あの一言で空気が凍りついた。「フリーダンスって、要するにニートのことじゃないの?」週末、大学時代の友人に頼まれて合コンの人数合わせに行った俺は、初対面の令嬢にそう言い放たれた。隣でスーツ姿の男たちが言葉を失い、俺は苦笑いするしかなかった。そこへ店の奥から現れたのは、今をときめく若手歌手の星野彩佳だった。彼女は俺を見るなり驚いたように言った。「あれ?作曲家さん、どうしてここに?」周囲の視線が一…

あの一言で空気が凍りついた。「フリーダンスって、要するにニートのことじゃないの?」週末、大学時代の友人に頼まれて合コンの人数合わせに行った俺は、初対面の令嬢にそう言い放たれた。隣でスーツ姿の男たちが言葉を失い、俺は苦笑いするしかなかった。そこへ店の奥から現れたのは、今をときめく若手歌手の星野彩佳だった。彼女は俺を見るなり驚いたように言った。「あれ?作曲家さん、どうしてここに?」周囲の視線が一...

令嬢の一言で空気が凍りついた。「フリーダンスって、要するにニートのことじゃないの?」週末、大学時代の友人に頼まれて合コンの人数合わせに駆り出された俺は、初対面の令嬢にそう言い放たれた。隣でスーツ姿の男たちが言葉を失い、ホスト役の木本さえもたじたじと目をそらす。俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。どうやら場の空気は良くなる気配がない。「じゃあ、俺は失礼するよ」軽く会釈をして出口へ向かおうとしたその時、店の奥から現れたのは、今を時めく若手歌手の星野彩佳だった。彼女は俺の姿を捉えると、驚いたように口を開いた。「あれ?作曲家さん、どうしてここに?」周囲の視線が一気に集中する。さっきまで俺をニート呼ばわりしていた令嬢たちが、目を丸くして固まっていた。

俺は杉崎悠都。フリーランスとして音楽関係の仕事をしている。世間一般の自由でクリエイティブなイメージとは少し違って、実際は細かいスケジュール管理や雑務に追われる日々だ。収入も安定しないが、子供の頃から好きだった音楽をどうにか職にできていると思うと、やりがいを感じてしまうのも事実だ。今日はようやく一区切りのついた案件があって、解放感を味わっていた。徹夜明けで体はバキバキだ。さっさと帰って眠りたい。そう思って町を歩いていると、ふと肩を叩かれた。「おい、悠都じゃないか」振り返ると、大学時代の同級生、木本匠が立っていた。彼は当時から優秀で、卒業後は弁護士になったと聞いている。キリッとしたスーツ姿は相変わらずだ。「どうしたんだ、こんな時間に」「ちょっと用事があってな。お前こそ珍しいじゃないか」「まあ、色々あってな。ところで、お前今時間あるか?」そう言って彼はにやりと笑った。この顔をする時の木本は、大抵ろくなことを考えていない。学生時代からの付き合いで、俺はなんとなく勘が働いてしまった。「悪いけど、今日はさっさと帰って休みたいんだ」「そんなこと言わずにさ。実は今から合コンなんだよ。人数足りなくて困ってるんだ。うちの事務所の連中と、ちょっとした令嬢のお仲間たちって感じだけどな」「それはまた随分と派手なメンバーだな」木本の話では、今夜は彼の仲間が主催する合コンらしい。正直、自分がそんなキラキラした場に混ざっていいのか疑問だった。スーツを着こなしている彼らに比べると、どう考えてもラフすぎる格好だ。「俺は場違いだろう」「そこをなんとか。あと1人だけ男性枠が空いてるんだ。それに俺たちは学生時代からの仲じゃないか。頼むよ」正直行きたくはなかったが、木本の必死な顔と昔からの縁を無にするのも気が引ける。少し顔を出して、ほどほどのところで切り上げればいいかと妥協することにした。

向かった先は、都心の中心街にある高級感漂うバーだった。落ち着いた照明の下で、すでに数人がシャンパン片手に談笑している。弁護士風の男たちと、ドレスアップした華やかな女性たち。全員がきっちりと準備してきているのが一目で分かる。俺が挨拶をすると、その中の1人、華やかな予想衣の女性が目を丸くして俺の服装を上から下までチェックした。彼女の名前は佐田梨花と言うらしい。かなり大手の会社の令嬢だそうだ。「ちょっと失礼だけど、そのラフな格好、あなたも弁護士か何か?今日は弁護士限定のはずなのに」「いや、俺は弁護士じゃない。ただのフリーランスさ。普段は音楽関係の仕事をしていて、まあ今日は誘われて急遽来ただけなんだ」俺としては丁寧に答えたつもりだったが、彼女は明らかに不機嫌そうな顔で鼻を鳴らした。「フリーランス?音楽?要するに定職についてないってことでしょ?ニートみたいなもんじゃないの?」言い返すのも馬鹿らしい。俺はスルーしようとしたが、彼女はさらに言葉を続けた。「私たちはさ、きちんと資格を持って頑張ってる人たちと飲みたいわけよ。ていうか、なんでこんなの連れてきたの?木本さんも説明不足だったんじゃない?これじゃせっかくのお席が台無しだわ」場の空気が一気に重たくなる。木本が慌てて俺を見た。「すまん、悠都。本当に知らなかったんだ。許してくれ」俺は軽く手を挙げて答えた。「別にいいよ。木本、気にしないでくれ。そもそも俺も疲れてて、あんまり長居するつもりなかったし」正直、ここまで言われても怒りが湧いてこなかったのは、徹夜明けで思考回路が鈍っていたのと、こういう場に呼ばれたらこうなることも覚悟していたからだろう。俺は席を立った。「ありがとうな、木本。せっかく呼んでくれたけど、俺やっぱり帰るわ。お前らの迷惑になるしな」そう言って、バーの出口へ向かおうとした。背後から令嬢の「まあいいわ。貧乏バイト相手にしてもね」という声が聞こえた気がしたが、気にする余力はもうなかった。

