「生活費は1万円で十分。節約できなければ離婚な。」
口元を歪めて笑う広のり。わざと無理な条件を押し付け、私の反応を楽しんでいることは明白だった。婚約中に「マ子には苦労をさせたくない」と告げたあの優しい彼は、もうどこにもいない。
広のりと出会ってから今に至るまでの記憶が浮かんでは消え、彼に対する様々な思いが駆け巡る。反射的に尖った声が漏れ出た。
「はあ? ふざけないでよ。」
「女は文句言うな。」
そう言って笑う広のりは、自分が優位に立っているつもりらしい。生活費が足りなくなった私が泣いて謝ると信じているのだろう。しかし、私は自分でも不思議なほど冷静だった。
「分かった。」
私が封筒を受け取ると、広のりは満足そうに頷き、ソファーに寝転がった。この後、地獄を味わうことになるとは、まだ彼は知るよしもなかった。
私の名前は高屋敷舞子。年齢は24歳。専業主婦をしている。
幼い頃に母を亡くし、父子家庭で育ったため、肉親と呼べる存在は父の立川新一と母方の祖母である磯貝光子のみだ。父は真面目で人をまとめる力のある人だった。難しい顔をしていることが多かったが、不器用なりに私を気にかけてくれていたと思う。
ただ、自営業を営んでいた父は忙しく、毎日私のそばにいることは難しかった。そのため、私はよく祖母の家に預けられていた。
祖母は古風で厳格なところがあり、自分にも他人にも甘えを許さない人だ。食事を残すことなど以ての外で、持ち物を出しっぱなしにした程度でもすぐに呼びつけられる。挨拶の仕方や箸の持ち方まで、とにかく細かく注意された。
けれど、私はそんな祖母が嫌いではなかった。彼女の言うことには大抵納得できる理由があったからだ。お金も物も他人の時間も、雑に扱えば後で自分が困る。そう教えられて育った。
高校を卒業した後は、地元の企業に事務として就職。大学に進学しなかったことに特別な理由はない。ただ、早く働いて自分の食い扶持を賄えるようになりたかった。
8歳年上の広のりと出会ったのは社会人3年目の頃。友人に紹介された彼は、年上らしく落ち着いて見えたし、話もしやすかった。何度か食事に行き、連絡を取り合ううちに結婚を前提とした交際が始まり、それから半年足らずで私は広のりと夫婦になった。
振り返れば早い決断だったとは思う。だが、当時の私はこの選択が自分の人生を大きく変えることになるとは、微塵も考えていなかったのだ。
3年前、結婚と同時に私は務めていた地元企業をやめた。広のりの希望だった。最初にその話をされたのは婚約したばかりの頃。レストランで食事を終えた後、私はまだ仕事を続けるつもりで先々の予定のことを考えていた。
「結婚したら仕事をやめて家庭に入ってほしい。マ子には苦労をさせたくないんだ。」
唐突に言われた時、正直私は驚いた。でも、グラスを手にしたまま穏やかに話している広のりの表情には、決して押し付けがましさはない。むしろ心から私のことを考えてくれているように見えた。
「でも、私の収入がなかったら大変じゃない?」
「そこは俺が頑張るよ。」
「本当にいいの?」
「ああ、マ子は家庭を守ってくれたらいい。その方が俺も安心して働けるから。」
全く迷わなかったといえば嘘になる。事務員としての仕事は気に入っていたし、経済的な面での不安もあったけれど、広のりがこう言うなら妻としての役割を全うするのも悪くないと思った。
こうして結婚式の翌日から、私の専業主婦生活が始まった。まだ暗いうちに起きて広のりの朝食と弁当を作る。会社へ行く彼を見送った後は、掃除と洗濯が待っている。買い物の内容を細かく記録し、家計簿もつけた。夫婦で借りている一軒家の管理は思ったよりも時間がかかり、あっという間に広のりの帰宅時間になった。
「ただいま。」
「お帰り。先にお風呂入る?」
「その前に飯。腹減った。」
「すぐ出すね。」
最初のうちは、自分が広のりの世話をするのは自然なことだと思っていたし、多少疲れていても不満を口にしなかった。
けれど、広のりの態度は少しずつ変わっていったのだ。
ある日の夕食、広のりは席につくなり、食卓に並んだ皿を見て眉を寄せた。
「今日も和食かよ。」
「昨日は揚げ物だったから、今日は軽めにしたの。」
「俺は外で働いてるんだぞ。もっと食べ応えのあるものにしてくれないと困る。」
「じゃあ、卵焼きでも足そうか。」
すぐに私は箸を置き、立ち上がった。しかし、台所へ向かおうとした私を広のりが呼び止める。
「そういう問題じゃないんだよな。」
「じゃあ、何が良かった?」
「ずっと家にいるんだから、自分で考えろって話。」
思わず私はその場で立ち尽くした。家にいる。確かにその通りだ。けれど、私は何もせずに1日を過ごしているわけではない。
「俺が稼いでるんだから、家の中くらい完璧にしてくれよ。」
「完璧かどうかは分からないけど、できることはしてるつもり。」
「つもりじゃ足りないんだよ。」
「何が足りないの? 言ってくれれば直すよ。」
そこで広のりは大きくため息をついた。まるで私がとても簡単なことすら分かっていないかのような反応だ。結局彼はそれ以上の対話を拒絶し、不機嫌なまま食事を終えると寝室へ引っ込んでしまった。取り残された私が落ち込んだのは言うまでもない。
別の日、私が夕食の準備をしていた時に広のりが帰ってきた。玄関の物音に気づき、私はエプロンで手を拭いて出迎えた。
「お帰り。お疲れ様。」
「ただいま。腹減った。」
「ちょっと待ってね。もう少しでできるよ。」
「え、まだできてないの? もう少しってあと何分?」
明らかに不機嫌になる広のり。彼を刺激しないよう、私は時計を見ながら可能な限り普通に答えた。
「10分くらいかな?」
「俺が帰る時間、大体分かってるよな。なんでまだできてないわけ?」
「今日はスーパーが混んでたから、買い物に時間かかっちゃって。」
「言い訳はいいよ。専業主婦のくせに家事をサボるな。」
通勤鞄を投げ捨てて、広のりはネクタイを緩めた。その動作にも苛立ちが滲んでいる。
「別にサボったわけじゃ…」
「マ子って、俺への感謝が足りないよな。誰のおかげで飯が食えてるんだって話だよ。」
「それはそうだけど、広のりが家庭に入ってほしいって言ったんだよ。」
「だから甘えていい理由にはならないよ。」
外で働き、専業主婦になったのは広のりの希望によるものだ。それを受け入れ、彼なりに家の中を整えようとしていた。だがいつの間にか、私はただ広のりに養われている存在として扱われている。
「ごめんね。すぐ用意するから。」
言い返しても事態は良い方向には進まない。そう判断して、私は台所へ戻った。火を弱め、鍋の蓋を開けると味噌の匂いが広がる。結婚前に夢見ていた幸せな未来は、この頃から少しずつ形を変え始めていたのかもしれない。
結婚して3ヶ月、新婚生活にも慣れた頃には、広のりの指摘はさらに細かくなっていた。
ある日の夕方、会社から帰ってきた広のりは、玄関で靴を脱いだ途端、廊下の隅を見てぴたりと足を止めた。
「ここ、埃あるけど、今日掃除してないの?」
「え? どこ?」
「ほら、こっちの隅。ちゃんと見れば分かるだろう。」
広のりが指差した箇所を凝視すると、確かにうっすらと埃がある。許容範囲に思えたが、彼にとっては私が手を抜いた証拠らしかった。
「朝掃除したんだけどな。拭いておくね。」
そう言って私はすぐに雑巾を取りに行こうとした。すると広のりはわざとらしくため息をつく。
「朝やったとか関係ないんだよ。結果的に綺麗にできてないんだから。」
「そうだね。もっと気をつけてチェックする。」
「妻なら、それくらい俺に注意される前に気づけよ。」
「分かった。」
人が多ければ埃は溜まるし、窓を開ければ細かな塵も入る。掃除に終わりはない。しかし、正論で言い返しても広のりの機嫌が悪くなると思い、私は短く返事をした。
リビングに入った広のりは、次に畳んであった洗濯物へ向かった。シャツを1枚持ち上げ、袖の辺りを見て眉を寄せる。
「なあ、この畳み方、違うんだけど。どういうつもり?」
「え? 何が違う?」
「袖の向き。俺、前も言ったよな。」
「ああ、ごめん。しまう時の方がいいかと思って。洗濯物は収納しやすいように、引き出しの幅に揃えてあるんだ。」
自分なりに家事の質を上げるために工夫した結果だった。けれど、広のりは彼自身の思う形でなければ納得しない。シャツをテーブルに置いて最初から畳み直す手つきにも不満が滲んでいる。
「しまう時じゃなく、俺が着る時のことを考えろよ。こういうところがマ子はダメなんだよな。」
「ダメにしたつもりはないよ。」
「つもりはなくても、できてないなら同じだろう。次から気をつけるね。」
