受付の女性が発した一言に、頭が真っ白になった。「お待ちしておりました。大塚様ですね。あちらの方と同じ部屋でご予約をいただいております」——その瞬間、ロビーで怒鳴っていた女性、職場で毎日のように私を叱りつける上司のあ子さんが、同じ部屋だと言うのだ。母からもらった誕生日の温泉宿泊券。一人で行くはずが、なぜか相部屋。しかも相手は、三年間ずっと私を厳しく叱り続けてきた、あの人だった。電話越しに父が言…

受付の女性が発した一言に、頭が真っ白になった。「お待ちしておりました。大塚様ですね。あちらの方と同じ部屋でご予約をいただいております」——その瞬間、ロビーで怒鳴っていた女性、職場で毎日のように私を叱りつける上司のあ子さんが、同じ部屋だと言うのだ。母からもらった誕生日の温泉宿泊券。一人で行くはずが、なぜか相部屋。しかも相手は、三年間ずっと私を厳しく叱り続けてきた、あの人だった。電話越しに父が言...

男の人と二人で温泉旅行なんて、生まれて初めてだ。なんとなく落ち着かないけれど、ちゃんと楽しませてほしい。

そう言って微笑む彼女は、普段職場で見せる厳しい表情とはまったく別人のように見えた。まるで初めて会う女性みたいだ。

「俺もこういう旅行は初めてなんです。ちゃんと楽しんでもらえるよう、精一杯頑張ります」

そう答えた自分の声は、緊張で少し震えていた。

なぜ俺があ子さんと二人きりで温泉に行くことになったのか。実は俺にもまったく心当たりがない。ただ、そこにはある事情が隠されていた。

俺は大塚典。二十四歳。今は大手飲食チェーン店で調理の仕事をしている。

父は長年、寿司屋を営んでいた。だが、俺が専門学校の卒業を間近に控えていた数年前、父はとうとう過労で倒れてしまった。そして療養を余儀なくされた父は、長年続けてきた店を閉めることにした。

「俺が卒業したら、父さんの店を継ぐよ。調理師の免許も取ったし、修行させてほしい」

父が築き上げた店を守りたい。その一心で俺は父に頼み込んだ。しかし父は首を縦に振らなかった。

「社会人経験もないお前に、仕事は任せられない。まずは他の会社に入って、社会人としてのマナーを学ぶ方が先だ」

身内の店だと、どうしても甘えが出てしまう。父はそう言った。俺は自分の浅はかな考えを恥じた。父のようになりたくて専門学校に通い、調理師免許を取得したのに、いざ店を継ぐことを断られてしまった俺は、一体何がしたいのか分からなくなってしまったのだ。

そんな時、専門学校の友人が一つのことを教えてくれた。

「俺たちがいつも言ってるレストラン、あるだろ。あそこの求人、実は給料も研修制度もすごく充実してるんだ。店の数も多いし、家から近い場所を選べる」

こうして紹介されたのが、今の務め先だった。大手飲食チェーン店の一員となった俺は、確かにそこそこの給料をもらっていた。海外の飲食店への研修制度もある。やがて三年という年月が流れた。俺は今も両親を支えるべく、一生懸命働いている。