その時だった。「あれ?もしかして、歌手の彩佳じゃない?」店の奥から突然ざわめきが起こり、俺は思わず振り返った。カウンター近くの席から、すらりと立ち上がった女性がファンらしき客たちに取り囲まれ始めている。小顔で華やかな雰囲気。今、急上昇中の人気を誇る新人アーティスト、星野彩佳だ。配信限定でリリースした楽曲がチャートを席巻し、絶大な支持を集めている。すると彼女は、ちらりとこちらに目をやった。視線が交わった瞬間、彼女は「え、あの、もしかして」と俺の顔をじっと見つめた。「プロデューサーさん、杉崎さんですよね?」俺が「え?ああ、うん」と間の抜けた返事をすると、彼女はマスクをずらしてにっこりと笑った。その笑顔が合図だったかのように、周囲でどよめきが起こる。「知り合いなの?」「ちょっとすごくない?」彼女は店内のみんなに向かってぺこりと頭を下げると、はっきりした口調で言った。「杉崎さんは、私が歌っている曲を書いてくれた作曲家さんで、プロデューサーでもあります」一瞬、会場が静まり返った。さっきまで俺を馬鹿にしていた連中が、嘘のように目を丸くして固まっている。彩佳はそんな様子に戸惑ったように首をかしげた。「皆さんは、杉崎さんのお友達ですか?」「え?ああ、一応そういうことになる」俺が適当に答えると、令嬢や弁護士たちが焦ったように目を泳がせる。「杉崎さんには本当にお世話になってるんです。私がこうしてたくさんの人に聞いてもらえるようになったのも、杉崎さんの素敵な曲のおかげなんです」すると、他の客たちが「やっぱり星野彩佳だ!」とサインを求めて殺到し始めた。あっという間に店内はパニック寸前だ。彼女はファンを大切にするタイプだから、無下に断ることもできない。しかし、このままでは彼女が潰されてしまうかもしれない。俺はなるべく落ち着いた口調で周囲に呼びかけた。「すみません。彼女も疲れてますから、また別の機会にお願いします。星野さん、こっちへ」そう言って彼女の腕をそっと引き、人混みの隙間を縫って扉の方へ向かう。そのままバーの外へ急いだ。夜風を受けてようやく一息つく。彩佳は少し息を上げているが、その瞳にはほっとした色が浮かんでいる。「助かりました、杉崎さん」そう言って、彼女は小さく息をついた。「いや、俺こそ。それより大丈夫か?押されたりしてなかったか?」「はい、大丈夫です。でも杉崎さん、あれ、友達じゃないですよね?合コンに参加してるなんて、意外そういうのをやるんですね」彩佳はちらりと俺の顔を伺い、どこか呆れたような笑みを浮かべる。「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺が好きで参加したわけじゃないんだ。同級生に無理やり連れて来られただけなんだよ」「ふうん」彩佳は目を細めて、相変わらず呆れ気味だ。「ところで、彩佳はなんであんな店に?」俺が話題を切り替えるように尋ねると、彼女はこくりと頷いた。「はい。レコーディングのことでスタッフと食事がてら打ち合わせしてたんです。終わって店を出ようとしたら、あっという間にバレちゃって。私まだテレビ番組とかにはほとんど出てないのに、ネットで顔を知られすぎてるから、なかなか隠れにくくて」「そうか。いつも大変だな」話しているうちに、彼女の緊張した様子が少しずつ溶けていくのが分かった。「それにしても、最近の曲もすごい反響ですよ。私のSNSにリプやコメントが絶えなくて、毎日通知が爆発してるくらい」彩佳は嬉しそうに言う。「うん。君は本当にすごいよ。どんどん人気が出てきてるし、このままトップアーティストになってもおかしくない勢いだ」俺がそう返すと、彼女は「私じゃないです」と首を振った。「杉崎さんがすごいんです。私がこうして人気になったのも、杉崎さんが書いてくれた曲があったから。最初に声をかけてもらえなかったら、私はずっと売れない歌手のままだったかもしれません」「そんなことはないさ。ただたまたま路上で歌ってる君の声がすごく良くて、歌ってみないかってお願いしただけだろ」「それが大事なんです。あの時拾ってくれなければ、私今の事務所にも入れなかったし。本当に感謝してます」彩佳は照れくさそうに笑いながら視線を外す。こうしてお礼を言われると、なんだか居心地が悪い。俺はあくまで曲を作っただけで、歌うのは彼女自身。ここまで人気を得られたのは、彩佳の並外れた才能と努力の結果だ。「ま、俺の方こそいい歌い手に出会えてラッキーだったよ。これからも一緒に頑張ろうな」「はい。あ、もうこんな時間。そろそろ帰らないと」スマホの時計を見た彼女が、少し残念そうに言った。どうやら向こうのタクシーが近くまで来ているらしい。「じゃあ行くか。ここら辺は夜も遅いし、変な連中に見つかってまた騒ぎになるのは勘弁だしな」「はい。杉崎さんこそ、帰り大丈夫ですか?まだ合コンの人たちが待ってたりして」「いや、行かないよ。もうたくさんさ。とにかくお互い気をつけて帰ろう」そう言って手を振る彩佳は、さっきバーでファンに囲まれていた時とはまるで別人のようだった。

