俺は父の背中を追って漁師をしている。気づけば三十八歳で、いまだに独身だ。結婚を諦めたわけではないが、漁師という仕事では女性との出会いがほとんどなかった。父はこの仕事で母と出会ったと言うけれど、自分にそんなことが起こるとは到底思えなかった。
ある日のことだった。早朝の漁に出ようと準備をしていると、一人の女性が双子の女の子を連れてやってきた。まだ明るくなる前の時間だ。こんな時間に女性が港に来るのは珍しい。しかも女の子たちは三歳くらいで、服装も薄着で汚れていた。誰がどう見ても、生活に困っているのがわかった。
「すみません。少しだけ魚を分けていただけませんか。どんな魚でもいいので、いらない魚を恵んでいただけないでしょうか」
女性はそう言って深く頭を下げた。俺は気の利いた言葉を返せず、父の顔を見た。すると父はにこっと笑って、双子と同じ目線になるようにしゃがんだ。
「まだ小さいのに、こんなに早く起きるなんて偉いね。お嬢ちゃんたちはお魚が好きなのかい?」
いつも怒ってばかりいる父が、優しい声で話しかけていた。女の子たちは真剣な表情でうなずいた。
「お魚好きです。私もお魚好き」
「そうか、そうか。わかったよ。二人とも魚が好きなら、持っていくといいよ」
父は俺に魚を持ってくるよう指示した。俺はわさやあじなど食べやすそうな魚を選んで袋に詰めた。すると父がのぞき込んで言った。
「おいおい、せっかくだからもっと立派な魚を入れてやれよ」
そう言って父は豪快に鯛まで袋に入れた。女性は驚いた顔をして、何度も深く頭を下げた。
「そんな立派なお魚まで……本当にありがとうございます。すぐに仕事を見つけて、このご恩は必ずお返しします」
「いやいや、気になさらないでください。見返りを求めているわけじゃありません。その魚たちを美味しく食べてくだされば、それで十分ですから」
俺がそう言うと、父は女性のことを心配したのか、いろいろと質問を始めた。
「この辺じゃ見かけない顔だが、これから仕事を探すのかい?」
「はい。いろいろありまして、最近この町に引っ越してきました。この通りでパートの張り紙を見かけたので、今から行ってみようと思っています」
「そうだったんですね。仕事が決まるといいですね」
すると父がとんでもないことを言い出した。
「よし、これも何かの縁だ。うちもちょうど人手不足だからさ、ここで働くといいよ」
突然の話に俺は戸惑った。しかし女性は意外にも乗り気だった。
「え、いいんですか? 私、何でもやります」
「よし、決まりだな。ただ、子供はちょっと危険だな」
「確かにまだ小さいですからね。でもこの子たちはもう保育園に通っているので、普段は私一人で働くことができます。なので問題ないかと」
「そうだったんですね。それなら安心だ」
「あ、自己紹介がまだでしたね。私はリエと申します。それからこの子たちは双子の娘で、あやとさやです。よろしくお願いします」
こうして俺たちはリエの連絡先を聞き、後日改めて働いてもらうことになった。リエと子供たちは魚の入った袋を嬉しそうにのぞき込み、仲良く手をつないで帰っていった。
家に帰って母に話すと、母は目を細めた。
「へえ、三歳の双子か。それは可愛いだろうね」
「可愛かったよ。あげた魚をじっと見つめてた」
「あんたが結婚してたら、私にもそのくらいの孫がいたのにね」
「いや、まだ結婚を諦めたわけじゃないし」
そんなやり取りをしていると、電話がかかってきた。リエからだった。
「先ほどはありがとうございました。お仕事についてなのですが、具体的な勤務時間や勤務内容を教えていただいてもよろしいでしょうか?」
父が応対した。
「朝はだいたい四時頃から始まって、終わるのは十五時くらいかな。ああ、子供たちはさすがに連れて行けないから、朝の保育園は母さんにお願いしておくよ」
父は母の許可も取らずに話を進めていった。母が呆れた声で言う。
「お父さんたら、また勝手なことを言ってるんだから。私もパートがあるのにさ」
だが母は基本的に父の言うことを何でも聞く優しい人だ。最後には笑いながらこう言った。
「お父さんがそうするって決めたら、聞かないんだから仕方ないわね。あんたの子供ができるまでは、私がその子たちのおばあちゃんになりますか」
母の顔はなんだかんだ嬉しそうだった。
こうしてリエは正式にうちで働くことになった。
初出勤の日、子供たちはまだ寝ているということで、母がリエの家に向かい、時間になったら子供たちを保育園まで送っていった。俺たちは早速船で海に出た。
「船酔いとかは大丈夫ですか?」
「はい、今のところ大丈夫です」