しかし、一つ大きな悩みがあった。店の上司であるあ子さんとの折り合いが、どうしても合わないのだ。

あ子さんは社長の一人だが、仕事に厳しく、いつも俺に仕事を押し付けては重箱の隅をつつくように文句を言ってくる。

「何この盛り付け方は? 写真と全然違うじゃないのよ。これじゃあクレームを入れられちゃうわ」

「パスタがしょっぱすぎる。塩加減を間違えたんじゃない? こんなのもう毒だわ」

こんな風に言って、あ子さんは頻繁に俺の作った料理を貶す。そのくせ、彼女は全く調理をしない。常連客と雑談ばかりしている。

「私は接客で忙しいの。調理は全部あなたに任せるわ」

そう言って調理を丸投げするものだから、もちろん俺は慌てるし焦る。そしてあ子さんは、細かいミスを一つ一つ丁寧に指摘してくる。正直、たまったものではない。

しかも標的は俺だけではない。入社して間もない新人も同じような目に遭う。あの無茶ぶりのせいで、俺は三年の間に十五人もの同僚が辞めていくのを目の当たりにした。

あのワンマンなあ子さんさえいなければ、俺は人手不足で悩むこともない。だから俺は、人に仕事を押し付けて挙句の果てに文句ばかり言うあ子さんが大嫌いだった。あ子さんが原因で職場の人員不足がどんどん悪化していくのも、どうしても許せなかった。

一人でお客さん二十人分の料理を作るんだぞ。あの人の仕事配分は、どう考えても普通じゃない。

幸い、俺は実家に暮らしていたから、仕事の愚痴を聞いてくれる両親がいた。仕事の鬱屈やストレスが限界まで溜まった時は、両親に愚痴を聞いてもらってなんとか乗り越えていた。父は無言で頷き、母は「大変ね」と慰めてくれる。

ただ、俺の愚痴を聞く両親はどこか複雑な表情をしていた。もしかすると、二人は俺の愚痴で疲れてしまったのかもしれない。

親に甘えすぎたな。そう思った俺は、仕事の愚痴を両親に言わないよう努めることにした。

数ヶ月後、俺の誕生日がやってきた。

「いつもお疲れ様。ゆっくりしてきなさい」

母は温泉旅館の宿泊体験券を渡してくれた。ただ、それは一人分だけだった。

「え、家族で行くんじゃないの?」

「お父さん、倒れてから食が細くなったでしょ。温泉に行って具合が悪くなったら困るじゃない」

確かに今の父はかなり食が細い。体重も減っているし、血圧や脈拍だって安定していない。不整脈で医者の世話になっていたこともある。そんな状態の父を温泉旅行に行かせるのは、やはり危ない。

「じゃあ、別に温泉旅行じゃなくてもいいんじゃないか。こういうのは家族全員で行くもんじゃないの?」

俺は少なからず思うところがあった。しかし父の体のことを考えると、そう言うに言えなかった。

「まあ、時には一人で行くのも悪くないか。ありがとう。楽しんでくるよ」

「喜んでもらえてよかったわ」

母は嬉しそうに笑った。

翌月の連休。俺は予定通り、母から渡された宿泊体験券を持って温泉に向かった。

ところが、温泉旅館に着いて早々、ロビーで一人の女性が受付と揉めているではないか。

「予約が入ってないなんて、そんなはずないわ。そちらの手違いじゃないの? ちゃんと確認してよ」

受付に対して強気に迫るその声。それは、普段俺が職場で嫌というほど聞いている、あの声だった。

あ子さんがここにいる。どうして。

俺が驚いていると、あ子さんも俺を見つけて近づいてきた。

「実家の親とここで待ち合わせてたのよ。なのに、両親の名前で予約が入ってないの。っていうか、どうしてあんたがここにいるのよ」

あ子さんはものすごい剣幕で怒りをぶつけてくる。正直、八つ当たりもいいところだ。

「まあまあ、落ち着いてください」

俺は横目であ子さんを見ながら、受付に宿泊体験券を差し出した。すると受付の女性は「お待ちしておりました。大塚様ですね。あちらの方と同じ部屋でご予約をいただいております」という、とんでもない回答を返してきた。そして俺に鍵を一つだけ手渡した。