仕方なくそう言うと、広のりは鼻で笑った。その嘲笑に、私は背筋が寒くなるのを感じた。彼はただ失敗を指摘しているのではない。私そのものを下に見ているような気がしたからだ。
「やっぱり母親がいないと、家のことが分からないんだな。父子家庭って、やっぱり毒だわ。」
「それは違うよ。」
「違わないだろう。普通は母親から教わるもんだし。」
母のことを持ち出された瞬間、胸の奥が痛んだ。彼女が早くに亡くなったという事実は、私の努力ではどうしようもないことだ。家庭環境と家事のスキルを結びつけられるのは、さすがに酷だ。
私は代わりに祖母に教わってきた。祖母の家に預けられていた幼少期を思い出しながら、私は広のりを睨んだ。彼女から学んだ礼儀作法や家事は、今でも自分の財産になっている。
「祖母のやり方は古風だけど、基本はちゃんとしてるよ。」
「初詣は年寄りのやり方だろう。そう思ってるのはマ子一人じゃないの?」
一言で会話を終わらせた広のりに、彼が他人の意見を聞く気がないことを悟った。最初から結論は決まっているようだった。
夕食でも似たようなことが起こった。その日の献立は、サバの味噌煮と小松菜の胡麻和え、豆腐の味噌汁。どれも祖母から教わった料理で、私は和食を作るのが得意だった。
「ああ、マジか。今日もまたこういう感じ。」
食卓につくなり、広のりは箸を置いて小松菜を睨んだ。食べる前からすでに不満に見える。
「サバ、好きじゃなかった?」
「嫌いじゃないけど、地味なんだよな。」
「見た目は地味だけど、栄養のバランスは考えてるよ。料理は見た目だけで決まるものではないよ。」
食材の下処理をし、出汁を取り、味を整える。調理工程を思い出しながら、私は広のりを見つめた。
「なんか貧乏臭いんだよな。」
「何それ? 普通の家庭料理だと思うけど。」
「もっと見栄えするもの作れないの?」
「リクエストがあるなら聞くよ。何がいい?」
私は努めて穏やかに尋ねた。怒るよりも、次に活かせる情報を得る方が建設的だと思ったからだ。けれど、広のりは私の提案にも満足しなかった。
「俺に聞くなよ。メニューを考えるのも専業主婦の仕事でしょ。」
その夜、広のりが夕食を終えて風呂に入った後、私はテーブルを念入りに拭いた。家事を完璧にこなすことができれば、広のりを満足させられる。夫婦関係を良好にするには、自分が専業主婦として頑張るしかない。当時の私はそんな思考回路に陥っていたように思う。
結婚して半年経っても、私は毎月欠かさず家計簿をつけていた。食費、日用品、光熱費、医療費。使った金額はその日のうちにノートに書き込み、レシートもカテゴリーに分けて保管した。細々とした作業は元々嫌いではなかったし、事務職の経験が生きていると思うと多少嬉しい気持ちもあった。
そんなある夜のこと。広のりがリビングのテーブルに置いてあった家計簿を勝手に開いた。
「今月、こんなに使ったの?」
「え、結構抑えてると思うよ。」
「抑えてこれ? 先月よりも多いじゃん。」
「うん。洗剤とか調味料のストック補充が重なったから。」
簡単に説明すると、広のりは家計簿を指で叩いた。乾いた音が静かに響く。
「もっと節約しろよ。マ子は主婦だろ。」
「そう言われても、本当に必要なものしか買ってないよ。」
「必要かどうかを決めるのは俺だろ。」
「基本的に家で使うものだから、私の方が分かると思う。」
そう答えた瞬間、広のりの顔がはっきりと不機嫌になった。怒らせるつもりで言ったわけではない。ただ、毎日家事をこなしているのは私だ。日用品の残量も買い替えタイミングも、自分なりに把握している。
「これだから高卒は信用できないんだよ。」
「今、学歴は関係ないでしょ。」
「関係あるよ。無学だから数字の管理が甘いんだ。」
「だから家計簿をつけてるんだってば。」
高校卒業して働き始めたことを、私は恥ずかしいと思っていない。自分で決めた道だし、仕事も退職するまでは責任感を持ってきちんとしてきた。それなのに、広のりは自分の非が悪くなると、いつもそこをついてくる。家計の話に、いつの間にか私の経歴への非難が加わっていた。
「とにかく、働いてないんだから。自分のために使う金は減らせ。」
「自分のためにって、何のこと?」
「私、贅沢はしてないよ。服とか化粧品とか、そういうのを買ってるだろ。」
「いや、今月は下着と化粧水を買ったくらいだって。」
広のりは家計簿をめくり、細かい項目まで目を通した。私が買ったものはどれも特別高いものではない。いくら専業主婦で外に出る機会が少くても、最低限の身だしなみは必要だ。
「ずっと家にいるなら、いらないだろう。」
「下着は必要でしょ。まだ使えるなら買わないけど、痛んでいたから買い換えたの。」
そう説明しても、広のりは大きな無駄を見つけたように深いため息をついた。
慎重に言葉を選びながら、私は家計簿の別のページを開いた。
「ほら、見て。食費は先月より下がってる。安い店をはしごしたり、セールをチェックして買い物に行ったりしてるんだよ。」
「そんなの主婦なら当たり前だろう。家にいるんだから、そのくらいやってくれないと困る。」
自分の努力を当然だと一蹴される度、私の心は徐々に削られていった気がする。感謝して欲しいわけではないけれど、ほんの少しでも認めて欲しいと思った。
節約を命じられた翌日、広のりは新しい腕時計をつけて帰ってきた。銀色の文字盤が玄関の明かりを受けて光っている。週末には新しいスーツも届いた。どちらも安い買い物には見えない。
「その時計、新しいやつ?」
「ああ、仕事用だよ。」
「スーツも買ったばかりだよね。ちょっと使いすぎじゃない?」
「マ子には分からないだろうけど、社会人には必要なことなんだよ。」
仕事で必要なものがあることは分かるけれど、私の生活用品が無駄だと切り捨てられる一方で、広のりの出費は当然の支出として扱われる。それはあまりにも理不尽だった。
「家計簿には、時計とスーツの金額も書く?」
「いや、入れなくていい。」
「でも、それって家のお金から出てるよね。」
「俺の仕事に関係するものは別だろ。いちいち細かいな。」
あれほど私の出費に難色を示したことを棚に上げ、広のりは当然のように言い切った。さすがに我慢できず、私はなんとか深呼吸を繰り返した後、声を潜めて尋ねる。
「私の下着や化粧品はダメで、時計はいいの?」
「俺が稼いだ金だからな。」
「それはそうだけど、普通は夫婦のお金として考えるんじゃない? 私たち、結婚してるんだから。」
「俺と同じくらい稼いでから言えよ。」
その一言で会話は終わった。私が絶句していると、広のりは新しい時計を外し、大事そうにケースへ戻した。家計簿に視線を落としながら、私は彼に見えないように唇を噛んだ。
結婚して1年、広のりの家計への口出しはさらに細かくなっていた。毎月の家計簿だけでは足りないと言い出し、買い物のためにレシートを全て出すよう命じてきたのだ。理由は無駄遣いを防ぐためだという。私は反論するより出した方が早いと判断した。
「今日は買い物行ったの?」
「うん。これ、レシートね。」
スーパー、薬局、八百屋。買い物をするたびにレシートを小さな封筒へ入れ、夜に広のりへ渡した。けれど、それで話が終わるわけではない。テーブルにレシートを並べ、広のりは細かな金額まで目で追った。
「この豆腐、前より30円高い。」
「今日はこっちの店しか寄れなかったの。」
「専業なら、もっと安い店を探せるだろう。」
「豆腐1つのために何件も回るのは、さすがにちょっと難しいかな。」
たった数円の差でも、彼は大きな損失のように扱う。毎日広告をチェックして買い物をするようにしていたし、特売日も把握していた。それでも毎回全ての食品を最安値で揃えられるわけではない。
「時間ならいくらでもあるだろう。」
「いや、私も暇じゃないよ。家のこともしないといけないし。」
「家のことって言っても、料理とかでしょ。働いてるわけじゃないんだから、言い訳せずに少しは工夫しろって言ってるんだ。」
「工夫はしてるよ。私なりに。」
反論の言葉は蕾のまま枯れた。料理、掃除、洗濯。他の家事がある以上、現実的に考えて買い物に使える時間は限られている。どう頑張っても、全てを広のりが満足するクオリティにすることはできなかった。
私に節約を求める一方で、広のりの支出は不透明だった。具体的な金額を聞くと、曖昧にごまかされる。
「広のりの分もレシート見せてくれない?」
「何の?」
「飲み会代とかゴルフのお金。家計簿つけるなら必要でしょ?」
「ああ、そういうのは仕事付き合いだから、覚えてないな。」