それから数日後、俺は都内の小さなスタジオで彩佳と新曲のアレンジについて打ち合わせをしていた。彩佳は以前よりもずっと生き生きと意見を交わすようになっていた。売れ出したばかりの頃は少し控えめだったが、人気が高まるにつれて自分の表現に自信を持ち始めているのが伝わってくる。アーティストとして確かな成長だし、俺としても頼もしい限りだった。レコーディングの準備を進めていると、不意にスマホが震えた。画面を見ると、見覚えのない番号だ。「もしもし、杉崎さん?わ、私、佐田です。あの、先日のバーで失礼なことを言ってしまって」一瞬、誰だろうと考える。だが「バーで失礼なことを言った」という言葉でピンときた。あの令嬢、佐田梨花か。「佐田さんか。よく俺の番号が分かりましたね」「木本さんに聞きました。勝手に連絡してしまってすみません。でも、どうしても謝りたくて」電話越しの声は上ずっていて、バーで見せた高飛車な態度とはまるで別人のようだ。「いや、俺の方は別に気にしてないよ。もう済んだことだし」「そ、それでもあの時は本当にごめんなさい。杉崎さんがこんなにすごい作曲家さんだと知らずに、ニート呼ばわりなんて」「や、謝ってもらうほどのことでもないよ。俺の方も間違ってましたし」実際、当時はさほど傷つかなかったが、彼女の方はどうやら深刻に捉えているようだ。「とにかく直接お詫びをさせてください。今どこにいらっしゃるんですか?もしご迷惑でなければ、すぐ伺いたいんですけど」仕事の途中だが、彼女がわざわざ謝罪に来るという。ここで断ってまた面倒なことになっても困る。「分かりました。今、都内の桜ワークスってスタジオにいる。大通り沿いだから、タクシーでもすぐ見つかると思います」それから1時間ほど作業をしていると、スタジオの入口がノックされた。通されたのは、前回とは打って変わってシンプルな白いブラウスに落ち着いたタイトスカート姿の梨花だった。厚化粧でもなく、派手なアクセサリーも身につけていない。まるで普通のOLのような出で立ちで、彼女がやたらと緊張しているのが伝わってくる。「この間は、本当に申し訳ありませんでした」彼女はそう言うなり、深々と頭を下げた。そこにはちょうど休憩中の彩佳もいたので、俺は軽く肩をすくめながら紹介する。「星野彩佳です」「初めまして、星野です。先日はちゃんとご挨拶できなくてすみませんでした」梨花は改めて頭を下げた。「えっと、本当にあんな態度を取ったことを反省してます。あの夜は正直、私も仕事で色々あって。今更言い訳にしかなりませんけど、余裕がなかったんです。それでも、ニート呼ばわりまでしたのは言い訳できません」本人なりに一生懸命なのが伝わる。今更引き返しても仕方ないし、心から謝罪してくれているのならそれでいい。「分かりました。もうそんなに気にしてませんので、わざわざ来てくれてありがとうございます」俺がそう言うと、梨花は安心したように息をついたが、すぐに真剣な顔つきになった。「それで、実は今日、謝罪以外にもお話があって。私、父が経営する桜エンターテイメントというレコード会社の関連レーベルで働いているんです。今回、その桜レコードで新しいプロジェクトを立ち上げることになりまして、もしよろしければ杉崎さんと星野さんに参加していただけないかと思って」俺は彩佳と顔を見合わせる。あの合コンで「令嬢」という単語は耳にしていたが、具体的にどういう家柄かまでは聞いていなかった。桜エンターテイメントといえば、国内の音楽業界のトップクラスに君臨し、数多くのヒットアーティストを生み出してきた超大手企業だ。まさかその社長の令嬢が目の前にいるなんて。「うちの会社は大手とはいえ、最近は若者向けの音楽市場で他社に追い抜かれそうなんです。そこでネット発の勢いあるアーティストを集めようと企画を練っていて、星野さんの人気や杉崎さんの作曲センスは絶対に欲しいって社内でも話題になってるんです。もちろん、具体的な条件面でもできるだけ好条件を用意します」そう言いながら、彼女はスマホ画面をこちらに向けてプロジェクトの概要や資料を見せてくれた。ざっと目を通す限り、破格の予算が組まれているらしい。大手からの破格のオファーに、俺も彩佳も驚きを隠せなかった。俺たちは今、小さな事務所やフリーで動いている。いきなり大手レベルと契約するにはハードルが高いし、既存の契約関係もある。「いや、でも俺たちは今、小さな事務所やフリーで動いてるから、いきなり大手レベルと契約するにはハードルが高いというか」「もちろん承知しています。