「ちょ、ちょっと待ってください。俺は一人で来たんですよ。別々の部屋でお願いします」

当然、俺は困惑した。しかし受付の女性は「でも」と首をかしげる。

「確かにアイビアでご予約を承っております」

そう言って予約表を見せてきた。今やあ子さんは泣きそうな顔をしている。

とりあえず、俺は客室に向かうことにした。そこで改めてあ子さんと話をした方が良さそうだった。

「お父さん、一体どういうことよ」

部屋に着くなり、あ子さんは早速社長に電話した。

「部下と相部屋だなんて、聞いてないわよ」

あ子さんは最初こそ社長に詰め寄っていたが、途中から目に見えて落胆した。

「……そういうことだったのね。なら、はっきりそう言ってよ」

あ子さんはそう言って電話を切り、ひどく項垂れた。そして俺に事情を話してくれた。

「実はね、前々からお父さんからこんな話を聞いていたの。幼馴染みの寿司職人を招いて、寿司や刺身を店のメニューに追加するって」

あ子さんはかなり言いにくそうにしていた。

「そしてね、『あまり部下に意地悪するんじゃないぞ。大事な取引先だし、いい飯漬けなんだからな』って言われたの」

それは父の言葉のようだった。

「あの時はお父さんの言葉の意味が分からなかった。でも、今ようやく分かったわ。まさか、あなたが私の飯漬けだったなんて」

あ子さんの顔は真っ青だ。俺はどうしたらいいか困ったが、それでも静かに返した。

「あ子さんが飯漬けだなんて、俺は何も知りません。でも、俺の父は確かに寿司職人です」

この後、俺たちの間に気まずい沈黙が流れた。

耐えられなくなった俺は、父に電話した。

「もしもし。父さん。あ子さんと相部屋ってどういうことなんだ? 説明してよ」

俺は泣きそうだった。すると父は照れたように言った。

「だってお前、あ子さんと仲が悪いんだろう。だから彼女が飯漬けだって、俺の口からはとても言えなくてな」

「飯漬けって、本当なの?」

ますます混乱する俺に対して、父は得意げな様子で事情を説明した。

「あ子さんの父親とは昔からの幼馴染みなんだ。俺も正直一人で働くのは大変だし、俺のお寿司や刺身を向こうの飲食店で展開してもらうことにしたんだよ」

絶句する俺に対し、父は嬉しそうに続けた。

「まさか俺に言われることもなく、飯漬けの会社に就職するとはな。やっぱりお前は自慢の息子だ。これはもう運命じゃないか。お前たちは保育園の頃、とっても仲が良かったんだぞ。職場でも喧嘩しているなら、そろそろ仲直りしたっていいだろう」

そう言って父は電話を切ってしまった。

一方、俺は過去を振り返ってみた。確かに言われてみれば、保育園の頃仲の良かった女の子がいたような気がする。親同士も仲が良くて、俺たちをくっつけようと約束していたのか。