そう言って広のりはすぐに話を流した。他人の買い物は数円単位で攻めるのに、自分の飲み代は仕事の一言で終わらせる。夫婦の家計管理を掲げながら、確認されるのはいつも私の支出だった。
季節が巡ると、別の話題も出てきた。その日は特に冷え込みが厳しく、私はエアコンをつけて日中を過ごした。すると夕方帰宅した広のりが開口一番に言った。
「マ子、エアコンつけてたの?」
「うん。今日はかなり寒かったからね。」
「俺が外で凍えてる間、一人でぬくぬくしてたのか。専業が贅沢するなよ。」
私は驚いて固まった。交際中や新婚時代は普通にエアコンを使っていた。それに広のりは昼間、エアコンの効いたオフィスで働いている。明らかな言いがかりだ。
ややあって、私はリモコンの設定温度を広のりに見せた。
「冬に暖房をつけるのは、別に贅沢じゃないと思う。それに温度も低めにしてたよ。ほら。」
「つけた時点で同じことだろ。家の中にいるんだから我慢しろよ。」
「でも、屋内でも寒すぎて家事に影響が出そうだったから。」
「だったら服を着込めばいい。とにかく無駄遣いは禁止だ。」
その日から、私は昼間のエアコンを使わなくなった。何枚も重ね着をし、座って仕事をする時には膝に毛布をかける。夜も広のりが帰るまでは部屋を温めなかった。寒さは辛かったが、怒られるよりはましだと思った。
ところが数日後。広のりは帰宅するなり顔をしかめた。玄関からリビングに入った時点で肩をすくめている。
「なんだよ、この家。寒すぎるだろ。」
「それは暖房入ってないからね。」
「俺が帰る前に、部屋くらい温めておけよ。」
「広のりが贅沢するなって言ったんでしょ。」
正論で返すと、広のりは一瞬言葉に詰まったけれど、すぐに不機嫌な表情に戻った。自分が寒い思いをする節約は、広のりにとっては別の話らしい。
「マ子はやることが極端なんだよ。普通に考えて、これは暖房をつけるレベルの寒さだろうが。」
「じゃあ、私も昼間エアコン使っていい?」
「ダメだ。昼間は別に寒くないだろう。電気代もかかるし。」
「昼間でも、今と同じくらい寒い日もあるけど。」
広のりは答えず、乱暴にリモコンを取った。エアコンの運転音が静かなリビングに広がる。膝の上の毛布を畳み、私は夕食の準備のため台所に立った。
彼が求めているのは本当に節約なのか。もしかしたら、単に私が快適な思いをするのが許せないのかもしれない。答えを出してしまうと取り返しがつかない気がして、私はその考えを慌てて頭から追い出した。
結婚して3年、広のりの帰宅時間は目に見えて遅くなっていった。以前は夕食の時間には帰ってくることが多かった。それが21時、22時とずれ込むようになったのだ。彼が帰る時間に合わせて、私は作った料理を温め直した。
「今日も遅かったね。飲み会?」
「ああ、後輩の相談に乗ってた。」
「なんか最近多いよね。」
「まあ、仕事してたらそういうこともあるだろう。」
広のりは話を打ち切るように食卓に着いた。温め直した味噌汁を注ぎながら、もう何度目か分からない説明を聞いた。後輩が仕事で悩んでいる。自分が見てやらないといけない。広のりはそう言うが、話の中身は毎回少しずつ違っていた。
ある夜、広のりのスマホがテーブルの上で震えた。画面には「ナオ」という名前が表示されている。不審に思って尋ねると、広のりはすぐに画面を伏せた。
「ナオって誰?」
「会社の後輩。」
「こんな時間に連絡来るんだ。」
「仕事の話だよ。いちいち詮索するな。」
こちらを見ることもなく、広のりはスマホをポケットに入れた。いくら問い詰めてもはぐらかされてばかりだったが、家計簿の数字はごまかせない。生活費は削られ、私の買い物は相変わらず細かく管理される一方で、広のりの交際費が格段に増えていた。
「ねえ、今月も出費多くない?」
「付き合いがあるんだから、仕方ないだろう。」
「でも、これ女性向けのブランドじゃない? 本当に仕事で必要だったの?」
「取引先に渡したんだよ。細かいな。」
仕事、取引先、付き合い。他人には数十円の誤差まで説明させるにも関わらず、自分は曖昧な言葉で片付ける。その不条理に、私はだんだんと疲れていった。
「家の生活費を削るなら、そっちも見直してほしい。」
「俺の金の使い方に口出しするな。」
「夫婦のお金でしょ。」
「俺が外で働いてるから成り立ってるんだよ。」
同じセリフを何度も聞かされるうちに、反論する気力も失った。それでも結婚生活は続く。安い食材を選び、暖房を控え、古い服を着回す。広のりに言われた通り、可能な限り節約に務めていた。しかし、広のりは私の容姿にも文句をつけるようになった。
休日の昼下がり。私が洗濯物を畳んでいると、ソファーに座った彼がこちらを見て突然鼻で笑ったのだ。
「マ子って、最近本当に地味だよな。」
「地味に見えるも何も、実際主婦だからね。」
「それにしても、女って結婚すると変わるもんだな。昔は可愛かったのに。」
「新しい服とか化粧品を買うのは控えろって言ったの、広のりでしょ。」
むっとして言い返したが、広のりは聞こえないふりをした。身にお金を使えば無駄遣いだと非難し、言われた通りに節約すると、今度は見た目を馬鹿にして笑う。どちらにせよ、広のりは私を責めたいのだ。
それからも何度も似たようなことを言われた。
「一応女なんだから、少しは美容に気を使えよ。」
「じゃあ、たまには私の好きなように買い物させてよ。美容院だってもう何年も行ってない。」
「人任せにせず、まず自分で工夫しろよ。マ子はそういうところがダメなんだ。」
「必要なものも買えない状態で、どうやって工夫するの?」
苛立ちつつも切り返すと、広のりは不機嫌そうに下を向いた。その後、彼はスマホを見ながらわざとらしく言った。
「俺の周りは、いつもちゃんとしてるけどな。」
「ナオとか、会社の後輩と比べられても困るよ。」
「別に比べてるわけじゃない。ただ、同じ女性でも全然違うなと思ってさ。」
「それ、どういうつもりで言ってるの? 私を怒らせたいわけ?」
何かと話に登場するナオがどんな女性なのか、私はほとんど知らない。唯一持っている情報は、広のりの会社の後輩で派遣社員だということだ。そして、彼が私と彼女を比較する際の物言いには明らかな悪意があった。他の女性を持ち出せば、私が大人しくなるとでも思っているようだ。
「ナオに限らず、会社の女の子たちはもっと気を使ってるぞ。」
「外に働きに出てる人と、家にいる私では必要なものも違うよ。」
「そういう言い訳が、地味に見えるんだよな。」
「こんなこと言いたくないけど、身だしなみに使うお金を削ったのは広のりだよ。」
やや強い口調で返すと、広のりは不満そうに肩をすくめた。結局、私が何を言っても受け取る気はないらしい。
また別の夜。広のりはまた遅くに帰ってきた。スマホは何度も震え、画面には同じ名前が浮かぶ。
「ちょっと待っててね。今、用意してるから。」
「早くしろよ。段取り悪いな。」
「うん。ごめんね。」
冷めたおかずを温め直しながら、私はぼんやりと広のりの顔を眺めていた。今振り返ってみると、当時の自分は正常な判断能力を失っていたのだと思う。
さらに1ヶ月後、次第に私は家族に会いたいという気持ちが強くなっていった。久しぶりに父や祖母の顔を見て安心したかったのだろう。
「ねえ、今度の週末、実家に帰ってもいい?」
「実家に? 何しに?」
「特に理由はないけど、ちょっと父とおばあちゃんに会いたくて。」
「今更実家に帰るなよ。」
機嫌の良さそうなタイミングで切り出したつもりだったが、広のりは箸を置いた。
「ダメなの?」
「家のことを放り出して実家に帰るとか、論外だろ。嫁に来た自覚がないのか?」
「放り出すわけじゃない。それに、結婚しても父や祖母は家族だよ。」
「その考えが甘いんだよ。」
吐き捨てるように言う広のり。話し合いの余地はほぼなく、家の中の空気が急に薄くなった気がした。
「大体、マ子の父親もばあさんも、甘やかしすぎなんだよ。躾がなってない。」
「2人のこと、悪く言わないで。私はちゃんと育ててもらった。」
「自営業の父親と、古風なばあさんに、まともな教育ができるとは思えない。」
「なんでそんな言い方するの?」
全身が震えるのを感じた。私自身を責められるのとは違う痛みがある。父は忙しい中でできる限り私を見てくれたし、祖母も厳しかったが必要なことを教えてくれた。広のりは何も知らないのに、簡単に切り捨てた。
「実家で愚痴でも聞いてもらうつもりか。どうせ俺が悪者にされるんだろ。」
「そんな話をしに行くわけじゃない。」
「じゃあ、行く必要ないよな。」
「なんでそうなるの? 家族に会いたいと思うのは普通でしょ。」