既存の契約は可能な限り円満に調整します。違約金などもうちのレーベル側で負担する方向で進めるつもりです。とにかく星野さんが納得してくれるなら、いくらでも便宜を図ると社長も言っています」そこまで言われると、さすがに俺も驚かざるを得ない。フリーランスの作曲家である俺にとっては、よほどの大物アーティストでもなければ想像できない規模のサポートだ。「ひとまず返事は保留でいいですか?もちろん前向きに検討はします。ただ、今の事務所やスタッフとの関係もあるし、彩佳のスケジュールもあります。そこを整理したいんです」「はい、もちろん大丈夫です。父も星野さんの負担にならないように最大限調整すると言っていますので、お気軽に何でも相談してください」梨花はそう言い残し、深くお辞儀をしてスタジオを後にした。俺たちは顔を見合わせる。お互い、こんな展開になるとは夢にも思わなかった。

それから1週間ほど、俺と彩佳は今後のキャリアについて真剣に話し合った。彼女のマネージャーや俺の知り合いの業界関係者にも助言を仰いだ。結果として、大手レーベルとの契約を結ぶ方向に大きく傾いた。彩佳はまだ若い。勢いがある今だからこそ、より大きなステージに挑戦する意義は大きい。俺もフリーランスであるため、規模の大きい仕事を経験したいと思っていた。そして何より、先方の示す待遇やプロモーション内容は、彩佳を国民的アーティストに押し上げるだけの説得力があった。最終的に契約がまとまったのは、都内の高層ビルに入る豪華な会議室でのことだった。そこに梨花の父親である桜エンターテイメントの社長が姿を見せると、俺たちの前までゆったりと歩み寄り柔らかな笑顔を浮かべた。「いやあ、お会いできて光栄です。杉崎さん、星野さん、ようこそいらっしゃいました。この度は私どものレーベルでお力を発揮していただけるとのこと、大変嬉しく思っています。星野さんの歌声、先日送っていただいた映像で拝見しましたよ。素晴らしい才能だ。これは是非うちの力で日本中いや、世界中に広めたいと思っております」話はとんとん拍子にまとまっていく。最終的に俺と彩佳は、桜エンターテイメントの関連レーベルと正式な契約を交わすことになった。その後、桜エンターテイメントの盤石なプロモーション体制のもと、彩佳の知名度は爆発的に上がっていった。主要テレビ局の音楽番組に次々と出演し、CMタイアップやドラマ主題歌のオファーが殺到。街中の大型ビジョンや雑誌の表紙など、どこを見ても彩佳の姿が目に飛び込んでくる。最初は喜びこそ大きかったものの、ふとした瞬間に感じてしまうのは、彼女がどんどん遠い存在になっていくような寂しさだった。お互いのスケジュールが過密になって、まともに顔を合わせる機会が激減した。打ち合わせすらオンラインで済ませることも珍しくない。ビデオ通話をつないでも、背後からスタッフの声や外部の音が入り込んで落ち着かない。彩佳の方も疲れているのか、画面越しに無理に笑顔を作るだけで、どこかよそよそしい。ある日の深夜、ようやく作業の切れ目ができた頃、事務所からの帰り際にスタジオ付近で彩佳と偶然顔を合わせる機会があった。マネージャーも連れもおらず、マスク姿の彼女はほっと一息ついたように俺に視線を向ける。「杉崎さん、ちょっとだけ話せますか?」いつもは慌ただしくマネージャーに呼ばれ、すぐ次の現場へ移動してしまう彼女が1人で俺の近くに立っている。マスクも外した素顔からは、かすかな疲労が伺えた。俺は彼女を伴ってスタジオの中に入ることにした。彼女はソファーに腰掛けて、ため息をついた。「実は最近思うんです。私の歌が私の歌じゃないみたいで。忙しすぎて、一曲にかけられる時間があまりにも少なくなってて」彩佳はそう言いながら、ちらりとこちらを見やる。「デビューした頃は、1曲1曲もっと丁寧に時間をかけて作り上げられたじゃないですか。でも今はスケジュールを詰め込みすぎて、レコーディングやミックスも駆け足で済ませることが多いですよね。自分が本当に納得できるまで向き合えないまま、曲が世に出ていくのが正直怖いんです」彩佳の瞳が切なげに揺れる。そこにアイドルのように祭り上げられている華やかな姿など微塵もなく、ただ純粋に歌を届けたいと願う1人のアーティストがいた。「でも、私は恵まれてるのも分かってます。こんなに大手のレーベルで、しかも大勢の人に私の歌を聞いてもらえる。多分、夢のような環境なんだと思います。でも、なんか違うんですよ。思ってたのと違う。も少し1曲ごとに真剣に向き合って、自分の声を大切にしたいのに」言葉を最後まで絞り出すと、彩佳は視線を落とし拳をきつく握りしめる。その指先がわずかに震えているのを見て、俺はそっと彼女の肩に手を置いた。「今が忙しすぎるだけだよ。むしろ、それだけみんなが君を求めてるってことじゃないか。確かに時間は足りないかもしれないけど、君が本当に届けたい歌があるなら、きっとどんな方法でも届けられる。大丈夫だって。俺も手伝うから」俺がなるべく穏やかな声で諭すと、彩佳は俯きがちに唇を噛み、次の瞬間、ぽたりと涙をこぼした。