「だったら、どうして保育園以降、私たちは会ってないのかしら」

あ子さんが率直な疑問を口にする。そこで俺はもう少し思い出そうと頑張ってみた。

「そうだ。俺が小学生になった頃、父の店の経営が傾いた。それで一時的に借金を背負うことになって……」

俺がそこまで言うと、あ子さんも何か思い出したようで顔を上げた。

「私の家も小学生の頃、店の経営が傾いたわ。他の店のメニューを真似したとか言われて問題になって……」

俺たちは思わず笑い合ってしまった。

要するに、両親がお互いにそれどころではなくなって、俺たちもいつしか大人になったわけだ。

「お父さんったら、会社経営者なのにそういうところがあるのよ。それならそうとちゃんと言ってくれたら良かったのに」

こうして俺たちは、お互いの親の不器用さを知って笑い合った。

「なるほど。そういうわけだったのか」

「男の人と二人で旅行なんて初めて。なんか落ち着かないけど、私を楽しませてね」

普段無茶ぶりばかりのあ子さんが、俺に微笑んだ。それはまるで初めて会った時のような、柔らかい笑顔だった。だが、本当に可愛いと思う。

「俺の方こそ、女性と二人で温泉旅行なんて初めてです。でも、楽しんでもらえるように頑張りますね」

この際だから、俺たちはこの状況を受け入れることにした。温泉旅行を満喫することに決めたのだ。

旅行の間、俺は色々なものを見た。あ子さんはプライベートでは可愛らしく甘える一面があった。それに、彼女の浴衣姿は本当に可愛らしかった。

だが、なんだかんだあ子さんとの温泉旅行を楽しんで家に帰ると、そこでは親同士が揉めていた。

「子供同士の仲が悪いんだから、仕方ないだろう」

「俺は息子が仕事になれるまで三年も待ったんだぞ。それなのに、いつまで待っても仲が深まらないんだ」

「だからと言って、事情も説明せずに温泉に行かせるなんて、何を考えてるんだ。お互いの中が余計こじれていたらどうするつもりだ?」

「そっちだって、娘さんに何も言わず温泉へ行かせたんだろう。それならお互い様だ」

だが父は、帰ってきた俺の姿を見るなり。

「どうだった? 温泉は楽しめたか」

「何の説明もしないまま行かせてしまって、悪かったな」

父は心底申し訳なさそうに謝罪した。しかし、それでも「あ子さんのお父さんが娘にきちんと伝えておくから大丈夫だと言ってたものだから」と言い訳のように続けた。

一方、社長、つまりあ子さんの父も気まずそうな様子だ。

「娘に彼が飯漬けだと伝えるつもりだったんだが、本人を目の前にするとやはり言い出せなくてな」

あ子の父は俯いていた。結局、父親たちは子供に事情を説明できないまま、旅行に行かせてしまったわけだ。

「すまなかったね。君と娘の中が悪いとは知っていたが、どうしても昔のように家族同士仲良くしたかったんだ。加えて商売もより飛躍させたかった」

社長から頭を下げられると、俺だって恐縮してしまう。

「大丈夫ですよ。まあ、急なことで驚きましたけど、楽しかったので」

すると、背後に立っていたあ子さんが前に出た。

「やっぱりお父さんの伝え方が悪かったのね。そういうことは、まず当者の私たちにちゃんと説明するのが筋よ」

「俺が不器用なせいで、すまなかった」

それでもあ子さんは「まあ、いいわ」と頬を緩めてくれた。

「セッティングはダメダメだったけど、部下と本音で話せたのは楽しかったわ」

「俺もです。普段あんな風に仕事を押し付けてくるのは、愛情の裏返しだと分かりました。俺が好きな人だからこそ、意地悪したくなるっていうか……」

するとあ子さんは「もう、温泉で話したことは内緒でしょ」と俺の口を抑えた。

この様子を見た父親たちは「良かった良かった」と勝手に感動し合っている。

それにしても、まさか俺が入った会社に飯漬けがいるとは。何より驚いたのは、俺のことを嫌っていると思っていたあ子さんが、実は俺のことを好きだったということだった。

もし温泉旅行に行かなかったら、あ子さんの気持ちを理解することは一生なかったと思う。後日、俺がそう言うと、あ子さんも「私もよ」とした。

「引かなかったら、一生自分の気持ちをあなたに伝えられなかったと思う」

今や俺たちは恋人同士だ。だが、あ子さんは今でも仕事に厳しいし、理不尽な怒りをぶつけられることも多い。仕事を押し付けられることも、相変わらずある。

でも、それは全てあ子さんの愛情なのだ。そう思うと、俺は何もかも受け入れられる気分だった。

結婚したら、こんな感じで料理も厳しくチェックされるのかな。

「何か言った?」

「あ、ごめんなさい」

まだ仕事中だ。ふと漏らした言葉に厳しい反応をされたので、俺は素直に謝った。

こんな調子で、俺は今日も頑張っている次第だ。でも、仕事中ふとあ子さんとの結婚生活を妄想して、一人でニヤついてしまったりはする。

それは彼女には内緒だが。もしかすると、あ子さんは俺が結婚を考えていることにもう気づいているだろう。

そんな風に思えるのだ。

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