食い下がると、広のりは顔をしかめた。ただ会いたいだけだと言っても、広のりには通じない。私が父や祖母と話すこと自体を、彼は嫌がっているようだ。
「これからは、父親やばあさんに連絡するな。」
「どうして?」
「余計なことを吹き込まれたら面倒だからだよ。俺があいつらに目の敵にされてもいいのか?」
「父も祖母も、そんな人じゃないよ。」
結局、広のりは聞く耳を持たず、私は彼にスマホをチェックされるようになった。朝、広のりが出勤する前、夜、風呂に入る前。誰と連絡を取ったのか、履歴まで確認される。
「マ子、スマホ出して。」
「え、昨日も見たよね。」
「だからなんだ。やましいことがないなら、見せられるだろ。」
「そういう問題じゃないって。」
画面を差し出すたび、心が冷えていった。父から届いたメッセージ。祖母からの不在着信。広のりの許可がないと連絡を返せない日々に、ひどく胸が詰まった。
ある夜、私は我慢できずに言った。広のりはソファーでスマホを見ている。
「家族への連絡まで禁止されるのは、辛いの。」
「なら、夫婦を続ける意味ないな。俺はいつ離婚してもいいんだぞ。」
「そうやって脅すのはやめて。」
「脅しじゃない。お前がそんな態度だと、本当に現実になるぞって話。」
思わず私は呼吸を止めた。こちらが黙ると分かっていて、広のりはその話を持ち出しているようだ。働いていない私に逃げ場はない。そう思わせるための言葉だと、今なら分かる。けれど、その時の私は反論する力を失っていた。
「俺に捨てられたら、マ子の人生終わりだぞ。」
「なんでそんなこと言うの?」
「事実だからだ。女の年齢なんて、そう簡単に再婚できないからな。」
なぜか広のりは得意げに笑った。もちろん、私を心配しているわけではない。ただ私を不安にさせて、家に縛りつけたいのだろう。
その夜、広のりが寝た後も、私はしばらく床に立っていた。今のままでは心が壊れる。そう気づいた時、私は初めて本気で恐ろしくなった。
3ヶ月後、夜。広のりは帰ってくるなり、リビングのテーブルに薄い封筒を置いた。不思議に思いながら中を覗くと、紙幣が1枚入っている。
「これは、今月からこれでやりくりしろ。」
「え、これが1ヶ月分の食費ってこと?」
「違う。全部だよ。」
言葉が出なかった。封筒の中身を再度確認するが、やはり入っているのは1万円のみ。普段の出費から考えて、夫婦2人の食費には足りない。日用品や光熱費まで含めれば、到底無理な金額だ。
「全部って、日用品や光熱費も含めて?」
「当然だろう。主婦ならそれくらいできるはずだ。」
広のりは腕を組み、まるで自分が正しいことを言っているかのような顔をしている。怒りよりも呆れが込み上げてきて、私は封筒をさっとテーブルに戻した。
「生活費は1万円で十分。節約できなければ、離婚だ。」
口元を歪めて笑う広のり。わざと無理難題を押し付け、私の反応を楽しんでいることは明白だった。婚約中に「マ子には苦労をさせたくない」と告げたあの優しい彼は、もうどこにもいない。
広のりと出会ってから今に至るまでの記憶が浮かんでは消え、彼に対する様々な思いが駆け巡る。反射的に尖った声が漏れ出た。
「はあ? ふざけないでよ。」
「女は文句言うな。」
そう言って笑う広のりは、自分が優位に立っているつもりらしい。生活費が足りなくなった私が泣いて謝ると信じているのだろう。しかし、私は自分でも不思議なほど冷静だった。
「分かった。」
私が封筒を受け取ると、広のりは満足そうに頷き、ソファーに寝転がった。
「やっと主婦としての自覚が出たか。まあ、無理せず頑張れよ。」
「うん。本気でやるよ。その代わり、方針は私に任せてくれる?」
「ああ、生活費を1万円に抑えるためなら、何でも協力してやるよ。」
「そう。ありがとう。」
1万円で普通の生活を続けるのは無理だ。でも、広のりの言葉通りに節約することならできる。頭の中で冷蔵庫の中身を順番に思い出しながら、私は広のりが望んだことをきちんと実行してあげようと決意した。
その日の深夜、私は家計簿を開き、祖母に叩き込まれた節約術を思い出していた。
「まあ、食べ物は値段で価値を決めちゃいけないよ。」
幼い頃、祖母の台所で何度も聞いた言葉だ。安い食材に手間をかけて使うことが大事。そして、自分がよく知らないものには絶対に手を出さないこと。
「野菜は下処理して冷凍。魚は安い日に買って塩干しにする。」
「結構めんどくさいね。」
「面倒を先にやるから、後で困らないんだよ。」
「それって、お金がなくなった時のため?」
「いや、お金がある時ほど覚えておいた方がいい。」
そう言った祖母の声が頭にはっきりと響いた。今は広のりに家族との連絡を禁じられている。だから、私は記憶を頼りにするしかなかった。
米と味噌はあるし、漬物も少し残ってる。足りない分は自分で探せばいい。まずは食費からだね。
大根の皮も葉も捨てずに使えば立派なおかずになる。山菜は近くの無人販売所で規格外のものを安く買うことにした。野草は庭に生えていたもののうち、確実に種類が分かるもののみを摘んだ。魚は安い小ぶりのものを選び、塩して干物にする。保存食にすれば数日分に回せる。
「これは味噌汁。大根の皮は金平。山菜はご飯に混ぜよう。魚は少しずつ使えばいいし。」
翌日、けだるそうに起きてきた広のりに、私はいつも通り弁当箱を差し出した。雑穀ご飯のおにぎり、卵焼き、大根の皮の金平、おかかを詰め、水筒には麦茶を入れた。
「なんだよ、今日の弁当。野菜ばっかりじゃないか。」
「昨日言われた通り、節約してるんだよ。」
広のりは弁当箱の蓋を開け、露骨に顔をしかめた。普段は彼の希望で肉か魚を必ず入れているけれど、今は1ヶ月を1万円で回さなければならない。
「こんな貧乏臭い弁当、会社に持っていけるか? というか、本当に食べられるのかよ。雑草と野菜くずじゃないか。」
「それは野草と大根の皮。もちろん、食べられるものしか入れてないよ。」
「弁当はいい。昼食は外食にするから。」
「じゃあ、それは広のりのお小遣いから出してね。」
そう言うと、広のりは私を睨んだが、私は譲るつもりはなかった。節約を命じたのは広のり自身だ。にも関わらず、弁当を断って外食するなら、それは彼の責任だろう。
「分かったよ。自分で出せばいいんだろ。」
「よろしくね。行ってらっしゃい。」
その日の夜、広のりは夕食も外で食べて帰ってきた。一方、私は野草と豆腐の味噌汁に麦飯と漬物を合わせて食べた。味噌汁の出汁は朝から取っておいたものだ。油も砂糖も控えめで、胃に優しい食事だった。
「よくそんな草みたいなもの食えるな。」
「見た目はね。でも、ちゃんと火を通してるし、出汁も取ってるよ。」
「だとしても、貧乏臭すぎる。」
「1万円で暮らすなら、こうなるよ。」
好きにしろとでも言いたげに、広のりは鼻で笑った。そして、彼は翌日もその次の日も外食で済ませ、帰ってくると「胃が重い」「味が濃い」などと文句を言う。その横で、私は雑穀ご飯と味噌汁を黙々と食べた。
「明日はお弁当、作らなくていいから。」
「そう。気が変わったら教えてね。」
「変わるわけないだろ。誰が好き好んで、そんな茶色い飯食うか。」
節約生活が始まって1週間。会社から帰宅した広のりは、私を見て不機嫌そうに呟いた。
「なんでそんなに平然としてるんだよ。」
「なんでって言われても、ご飯は毎食きちんと食べてるし。」
「痩せ我慢も大概にしろ。普通、もっと困るだろ。」
「祖母に節約のコツ教わってたから、そこまで困ってないよ。」
「子供だけに言うと…」
広のりは答えに詰まった。いずれ私が自分に泣きついてくるとでも思っていたのだろう。けれど、祖母の教えは地味でも強かった。安くても手間をかければ食事は整う。漬物も葉も皮も、使い方を知っていれば立派な食材になる。
「でも、さすがに飽きただろ。そんな食事ばかりじゃ、栄養も偏るし。」
「あっさりした味付けだから、飽きないよ。栄養バランスは、むしろ前よりもいいと思う。体も調子いいし、今のところ何のデメリットもないかな。」
淡々と説明すると、広のりは面白くなさそうに口を閉じた。外食続きの広のりは体調が悪そうだったが、決して私に弁当を頼むことはしなかった。他人の食生活を見下して笑った手前、引っ込みがつかなかったのだろう。
次に、私は光熱費へ意識を向けた。食事は祖母のおかげでどうにか形になっている。日用品に関しても、もう少し買い出しの頻度をずらしても問題なさそうだった。残る大きな支出は電気とガスだ。
そう思った私は、暖房を止め、手当たり次第に家中のコンセントを抜いた。