「それは大したもんだな。船に乗るのは初めてかい?」
「いえ、実は亡くなった祖母が船をしていたので、その船に乗ったことがあります。その時は海ではなくて川の船だったんですけどね。なので幼い頃から魚はよく見ていたので、魚に対する抵抗は全くありません」
「そうなんですね。でも気分が悪くなったら、遠慮なく言ってくださいね。場所によっては結構揺れるので、初日から無理はしないでください」
「確かにそうだな。とかずが初めて船に乗った時は、すごくぐったりしていて使い物にならなかったからなあ」
「父さん、そんなことは言わなくていいよ」
「お二人とも、お気遣いありがとうございます」
こうして俺たちはいつもより賑やかに漁に出かけた。リエは漁で使う網やレーダーのことを俺に聞いてきては、その都度メモに書き残していた。
「船の上だと書きづらくないですか? 少しずつ覚えてくれればいいので」
「ありがとうございます。でも助けていただいた身なので、少しでも早くお二人のお役に立ちたくて。それに、私に教えている時間ってもったいないかなって。だから早く自立できるように頑張らないと」
リエは仕事に対して真面目に向き合っていた。それでも線の細いリエを見ていると、どうしても助けたくなってしまう。沿岸漁業がメインで遠方へ行くことはあまりないが、海には危険な生物がたくさんいる。万が一それらが網にかかって、知らずに触れてしまうと大変なことになる可能性もある。リエに何かあったら子供たちにも申し訳ない。彼女のことは俺が絶対に守らないと、なぜか強い使命感を抱いていた。
やはりリエは船酔いしてしまったが、なんとか初日を乗り越えた。それからも毎日出勤するリエは仕事の飲み込みが早く、力仕事もうまくこなしていった。一通り作業に慣れた頃には、船酔いすることもなくなった。特に俺たちが驚いたのは彼女の手先の器用さだった。魚をさばくのも神経締めも、あっという間にマスターしてしまった。
「全然傷もついていない。すごいな」
「本当にリエさんは大したもんだ」
彼女の活躍は他の漁師たちにも噂が広まり、すぐに港の人気者になった。
「リエさんがここに来てから、鯛とかぶりとかいい魚がたくさん取れるようになったんですよ」
「そうだな。やっぱりリエさんは何か持ってる人なんだろうな」
「いやいや、そんな。まだまだ皆さんの足を引っ張っているので、もっと頑張らないと。でもそう言ってもらえるのはとても嬉しいです」
家庭でも変化があった。母が前より穏やかになったのだ。
「母さんも前みたいに怒らなくなったし。これもあやちゃんとさやちゃんのおかげかな」
「そんなに調子乗ってると、また母さんから怒鳴られるぞ」
父は母の機嫌がいいと言っていたが、俺からしてみれば父もここ最近見たことがないほど機嫌が良さそうだった。俺たち家族にとってリエと子供たちの存在は、それだけ大きいものになっていた。
そうして一緒に過ごす日々が増えるうちに、父がこんなことを言い出すようになった。
「毎日あの子たちの家に行くのも手間だからさ、いっそみんなで引っ越してきたらいいのにな」
最初は父に言われるがまま子供たちの面倒を見ていた母だったが、この頃にはすっかりあやとさやのとりこになっていた。この日も母は俺たちが漁から帰ってくる時間を見計らって保育園に子供たちを迎えに行き、手をつないで帰ってきた。
「おばあちゃん、今日も大きい魚取れたかな?」
「そうだといいね。今日は保育園でおばあちゃんの絵を描いたんだよ」
「そうなの? 本当に可愛い子たちだね」
母がこんな感じだから、一緒に住みたいと言い出したことには納得できた。だがリエがこれを聞いてどう思うだろう。
「確かに一緒に住むことで負担も減りますし、家の中も賑やかになるので、僕はいいと思うんですけど。リエさんはどう思いますか?」
「はい。とてもありがたいお話なんですけど、そこまでお世話になっていいのでしょうか?」
「うちはもちろん大丈夫だよ。とかずだけだと家の中も楽しくないからなあ」
「どういう意味だよ」
「本当に仲のいい家族で、羨ましいです」
「じゃあこれからは住み込みで働くってことでいいかな。リエさんも子供たちも、もう家族みたいなもんだね。遠慮はしなくていいので」
「父さんも母さんも、リエさんとあやちゃんとさやちゃんが家に来てほしいばっかりなので」
「本当に何から何までありがとうございます」
リエは俺たち家族に深く頭を下げた。俺はリエと子供たちが家にやってくるのが楽しみで仕方がなかった。
こうしてリエはうちに住み込みで働くようになり、それからは本当に毎日が賑やかになった。