その涙はひどく静かで、けれど切実さをはっきりと伝えてくる。「早く泣き止まないと、誰かに見られたら大変だぞ」俺がそう言うと、彩佳はされたように目を伏せた。ここで涙を流している姿を週刊誌やカメラにでも撮られたら、一瞬でスキャンダルになりかねない。そして、彼女は泣く場所もなくなっていたのだと、ふと気づく。ステージに立てばファンの声援を浴び、仕事現場ではスタッフやスポンサーの目がある。友人の前だって、いつも明るく振る舞わなきゃいけない。1人の時間だって、SNSの通知は止まらない。どこへ行っても泣く自由なんて与えられない世界の中で、彼女は息を詰めていたのだろう。「でも、俺の前なら泣いてもいいよ」そう伝えた途端、彩佳の目にはみるみる涙が浮かび、こらえきれないものが頬を伝う。俺はそんな彼女の肩をそっと支え、小さく息をつく。周りには誰もいない。もう遠慮しなくていいと告げるように、静かに背中を撫でた。「私、やっぱり杉崎さんと一緒に歌を作りたい。駆け足のままじゃダメなんだ。私」彼女の肩は小刻みに震えていて、その体温がじわりと伝わってくる。「ゆっくりでいいんだ。誰かにせかされるんじゃなくて、俺たちが納得できるスピードで曲を作ろう」言葉をかけるたび、彩佳の肩の震えは少しずつ落ち着いていく。あの夜、涙を流す彩佳を抱き止めて以来、俺の中で色々な思いが渦巻いていた。忙しさに押されてやりたいことができないのは、おそらく彼女だけじゃない。俺だって、もっと時間をかけて一曲を磨きたいという理想はある。それでも俺たちは、少しでも自分たちの納得いく音楽を作ろうと踏ん張ってきた。特に彩佳がこぼしたあの涙を見てから、どうしても書きたい曲が頭の中に浮かんで離れなくなった。そして数日後、寝る間も惜しんで描き上げた新曲は、驚くほどの手応えがあった。自分の中でも「これだ」と確信を持てるメロディに仕上がり、思わず徹夜明けに完成を上げそうになったほどだ。ある夕方、彩佳がスタジオに来るなり、すぐにデモを聞いてもらった。イヤホンを外した瞬間、彼女の目にはすでに涙が浮かんでいる。「ごめん、急に泣いたりして。でも、どうしよう。言葉にならないくらい嬉しくて」彩佳は指先で目元を拭いながら、震えたように息を吐いた。「実はさ、初めて出会った時の君をイメージして書いたんだ。路上で歌ってた頃のあのちょっと不器用な熱量とか、純粋さとか。今の君にも通じる思いがちゃんと形になればいいなと思って」そう言うと、彩佳の涙は止まらなかった。「ありがとうございます。本当にすごい。なんでこんなに胸に響くんだろう」彩佳の瞳には確かな輝きが戻っていた。その翌日、社長に新曲のデモを聞かせるために本社ビルへ足を運んだ。社長はデモを聞くなり、満足そうに頷いた。「おお、これはまた素晴らしい曲じゃないか。星野さんにぴったりな心揺さぶるメロディだね」内心ほっとする。ここまで高評価なら、彩佳の希望通りこの曲を伸び伸びと作り上げられるに違いない。だが次の瞬間、彼はあっさりとした調子でこう続けた。「うん。決めた。これ、新人に歌わせよう」「新人ですか?」思わず聞き返すと、社長は苦傷するように頷いて見せる。「実はな、梨花が歌手になりたいと言ってきてね。以前から声楽を学んでいて、すごく歌がうまいんだよ。大学でも発表会のたびに先生たちが絶賛するほどの腕前でな」「ちょ、ちょっと待ってください。この曲は、彩佳、星野さんのために書いたものなんですが」俺が慌てて切り返すと、社長は気にした様子もなく椅子の背もたれにふんぞり返った。「星野さんはもう十分人気があるし、売れっ子だ。君の曲を歌わなくても困りはしないだろう。むしろ、今度の新人をしっかり育てるには最高の名刺としてこの曲を使いたい。ま、もちろん最終的には検討するけどね」「彩佳はこの曲にすごく思い入れがあるんです。俺も彼女をイメージして書いた曲で」「イメージは大事だが、商売も大事なんでね。まあ考えておいてくれ。星野さんには別の作詞家に依頼した曲を用意しよう。その方が効率的だ」そう言うと、社長は音源を止めた。部屋に沈黙が戻る。思わず言葉を失った俺を視界に入れず、彼は立ち上がって部下に指示を出し始める。あの曲は、彩佳が涙を流して喜んでくれたのに。彼女のための曲だ。それをいきなり別の新人に歌わせるなんて、一体どう受け止めればいいのか。「じゃあ、そういうことで」最後にそう言い放って、社長はさっさと会議室を出ていった。俺はぐっと拳を握りしめたまま、絞り出すように1人呟く。「彩佳は、どうなるんだよ」誰からも返事はない。