「厚手の靴下、まだ使えるね。湯たんぽもあるし、昼間はこれで十分。夜は毛布を出せばいいか。」
押入れから古い毛布を出し、リビングの椅子に置く。窓には遮光のカーテンを引き、隙間風が入りにくいようにした。広のりが望んだ1万円生活に合わせるなら、無駄な電気は一切使えない。
その夜、帰宅した広のりは玄関を開けた瞬間に叫んだ。
「寒い。何なんだよ、この家は。」
「暖房を止めてるからね。」
「は? すぐにつけろって。」
「ダメです。1万円生活中なので。」
真顔で答えると、広のりは鞄を置き、こちらを睨んだ。寒そうに肩をすくめながら、目でリモコンを探している。
「だからって、これはおかしいだろう。俺が帰る時間までには、部屋を温めとけよ。」
「電気代がかかるから、無理。」
「そこは必要経費だ。」
「なんで? 私には贅沢するなって言ったよね。無駄遣いしていいの?」
無表情で畳みかける私に、広のりは閉口した。以前自分が言ったセリフを思い出したのだろう。
湯たんぽを足元に置き、毛布を膝にかけ直す。寒いのは私も同じだった。
「じゃあ、飯は今日は家で食いたいんだけど、できてる?」
「できてるよ。冷めてないだろうな。」
「鍋にアルミホイルを巻いて保温してあるから、大丈夫。」
広のりは明らかに嫌そうな顔をしたけれど、温め直せばガスを使う。味噌汁の鍋を食卓に運び、私は蓋を開けた。
「ぬるいな。熱い味噌汁が飲みたい。」
「コンビニでインスタント買ったら?」
「いや、そういうことじゃないって。」
翌日も、私は暖房をつけなかった。ついでに給湯機の電源もこまめに落とすようにした。使うたびにお湯を出していたらガス代が上がる。洗い物は水で済ませ、手が冷えたら湯たんぽで温めてしのいだ。
「なあ、洗面所、水しか出ないんだけど。」
「うん。そう設定してるからね。洗い物も水でしてるよ。」
「それぐらい、お湯使えばいいだろ。」
「良くないよ。今、ガス代を節約してるの。」
その日の夜、広のりはソファーで横になりながら聞いた。首まで毛布をかぶっている。
「風呂、もう湧いてる?」
「うん。お湯は張ってないよ。」
「は? どういうつもりだ?」
「だって、水道代がもったいないでしょ。」
当然の顔で告げると、広のりは不満そうに浴室へ向かった。シャワーで済ませるつもりだったのだろう。だが、しばらくして浴室から大きな悲鳴が聞こえた。
「冷たい。お湯出ないんだけど。」
「ああ。言い忘れてた。給湯機の電源、切ってるよ。」
「なんで切るんだよ。」
「ガス代がかかるからね。」
ドア越しに短い会話をした後、濡れた足音が響いた。広のりが肩を震わせ、バスタオルを体に巻きつけて飛び出してくる。
「ふざけるな。こんなの生活できないだろう。」
「方針は私に任せてって言ったの、忘れた? それに、広のりも生活費を1万円に抑えるためなら何でも協力するって言ったよね。」
「それにしたって、限度があるだろう。風呂にも入れないとか、狂ってるぞ。」
「嫌なら、自分のお小遣いで銭湯にでも行ってくれる?」
何か言い返そうとして、広のりは言葉をつまらせた。真冬に冷水を浴びせられたせいで、頭が回っていないのかもしれない。
「節約してるってのに。」
「金を使わせる機会は、矛盾してるだろ。まあ、どうするかは広のりの自由だよ。家で水シャワーを浴びるか、お小遣いで銭湯へ行くか。好きな方選んで。」
私がそう言うと、広のりは唇を震わせながら慌てて服を着た。まだ髪は濡れていて、シャツの襟元も少し湿っている。何か言いたそうだったが、結局財布を掴んで玄関へ向かった。
「覚えてろよ。」
「タオル持っていく?」
「いらない。」
「生き返ってきてね。」
広のりは返事をせず、乱暴にドアを閉めた。静まり返った部屋の中で、私は家計簿を開いた。
節約生活3週間目。ついに私は日用品の残量まで細かく管理し始めた。食費と光熱費を削っても、洗剤や紙類を好きに使われれば1万円には収まらない。台所の引き出しからメモ帳を出し、残量と使用回数を書き込んだ。
「ハンドソープは半押し。シャンプーは1回1プッシュ。水を出すのは最初に5秒、その後10秒。トイレットペーパーは1回30cmまで。」
そして、それを洗面所、浴室、トイレ、あらゆる場所に貼り付けた。当然、広のりは難色を示した。眉間に皺を寄せて、睨むようにメモを見ている。
「なんだよ、これ。」
「生活費1万円を守るためのルールだよ。ちゃんと守ってね。」
「トイレットペーパーの長さまで測るのか。」
「もちろん。1cmでも節約しないといけないから。」
その日の夜、広のりは洗面所で勢いよく水を出して手を洗った。メモの存在など忘れていたのだろう。だが、私は台所からその音を聞き、すぐに駆けつけた。
「今、20秒以上出してたよね。」
「いちいち数えてるのか。」
「そうしないと、正確に管理できない。」
「気持ち悪いな。」
広のりのつぶやきには反応せず、私は洗面台の横に置いたメモに「使用回数」と書いた。どれほど不満をぶつけられようと、妥協するわけにはいかない。
翌朝も、広のりはハンドソープを2回押した。洗面所のドアの前で彼を見張っていた私は、すぐ指摘する。
「今、2回ね。ルール違反だよ。」
「いや、これくらい普通に使うだろう。」
「でも、ルールは1回だから。」
「くだらない。」
さらに、広のりが手を拭いて洗面所から出てくると、私は容器の残量を確認した。目印代わりに貼ったテープの高さより、少し下がっている。今までなら気にも止めなかっただろう。けれど、今は見過ごす理由がない。
「超過した分は、広のりのお小遣いで補充してね。」
「はあ。なんでそうなるんだよ。」
「生活費出すと1万円を超えるから、めんどくさいでしょ。」
そんな生活が3日も経つと、広のりは目に見えて疲れ始めた。常に自分の行動を制限される日々に疲れるのも無理はない。
「もういい。追加で金を渡す。」
「何のお金?」
「生活費だよ。節約はいいから、これで普通に戻せ。」
「いいよ。お金はいらない。」
首を横に振った私に、広のりは財布を出しかけた手を止めた。信じられないものを見たような表情を浮かべている。
「おい、話聞いてたか? 俺が生活費を増やすって言ってるんだぞ。」
「分かってるよ。でも、今月は1万円生活で進める。そう決めたからね。」
「お前、意地になってるだけだろ。」
「決めたのは、広のりだよ。」
驚きながらも、広のりは何度も説得を試みたけれど、私は絶対にルールを変えなかった。節約生活が嫌なら、最初から無理な条件を私に押し付けなければよかったのだ。
その日を境に、広のりは頻繁に自宅を空けるようになった。夕食はいらないと言い、風呂も外で済ませる日が増えた。夜遅くに帰ってきて、ふらふらと寝室へ入っていく。私はそんな広のりの姿を横目に、家計簿と向き合い続けた。
節約生活の最終日。朝早くに、私は広のりをリビングに呼び出した。封筒に残った小銭を数え、1ヶ月分のレシートを日付順に並べる。食費、日用品、光熱費。どれもギリギリではあったが、生活費は確かに1万円の中に収まっていた。
「なんだよ、これ。」
「1ヶ月分のレシートと家計簿。今更見せなくてもいいって?」
「ちゃんと確認してほしい。約束した節約の結果だから。」
そう言うと、広のりは嫌そうな顔をしながらも、しぶしぶ椅子へ座った。さっさと済ませたいという気持ちが滲み出ている。
「食費はここ。見事に雑穀とか豆腐ばっかりだな。」
「日用品はここね。」
「はあ。本当に細かく書いてる。」
家計簿をめくりながら、広のりは眉間に皺を寄せた。最初は粗を探しているようだったが、ページを進めるほど手の動きが遅くなっていく。不正やごまかしがないことを、数字を見て悟ったからだろう。
「暖房を使わなかったおかげで、光熱費はだいぶ抑えられたよ。」
「ああ、寒かったけどな。」
「給湯機も、本当に必要な時以外は切ってた。」
「それで俺が銭湯に行かされたんだろ。知ってるよ。」
広のりは不満そうに口を曲げた。冷水シャワーを浴びたのを思い出したのか、明らかに声に棘がある。けれど、私は何も言い返さなかった。正直、広のりが怒って外食や銭湯に行ってくれたおかげで、浮いた金額は大きい。
「主婦のくせに風呂も沸かさず、あんなのただの嫌がらせだろ。」
「お湯を使ってないのは、私も同じだよ。嫌がらせのつもりなら、あなた1人に我慢させるって。」
「だけど、食事だってまともに作らなかったじゃないか。」
「料理は毎日作ってたよ。貧乏臭いとか見栄えが悪いとか言って食べなかったのは、広のりでしょ。」