「今日からおばあちゃんと一緒に寝る」
「え、さやも」
「こらこら、おばあちゃんも疲れてるんだから。そんな無理は言わないの」
「おばあちゃんでもいいのにな」
家の中は笑顔で包まれていた。ある時、リエがぽつりと呟いた。
「こんな家族、羨ましいな」
その言葉を俺は聞き逃さなかった。
リエたちが家にやってきて少し経った頃、天候が荒れたことで漁が中止になった。その日は父と母が町内会の行事に出かけていて、子供たちは保育園に行っていた。家の中には俺とリエの二人きりで、どうにも落ち着かない。
「お昼はチャーハンでよかったら作りますよ」
「ありがとうございます。僕も手伝いますよ」
俺たちはキッチンに向かい、冷蔵庫にある残り物でチャーハンを作ることにした。そして、俺は今まで気になっていたことを彼女に聞いてみることにした。
「リエさんたちは、どうしてこの町に引っ越してきたんですか?」
「私、小さい頃に川の近くに住んでいたんです。それで前の夫と別れて、一からやり直すなら今度は海の近くがいいなって思って、ここに来たんです」
「あの、嫌だったら話さなくてもいいんですけど」
俺は前の夫のことを尋ねてみた。するとリエは意外にもすんなり話してくれた。
「それもそうですよね。何も聞かずに働かせてくれて、しかも一緒に住むことまでしていただいて、本当に感謝してます。私の昔の話、聞いてもらってもいいですか?」
「もちろんです。聞かせてください」
「あの子たちが一歳の頃、元夫が借金を抱えていることを知りました。私は一緒に返そうって言ったんですけど、彼は仕事に行くと嘘をついてギャンブルをしていました。だから別れることを決めたんです」
「そうだったんですね」
「でも今は私、毎日楽しいですよ。これも全部、とかずさんたちのおかげですね」
リエはそう言ってチャーハンを完食し、「いつもお世話になっているから」と言って家の中の掃除を始めた。そんなに辛いことがあったのに前を向いて必死で生きているリエに、俺は関心した。
それから数日後、俺たちはいつものように海に出た。するとリエが甲板で足を滑らせ、海に落ちそうになってしまった。俺はすぐにリエを抱き寄せ、なんとか事なきを得た。だが腕の中にリエがいることに、俺はどきっとした。俺はどんどんリエに惹かれていることに気づき、このままずっと一緒にいられたらと思い始めていた。だが告白する勇気は持てずにいた。リエだけでなく、あやもさやも俺にとっては大切な家族になっていた。こんな幸せな毎日が、この先もずっと続いてほしいと思っていた。
しかし、その願いも虚しく、俺たちの別れは突然訪れた。
うちの漁と取引をしている定食屋から、リエに声がかかったのだ。女性なのに漁師を続けていることが魅力的に映ったらしい。
「魚の目利きもできるし、さばくのも一人前だ。うちには使ってない部屋もあるから、住み込みで働かないか」
定食屋の主人はそう申し入れたという。当然母は断ったが、念のためリエに話すと、彼女は少し考えたいと答えたという。その話を聞いていた子供たちは飛び上がって喜び、俺たちはそれ以上引き止めることができなかった。
リエは仕事が終わると子供たちと海で遊んであげるのだが、最近は疲れもあるようで長時間は遊んであげられないという。今は母の方が子供たちと過ごす時間が多くなっていて、母はそれに関して何とも思っていなかった。だがリエ的にはかなり申し訳ないと思っていたのだ。
「いろいろと考えたのですが、私、定食屋さんでお世話になろうかなと思います。仕事のことから子供たちのことまでお世話になりっぱなしだったのに、申し訳ありません」
「そ、そうですか。まあ、リエさんが決めたことならな」
俺たちは何も言うことができなかった。その日以降、父も母も元気がなかった。リエは定食屋で働き出す前日まで、一緒に漁に出てくれた。
「リエさんと漁に出られるのも、あと少しですね」
「はい。今まで本当にお世話になりました」
「別にリエさんが遠くに行くわけじゃないのに、すごく寂しいな。あ、漁をやめることを責めてるわけじゃないんですけど。ただ家がすごく賑やかで楽しかっただけに、三人もいなくなると寂しくなるなって」
「いつでも家に遊びに来てくださいね。お父さんも母さんも、もちろん僕も楽しみにしてるので」
「ありがとうございます」
そしてお別れの日、俺はリエの荷物を定食屋まで運んであげることにした。
「本当にお世話になりました。とかずさんとお母様には、感謝の気持ちしかありません」
リエは涙を流しながら俺にお礼を言った。
