でそっとなぞり、何も言わずに深々と頭を下げた。かつて誰よりも厳しく当たっていた姑が、今では誰よりも先立って、さ苗えを支えるようになっておった。
歳月が流れた、ある秋の日のことであった。さ苗えは両親の墓を訪れた。墓の前に静かに膝をつき、懐から種もみを一握り取り出して備えた。
「父上、あの日の約束を、ようやく果たしました。」
さ苗えは顔を上げ、足元に広がる黄金色の田を見つめた。果てしなく穂を揺らす稲穂の向こうに、温かな秋の日が降り注いでおった。その広々とした田には、今も土鰍が泳いでおる。土を起こし、虫を捕えながら、村の豊作を毎年共に見守り続けているのである。
年月がさらに流れ、村の子供たちは田で遊びながら、いつしかこう語り合うようになった。
「昔、土鰍を田に放ち、村を飢えから救った娘がおったそうな。誰もが馬鹿にしたけれど、その人だけは土の声を聞いていたのだと。」
誰が語り始めたとも知れぬその言い伝えは、村の年寄りから、孫から、またその子へと、静かに語り継がれていくのであった。
良い種は、凶作の時にも生き延びるもの。そして良い人もまた、どれほど厳しい時にも、最後には生き延びるものであった。風が吹き抜けるたび、田の穂はサラサラと音を立てて揺れておる。その音に耳を澄ませば、遠い昔、安頭の下で娘に土の匂いを教えた父の声が、今もどこかに残っているような気がしてまいる。
父は、嘘をつきませぬ。人もまた、そうありたいものである。