自分で弁当を拒んだことは、広のりも覚えているはずだ。別の手帳を開き、私はこの1ヶ月間で書き込んだページを彼に見せた。そこには、祖母から教わった知識を参考に作った節約レシピの数々が並んでいる。
「お前は極端すぎるんだよ。」
「生活費は1万円で十分。節約しろって言ったのは誰?」
「それは本気じゃなくて。だから途中で止めたんだろ。」
「そうだね。でも、途中で投げ出すのは性に合わないの。」
一旦言葉を区切り、家計簿の合計欄を指で示すと、広のりはそれを見てしばらく黙った。
「約束通り、1ヶ月1万円で生活しました。」
「ああ、確かにそうだな。」
悔しそうに頷いた広のり。認めたくないが否定できない。そんな顔だった。だが、私は彼の表情を見ても勝ち誇る気にはならなかった。まだ話は終わっていないからだ。
「確認してもらえてよかった。」
「よし、これで満足したか。来月から普通に戻せよ。」
「じゃあ、次は私の番ね。」
そう言うと、私は足元に置いていた別の封筒を取り出した。家計簿よりもずっと薄い。けれど、私にとってはそちらの方が大事だった。中から取り出した1枚の紙を、そっと広のりの前へ置く。
「え? 離婚してください。」
「なんでそうなるんだよ。突然、何のつもりだ?」
「自分で言ったの、忘れたの? 『節約できなければ離婚だ』って。」
目をカッと見開いたまま、広のりは離婚届を見下ろした。半開きになった口が何か言いたげに動いている。まるで状況を理解できていないらしい。
「いや、あれは脅しというか、ほんの冗談で…」
「私は真面目に受け取ったよ。」
「でも、結果的に節約できたんだから、離婚は関係ないだろ。」
「だからこそ、私は次の話をしてるの。」
椅子の背に寄りかかり、広のりは天井を見て何度か瞬きをした。生活費を絞り、離婚をちらつかせれば、私が黙って自分に従うと思っていたのだろう。けれど、現実は違う。私は1万円生活を達成し、自らの意思で離婚を決断した。追い詰められているのは、広のりの方だ。
「節約しろと言ったこと、怒ってるんだろ。謝ればいいのか?」
「そういう話じゃない。」
「じゃあ、何だよ。」
「私には、もう広のりの生活を支えるつもりがないってこと。」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。何度も家計を見直し、気持ちも整理できていたのだと思う。広のりは離婚届から目を離せないまま、落ち着きなく指先を動かした。
そんな彼を横目に、私は足元からもう1通の封筒を取り出した。やけに重みのある封筒を、無言でテーブルの上に置く。
「今度は何だよ。」
「読めば分かる。」
「まだ何かあるのか?」
「うん。こっちが本題に近いかも。」
意味深な私のセリフに、広のりはのろのろと封筒を開けた。中から出てきたものを見るなり、彼の顔は一気に青ざめていく。そこに入っていたのは、浮気調査の報告書と証拠写真だった。相手は、広のりの会社で派遣社員として働くナオ。私と同世代の女性だ。
「なんだよ、これ。」
「見ての通りだよ。探偵事務所の調査結果。」
「嘘だろ? いつの間に探偵事務所なんて使ったんだ。」
「節約生活の間に、ちょっとね。」
広のりは、自分がナオと並んで歩く写真を見つめる。その顔から先ほどまでの怒りが消え、代わりに分かりやすい焦りの色が浮かぶ。彼の狼狽ぶりを眺めながら、私は数週間前の出来事を思い出した。
「大丈夫か?」
「え? お父さん…」
ある日、父が突然家を尋ねてきたのだ。連絡の頻度が急に減ったことを不審に思ったらしい。玄関先に立つ父の顔を見た瞬間、ずっと張り詰めていたものが緩んだ。リビングに通すと、私は体験した出来事を順番に伝えた。
「今思えば、広のりが家を空ける時間が長くなっていたことは、こちらにとって都合が良かった。」
「広のりにね、実家には連絡するなって言われてるの。スマホもチェックされてたから、お父さんとおばあちゃんにも相談しにくかった。」
「いくら夫婦でも、それは普通じゃないぞ。」
「分かってる。でも、なかなか言い返せなくて。」
生活費を削られたり、身だしなみや学歴を馬鹿にされたことを話しながら、私は自分の置かれている状況を改めて認識できた気がする。父は最後まで遮らずに話を聞いていたが、私がナオの存在に言及すると頭を抱えた。
「最近、帰りも遅いし、曖昧な出費も増えてる。頻繁に連絡を取ってるみたいだし、もしかしたら…」
「浮気の可能性があるなら、きちんと調べてみよう。」
一瞬迷ってから、私は頷いた。このまま見て見ぬふりをしても、何も変わらない。でも、私が動くとすぐに気づかれると思う。
「スマホも見られるし。」
「こちらで手配しておくから、大丈夫だ。」
「お願いしてもいいの?」
「ああ。マ子が決めたことなら、俺は何でも協力する。」
それから先は早かった。父を通して探偵事務所に調査を依頼し、1週間ほどで証拠が揃ったのだ。
現在に至るまでの経緯を軽く説明すると、広のりは息を呑んだ。
「こんなの、ただ一緒に歩いてるだけだろ。俺は浮気なんかしてない。」
「報告書、最後まで読んで。」
「大体、勝手に人を調べるなんておかしいだろ。プライバシーの侵害だ。」
「不自然な言動が続いたから、気になったの。でも、浮気してないなら怒る必要ないでしょ。」
思わず言ってしまった私に、広のりは髪を乱暴に掻きむしった。ページを進めるほど、勢いは弱まっていく。2人きりでの食事。腕を組んで移動する姿。宿泊施設への出入り。言い逃れしにくい内容が、日付ごとに並んでいる。広のりの目は写真と文字の間を何度も往復していた。
「違う。これは仕事の相談で…」
「仕事の相談で、そういう場所に行くんだ。」
「ナオとは、本当に何もない。」
「どの説明が通用すると思ってる?」
冷たく返すと、広のりは口を閉じた。離婚届を突きつけられた段階では、まだ私を丸め込めると思っていたのだろう。けれど、不貞の証拠が出てきた途端、彼は方路を見失った。結局、苦し紛れに私を攻め始める。
「旦那に浮気されて、父親に泣きついたのか。いい歳した大人が、情けない。」
「父が心配してきてくれたんだよ。自分から泣きついたわけじゃない。」
「だとしても、断ればいい話だ。『夫婦の問題に口を出すな』って言えよ。」
「夫婦の中の話し合いで済む段階は、もうとっくに過ぎてるの。」
広のりは報告書を持ったまま、こちらに視線を向けた。不満と不安が入り混じったような、弱々しい目つきだ。
「そういうわけだから、離婚の手続きを進めるね。」
「おい、ちょっと待てよ。」
「もちろん、不貞行為については慰謝料も請求する。ナオさんにもね。」
「は? 本気で言ってんのか? そんな大事にする必要ないだろう。」
淡々と宣言した私に、広のりは抗議し、さらに探偵事務所の資料を自分の視界から追い出すように、机の隅へ押しやる。書類を揃えながら、私が「本気だよ」と返すと、広のりは拳を震わせて言った。再び怒りが込み上げてきたのか、顔に赤みが差している。
「そもそも、お前、俺と別れて生活できると思ってるのか? もちろん、旦那に養われてた専業主婦の分際で、誰がお前みたいな世間知らずを雇うんだ。社会をなめるなよ。」
「そう言うと思ってた。」
広のりは、いつになく強い口調で言った。経済的な不安を突けば、私が黙ると踏んでいたのだろう。けれど、その手は過去に何度も見ていた。
「現実を見ろよ。マ子には、外で稼ぐなんてできないだろ。」
「確かに、今は働いてないから収入はないね。」
「だったら、どうやって生活するんだよ。」
「当面の間、生活に困ることはないから、大丈夫だよ。」
そう返すと、広のりは鼻で笑ったけれど、すぐに真顔になった。全く私が慌てないことに、違和感を覚えたのだと思う。
「何言って…」
私がスマホを取り出して画面を見せると、広のりは怪訝そうに覗き込んだ。
「なんだよ、これ。」
「独身時代から使ってる銀行口座。実は、私、結婚前に父と祖母からそれぞれ贈与を受けてるんだよね。」
「贈与?」
「そう。これが私の個人資産だよ。」
残高を差し示した瞬間、広のりの目の色が変わった。そこに並ぶ数字を見て、茫然としている。専業主婦だからと言って、私は何も持っていないわけではない。広のりが勝手にそう思い込んでいただけだ。
「は、嘘だろ。高卒の専業主婦が、そんな大金を持ってるわけない。」
「そうやって、ずっと私を見下してたんだよね。でも、事実だよ。」
「こんなの、俺は聞いてないぞ。夫婦の金なのに、隠してたのか。」
「私個人が贈与されたお金だから、夫婦のものじゃないよ。」
自分の管理下にあると思っていた相手が、実は多額の財産を持っていた。その事実がよほど面白くなかったのだろう。短く説明した私に、広のりはきつく唇を引き結んだ。