「そんな、泣かないでください。それに僕だって、リエさんたちが家に来てくれて本当に毎日が楽しかったんだ。お礼を言うのはこっちの方です。ありがとうございました」
俺は引き止めたい気持ちを必死に抑え、無理やり笑顔を作って答えた。
「もうやだ。あやも寂しくなっちゃう」
「さやも、おばあちゃんと……買い物したい」
ついには子供たちも泣き出してしまった。それでもリエたちは俺に頭を下げて、定食屋へと入っていった。
俺は彼女を引き止めるべきかと思い悩んだ。だが彼女が選んだ道を変える権利が自分にあるとは思えなかった。それに子供たちのことを考えると、漁師よりも定食屋の方がいいのだろうとも思った。
こうしてリエたちが家を出ていき、しばらくの間、家の中にはどんよりと重い空気が流れ続けた。母はため息ばかりついていたし、酒好きの父も飲まなくなってしまった。俺も仕事中にリエのことばかり考えてしまい、不注意で怪我をしてしまうこともあった。彼女に気持ちを伝えていれば、未来は変わっていたのだろうか。俺はそんなことばかり考えていた。
それから数日が経ったある日、母は興奮気味にパートから帰ってきた。
「リエさんね、定食屋で二年働いたら自分のお店を出して、私たちに恩返ししたいって店の主人に言ってたの。この家にいるのが嫌になったわけじゃなくて、迷惑かけてるって思ったから定食屋に行ったそうよ。それでちゃんと恩返しできる状態になったら、とかずが釣ってきた魚を仕入れて、美味しい料理を作りたいんだって」
「そ、それなら今まで通りこの家で一緒に暮らしながら、定食屋で働けばいいじゃないか。俺、リエさんのところに行ってくるよ」
てっきり俺は、漁が大変だから耐えられなくて家を出て行ったのだと思っていた。しかしリエがそれだけ俺たちのことを考えてくれているのなら、俺も正直に自分の気持ちを伝えたいと思った。気がつけば俺は家を飛び出して、定食屋へと向かっていた。
「リエさん」
俺は定食屋のドアを開け、思いきり彼女の名前を呼んだ。
「すみません。僕に少しだけお時間ください」
俺は定食屋のご主人に頭を下げると、リエの手を引っ張って店の外へと連れ出した。
「もし迷惑だとか、そんな理由で家を出て行ったのなら、家に戻ってきてほしい。父さんも母さんも……じゃなくて、俺が。俺がリエさんたちと一緒に暮らしたいんだ。リエさんのことが好きになりました。だから僕と付き合って欲しいんです。あやちゃんのこともさやちゃんのことも、僕が守っていきます。だからお願いします」
断られるのが怖くて、俺は目を閉じたまま告白した。沈黙が続いた。
「本当に、迷惑じゃないんですか?」
「迷惑なわけないだろ」
「私だって、本当はずっととかずさんのお家にいたかった。私の描いていた理想の家族が、そこにはあったから」
「それなら、一緒に家に帰りましょう」
こうして俺たちは手をつないで家に帰った。母が目を丸くして出迎えた。
「え、リエさん帰ってきてくれたの? あれ? 二人とも手なんかつないじゃって」
「リエさん、とかずでいいのかい?」
「私、とかずさんがいいんです。優しくて、ご両親のことを大切にしているとかずさんのことが大好きなんです」
リエは両親の前ではっきりとそう言ってくれた。これまでの努力が報われた瞬間だった。その後、母は喜んで保育園まであやとさやを迎えに行った。
「これからも、みんなで一緒に楽しく過ごそうね」
「おじいちゃんも、頑張って魚を取ってこないとな」
リエたちが戻ってきた瞬間から、両親は分かりやすく元気になった。
それから二年が経ち、俺たちは式を挙げて無事に結婚した。リエは幼い頃、両親と祖父母と一緒に暮らしていたらしいのだが、両親が離婚したことで大好きだった祖母と離れることになってしまったという。
「とかずさんの家族を見ていたら、なんだか昔の自分を思い出して。私の理想の家族がここにあるって感じてたの。本当の家族になってくれてありがとう。私、本当に幸せ」
リエは満面の笑顔で俺にそう言ってくれた。今では成長していくあやとさやを近くで見守ることができて、俺自身もとても幸せだった。
ちなみに今でもリエは漁師の仕事が好きなようで、週に二日くらいは漁に出て、定食屋にも週に二日は通っている。
「今でも夢は諦めてないのよ。とかずさんとお父さんが釣った魚で、私とお母さんで食堂を経営するの。それがみんなへの恩返しだからね」
俺にとってリエは、本当に天使だったのかもしれない。運命の人との出会いは、ある日突然やってきて、互いに導かれるように一緒になるのだ。だから俺みたいに出会いがないと困っている人も、絶対に諦めないでほしい。俺は心からそう思っている。