その日の夜、俺はどうにも落ち着かなくて、まだ事務所に残っていた彩佳を捕まえ、今回の件を正直に話すことにした。「え、私の曲を新人に歌わせるって、本当ですか?」彩佳は控え室のソファーに腰かけたまま、目を大きく見開く。いつもなら少し疲れている時でも笑ってごまかす彼女が、さすがに今回ばかりは言葉を失っている。「社長の方針だ。新人と言っても、あの梨花で、声楽を学んでるらしい」「そんな、あの曲、杉崎さんが私のために書いてくれたのに」そう言いかけて、彩佳はぐっと唇を噛む。その姿を見ていると、胸が痛んだ。今にも涙が溢れそうで、俺は握りしめた拳をほどいた。「いや、やっぱり納得できない。この曲はお前だけのために書いた曲なんだ。俺が社長に話してくるよ。ちゃんと説明すれば、分かってもらえるかもしれない」そう言って立ち上がろうとする俺を、彩佳は慌てたように腕を掴む。「大丈夫です。杉崎さん、ありがとうございます。でも、いいんです。社長がそういうんじゃ、どうしようもないじゃないですか。私がもっと実力をつければ、きっと」最後まで言い切らずに、彩佳は無理やり笑顔を作る。その笑顔は、どこか苦しげだった。そして後日、レーベルのスケジュールに従う形で、俺は梨花をスタジオに迎えることになった。あの時はやたらと高飛車な印象を受けたが、今日は少し違う雰囲気で現れた。「えっと、なんかすみませんね。星野さんの曲を奪っちゃったみたいで。レーベルの方針ですから、私もどうしようもなくて。それでもこういう機会をもらえたのは嬉しいんです。私は声楽をやってて、実はずっとプロを目指してたから、杉崎さんの曲を歌えるなんてすごく光栄なんですよ」彼女は恐縮気味に微笑みかけ、自筆の譜面をテーブルに並べ始めた。俺が音源の準備をすると、梨花はこくりと頷きイヤホンを装着してボーカルブースの中へ入る。さっきまでの遠慮がちだった表情は消え、まるで舞台女優のように堂々とマイクの前に立つ。再生ボタンを押し、オケが流れ始める。すると梨花は、声楽仕込みの正確なピッチとのびやかな声を響かせた。1音1音がクリアで、音程のずれなど一切感じられない。なるほど、確かに歌がうまいという評価は嘘じゃない。一通りテイクが終わると、梨花はイヤホンを外し、軽く息をついてからこちらを見る。「どうでした?すごく緊張しちゃいましたけど、一応は歌えたかと思います。もっとうまく歌えますので、何でも言ってくださいね」その口元には小さな誇りが滲んでいる。「もっとうまくとは、どういう意味?」俺がそう切り返すと、梨花はマイク越しにすっと顎を引き、笑みを浮かべる。さっきまでの謙虚さは消え去り、彼女本来の令嬢らしい気位が見え隠れする。「この曲、星野さんのために作った曲なんですって?でも、ぶっちゃけあの子、顔だけじゃないですか。確かに可愛いし人気はあるんだろうけど、ピッチも曖昧だし技術もまだまだ。私に任せてくれれば、この曲を完璧に歌いこなしてみせますよ」マイクスタンドに片手を添え、彼女は自信満々にそう言いきる。確かに彼女の歌唱力は認めざるを得ないほど高い。しかし、その一言がやけに耳障りだ。あの合コンで見せた態度が頭をよぎり、胸の奥がざわつく。「そうだね。技術的には、君なら完璧に歌いこなせるかもしれない。でも、残念だけど、俺は君とはやっていけない」スタジオ内に一瞬、沈黙した空気が流れた。イヤホンを手にしたまま、梨花の瞳がわずかに見開かれる。「はあ?どういうこと?歌はちゃんと歌えてるわよ。私が下手だって言うの?」困惑する彼女に、俺は静かに首を振る。「そうじゃない。あなたは確かにうまいし、音程も完璧かもしれない。でも、歌っていうのは、その人の人柄が滲むもんだ。あなたの歌には傲慢さが出ちゃってる。テクニックで押し切ろうとしていて、心を揺さぶる何かが伝わってこない。俺はこの曲の良さを、まるで感じられないな」梨花の顔がみるみる紅潮する。まさか面と向かって否定されるとは思わなかったのだろう。彼女は激昂し、譜面を机に叩きつけた。「生意気言うんじゃないわよ。私にはパパがついてるのよ。こんなに歌がうまい私を否定するなんて許されると思ってるの?今すぐパパに言いつけてやるから!」彼女の声がスタジオに響くほど大きい。俺は肩をすくめつつ、冷静に言葉を返した。「言いつけるなりなんなり、自由にすればいい。でも、これは事実なんだ。テクニックや勢いだけが全てじゃない。心がこもってなければ、どんなにうまくても聞く人の胸には届かない」梨花は鋭い目つきをこちらに投げつけ、足音荒くスタジオから飛び出していった。翌日、案の定というべきか、社長から呼び出しがかかった。都内の高層ビルにある桜エンターテイメント本社の社長室に入ると、すでに社長は険しい顔で腕を組んでいる。梨花も隣で眉を吊り上げ、「パパ、早くなんとかして」と不満げに促していた。「杉崎君、君にはがっかりだ。せっかくうちの娘が興味を持った曲だというのに、あんな失礼なことを言うなんてな。娘は傷ついてしまったんだぞ」「失礼というか、事実を言ったまでです。彼女では曲の良さが伝わりません」ここでも俺は態度を翻さない。どうせもう後がないなら、と開き直るしかなかった。「いいだろう。そこまで言うのなら首だ。君は作曲家として、うちではもう雇わんよ。契約解除だ。出て行きたまえ」梨花は口元を吊り上げ、勝ち誇ったように俺を見る。俺はそれを無視して、荷物をまとめ始めるしかなかった。胸が痛むが、全く後悔はない。これで俺も桜エンターテイメントの傘から外れ、フリーに逆戻りだ。