「それからね、うちの祖母は、地元で有名な地主だよ。」
「地主? あのばあさんが? でも、お前、あの貧乏飯を習ってたんだろ。」
「相変わらず、思い込みが激しいね。節約してるからって、お金がないとは限らないよ。あと、広のりは父の自営業を馬鹿にしてたけど、父だって会社の経営で成功してるから。」
「嘘だろ。」
続けざまに告白すると、広のりは力なく呟いた。祖母が地域で名を知られた地主であることも、父が会社を経営しているのも、紛れもない事実だ。2人が地味にしているのをいいことに、広のりは私の実家を低く見積もっていたと言える。
「なんで今まで黙ってたんだよ。夫婦なら、知る権利があるはずだろ。」
「勝手に隠してただって決めつけて、私と家族を見下す人に、家庭の事情を話す気にはならないよ。」
冷たく言い放つと、広のりの視線が泳いだ。現在専業主婦で収入がないことは、私を縛る材料にはならない。そのことが分かった途端、広のりは別の糸口を探し始めた。
「分かった。もう1回、やり直そう。今なら、まだ間に合う。」
「何言ってるの? 間に合わないよ。」
「俺が生活費を増やせばいいんだろ。」
「そういう問題じゃない。私は別れるって決めたから。」
困った私の前で、広のりは離婚届を裏返した。まるで紙を隠せば、話そのものも消えると思っているようだ。私は、懇願する彼を見ても一切心が動かなかった。生活費の件のみが問題だったなら、最初からここまでの話にはなっていない。問題は、広のりが私を対等な人間として見ていなかったことだ。
「ナオの件だって、話せば分かる。誤解なんだって。」
「じゃあ、この証拠をどう説明するの?」
「それは、気の迷いで1回だけ…」
「報告書には、そう書かれてないよ。何度も会ってたんでしょ。」
広のりはまた黙り込んだ。言い訳が1つ崩れる度、顔から余裕が消えていく。その時、家の前で車の止まる音がした。スマホを見ると、父からのメッセージが入っている。約束の時間通りだった。必要な荷物は、すでに玄関脇にまとめてある。
「おい、どこ行くんだよ。」
「実家に帰るの。父が迎えに来てくれたみたいだから、行くね。」
「勝手に出ていくのか。」
「もう決めたの。私は、この家には帰らない。」
そう言って、私は鞄を持って立ち上がった。
「マ子、待て。話し合おう。」
「さようなら。」
「本気で俺を捨てるのか?」
「先に私を軽く扱ったのは、広のりだよ。」
なおも広のりの声が追いすがってきたが、私は振り返らずに扉を開けた。冷たい風が心地よい。車の助手席に乗り込むと、ようやく私は安心して呼吸ができた。
翌日、実家に戻った私は、父に連れられて祖母の家を訪問した。
「おばあちゃん、久しぶり。」
「よく来たね。」
祖母はいつも通り私を迎えてくれた。中に入ると、台所からは懐かしい出汁の匂いがしている。
「マ子、温かいうちに食べなさい。」
「え、すごい。こんなにたくさん作ってくれたの?」
「そんなに大したものじゃないよ。」
「お母さん、マ子が帰ってきたって聞いて、朝から準備してくれたんだ。遠慮せずに食べなさい。」
食卓には、鯛の煮付け、天ぷら、出し巻き卵、茶碗蒸しが並んでいた。どれも素晴らしく、シンプルな調理だけれど、儀式のために作られたものではない。結婚生活で疲れた私を癒す料理だった。
「いただきます。」
湯気の立つ茶碗蒸しを食べると、胸がいっぱいになった。この1ヶ月、決して飢えていたわけではないけれど、栄養を取るのと安心して食卓に着くことは全く別だ。
「よく帰ってきてくれた。」
「よかったのかな?」
「もちろん、いいに決まってる。」
「そうだよ。あんな男の家に残る必要はない。」
父と祖母がそう言うのを聞いた時、ようやく肩の力が抜けた。小さく頷き、白いご飯を口に運ぶと、米の優しい甘さが口に広がる。
祖母の手料理を食べ終え、3人でお茶を飲みながら談笑していたその時、玄関の呼び鈴が鳴った。モニター画面を見た父の顔が、見る見るうちに険しくなった。気になって背後から覗き込むと、そこには広のりがいた。昨日よりも顔色が悪く、目の下もくぼんでいる。
仕方なく玄関を開けた途端、広のりが開口一番に言った。
「マ子、話がしたい。」
「何を話すつもりだ?」
「別れたくないんです。」
「よくここまで来られたね。」
広のりは祖母の視線を受けて、肩を小さく縮めた。あれほど私の前では強く出ていた人が、ここでは言葉を選んでいる。弱った姿を見ても、気持ちは全く動かなかった。ため息を飲み込み、私は正面から広のりを見据えた。
「話し合いの余地はないよ。もう何もかも遅いの。」
「俺が悪かった。これからは心を入れ替えるし、生活費のこともうるさく言わない。ナオとも縁を切る。だから、戻ってきてくれ。」
「絶対、戻らない。」
謝れば私が許すとでも思っていたのだろうか。広のりは口を噤んだ。一方、横にいる父の顔は、はっきりと怒りに変わっていく。普段の父は声を荒げるような人ではない。だからこそ、余計に重く聞こえた。
「マ子から全て聞いている。他人を職業や学歴で判断する男に、娘は任せられない。」
「それは、つい言いすぎて…悪気はなかったんです。」
「君は、悪気なく何年も娘を踏みにじったのか。」
「いや、その…本当に反省しています。」
深々と頭を下げた広のりだったが、父は容赦しなかった。もちろん、私も冷めた気持ちで彼を見ていた。保身のための訪問であることは、分かりきっていたからだ。
「自分の妻を裏切っておいて、反省したくらいで許されると思ってるのか。」
「そ、それは…夫婦にも色々あるというか。」
「夫婦なら、何をしてもいいわけではない。」
「でも、俺にも言い分が…」
父は広のりの言葉を最後まで聞かなかった。何を言っても責められると悟ったのか、広のりは気まずそうに目をそらす。その時、黙って聞いていた祖母が口を開いた。
「お前にマ子はもったいないよ。結婚させるんじゃなかった。」
「え、そんな言い方をしなくても…」
「うるさい。お前は、バカ女のところへでも戻りな。」
「あれは本気じゃなくて…」
震えながら言い訳を繰り返す広のり。すると、祖母はゆっくりと台所へ向かった。戻ってきた彼女の手には、塩の容器がある。それを見て、私は祖母が本気で怒っているのだと分かった。
「さっさと帰りな。うちの敷居をまたぐんじゃないよ。」
「待ってください。俺はマ子と話が…」
「話は終わってるって言ってるだろ。お前は耳も悪いのか?」
「俺はまだ納得してません。」
祖母は玄関のたたきに、迷いなく塩を撒いた。白い粒が敷石の上に散る。広のりは半べそをかいたような顔で私を見た。
「マ子、本当にこれで終わりなのか?」
「終わりだよ。」
「俺を見捨てるのかよ。」
「先に裏切ったのは、広のりでしょ。私は自分の生活を取り戻すだけだよ。」
それ以上何も言えず、広のりは玄関から出ていった。門の閉まる音がして、家の中に静けさが戻る。祖母は何事もなかったかのように塩を片付けると、3人分の茶を入れた。窓の外では、冬の薄い日差しが石畳を静かに照らしていた。
それから1週間後、今度は広のりが実家に現れた。父と2人で玄関に出ていくと、彼は門の前に立ったまま、顔を引きつらせていた。どうやらこちらから送った内容証明を受け取った直後らしい。封筒を握りしめながら、広のりは強い口調で言った。
「マ子、慰謝料請求なんてどういうつもりだ? 今すぐ取り下げろ。」
「何を言われても、取り下げないよ。」
「夫婦の問題を、大事にするな。」
「それは、私が決めることだから。」
以前のように上から命じれば、私が従うと思っているようだ。けれど、あの家に縛られていた頃の私はもういない。困った広のりは、父に視線を向けた。
「お父さんからも、マ子に言ってください。」
「何をだ?」
「請求をやめるようにです。」
「それを言うために、わざわざ来たのか。」
父が呆れたように尋ねると、広のりは視線をそらし、それから情けない顔で頭を下げる。私は彼の変化に嫌な予感がした。
「実は、お父さんにお願いがありまして。」
「俺に頼み事をできる立場か?」
「それは分かってます。でも、少しお金を貸して欲しくて…お願いします。すぐ返すので。」
「それ、何に使うお金?」
思わず口を挟むと、広のりは気まずそうに視線を泳がせた。見栄を張る余裕も、もうあまり残っていないようだ。話を聞くと、私が出ていった後に、広のりはナオを家に呼んでいたらしい。そして、家のことを彼女に任せてみたという。
「ナオは、マ子みたいに家事とかお金の管理もできなくて…それで生活費が思ったよりかかって、困ってるんだ。だから、お金が必要で…」
「高々1週間やそこらで、生活費が足らなくなるとは思えないんだが。」
父が疑いの目線を向けると、広のりはしぶしぶ状況を話し始めた。ナオは食材も日用品も値段を見ずに買う。外食も多く、欲しいものがあると広のりにねだるのが当たり前。ブランドの小物や高級ディナーも、広のりは断れなかったらしい。
「見栄を張って払ったんだ。男として、そこで断れないだろ。」
「足りない分は、どうしてたの?」
「ちょっとずつ、貯金から出してた。」
私は小さく息を吐いた。広のりは、私に1万円で暮らせと言った男だ。同じ人物が、ナオのためには湯水のように金を使っていた。しかも、その一部は結婚後に貯めた財産だ。
「マ子が主婦としてどれだけ優秀か、分かった。」
「生活費を抑えるために、本当に頑張ってたことも、今更ながら…」
大げさにため息をつくと、広のりは悔しそうに唇を噛んだ。彼は私に感謝しているわけではなく、自分の貯金が減ったことで初めて他人の苦労に気づいたのだ。
次の瞬間、父の怒声が飛んだ。
「愛人に使う金を、貸すわけないだろ。」
「あ、じゃあ…」
「愛人って言い方は…」
「俺も調査結果を見た。下手な言い訳はやめろ。」
「でも、今だけなんとか…」
「くどい。」
怒鳴られた広のりは、一歩後ろに下がる。父が大声を出すことは滅多にない。玄関先の空気が一気に張り詰めた。
「広のり、もう1つ伝えておくね。」
「まだ何かあるのか?」
「ナオのために使い込んだ分のお金も、これから確認する。」
「は?」
ポカンと口を開ける広のりを前に、私はポケットからスマホを取り出した。結婚後の入出金は、できる限り記録していた。不審な外食費や贈り物の支出も、分かる範囲で控えてある。私はそのページを広のりの方へ向けた。
「夫婦の共有財産から出した分は、返してもらう。」
「そんなの、無理だろ。」
「無理かどうかは、広のりが決めることじゃない。金額が難しいにしても、証明できる分は請求できるはずだ。あとは弁護士から連絡する。今日はもう帰ってくれ。」
父が帰宅を促すと、広のりはまだ何か言いたそうにしていたが、結局は肩を落として出ていった。門の外へ向かう背中は、来た時よりずっと小さく見える。扉を閉めると、家の中に静寂が戻った。
1週間後、私は祖母の家の座敷に座っていた。同席しているのは、父と祖母が手配した弁護士。向かいには、広のりとナオが並んで座っている。
「今日は、改めて請求内容を確認します。書面でも知らせましたが、私は広のりさんに対して慰謝料請求を行う予定です。」
「まだ、そんなことを言ってるのか?」
「ちょっと待ってください。私、本当に何も知らなかったんです。」
「既婚者だと知らなかった、ということ?」
ナオは大きく頷き、ハンカチで目元を押さえたけれど、涙は出ていない。広のりはその横で、落ち着かない様子で貧乏ゆすりをしている。私は弁護士が用意した資料に視線を落とした。
「広さんからは、独身だって聞いてて…」
「おい、俺のせいにするな。」
「だって、私は騙されただけだもん。」
「じゃあ、この投稿は何?」
目配せをすると、弁護士が印刷されたナオのSNSの投稿を机に並べた。そこには、既婚者との関係を楽しんでいるような文面があった。広のりが映り込んだ写真もある。日付は、探偵事務所の報告書と重なっていた。
見る見るうちに、ナオの顔が青ざめていく。
「それは、友達向けの冗談で…」
「冗談で済む内容じゃないよ。」
「ナオ、お前、ふざけるなよ。こんなこと書いてたのか。」
「広さんだって、奥さんの悪口ばっかり言ってたじゃない。私は悪くないから。」
2人の声が一気に荒くなった。
「不貞行為の慰謝料を請求するのは、変わりません。」
「だから、私は知らなかったんですって。」
「この投稿内容で、その言い訳は無理があるよ。」
「マ子、待ってくれ。確かに俺はナオと付き合ってた。だけど、そこまでしなくてもいいだろう。」
広のりは急にこちらへ向き直った。ナオを責めるより、私に媚びる方が賢明だと判断したようだ。あえて私は反応せず、無表情で用意していた書類を見た。
「本当に気の迷いだった。俺にはマ子しかいない。」
「今更、奥さんに戻るの?」
「もうすぐ離婚するとか言ってたくせに。」
「最低な言い方するお前より、マ子の方がましだろ。」
その瞬間、ナオが立ち上がり、広のりの袖を掴んだ。広のりもその手を振り払おうとして、互いに身を乗り出す。
「私のせいにしないでよ。」
「お前が誘ったんだろ?」
「嘘つき。そっちが先に言ったんでしょ?」
「うるさい。」
次第に口論はエスカレートし、2人は座敷の中央で掴み合うような形になった。
「奥さんとは別れるって言ったじゃない。」
「そんな約束、してない。」
「この浮気者。」
「お前だって、金目当てだっただろ。」
父が立ち上がり、2人から私を遠ざける。
「いい加減にしろ。ここは話し合いの場だぞ。」
それでも喧嘩は止まらない。ついに広のりが机の上のボールペンを掴み、勢いのまま振り上げた。
「お前、ふざけるな。」
「何すんのよ。」
「ほら、やめないか。警察に連絡するよ。」
そう言って、祖母はすぐに立ち上がり、迷わず電話を取った。短く状況を伝える声に混じって、怒声が座敷に響く。
「お前のせいで、人生めちゃくちゃだ。」
「私は関係ないでしょ。」
結局、警察が来るまで2人は互いを攻め続けたけれど、いくら言い訳をしたところで、机の上にはSNSの投稿と調査報告書が並んでいる。彼らが言い逃れできる術はなかった。
やがて、ナオは軽く事情を聞かれ、警察に連れて行かれた。その背中を見送りながら、私は静かに言った。
「これで分かったでしょ? 離婚して困るのは、私じゃなくて広のりだよ。」
広のりの足が一瞬止まるけれど、何も言い返せずに門の外へと出ていった。2人が見えなくなると、祖母の家には静けさが戻った。結婚生活という呪縛から解放された瞬間だった。
3ヶ月後、無事に離婚が成立。広のりは慰謝料の支払いと、ナオに使い込んだ共有財産の一部返還に応じた。その結果、貯金はほぼ底をついた。夫婦で借りていた一軒家も維持できなくなったらしい。しばらくして、広のりは古いアパートへ引っ越した。
そこへ追い打ちをかけたのが、ナオのSNSだ。既婚者との関係を匂わせる投稿は、本人たちが思っていた以上に多くの人に見られていた。会社にも離婚理由や不貞の噂が伝わり、広のりは自主退職に追い込まれた。その後の再就職も、簡単には進まなかった。今は単発のバイトをつなぎながら、どうにか生活しているという。
一方のナオも、無傷では済まなかった。慰謝料は自分で払えず、実家の両親に頭を下げて借りたらしい。広のりに続いて会社を辞めた後、派遣会社を渡り歩いたようだが、人間関係のトラブルを繰り返したと聞いた。承認されたい気持ちが強い割に、自分の行動には責任を持てない。だから、ナオはどこに行っても同じことを繰り返したのだと思う。現在は実家に戻り、ほとんど外へ出ていないそうだ。
2人の話を知っても、胸がすくような喜びはなかった。ただ、自分があの家を出た判断は間違っていなかったと、人知れず確信を強めた。
離婚から1年。現在、私は実家を出て、祖母の家で暮らしている。無事に再就職も決まり、祖母の手伝いをしながら、近所の会計事務所で事務として働き始めた。久しぶりの仕事は最初こそ緊張したけれど、細かい作業はやはり私に合っていたし、働いて得たお金を自分の意思で自由に使える。そんな当たり前のことが、何よりも嬉しかった。
家で過ごす時間も充実している。庭の畑で育てた季節の野菜や、裏山で取れた山菜やたけのこを使って、祖母と一緒に料理をするようになった。父が仕事帰りに寄る日は、少し豪華なメニューが食卓に並ぶ。
「何でも美味しい。」
褒める父。
「大げさだね。」
笑いながらも嬉しそうな祖母。2人の顔を見るたび、この家に戻って来られてよかったと思う。
では、料理の写真を中心に載せていた私のSNSが、ちょっとした話題になった。畑の野菜や野草を使った献立、保存食の作り方、出汁の取り方。特別なことを書いているつもりはなかったが、「丁寧で真似しやすい」と言ってもらえる機会が増えた。そこから、レシピ本を出さないかという話まで出ている。まだ実現するかは分からないが、自分が祖母から教わったことが、誰かの生活に役立つかもしれない。そう思うと、自然と胸の奥が温かくなる。
好きな仕事ができて、安心して帰れる家があり、一緒に食卓を囲む家族がいる。大きな贅沢ではないけれど、私にとっては十分すぎるほど幸せな日々だ。
私は、もう誰かに自分の価値を決められることはない。