その夜、スマホが震えた。彩佳からだ。「杉崎さん、どうしてやめちゃったんですか?今、どこにいますか?」電話口の音量を落としながら、俺は通りの隅に立ち止まる。しばらく言い訳めいた言葉しか浮かばず、黙り込んでしまった。「ごめん。あそこにいても、俺の作りたい曲は作れないと思った。それだけだ」俺は彩佳と会うことに決めた。人影の少ない公園の片隅。わずかに肌寒くなった夜風が吹き抜ける中、彩佳はトレンチコートの襟を立ててやってきた。「で、本当にやめたんですね」少し息を整えながら、彼女はまっすぐに俺を見つめる。瞳には戸惑いと苛立ち、そして寂しさが混ざっていた。「社長の方針に従っていたら、あの曲は梨花に回される。俺には耐えられなかったんだよ」「耐えられないなら、なんで相談してくれなかったんですか?勝手にやめるなんて」「悪い。でも、時間がなかった。あれ以上ずるずる引き延ばせば、あの曲が丸ごと潰されるか誰かに取られるだけだったから」実際、彩佳の目に涙が浮かんでいるように見えたが、彼女は懸命に耐えているようだった。「それなら、私もやめます」唐突な言葉。思わず俺は息を飲んだ。今や看板アーティストとも言える彼女が、簡単に口にしていい言葉じゃない。「待て、それはまずい。お前はもう大勢のファンに支持されてるし。こんな形でやめたら、社長の妨害だって容赦ないぞ」「構いません。私、限界なんです。あそこにいても、私の歌なんてなくなっちゃう。杉崎さんがいないなら、なおさら意味がない」彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。俺は思わず手を伸ばし、そっと彩佳の肩を支えた。「彩佳。それはもしかしたら、取り返しのつかないことになるかもしれないんだぞ」「分かってます。でも、もう決めました」結局、俺たちは視線を交わしたまま黙り込んでしまう。遠くの車の走行音がやけに大きく響く。「分かったよ。じゃあ、もう1度2人でやり直そう。あの曲を大ヒットさせて、見返してやろう。フリーに戻ったって、できることはあるはずだ」彩佳は涙を拭い、春のような笑顔を浮かべた。その笑顔は、初めて路上で歌っていたあの頃の彩佳を思い出させる。飾り気のない、でも意志の強い眼差し。どんなに険しい道でも、彩佳となら踏み出せる気がする。それから数日後、彩佳と一緒にレコーディングの準備を進めていたある日のこと。スマホの通知が鳴り止まないのに気づいて、何気なくニュースアプリを開くと、目に飛び込んできたのは「佐田梨花デビュー」の大きな見出しだった。SNSのトレンドを席巻しているという。ただ、その曲の冒頭を再生すると、どう考えても俺が書いたデモとほぼ同じメロディが流れ出す。「これ、あの曲そっくりですね」彩佳も青ざめた顔で呟いた。やられたな。あの曲を彼女用に書いたのに、どうやら内部データを利用されてしまったらしい。その夜、自宅の狭い部屋で頭を抱えていると、玄関のインターホンが突然鳴った。モニター越しに確認してみれば、そこに立っていたのは大学時代の同級生、木本だった。彼はスーツのジャケットを抱えたまま入ってきて、テーブルに買ったコンビニの袋を置く。「なんだよ、急にこんな夜遅くに」「やっぱり家にこもってたか。ほら、ビールでも飲めよ」木本はそう言うと床にどかりと腰を下ろして、缶ビールのプルタブを引く。「で、どうした?」「いや、あれ見たぞ。佐田梨花とかいう新人が『神曲』でデビューしたってやつ。あれ、お前の曲だろ?」やはり気づいていたのか。木本は一気にビールを煽ってから、しみじみとした表情になる。「曲全体の雰囲気。特にコード進行とかアレンジの癖が、完全にお前じゃないか。学生時代バンドでやってた頃からよく知ってるから、ピンと来たんだよ。あのDメロの入り方とかさ、間違いないだろ」俺は苦い笑いをもらす。「やっぱり分かるか?そうだよ。曲名も作曲者名も違うけど、中身はほぼ俺が書いたやつ。そのまま使われたんだろうな」「それで、どうすんだよ」木本の問いに、俺は言葉をつまらせる。普通なら訴える以外にないが、相手は大手レーベルだ。圧倒的な資金と業界のコネを持っているため、下手に争えば潰されてしまう危険性もある。「相手は桜エンターテイメントだ。今更俺みたいなフリーの作曲家が訴えたところで、どれだけ勝ち目があるか」そう弱気な声を漏らすと、木本は唇を曲げて笑った。「お前、なんか勘違いしてないか?俺、法学部時代からの知り合いだろ。弁護士として働いてるのは知ってるよな」「いや、でも、そう簡単じゃないだろ。向こうには一流事務所の弁護士もいるだろうし。証拠だってうまく隠される可能性がある」「可能性があるだけで、戦わないのか?お前らしくないぞ。曲を盗まれたままでいいのか?このまま黙ってたら、お前の音楽人生が壊されるかもしれないんだぞ」木本はビールの缶を持ったまま、俺に詰め寄る。「なあ、あの合コン以来、お前とまともに話してなかったけど。実はあの時、俺もお前のことをちょっと馬鹿にしてたんだ。法学部って弁護士確実って言われてたくせに、音楽の道に進むなんて変わったやつだなって。でも、今思うと、お前は自分の夢をしっかり貫いてる。お前はすげえよ」そう言われた瞬間、胸の奥で何かが軽くなった気がした。幼い頃から音に触れるたびに感じてきたあのワクワク。ギターの弦に指が触れただけで、まるで新しい世界が広がるような感覚。それを自分の手で生み出して、聞いてくれる人に届けたい。そんな夢を諦める方が、よほど自分を偽る行為だと思った。「木本、こんなところで終わって欲しくないんだよ。お前がこのまま泣き寝入りするようなやつだとは思いたくない。訴えろよ。曲を書いたのはお前なんだって、胸張って言え」その力強い言葉に、俺は喉が詰まる。「分かった。やってみるよ。なんとか証拠も揃えて、勝ち目を探す。木本、頼っていいのか?」「当たり前だろ。俺も日本一の弁護士になるって夢があるんだ。こんな大事件、燃えないわけがないだろ。俺は俺の夢を叶える。その過程で、お前の曲を取り返すって話だ」木本は立ち上がり、さっと手を差し出してくる。俺はその手を力強く握り返した。その翌日から、俺たち作曲者である俺と弁護士として奮闘する木本、それに彩佳のチームは怒涛のような日々を過ごした。相手は業界トップクラスの大手レーベル、桜エンターテイメント。その社長や顧問弁護士、さらには裏で糸を引く大勢の業界関係者まで、敵はあまりにも多い。しかし木本は恐れるどころか燃えていた。彼にとっては、日本一の弁護士になるという夢があり、これ以上ない大勝負でもある。俺は俺で、この曲を取り返さないと自分のプライドも未来も失ってしまうと覚悟を決めていた。彩佳も「この曲を私の声で歌いたい」という強い思いを胸に、必要な証拠集めや証言にも積極的に協力してくれた。法廷で明かされた佐田社長の実態は、想像以上に黒かった。著作権侵害や契約書への違法な追記、二重契約の強要など、その手口は次から次へと暴露され、世間を大いに騒がせる。その結果、社長のみならず桜エンターテイメント全体が、膨大な数の不祥事を抱え込む事態に陥った。さらに、梨花のデビュー曲が盗作だったのも決定的で、メディアは大スキャンダルとして連日のように取り上げ始める。裁判は白熱を極めたが、木本が用意した証拠はどれも強力で、俺が書いたデモ音源やメッセージのやり取り、彩佳による証言まで、しっかり裏付けが取れた。最終的に裁判所は「作曲者は杉崎悠都である」という判決を下し、桜エンターテイメントに多額の損害賠償金と謝罪広告の掲載を命じた。その上、佐田社長は他にも過去の契約違反が複数発覚という追い打ちを食らい、一躍業界最大級の不祥事の主役となってしまう。当然、梨花もデビュー曲が盗作だと判明したことで、一夜にして「天才令嬢シンガー」の称号を失った。ある夜、街角のカフェの前で偶然再開した梨花は、かつての高飛車な雰囲気を失い、すっかりやつれていた。「大丈夫か?」と声をかけると、彼女はか細く笑って首を振った。「大丈夫なんて、あるわけないじゃない。でも、本当は私、自分の力で歌手になりたかったのよ。父の影響力を借りれば簡単にステージに立てるって思って、あんな暴挙に出ちゃったけど。どこで間違えたのかしらね」彼女の呟きには、痛ましいほどの後悔と、本当は純粋に歌いたかったという未練が滲んでいた。けれど、それ以上何も言わず、梨花は夜の闇に消えていく。俺はただ、その背中を見送るしかなかった。

裁判は俺たちの勝利という形で幕を下ろした。彩佳のために書き下ろした曲を、彩佳とレコーディングしてリリースすると、それは驚くほどの速さでヒットチャートを駆け上がった。元々話題性があったのも大きいが、彩佳の切ないほど純粋な歌声と、当初から構想していた本来のアレンジが、圧倒的な魅力を放ったのだろう。しかもそこで終わりではなかった。この爆発的ブームに目をつけた海外の大手レーベルが、「是非一緒に世界へ挑戦しませんか」とオファーをくれたのだ。今日もレコーディングが終わった頃、クタクタに疲れた彩佳が俺の前へとふらりとやってきた。「お疲れさん、大丈夫か?」ソファーから立ち上がって声をかけると、彩佳は苦笑いでもなく、ただふうと大きな息をつく。「ねえ、頑張ったからご褒美ください。何でもいいです」「ご褒美って、俺にできることなんて高が知れてるぞ」そう答えながら彼女の顔を伺うと、彩佳はにやりと笑みを浮かべる。「じゃあ、私とも合コンやってください」「合コン?」意表を突かれ、思わず言葉を飲み込む俺に、彩佳はさらに顔を寄せてくる。目の奥がどこかいたずらっぽく光っていた。「ただし、私と2人きりの合コンですよ」「そ、それって、合コンじゃなくて……」「し、そういうのは野暮って言うんです。いいじゃないですか。私が頑張ったご褒美なんだから」彩佳は満足そうに微笑むと、軽い足取りでスタジオの外へ歩き始めた。全てをかけた一曲が奇跡のように蘇り、今や世界へ羽ばたこうとしている。その姿を見つめながら、俺は深い息を吐き、覚悟を新たにした。これまでの苦労も試練も、全てが俺と彩佳、そして仲間たちを強くさせてくれた。次なる舞台は海外。夢はまだまだ終わらない。俺たちはどこへでも行ける。音楽と思いさえあれば。

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